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はてなキーワード: 臨場感とは

2016-01-16

レンタルゲームプレイスジオってないのかな

今のコンソールゲーム機だと、それこそかなりモニタ四方八方につけてゲームを持ち込んで出来るようなレンタルスペースあれば、またゲームやるようになるかも。

ゲーセンだと、専用の機械でしょ?

でもそうじゃなくて、自分の持ち込みをより臨場感のある場所でしてみたい。(でもそんなにヤラないので自分の家は嫌だっていう)

そうすればゲームが次の世界に行って面白そう。

2016-01-12

NHKきょうの料理ヘッドホンで聴いた結果

普段見るとき画面で映ってるところしか意識してなかったけど、

ヘッドホン付けて聞くと横でいろいろ準備したり鍋置き換えたり、

そんな音が聞こえてきて、スタジオがどんな様子かと想像をかき立てられる。

揚げたり煮たりする音がよく聞こえる!

さすがに、右から左など音が流れる(回る)?

用語が分からなくてゴメンだけど、

ステレオで、立体的には聞こえてこないけど、

映ってないところのいろいろな段取りの順番とかの音が

とにかく思っている以上にガチャガチャと騒がしくて、

変に臨場感があって面白かった。

2015-12-18

10年ぐらい前からとある日本オンラインゲームをたまにやっているのだけど。一つ苦言がある。

1年に2,3日位、たまに忘れたように遊んでる。

なんか最近そのゲーム見て、ハッと気づいたんだけど、グラフィック10年間変わってないんだよ。

10年前にはあれだけ臨場感のあったテキスチャーとか、新規性を感じたのに。

海外オンラインゲームって逆にアホみたいにグラフィックすごくて。もちろんゲーム性っていうのはあるんだろうけど。何アレ。そろそろ本当に退会の時期なのかな。

2015-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20151205195759

短くて簡潔、しか不思議臨場感のある文章だ。

「参考になった」レビューになること間違いなし、

太鼓判を押してもいい。

http://anond.hatelabo.jp/20151205003900

「いい文章」という書き込みがあったので、読んでみた。

言わんとすることはわかる。たしか映画のようなゲームを高く評価する風潮は、

PS1のメタルギアぐらいから出てきたように思う。

しかし、それは時代の流れだったのではないだろうか。

小島秀夫が作らなくても、誰かが映画風のゲームを作ったはずである

PSの登場は、従来のゲーム機不可能だった立体表現を可能にし、

よりリアル臨場感のある、映画のようなゲームが現れる基盤を作ったからだ。

しか最近流行は、もはや映画ゲームですらなくなってしまった。

スマホアプリぽちぽち」のゲームである

本当にゲーム愛する人であれば、小島秀夫槍玉にあげるよりも、

こちらの方を憂えてもらいたいものだ。

2015-11-23

http://anond.hatelabo.jp/20151123024001

ラグビーって国内の人気って新しいとかなんか臨場感すごい。みたいのに飛びついただけじゃね。

テレビルール説明ばかりしてるような感じだったし。まあ、それでいいと思うけど。

ミスコン批判」は正当に行われたか

 京大ミスミスターコンテスト2015がTwitter上で盛んに行われた批判(と一部中傷)により中止に追い込まれた。私自身は京大生でもジェンダー論界隈の人間でもないのだが、この過程を見ていて多くの疑問を感じたので、ここにまとめていく。別にミスコン批判について詳しく解説する記事ではないので、そのようなものを期待していたなら別に読まなくていい。

京大ミスミスターコンテスト2015の問題点まとめ」を振り返る

http://togetter.com/li/903456

 基本的にはこのtogetterに沿って発言していく。ミスコン批判者側のパースペクティヴがわかりやすく整理された良いまとめであると思う。最初に断っておくが、私はミスコンをやめさせることには賛成であり、その意味ミスコン批判者側であるミスコンを開催するようなやつらは大抵が最も憎むべきタイプキモい人間であるしかし今回、ミスコン開催反対派としていち早くステートメントを出していた人々の持つある決定的な傾向が私にはないと感じたので、普通意味でのミスコン批判を〈ミスコン批判〉と呼び、この記事で疑問を投げかける対象となるものを「ミスコン批判」と呼ぶことにしよう。

 注意しなければならないのは、私は「ミスコン批判」者に敵意は全くない、ということだ。ミスコンを中止に追いやったこと、ただその一点に関しては全面的肯定したい。この記事特定の人々に対する人格攻撃に見えたのなら先に謝罪しておこう。申し訳ない。私が考えたことのどこが間違っているのかをわかりやすく教えてくれるひとが現れれば、私は満足だ。

 11月16日に「京大ミスミスターコンテスト」なるアカウントが取り上げられたことから騒動は始まる(アカウント作成自体7月のようである)。

【開催】本日より京大ミスミスターコンテストを開催します!???????? 11/29まで1日1回投票を受け付けております????是非サイトをCHECKしてみて下さい????✨ ▶︎http://www.missmisterkyoto.com/

https://twitter.com/kyotomissmr/status/666089786373877761

 これまでに何度かミスコンに関し議論が繰り広げられてきた(そして開催を阻止してきた)京大でのミスコン開催がこの時点で全くと言っていいほど問題視されていなかったという事態を重く見たひでシス氏らは、「京大ミスミスターコンテスト2015の問題点まとめ」なる文書の公開及びミスコン運営団体に対する公開質問状の提出を実行した。

京大ミスミスターコンテスト2015の問題点まとめ」草案 です。気が付いた点があれば自由コメント編集をしてください。 https://t.co/ZZeaWzn81b

https://twitter.com/hidesys/status/666153853885247488

.@kyotomissmr 京大ミスミスターコンテスト京大ミスコン)に対して公開質問状送りました。https://t.co/ENgjjDZwvk 多くの京大生たちが貴団体コンテストについて違和感・疑問点を抱いています生産的な対話となることを期待し、誠実な回答を希望します。

https://twitter.com/hidesys/status/666567472485695488

 正直に言うと私にはこの公開質問状意味がわからない。大学当局主催ならまだしも、単なるひとつ学生団体企業が関わっているかどうかは本質的問題ではない)にこのような物々しい文書を送りつけても「一部のTwitterユーザー臨場感提供できる」ことくらいしか得られないだろう。

今回、貴団体が「京大ミスミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史議論をまったく軽視しているように思えたからです。

 「これまでのミスコン開催を巡る歴史議論を軽視している」のは当たり前ではないか? そんな歴史議論認知している学生がいったどれ程いるというのだろうか。私が部外者であるから知らないだけでほんとうは多くの京大生――あくまでも「当時の」――がミスコン問題認知している、という可能性もあるが、そもそも前回類似問題が取り沙汰されたのが2012年(なんと3年も前である! 当時の2回生留年・休学あるいは大学院進学していなければもういない)らしいということからも明らかであろう(そしてあなた京大生ならば、2012年から2015年にかけてあなたフォロー欄にどれだけの変化があったか考えてみてほしい)。2012年ミスコン問題について調べたところ今回のものとは異なる質の問題だとも感じたので、実質2004年まで遡って議論を追っていく必要がある。Twitter存在しない時代じゃないか。突然「これまでのミスコン開催を巡る歴史議論」などと言われても混乱するだけだ。

今回議論に参加したわれわれ京大生の多くは本コンテストの開催を知りませんでした。京大名前を冠しているにも関わらず、京大生への認知不足に不信感を感じる覚える意見が多く出たのは事実です。「大部分の京大生の知らぬ間に京大ミスミスターコンテストを開催し既成事実を作ろうとしたのではないか」等の疑問点や不満を持っている方が多くいますミスコン開催容認派からもこのような声は聞かれました。本コンテストの告知をどのように行ったか具体的にご回答下さい。

 これは単なる団体の体力の問題だろう。7月アカウントを作り、9日間でフォロワーを300人まで増やし、ビラも配っていたのに「知らぬ間に」などと責めたてるのはちょっと厳しすぎる。普通にかわいそう。「京大」名義の使用には許可必要という話は置いておくとして、京大名前を冠しているかどうかは本質的重要な要素なのだろうか。逆に、誰の目から見ても十分な告知が成されたところで京大名前を冠しても良いと言えるのだろうか。ところで私の大学ミスコンも毎年知らぬ間に終わっている。あれが外見至上主義的だなんて思ったこともない(し無自覚に外見至上主義を推奨しているようにも見えない)。

「知と美の狂演」とWebサイトには書かれていました。コンテスト開催の意図を教えて下さい。

 「美」のほうには噛みつくのに「知」のほうには噛みつかない理由についてひでシス氏は以下のようにツイートしている。

ちなみに「人を社会的容姿で順序付けることはよくない」と考えている人たち、その理論論理力という権力勾配に乗って展開されてること、人を学力で順序付けることに関してはどう考えてるのだろう。ぼくは「学力による順序付けは生産性向上を通じて人類幸福に影響する」で一応決着つけてるんだけど

https://twitter.com/hidesys/status/667511609619841025

 故にこの批判の核、と言うか土台は、ガッチガチ功利主義であることが明らかとなった。「普遍的道徳が前提とされていて、それに従っている」というわけではないらしい(「ミスコン批判」者の中には功利道徳混同が見られるステートメントを提出する者が多く見られた)。功利に基づく批判ホリィ・セン氏の以下のツイートの後半と衝突する。

容姿」という価値基準絶対化してしまった世界――「顔という牢獄」――からの逃げ場はあるべきで、京大はその逃げ場を担っていると思う。もし京大ミスコンを許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにもミスコンは阻止しなきゃならん。マジで

https://twitter.com/holysen/status/666300727346618368

 〈ミスコン批判〉とは「多様性の維持」のためにミスコンを阻止しようという運動であるという側面を持つ、ということか。「功利」という価値基準絶対化してしまった世界――「ユーティリティという牢獄」――からの逃げ場もあるべきである。もし京大功利主義を許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも功利主義には断固として抵抗しなきゃならん。マジで

今回気になったのは、そういった少しでもマシな社会を引き寄せるための泥臭い活動を、シニカルを装って冷笑したりこのヒドい現状をさも世の中の真理のように説いたりする言説があったことですかね。「たしかおかしいとは思うが仕方ない」と言った瞬間に少しでもマシな社会は手から離れていってしま

https://twitter.com/hidesys/status/667449023977123840

 良い社会を実現するためには何をやってもいいのだろうか。功利主義的には良いんだけど。社会的に悪い影響を与えるというただその一点だけを根拠にして、単なる一つの企画弾圧することを手放しで称賛するような風潮を放置しているとさらにとんでもないことになるのは火を見るより明らかであろう。正当かつ普遍的理由で反対していないのだから、中止の時点で追及はやめるべきである

 先程のホリィ・セン氏のツイートに従うなら、今回のミスコン功利主義的に弾圧することは避けるべきなのだホリィ・セン氏のツイートそれ自体京大における 「多様性の維持」という価値基準絶対化してしまった世界――「ダイバーシティという牢獄」――を象徴してしまっているのが残念ではあるが。

 さて、公開質問状に戻ろう。

a. 容姿による人間の順序付けという行為についてどういった意見を持っていますか?

 突然「容姿による人間の順序付け」というワードが出てきたが、ミスコンと何の関係があるんだ? そもそも「ミスコン」と「容姿」の間に直接的な関係はあるのだろうか。これらの間接的・結果的な「つながり」がこの一文によって再生産されている、ただそれだけである

c. 所謂女性らしさ」や「男性らしさ」の押し付けに繋がることについてどういった意見を持っていますか?

大学という本来容姿や性で判断されてはならない場でこういった企画を行うことは問題だ。という意見が寄せられています

ミスミスターコンテストは、ほとんど容姿判断されるコンテストと言って過言ではなく、そういったコンテストを男女で分けて行い、女性男性)同士を比べてその中で1番を決めると、「この人が女性男性)の中で1番」という「基準」が生まれしまう。その「基準」は女性男性)らしさの押し付けに繋がっているという意見が出ました。

 同上。直接的には繋がらない。最初からルッキズムが浸透していることを仮定しており、本末転倒である。また、ミスコンときが出場者以外への特定価値基準の「押し付け」に繋がるとは到底思えない。

 公開質問状についての主要な議題は以上である。この質問状とTwitterでの制御の効かなくなった批判中傷によりミスコンは中止となった。

今回のコンテストの中止を決定いたしましたのでご報告いたします。

詳細につきましては、ホームページにてご確認ください。

お騒がせ致しまして申し訳ございませんでした。

http://www.missmisterkyoto.com/

https://twitter.com/kyotomissmr/status/667328501154844673

 中止についてのtogetterでのコメントはこうだ。

中止の決定の後4時間ほどで公開質問状に対する回答が送られてきた。ただ多くの質問説明責任がないとして回答しないもので、不誠実だと感じられた。

 説明責任はない。どうして説明責任があると思ったのだろう。純粋に、不思議だ。

京大ミスコン問題2015の公開質問状に対して回答が得られたので、議論用のDocsと総括用Docs作成しました。ご自由コメント編集下さい。 回答と議論https://docs.google.com/document/d/1BybFd2Th2NzTMQ3AK76kTrVjxB7S0jkMBSjVKGdQ4oE/edit 総括とこれからhttps://docs.google.com/document/d/1L8bcokWX-gEHD0ecqT8UC_NyDBrboPULl3TSlZewjY4/edit

https://twitter.com/hidesys/status/667397142751911936

 また、以下のような危うい意見もあった。

ミスコンの基盤となる差別的価値観日常模倣で、「ミスコン」はステージだけでなく日常で行われ続けているという事を認識してたら、一つ企画が中止になったところで「勝利」なんて言えないと思うけど。。ミスコン反対もクエストになってどうすんの。 >京大ミスコンクエスト

https://twitter.com/mearythindong/status/667393567006965760

 このような発言をすることによって差別的価値観再生産し続けると永遠に闘い続けなきゃいけなくなりますよ、としか言いようがない。自足自給はやめましょう。

ちなみに言っておきますけど、ミスコン内包している問題構造日常の中に浸透しているからこそ今回ミスコンミスコンとして具現化した・言い換えるならばミスコン日常的にも起きている、というのはその通り。

https://twitter.com/hidesys/status/667443372475424770

 同上。

京大生、変人を気取っていても不義不正は許せないモラリストが多いんだなあという感じだ

https://twitter.com/KTPGR/status/667357996343648256

 moralistよりもethicistになりましょう。そして自分たちがやったことについてもう一度よく考え直してみましょう。

 以上、眠くなってきて最後の方はテキトーになっているが、ここで終わろう。言葉をうまく選べているか不安だが、最初に述べた通り、攻撃意思はない。

2015-11-07

http://anond.hatelabo.jp/20151107082443

王子様は、子供の時に読んだ絵本アニメから白馬に乗ってやってくるイメージがある。

これを日本版ヒーローにすると、白馬に乗った武将になる。

私的な王子様とヒーローについての印象だけど、王子様よりヒーローの方が戦闘能力が大きいと思っている。

映画では王子様の戦闘シーンはなんとなくあっさりで、ヒーロー戦闘シーンは臨場感たっぷりに描かれているだろうか。

2015-10-23

テレ朝スケート中継をするのはもうやめないか 2015年

2008年にこんな話を書いた。

http://anond.hatelabo.jp/20081218141858

で、あれから7年、2015年テレ朝改善したのかというと凄いことに、ほとんどの項目で悪化した。

第1戦アメリカ大会放送スケジュールを見てみよう。

地上波(エキシビション放送しない上にショートよりフリーの方が短いよ!)

10/24 (土) 14:00 ~ 16:00 (120分) 男女ショート

10/25 (日) 13:55 ~ 15:20 (85分) 男女フリー

BS(地上波よりかなりマシだけど1日遅れ&男女だけだよ!)

10/24 (土) 21:00 ~ 22:59 (119分) 男女ショート

10/25 (日) 21:00 ~ 22:54 (114分) 女子フリー

10/26 (月) 19:00 ~ 23:00 (240分) 男子フリーエキシビション

CS(生中継するもん間違ってるし、今更するのかよレベルの日付)

10/26(月)4:00 ~ 6:45【生中継】(165分) エキシビション

11/14(土)11:45 ~ 13:05(85分) 男子ショート

11/14(土)13:05 ~ 14:55(120分) 男子フリー

11/17(火)19:00 ~ 20:20(80分) 女子ショート

11/17(火)20:20 ~ 22:15(115分) 女子フリー

11/19(木)19:00 ~ 20:00(60分) ペアショート

11/19(木)20:00 ~ 21:15(75分) ペアフリー

11/20(金)19:00 ~ 20:00(60分) アイスダンスショート

11/20(金)20:00 ~ 21:15(75分) アイスダンスフリー

どんだけひどいか解説

アイスダンスは1ヵ月後だ。悪化してる。記憶によれば去年は2週間遅れぐらいだった。第2戦~3戦の間ぐらいに第1戦のアイスダンス・ペアがある感じだった。

11/20というのは第5戦ロシア大会の初戦の日である。次の次はGPファイナルである。どういうことかと。

でも時間的に全部やりそうだし、やってくれるだけいいのでは?と思うだろ?ところがどっこいこんなことが書いてあるわけよ。

>> テレ朝チャンネル2では、大会臨場感そのままに会場の音のみでお送りします! <<

まり国際映像を買ってただ流すだけである。新しい選手とか名前がわかんねーんだよ。曲も何流してるかわかんねーんだよ。

こんなん海外ネット中継見るほうがマシじゃねぇかよ!

なんだろ、欠片も放送してくれてありがとうという気持ちにならん。

我が家ではとうとう今年はテレ朝チャンネル契約しなくていいかという話になった。

2008年から改善したのはアナウンサーのみ?

アメリカ大会アナウンサー森下桂吉進藤潤耶

ところがどっこい、第2戦カナダ大会角澤照治大西洋平でしたー!

いや、まぁ2008年よりはマシになったよ、角澤さんもね…。

大体、「フィギュアスケートグランプリシリーズ世界一決定戦」とか言ってるが、世界一決定すんのは世界選手権だっつーの。

それでも世界一決定戦だと言い張るなら、その決定戦であるGPファイナルの前に1戦目~6戦目の全ての競技を放送しておけよ。

誰が勝つかわかってる競技を見返したって感動半分なんだよ!!

ちゃんと放送しないから未だ2005年から放送して10年にもなんのに、戦えるペアとアイスダンス選手が出てこないんだよ…。

ただでさえパートナー必要から敷居が高いってのに、「選手にあこがれる」機会も少ないんじゃさあ…。

とにかくテレビ朝日は、フィギュアファンの「最低限これぐらいは…」という期待値を常に下回った放送しかしてこない。

スポーツに関してはクソ放送局No1である

2015-10-15

風俗は録音に限る

最近スマホの録音アプリ進化した。かなり鮮明に録れる。

さなバックに入れて、風俗嬢が部屋をノックしたタイミングで録音スタート

バックのチャックは開けたままで枕元に無造作に置いておく。

スマホの画面は明るいままかもしれないが、さすがに風俗嬢もバックの中まではチェックしない。

余計なオプションなんて要らない。「言葉攻め」なんてどこも標準サービス

色々お願いして言ってもらう。でも、変にしつこくお願いしたら怪しい。

風俗嬢のさりげないリップサービスを拾って、「もっと言ってみて」とか茶化しながらお願いする。

相手も仕事から、盛り上げようと頑張る。AV女優台詞より100倍興奮する。

口でしてくれるのもなるべく音を立ててくれるよう誘導する。

そしてすべてが終わって帰ったら録音チェック。

自分の喘ぎ声はこの際仕方ない。この空気感を実際に味わっていた臨場感大事

分かってるよ。禁止なんだ。バレたらどんなリスクを負うか分からない。禁止事項だよ。

でもね、普通にやればまずはバレないんだよ。もちろんネットに流したりなどの馬鹿もしない。自分用。

から風俗嬢なんてやるもんじゃないよ。こうやって持って行かれるよ、色々。

2015-10-08

http://anond.hatelabo.jp/20151008220957

感情移入できない客観的姿勢現場臨場感を盛り上げてるってことだよね。

確かに、そういうシーンが結構よかったよ。

2015-09-13

二次萌え日本人アイデンティティ

昨年急に浮世絵に目覚めた人です。

http://anond.hatelabo.jp/20150815210249

日本では西洋風の写実的な画風が育たなかったのはどうして?

若冲みたいな、鳥単体とかなら写実的な描画スタイルもあったとは思うけど。

ガラパゴス的な、進化の経路の違いということなのかな。

これに対して、

http://anond.hatelabo.jp/20150816024827

こんなエントリを返してみたのだが、風景画などに比べると、人物画は、少なくとも浮世絵というジャンルにおいては、日本は独特の様式進化してるように思う。

ここで、それについて説明していきたい。

日本人アイデンティティに関わる部分が多く、絵だけでなく、できれば安保やSEALsにも話を展開できればなんだが、とりあえず筆にまかせて書き綴っていく。

スーパー歌舞伎2 ワンピース

https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%80%80%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E&espv=2&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAgQ_AUoAmoVChMIkcCEjNTzxwIVg-CmCh294A4a&biw=1920&bih=955#imgrc=V6YCFKaDZ9-V7M%3A

ここで、見てもらいたいのは、ルフィ市川猿之助に似ていないこと。

なぜだろう?

「なにを言っているんだ?」「ワンピースの絵でありゃよくて、役者に似せる必要などないだろ」

その通りだ。

ワンピースであることが大事であり、尾田絵であることが大事であり、役者の顔など関係がない。

ナミもロビンもオッサンが演じるわけだが、オッサンにする必要はないのだ。

浮世絵で、顔が似ていないという根本理由はここにある。

役者絵とは、舞台看板に由来するため、元来似せる必要がなかった。

歌舞伎であることが重要である

歌舞伎であること、それがわかるのが重要である

初期の役者絵を一つ、初代鳥居清倍から一つ紹介する。

初代鳥居清倍「市川團十郎

http://data.ukiyo-e.org/ritsumei/images/Z0163-028.jpg

歌舞伎看板絵は代々、今でも鳥居派の絵師が描いている。

狭い意味で言えば、鳥居派の絵こそが公式な絵、ワンピースで言えば尾田の絵であり、この後隆盛を誇る勝川派や歌川派の役者絵は、非公式アンソロジーみたいなものである

絵はすなわち、歌舞伎様式美世界観江戸空気体現したものではならない。

ゆえに、役者絵に描かれる人の顔は、あのように似ていなかったのである

この、様式美に反旗を翻したのが勝川春章と一筆斎文調である

似絵、似顔絵という、役者に似せた絵にたどり着き、2人の共著の一冊の絵本世界を変えた。

勝川春章

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B7%9D%E6%98%A5%E7%AB%A0#/media/File:SHUNSHO-Nakamura-Nakazo.jpg

この二名のうち、勝川春章のほうは歌舞伎世界観様式美との調和成功し、商業的にも成功、多数の弟子をとり、勝川派という一派が出来る。

http://data.ukiyo-e.org/aic/images/95101_482279.jpg

顔のみならず、肢体まで正確なデッサンを基本に描いているのがよくわかる。

歌舞伎雰囲気をそのままに、デッサンは正確、一世を風靡する

彼は印に「画中造化」(造化とは造物主、天地の法則のこと)を用い、絵の中に神を宿すという気概があったんじゃないかと俺は思う。

ちなみに、葛飾北斎勝川春章の弟子であり、若い頃は勝川春朗を名乗っていた。

面白いことに、この顔を対象に似せて描くというムーブメントは、男性の顔に対してだけである

谷風となには屋おきた」勝川春潮画

http://ginjo.fc2web.com/208sanoyama/tanikazw_otaki.jpg

歌舞伎の女役ならば、オッサンにするわけにいかないのはわかるが、町娘書く場合であっても、テンプレ顔。

正確にはテンプレ顔のなかにも表情はあるのだが、男性デッサンを基づく顔で、立体造形は可能なのに対し、女性の顔はおそらく3D化できない。

スネオ髪型カイジのの顎ほどではないが、この顔は立体造形が難しい。

女性の顔については、この後に続く喜多川歌麿については外すことができないのだが、こんかいエントリでは男性の顔に主題を起きたい都合上、また別の機会にかかせてもらう。

続いては、やはり東洲斎写楽と歌川豊国について触れないわけにはいくまい。

先に写楽に触れよう。

東洲斎写楽、聞いたことはあってもなにがどう凄かったのかを説明できる人は少ないと思われる。

http://data.ukiyo-e.org/aic/images/97845_505370.jpg

http://torinakukoesu.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2010/03/13/sc153602fpxobjiip1.jpg

最初に感じるのは明らかな異質である

Webで調べると、「強烈なデフォルメ」と表現されるが、簡素な線は実は正確に人の顔を捉えている。

小鼻の膨らみから、顎の厚みから、少し線を書き足すだけで全て補完可能で、輪郭線の修正必要ない。

芝居小屋の闇を表現たかのような黒バック。この黒バックは光を当てるとキラキラと光る仕様になっていて、芝居小屋の闇の中で白塗り人間スポットライトがあたったような臨場感を醸し出している。

実際、写楽は売れなかったらしい。

なんの実績もないし素性がわからない新人が豪華なデビューしかも大コケしているにも関わらず次々と新作発表。

いわゆる写楽の謎というものである

よくみると上手いのにぱっと見で下手、よくみると下手なのにぱっと見では上手い、正確なデッサンの部分があるのに、全体だと崩れた感じ、当時の常識ではありえない色彩感覚、いまだに正体は謎である

ところで、写楽商業的には失敗だったが、画家たちへの影響は確かにあった。

写実とデフォルメの高次元の融合、舞台化粧、舞台の緊迫感を受け継いだのは、たとえば

歌舞妓堂艶鏡

http://nichibi.webshogakukan.com/yorozu/kabukido_350.jpg

http://dejimashoten.sakura.ne.jp/bookimages/359787.jpg

明らかに写楽意識してる。

さて、東洲斎写楽と歌川豊国のうち、次は後者について。

歌川豊国役者絵とは、ひらたく言えば二次元絵、アニメ漫画の絵の祖になる。

勝川派の始めた写実の路線から、再び二次元絵に舵を切ったとも言っていい。

http://data.ukiyo-e.org/ritsumei/images/Ebi0124.jpg

歌川派の役者絵は、わかりやすく言えば、たとえ横顔だろうと、正面から見た顔のパーツをつける。

弟子歌川国政だが

http://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc214417.jpg

この流れは、幕末までずっと加速し、圧倒的な作画量を誇る国貞(実質の三代目豊国自称二代目豊国)、幕末豊原国周まで続く。

末期がどんなになったかといえばこんなだ

http://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc169830.jpg

大衆は、写実より二次萌を選択したということ。

さてさて、文明開化で圧倒的な強さを誇っていた浮世絵様式、というより歌川派の様式の人気に陰りがでる。

人物画にふたたび写実との間でゆれうごく。

ここでは月岡芳年をあげぬわけにはいくまい。

最後浮世絵師と言われた彼の晩年は、西洋画の技法を消化し、浮世絵にした。

晩年ともなると、このような感じ。

http://data.ukiyo-e.org/scholten/images/48cf87c54075046c12f9df3e790f5dd9.jpg

しかし、画家ではなく浮世絵であり続けたというのが面白い

一枚の画中に両方の様式で人の顔がかかれてる面白い絵がある。

http://data.ukiyo-e.org/metro/images/1594-C051.jpg

絵の上半分の人物の顔は、見えるであろうその通りに描かれている西洋式の絵。

下半分の人物の顔は、正面から見た目や口を横顔に貼り付ける歌川派の様式

どちらかと言えば、下の絵のほうに力強さ、人間らしさを感じるならば、我々はなんだかんだいっても二次萌えの血が流れる日本人である

まとめると、漫画歴史とすごく似ている。

そもそもデフォルメ絵があり、それを元に進化が始まった。

写実的な絵が入り、そこから劇画調な漫画が始まる。

劇画調の漫画は、写実から離れ、劇画という絵のジャンルが出来る。一見すると写実的なようだが、立体造形は不可能

人物の描き分けも出来ているようで出来てない。あるいは意図的にしない。例を上げるとシティーハンター

再び、コミカルデフォルメ絵にシフト

デフォルメしつつも、デッサンもしっかり、例を上げるとドラゴンボールか、であったが、デフォルメだけを受け継ぎ、骨格はデタラメOKになる。

人物はデフォルメでも、背景描写パースを重視するのも浮世絵的。

っと、ここまで書いてみたものの、安保につなげられる気がしねぇのでここまで。

ちゃんとした美術史や絵の解説から学ばずに、webの知識と年表と絵の印象だけで語ったんで、間違いもあると思うんで、指摘してくれると嬉しい。

2015-08-15

Fate/Grand Orderこの先生きのこるか

やっとiOS版のFate/Grand Order(以下Fate/GO)がリリースされたので、プレイしてみた感想

最初に言っておくならば自分は年季の入った型月厨であり、このゲームリリースも大変楽しみにしていた。

けれど蓋を開けてみれば、先にプレイできていたAndroidユーザー感想通りちょっと酷い。

別にネガティブ・キャンペーンをしたい訳ではないから、とりあえず先に良い点をあげてみようと思う。

良い点

1.シナリオが良い

2.レアリティの高い(★4以上)のカードイラストはどれも美しい

1は原作シナリオライターが手がけているのもあって、文句なし面白い

2に関してはイラスト担当はそれぞれによって違うものの、これもまた原作イラストレーターが仕上げていると思われるものが多く、原作好きとしては嬉しい。

それから、、、うーん。頑張って考えてみたが、良い点は他に思い当たらない。

次に悪い点。

1.戦闘テンポが悪い。

 前々から聞いてはいたけど、いや、本当にこれね、ストレス溜まるんですよ。

 じゃあ具体的にどんな感じなの?って聞かれると、そうね、雑魚戦でも普通に5分以上掛かる。進むにつれて敵のHP(体力)があがるのでもっと掛かるようになる。

 これには原因が5つあって、

 a.戦闘モーションがいちいち発生し、高速化することも省略することも出来ない。

  戦闘時には3Dになったキャラが動くのだが、これがまたコマンドを選ぶといちいち敵の元へ走る→ちまちま攻撃する→元の位置に帰ってくる、

  これを最高で3キャラ分繰り返す。

  要は1ターンに掛かる時間が既に長い。

 b.一度コマンドを選ぶとキャンル出来ない。

  これは説明が難しいんだけど、要はキャラクター特別スキルを使う・通常攻撃コマンドを選ぶの二通りあって、

  一度通常攻撃の方を選ぶとスキル選択画面に戻れない。

  現状未実装機能かと思ったらプロデューサーによれば戦闘臨場感を出すためらしい。

  確かにやり直しが効かないってのは臨場感・緊迫感あるかもしれないけど、昔を思い出して欲しい。

  FFドラクエボスに挑む時、一つのコマンドを選ぶだけで手に汗握ったことはないだろうか。

  要はこんな制限はなくても敵が強ければ臨場感も緊迫感も生まれるし、現時点で十分に敵も強い。

  正直なにかしら実装できない言い訳なんじゃないかすらとも思う。

 b.キャラクターサーヴァント)のレベルを上げにくい。

  これは昔からよくあるシステム通り、操作するキャラクターレベルを上げることが出来るんだけど、これがまた大変上げるのが難しい仕様になっている。

  まず、戦闘しただけじゃキャラ経験値は入らない=レベルを上げられない。

  じゃあどう上げるのかというと、キャラレベルを上げるには専用の育成アイテムがあり、それを用意する必要がある。

  これがまたなかなか通常クエスト中の敵からドロップしない。

  レベル上げアイテムドロップする専用クエストに行く必要があるのだが、そのクエストに行くには高額なAP必要になる。

  しかAP回復は遅すぎる。

  *APソシャゲでよくある時間回復するポイント。このポイントを消費することでクエストに挑戦できる。

 c.無駄に敵が固い。相性によって戦闘難易度が違いすぎる。

  序盤から相当敵が強い。体力も多いし攻撃も痛い。

  これに打ち勝つにはレベル上げをするか、強いキャラを手に入れる必要がある。

  もしくは相性の良いキャラを持っていくか。

 d.しかし、ガチャキャラが出ない。

  こればっかりは本当に出ない。出なすぎ。

  いわゆる10連(3000円)で★4以上一つ確定というキャンペーンをやっているものの、

  出てくるのはキャラではなく、キャラの性能をあげることが出来る概念装備というものばかり…。

  ★3のキャラが出ることはあるが、★4以上のキャラにはもう10回ぐらい回したけどお目に掛かったことがない。本当に実在するのかレベル

  ★4以上の強い装備を手に入れたって装備するキャラがいなければどうしようもないのである。故に戦力は本当に上がりにくい。

2.AP回復が遅すぎる。

  前述の通り、APというポイントを消費することでクエストに挑戦できるのだが、これの回復が他のソシャゲと比べても格段に遅い部類。

  10分に1P回復クエスト必要ポイントは進行具合によって変わってくるが、

  先ほどのキャラ強化に必要ポイントは初級で10、中級で20、上級はなんと40。

  現時点で最もよくプレイされてそうな中級ですら2020*10分、およそ1時間半に1回しかプレイ出来ない。上級にいたってはその倍だから3時間に1回。

  これに合わせて通常のクエストプレイしたいのならもっとプレイする機会は少なくなる。

3.ガチャキャラが出なさすぎる。

  これも前述のとおり。

  本っっっ当に出ない。全くもって出ない。ソシャゲにおいて一番の魅力はキャラなのに絞りすぎだよね。

  ましてやリリース直後なんて、ウマウマさせて顧客をつかむものだと思うんだけど、全然その気配なし。

  あとガチャの★1~3キャラの魅力が足りない。

  こんな言い方はしたくないけど、キャラによっては明らかにイラストクオリティが低くて、なんとなく開発費足りてないんだろうなと感じてしまった。

  広告費にお金使いすぎたんじゃないかな。無駄アニメ多かったし。

  せめて★1~3キャラでもイラストや魅力が良ければ踏ん張れるんだけどね。

まとめ

 現状じゃ時間お金も掛かりすぎて、プレイする気が起きないです。小説版、お待ちしております

 

 もう少し分かりやすくまとめようと思ったけど疲れた

2015-07-05

たまに友人に誘われて映画見に行くんだけどさ。毎回おもしろかったなあ、すごかったなあと感動する

ハリウッド大作が多いからかもしれない、舞台設定に音響に、まあとにかく金がかかってるし手がかかってるし臨場感とかすごい

んで思ったんだけど、アニメ映画館で見る人って何を見てるの?ストーリー?なんかそれもったいなくない?

映画館スクリーン音響設備をもってして、アニメ

いや、アニメ映画全部を否定する気はないよ、ジブリとかアニメ映画でも世界観作りこんでるだろうしね、ディズニーだってそうだ

けどそれ以外の、いわゆる深夜アニメ劇場版もそのレベルで作ってあるの?そうは思えないんだけど。いや見てないから知らないけどさ

劇場版コナンとかドラえもんとかは子連れで見るもんだし、鑑賞とは別ベクトルだと思うから質とか問う気さらさらないよ

けど深夜アニメ劇場版とかさ

先日も映画を見に行った時、予告編でいろんな映画宣伝を一通り見たんだけど、

その手のアニメだけは映画スクリーンで見てもただのアニメだと思ったんだよね

こんなのに2000円とか払って映画館で見るってどうなのって正直思った

それとも同じ趣味の人みんなで見るってところに価値が有るのかな、分かんないけどさ

2015-05-23

※冒頭のお詫びとお断り検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。

お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NA文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやき投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)

『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分感情文字にして確認してみたいと思います

RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。

でも、と、その余白をわたし想像します。

家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しまたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRR裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。

しかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RR部隊の勝機を完全に奪った…。

RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRR「悪」として描いてはいません(むしろ宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。

SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間矛盾二面性を丸ごと生きているのでしょう。RR覚悟悲壮であるとすれば、そのような自分気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RR祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。

ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。

SSは、RR名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別感情も抱きません(し、そのようなクールRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。

そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。

このSS創作風景に、作者NA自身創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。

先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在のものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)

その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!

「獣」と書いていますが、つまり世俗社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差しします。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」解放すべく死を願うも、それを押しとどめるもの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。

ところで、世俗社会的価値観(=知覚や意識)は、SS「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存価値観にとって、おめおめと生き恥さらすような人生を続けることを求めますSSの抱く既存価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存価値観=知覚や意識で)自分定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思いますSSSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈いつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在のものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和時代から当時を見つめる、超越的な作者NA視点でもあります

ここで描かれたSSの姿は、作者NA解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたし勝手に補ってみました。)

そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思いますNAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRSSSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)

からこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思いますRRSSが抱えた宿命の重さも悲壮覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います

作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分必要ものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だからわたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます

最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなた真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなた否定するものではありませんこと、ご理解ください。)

自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じていますあなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手ファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています

h_s

2015-02-02

ゲームの素材集って見てるとわくわくするよね

タイトルプロットすら全然考えてないけどフリーフォント見ては「タイトルロゴはこのフォント使いたいなー」とか

Pixiv見て回っては「立ち絵はこの人にお願いしたいなー差分かいくらくらいかかるのかなー」とか脳内勘定したり

SE集見ては「敵にやられたときにこれ流すと臨場感出るかなー」とか考えたりする。

雑魚敵のドット絵素材集とか特に妄想が捗って良い。

正直ゲーム作る気なんて全くないんだけどこういう素材見て回って漠然とした妄想してるとすっごくワクワクする。

この気持ちがわかる人って私以外にいるんだろうか。

2015-01-13

http://anond.hatelabo.jp/20150109195320

呼ばれた気がしたので来ました。

疑似餌で釣るより生きた魚に針刺して放り投げたほうが食いつきがいいに決まっているだけの話です。

ルアー申し訳程度に生肉くっつけたくらいのそんな餌では掛かる量もたかが知れていますよ。

それよりも病み付きになるのは、他人から剥ぎたての生皮を着込んで漁場にダイブするスタイルです。

いろいろな魚に身体をついばまれつつ最後に丸呑みされる臨場感を一度でも味わってしまうと、外から糸を垂らすだけの釣りなんて子供の遊びにも感じられませんよ。

2015-01-11

他人の不幸を動画で見る人たちのポジション野次馬

不謹慎なことかもしれない話だけど、ぶちまけたいので書いた。

あんまり文章書かないから汚い文です。

今、振り返ってぞっとした記憶ことなんだけど・・・

現在自分の中で何かの折り合いが付いていない件がある。

それは、他人の不幸の前にたった自分のことだった。

大阪住まいだが、阪神大震災の時はあまりの揺れに恐怖で飛び起きたことしか覚えていない。

でも、そんなに自分の周りで家を失ったとか、被災して亡くなったって人はいなかったので隣の神戸の有様には新聞TVしか見たことのない現実にどこか上の空になっていた。

あの時見た報道内容が、震災の怖さなんだなって程度に思ってた。

当時はネットが普及していなくて、自分センター試験受験の年だったのでそれどころじゃなかったのだ。

というか、むしろ受験勉強の年にあんな事態になっても、勉強のことで頭がいっぱいだったので思い出に残らなかっただけなんだろう。

だが、2011年の震災の時はその受け止め方が変化した。

TV被災して川に飲み込まれる人を撮影した動画画像ネットに散乱していたのだ。

遺体が流れているのはあそこだとか、今あの動物が水に飲まれたよねとか某動画サイトで多くの人が見てコメントを流していた。

流されて悲鳴をあげて、それが消える瞬間とかリアルな人の死を動画サイト自分は見てしまったのだ。

あのとき、すごく衝撃的でコメントできなかった。

コメントできる人が、怖いって感じた。

でもコメントできない自分も恐ろしいって思った。

べつにコメントすることで何か得るものがあって前向きなものになるってことでもないというのはわかってる。

見たあとに本当にいろいろ思ったんだ。

TV報道されない部分を見て、報道規制のないもっともっと残虐な他人の不幸を見せろと言わんばかりの煽りコメントがある件には言葉が出なかった。

しかし、言葉の出ないようなものを見ている自分の中の野次馬根性もひどいもんだと落ち込んだ。

臨場感あふれる悲惨さ、残酷映像、溺れてる人の姿を見てもこれはすぎた過去なのに、どう視聴していいのか戸惑い、怖くなって閉じてしまった。

中には被災者に祈りを捧げます。無事でありますようにって祈るコメントも多くあった。

だが、大抵のコメントが「すごい・・・」「やばい」「逃げて逃げて」「そんなとこいるな」「ひどい」「日本終わるのか」「あの犬逃げて」「うわあああああ」

とか過ぎ去った過去動画を見ながら、映画館アクション映画を視聴している時のような印象が圧倒的だった。

モニターの前に映るものを、全て現実の中から切り取ってきた事実として位置づけているのに、どこかアクション映画のように眺めている感覚だったんだ。

興味本位であんなの見るんじゃなかったって当時、思った。

だけど、興味があったからあの動画を見たのは自分だ。

選択したものに関心があったか自分はあれをクリックして見ていたんだ。

結局、それが自分以外の他人の不幸だから見れるってだけで見てしまったんだろうって言い聞かせて画面から逃げた。

近所で火事が起きて人だかりができて見物するのも、こうして動画を見て人の不幸にコメントするのも・・・結局は他人の不幸で飯が美味いっていうものなのだろうか。

自分じゃない他人が苦しんでる姿を見て、なにができるかって思考がすぐにあの時、自分は思い浮かばなかった。

ただコメントで「無事でありますように」「冥福を祈ります」とかそういう言葉を送っても、届くものってないんじゃないだろって何度も何度も思考したけど答えがすぐにでなかった。

少ししてから義援金を振り込むという金策援助に自分の中で落ち着いたけど、動画を見てると人を助けるための、人の力になるために必要な最速最短の思考決断が鈍ったのは事実だった。

他人が苦しんでるから助けたいので義援金を送るっていう選択をしたってことになかなか困惑したんだ。

自分は、「あの動画を見て野次馬をしていた。好奇心に満ちたハイエナみたいなもんです」って心を隠してあの頃日々を過ごしていた。

まりハイエナ行為をしていたけど、後ろめたさを感じながらあなた方の不幸を知って支援に関わっていますって己が惨めでたまらなくかんじてしまったんだよね。

多くの人が困ってるっていう状態を知る手段が、あの動画で心理迷路に入ったんだ。

パニックになりそうだって思った。

人間の本性で「他人の不幸で飯が美味い」に落ち着く人って、自分のほかにもいるのかなって今でも思ってる。

2015-01-02

なんでエロゲって画面サイズ指定できないの?

フルスクリーンモードウィンドウモードしか選べないエロゲほとんどだと思うんだけど、なんで画面サイズの調節すらできないのばっかなんだろうか。昔からずっと疑問。

3D凄いPCゲームだったら技術的なことはよくわからないけど何かしら面倒くさいことになるのかなーってまあ納得できるんだけど、ただの紙芝居エロゲなら100%余裕でできるじゃん。

フルスクリーンだったらいざってときに隠せないよ!ウィンドウモードのちっちゃい画面は臨場感ないよ!

風習なのかなんなのか知らないけど早いところ改善して欲しいです……

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰4

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

原稿

原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿執筆推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。

さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているもの存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダ偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。

文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダ感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである

はいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。

よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。

水島の「ラノベ文体」と榎本の「ガイド

水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。

具体例として次の例を挙げている。

「すごい美少女だ!」

俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、

――ドカーン

背後で、謎の爆発が!

なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである

何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である

はい学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲーム携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。

読者はバカからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島姿勢はいささか理解に苦しむところである

第一文と冒頭からの3ページ

クーンツ作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。

一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公描写自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るもの描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。

また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。

人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。

しかしながら、これも絶対的忌避されるべきかといえば難しい。

例えば名作と名高い「猫の地球儀」は

あれから七百年と半分が過ぎた。

朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後スカイウォーカーだった。

と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自専門用語を第二文目で出すなど言語道断である

しかし筆者は、上述の水島のドカーンはるか凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。

作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっと妥当であるように思われる。

従って、アクションから入ろうが主人公身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。

情景描写臨場感

頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。

また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果であると主張する。

こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。

止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。

仮に作家自分想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂い付与されているのであれば、臨場感さらに高くなるだろう。

絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法類似点、相違点については十分な調査検討必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。

場面の切り替え

より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校テストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。

これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車ヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである

会話文

クーンツは会話は全体の20~30パーセント必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるバランス必要である

その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツ発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。

ヒックスは会話の機能として、「ストーリー前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。

このようにクーンツヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。

この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本筒井批判するところと言いうるだろう。

人称の効果と神の視点

説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報記述してしまう、という点がよく指摘されるところである

一方で三人称体は登場人物の知りえない情報記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。

このことから水島は、「楽しさ重視のコメディ一人称」が望ましく、「複雑なストーリー三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。

一方で飯田三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。

はい三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。

一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称メリットと、感情移入を容易にする一人称メリットを同時に享受できる極めて強力な技法である

なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロ作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。

他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家登場人物批評したり意見を述べるのは19世紀時代遅れ手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。

端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。

筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論必要であることから本稿では割愛する。

過去の回想/夢

水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリー情報提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。

一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述ある意味でこのフラッシュバック効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。

クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。

推敲

推敲重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。

冲方推敲の要点として、「冒頭とラストインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。

最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディアプロット原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。

投稿文字数上限により、下記へ続く

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰5

2014-12-05

便所飯

きょうのお弁当メニュー

冷凍春巻き(自然解凍

ホウレンソウあえもの自然解凍

卵焼き

からあげ

ウィンナー

ごはん若菜味

寒くなってきたので、軽く除菌アルコールティッシュで敷き様座布団を引き、座る。

荷物とコートはドアの荷物掛けに。

誰かが入ってきたら、使用中の音をかもすようにペーパーをくるくる回す金属音を立てる。

臨場感出すために流し音もしながらペーパー回せば水洗後も使用感満載になるからしばらく使用中オーラが出せる。

使える時間は訳10分。この間に食べて、消臭スプレー臭いをけし、歯磨きを別の階のトイレでする。

計16分の計算だ。

その後、15分は別の階のトイレで仮眠を取る。

ノロ防止にせめてものマスク使用はかかせない。

2014-10-17

妻はおしっこをもらしてしまった

高速のPAで、トイレをすませるように言った。

4歳になる息子は、「大丈夫」と大見得を切っていたが、すごい内股を擦り合わせていたので、無理やり連れて行った。

妻はそれを見て苦笑していた。

PAを抜けると、事故による通行止めがあった。

それに伴って、1mmも進まない渋滞が発生した。

渋滞は車内の空気を淀ませる。

妻は明らかにいらいらした様子で、息子を叱り出したり、おれを叱ったりした。

渋滞がはじまって1時間ぐらいたったころ、妻は「次のPAまでどれぐらいかかるか?」と聞いてきた。

交通規制がいつ解除されるかは、分からない。

うーん。と答えあぐねていると、耳元で「おしっこにいきたい」と言われた。

なんだって

車の現在地高速道路の陸橋だ。

路肩めいた個所はない。

また、規制解除されたら発車を余儀なくされる位置であり、降車はよくない。

「どれぐらいがまんできそう?」

「もう無理かも」

オーケー落ち着け

おしっこに関しては、もう漏らしてもらうしかない。非情決断だ。

その上で、車内の被害を最小限にして、なおかつ妻のプライドをどうするかという問題なのだ

トランクビニールシートがあった。

あれを、妻の座る助手席にしこう。

次に息子だ。

おしっこ漏らす、漏らさないみたいな話は大好きなやつで厄介だ。

ようし。

「おい、妖怪ウォッチはイヤフォンつけてやれ」

「えっ? 車の中では気持ち悪くなっちゃうからやらないよ」

渋滞で止まってんだから大丈夫だよ。あと、音量最大にすれば気持ち悪くならないし、臨場感が出るぞ」

「そうなの! やってみよう」

「あ、鼻にティッシュ詰めとくと、もっと気持ち悪くならない。あと、運転の邪魔から、後ろ向いてやれ」

「あ、はーい」

降車して、ビニールシートをトランクから持ってきて、妻の座席に敷いた。

妻はパンツを下ろして、おしっこを漏らした。

彼女は泣いていた。

情けなかったのだろう。

しかし、きみが泣くことはない。

プロポーズとき結婚ときに誓ったように、きみの笑顔保証する。

妻には運転席に移動してもらって、おれはおしっこまみれのビニールシートが敷いてある助手席に移動した。

そして、おれもおしっこを漏らした。

やがて、車は動き出し、次のPAビニールシートを捨てた。

妻は、「あなたバカね」と言いながらも、涙は消えていた。よかった。

息子は、大音量と鼻栓で車内でゲームしても気持ち悪くならなかったことに感動していた。

なにはともあれ、今日平和でよかった。

2014-09-21

ハイレゾ機器を試してみた

違う。確かに、今までのCD音源機器比較すると、リアル

効いてきた音源が、アカペラや単楽器ものだったから、臨場感いまいち分かり難かったけれど、クラシックオーケストラの類なんかでは、大きな開きが出るんじゃないかと思った。音質だけでも、結構違う。場所を移動しているのも分かった。

よって、今後の音楽業界の傾向:

人の力量や楽器の質が問われる音楽が売れる、つまりクラシックアカペラアコースティック系の復古

2014-07-12

東日本大震災を振り返って

先日、クリエーター系の友人と東日本大震災が与えた影響について話した。影響と言っても創作界隈に関する話に限ってだ。

一応、立場を明かしておくと僕ら二人はどちらも震災による被害(計画停電を含め)は全く受けない地域にいた日本人だ。

友人曰く「311」がクリエーター精神に与えた影響は凄く大きくて、震災前、震災後で明らかに作風が変わってくるであろうし、時代を分けるべきだ、とまで言っていた。

友人の言うところによると、震災津波原発事故はまさしく震災前に想像された世界の終わりであって、SF作品が書いてきたものだった。しかし、現実には世界は終わらなかったし、被災地以外では何一つ変わらない日常が続けられていた。そのことでSF作家というのは衝撃を受け、あの程度で世界は終わらない、と彼らが描く未来というのは決定的に変化してしまった……、まあそのようなことを言っていた。

その友人は震災というのを大きく受け取っていて、震災の当日や原発爆発の映像、連日の報道は「世界の終わり」に感じられたそうだ。津波動画を見て涙を流した、と言っていた。

僕はまったく逆で、震災を小さく受け取っていた。友人の前ではそれに同調するように悲しいことだったよね、怖かったよね、と僕は言っていたけれど、内心は違った。僕はあの大震災ドラマを見ていた。僕にとって震災エンターテイメントだった。最高に楽しく、ドキドキとわくわくの非日常提供してくれる見世物にすぎなかった。世界の終わりなんて微塵も感じなかった。次の日も普通に日常が続いてたからね。動画を見て涙を流すという感覚が分からなかった。当事者以外にとっては対岸の火事だろうと思った。まぁ、こういうのはサッカーの日本代表が負けて泣いちゃう感覚と似ているんだろうと思う。僕の友人はそういうスポーツとかに感情移入するタイプだったから。僕にはスポーツを見てるだけの面白さがわからないので、津波動画で涙する感覚もわからなかったけど。

初日津波が全てを洗い流したところに言い知れない高揚を覚え、原発が爆発している動画を見て思わず破顔した、これからこの国がどうなっていくのだろう、という期待感があった。ネットお祭り騒ぎで、日本中がニュースにかじりついて浮き立っていた。その雰囲気を楽しみながら僕は極めて健全コンテンツを消費していた。それには、どうせ僕には関係ないという、あくまで観客としての視点があった。僕と友人は被災地はいなかったという環境は同じにも関わらず、こうも受け取るものが違っていた。友人はどこまでも日本人としての当事者意識があったのかもしれない。僕には日本の遠い一地域であった非日常な、それも歴史的にも珍しい10単位しか見れないだろうというようなビッグイベントとして見ていた。

その後は日本人政府による茶番劇が始まって、この国はもう根本的なところで駄目になっているんだなとせせら笑って、楽しんでいた。そしてこのつまらない日常が帰ってきた。残ったのは日本という国に対する絶望だけだった。そういう意味で、震災は確かに影響があったかもしれない。直接的な影響なんてせいぜいFPS水浸しステージが増えたぐらいにしか感じられなかった。

震災エンタメだったなんて言えば、人格を疑われるだろうからきっと言えないし、おそらくこのような考えを描いた創作物というのは10年経っても出てこないだろう。僕も自分作品の中でこんな話はおそらく持ち出さないだろう。クリエーターの端くれとして、この感情創作に取り入れたい、面白いとは思っているけれど、絶対に世に出せないだろうし、出しても正義感の強い方たちに袋叩きにされてひどい目に遭うだろう。それどころか、少なくとも2011年から5年ぐらいは震災を『ネタ』((題材、あるいはインスピレーション元ネタ、設定の一部としての利用、様々な意味で))にしたエンタメ作品ルポや感動の復興物語!以外の作品)というのは不謹慎だというので作られないだろう。だから、友人にはそのようなことは一切言えなかった。僕は情の深いふりをして、この場面に僕も胸が引き裂かれるようだったと言った。

創作に携わっていた人間なら、あるいはもっと広く、コンテンツ提供している人間であれば誰しもが、あの震災ネタになると確信したに違いない。現にどこかのアフィサイト管理人だかが上手いこと震災お金儲けしていたし、投資家会社員だって、あの震災を利用しておいしい思いをした人は多いはずだ。とあるポンプ会社社員は、震災復興需要で業績もいいよと嬉しそうに僕に語ってくれた。あの一大イベントに皆が興奮していた。メディア関係者視聴率ニコニコして、震災報道するとき歴史に残るような大きな出来事に携わり、自分業界に入った理由を思い出しながら、使命感と臨場感、そしてちょっぴりゲスな気持ちでわくわくしていたはずだ。東北を救おうと盛り上がっていた皆が、日本の団結するときだと、あの雰囲気に、非日常に酔っていたに違いない。不謹慎ネタネットに書き込み、他方でニコ生電気をつけてる配信者電気消せ、pc消せ不謹慎だろ、と書き込んでみたり、そうやって楽しんでいたはずだ。

僕はあの震災で絆だ、不謹慎だなどと喚き散らしたこの国の人々にもう何の愛着も沸いていない。元からそんなものはなかった。愛国心愛郷心なんて一度も持ったことはなかった。これは僕だけじゃないはずだ。

さあ、もう一度、来てくれ。今度はこの国を吹き飛ばすぐらいに大きな地震を僕は待っている。

滅ぼそうぜ、世界

ブコメ返しとかしたことないので勝手がよくわからないんですが、いくつか返事しておきます

  • マジギレしてる人

あなた正義感の強い人で、僕は確かに間違っているかもしれませんが、死ねとか言ったり人格否定するのはやめてください。上でも書きましたが人前では常識的対応をしてます事件現場写メとかとりません。たぶん、この人たちと僕は理解しあえないんだなぁと思いました。

この国が吹き飛ぶぐらいの地震が来たら僕も喜んで巻き込まれますよ。もちろん、被害に遭ったときは泣き叫ぶかもしれないし、恐怖に震えるかもしれません、でもそれは僕が自殺願望を持っていたとしても、殴られれば泣いてしまうし、ナイフで脅されれば怖くて動けなくなるのと同じことなんです。実際に遭遇したときの反応と、願望は全く別のところにあると思います。夢を見すぎているかもしれませんが、全てが崩壊した退廃的な光景というのを生で見てみたい、この国なり、世界が滅びる瞬間が見たいっていうのは、現実的かどうかは置いておいて、多少願ってる人もいるんじゃないかなぁ、と思っていたんですけど、世界滅ぼそうという賛同全然得られなかったのでした。

僕一人じゃなくてよかったーと思いました。

今後の参考にさせていただきます。皆様のクリエイティブ人生を心よりお祈りしております

911に触れてる方、鋭いです。残響のテロルを見終えた後、911ネタにするなとマジギレしてる人を見て、創作に使って何が悪いと思ったのが、この記事の発端です。阪神淡路大震災エンタメ創作物でたまに見かけるのに、東日本大震災ネタになってはいけないのはなぜか、とか事件はいからネタにされてよいのか、東京マグニチュード震災後、自粛され扱いが変わったこと、ピングドラムモチーフサリン酒鬼薔薇なんかを使っているが好意的に受け止められていたことなどを友人と話しているうちに3.11創作に与えた影響という話に辿り着きました。

ほんとは個別で拾ってみたいブコメもあったのですが、慣れてない上に長くなりそうだったのでこのへんで。

2014-06-04

産経新聞が自社サイト買春ガイド掲載

http://bylines.news.yahoo.co.jp/dragoner/20140604-00035996/

そういや産経ってやたら性犯罪の記事多いよね。事実淡々と書くいかにもな報道文体ではなく妙に臨場感ある文体で、細かい所まで書いてたりする。

一応最後は「こういう犯罪は許されない(キリッ」で終わらせているとは言え、それはただの建前で

実際はエロネタ提供のつもりで書いてるんだろうなーと思ってた。

これはあからさま過ぎるけども、やっぱりなあ。

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