はてなキーワード: 菜食主義者とは
(追記)
もう今更読む人も少ないかもしれないが、いくつかコメントをもらったので返信する。
コメント自体を引用した方がいいのは分かっているが、面倒なのである程度類型化して返答する。
・君は全くヴィーガンじゃないよね
そうです。肉も乳製品も摂っているので似非ヴィーガンというのもおこがましいかもしれません。
私はヴィーガンどころか様々な菜食主義者の範疇の大体から外れるものだと思っています。
タイトルに「ヴィーガン」の文字を入れたのはインパクト重視です。
ただ私は畜産のサステナビリティを重視しており、この観点から言えば
肉食をやめなくても減らせば減らすほど意義があるとは思っており、
私は生活スタイルや経済状況の許す範囲で消費を減らすようにしています。
ヴィーガンと肉食のどちらが健康か(もしくはどちらでも健康維持は可能か)という
未だに様々な研究がなされている内容に対して一人の意見を聞いて信じること自体が危険ということです。
顕名の方が自らのキャリアに対して責任を負った発言をする動機が生じるため、信頼性は高いとは思っています。
あと何故か「匿名の栄養士を批判している」ならば「顕名のヴィーガンのインフルエンサーを支持している」というロジックが
成り立つと考えている方もいましたが、私はあのインフルエンサーのことは知りませんでしたし、
元記事での言動は断定的で、対話を拒絶するような印象を受け、全く支持していません。
「3の論点は個人の価値観に依存する面が大きいので、ある程度自由に選んでいいとは思う。」
と書いたのに引っ掛かりを覚える人が多かったようです。言葉少なですいません。
ここで言いたかったのは
「そもそも健康の追求は個人的な幸福追求の一つの側面でしかないため、それをどれほど重視するのかは個人の自由である」
ということです。
つまり(そもそもヴィーガンが肉食よりも健康かどうか自体不明なことですが)
仮にヴィーガンの方が健康であったとしても、食べる喜びや畜産業界への思い入れなどの理由で
健康よりも肉食を重視するという選択は当然あり得、その選択はかなりの程度個人に委ねられているということです
(例えば酒とかタバコを長期的な健康を害することを知っていても飲む人がいるように)。
(注:他の2つの論点も勿論考えなくてはならない義務があるということではない。
ただ、ヴィーガンを検討するのであれば他の2つの論点はそれに対する態度を表明する必要性が高い(と私が考える)のに対し、
3の論点は、ヴィーガンの検討において重要な判断基準とはなるものの、取り立ててそれに対する立場を表明する必要性が薄いということ。)
(追記終わり)
はてなブックマークのトップを見たら、ヴィーガン関連の記事がトップに上がっていた。
https://locafra.com/2021/02/27/anatanoketsudan/
この記事はヴィーガン的な価値観とそうでない価値観を検討して、
こう要約すればありがちな記事で、探せば類似の記事も容易に見つけられるだろう。
ただこの記事の特色としては畜産の現場まで行き、そこで短期間ではあれ働いたレポートを含んでいる点で、
労作であると思うし、実地に行かなくては得られない知見も含まれている。
しかし私はこの記事はヴィーガンを検討するという意味では良いものではないと考える。
こんな面もある、こんな面もある、とばらばらと提示するばかりで、
何を犠牲にし、何を選び取るかを明確にしないまま、最終決定をしているからだ。
具体的に言うと、当該記事でも扱われていたが、ヴィーガン関連でよく論点となるのは以下の3つだろう。
2.畜産は環境負荷が過大で、持続可能性がない(サステナビリティ、食糧問題)
で、ヴィーガンを検討するというのであれば、少なくともこれらの論点に対してどのような立場をとるのかを明示すべきだろう。
(注:ヴィーガンを批判するときに、アニマルウェルフェアのみに反論して論破したつもりになっている人が
未だに散見されるが、さすがに時代遅れなので価値観をアップデートした方がいい。)
1の論点であれば、例えば
このときにヴィーガンを選ばない(もしくは肉食を減らさない)ということは、
ある程度動物に苦痛や犠牲がでるのは仕方がないという判断をすることだ。
結局、自らがそのように苦悩したことが贖罪にでもなるかのように、
「アニマルウェルフェアには反するかもしれないが、○○という理由で肉を食べる」
と言うべきではないか。
(注:私は誰もがこのように自らのあらゆる行動の理由を説明できるべきだと考えているわけではない。
あくまでもヴィーガンを検討するというのであれば、この点に関して立場を明らかにするのは必要だということ。)
アニマルウェルフェアに気づいていないなら仕方がないかもしれないが、
筆者はアニマルウェルフェアに触れておきながら最終的な結論を言明しないのだ
(害獣や害虫を殺すのと並列して肉を食べるのも仕方がないかのように言っているが、
これは欺瞞ではないだろうか。
2の論点であれば、
・地下水の枯渇や森林伐採による砂漠化や温室効果ガスによる気候変動を考慮すべきでないか
(注:農耕地の大部分は家畜の飼料栽培のために費やされている。家畜の排せつ物やゲップが温室効果ガスを生みだす。
3の論点は個人の価値観に依存する面が大きいので、ある程度自由に選んでいいとは思う。
「論点をごちゃごちゃにして丸めたら、なんだか分からないがヴィーガンにはならないという結論ができました」
という個人の感想程度のもので、読んで共感や反感を抱く程度ならいいが、
これをヴィーガンの価値観の判断に用いるのは知的でないと思う。
・元記事のブクマの上位に良識派みたいな、(知的でない)よくわからんコメントが並んでいるのには正直苦笑した。
・名前も伏せてある一人の栄養士の意見を信じるのは普通に危険では。
・畜産のサステナビリティについては映画『カウスピラシー』がプロパガンダ映画っぽくはあるけど
とりあえず最低限の知識を図示しながら説明してくれるのでいいと思う。ネットフリックスで観られる。
・私はヴィーガンではないがもっぱら自炊はヴィーガン基準で作っている。
メリットとしては乾燥豆や豆腐は安いので、食費が安くなったこと、
肉を使わないのでいちいちまな板を洗わなくていいことがある。
・肉を日常的に食べている人にとってはヴィーガンはあまりに不可能に見えて、
しかし意外に難しくはないので、縛りプレイぐらいの気分で一週間でもやってみるといいと思う。
私も最初はヴィーガンは何となく意識高くてキモいと思っていたが、
試しにやってみるとそんなに大袈裟なものでなく、大抵の人にとってはやろうと思えばできる程度のものだ。
・肉食をやめるというとあれも食べられない、これも食べられないと失うものばかり考えてしまうかもしれないが、
菜食には菜食の面白さがあるので是非一度は試してみてほしい。
・インド料理は野菜、豆料理で美味いものが色々とあるのでおすすめ。
私はもともとインド料理をよく作っていたので、菜食に抵抗が薄かったのかもしれない。
どれくらいそれらを摂っているかというと、筋トレをしているので日に2回飲むホエイプロテイン、
サイゼリヤ(週に5回は行っている)に行くときに頼むチキンとブロッコリーのサラダとミラノ風ドリア、
たまにワインのつまみに買うチーズと鶏肉系のテイクアウトぐらい。
というわけで、割と食べているんだけども、大抵の人よりは少ないと思う。
でもどう考えてもヴィーガンではないので、特に菜食主義者を自称もしていない。
・半年以上、ヴィーガンスタイルの食生活(ただし一部のサプリは摂った)で生活したが、
特に不調はなかった。現在、上に書いたように肉や乳製品を摂っているのは、
生活スタイル上、一食は外食になるのと、筋トレをしているので安価にたんぱく質を摂るため。
ワインのつまみに関しては完全に嗜好品だが、最近ワインを飲み始めたので食べ物との相性を
見るために食べているという感じで、今後も食べ続けるかは分からない。
・ヴィーガン的な食生活をしていたときも、今も特に肉をどうしても食べたいと思ったことはない。
食べれば普通に美味いと感じるが、それだけ。その後も尾を引いて食べたくなるということはない。
ただサシの入ったような脂の多い肉は少し受け付けにくくなった。ただの加齢による嗜好の変化かもしれないが。
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html
遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
面白いと言っていただきありがとうございます。
他の視点もというのはもちろんその通りなんですが、菜食主義者からの肉食批判のメインは倫理(動物がかわいそうというのも倫理の問題です)なので、やはり倫理的な観点からの肉食擁護は必要でしょう。
宗教や伝統の話をしたら、神が人間に動物を与えたとか、今まで食べてきたからこれからも食べて良いとかになるし、生物の話をしたら健康のためには動物性タンパク質が必要だになるし。
倫理について批判してる相手への返答としてそれらを出しても、お互い明後日の方を向いて話をするだけで意味が無いでしょうね。
倫理以外のもう一つ大きい論点は環境問題や人口を賄うなど持続可能性でしょうか。
こちらについてはよく知らないので、もしお暇があれば追加してもらえると嬉しいです。
菜食主義・ベジタリアン・ヴィーガンの議論(直近だと anond:20201226231316 に対するコメントとか)において、特に肉食側からの倫理的な議論が少ないように思えるので、簡単ではあるが、倫理的な観点からの肉食擁護を書いてみたい。
私はあくまで素人であり、以下の文章は個人の見解以外の何物でもないことは最初に断っておく。
肉食を倫理的観点から批判する際の最も大きな論点は「種差別」である。種差別とは、「単に種が違うからという理由だけで、ヒトとそれ以外の動物を差別すること」である。肉食が相手の"命"を奪う行為であることは万人が認めるだろう。また人間同士では相手の"命"を奪う行為に大きな制限をかけるべきであるということも大多数は認めるだろう。であれば、「"命"を奪うことについて、相手が人間以外の動物だからという理由で人間と同じだけの制限をかけないのは差別である」というのが種差別の考え方である。
この考え方は性差別や人種差別の形式と近い。例えば、男性の利益を"男性だから"という理由で優先して、女性には"女性だから"という理由で配慮しないことや、白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しないことは現在では大多数の人が差別であることを受け入れている。同じ用に、人間の利益を"人間だから"という理由で優先して、人間以外の動物には"人間以外の動物だから"という理由で配慮しないことは差別であるというのが主張になる。
一方で、関係する全員に対して平等な考えに基づいた適切な理由によって、ある存在と別の存在の取り扱いを変えることは差別ではなく、倫理的に問題はない(※ここでいう差別とは”不公正な扱い”を意味しており”不平等な扱い”ではない)ことも重要である。「菜食主義者だって植物の"命"を奪っているじゃないか!」という批判はよくあるが、多くの菜食主義者は"苦痛を感じる能力(sentient)"の有無を理由にして動物と植物を区別しておりそこに倫理的な問題はないと考えている。(なお、植物本体を傷つけない果実のみを食べるフルータリアンはこの点で他の菜食主義者を批判する)
このように倫理的な観点から肉食を擁護するためには、人間が動物を食べることについて、すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由を検討して採用する必要がある。
すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由を検討といっても、何から手を付ければよいのかは難しい。考え方はいくつもあるが、ここでは、伊勢田の「動物からの倫理学入門(2008)」の議論を元に進めていく。余談だが、この本は倫理学の入門書としてはかなりオススメである。タイトルからは菜食主義の本のように思えるがそうではなく、各主張を紹介した上で応用の一つとしてそれを動物に当てはめるとどうなるかを検討している。また、伊勢田自身は菜食主義者ではないとのこと。
伊勢田はこの本で下記のように主張している。
④認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)
これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける
(p320 終-3 結局動物とどう接すればよいのか)
「①~⑤を認めると動物に危害を加えてはならない」ことが正しいとすると、肉食を擁護するためには少なくとも1つを削除する必要がある。それは①~⑤のどれにすべきだろうか?
普遍化可能とは、簡単に言えば"ある状況である倫理判断を善いとするなら、同じような他の状況でも同じ倫理判断を善いとしなければならない"ということである。例えば、私が借金を貸す側のときに「借金を返さないことは悪いことだ」と言うならば、借りる側のときも同様に「借金を返さないことは悪いことだ」と言わなければならない。
これを削除すると、多くの倫理判断や社会のルールが無効化されてしまう。例えば、貸し手のときは「借金を返さないとダメ」と言いながら、借り手のときは「返さなくても問題ない」と言えてしまう。こうなると強者が弱者を思い通りにできる(少なくとも倫理の観点から批判することは出来ない)社会になるが、それを良いとする人は少ないだろう。また「人間と動物はお互いを殺してよいし、両者ともそれに抵抗してもよい」という方向で普遍化することも可能だが、それでは「人間は人間を殺してもよい」を否定する理由が難しい。
(双子を除いて)完全に同じ遺伝子を持つ人間がいない以上、遺伝的差異を差別の理由とするのは難しい。例えば肌の色を黒くする遺伝子を持つから差別していいとは多くの人は賛成しないだろう。生物学的種を考えて、交配して子孫を残すことが可能かという観点で区別するという主張はあるかもしれない。だが種差別の議論を考えると、交配の可否を"なぜ"差別の理由としてよいかを説明することは非常に難しい。また、(進化論を認めれば)すべての生物は連続しているので、AとB、BとCは交配可能だがAとCは交配不可というA, B, Cが絶滅種も含めれば必ず存在する。Aの立場で考えて、Aと交配可能なBは差別してはいけないが、差別してはいけないBと交配可能なCは差別して良いとするのはルールとしての一貫性を欠くだろう。
確かに、例えば未来の概念や愛の概念の有無などによってその苦しみの程度は異なるだろうし、動物の権利を主張する人たちも犬と人間が溺れていた場合に、より苦しみが大きいであろう人間を優先して助けることを否定するわけではない。しかし、多くの動物が少なくとも痛みや苦しみを感じる(sentient)ことは事実であり否定はできない。
先にも書いたように、多くの菜食主義者はこの③について、「脳を持たない植物(主張によっては一部の貝なども含む)は人間を含む動物と同じようには苦しみを感じない」として植物と動物を区別し、植物を食べることに問題ないと考えている。「植物も実は苦痛を感じているかもしれないじゃないか」というのもよくある批判だが、これはあまり意味のある問いではない。確かに植物も苦痛を感じている"かもしれない"が、動物は"明らかに"苦痛を感じている。何かを判断するときに、よくわからないことが1%あるから残りの明らかな99%も無視して良いとはならない。また、将来もし植物が"苦痛"を感じることが明らかになった場合は、菜食主義者の多くはフルータリアンなどに態度を改めるだろう。
これも事実であり否定はできない。人間の知能を動物の知能と直接比較すること(牛は人間でいうと何歳程度の知能か?など)はほぼ不可能であるが、それでも例えば0歳児や重度痴呆症、ある種の知的障害者などの限界事例の人たちと比較して牛や豚や鳥のほうが"賢い"と考えることは大きく間違っているとは言えないだろう。
③に関係して、動物も人間と同じ用に苦しむのは事実だが、動物を苦しめずに殺すことは問題にならないと主張できるかもしれない。未来の概念がなければ生活計画を持たずにその時だけを生きているので、殺害して未来を奪うこと自体は倫理的に問題がなく、苦痛を与えることだけが問題であるという主張である。また、④に関係して、認知能力や契約能力などの"賢さ"によって人間と動物を区別でき、"賢くない"動物は殺しても良いと主張できるかもしれない。
しかし、これらの主張からは、未来の概念がない人間や"賢く"ない人間=限界事例の人たちを殺しても良いという主張が直接的に導かれてしまう。もし、限界事例の人たちを殺すのは良くないと考えるならば、その根拠は人権であろう。であればこれを否定することも難しい。そして限界事例の人たちに人権を認めるなら、動物たちに「人権」を認めないとするのは一貫性に欠ける。
以上のように①~⑤を検討してきたが、どれも削除するのはなかなか大変そうだ。「現代の代表的な倫理学者で動物の問題について発言している人はほぼ例外なく動物が直接の配慮の対象になるべきだという立場である(伊勢田, 2008)」というのもよく分かる。
しかし、倫理的な観点から肉食を擁護するためにはどれかを削除する必要がある。私は差別者であるという批判を受けることは承知の上で、⑤を削除することを提案したい。
漁業の環境への影響は無論知ってるが、水産物を食うこと、牛豚を食うことどちらが環境に悪いかは知らないな。環境に悪影響を及ぼさない範囲での適正な漁獲量に関して科学的な予測をつけるのは難しいってのが現時点での結論だと俺は思ってるから、この問題はなんとも言えない(養殖の話は面倒だから自分で調べてくれ)。肉魚どちらの方が良いかとは一概には言えないとわかった上で、個人的には牛を減らして魚を食った方がいいと思ってる。魚種別にもまた色々あるから増田では書ききれないわ。
そこで疑問を持つなら自分で考えて自分で調べてみて欲しいよ。その上でもう一度俺を批判してくれ。
いや、最悪の環境破壊は農業そのものだぞ。() コメなんか本来は熱帯の植物だし。その守るべき[地球環境]ってのは結局、「人類にとって都合の良い地球」な訳だ。その前提からの逆算にしようぜ……。
飼料って知ってる?
ってのはさておき、君はどうしたら良いと思うのか述べて欲しいね。環境に関していかなる配慮も必要ないと思う人とは議論の余地もないが。
もっと魚を食うべきってのは、栄養面での話が大きいかな。「菜食はかえって不健康」なの同様に、肉過多の食生活と肥満は現代人の健康を蝕んでるからな。がんを含む生活習慣病のリスクがクソ上がるという研究もある。是非知識を持った上でヴィーガン叩きに興じて欲しい。
このままだと人口増による食料不足は確定的だから、畜産みたいな非効率な生産方法は何れにせよ減ってくんじゃないかと思う。肉の価格は高騰するし、代替肉生産技術の発展は俺たちミートイーターにとっても必要なことだ。菜食主義者のおかげでまっずい精進料理擬きが本物の肉に近付いてくれるならありがたいことこの上ない。
ヴィーガンになった動機がなんであれ、菜食は地球環境に比較的良い生き方だというのは認めて貰えると思う。動物愛護の精神は間違った考え、邪教の一種だと思うなら叩けばいいんじゃね。
「肉は食いたいけど牛や豚が可哀想だから食べない」というのは矛盾してないし、己の良心に従った立派な行動だと思うよ。知能がある動物だからこそ出来る優れた行動だと思う。俺は優れてないから肉を食うが。
叩く以上必要最低限の知識を持って欲しいというのが増田の1番言いたいことだ。
以下追記前
「大豆ミート食べるってことは肉が食べたいってことじゃん」みたいなこと言う奴なんなんだ
・日本人は動物性タンパク質を肉より魚から取ることを意識すべき
みたいなことは既にいくつもの論文で示されてる科学的事実なわけで
全くもって肉食をやめるのは健康に良くないかもしれないが、少なくとも今より肉食を減らすことは環境にも健康にも良いことなわけじゃん
そこでドヤ顔で「ほんとは肉食べたいんじゃん」ってただの馬鹿じゃないか
最近の人間なら、散々環境問題について学校で教えられるはずなのになんで何も知らないんだ
論理的な俺たちと感情的で動物愛護の意識高い系みたいな対比で語るが無理があるだろ
俺は普通に肉を食うけど、菜食主義者は増えて欲しい。せっかく地球のためだか動物のためだから知らないが菜食主義になってくれてる珍奇な奴がいるんだからほっときゃいい
差別が無くなった地球。それは、人類が平和の種である事の象徴だと思う。
今この世の中は人種差別、性差別、身分差別、障がい者差別など、多くの問題を抱えている。
しかし、「差別を無くそう」と声高に主張する者たちへ、私は伝えたいことがある。
途中で読むのをやめず、どうか最後まで聞いてほしい。
あなた達は、生物を食していないだろうか?主に、牛や豚や鶏などの「家畜」を。
この世には、「人権」という言葉がある。それと共に「種差別」という言葉もある。種差別とは、人間中心主義に異議を唱えたものだ。
牛や豚や鶏が狭い小屋で無理やり繁殖させられ、若いうちに殺され、そして私達の食卓へ並ぶ。彼らの命はその繰り返しであり、更にその扱いは己の身に置き換えると想像もしたくないような残酷さであることはご存じだろうか。
もしかしたら存じた上でヴィーガン(完全菜食主義者)になった者もいるかもしれないが、じゃあ寝ている間に、人間の口と知らずに入ってきた虫を無残に噛み潰していないと、証明することはできるか?
私達が生きるのに生物が犠牲になるのは可哀想だけど、弱肉強食の世界では仕方がない、そんな声も聞こえてくる。
話は変わるが、世界の、主にインドには、ジャイナ教と言う宗教を信じている者がいる。その修行者は非常に厳しい禁戒を守って生活をする。
その中の一つが「生きものを傷つけないこと」だ。
彼らは、あらゆるものに命が宿っているとし、生物はもちろん、植物や火や風などにも命を見出している。
行いは徹底しており、目に見えない微生物や虫を吸い込んで殺すことが無いよう、常にマスクをしている。
自分が動物に襲われても、決して動物を傷つけるようなことはせず、心から信じる教えを守る為に死を覚悟する。
ある時、飲み水の中にも微生物がいると知ったジャイナ教徒がその微生物を殺すくらいならと、衰弱死を選んだという逸話がある。
彼らの話を聞いてあなたはどう思っただろうか。少なくとも「自分と違う」と思ったのではないだろうか。
ところで、みんなの信じている「人権」というものはどこから生まれたのだろう。
人類が誕生した頃にはまだ無かった。そして、科学実験で見つかったものでもない。そう、人権とは、いつの間にか人間が作り出していた物語だ。
さあ、ジャイナ教徒の信じる教えと、私達の信じる人権に大きな共通点が見つかった。どちらも「フィクション」なのである。
ジャイナ教徒から「あなたは水を飲むので生物を差別しています」と言われたとして、何か言い返しても、それは不毛な争いなのだ。
私たちは、フィクションを心の底から信じ、フィクションを守る為に戦っている。
そして新たなフィクション「差別のない世界」を作ろうとしている事は、受け入れられずとも知っておいた方が良い。
あなたは、夢に近付く努力をしているだろうか?「俺はビートルズのようになるんだ」とデカい事を言うだけで、曲を一曲も書かない自称ミュージシャンにはなってはいないだろうか?
勿論、夢を語るのは悪いことではない。「俺はビートルズのようになるんだ」なんていくらでも言って構わない。
しかし、本当にビートルズになりたければ、まずするべきことは曲を作ることだろう。
もしあなたが本当に差別を無くしたいのなら、その為にまずするべきことは、目の前の人を思いやる事ではないか。
自称ミュージシャンは、曲さえ作ればビートルズを超えられる可能性だってある。
今あなたが目の前の人を思いやれば、いつの間にか差別という言葉が消え、それは未来で遠い過去の化石として発掘され、未来人の頭を悩ます不思議な概念になっているかもしれない。
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必要だと思ったので補足
結論から先に書いてしまえば、楽に調理を済ませたい方には向かない食材です。
自分の調理技術を上達させたいという方には向いている食材です。
自分がどちらのタイプか? という事を考えて選べば良いと思います。
以下は長い蛇足です。
鶏むね肉は肉類の中では水分が多く比較的脂質も少ない食材で、それ故に加熱調理によって水分が失われるとパサッとした食感になってしまいがちです。
それ故に初心者には向かない食材ではないか? という声があるのは理解できます。
単に焼く、炒めるといった調理法であれば鶏肉であればもも肉、豚や牛であればバラ肉といった脂質の多い部位の方が楽でしょう。
まず加熱時に多く脂が出るので焦げ付きにくいという点があります。
これは初めてフライパンを持ったという様な方にはとても有利な点だと思います。(火力が強すぎると火事の恐れがありますが)
また加熱しながら塩コショウや焼き肉のタレなどで味付けするだけでも、ご飯のおかずになるだけのしっかりした味になります。
脂自体が味覚を刺激するので、それほどしっかりした味付けをする必要が無いからです。
楽に調理を済ませるという点で考えると鶏むね肉よりも、脂質の多い部位の肉類が向いていると言えるでしょう。
では鶏むね肉は料理初心者にはオススメできない食材でしょうか?
私はその方の料理に対するモチベーション次第という面があると思います。
とにかく楽に調理を済ませたい、簡単に済ませられたらそれで良いという方には鶏むね肉は向かない食材でしょう。
コストの面を考えて鶏むね肉を選ぶとしても、すでに調理済みの商品や味付けされた商品を購入した方が良いと思います。
鶏むね肉を美味しく調理するのはさほど難しい事ではありませんが、それなりに手間はかける必要はあります。
当然ながらその手間を惜しめば、多くの場合、あまり食べたくない様な料理が出来上がってしまいます。
逆に言えばそういった手間、つまり切り方や下味の付け方、肉への火の通し方、揚げ物であれば衣の付け方といった肉類の基本的な調理法を覚えるには良い教材なのです。
グラム単価で考えれば肉類の中でも突出して安いという点も優秀な教材と言えるでしょう。
お店にもよるのでしょうが、鶏もも肉の半額くらいで販売されているケースが多いのではないかと思います。
食材の値段が安いという事は、それだけ新しいレシピへの挑戦のコストを下げるという事でもあります。
たとえ失敗したとしてもです。
例えば、自宅勤務が増えて家にいる時間が増えたから、これを機に料理を覚えて家族や恋人を驚かせてやろうといった考えの方が居たとします。
私はそういった方には鶏むね肉を使ったレシピをどんどん作る事をオススメします。
最初は単に焼く、茹でる、蒸すといったシンプルなものから、次に初心者の関門の一つ揚げ物を、さらには火の通し方や下拵えに一工夫が必要になる煮込み料理、といった順番が妥当でしょうか。
その上で下拵えを一通り学んだ上で焼く、茹でる、蒸すといった調理を行うとどう変わるかという体験を得られるところにまで至れば、その方は鶏肉料理に関してはかなり上手になっているはずです。
そしてその段階までくれば他の肉類を使った料理もそれなりに作れる様になっているでしょう。
なぜなら下拵えを重視する必要がある鶏むね肉のレシピは、他の肉類の調理にも応用が効く場合が多いからです。
たとえ脂質の多い部位の肉であっても、下拵えをちゃんとやった方が美味しいです。
10年近く菜食主義者だった、オーストラリア・ビクトリア州在住のタミ・ジョナスさん(49)。ハンバーガーを一個食べてしまったことが原因で、肉の味に心を奪われてしまい、肉食から抜け出せなくなったといいます。
動物たちが牧場でどのような扱いを受けているのかを知って、大きくショックを受けたジョナスさん。その後10年近くもベジタリアンとしての生活を続けていました。しかし30代で3人目となる子どもを妊娠した際に、深刻な貧血を引き起こしてしまいます。それで仕事終わりに久々に肉の入ったハンバーガーを食べた彼女。その一口で肉の味に病みつきになってしまいました。「すごくいい気分になって、身体が必要としていたものを摂取して健康になっていくのを感じた」と当時を思い起こしています。
この出来事をきっかけにジョナスさんは肉食を解禁、それどころか牧場経営や精肉店も始めたのでした。消費者が倫理的な選択を出来るよう、家畜の飼育状態にはとても気を遣っているというジョナスさん。化学薬品などは一切使用せず、動物たちが自然体で過ごせるような環境を整えていると言います。「目から鱗が落ちるようでした。私たちは農家になる運命だったんだと気付かされたんです。食肉のためであっても殺すことは悪いことだ、と考えてしまう人もいるんです。けれども私は良い一生を過ごした動物を消費することは、非倫理的なことだとは思わないです」
「眼の前の食べ物は食べ物ではなく、個性や感情のある動物だ」なんて言ってる。
個性や感情があるっていうのなら、お前ら水さえ飲むなよって話になるんだけど。
水道水は滅菌しても滅菌しきれない微生物が存在しているわけで。
当然、それらは『個性』を持っている動く物。いわゆる動物なんだけど。
『個性』を持っているし触れば認識するし、気温も感じるし、光も感じられる生き物。
それを殺しておきながら、肉は許されないというのなら、野菜という植物の肉を食い散らかしているヴィーガンは同じ穴の狢に過ぎないのだけど。
そういう事を棚上げしておきながら、人様の店に特攻して迷惑行為を働いたり、街で喚いているヴィーガンは、ただの癌にしかならないと思える。
自分たちは生物を殺すことを黙認しておきながら、他人様へはケチを付けるなんて、ヴィーガンって存在は神かなんかなの?って感じ。
ポリティカルコレクトネスだって「それを理解しない人」からすればただただ自分の意見や言動、はては表現活動までも規制しかねないモノでしかないけど、
それを推進する人にとって「それは個人の嗜好ではなく善悪の問題だから」社会全体に普及させようとするのと同じように
ヴィーガンもまた(彼らの信ずる)「個人の嗜好ではなく善悪の問題」としてるだけでしょ
多分ここでアホなはてなーは「他人の権利を侵害するからー」とか思うんだろうけど
その理屈だと「これまでやってきたことを規制したり禁止しよう」って運動は何もかもどこかの誰かの利権の侵害だぞ
大好きなフェミニズムだとか労働運動も「俺たち私たちはそれで今までやってきたんだから余計な口出しはやめろよ」って言われて「はいそうですね止めます」ってならないだろ
見出しはレトリックで、「あっちにも反対しろ」ではなく「どっちにも反対しないだろ?」という趣旨です。
ヴィーガンの主張は主に二つ、「畜産業における劣悪な飼育環境をなんとかしよう」と「畜産業が環境に与える悪影響をなんとかしよう」です。
「菜食主義者」よりも「反畜産主義者」のほうが正確なのでは、という気もしてきます。
前者はエシカル・ヴィーガン、後者はエンバイロメンタル・ヴィーガンと呼ばれ、微妙に立場が異なります。まあ両方を兼務している人も多いのでしょうが。
たとえばエシカル・ヴィーガンの立場では「まともな環境で飼育された家畜の肉は食べてもよい」というヴィーガンすら存在しています。
一方で、エンバイロメンタル・ヴィーガンは、環境保護の観点から畜産業の問題に着目しているので、動物実験を用いた医薬品や化粧品の問題には関心が薄いでしょう。
現代の食肉生産の多くは、環境負荷の高いいわゆる 工場畜産 (factory farming) に頼っています。そして私たちは実に多くの家畜動物を消費しています。鶏が580億匹、豚が14億匹、牛が3億匹など。これは1年の数です。想像できますか?
エサとなる穀物の生産や放牧のために貴重なアマゾンの森林が広く伐採され、土地や河川は汚染され、温室効果ガスを膨大に排出しています。
世界の 飢餓人口 は8億人。そのようななか、家畜に与えられている飼料の総量は40億人以上もの食事に相当すると言われます。
牛肉100グラムを作るためには穀物が1600グラム必要とされているため、穀物をそのまま食べた場合に比べてかなりの無駄が発生しています。飢餓問題は基本インフラ、教育水準、失業率、社会構造など複雑な問題が絡みますが、それでも菜食のメリットは極めて大きいものです。
肉食は水も土地もエネルギーも浪費します。世界人口が2050年に100億人に到達するとも言われているなかで、サステイナブルな食糧体制の確保は急務です。
日本エシカルヴィーガン教会とかいうところのサイトから引用しました。
(エシカル・ヴィーガンを名乗っていますが)こういったものがエンバイロメンタル・ヴィーガンの基本的な主張だと思います。
「クリーンミート」が「再生可能エネルギー」や「電気自動車」などに相当するでしょうか。
二酸化炭素の排出量を削減しようと唱える人に「俺たちに息をするなと言いたいのか?」などと絡む人が(私の観測範囲では)いなかったことを考えると、ヴィーガンに対して「おまえたちは生きているだけで虫や微生物を殺しているのだが?」などと批判することが、かなりズレていることがわかると思います。
あるいはヴィーガン側の主張としても「畜産はコストが高いので減らしていきませんか? そのためにはまず肉食を減らしませんか?」といったものであれば、納得する人は多いのではないでしょうか。
実際、大半のヴィーガンは、いきなり全人類の肉食を禁止しようだなんて思っていないでしょう。
「できることからやればいい」のです。
ここであなたの脳裏には肉屋を襲撃するヴィーガンのことがよぎったでしょうが、穏健派ヴィーガンに賛同すれば過激派ヴィーガンにも賛同することになるという論法はスリッピースロープにすぎません。
つまり「なるべく自動車ではなく公共機関を使おう」と同程度には「なるべく牛肉ではなく野菜を食べよう」という主張は成り立つと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに私はヴィーガンではないので「おまえらヴィーガンは…」と一括りにするようなレッテルはご勘弁ください。よろしくお願いします。