不謹慎なことかもしれない話だけど、ぶちまけたいので書いた。
大阪住まいだが、阪神大震災の時はあまりの揺れに恐怖で飛び起きたことしか覚えていない。
でも、そんなに自分の周りで家を失ったとか、被災して亡くなったって人はいなかったので隣の神戸の有様には新聞やTVでしか見たことのない現実にどこか上の空になっていた。
あの時見た報道内容が、震災の怖さなんだなって程度に思ってた。
当時はネットが普及していなくて、自分はセンター試験受験の年だったのでそれどころじゃなかったのだ。
というか、むしろ受験勉強の年にあんな事態になっても、勉強のことで頭がいっぱいだったので思い出に残らなかっただけなんだろう。
だが、2011年の震災の時はその受け止め方が変化した。
TVで被災して川に飲み込まれる人を撮影した動画や画像がネットに散乱していたのだ。
ご遺体が流れているのはあそこだとか、今あの動物が水に飲まれたよねとか某動画サイトで多くの人が見てコメントを流していた。
流されて悲鳴をあげて、それが消える瞬間とかリアルな人の死を動画サイトで自分は見てしまったのだ。
コメントできる人が、怖いって感じた。
べつにコメントすることで何か得るものがあって前向きなものになるってことでもないというのはわかってる。
見たあとに本当にいろいろ思ったんだ。
TVで報道されない部分を見て、報道規制のないもっともっと残虐な他人の不幸を見せろと言わんばかりの煽りコメントがある件には言葉が出なかった。
しかし、言葉の出ないようなものを見ている自分の中の野次馬根性もひどいもんだと落ち込んだ。
臨場感あふれる悲惨さ、残酷な映像、溺れてる人の姿を見てもこれはすぎた過去なのに、どう視聴していいのか戸惑い、怖くなって閉じてしまった。
中には被災者に祈りを捧げます。無事でありますようにって祈るコメントも多くあった。
だが、大抵のコメントが「すごい・・・」「やばい」「逃げて逃げて」「そんなとこいるな」「ひどい」「日本終わるのか」「あの犬逃げて」「うわあああああ」
とか過ぎ去った過去動画を見ながら、映画館でアクション映画を視聴している時のような印象が圧倒的だった。
モニターの前に映るものを、全て現実の中から切り取ってきた事実として位置づけているのに、どこかアクション映画のように眺めている感覚だったんだ。
興味本位であんなの見るんじゃなかったって当時、思った。
選択したものに関心があったから自分はあれをクリックして見ていたんだ。
結局、それが自分以外の他人の不幸だから見れるってだけで見てしまったんだろうって言い聞かせて画面から逃げた。
近所で火事が起きて人だかりができて見物するのも、こうして動画を見て人の不幸にコメントするのも・・・結局は他人の不幸で飯が美味いっていうものなのだろうか。
自分じゃない他人が苦しんでる姿を見て、なにができるかって思考がすぐにあの時、自分は思い浮かばなかった。
ただコメントで「無事でありますように」「冥福を祈ります」とかそういう言葉を送っても、届くものってないんじゃないだろって何度も何度も思考したけど答えがすぐにでなかった。
少ししてから、義援金を振り込むという金策援助に自分の中で落ち着いたけど、動画を見てると人を助けるための、人の力になるために必要な最速最短の思考と決断が鈍ったのは事実だった。
他人が苦しんでるから助けたいので義援金を送るっていう選択をしたってことになかなか困惑したんだ。
自分は、「あの動画を見て野次馬をしていた。好奇心に満ちたハイエナみたいなもんです」って心を隠してあの頃日々を過ごしていた。
つまり、ハイエナ行為をしていたけど、後ろめたさを感じながらあなた方の不幸を知って支援に関わっていますって己が惨めでたまらなくかんじてしまったんだよね。