○調子
就職活動の結果は帰ってこず。
なんか火曜特売でお寿司が安かったので大量に買って、寿司祭り。
何かで書いたと思うが、酢の物にはカルピスが合うと思うんだよなあ。
というわけで、カルピスも買ってきて、幸せな気分になってきた。
ちなみに、好きなネタはネギトロと卵とエンガワ(平目のとは言っていない)ですね。
どういうこと? 全部アドリブでいくってこと?
みんなで食べることを強制される場ではない。
し、知り合いと群れてだべることはコミュ力を上げることではない。
気にせず一人飯が出来る場を設けることはいいこと。
飯屋で相席でも気にしないという人は多いと思うけど
、落ち着いて食えるかと言われれば別でしょ。
ネットにいると男は女にちんこを突っ込みたいけど他人に股を開いた女は便器で使用価値がなく
女全体が男全体の下位であり踏みにじられるべき「ま~ん(笑)」である
という風潮なんなんだろ。ちんこ突っ込みたい癖になぜ動物扱いをするのかわからない。
ホモになりゃいいのに
まず念のために言っとくが、アニメイトじゃないぞ。
事の経緯を改めて確認しておくと、
詳細はTogetter↓参照
元のツイートにはガチ批判の意図は無かったにせよ、このアニメのデキがなぜビミョーなのかという核心に近いところを、この指摘は突いているように思う。その理由を以下に述べる。
問題の画像に反発する意見として「キャプテン翼やテニスの王子様は、題材となった実在の競技と比較するとメチャクチャなことをやっているのに、多くのファンから支持されている。したがって題材へ忠実でないことがただちに悪いわけではない」というものがある。この主張は確かに頷けるものであるが、それはあくまでも、あえて題材に忠実でない表現をすることによってのみ描き出されるものがあるから、という創作の意図があってこそである。例に挙げられた2作品について言えば、題材に忠実な表現によっては不可能なほどダイナミックなシーンを描写したい、という意図があってあのような内容になっているのは明白だろう。
翻って、問題となった艦これのシーンはどうだろうか。赤城・加賀の所作のところどころ、あるいは施設や的など、実在の弓道を意識して真似ている部分が多々見受けられるが、しかし赤城が弓を射るシーンそのものは、問題の画像が指摘するように、実在の弓道に忠実となるような描写が徹底されていない。あえて徹底していないのだとすれば、それによって何かが描き出されているだろうか?新しい価値がその徹底しない表現から生まれているだろうか?答えは否、だろう。
たかが1シーンではないか、と思うかもしれない。不作為の不徹底が1シーン見えたから何だと言うのだ、と。
しかし問題のシーンは、たかが1シーンなどではないのだ。着任したての吹雪が一航戦の練習風景をこっそり覗き、赤城の弓を射る姿を初めて見て感心するシーンである。吹雪が赤城に憧れを抱くという、いわゆるフラグが立つ場面であり、ここで吹雪の感心っぷりを視聴者にも共有させなければ、その後の吹雪の心の動きを視聴者に共感させることができなくなる、非常に重要なシーンなのだ。したがってこのシーンの演出における最優先の目的は、いかに赤城をカッコよく美しく描き、吹雪同様に視聴者をも見惚れさせるか、というところに重点が置かれなければならないはずだ。
それがどうだね?不作為の不徹底だ?真面目に演出するつもりが無いのかと言いたくなる。赤城をカッコよく美しく描くために、あえて実在の弓道に忠実な描写から外れました、ならわかるよ。でも実際の描かれ方は、ただ漫然と、脚本・コンテに「赤城が矢を放つ」と指定されてたからそのとおりに描きましたーというだけの、なんら創意工夫のない描写じゃないか。
艦これと弓道にまつわる話題を見聞きしてきた御仁なら既に承知のことと思うが、実在の弓道は型にこだわる武道だ。だからそれを忠実に再現するだけでもある程度の美しさを描き出せるはずなのだ。なのにそれをせず、かといって自前で創意工夫した描写でもない。こんなの、赤城をカッコよく美しく描こうという意図がそもそもありませんよーとしか見えないではないか。アニメ的ウソに塗れながらもカッコいいポーズを決めようとした、片足立ち射法の加賀のほうが百倍マシだ。
こんな調子で演出意図スカスカの作画をしたら、いくらセリフで「すごい集中力」などと吹雪に言わせようが、そのセリフに納得のいく作画が伴っていないのだから視聴者は白けるだけだ。そしてこのシーンで吹雪に共感し損ねた視聴者は、直後の甘味処のシーンで赤城を思い出し惚ける吹雪が、どうしようもなく浮ついて見えてしまうだろう。惚ける吹雪にキラキラエフェクトを使うくらいなら、直前の赤城の描写こそ(吹雪主観でエフェクトかけまくるなど)ベタベタに演出して視聴者を引き込むべきはずなのに。
つまり実在の弓道に忠実でないことが問題なのではない。実在の弓道を真似た描写をいろいろしておきながら、肝心のところで忠実でなく、しかもその不徹底が演出意図によらない単なる怠慢に見える、ということが問題なのであり、突き詰めれば、この重要なシーンにおいて赤城をカッコよく美しく描かねばならない、という意志の不在が感じ取れてしまうのがダメなのだ。
そもそも我々がアニメーションに期待するのは、まさしく物語に沿って絵が動く=アニメートすることだろう。プロット上カッコいいと定められたシーンはカッコいいアニメートとして見たいし、美しいと定められたシーンは美しいアニメートとして見たい。それが叶わないならアニメーションを見る理由などない。ビジュアルノベルやCDドラマで十分だ。すなわちアニメートの気持ちよさを追求しないアニメーションに、存在価値などない。
艦これアニメのダメさは、つまるところそれに尽きる。このシーンはこういう意味があるからこういうアニメートで見せなければならない、という演出意図をきちんと持って1シーン1シーンを丁寧に描写していく、そういう意志に欠けているように感じられるのだ。それをもっとも象徴するのが問題のシーンなのである。
ああ、実際に被害者がいるということと、いないことの差がやっぱりわかっていないんだ。
加害者だからって被害を受けていいわけじゃないし、被害者だからって他の人への加害が免罪されるわけじゃない。
自分の恐怖や苦しみにはとっても敏感な増田の中では、無垢な子ども全てが自分と同じ内面を持っているんだろうけれど、仮に畜生な素質は万人が持っているとしても、衝動の強さは違うだろうと思うよ。
行為に及ばなかった人を自分と同類という言葉で侮辱するなんてなあ。性根って一生変わらないものなのかもしれない。まだ運のせいにする方が、他人の手をひっつかんで汚すよりマシと思うよ。
それでもこうやって自分の考えを増田に書き込むっていう一歩を踏み出したんだから、この勢いでブログでも作ってみればいいじゃない
そこで思考停止せずに、どうして、料理が辛くて、嫌なのか、あるいは問題はそこじゃないのか、そういう事をよく考えてみたほうが幸せになれると思いますよ
うーん
指摘内容が事実なのであれば、的確で良い先輩じゃん。メモ取らないとか、増田は、教えてくれる相手を馬鹿にしてるとしか思えないけど。
言われているのは、傍から見て、それはダメだわーって事ばかり。このまま年取ったら、後輩から黙って馬鹿にされる(「あの足りない先輩」とかあだ名をつけられてしまいそう)なことを指摘してくれていると思う。
増田はいままで、自分の欠点や失敗を誰かに指摘された時、直すように頑張るんじゃなくて、その人に気に入られて、自分のミスをフォローしてくれるようになる方向で頑張ってきたんだろうなって思ってしまった。
グループワークしても、言われたことはやるがそれ以上をやらない。
原因の一つは連帯責任感の無さではないかと思う。
リーダーが失敗しようと、他の班員が失敗しようとぶっちゃけどうでもいい。
こういう貢献度の低いやつは社会に出ても駄目なんだと客観的に思う。
二つ目の原因は、根本的に自分以外の人間が大嫌いだからだと思う。
今まではそんな人生でいいと思ってたけど、最近は人に自分の存在を認めてもらえないことに寂しさを感じてきた。
自分の世界に篭って自分の心を守ってきたけど、それでいいのか。やはりそういうことが自己中心的人間なのではないか。
変わらなければと思いつつ、他人と向き合うことに恐怖を感じる。