はてなキーワード: 一筋縄とは
ラブライブ!は秋葉原を舞台にした作品で、現在の秋葉原の活気のうち何パーセントかはラブライブ!がもたらしたものだと思う。
じゃあ、ラブライブサンシャインは沼津に活気をもたらすことができるのだろうか。
ここに、制作陣の思惑が多く隠されている。
実のところ、ラブライブが秋葉原を盛り上げたのではない。元々活気のある街である秋葉原を舞台に据えることで、ラブライブは自身の人気を高めていったのだ。オタクの街である秋葉原で、作中作外問わず様々なイベントを展開し、現実ではメイドカフェでサイン入り名刺をファンに配り、アニメでは神田明神の階段を駆け上った。
この、「舞台と共存する」という姿勢がラブライブサンシャインに活かされているのだ。
作品の舞台となることで街を盛り上げる、というのは一筋縄ではいかない。有名な成功例としてらきすたの鷲宮神社やガルパンの大洗町があるが、一方でかんなぎ神社のように現実から擦り寄って失敗した例やラグ輪のように聖地ビジネスありきの企画がさして盛り上がらなかった例もある。
成功失敗を分けるファクターはなんだろうか。作品の質、もちろんそれもある。しかしそれだけではない。
アクセスの良さ、これが重要になる。失敗作はすべて、行きづらいのだ。どこから。もちろん、日本で最も人口の多い東京から。東京以外の場所から近くてもそれは単なる「ご当地」にしかならない。(なお、この成功例がWUG仙台である)
この意味でラブライブの秋葉原は群を抜いていた。東京のど真ん中なのだ。なんという好立地。
サンシャインにはもちろん、ラブライブに無いものが求められる。つまり秋葉原の対極。しかし一方で、完全なド田舎を舞台に据えてしまっては商業展開に差し障る。そこで沼津。
都市圏ではないが東京から数時間。名古屋や大阪といった他の大都市にも近く、関東以外からのアクセスも比較的容易。
富士山と海に囲まれ、単なる作品の舞台探訪として以外にも訪れる価値のある街。
そう、富士である。かつては不死の山として讃えられた霊峰富士を背に、江戸より続く日本の大動脈たる東海道に位置する街。
沼津はスピリチュアルなパワースポットとして一部ドムの間では有名なのだ。
日本の主要パワースポットをすべて繋ぐと、その中心が沼津になるということをご存知だろうか。
ラブライブサンシャインはただの田舎を舞台に据えたのではない。交通の便、純粋な観光、そしてその地に流れる龍脈。沼津は正しく日本の聖地そのものなんだよ!
「心が叫びたがっているんだ」を観てきた。てっきり平凡な青春ものの作品だと思っていたら大間違い。一筋縄でいかない緻密な描写に裏付けられたとんでもない傑作だった。
この作品の凄みについて説明するには、素直な鑑賞方法の「青春ラブストーリー」としての軸と、「核家族ホラー」としての軸の二つの面から読み解いていく必要がある。
核心はもちろん「核家族ホラー」にあるのだけれど、まずは「青春ラブストーリー」としての軸から順を追って解説したいと思う。当然ながら以下の文章は物語の核心に触れるものなので、未視聴の方は注意していただきたい。
個人的にはネタバレのために面白くなくなる類いの作品ではないと思っているものの、まっさらな気持ちで作品と向き合うチャンスはとても貴重なものだと思う。
まずこの物語は、地元の神様的存在から呪いを受け、声を失った主人公(成瀬 順)というちょっとしたファンタジーから始まる。
最終的にはこれは本人の妄想に過ぎないということが解き明かされるのだけれど、どちらにせよほぼ全くしゃべることができないという現実には少し考えにくい境遇の人物を軸に物語が回る。
ある日学校の交流会、有り体に言えば文化祭的なイベントの実行委員に担当教官から強引に主人公が抜擢される。
抜擢されたのは合計4人で、実行委員になったのは主人公に加え坂上 拓実、仁藤 菜月、田崎 大樹の3名だ。
いろいろあって主人公たっての希望により、交流会の出し物をミュージカルとし、紆余曲折ありながらも4人力を合わせて交流会を成功に導く。というのが大まかなあらすじになる。
ラブストーリーとしては、成瀬は坂上に思いをよせるものの、中学の頃から相思相愛の仁藤という存在があったため、成瀬の恋は片思いに終わり、最終的には実は成瀬に思いを寄せていたダークホースの田崎が彼女に告白する。というところで終演した。
ここでひとつ初見で思いがちなのは、「田崎の告白がとってつけたもののように感じる」ということ。片方がくっついた一方で余りの二人がくっつくという、平和にラブストーリーを決着させるありきたりな手法に思えるし、実際そうなのだけれど、田崎の告白自体はしっかりと序盤から布石がちりばめられていた。
田崎はかつて平凡なチームの一つに過ぎなかった野球部に「甲子園を狙えるかも知れない」と夢を抱かせるほどのスーパーエースだったが、腕の負傷により選手生命を絶たれた男だ。性格は運動部らしくまっすぐ筋を通すことをよしとするスポ根の思想を持っている。
その田崎と引きこもり一歩手前の成瀬というカップリングは奇妙ではある。しかし物語でのファーストコンタクトの時点から、彼女は彼の心を動かし続けていた。
まず田崎が実行委員参加に消極的な当時、交流会の出し物を決める学級会議で成瀬をひどく侮辱するシーン。
このとき田崎は完全に成瀬を見下しており、くだらない存在と思っていた。しかし、そこで突然成瀬は歌い出し、彼女がミュージカルをやる実力があることを証明してしまったのだ。
このあと、田崎は珍しく部活動の参加をせず帰路につく。
彼女を侮辱したとき、同時に田崎は坂上から侮辱をうけており、それが原因にも思えるが、結末から逆算すればここはそうではなく、成瀬の行動に胸を打たれてのことであったのだと考える。
ひどい侮辱を受けても胸を張り、自分の実力でそれをはねのけてみせる。
前述の通り、スポ根の田崎にとって、これほど評価に値する行動はないのではないだろうか。自分が見下していて、それも真っ向から侮辱した相手にそれを見せつけられたとき、田崎は今の自分自身の姿と初めて直面したのだ。「あんな立派な彼女に対して、今の自分の情けなさはなんだ?」といったところだろう。
この後の下校シーンで田崎が仁藤を誘うというシーンが挿入されるため少し混乱するが、これはおそらく「チア部部長と野球部エースがつきあうという伝統」と、仁藤が女性的に魅力があったからという単純な理由による、破れかぶれの軽口だったと考えている。田崎は最初から仁藤については恋愛感情は抱いていない。演技や描写的にも、私には一番腑に落ちる解釈だ。
次にファミリーレストランで会合中、田崎が野球部の後輩と居合わせて喧嘩になるシーン。
ここまで説明すれば明白だが、このとき田崎は成瀬に助けられてしまう。成瀬は「いなくなれ」と侮辱された田崎を必死で庇う。言葉を発するとひどい腹痛にみまわれるというハンデキャップを負っているにもかかわらずである。(実際成瀬はこのために病院に運び込まれることになった)
ここで田崎の恋心は確定したといっていい。
またも彼女は田崎の最も評価する行動を取り、かつそれは自分を庇うための行動であったということ。尊敬に値し、同時に自分を気遣ってくれる存在。もはや恋に落ちるには十分すぎる条件ではないだろうか。
その後田崎は実行委員に積極的に参加するようになった。そこで野球部外の生徒との交流を通して、野球以外の世界、自分のかつて見えていなかった部外の生徒の特技や良いところにふれることで、次第に心を開いていくことになる。
ある日、実行委員の活動から帰路につくとき、成瀬と田崎が二人きりになることがあった。そこで田崎は彼女に今までの無礼を詫び、野球以外の世界を教えてくれた成瀬に礼を言う。ここでついに告白でもするのではないかとハラハラしていたが、それはラストシーンまでお預けとなる。
ところで、「ここさけ」のメインストーリーとして、片思いに終わるものの成瀬の坂上に対する片思いは結果的に彼女と世界を隔てる卵の殻を破り、彼を失う代わりに新しい世界へ足を踏み出すというものがある。
その第一歩が田崎の告白に他ならないのだが、その田崎自身も、野球という卵の殻に閉じこもっていたと考えることができないだろうか。
坂上は終盤直前まで主人公同然の露出率で、意図的に組まれたミスリード的存在であったが、実は恋愛ものとしては同じテーマを抱えた田崎×成瀬こそ主軸のカップリングであったと言えると思う。
その証左として、終盤の「あこがれのお城」での坂上と成瀬のシーン。
成瀬がため込んだ思いを自分の声ですべて坂上にぶつけるあのシーンで、坂上は誠実に聞きに徹する。とても凝った演出で純粋に感動的なシーンではあるのだけれど、私は別の意味でもひどく感動を覚えた。
成瀬の言葉を一つ一つ受け取っていくたび、坂上の存在がだんだんと小さくなっていくように感じたのだ。それまではまるで主人公のように振る舞っていた彼だが、すべてのやりとりを追えた後にはその影はまったく消え失せている。ミスリードの主人公として、成瀬の思い人としての役目を終える瞬間だった。最後に残ったのはただのモブ同然の男子生徒。その後のミュージカルのシーンでは王子という準主役の役目を演じるにもかかわらず、抜きで映し出されているのは成瀬で坂上は声しか聞こえない始末だった。これではDTM研のふとっちょ以下ともいえるだろう。
女性は終わった恋に対して淡泊と言うが、その心理を如実に表しているようにも感じる。ニセの主人公だったのにもかかわらず、ここまで主役のように劇中でふるまってきたのは、恋をしている成瀬のフィルター越しの演出だったのではないかとも解釈できる。
さて、青春ラブストーリーとしての他のカップリングについては、劇中で直接的描写がされているため省く。
次に「核家族ホラー」としての「ここさけ」を解説したいと思うが、その前に一つ念頭に置いておいてほしいシーンがある。それは先述にもあったが、「あこがれのお城」でのシーンだ。
成瀬は坂上に泣きながら言葉をぶつけていた。失恋の結果だし、この感情表現に対してまったく違和感はない。
しかしそれを受けての坂上の涙。これはどうだろうか。
「思ったことを言葉にする成瀬の姿に感動した」というような事を言っていたし、その言葉に偽りはないとは思う。しかし、その説明ではあの涙の十分な説明にはなっていないのではないか?と疑問に思った。ある意味で事実に沿ってはいるだろうものの、本質をかすめてはぐらかされたような気持ちになった。
しかしこの疑問は、成瀬と坂上、二人の家庭環境について読み解いていくことで明らかになる。
以下につづく
もう終わってしまったけれど、『ザ・オフィス』というテレビコメディがあった。主演は『リトル・ミス・サンシャイン』『四十歳の童貞男』のスティーブ・カレル。元はイギリスの同名コメディ(日本語タイトルは『ジ・オフィス』)だけれど、結果的に本国版より息の長い番組になった。ちなみにイギリス版もアメリカ版も hulu で観られる(はず)だ。
『ザ・オフィス』でスティーブ・カレル演じる製紙会社の課長は日本で言えば昭和世代のセクハラおやじである。ゲイフォビアで男根主義的、アメリカン・マッチョな価値観に染まっていて、ことあるごとに自分の面白ジョーク(大半は性差別、人種差別ネタ)で課内の雰囲気を和ませようとするが、逆にそのジョークのせいで場の空気をきまずくさせてしまう。なにせ、自分の部下がその当該マイノリティであることが多いのだ。
しかし自由の国アメリカといえど、上司に反駁するのは容易じゃない。カレルはアブナイおっさんなのでことあるごとに人事権や給与査定をタテに(実際にその権限が彼にあるかは別にして)振る舞う。部下たちは自然、事なかれ主義でだんまりを決め込んでしまう
しかも、カレルは場の空気を悪くしているのが自分であることに無自覚だ。勇気ある誰かから「それは差別じゃないか?」と指摘されると「これは差別じゃないよ。ただの冗談だろ?」とキレる。本当に差別ではないと信じこんでいるのだ。あげくのはてに破綻しそうになると、別の部下に責任を押し付けようとしたりもする。
まあ、要するに、最低のセクハラおやじが職場の空気を最低にするドラマなのだ。
ドキュメンタリーという体裁だから、シットコムみたいに「ここが笑いどころですよ」という観客の歓声も挿入されておらず、しかもカレルに対するツッコミはなされないか、なされたとしてもシリアスな雰囲気にならざるをえない。
こんな悲惨な番組がコメディになるのか、といえば、なってしまう。アメリカでは成立してしまう。
『ザ・オフィス』で笑うためには、まず「無自覚な差別ネタをジョークのつもりで放言しまくって場の空気を凍らせてしまう困った人(しかも自分では差別ではないと信じている)」というステロタイプを共有していなくてはならない。いわゆる、あるあるネタってやつなのだが、これが一筋縄ではいかない。
このステロタイプで笑うためには更に「こういう困ったおじさんは時代遅れのダサい人間である」という認識も広まっていないといけない。現状ではこういうおっさんが存在を許されないものという(現実はともかく)共通了解が流通していなければならない。
『ドラえもん』やちょっと前のドラマで日本でもあった、「江戸時代の人間が現代にタイムスリップしてきてカルチャーギャップを体験し、その反応に視聴者が笑いをもたらす」タイプの話とキモは一緒なのかもしれない。
仮想の原始人を笑いの的に立てるのだ。
その「原始人」に「かつてどこにでもいて、今もおそらくは地域によっては跳梁しているであろう人間」をあて、都市部のリベラルな価値観、すなわち我々の言うところのポリティカル・コレクトネスの観点からその野蛮さを笑う。言い方は悪いかもしれないが、そういう捻れた観方をできる人間がすくなくともこの番組を8年140エピソード続けさせられるぶんだけ存在する、ということだ。
そうして恐ろしいことに、『ザ・オフィス』は例外中の例外ではない。『サタデー・ナイト・ライブ』といった老舗番組から、オトナ向けのカートゥーンアニメまで、そうした政治的正しさが視聴者の間で広く染み込んでいることを前提にギャグをスケッチしている。
アメリカン・コメディにおける政治的正しさとはもはや「あるべき理念」でもなんでもない。常識であり、前提だ。
アメリカは広いし、チャンネルは山ほど存在するので、コメディ番組がすべてそうだという確証はない。
けれど、日本に紹介されてくるコメディ番組は肌感覚のレベルで政治的正しさを呑み込んでなければなかなか笑えない。
むしろ、政治的正しさに反発を抱く人より、「あるべき理念」としてフィクションに政治的正しさを求めている人のほうが笑いにくいかもしれない。リベラルの風刺とは身内にすら向けられる過激さを持つもので、笑いの矛先が政治的正しさそのものに向けられることも珍しくないからだ。それを半可にしか理解できてなくて、そういうジョークを無理してわかったフリして喜ぶ人間は多いけれど(私もその一人だ)。
シリアスな映画とかはまだわかりやすく「女性が強い」とか「マイノリティが救われる」とかをストレートな形で描いてくれるから、日本でも受け入れやすいんだろうけれどね。マッドマックスみたいに。
海の向こうには、「政治的正しさを前提にしたホンづくりしてる」なんてわざわざ公言しなくても、そんなもん当然前提に据えてるだろって界隈が存在するのだ。おそろしい、おそろしい。
余談だけど、「空気を読めない人の空気の読めなさ加減を笑う」という点ではアメリカ版よりイギリス版のほうが百倍ブラックだ。もはや、気まずい場の空気そのものを笑いに換えているといってもいい。これもこれで、ウルトラハイコンテクストな文化だよなあ、と思います。
以前、某社の商品開発に携わってた頃から売れるシャンプー、売れないシャンプーとは別に
頭皮に悪影響を与えるシャンプー、そうではないシャンプーのことは共通認識だった
売れるシャンプーを作ろうとすると自然と頭皮に悪影響を与えてしまうので
営業部が大々的に予算をかけて有名人を使ったイメージ戦略をおこなっているのを傍目で見ながら
その商品は飛ぶように売れて開発部ならびに営業部や宣伝部は大いに褒められたのを記憶している
数年後、全く関係のない業種ながら昔から夢だったこともありヘッドハンティングされたのだが
とある美容師がブログで某社のシャンプーを批判していたことから
これは絶対に大きな圧力がかかるのではないかと心配していたのだが
自分の日々に追われ、すっかり忘れていたのだった
あれから月日が流れて今日知ったのだが、某ブログは更に深いところまで追求していたらしい
業界の知人に教えてもらい、さきほど覗いてみたところ記事を読むことはできなかった
はっきりいって、あれはいろんな関係各社が動いていて一筋縄ではいかないと思う
多くの人は空き巣に屈服して鍵をかけるのだから、痴漢に屈服して制服を着ないという選択肢はごく自然では?
そういう意味で制服は良いものだと思うのだけど、それを着て大手を振って外を歩ける自由を、なにも子どもたち自身が勝ち取る必要はないと思うよ。
わかりにくくて申し訳なかったんだけど、「勝ち取る」云々の話は、「痴漢が悪い」の一言で思考停止して、「女の自由を侵害するな(自由をよこせ)」と言いながらも、ゴスロリたちほどに戦う気も持ってなさそうな人たちへの嫌味。だから私自身は女子生徒全体に向かって「勝ち取る努力をしろ」などのことを言うつもりはないよ。
大人たちが努力しなければならないんだと思う。
もちろんそう。
ただ、あなたも言うように痴漢という存在は謎。痴漢って、撲滅はおろか減少させることさえ一筋縄ではいかないのではないかな。そういったような意味で、もし生徒の痴漢被害を社会全体として少しでも減らそうとするなら、制服廃止論が出てきてもいいと思うよ。もちろん仰るところの制服のメリットも考慮しなければならないがね。制服廃止の結果として痴漢のターゲットが制服から別の何かに移るだけでしたという悲しい結果しか招かないかもしれないが、だからといって、「制服は痴漢にあいやすい」という事実(データがないので事実とは言えないのだが)を知っていながら制服制を続けることが社会的に正義であるとも思えないんだよね。
http://anond.hatelabo.jp/20141212231506
「明後日告白しようか迷っている」の元増田です。 日付逆算してみたら明後日じゃなくて明々後日でしたね・・・ 今日から見てだったら明後日。 本当に冷静になれていない証拠です。
>自分が好きな相手をステレオタイプに嵌めようとする時点で愚の骨頂だわ
これはその通りですね。 今好きな女の子は相当変わり者で、普通の恋愛の常識が通用しない相手だと思います。
まぁ僕の恋愛の常識も性欲たっぷりな大学生時点で止まってるので、一筋縄には行かないわけですが。
「私、女だけど」さん、本当に毎度毎度ありがとうございます。
いえいえ、お忙しい中定期的に返信をチェックして頂いて身に余る思いです。
本当に善意で助けて頂いているんだな、と人の暖かさを感じます。 どうか最後までお付き合いいただければ・・・・・m(_ _)m
好意はかなり示してまして、火曜日に会った時は勢い余って告白の言葉が喉先まで出そうになりました。ギリギリで自制することが出来ましたが、相談してなかったら危なかったです。
最初に会った(といってもほとんど会話はしなかった)のが8月中旬、 2回目が9月下旬(前に同じく) で、3回目が10月下旬(異業種交流会、1時間くらいじっくり二人で話した) です。
既に4ヶ月くらいが経ってます。
・以下詳細情報
最初はもしホットエントリ入りした時とかに身バレが怖かったので全部の情報を書かなかったのですが、もうおそらく大丈夫だろうと見切ってより多くの情報を書きます。 うまく説明出来ると良いのですが・・・
男女同数くらいですが、出会い系というわけではなく既婚者とかも参加するアラサー世代が多く集まる感じの割とゆったりした異業種交流会です。下は24歳から、上は39歳までいます。参加人数は毎回変わるけど、12人~16人くらい。
僕はそのゴルフのコンペの幹事補佐的なポジションをやってました。(コース予約、HC査定やルール、順位制定など)
3回目に会った異業種交流会はワインを飲みながらの立食パーティと言った感じで広い会場で80人くらい(年齢は20代~50オーバーくらい)が集まっていろいろ情報を交換する感じの会です。男性8割。
その子は旅が趣味な子で、留学経験があることもあって既に20カ国くらい回ってて相当アクティブ。 体力的にも精神的にも強い女の子です。 バックパッカーに近いものをイメージして頂きたく。
異業種交流会で、たまたま再会したその子との話の流れから年末年始の予定を聞いて僕と親友(男性、その子とは面識無し)が東南アジアの某国に海外旅行に行くので一緒にどう? と誘いました。
正直、既に仲の良い友達とかならともかく絶対無理だなと思ってたら11月上旬くらいに返事が来て、一緒に旅行に行きたいとの連絡が来ました。 ←この時点で割とビックリ。
火曜日に二人で食事した時に2月にまた別の海外旅行に行かないかと誘ったのですが、これもつい一昨日返事が来て 行くとのことです。 これは多分だけど僕と僕の会社の後輩(女性、その子とは面識アリ)と3人+α(未定。おそらく女友達)で行くことになると思います。 他の旅友の都合が付かなければ二人きりになる可能性も少しあります。
これが、今ライバルがいないと言ってる理由です。 (流石に彼氏候補が他にいたら、他の男と旅に行かないですよね・・・?)
普通の女の子だったら明らかにある程度の好意が無ければあまり仲良くない男からの旅行の誘いなんてOKしないと思うんですが、その子は旅が好きすぎ(かつ、たまたま僕が誘った2国がもともと行きたい国だったらしい)なので普通の常識が当てはまりません。
今告白してしまうと年末年始の旅行も2月の旅行もパーになってしまいそうで、リスクが大きいわけです。
1.来週月曜告白する
旅行は2人きりではないのでほぼ0として、実際は4択です。
普通の女の子だったら好意が無い男に旅行誘われてもOKしないと思うのですが、その子が旅が好きすぎて特殊すぎる感じです。 性格はめっちゃサバサバしてて言いたいことははっきり言う性格です。
旅行までに決めてしまいたいのですが、やっぱ焦っちゃダメなんでしょうか。
恋愛の達人の旧友にも事情はほとんど話してるんですが、「旅行の後でもいいんじゃない? 今ライバルがいない状況ならクリスマスとかに拘る必要ないよ。 長続きするなら我慢しなきゃ」 と言っています。
皆様のアドバイス求む。
結婚して2年半。
夫とは食の好みが相当合うので日々の献立や外食が非常に楽だが、
あれ…それ以外に合うところってどこだっけ…?
と最近ふと思った。
というか、合わない部分が案外多いことに気付き始めたのか。
6年も交際して結婚した割に、知らない部分って多いんだな。
夫は人が死ぬ作品、ハッピーエンドじゃない作品が嫌いで見ようとしない。
こちらは面白ければ何でもOKなのでやや気を使う。
休日の過ごし方が合わない。
私はある程度一人で過ごしたいが、夫は基本的に二人で行動したい。
私は買い物などいくつかの事は絶対に一人がいいので、それ以外を夫に提案する。疲れる。
タイミングが合わない。
これ本当に不思議なんだけれど、何か色々とタイミングが合わない。
私が忙しいときは夫が定時で上がり、私が暇だからちゃんと料理を作ったりすると夫は多忙で午前様。
居てほしい・ほしくないタイミングを悉く外してくる。なにこれw
体の相性が合わない。
セックスレスなんですが。
しかしこれは結婚前からで、結婚にあたりちょっとこれを軽視しすぎたかなと思っている。
他にも仕事観、金銭感覚、実家との距離感、まー色々こんなにも合わない部分があるもんだ。
まぁ今日やっと仕事の山を終えて、夫に最近任せきりだった夕飯を気合入れて作ったら
ただ食の好みだけは奇跡のように合うので、今日夜中か、明日に食べてくれた際にはきっと喜んでもらえるはずー。
それだけでもラッキーだよな。
■今のゲームは、遊んでる人自身は何をすればいいんだか分からないけど、道なりにまっすぐ進むと、そのうち行き止まりに突き当たる
そこには、パズルとか問題が設置されてて、それを解いた場合次に進む為の道が出てきて次に進める
そこも道なりに進むだけで、するとまた行き止まりに突き当たって、そこで次の問題を出されて、それを解いてその次の道に進む、その繰り返しで全て出来ている
途中脚色する為に色々な演出が多数入ってる(遊んでる人は何でそんな事するのか何も理解いてないから演出を使って説明する)
■昔のゲームは、まず最初に大きな問題を出される(その問題を解いたらエンディング・・・と明確に遊んでる人は理解してる)
プレイヤーはその問題をゲーム全般に亘って答えを捜し求める事になる
最初に出された問題を解こうとすると、それを妨げる仕組みや仕掛けが邪魔して一筋縄ではゴールできない
さまざまな遠回りをして、そして当初の最初に出された問題を解ける状態にたどり着いてその問題を解いたらゴールでエンディング
別の言い方
まず最初に問題を出される
でもその問題を解けるようにするための別の問題が邪魔しててそれはそのままでは解けない
最初に出された問題を解けるようにするに、その邪魔してる問題を解かなきゃいけない
その別の問題を解けるようにする為には、さらに別の小さな問題を解かなきゃけない
そうやって細かな問題を解いているうちに一番最初に出された問題の答え(ゴール)にたどり着いて最初の全然解けそうも無かった問題を解ける
元増田です。
結局、自分も何かの分野を関心を持って究めるのが近道なんだと思うよ。
確かに「同好の士」の延長狙いみたいなアプローチになりますね。
自分は元々開発系SEだけど実質PGで、ここ数年は「PacemakerとDRBDでクラスタ組めば、あのクソ高い癖にトラブル続きの某ミドルウェア買わなくても良くね?いあ保障のこと考えると一筋縄じゃねーか」などと構築・運用にも首突っ込んでる人だけど、いずれにせよITでもそっち関連はタイプが合う合わない以前に女性が殆どいないし、いたとしても彼氏持ちか既婚のいずれかの可能性が低くない。
勿論彼女らをツテに知り合いを紹介してもらう手も無くはないが、それだけを頼みにするのも・・・という感じ。
学生の時分に嫁候補を見つけないまま、男だらけで合コン企画もまず無い業界に入った時点で、詰みといえばそうなのかも知れないけど。
本当に、出会いって難しいと思う。
が話題になっているようです。書いてあることそのものには賛成ですが、だからといって、ちきりんのいうことに意味がないとは思えません。
院卒で地方都市の高校というと、トップクラスの高校で教えてるんじゃないでしょうか?自分も理系院卒です。他の院生は高校教育に関わったとしても、トップクラスの塾・高校で教えている人間が多かったのですが、自分は、普通の高校に通えない生徒が通う通信制高校サポート校のスタッフなどをしていました。現在は文系・理系ともにある中堅総合大学で教員をしながら、研究プロジェクトで高校教育の現場にも顔を出しています(ただし、教育そのものは専門ではありません)。偏差値で言うと学部によって50を超えるところと下回るところがある程度です。その世代の高校卒業者の平均に近いのではないかと思います。
その立場から言わせてもらうと、「ちきりんの言っていることには、たしかに間違いが含まれていて、突っ込みたくなる気持ちは分かるが、全体としてはちきりんに賛成」です。
今の高校の理科教育ははっきり言って機能していなません。大学の理系の授業で、必須科目、「理科総合A」の内容を前提にすることはできません。中学理科もかなり微妙ですが、キーワードくらいなら覚えていることが多いです。授業なんか聞いてないか、聞いていても覚えていない。自分は高校の教育課程を把握しているので「この内容は、高校の必須なんだけど、覚えているかな?」などと良く振るのですが、「え?なにそれ、名前すら覚えていない」という反応が多いです。彼らは、教えれば少なくともその場では理解できて、小テストに正しい答えを書く程度の理解力を持っているし、受験で使った科目や、中学理科の内容であれば、覚えていることが多いです。だけど、高校の授業について全く覚えていない。おそらく聞いていないか、かりに聞いていたとしても、小学校・中学校の理科の比べてずっと定着率が低いようなのです。
「技術立国のために科学教育が大事」とかいうけど、あたしにいくら科学教育を与えても、技術立国には一歩たりとも近づきません。
ただし、理科教育といっても、物理と生物は大きく違うし、物理の中の分野でも「この分野は得意だけど、他は興味ない」という人もいるだろうから、「生物だけは特進クラスで学ぶ」みたいに細かく分野で分ければいいと思います。
そういう現状から言うと、ちきりんの上の意見には賛成するしかありません。たしかに、そうではない「理想の理科教育」を語るの自由です。でも、文句あるなら、そうじゃないような理科教育を実現してから言えよ。現状の理科教育では、ちきりんの言うことを受け入れるしかないじゃん。っていうのが、自分の意見です。
残りの 7割の人には、今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)「生活するために必要な科学知識」を教えてほしいです。
そこで批判されていた上の部分ですが。たしかに、批判する意見ももっともで、それに対しては何一つ再反論するつもりはありません。つまり、「生活するために必要な科学知識」と理論教育は矛盾するものではないという反論には全面的に賛成です。何より、自分が大学でやっている授業の大部分(1、2年次の基礎教育に関係するもの)は、まさに、「生活するために必要な科学知識」としての理論科学を教えるものであり、自分もそれを実践しているという自負があります。
でも、ちきりんの上の文章にはものすごくうなずいてしまいます。命題としての正しさとは関係なく、「そのように多くの人が考えてしまうような現状がある」と思うからです。
自分の授業では、しゃべっていて、反応が悪いと、その場で別の資料を出してきて、良い反応が返ってくるまで、同じ内容を繰り返し説明し続けます。カリキュラムを大幅に変更することも珍しくありません。それこそ、ちきりんが例に出したような日常の話、ニュース、芸能・・・話の引き出しをいろいろ引き出しとして持っていて、興味をもたせられるように話すわけです。ライブパフォーマンスとして授業をするように心がけています。だけど、自分が学生のときの感覚で言うと、きちんと学生の反応を見ている先生とそうじゃない先生は半々くらいかなというきがします。そして、多くの人は同意してくれると思いますが、実際問題大部分の授業は受ける側に立ってみるとつまらないです。自分だっていろいろ努力はしていますが、つまらないと思っている学生もいると思います。
科学教育に関して言うと、「聞き手の興味を持たせる」ことは、「生活するために必要な科学知識」を教えることとかなり一致します。しかし、これは一筋縄ではいかない難しいことだし、今の日本の教員には、これが得意ではない人間が多いというのは、紛うことがなき現実ではないかと思います。この現状で、
って言うのは当然の反応です。
自分はこれとほぼ同じことを塾の生徒、高校の生徒、大学の学生・・・に何度も言われました。なので、これはちきりんの特殊な意見として見るのではなく、学生・生徒たちの率直な意見として受け止めてほしいというのが、科学教育に携わってきた自分からの切実なお願いします。
もちろん、だからといって、「今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)」を教える必要はありません。今教えている内容を、「生活するために必要な科学知識」でもあることを強調するする形に変えるべきということです。これは、科学教育に携わる人間が常に取り組んでいかないといけない課題です。そして、これは今まで自分が教員としてやってきたことだし、ちきりんに対して反論していたバッタさんの意見とも一致すると思います。
他の人も言っていましたが、自分はちきりんの意見とそれに対する反論を見ていて、「これはないな」と思いました。議論が噛み合っていない。ブログに書いたことに、論理上の粗があるのは当然です。そういったことについては、作者にメールするなり、コメントするなり、あるいは別エントリーを立てるなりして、ブラッシュアップしていけば良いことです。こういうのは、普通の社会人、あるいは研究者なら普段、仕事上行っていることと同じだと思います。でも、ネットだと「議論をより良いものにするために意見を言う」ということができない人が多い。
科学を愛する者、科学に生涯を捧げた者が古今東西多数いることを知らないわけでもなかろうに、科学に対する冒涜と取られかねないような表現を用いるのは、売文屋、自己啓発屋として作戦ミスだと思います。いわゆる「炎上商法」「釣り」のつもりなのかも知れませんが。
アクセスを稼ぐためなのか、小さな問題でも、相手の議論の全部を否定したり、場合によっては、人格まで否定するようなことを書く人が多いです。そして、そのために、ネット上の議論の多くが、無駄なものになってしまっていることは、大変残念なことだと思います。
「また、あいつか、叩いてやろう」と思ってエントリーを書いたときは、「もしかして、このエントリーがネットの言論空間をダメにしているかもしれない」ということに想像力を働かせてもらえると幸いです。
元増田です
携帯、スマフォの知識は全然なかったけど数日かけてひたすら調べた。
ショップのあくどい抱き合わせ商法みたいな話がTwitterでバンバン流れてくるので一筋縄ではいかないというイメージが非常に強かった。それに携帯に慣れてないと二年縛りはないわーって感覚だし、途中でやっぱいらねーわーとかつかえねーってなった時に、それがまだ完全に自分のものじゃなかったり、一括だとしても月々払ってるって感覚がゆるせなかったのでこの歳まで携帯契約したことなかったというのはある。
国民の98%だっけ?99%だっけ?携帯持ってる時代じゃ、残りのわずかのためにわかりやすいプラン用意するという戦略は無駄でしかないだろうしな。
携帯文化に慣れてない身からすると、SIMフリーの方が自然に思える。物買う→月額払う→いつでもやめられる→本体は自分のもの、これがふつうでしょって思う。ので、国内盤SIMフリーiPhoneが堂々と買えるようになったのとMVNOが競争激しくなって安くなってSMS付きもでてきてるのでこのタイミングで人生初のスマフォになった。(海外版のを買おうと考えたことは以前あるけど、MVNOが今ほど出揃ってなかった)
界隈で喧しく「生産性の概念欠如」が取り沙汰されている。曰く、日本の企業や社会には生産性という概念が欠如しており、これが経済の停滞や労働搾取をもたらしている、
というものだ。多くは企業者の立場からのもので、日本企業の文化的・制度的な生産性軽視を論じている。そうした「文化的背景」や「企業の人事制度」という点は今後も
議論されるべきであろう。、、、だがこのエントリーで論じたいのは、他エントリーで多くなされている下記のような主張が「本当だろうか?」というものだ。すなわち
>生産性を向上させれば、同一のアウトプットに対しより少ないインプットで済む
>従って、生産性の向上は「アウトプット量の拡大…よりよい商品提供」か、「インプット量の減少…余暇の拡大」を生む
>かくして、生産性の向上により、社会の富や厚生の拡大がなされるのだ!
という主張である。一見正しいように思えるし、うん、実際の所間違いではない。
だが筆者は、多くの論で曖昧に付されている点があると考える。それが何かといえば、「インプットは労働力=時間だけど、アウトプットはお金なの?それともモノなの?」
という点だ。生産性の問題を経済の問題として考えるのであれば、そして個々の企業ではなく将来に渡る社会全体の変化を取り扱うのであれば、それが「名目」なのか「実質」
なのかという点を明確にしなければならない。そして実際、この点を明確することでより有益な論点が摘出できる。
そこでひとつ、明確に「生産性」と区別して論じられるべき概念を提案しようと思う。「生産力」だ。
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本論では下記のように用語の定義を行いたい。
・「生産性」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「金額」の増加分
・「生産力」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「モノの量」や「モノの質」の増加分
簡易な例を提示しよう。
皆さんが田んぼを耕して農業生産を行うとする。一定面積の土地に対し、100の労働を投下し、100kgのコメを生産し、それを100万円で売っている。いまここで新たな技術が
開発され、80の労働で100kgのコメが生産できるようになった。するとどうなるだろうか?
・「生産力」は、100kg / 100労働 だったのが 100kg / 80労働 となった。1労働に対する生産「量」でいうと、1.25倍となったわけだ。
・「生産性」は、100万 / 100労働 だったのが 100万 / 80労働 となった。これも「生産力」と同じ、1.25倍となっている。
かくして我々は 「いままでと同じ量働き、1.25倍の所得を得る」か「いままでと同じ所得で、80%働き、20%を余暇に充てる」という選択肢を選ることになる。
、、、だがここには重要な大前提が存在する。生産力と生産性がおなじ動きをするのは、「コメの価格が変わらない場合に限る」のだ。
ではモノの価格を決定するのは何であろうか?
もし「生産力」の拡大が個々の企業のみで起こったのであれば、その企業が他社に比べて競争優位を持つにとどまる。つまりその企業が「今より低い価格でも戦える」ように
なるだけで、価格はその企業の戦略によるだろう。だが検討するべきは、こうした「生産力」向上が社会全体で実現した場合、つまり我々の望む「日本社会の生産性拡大」が
実現しようとした場合だ。
社会全体でみた商品の価格決定は、極めて単純に「需要量と供給量のバランス」によって決まる。つまり「足りなければ高く」「過剰なら安く」だ。そして、、、賢明な読者の
方ならお気付きの通り、「生産力」の向上は「供給量」の増加をもたらし、その供給量に「需要量」が追いつかないのであれば、、、価格は下落し、「生産性」は向上しない。
労働に対する貨幣的評価が変わらなければ、給料(名目賃金)は、上がらない。
もちろん、価格が下がれば需要が増える場合もある。つまり「欲しいけど価格が高くて買えなかった」製品の生産力が向上した場合、価格の下落が需要の上昇を呼び、全体として
収益が拡大、生産性の向上をもたらす。これは成長産業のモデルであり、企業間の厳しい競争と市場の拡大が循環している場合、生産力=生産性の拡大は至上命題となるだろう。
例えば例に挙げた「コメ」。食べ物という商品は、いくら価格が安くなっても食べる量がそんなに増えるわけではない(かと言って不足すると大問題)。コメにしろ野菜にしろ
、需要量に対して供給量が10%上回っただけで、価格は20~30%下落したりする商品だ。つまり農業の「生産力」向上は「生産性」を減少させる。(蛇足となるが、TPPの議論
などで「農業の生産性を上げれば万事上手くいく」と言っている論者には、量と価格の関係を厳密に区別できていない方が多い)
さらに、「需要」が拡大しない産業における「生産力」拡大は、単純に失業者を増やす。なぜかといえば100の固定需要に対し、それを満たす供給量の生産に必要な労働力が減る
からだ。生産力が向上しているから、より多い生産が不要なら、「働く人が過剰になる」。こうした「特定産業における過剰人口」は、本来であれば成長産業に仕向けられる。
成長産業はその需要が満たされるまで労働力を吸収し、その需要が満たされるよう生産力の向上を図る。つまりよく言う「生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ労働人口が
移行」するのだ。、、、だがいま見てきたとおり、「生産性の低い産業」とは単に「需要が満たされており」「且つ生産力向上を図り」「過剰人口が発生した」産業も含まれる。
必ずしも努力や工夫の足りない・低レベルな産業ではないということを留意するべきだろう。
さて、今までのところを整理しよう。
1.「生産力」の拡大が「生産性」の拡大をもたらすのは、価格が変わらない場合
2.「需要」が頭打ちの環境下では、「生産力」拡大は「生産性」の縮小をもたらす
3. 社会全体で需要=成長産業がない場合、「生産力」拡大は失業をもたらす
多くの方がお気づきと思うが、今の日本は完全にデフレ経済=需要不足だ。そうした環境下での「生産力」向上がなにをもたらしたのかは想像に難くない。産業の多くが内需に頼る
この国で、デフレ経済を15年ほども続ければ、企業内での「生産力」向上への意欲が毀損されているのは驚くに値しない。むしろ、厳しい雇用規制により失業者が街に溢れかえる
ような状況が避けられていると考えるべきであろう。(もっとも、雇用規制が新たな成長産業の誕生を阻害しているという論者もいるわけで、循環的な問題を紐解くのは一筋縄では
いかないということか。紐を解くのに縄では足らぬとは皮肉なことだ)
また、アウトプットの量が給与に評価されないというのもご納得いただけるのではないだろうか。これは必ずしも労働者だけの問題ではなく、企業自体が「生産力」向上=「生産性」
縮小というジレンマを抱えているのであり、作ったものが貨幣として実現しないという社会全体の問題を内包していると見るべきだろう。
、、、そして、こうした「モノやサービスの実体的生産」が「貨幣としての生産」に結びつかないという問題は、一国の経済においてより根本的な問題として取り扱われる領域でもある。
http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-338.html
さて、筆者もこの国の根本的問題は少子化にあると考えているし、少子化に限らずいかに「人間の活動」を活発にするかが社会に幸福に直結すると考えている考えている。しかし
これまでの議論を踏まえると、ひとつの疑問が生ずる。
上で「生産性」を金額による評価基準と定義した。しかし子育てはカネを生むだろうか?残念ながらノーだ。いやノーであるどころか、、、子育てはカネを生み出さずむしろ消費する。
つまり「生産性」で見ればマイナスだ。実際我々はそう感じているのではないだろうか?子供を産み育てれば、それだけお金が必要になるではないか、子育てにかかる金額と子供を持つ
ことによる幸福とはどちらが大きいだろうか、と。いや、子育てに限った話ではない。今や恋愛も、結婚も、はたまた地域へのボランティア活動すら、「カネを費やす消費活動」と
化しているのではないか?
本質的に我々の社会を豊かにするのは「生産力」のはずだ。モノを作り、サービスを生み出し、それを社会の成員と分かち合うことで世の中が豊かになる。しかしそういった「生産活動」
の中には、「貨幣経済」を基に置くものとそうでないものとがある。「貨幣経済」に基を置く活動、一般に我々が「仕事」と呼ぶものは、すべからく貨幣=金額によって評価され、その
評価によってより効率的な生産を志向し、新たな生産物を生み出し、社会全体に流通する。一方で「非貨幣経済」貨幣によって評価をされない活動、例えば家事や、友人との交歓や、
恋愛から結婚まで、お金にはならないが社会に欠かすべからざる活動が行われている。
「貨幣経済」(あるいは市場経済・資本主義)は、あくまで「生産力の発揮」をより効率的に行うのに資する存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。事実これまで見てきたように、
社会全体として需要がある限り「生産力」向上が図られてきた。、、、では「非貨幣経済」の効率性はどうだろう?結論を言えば上昇した。家事を例に取ればわかりやすいが、すべて
手作業でやっていた時代から、炊飯器・洗濯機・システムキッチンなどなど「生産力」の向上は著しい。しかし、しかしだ、こうした「非貨幣経済」の活動を支える機械や設備が増加した
ということは、それの購入や維持により多くのカネがかかるということだ。しかし「非貨幣経済」の生産活動自体はカネを産まない。
つまり、「非貨幣経済」においても、「生産力」の拡大は「生産性」の縮小、、、というよりマイナスへの増進を意味する。そして「貨幣経済」においては失業者が生み出されたが、
こちら「非貨幣経済」においては、マイナスとなったカネの補填が絶たれるが最後、単純にその活動自体が萎縮し、消滅する。
さて、話が随分と大きいところに来てしまった。
上記のような問題を如何に解決するか?については意見がないことはないが、本来の話題から外れるのでここでは省略しよう。ここで主張したいのは、「生産性」を考える上では「カネ」と
「モノ」を厳密に区別するべきということだ。そして「モノ」の生産は必ずしも「カネ」として実現しない。それは「貨幣経済」においては「需要」(…同じく「モノ」単位としても観測
されるべき)との関わりのため。そして「非貨幣経済」においてはもともと「カネ」でその活動を評価していないためだ。従っていかに社会を豊かにするかを考えるときは、まず「モノ」的な
個人的には、貨幣経済がなくなることはないだろうし、資本主義に限界が来たとも思っていない。しかし、それらはあくまで社会全体の機能の一部として位置づけられるべきものであり、
その一部にすぎないセクターの「カネ」という評価基準をありとあらゆる部面に適応させるのは、おそらく「非貨幣経済」の縮小で見たとおり、我々の生活を徒に貧しくするだけに終わる
だろうと思うのだ。
なるべく短く、平易にまとめたため、こうした分野を専門に取り扱っている人なら「なんて適当な内容なんだ」と思われること請け合いの論となっている。例えば価格下落は実質賃金の上昇を
もたらすとか、失業者の増加は人件費を引き下げ新たな均衡をもたらすとか、はたまた供給は需要を作るから需要不足は社会的に起こりえないとか?
また私個人としても、未だ考えのまとまっていない領域が多くある。「質」の向上は「生産性」に結びつくか?社会的に見て「余暇」と「失業」は何が違う?海外貿易による影響は?貨幣に
とはいえ、一般の方々へ思考の枠組みとして「生産性」と「生産力」の区別とその必要性は明快に提示できたと思う。また、単一企業視点にとらわれず、マクロレベルで「生産力」と「需要」を
見なければ、我々が抱く本質的な課題には接近できないこともご理解いただけると思う。筆者個人としては、後半の「貨幣経済によらない生産活動」というところをもう少し掘り下げたいが、
私的にまとまっていないこともあり、簡易に付した。当論がネット界隈の皆様方にとって有益であればありがたい限りであるし、私個人としても皆様の様々なご意見・反論を得たいという気持ちに
溢れているということをご提示し、筆を置きたいと思う。
就職して&常駐して4,5年目。
客先の直属の上司からは体のいい雑用としての役割を求められる。
言われたこと以外の余計な口出しをしようものなら、あからさまに嫌な顔をされたり鼻で笑われたり、まともにとりあってくれなかったり、最初から否定的な捉え方をされたり、そういうことは想定・期待していないんだから余計なことをするなという空気を言外にもひしひしと感じる。
一見理解ある上司のように対応・行動しているから余計にたちが悪い。変にプライドが高く、完全に自分の掌中におさめておきたい、余計なことをさせたくない的なところにつながったりして、一筋縄ではいかずに胃を痛めている。
いや実際に変なところで何かされたら責任とれんからってのはわかるけどさ。そうじゃない部分でも何かとつねに見下すっつうかバカにされてる感があるんだよね。まあ外注なんて所詮そんな立場なんだろうけどさ。
一方、客先の直属の上司の上司とか、客先の営業からは、そういうんじゃなくて仕様を相談できたり、仕事をまとめてふれるような働き方をしてほしいと言われる。
現場と営業で乖離した要求がある状況において、自分の派遣元(所属会社)の上司とか営業には、後者的な要求しか伝わってない。
だから、派遣元としては俺の評価が「言われたことしかやってない今一歩一皮むけきれてないやつ」としてとどまっている。
現場レベルでの要求と、契約レベルの話をする人間が求めている要求が大きく異なる。
そのギャップが苦しい。
「お客さんの中でも、特に直属の上司の、さらに上司がが求めてることと、実際に現場レベルで直属の上司に求められていることが違う。それ以外のことをやろうとしてもいい顔をされない。とくに、直属の若い客先の上司はプライドが高いから、すんなり外注ごときの意見具申を取り入れてくれることがない。最初から否定してかかってくる。こっちは外注だっていう立場上、なかなか不満もいいづらい。」
というふうに、仮にこの不満を伝えたとしても、結局俺の直属の上司にも伝わるのであれば、今後の仕事上の関係においても何かとギクシャクしてめんどくさくなりそうなことも想像できる。どうしたらいいかわからない。
客先常駐型のめんどくささをひしひしと感じている。
単純にSE的なことをやるようにしてっていうんであれば喜んで取り組みたい。
でもそこに、客先と派遣元、プラスでプライドとかの扱いづらい問題なんかも絡んでくるともう面倒で仕方ない。
マネジメントのスキル以外の、折衝とかプライドのいなしかたとかプライドを傷つけずに人を動かす方法とか人間関係のスキルもオマケで磨く必要があるということか。
これは当初想定していなかった。
一気にズシンと負担がきたように感じられて食欲が出ない。趣味もやる気にならない。
寝られなくなったら赤信号だと思う。
こんだけ苦しいとほんとに今の会社やめてもいいかなとも思えてくる。
でも結局、どこの会社でもついてくる問題なんだよね。
単なるプログラマから、ある程度経験を積んだら次のステップへ。
こうなってくると、もう自分には勤め人自体が向いてないんだろうな。
そこで我慢できるかとか耐えられるかとかうまくいなせるかって考えたときに、あまりにも仕事が人生を占める割合が大きくなりすぎて、仕事に殺される気がする。
かといってフリーになるスキルがあるわけでもないんだよなあ。。。
スキルなければ勉強して身につければいいじゃないとポジティブな人間ならなるんだろうけど、今は上記のストレスでプライベートもズーンと沈みがちでまともに食欲もないレベルなんだよね。
お腹は空いてるけど食べるのがめんどくさい。ん? これはまたちょっと違うのかな。。。
勉強するにしても、マジで仕事やめて何かやったほうがいいのかな。
でもやめたらやめたでずっと寝てばっかになりそうな気もするんだよなー。
とりあえず今すぐに仕事をやめるとかにはつながらないから目前の作業をするしかないけど、先を考えるとプライベートで生きていくのがままならなくなってきつつある現場。
どうすべきか。ライフカードのどうする!?どうする俺!?ってのがものすごく自分とダブるよ。
パソコンとか爆笑しながらぶっ壊して床に寝転んでそのまま寝たい。
なんかしらんが手先がやけにしびれてきた。
下まぶた?頬?がけいれんしてピクピクする。
ほんと俺ストレス耐性なさすぎだろ。
逃避するしかない。
うーん、さしあたり人間の身体は早く光合成できるようになってほしい。太陽の光だけじゃなくて、蛍光灯の光で光合成できるようになればなおよし。
食事をすることによって食事の時間も手間も面倒もお金も消費するし、歯磨きもしなきゃいけない。
なんでサルから人間になるときに植物と同じように光合成できるように進化しなかったのか、そして人間に進化してからも光合成できるようにいまだに進化してないのか、不思議でならない。
光合成だけで生きようとする短命な人間が子どもを生むなりしないと進化上むずかしいのかな。
もはや食べ物業界すべての陰謀だよね。食べないと生きていけない身体とか不便すぎだし。
今の俺を支えてくれるのは艦これの雷ちゃんだけだ。
「元気ないわね! そんなんじゃダメよ!」
「司令官、私が居るじゃない!」
「そうそう、もーっと私に頼って良いのよ!」
なんと力強い。。。ああwikiからセリフをコピペしてくるだけでも涙が出てくる。
雷ちゃん。。。俺もうダメだよ。。。よしよししてよ。。。。もう休みたいよ。。。それかもっと鼓舞して。。。応援して。。。俺はもうひとりじゃダメなんだよ。。。エロなんかいらない。癒やしがほしいんだ。。。
でも画面から出てきてくれない。
俺はどうしたらいいんだろう。
とか益体もないことをつらつら考えちゃうほどには頭がやられてるようだわ。
はー。
死ぬのもめんどくさいから、ある日ふっと消えたりできないかなー。
こんなgdgd長文がホッテントリ入りしててびびったーよ。
やっぱりはてな界隈にはプログラマ系の人が多いのかなーとか思ったり。
ブコメとかで気になっている人が多かったのでちょっと訂正しときます。
ご指摘ありがとうございます。
現在の契約は派遣です。んで、上で派遣先の直属の上司って書いてるところは「派遣先の指揮命令者」というのが正しいですね。
派遣元としてもそこらへんの労働法関連はちゃんとしてるので大丈夫です。
なんというか。。。現場の指揮命令者が普段の仕事における自分の実質的な上司みたいなもんなので、その感覚で書いちゃいました。
本来の自社の上司なんて1年で2,3回しか関わることがないレベルですし。
あと雑用の定義なんですけど、さすがにコーダーレベルではないです。
お茶くみコピーよりはノウハウやスキルも必要ですが、逆に言えばそれなりに慣れたら雑用として捉えられるレベルの作業なので、雑用と表現しました。
具体的には、こういう機能つくってとかこのバグ修正してって言われてそれを改めてドキュメントとしてまとめて仕様設計書作って実装して評価してってやる感じです。
それに対して、言われることをやるだけじゃなくて「こういう機能つくって」という結論に至るまでの相談相手たりうるような存在になってほしいということですね、営業レベルだと。
一方、現場レベルではただ決まったこと、言ったことをやってくれればいいという感じですね。実際派遣はそれでいいとも思うんですけど、単価交渉とかでやっぱり問題視されるんでしょうね。やること変わらないのに経験年数だけで単価上げるのはちょっと。。。とかなったんじゃないですかね。
客先常駐やってると、自社への帰属意識もすっごく薄くなるんですよね。
そんで派遣先(だいたいが派遣元よりも大手)で自分もそこの社員になったような気分で長期間働いてたら、ボーナスの日とかにてめーは部外者なんだっつって改めて思い知らされるような感じなんですよね。ちょっと話それてますね。
http://anond.hatelabo.jp/20130912120735
なんかMOTHER3の話が増田に上がってて、ふと「なんで3のパーティキャラって俺女とか義足のオッサンとか犬とかへんに奇をてらったキャラばかりにしたんだろう、1や2と同じように、最初の3人は赤い帽子の少年と金髪の女の子と眼鏡がよかったのに」なんてMOTHER3の不満だった点を思い返していたところで、「そういえば小説版のジェフって後天的な事故が原因で義足なんだったな、3のパーティ3人目のダスターと同じじゃん」と今初めて気がついた。
思えば2のジェフの「生き別れ同然の科学者のお父さんがいて、父と微妙に確執があるちょっと育ちのいい感じの少年」という設定も、1のノベライズにおいて久美沙織が造形した「小説版のロイド」の設定がそのまんまだった。
(ゲーム版のロイドの父は息子同様にゴミ箱に入った状態で話し掛けて来る職業不明の気さくな人物である一方、小説版のロイドの父は「ギーグに捕らえられて敵のロボット兵器の開発をさせられていた気難しいマッドサイエンティスト」で、ジェフの父親であるアンドーナッツ博士に非常にキャラが近い。2のノベライズのあとがきによると、あまりにもゲームのジェフの設定が1の小説版のロイドそっくりだったので「同じ子じゃ書くのつまんない」と思ったがゆえに、久美氏はジェフにとんでもないオリジナル設定(※両足の義足とその原因となった事故のトラウマ)を追加してしまったのだという)
1の小説版からゲームの2に、2の小説版からゲームの3にリンクする「3人目の仲間の共通点」を糸井氏の意図的なものと見るのはあまりに突飛すぎるかもしれないが、意図的にせよ偶然にせよ、7年ぶりに思わぬ発見を得て少しいい気分だ。元増田に深く感謝したい。
Amazonで売られている久美沙織のMOTHERのノベライズは「作者はキャラヒイキし過ぎ、女の子(アナとポーラ)がビッチ過ぎ、オリジナル要素入れ過ぎ」とそりゃもうボロクソに言われつつも随分なプレミアがついている。
彼女はもともと凄まじく悪ノリ&長文&脇道癖のある作家であり、かつて小説版ドラクエの4〜6(特に4)を執筆した折などは想定読者年齢層を全力でブッチした筆の冴えを見せつけたことで(主に悪い意味で)その筋では有名である。ゲームでは「なんか魔族の王」程度しか設定されていなかったデスピサロの魔界での鬼畜イケメンぶりとロザリーに対するロリコンぶりを描写するために、実に第1巻の約3割を費した耽美と難解を極めるオリキャラだらけの序章を筆頭に「ドラクエの小説版」という単純な単語に惹かれた全国の無垢な少年少女を疑問の渦と睡魔の淵に叩き落としたものだ。
あれに比べたら小説版MOTHERの脱線ぶりなど屁のようなものであるが、それでも1の地底湖における妙に淫靡な13歳同士のラブシーン、著者本人も認める2のタイトル詐欺(MOTHERではなくBROTHERになってしまった)などは、精霊ルビス伝説を初めて読んだ小学生の頃から意味などろくすっぽ訳も分からず彼女の文章を刷り込まれて育った増田のような重度の奴隷信者には溜め息のひとつで済ませられても、彼女の作風を知らずまっとうなノベライズを期待して本を開いた方々には怒髪天ものであっただろう。
前述のような久美沙織のノベライズ奴隷信者たる増田が、開発中だった64版MOTHER3のサブタイトル(豚王の最期)を聞いて思ったことは想像に難くないだろう。勿論「次の小説版どうすんだろ」の一択だ。
ネタバレをすると、小説版の2のポーキーはゲームと違っていずこかへ逃亡しない。2の小説は一冊で完全に独立完結している。
ゲームよりかなり陰惨な設定を付け加えられ、死んだ方がマシじゃねえかと言う酷い目に遭わせられはしたものの、色々あって小説版の彼は救われ、オネットのはずれの家で弟達と仲良く幸せに暮らしている。
1では原作通りの「ジョージとマリアに育てられた宇宙人の子供」だったギーグを、2では設定を完全無視して「多次元宇宙からやって来た、人間に寄生して成長する凶悪宇宙怪獣」というわけのわからんものに平気で変えてしまった久美沙織の事であるから、恐らく3のノベライズも一筋縄では行かないだろう、どのような味付けをするつもりなのだろうか、とゲームも発売しないうちから想像してわくわくしたものだ。
だがいかんせんゲーム原作である3の発売まであまりにも間が開き過ぎ、残念ながらその間に久美氏の小説家としての執筆活動はほとんど行われなくなってしまった。
ゲームそのものの出来が賛否両論で関連グッズ制作に予算が割かれる可能性も少なかったろうから、どのみち彼女が現役だったとしてもノベライズの発売はなかったかもしれないが、今でも久美沙織によるMOTHER3の小説はどんなものだったのだろうと思いを巡らし、赤い背表紙の文庫本が3冊並んで棚に並ぶ事を願わないことはない。
多分ダスターは作者の好みの傾向から言って超かっこいい男になるだろう。ウェスは「ふしゃしゃしゃしゃ!」などと変な笑い声を上げるようなゲーム以上のしゃかりきジジイとして描かれ、一般プレイヤーなら名前すらウロ覚えであろうタツマイリ村の一住民の視点でまるまる一章が描かれることになるだろう。サルが主役の章なんかすごくそうなりそうだ。コーバのヨシダさんやマジプシー、ヨクバあたりのキャラはそのままでも彼女の筆にとてもよく似合うから、きっと笑ってしまうほど魅力的に描かれるに違いない。
そういうどうでもいい細部の事は想像できるのに、MOTHER3という物語を彼女がどう完結させるのか、ポーキーというラスボスにどのような結末を用意するのか、自分程度の貧弱な頭ではとても想像できない事が悔やまれる。
増田はMOTHER2の小説の中では、ハッピーハッピー村の教祖であるカーペインターについて書かれた下記の文章が一番好きだ。(ちなみにゲームに登場するカーペインター氏は、別段このような性格設定や過去があるわけではない普通の中ボスである)
少年の頃、彼は、痩せっぽっちで病弱で、ひどく不器用でした。学校ではいいところを見せるチャンスがありません。おまけに常用していた薬の副作用で顔がゾンビみたいに青かった。気味悪がられて、いつもひとりぼっちでした。こころを通わせることのできる友達が欲しくて堪らなかった。でも、どうすれば、ひとに好かれるような人間になれるのか、ちっとも分からなかったのです。
せつない気持ちをぶつけるために、教祖は絵かきになりました。さまざまな青の濃淡で描かれた彼の絵に、希望や共感を見出すひとたちが現れます。寂しいのは、彼だけじゃなかったのです。悩んでいるひと、困っているひと。ひと見知りで、ともだちを作るのが苦手なひとたちと、助け合って暮らしたい。そう思ったので、一生懸命働いて、この、人里離れた谷間の土地を買いました。誰でも、来たいと思うひとを歓迎する場所、みんなが他人を脅かさずに静かに過ごすことのできる場所として、ハッピーハッピー村を作りました。狭い画布ではなく、大地そのもの、空間そのものを、青いっぱいで埋めるのが、彼の夢でした。
平素の地の文では「今週のハッピーハッピー村信仰大賞佳作受賞者は、ご近所一帯に青大将三百匹を放したヌリ村のジョン作さんです!」などというクソみてえな悪ノリを平気で書くくせに、彼女はこうやって時折、心に突き刺さっていつまでも離れない文章を書く。忘れられない文章がいくつもある。
だから未だに彼女の書くMOTHER3の物語をずっと諦められずにいる。
久美沙織が大昔に書いたゲームノベライズのことなんて知っているマニアックな年寄りは、いかにネット広しといえどもきっとあまり沢山はいないだろう。「翠の髪のボウシャルマン/王宮付きの軽業師」なんて小説版ドラクエの作中詩の一節をググったところで出てきやしない世知辛いご時世だ。
それでもこうして長文を形にしておけば、そのうちこれを見つけた同じ気持ちの誰かと思いを分かち合えるんじゃないかと思い書き残しておく。
君は諦めていないかい?
営業のお客さんだってそう。一回二回の話じゃ会ってくれない。
何回も何回も電話して、ようやく、じゃあ会いますよってなって、
そこが初めての始まり。
一回二回断られたからって諦めたら、
成就しないよ。
しつこいっていうくらいでやっとスタートなんだよ。
営業の仕事がまさにそう。
どんどんどんどん踏み込んで行くの。
そうしないとその先は開かないよ。
相手が迷惑かな?なんて考える優しい気持ちじゃ
達成できないよ。
強く想う気持ちを持ってやりすぎ!ってくらいに踏み込むんだ。
それで初めてスタートラインだ。
相手の事を考えて、なんて、そんな優しさじゃ突破できない。
それでやっと結婚できたよ。
36歳の今。
記事を知らない人は、先に参照されたし
それで、肝心の治し方だけど、ブコメやら記事では、実際に、中国人・韓国人に会え会え触れて見ろ、っていう意見が多く見受けられる。
たとえばこんな記事
嫌韓中右翼やレイシストは処女厨と一緒 - Hagex-day info
ただこれって、レイシストな俺くんには効かないと思う。
処女厨に非処女とつき合えっていってるのと一緒で、荒療治だし、根本的な解決にはつながらない気がする
処女厨もネトウヨも、偏った思考になってるから、一人の人間としてちゃんと向き合えてないからそんな排他的な言動になってるわけで、
だから、実際に付き合わせたところで、悪い所だけみつけて帰ってくるだけだと思う。
それじゃあ、肝心な簡単な治し方だけど、もちょっと腰を据えて考えてみること。
これでばっちり解決。
大半の人は、そういう思考法ができてるから、レイシストにはなってないのだけど、レイシストな俺くんにはたぶん抽象的でわかりにくいと思うから、もう少し踏み込んで解説してみる。
世界にはいろんな人がいる。当たり前のことだけど、このことについて踏み込んで考えてみる
分かりやすい例で言うと、俺くんが好きで、僕も好きな日本について考えてみる。
日本人って、謙虚で奥ゆかしい面がある反面、空気よめとかめんどくさいところもあるって、よく言われるけど、本当にそうなのか。
実際、そういう人ばかりじゃない。いろんなタイプな人がいる。
まず大きいところで言うと、よく比較される関東人や関西人だって全然違うって言われる。
関西人だって一筋縄じゃない。神戸、京都、大阪、尼崎だって違う。(滋賀奈良和歌山は関西人なのかという議論はひとまず置いて)、
神戸人だって全然一くくりにできない。東灘・灘区と中央区とかと、兵庫区長田区、北区、西区だって全然雰囲気が違う。(東灘区と長田区のグルメ百年戦争や、北区民西区民の俺んとこはおまえのとこよりも田舎じゃない論争などは書きたいところだけど脱線するので割愛)
その中の北区だって、新興住宅地と昔ながらの地域だと全然雰囲気が違う。
もっともっとミクロな視点になって、自分の周りだって、全然違う人で溢れてる。
僕は神戸市北区出身で神戸のとある地元企業に働いているけど、僕の周りにいる人は、ほんと様々だ。
日本人は謙虚?空気をよく読む?関西人は面白い?笑いにうるさい?神戸っこはおしゃれ?
自分勝手な人も大勢いるし、あえて空気を読まないものもちらほら、芸人みたいに面白い人なんてそうそういないし、笑いにうるさい人ってなに?そして神戸っこでありながら、ユニクロを愛し、なんか気づいたら黒一色の服装になっている僕はおしゃれではない。
ということは、日本人つったって、ものすごい量の様々なタイプの人がいる。
同じように、韓国や中国だってものすごい量の人格のバリエーションがあるって考えるのは自然な発想だよね。
そりゃあ多少地域の色は出るだろうけど、それはほんとゆるーい潜在意識レベルでつながってるもので、
笑い話の種のひとつにするなら、あるいはTV番組のネタの一つにするなら分かるけど、そのことで民族論がどうこうと論じたり、ましてや差別なんかできない。
これでも治らないレイシストのために、もう一歩だけ踏み込んで考えてみる。
さっき説明したように、中国人や韓国・朝鮮人(表現は適切?)にはいろんな人がいる。
だから、よく報道されているような、デモを起こして日本人の商店を襲撃したり、あるいは日本人を敵視して、ものすごい差別意識を持っている人ばかりじゃない
親日家で中国共産党や韓国政府のやり方に疑問を感じていいる人もいるだろうし。
政治的イデオロギーは抜きにしても、温厚な人、普段は斜に構えているけど実は優しいタイプ、どがってるけど隠れて子猫を助けてしまう奴。
いっそこんなステレオタイプに当てはめなくても、日本人に差別意識をもってなくて、付き合ったら人間と居して好きになってしまうような人。
そんな人が、朝鮮人を殺せ!なんかを含む差別的排他的デモや、各種ネットでの差別的書き込み、レイシストな俺くんの「韓国人が苦しんでいるのが愉快で仕方ない」ていう心ない言葉を見たら、ものすごく傷つくとは思わない?
日本語が、日本人にだけしか通じない言語で、翻訳不可能な言語だったら別に関係ないかもしれない。
でも実際周りには、中国韓国からの留学生・出稼ぎ、観光客で日本語が理解できる人もたくさん来ているし、ネットもみてるだろうし、とくに日本には、在日という特殊な立場の人もいる。
そういう人が見たら、ものすごく傷つく可能性がある。だからみんなそういうヘイトスピーチをしないの。
みんな表面を取り繕ってる”いい子ちゃん”だから、ヘイトスピーチしない訳じゃないんだってば。
そりゃ、領土問題とか、慰安婦問題とか、歴史問題とか、どうなんだあの国って思っている日本人も大勢居るだろうし、僕自身、むかつくって思うことは多々あるけど、
でも、不特定多数の人が傷つく可能性をあるから、みんなちゃんと考えて、腹で押さえるの。汚い言葉を。
ましてや、誰がみるか分からない公衆の面前や、ネットでの書き込みなんてしないんです。
以上、ものすごい当たり前のことつらつら、書きました。
ということで、汚い言葉を出す前に、こんな感じのこともちょっと腰を据えて考えてみれば、レイシストになんかならないと思います。
さて、本文では割愛した、神戸の北区はいかに西区よりましかということについて、これから論じ・・・・・、やっぱやめときます。
http://anond.hatelabo.jp/20130406152146
この増田を読んで思った事を書く。直接元増田への応答というわけではないが、多少関係はあるかもしれない。
世の中には「正しい事をしているのに何故嫌われるんだ」と思っている人が一定数いるように見える。
正しさというのは喧嘩のルールみたいなものである。何が揉め事があった際に、どちらの言い分をどれだけ認めるべきか、正しさポイントの多寡で決めるというシステムだ。
喧嘩のルールであって好感度に関わる項目ではないので、正しさポイントをいくら上げた所で人に好かれる訳ではない。好感度はもっと別の要素で決まってくる。だから、上記の問いは意味が無い。「正しい事をしているのに何故喧嘩に負けるんだ」なら意味のある問いになる。
さて、その立て直した問いに関連してだが、法廷など第三者が正しさをジャッジしてくれる場でないと、喧嘩のルール自体がフェアに機能しないことがある。閉鎖された人間関係の職場などはその代表で、日常的にはかなりよくある状況と言えよう。
好悪の感情が何かしらある相手に対して、正しさを公平に判断するのは、誰にとっても難しいことだ。
だからこういう場では、どうしても周りに好かれている人の方が有利になる。それでも圧倒的に正しさポイントに差があれば、嫌われ者の方が認められることもあろう。
ここからは話が二つに分かれる。
まず、喧嘩に勝つことに主眼を置いた場合。そのような閉鎖環境で勝つための方法はいくつかある。
一つは第三者を引きいれ、なるべく公平なジャッジをしてもらうこと。審判に相応しい権限を持ち、かつ関係者に対して特に好悪の感情を持っていない第三者が居れば、その人に頼むのがベストだろう。
だが、実際にはそんな都合の良い人はあまり居ないので、世の中には裁判官というそれ専門の人たちが存在する。つまり、訴訟に持ち込むのである。
もう一つは、周囲の好感度を稼いで自分不利なジャッジを避けること。好感度において喧嘩相手を上回る事が出来なくても、ある程度のラインをキープして、あとは正しさポイントを稼ぐ方に力を割く手もある。
次に、喧嘩は別に負けてもいいから嫌われたくない、という場合。
この場合、正しさについて完全に無視して良いかというと、そうとも限らない。
「もし喧嘩になった場合はどういうルールで勝負をするか、自分は理解してますよ」という周囲へのアピールは必要なのだ。
ルールが全く通じない相手と一緒にいるのは、誰だって嫌である。最低限一緒にいられるラインをクリアしなければ、好感度もへったくれもない。
とはいえ、このラインは割といい加減である。盗んだり殺したりなど、倫理的に大問題というレベルでなければ、おおよそクリアと言えよう。
あとは好感度の稼ぎ方だが、これは一筋縄ではいかない。容姿、喋り方、行動など、関連要素は多岐に渡る上、自分や相手の個性によって取るべき戦略にも差が出る。これさえやれば大丈夫、という必勝法は無い。
が、そこを敢えて乱暴にまとめてみると、以下のようになる。
A. 人は自分の味方をしてくれる人が好きである。愚痴をこぼされた時などは、自分は貴方の味方である、というスタンスを崩さずに応答すると好感度が上がるだろう。
B. 人はマイナスの感情を露わにする人が嫌いである。感情の向く先が話し相手とは無関係の他人であったとしても、怒ったり罵ったりというのは嫌われ易い。仮に正しさポイントを稼ぐために誰かを非難する必要があるような場面でも、なるべく冷静に間違いだけを指摘する方が嫌われにくい。ただし上記Aに則った場合、つまり共通の敵に向けた場合は、マイナス感情の発露が効果的な場合もある。
C. 人は自分を脅かす存在が嫌いである。何かしらの面で秀でていると、それだけで競争心の旺盛な相手には脅威と見なされてしまう事もある。これを避けるにはNo.1よりNo.2を目指すか、あるいは秀でているのとは他の面で人より劣っているのをさりげなく見せると良い。ただし、欠点が他人に迷惑をかけるレベルになると、これは別の方向で脅威になるので、その辺りはさじ加減が必要である。
D. 属性で人を語るのは地雷。場の全ての人の背景をかなり詳細に把握しているのでない限り、「○○出身の奴は××だ」というような主語の大きい言い草は危険である。いつ誰に流れ弾がヒットし、敵認定されるか分からない。場に居る当人だけでなく、その親類縁者や知人まで当たり判定に含まれる事を、常に意識しておいた方が良い。逆にこれを利用して、大きな主語で褒めるというテクニックもあるが、これは次項のEに引っ掛かる場合がある。
E. 依怙贔屓も地雷。相手によって態度を変えるのは、基本的に信用を落とす行為である。魅力的な異性にも、不愉快な上司にも、同じような(できれば爽やかな)態度で接するのが理想であろう。
F. 自分が嫌った相手からは嫌われる。多くの人は相手の感情を読みとるのに長けている。自分が相手に悪感情を持っている事は、たとえ互いの意識に登ることはなくても、伝わるものと思っておくべきだろう。逆も言えて、好かれるためにはまず好くのが早道だ。心底嫌いな相手にそのように接するのは難しいが、せめてニュートラルな相手に対しては、「自分はこの人が割と好きである」と自己暗示をかけて臨むのが良い。
以上、あくまで個人の経験に基づく主観的見解を書いてみたが、後半は正しさとは無関係な内容になってしまった。
指摘があったように、「参加者が張り合う」のが苦手。
それが自分のことではないのに(子供のことなのに)さも自分の手柄かのように話されても、
ひどくうんざりするだけだなぁ。
かつて「彼氏自慢」「旦那自慢」をしていた人たちなのかなとも思う。
別にその人たちをどうこうするつもりはなくて、まぁ合わないんだなと思った次第です。
大人になってからの新しい交友関係の構築は一筋縄ではいかないですね。
新しい交友関係を築くにあたり、探りを入れるときに、例えば育児関係なら「いやぁ、こないだ子供が夜通し愚図りまして」みたいな、愚痴のようなことから入って、次第に距離をつめていくもんだというのが頭にあったもので、
そういう、距離感の同じ人にもし出会えたらいいなと思いますが、こういうのはなかなか難しいんだろうなあ。
どうもありがとうございました。