はてなキーワード: サポート校とは
全日制高校(偏差値30台)に行くか支援学校の高等部に行くか迷っているとのことで、
「支援学校は就職に強いよ! 実習も充実してるし卒業後大きな会社でバリバリ働いてる人も多いよ!」
と言っておいた
実際のところ、軽度知的障害や知的ボーダーの中学3年生って進路にすごく悩むんだろうな(本人も親も)
傍目から見れば、将来の就職や福祉のレールへの乗りやすさを考えると支援学校がベターなんじゃないかと思うんだけど、「障害者」になるというか「みんな」や「普通」から外れることへの覚悟は大変だと思うし
あるいは通信制の高校に籍をおきつつ、サポート校や習い事などで得意なことを伸ばすという選択肢がある子もいるかもしれない
まあ一つ言えるのは、人間いつ「障害」を負って「普通」から外れるか分からないんだから、そういうラベルにこだわりすぎずに本人が一番生きやすくなりそうな進路を選ぶのが一番だよなってことかねぇ
「通信制高校」に通ったのに「高卒認定試験」を受けたのか。通信制の大学入学サポート校を高校と勘違いした? 少し不自然な気がする。
「頭も要領も悪い」兄が、地元専門学校から関東の理容室に就職し独立するように親は支援したのか? それとも関東の専門学校に進学させたのか?
就職したての理容師は薄給だが、独立はできていたのか。親の支援は必要なかったのか。
その後、国立とは言え地元を離れて「私」も大学進学をしさらに現在は大学院にまで進学しているようだが、「田舎の何もない町で貧しい家で育った私と兄」という設定の割に、理解もありお金に余裕もある親に見えるがそれはどうなのか?
「田舎の何もない町で貧しい」親で「仕事柄精神疾患に理解がある」という設定もよく分からないのだが、一体何の仕事をしている設定なのか。そして、現在まだ職についているわけでもなく、これから就職活動をする身で、まだ現役で働いて養ってもらっている親の死後の兄の身の上を心配している、という設定もよく分からないのだが、まず自分がそれなりにしっかり稼げる職に就けるかどうかを心配する方が自然なのではないか?
1:学費が安い
私立の通信高校だと本校に10.20万?サポート校に50万円位毎年取られると思います。二重払いです
2:校舎が良い
私立の方が良いと思われがちですが
私立通信は○○学校○○サポート校となっており雑貨ビルのワンフロアのワン部屋だと思います
公立通信はビルの5階位、例えば5階から10階みたいな感じで中々広くて良いです
それはロクに調べもせず通信高校に進学してしまうからだと思います
自分の県の通信制高校を一度調べてみてください多分公立通信高校があるので
多少離れていてもトータル安いです。
徐々に学校に行けなくなってきた。
通信制高校を今年の春に卒業したのはいいものの、体調が優れずに進路選択ができなかったので今も通信制高校の時にお世話になっていたサポート校に通学しているのだけれど、
なんだか通学するのがつらい。理由は体調的にきつい。ほぼ毎日吐き気、だるさ、疲れで起きれず1週間も休んでしまった。
先週内科に行ったけれど問題なし。飲んでいる精神科の薬が原因だそうだ。
本来であれば週3回通学しているはずなのにまたうまくいかなくなってきたのかと不安になってきた。
今は、月1回精神科に通院、2週に1度はとある大学へ行ってカウンセリングを受けている。
精神科の通院は中学時代からしているが、何度も病院を変えている。ようやくついた診断は離人症。確かに何も感じない、現実感のない毎日を過ごしている。
母親に「尻すぼみ」と言われる。
スタートダッシュはよくてもゴールまでたどり着かない。バッドエンド。
素敵な部下との出会い。
素敵な異性。
愛するということ。
中谷彰宏。
発達障害。
斉藤芳の
加藤諦三。
英語。技術。プログラミング。サーバー管理。bash, vimのコマンドを覚える。R。
仕事、進学先、信頼。知識。
学習塾。サポート校。結婚式の配膳。コンピュータ、IT系の職場。
が話題になっているようです。書いてあることそのものには賛成ですが、だからといって、ちきりんのいうことに意味がないとは思えません。
院卒で地方都市の高校というと、トップクラスの高校で教えてるんじゃないでしょうか?自分も理系院卒です。他の院生は高校教育に関わったとしても、トップクラスの塾・高校で教えている人間が多かったのですが、自分は、普通の高校に通えない生徒が通う通信制高校サポート校のスタッフなどをしていました。現在は文系・理系ともにある中堅総合大学で教員をしながら、研究プロジェクトで高校教育の現場にも顔を出しています(ただし、教育そのものは専門ではありません)。偏差値で言うと学部によって50を超えるところと下回るところがある程度です。その世代の高校卒業者の平均に近いのではないかと思います。
その立場から言わせてもらうと、「ちきりんの言っていることには、たしかに間違いが含まれていて、突っ込みたくなる気持ちは分かるが、全体としてはちきりんに賛成」です。
今の高校の理科教育ははっきり言って機能していなません。大学の理系の授業で、必須科目、「理科総合A」の内容を前提にすることはできません。中学理科もかなり微妙ですが、キーワードくらいなら覚えていることが多いです。授業なんか聞いてないか、聞いていても覚えていない。自分は高校の教育課程を把握しているので「この内容は、高校の必須なんだけど、覚えているかな?」などと良く振るのですが、「え?なにそれ、名前すら覚えていない」という反応が多いです。彼らは、教えれば少なくともその場では理解できて、小テストに正しい答えを書く程度の理解力を持っているし、受験で使った科目や、中学理科の内容であれば、覚えていることが多いです。だけど、高校の授業について全く覚えていない。おそらく聞いていないか、かりに聞いていたとしても、小学校・中学校の理科の比べてずっと定着率が低いようなのです。
「技術立国のために科学教育が大事」とかいうけど、あたしにいくら科学教育を与えても、技術立国には一歩たりとも近づきません。
ただし、理科教育といっても、物理と生物は大きく違うし、物理の中の分野でも「この分野は得意だけど、他は興味ない」という人もいるだろうから、「生物だけは特進クラスで学ぶ」みたいに細かく分野で分ければいいと思います。
そういう現状から言うと、ちきりんの上の意見には賛成するしかありません。たしかに、そうではない「理想の理科教育」を語るの自由です。でも、文句あるなら、そうじゃないような理科教育を実現してから言えよ。現状の理科教育では、ちきりんの言うことを受け入れるしかないじゃん。っていうのが、自分の意見です。
残りの 7割の人には、今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)「生活するために必要な科学知識」を教えてほしいです。
そこで批判されていた上の部分ですが。たしかに、批判する意見ももっともで、それに対しては何一つ再反論するつもりはありません。つまり、「生活するために必要な科学知識」と理論教育は矛盾するものではないという反論には全面的に賛成です。何より、自分が大学でやっている授業の大部分(1、2年次の基礎教育に関係するもの)は、まさに、「生活するために必要な科学知識」としての理論科学を教えるものであり、自分もそれを実践しているという自負があります。
でも、ちきりんの上の文章にはものすごくうなずいてしまいます。命題としての正しさとは関係なく、「そのように多くの人が考えてしまうような現状がある」と思うからです。
自分の授業では、しゃべっていて、反応が悪いと、その場で別の資料を出してきて、良い反応が返ってくるまで、同じ内容を繰り返し説明し続けます。カリキュラムを大幅に変更することも珍しくありません。それこそ、ちきりんが例に出したような日常の話、ニュース、芸能・・・話の引き出しをいろいろ引き出しとして持っていて、興味をもたせられるように話すわけです。ライブパフォーマンスとして授業をするように心がけています。だけど、自分が学生のときの感覚で言うと、きちんと学生の反応を見ている先生とそうじゃない先生は半々くらいかなというきがします。そして、多くの人は同意してくれると思いますが、実際問題大部分の授業は受ける側に立ってみるとつまらないです。自分だっていろいろ努力はしていますが、つまらないと思っている学生もいると思います。
科学教育に関して言うと、「聞き手の興味を持たせる」ことは、「生活するために必要な科学知識」を教えることとかなり一致します。しかし、これは一筋縄ではいかない難しいことだし、今の日本の教員には、これが得意ではない人間が多いというのは、紛うことがなき現実ではないかと思います。この現状で、
って言うのは当然の反応です。
自分はこれとほぼ同じことを塾の生徒、高校の生徒、大学の学生・・・に何度も言われました。なので、これはちきりんの特殊な意見として見るのではなく、学生・生徒たちの率直な意見として受け止めてほしいというのが、科学教育に携わってきた自分からの切実なお願いします。
もちろん、だからといって、「今教えられてる内容に替えて(=その時間を使って)」を教える必要はありません。今教えている内容を、「生活するために必要な科学知識」でもあることを強調するする形に変えるべきということです。これは、科学教育に携わる人間が常に取り組んでいかないといけない課題です。そして、これは今まで自分が教員としてやってきたことだし、ちきりんに対して反論していたバッタさんの意見とも一致すると思います。
他の人も言っていましたが、自分はちきりんの意見とそれに対する反論を見ていて、「これはないな」と思いました。議論が噛み合っていない。ブログに書いたことに、論理上の粗があるのは当然です。そういったことについては、作者にメールするなり、コメントするなり、あるいは別エントリーを立てるなりして、ブラッシュアップしていけば良いことです。こういうのは、普通の社会人、あるいは研究者なら普段、仕事上行っていることと同じだと思います。でも、ネットだと「議論をより良いものにするために意見を言う」ということができない人が多い。
科学を愛する者、科学に生涯を捧げた者が古今東西多数いることを知らないわけでもなかろうに、科学に対する冒涜と取られかねないような表現を用いるのは、売文屋、自己啓発屋として作戦ミスだと思います。いわゆる「炎上商法」「釣り」のつもりなのかも知れませんが。
アクセスを稼ぐためなのか、小さな問題でも、相手の議論の全部を否定したり、場合によっては、人格まで否定するようなことを書く人が多いです。そして、そのために、ネット上の議論の多くが、無駄なものになってしまっていることは、大変残念なことだと思います。
「また、あいつか、叩いてやろう」と思ってエントリーを書いたときは、「もしかして、このエントリーがネットの言論空間をダメにしているかもしれない」ということに想像力を働かせてもらえると幸いです。