はてなキーワード: 思想家とは
フェミニズムは今ではやや暴走気味で、セックスヘイターみたいなフェミニズムですらないラディカル思想がフェミニズムと呼称されたり、明らかにわがままを通してもフェミニズムとして認識されたり、結局負の要素すべてをフェミニズムという言葉が背負い込んでしまっている。なんでだろうね。一昔前のフェミニズムが割と考えなしで無理くり男女平等を急進的にすすめてしまって、その負債を今の思想家が背負わされてるのかな?
男がフェミニズムになるべき理由、なんてものは噴飯物だけど、実際に界隈ではそんな思考がたくさんあって、正直ビビる。twitterのまなざし村関連も正直喧嘩したくてフェミニズムとアンチフェミニズム陣営に分かれてる所あるし、平等になってしかもネットで情報発信が容易とあれば憎み合い殴り合う人間が出てくるのは当然だよね。
重荷かも知れないけど、ネットで情報発信する人はたとえ匿名であれ必要最低限勉強をする必要があるのではないのかと思う。そんな重責を負わなくたってという人も多いけれど、いつどんな情報が拡散されるかもわからないのに適当に呟いていい道理はない。もう二三年もすれば反動的にマスキュリズムが認知されそうだし、より殴り合いがひどくなりそうだけど。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
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研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
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さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
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収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
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では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
東郷健(別名:伝説のおかま)と向坂逸郎(社会主義思想家)との対談で、向坂氏が東郷氏に対して「ソヴェト共産主義になったら、お前の病気は治ってしまう」と言ったため喧嘩、対談は打ち切られる。
かつては参議院議員選挙、衆議院議員選挙、東京都知事選挙へ選挙機会ごとに立候補し、いずれも落選。政見放送・選挙公報を通じ、タブー視されていた「ゲイ」「ホモ」「同性愛」「おかま」「射精」「チンチン」などの語を敢えて多用したため、昭和末期 - 平成初期のお茶の間に一種のカルチャーショックを呼び起こした。参議院選に全国区から立候補した1971年、宣伝カーからの演説に振り向く者もなかった際に「オカマ、オカマの、東郷健。参議院議員立候補、オカマ、オカマの東郷健がまいりました」と叫んでみたところ、中年男性が手に持っていた荷物を落とし、東郷の乗る赤い宣伝カーを初めて見た。以降、"オカマの東郷健"を売り文句にする。
( ゚ Д゚)
被災者がなぜ「軍服」を着なければならないのか - アリの一言
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/f45f4782a03ab73c31fda67add76de65
アパグループ、西日本豪雨の被災地に1億円と「アパ社長カレー」1万食を寄贈(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180710-00000070-sph-soci
id:bottomzlife おれ、これが届いたら死んでも喰わねえ。ネトウヨ差別歴史修正主義者ババアのカレー味のうんこ喰うより、うんこ味のうんこのほうがマシだわ。人間には捨てられない信条というものがある。
かつての私は、上記のようなコメントを災害関連のニュースで見つけると、この非常事態にまで党派性に溺れる愚か者が、、、と批判的に捉えていた。
だが情勢が目まぐるしく動き、政治経済を含む多種多様な続報が入る中で、数多の論者がダブルスタンダードや詭弁話法に陥る姿を我々は目にしている。
私は今や、先ほど述べた見解の軽薄さを恥じ、自分こそが愚か者だったと反省している。
どれほど情勢が変わろうとも、たとえ自らの命の危機が差し迫ろうとも、相容れない政敵から手を差し伸べられるぐらいなら潔く死を選ぶ。
食糧であろうが救命胴衣であろうが、日々の言動を捨て置いて目の前の甘い蜜に日和る者こそ恥ずべきなのだ。
いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものになっていた。だが、それは永遠のものなのだろうか。
アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。
思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。
希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。
政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。
だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。
そこで疑問が浮かぶ。ゼロ成長はそれほど「悪」なのか。失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない。
その間、日本のミシュラン三つ星店は世界最多になったし、宅配便のおかげで遠方の特産生鮮品が手軽に手に入るようになった。温水洗浄便座の急普及でトイレは格段に快適になった。
若者たちが当たり前に使う1台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったか想像してほしい。ずっと性能が劣るパソコンは30万円、テレビ20万円、固定電話7万円、カメラ3万円、世界大百科事典は全35巻で20万円超……。控えめに見積もったとしても、軽く80万円を超える。
スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25年前ならSF映画の世界の話だった。
ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万円超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ。
そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。
人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。
実は、いまのような経済成長の歴史が始まったのは200年前にすぎない。長い人類史のなかでは、ほんの最近だ。GDP統計が初めて作られたのは、さらにずっとあとのこと。1930年代の大恐慌、第2次世界大戦がきっかけだった。
昨年夏、GDP統計をめぐるちょっとした論争があった。所管官庁の内閣府に日本銀行が「実態より過小評価されているのではないか」と問題提起したのだ。
きっかけは日銀の若手職員が発表した個人論文。ただ論争には日銀上層部の意向も働いていた。アベノミクスの主軸として史上空前の超金融緩和をしながらインフレ目標を実現できず、成長にも結びつかない。現実へのいらだちがあった。
数字ひとつで財政や金融政策を動かし、人々の景況感にも影響するGDP。その歴史は、長い人類史のなかでは意外と短い。
世界で初めて国の経済全体の大きさを測ろうとしたのは英国。17世紀の英蘭戦争のためにどれくらい戦費が調達できるか知ろうとしたのだ。そこから現在のようなGDPになったのは、さらにあと。1930年代に英国、米国で大恐慌の対策を探り、第2次世界大戦に向けた生産力の分析を進めるためだった。(『GDP』ダイアン・コイル)
一般的には1760年代の英国産業革命が成長の起点とされる。だが西暦1年~2000年代の世界の成長を人口や歴史資料から推定した経済学者アンガス・マディソンによると、1人当たりGDPがはっきり伸び始めた起点は60年ほど後の1820年ごろだった。
その理由を投資理論家で歴史研究家のウィリアム・バーンスタインが『「豊かさ」の誕生』で分析している。1820年ごろになると、ようやく私有財産制度や資本市場が整い、迅速で効率的な通信や輸送手段が発達。技術進歩や新しいアイデアを評価する文化や制度ができて、成長を後押しする基盤が整ったという。
社会思想家の佐伯啓思・京都大名誉教授によると、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためだった。「それだけのことにすぎない。なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論には実は答えがないのです」
冷戦が終わったあとも成長への渇望だけが残った。むしろ成長の限界や弊害について、以前より語られなくなったのかもしれない。
1970年代初頭、世界の科学者や経済学者たちが集まる民間組織ローマクラブがまとめた報告書『成長の限界』は、経済成長を謳歌(おうか)する人類への警告だった。人口が増え、先進国経済が膨張しすぎると、資源の使いすぎや環境悪化などからいずれ限界が生じる、という問題提起だった。
いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた。
佐伯氏は「ローマクラブが指摘した問題の重要性は今も変わらない。これから無理やり市場を膨張させ、成長させようとする試みは競争や格差を激しくして、人間にとってますます生きにくい社会にしてしまうのではないか」と話す。
紙幣を発行し、金融政策をつかさどる中央銀行。その「元祖」は英国のイングランド銀行とされる。もともと民間銀行の一つだったが1844年の制度改正で中央銀行に進化した。
つまり1820年ごろに始まる「成長」とともに誕生した機能だった。
いま世界経済の成長スピードが落ちている。2008年のリーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない。
サマーズ元米財務長官は3年前、物質的に満たされた先進国は簡単に低成長から脱せないという「長期停滞論」を唱えた。
日米欧の中央銀行はまるで自分の存在意義を確かめるように、ゼロ金利政策、量的金融緩和、マイナス金利政策……と成長を取り戻すための異例の緩和策を次々と繰り出した。
「これは長い目でみれば中央銀行の終わりの始まりだ」と言うのは日銀出身で金融史にも詳しい岩村充・早稲田大大学院教授だ。
中央銀行が政府から独立する必要があるのは、たとえ政権が代わっても、お金の価値が変わらない金融政策を続けることが経済の安定には大事だからだ。岩村氏は「政府といっしょになって成長のために異常な金融緩和を進める。そんな今の中央銀行に独立性はない。存在意義がなくなってしまった」と指摘する。
経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。
「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか」
成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。
「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった」
主要国の成長戦略、金融政策は往々にして強く富めるものを、さらに強くさらに富ませる傾向がある。それがトリクルダウン(滴がしたたり落ちること)で中間層、低所得層に広がるという想定だ。現実にはそうなっていない。
19世紀の経済思想家ジョン・スチュアート・ミルはゼロ成長の「定常社会」を構想した。だが近代経済学は事実上、成長ぬきには語られなくなった。いつしかあらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになったからだ。
むしろ現実社会に変化の兆しが出てきた。たとえば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー。大量消費と一線を画す動きだ。
四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。
博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年54%で、9年前より22ポイントも増えた。さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。
同総研の石寺修三所長は「人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。いわば『常温』を楽しむ社会です」と話す。
いま世界が直面する低成長が「成長の限界」を示すものかどうかは、はっきりしない。ただマディソンの2千年の成長率推計を見れば、この200年の2~3%成長が、まるでバブルを示す急騰曲線のようだとわかる。
成長の鈍化はむしろ経済活動の「正常化」を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は「永遠」だと思わないほうがいい。(編集委員・原真人)
元ページ(リンク切れ): http://www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
ブコメ: http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
「彼は犯罪界のナポレオンだよ、ワトスン。この大都会での悪事の半分、未解決事件のほとんどすべての仕掛人だ。彼は天才で、賢人で、理論的思想家だ。そして第一級の頭脳の持ち主だ。彼は、クモの巣の真ん中にいるクモと同じように座ったまま動かない。しかし、その巣には無数の放射糸があって、彼はその一つ一つのすべての動きを充分につかんでいる。彼自身はほとんど何もしない。彼は計画を練るだけだ。しかし彼の手下は数多くいて、みごとに組織されている。例えば、書類を盗む、強盗に入る、人を殺すといった犯罪を犯そうとするとき、教授にひとこと言えば、それは計画され、実行される。手下はつかまるかもしれない。そんな場合は保釈とか弁護の費用が準備される。しかし、その手下を使っている中心の力は決してつかまらない。疑われることさえない」
自分の考えを発表することには慣れているが、このような匿名の場で発言することが少く、もしかすると思慮分別に掛けた失言があるかもしれないが、そこはどうかご寛恕いただきたい。
一サラリーマンでしかない自分が、差別だの階級だのという深刻な問題について色々熟思することになった発端は、近頃流行りの、フェミニストや助勢権利問題に関して盛んに議論しているような場面をネットでしょっちゅう見掛けたことである。ここで敢て話しておくが、私の身の回りではフェミニストがどうこう、男がどうこう、女がどうこうという大局的な視点の議論はあまり行われていない。一体どこのどういう層が、どういう考えからこうした議論をしているのだろうという好奇から眺めるうちに、自然と自分がこうした差別について考えるようになったのである。
極端な話、こういうものは不特定多数に向けて発信されるのだから、その不特定多数の中で刺激を受けた人間がまた不特定多数に情報を発信し、こういう聯関が幾度となく続いて奇妙な合戦が始まるというのが実情である。何百人もの眼に触れれば、一人くらい「お前が言えたことじゃない。俺はこういう差別を……」と言って反撃してくるものも居るだろうし、それを見て「問題をすり替えているだけだ!」と批判してくる者も一人は出てくる。一人の意見が数百人に伝えられて色々な思想を掘り出すのはネットならではの現象。現実を見たら、まるでそんな議論起きてないじゃないか!と思っても何もおかしくはない。しかし、こういう前提を受けた疑心の強い私は「口に出していないだけで、こういう考えや不満を持っている層は一定数いるのでは?」と勘繰って、更に色々のことを調べた。あくまでもフェミニズムや女性差別、セクハラ問題、Metoo運動などについてだが、本当に多様な議論があるものだと内心驚いた。少年漫画をジェンダー論の視点から語るもの、男性差別と女権拡張論を一緒くたにして語るもの、ポリコレ棒をひたすら恐れるあまりありとあらゆる人権を憎悪し、また差別されることに怒りを覚えた人間たちが、そういう特定層が属している集団全体の問題へと広げて争うこと………。
大概の議論には少なからずこうした不毛な要素が孕まれているが、ネットは憎悪の導火線に火をつけてあちこち爆発させるのに非常に適した性質を持っている。文字数制限があるSNSもまた、そういう性質を持っている。ほんの微妙な解釈の違いが、やがて不毛な言葉遊びに繋がり、いつの間にやら人種差別、性差別の話題に敷衍されている。そうした事例をいくつも見る度に一番疑問に思うのが、「何故これほどまでに単語が錯綜しているのだろうか」ということである。
情報過多のこのご時世は、少しでも少ない語数、少しでも簡潔な言い回しで知的に物を表すのが良いとされている。微妙に差異がある言葉を言い尽くして、詳細に伝えるなどは馬鹿のすることと切り捨てられる。そのために、一つないし二つの意味合いしか持たない言葉や、本来いくつかの分岐がある言葉が下位互換の概念を包括することで、とことん省略しようと試みている。こうした考えを持っているのはおそらく私だけではない。著名な人物で言えば、かの三島由紀夫もこうした問題に警鐘を唱えている。
民主主義という言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含している。平和とは時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるようなもので、これでは民衆の頭は混乱する。
自分で言うのもなんだが、私は古い人間だ。未だに家父長制度があり、男女間は厳密には不干渉であるべきで、それを易易と超えるような浅はかな行為は慎むべきだという考えを持ち、性犯罪で女性側がだらしのない格好をすれば「何故襲われるだろうと予測できないのか」と疑問に持つような人間だ。そうした考えは、先進的な思想家や活動家からとにかく攻撃され、時代遅れと呼ばれて封殺される。それでも、フェミニストの中には色々な考えがあり、ラディカル、リベラル、いずれの思想は言葉の上では微妙に、根本では大きく異なっている思想にもかかわらず、リベラルがラディカルに、ラディカルがリベラルに、なんとも不思議な混濁が起きる。こういう事を近頃は主語が大きいと言うと仄聞したが、単なる無知ではなく露骨な印象操作のためにこの事態が起きるのはあまりに不毛である。喫緊の問題は、こうした語義の混乱が争いを招く事態を避けることだが、それを実現するのはとても難しい。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
19世紀の頃いわれた「ロマンスは死んだ」とかが、それにあたるな。
ロマンスとは何かについて語っていてはキリがないので、ここでは「騎士道」などの「合理主義的ではない思想」程度の認識でいてくれ。
騎士そのものは形骸化し、文学などで語られることのほうが多くなっていた時代だから、そういった考えが出てくることは不自然じゃない。
この「ロマンスは死んだ」を誰が言っていたかまでは確証がないのだが、当時のイギリスの思想家の本に「ロマンスは死んだと言う人がいる」と書かれている箇所がある。
しかし、その著者自身は「ロマンスは死んだ」という説に否定的な態度をとっているが。
現代、騎士そのものについて言えることはないが、騎士道についてどうかというのは、私が語るまでもないだろう。
「死んだ」と言われて、それでも生き残ったものは「死んだ」と言われなくなる、ということだ。
まあ、本当に死んだものは「死んだ」とすら言われない、言ったとして大衆の耳には届かないという可能性もあるが。
いずれにしろ、少なくとも今のところは、ストーリーはまだ死んでいないということになるな。
むしろ他の国のほうが、この手の問題には熱視線が向けられているかもな。
Windowsみたいなのが普及していない、まだ映像メディアがVHSのころからファンサブってものがあったくらいだから。
翻訳の良し悪し云々の前に、字幕をつけることすら個人では困難だった時代だ。
それでも、一部の熱狂的なオタクは金と時間をかけ機材を揃えて字幕を打ち込み、それが無理なら翻訳した小冊子をつけるという荒業まで使って、当時はまだ狭かったオタクの村社会の中で作品を楽しんだり普及に努めたのだ。
非公式かつ違法であることを重々承知な上ではあったと思うが、当時は日本の多くの作品がローカライズされない、されたとしても大幅な改変をされることが多々あったからな。
どうしても見たい、或いはしっかりと楽しみたいならば、企業をアテにするのではなく自分たちでどうにかしたほうが良かったわけだ。
現代においては、(少なくとも昔よりは)公式もローカライズを積極的に行うようになった。
昔よりも容易く字幕を打ち込み、世界に発信することが可能になったからだ。
更に言えば、公式のローカライズは多くが“不甲斐なかった”というのもある。
近年の話だと、それなりに力を入れているとされるアトラスですら、「ペルソナ5」の翻訳は不評の声が多かったのが有名か(ゲーム内容そのものは好評だったが、それ故に不満が募るのだろうな)。
もちろん、そんなファンサブですら酷い翻訳は珍しくなかったし、ニュアンスの違いで意見が割れることも多々あったが。
公式、非公式問わず、そういった翻訳がネタにされやすいのは世界共通なので、画像検索すればいくつか出てくると思うぞ。
英語をかじった程度の私ですら、明らかに変な英訳だって分かるレベルだから安心したまえ。
このあたりの話を語っていたら、いくら文字数制限があっても足りないので、「どの時代も翻訳とオタクは面倒な存在」という雑な結論で締めくくらせて貰おう。
典型的な、勉強できないのに自分の言いたい方向に歴史をねじ負けたいだけの無敵の人なのかな?
使っただけで、自分が咀嚼、理解できていない可能性はひとつも考えないのか。面白いなぁ。無敵だね。
物凄く雑に言っちゃえば、ローマ以降のキリスト教(雑だなぁ主にカトリックとプロテスタント。そもそも時代でも差はあるが)世界においてある時代まで、女は劣った生き物なので劣った扱いをすべき、という思想が一般的で、
そういう思想がキリスト教世界をベースに組み立てられた各国家・社会の構造に影響したのでは、という考え方があるんですよ。近代までは、宗教と社会構造はとても密接に絡み付いていたから、影響を受けるのは当然と言えば当然ですし。
で、その「女は劣った生き物である」という男尊女卑的世界観がどこが源泉なのかは説は色々ありますけども(月経原因説から、楽園のリンゴ食ったからとか存在が不浄って書いてあるとか色々)、実は東洋世界(仏教や儒教)でも、イスラム的世界でも発生している。おまけにキリスト教も仏教も、教義だけを読めば男女に救済の差はないと読むことも可能(救済に差があると読むこともできるから上記の誤解が発生したんだろうけど)。
なので、古代あたりから、「人間の発生と進化の一過程」という時代において、女は格下!的な、非モテ厨二っぽい思想が流行った時期が長くあったのかもしれない、などと増田は考えているがこれはあくまでも私見&感想。豊かさを他に求める侵略の時代において「そういう考え」になりやすいのは、現代の日本を見ていても納得感があるので、符牒は合うっちゃ合う。
でもこの私見を、ちゃんと論拠を追い示しながら説明するのは増田には荷が重すぎるので、取りあえず、山川の教科書を読み直しつつ、思想史のみを抜き出した年表とか作ってみたらどうでしょうか。
あとは、「フェミニズム神学」というキーワードでググっても面白いと思いますよ。この20年ぐらいでは「宗教が女を差別してきた(怒)」から学問が進んで、「そういう側面もあるけど原典ではそうじゃないよ」とか、歴史や原典や個別の事象や思想家などと照らし合わせて分析をしている人もいます。ベースは神学なのでラジフェミみたいなおかしなのはほとんど居ない、ので比較的当たりやすい学問のはず。山川Bをちゃんと咀嚼できていたのなら笑。
つーかそういう学問体系もすでにあり大学でカリキュラムになっているところもあるような現在進行形の学問なので、元増田のように「もっとお母さんのように教えてくれ」と甘えるのも、割とズーズーしいね。と思う。
1 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイWW d465-ibbf)[] 2018/02/26(月) 15:55:37.24 ID:7211LqHx0
久田将義×吉田豪のタブーなワイドショー 2018/02/25(日) 20:00
こないだ正論大賞のパーティ行きましたよ。ヤバいっすよ。正論大賞マジヤバい。人類は一回行くべき。
多分絶対呼ばれないから言うと、フジサンケイグループは威信をかけてやってるわけです。
まずこの賞の凄いところは選考委員がいないところ。今フジサンケイグループにとって今推したい奴みたいな感じ。
最初にフジのアナウンサーが「フジサンケイグループ正論大賞パーティが始まります」と挨拶する。
そこでいきなり「平昌五輪で日本はますます活躍、しかし他方韓国はそれを政治利用し・・」と始まる。
「中韓の政治的圧力がますます強くなる中、日本の論壇はそれを恐れず正しい論を作っていく」「さて発表です」
飛ばすんですよ(笑)。とにかく最初からハッキリとしたイデオロギー性、方向性なんです。
男性は着物の奥様と一緒に入場してくる。入場の時だけかなと思ったら壇上にも行き、夫が演説してる間、
奥様は一歩下がって身動ぎもせず立ってるわけ。三浦(瑠麗)さんと同時受賞したある文芸評論家(小川栄太郎)
がいるんですが、その方の演説がこれまた凄い。この人は安倍晋三は吉田松陰に並ぶ思想家なんだみたいな本を
書いて結構売れている人らしい。最近だとモリカケ問題で朝日に訴えられてる人なんですよ。
その人がいろいろ演説する。「日本は少子化で苦しんでる、このままだと日本は滅びる」ああここまではそうだと。
「だからねぇ増えるしかないんだ。女が子供産むしかないんだ。という事言うと女性の人権とかいう人がいます。
人権?もちろん大切です。しかし!」と始まる。それを横で着物を着た女性がずっと黙って聞いてるわけですよ。
凄いよ。痺れましたよ。こんな自由な言論空間はない。自由すぎる。
安倍首相からのビデオメッセージが凄く長い。受賞者一人一人に「何々さんは何々の業績があり、これからもしっかりと日本を支え」
受賞者の挨拶を見るとみんな仮想敵が朝日新聞なんですよ。これも面白くて。首相からメッセージ貰ってるんですよ。
それなのに自分たちは言論弾圧されてるって思ってるわけ。凄い良かった(笑)
俺はすごい面白くて最前列でバシバシ写真撮ってたり喜んでたんだけど、津田(大介)さんは真っ青な顔してさ「これ許せないでしょ」。
ええ、マジレス?みたいな(笑)。そうじゃないでしょこの楽しみ方さ。さすが左翼(笑)
渡邊臥龍氏は、牢人新聞なる街宣右翼組織の主幹を務める右翼活動家である。
まずはこの記事を読んでほしい。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180117-00023233-kana-l14
http://biz-search.net/archives/542
"被告(渡邊臥龍)は昨年3月、自身のブログに「有田芳生に天誅(てんちゅう)を加えむ」などと書き込み、1960年に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の暴徒に刺殺された事件の写真を掲載して脅した、とされる。有田氏が翌月に刑事告訴し、警視庁が10月に書類送検していた。"
どう考えても、テロリズムの実行現場の写真を示して「天誅を加える」と言えば、脅迫罪に該当することは自明の理であり、そこは議論の余地がない。
しかし、これに対して、彼自身はどうやら自身の行為に違法性はなく、正当な言論であり、自分に対する刑事訴追は"思想犯"だと思っているようなのだ。
例えば
"だが、物事の道理と筋道はきっちりと明かす。こんなことがまかり通る世の中は暗黒の社会である。もし、仮に愚生が警察に身柄を拘束されるようだったら、留守中の後の運動は頼む。"
"しかし、今回の取り調べをきっかけに世の中に道理を通したい。その為に一切の駆け引きも打算もなく嘘偽りなく正直に供述調書を述べてきた。"
http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/55629412.html
http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/55630161.html
彼の主張には全く賛同しないものの、自分の信念を貫き、捜査機関による身柄拘束、場合によっては懲役刑を食らうことも覚悟して、法廷の場で自分の主張を述べ、争うというのだ。
そこまで闘う覚悟があってやってるのであれば、右翼とはいえなかなか骨のある活動家だな、と当時は思ったものだ。(もちろん彼の主張に全く賛同しないが)
記事を読んで目を疑った。
と書いてある。
・被疑者に異議のない場合(罪を認めており、略式裁判を開くことに異議がない)
・検察官の提出した書類のみ(もちろん被告人が裁判所で自分の主張を行うこともない)で命令を出す。
要するに「正式な裁判なんてやるまでもありません。罪を認めて罰金払うのでさっさと終わらせてください」
これのどこが「世の中の道理をただす」のだろうか。「駆け引きも打算もなく」なのだろうか。
正直、道理をただすことを放棄して、さっさと罰金払って終わりにした以外の何物でもない。まさにこれこそ駆け引きと打算だろう。
この略式命令について、渡邊氏は何の説明もしていない。彼も思想家なら、どうして自らの発言を翻し、闘いを放棄して権力に屈したのか、社会に対して、支援者に対しても示す必要があるだろう。
そういえば、渡邊氏は2014年に、デモ行動中カウンター行動の学生から全治二日の傷害を受けたとして被害届を出し、学生は逮捕されていた。
あの時の学生は「自分は無罪、不当逮捕だ」と全面的に捜査機関と争い、救援組織も組織され、逮捕に対する抗議デモも行われていた。
あの時の学生は立派だった。自分の信念を国家権力に対して示す姿を、渡邊氏にも見習ってほしいものだ。
http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/54884418.html
「自分は何年もウナギ食べるの我慢してたのに、みんなウナギ食べるのをやめてくれなかった」とか嘆いている奴、意味不明。
ツイッターの片隅で、口先で「私は食べません」アピールしたところで、どんな社会的影響力があると思ったのか。
心ある市民の草の根運動で、乱獲が止められると本気で思っていたのか。
テレビの報道はいつ見ても一貫していた。ウナギが少なくなっているのは中国のせい、黒潮のせい、異常気象のせい、たまたま遅れているだけ。いずれは完全養殖でなんとかなる。消費を控えるなんてとんでもない。さあ、土用の丑の日にはウナギを食べよう!
『だってスーパーに行けば売ってるし、店でも食べられるし、絶滅なんて嘘でしょ大袈裟に騒いでいるだけで。
絶滅しそうなものが売られているなんて、常識的に考えてありえない。だからウナギは食べてもいい。
誰かが買わなきゃ廃棄されるだけ、勿体ない。買わないなんてありえない。食べ物は大事にしないと。
店の人も商売だしね。誰も悪いことしてないのに、どうして非難されなきゃいけないの。』
そういう空気を変えるために、ツイッターでちょろっと「私はウナギ食べません」アピールしたからって何になるんだよ。
国が動かなきゃどうしようもねーんだって、それこそ何年も言われつづけてきただろ。
でも、国を相手に要求するってことは避けてきたんだろ。世論に訴えるような積極的な言論活動すらしてこなかっただろ。
資源保護は大事だけど、自然保護団体みたいなことはやりたくない、活動家や思想家には見られたくなかったんだろ。
権利団体や権力とぶつからずにこの問題が解決できたわけねーだろ。
反出生主義の主張はある種の理屈として正しいかもしれないけど、
たぶん産みたい人は産みたいように産むだろうね、これからもずっと
それをどうやって減らしていこうと考えてるの?
具体的に、どういう手を打って、産みたい人を説得して、産まないようにしていくの?
もしかして、これを書いたことで一人でも産みたい人が減ったらいいとか思ってるんだとしたらそれは考えが甘すぎるよ
おそらく、この文章によって反出生主義に寝返った人はただ一人もいないと思うよ
現実にいる一人の人間をイメージして。その人にどうやったら反出生主義が伝わるか真剣に考えて
論理的な追及や、罵倒や煽りが最適解なのかどうか、本当によく考えて
「こうするのが正しいのにー!みんななんでこうしないんだー!」
とだけ喚き散らしてそのまま消えていった思想家は過去にいくらでもいたよ
もしかしてここに書き散らした程度で満足したりしてないよね?
主語でかいこと言うけど、もう結構長いこと、世の中「なんでもいいけどこっちに面倒をかけるな」ってのが基本じゃない?
思想家やらリーダーシップ発揮したい人やら苦労してる人やら弱者やら、なんでもいいけど面倒に巻き込むのはやめてほしいんだよね。
自分の興味ないことがらでまで善行促されても迷惑だわ、みたいな。
かわいそうでしょう! とか 問題です! とか言われても、いや知らんし……鬱陶しいわ……。
私はちょっとした障害者なんだけど、弱者の連帯が~とか福祉の充実のためにアクションを~とかお題目言われても「それ実際私に実益来るのいつ?」って思うし、
まして私が所属してない層の苦労とか訴えられたら「ただでさえ私の人生しんどいのに、更に知らない層の負担も肩代わりししろっての?」ってイラつく。
そんで、皆の方も、私みたいなグズの出来損ないの面倒をかけられるのはゴメンでしょ?
自分はそんな冷酷じゃないですうって思ってる人も、隣の席にクチャラーいたら苛立ちマックスだし、電車で異臭放ちながら叫んでる人見たら関わりたくないし、刃物で刺されたら犯人が心神耗弱だからって許せないし、愛してもいない相手の愚痴に共感同情求められてもウザいし、自分の毒親が更にその親から毒されてたとしても恨むし、自分を育ててくれた親だからって介護したらクソ消耗するでしょ。
これだけあげればどれか一つくらいなら「いやそれは平気」とかあるかもだけど、基本的にどれもめっちゃ嫌だよね。
だってそういうのの世話しろって言われるの、やりたくもない介護を強制されてるようなもの。
面倒かけんじゃねえよ、なんで他人の負担を不条理に分配されなきゃならないんだよ、って思って当たり前だし、むしろそう思わない方がどんだけ余裕あるんだか理解できない。
書いててなんかよくわかんなくなってきたけど、とにかくもう誰一人として私に迷惑と面倒と悩みと罪悪感と自省と負担となんだかんだを強いないでほしいわ。
私に何か求めるならまず私を楽にしてからにしてくれや。
知らんわ。
外国人が日本社会の民度の高さを称賛し、そして日本人の少数派がそれを受け入れた一方で、多数派がそのような現実を後悔する声があった。とある左翼思想家は、"日本人の右派の満足した社会意識"を、市民社会に合意を受入れるよう要請した事で糾弾した。ある大学生は、左派系SNSに "我々は、道徳的な社会観の象徴である安倍政権、現代版のファシズム風潮を変えなければならない"と、激昂して述べた。通常は自公政権を支持しているいくつかの若者や高齢者ですら、道徳的社会に対しては不満だと感じると述べた。ネット上での批判は日々加熱している。
ヒステリックな道徳社会への反応は、日本がどのように非寛容社会を形成し続けているかを示している。あらゆる種類の政治家および空論家達は、単に自らの課題を推進するため、長きに渡って道徳感情を煽ってきた。彼らは、過去から今日まで続いているのこの強迫観念が日本国を停滞させている事を、気にかけるようには見えない。
第二次世界大戦敗戦後のアメリカの保護国化のもと日本は先進国になったが、中高年世代の多くは、1990年代以降の急速な非寛容社会化を体験している。日本が古くから抱える被差別階層などのような内部の実体が、通常、社会の病いの原因だと非難されてきた。しかし、障碍者および在日外国人への感情は、より複雑だ;しかし、彼らとの友好感情はほとんど全員に共有され、社会の物語とされている:日本社会の栄光は、自由な価値観とは反する道徳思想に妨害された。
日本に蔓延する暴走する道徳感情は、社会がきちんと回らない原因になっている(例えばモリ・カケ騒動や不倫なんかがそう)。特定の日本権力主義者たちが、確立された普遍的事実に疑問を呈し、大衆を触発する一方で、彼らから見ての敵はより重要な問題を無視するための、便利な弁解を提供している。
道徳感情はまた、教育や文化の問題を凌駕している。1990年代~2010年代前半の長期不況からの増大する経済改革への要望にも拘わらず、日本は、今日までに経済成長への道を選択できなかった。
未成年あるいは高齢化する貧困や公共インフラの破綻など、その他の国内問題は、脇に追いやられている。政権および野党は、歴史問題などへの政府の懸念を "解決する"と申し出る事で、政府が本当に意味した事について口論している。
アメリカの保護国下による72年間の成長一辺倒の日本社会の影にある犠牲者達は、彼らの主張を押し続けなければならず、そして日本社会とその保護者たるアメリカはより良く謝罪をしてみるべきだ。システムの見直しと検証必要であるという、十分な証拠が有る。しかし、無数の問題のために悪人(と決め付けた人たち)を非難してきた政治階級下の数十年の後、道徳感情は独自の生命を持ってしまっている。日本は、昂ぶった感情を持続的に保持している。その構成員達は、その他全てを犠牲にしようともそうするように見えるが、絶えずこれらの感情に応えようとする。その全ての嫉妬のブーメランが日本社会を傷つけている。