はてなキーワード: 登場人物とは
とても気持ち悪い。
作者の性欲と読者の性欲、それを駆り立てて商売にしたい出版社の思惑だけがある。
だが私の性欲は全く刺激されない。
こんなものに金を払う人がいるのが信じられない。
でも売れているらしい。
理解不能だ。
だがこれが「Not for me」なのだ。
昔はあえてスカトロモノのAVを借りていたが、流石に苦痛すぎたし段々と「つまり羞恥プレイなんやな?」って理解できるようになってきてしまったのでBLに乗り換えた。
完全に理解できない。
これは私が同性愛を否定しているのではなく、男性に対して性欲を一切感じないからだ。
だがそのうち私も「つまり……エロの濃度を無駄に濃くした情緒のないタイプの百合と同じなんやろ?」と理解してしまうようになるのだろうか。
そうしたら今度はババァ介護モノのAVでも借りることにしよう。
「Not for me」の感覚は絶対に身に着けないといけないので、絶対に年1回は自分から自分にとっての駄作に飛び込む必要がある。
ネットで話題の作品が合わなかっただけでは、自分が単に疲れているだけなのか、本当に合わないのかが分からない。
アトランティス(2001)→登場人物が多人種で多様性意識しすぎ!ヒロインがブス!ポリコレガー
プリンセスと魔法のキス(2009)→黒人プリンセスだと!?ポリコレガー
リロアンドスティッチ(2002)→リロがブス!ブスしか出ない!ポリコレガー
コルドロン(1985)→ポリコレのせいでこんなにつまらなくなったんだ!
黒人アリエルはともかく、ミラベルはブスで眼鏡だからポリコレだ!つまらないに決まってる!と上映前から叩かれまくってるの見た時はアホかと思いましたわ
私ときどきレッサーパンダも同じ事言われてたけど、ピクサーに至っては可愛くない主人公の方が多いじゃねえか。
というか、黒人アリエルに対して「オリジナルなら文句言わない!」って言ってたけど嘘じゃねえか
「今のディズニーはポリコレのせいでつまらなくなった!」って言ってる人に「過去の面白いディズニー映画を挙げてみて」と言ったらまずヒット作しか出さない。
ヒットしなかった過去作品も数多くあるけど存在すら知らない。間違ってもコルドロンとか挙げない。
面白い作品に比べてつまらない、という小泉構文みたいな結論しか出ない。
しかも、つまらないと断じた作品を見てすらいなかったりするんだよな…
「これだとポリコレ的なモノは大して人気になれず、そうでないモノの方が時代を超えてウケているみたいな話にならない?」
リロアンドスティッチがヒットしてない世界線の人のブコメがトップになっておる…
そうじゃないんだよなぁ。昔からあったような要素まで「最近のポリコレのせいだ!」と言われてるのがウザかったのよ
コルドロンに関しては伝説級のつまらなさそのものが「ポリコレのせい」と言われそうだからオチに持ってきた
再追記
というか、ヒット作の美女と野獣、アラジンだって原作と違ってかなりフェミニズムを意識した作品になってるし(ジャスミンが「私はゲームの商品なんかじゃない」と言うのとか、ガストンが有害な男らしさを発揮した女性差別的なヴィランだったり)
なんなら眠れる森の美女ですら、「王子を見知らぬ女性にいきなりキスしてレイプ(原作)するやつにするわけにはいかんよね」と二人をあらかじめ恋人同士にしてるし
ピーターパンの人種差別といわれる描写ですら、当時的には「インディアンを悪者として描いてない」ポリコレ寄りな描写だったらしいし
ライオンキングなんかは当時的にも保守的な内容だから全てのディズニー映画が当時のポリコレを意識してるわけじゃないけどさ
それらの作品が現在のポリコレ的に非難されてたり、南部の唄が発禁になってたりするから、
ポリコレによる表現規制、キャンセルカルチャーの煽りを一番食らってるのがディズニーオタクなんだけどさ、
それでもポリコレアンチによるヒステリックな反応にもウンザリしてるのがディズニーオタクなのよ
つまらないと見もしないで言われる最近のディズニーも楽しんで見てるわけだしね。ツイッターなりpixivで検索して「ミラベルと魔法だらけの家(Encanto)」ファンがどれだけいるか見てほしい
もへもへ「えらそうに多様性を語るディズニーや欧米様。デヴでブスのヒロインをだすと称賛されるがハゲでデヴの中年おっさんヒーローを出演させない」→ディズニーオタクから総ツッコミ https://togetter.com/li/1812366 #Togetter @togetter_jpより
弱者男性「ディズニーとかのポリコレ映画は男性が弱く生きることを決して許さない!オタクをいじめてる!」←そうか? https://togetter.com/li/1887702 #Togetter @togetter_jpより
また追記
ここに出てきた、名もなき善人に、わたしはなりたい。
10巻に、英国人言語学者スミスの所に後に彼の婚約者となるタラスが、スミスの事を忘れられずに追いかけてきて、合流するシーンがある。
当然ながら、この時代、女の一人旅は無理だろう。そこで、登場するのが、名前すら明かされない「いい人」である。本編では名前すら明らかにされない彼、仮に善人(よしと)さんと名付けよう。
当時の時代背景では、結婚は当人同士と言うよりも家と家の絆を深めるためのものであり、親が決めるものであった。
だからスミスも、タラスのことを好いていたにもかかわらず、タラスの母親が結婚した相手の意向、と言う形で、一度は結婚を諦めることになる。
そこで、登場するのがこの名もなき「善人」(よしと)さんである。
タラスは一度スミスの事を諦め、結婚する相手としてこの善人さんを紹介される。が、結婚式の後、スミスのことが忘れられない、と言われて、なんとタラスと供に身銭を切ってスミスを追いかけてきたのだった。
そうしてスミスはタラスと会えたわけだが、この10巻には、スミスが善人さんに対して「どうしてそこまでしてくれるのですか」と聞くシーンがある。
ここで善人さんは一拍おいてから、答えるのだ。
「だって、かわいそうだろ」
「いろいろとままならない世の中だけどさ、女の人だって幸せになるべきだよ」
痺れる。
彼は現状を受け入れることがまずできて、そこから常に建設的に考えているのだ。
タラスは言うまでもなく美人である。スミスの事を受け入れられるように聡明でもある。そんな魅力的な人が嫁に来た、しかし、既に心に思い人がいて自分の所には来ないと言う事を知った。
それをまずは受け入れて、諦めているのだ。そして、その上でタラスを幸せにするように行動している。
最後には「結納金は返されるだろうし、別の人を探すよ」といって、名前も告げずに帰って行くのだ。
つまり、自分にも結納金が戻ってくるから、新たな出会いを得ることができるような環境に持って行ったという事である。
乙嫁語りの登場人物の中で、一番語らいたいのはスミスだし、一緒に暮らしてたのしそうなのはカルルクの家だろうし、兄貴と仰ぐならアゼルだし、上司にはスミスの兄貴分ホーキンスだろうが、しかし、誰になりたいといえば、名もなきこの「善人」さんになりたい。
怒涛の幕末に命を燃やし自らの信じる道を貫くそれに、共感しそのように在りたいと願い
彼についての文献を読み漁った。
恋愛の感覚もまた歪んでいた。基本的に、他人の所有する物が好きだった。
味見しては、振り、虚無を知り愛を知らず
年相応の流れのまま籍を入れた。
職を転々とし飄々と風のままに生き
誰かの忠告には耳を貸さなかった。何となく、その予感があった。
虚構の中の登場人物に感情移入するが如く生きてる実感を失ったまま
物語性のない現実の中で、自らの失望と欠如感を埋めるだけの日々が始まった。
物で足りる筈もないのに金を費やし何かを諦めた分、別の何かを得た。
それは時に柔らかい毛並を帯びたものだったり、心を癒やす音楽であったりした。世間一般には均衡を保つにはそれが必要だと言われていた。
物語性のない現実の中には、藻掻いている人が沢山いた。一番になれないコンプレックスを抱えて苦心している人、綺羅びやかに見えても水面下で必死に水をかいている鳥のような若者、
機運に恵まれず就職難に陥った良く似た人物、子を産んだが障がい者としての生き方に困っている人達。
それらを助けるために福祉があり自治体があるのに決して満足には機能せず
表面だけ取り繕った平和の下で、苦しみに歪む市井の人々を思った。
結局、何万人相手では誰も救えなかった。事実は事実として認識していても手出し出来ない状況があり、ほとんどは藪蛇に思われた。果敢にも手を伸ばそうとする彼女を嘲笑いはしなかったが共に寄り添いもしなかった。
今まで傷付け見殺しにしてきたもの全てから報いを受けろと苛まれているようだ。
次産まれる時は、きっと貧しく愚かな「人間」なのだろう。流転し、翻弄される。そしてまた遅々として進まぬ医学に唾棄しながら孤独に陥り、病室で臍を噛む。
何かを喪い落ち込んだ経験が?
そうない。そうだろ?
あ、ドラゴンボールがあるか。
登場人物が5人以上で全キャラが立ってる漫画で、キャラの中に他人の目を意に介さない個性が含まれてるやつって他に何があるかな。
ただ、主役級と言える人物が不在なので共感できる人がほとんどいない
つい先日退場した準主役は「怪我が悪化してライダーを失格になる」というかなり前代未聞の退場劇だった。
殺されるとか精神を壊されるとかライダーベルトを奪われるとか、そういうのじゃない。
いかにも怪我が治って記憶を取り戻したらライダーに返り咲きそうなんだが、問題は登場人物の中でほぼ唯一感情移入しやすいということ。
そして主人公が謎の存在なのに対して、退場したライダーは語り部かつ一般目線で俯瞰するという重要な立ち位置だった。それを10話も経たずに退場させるってのはどうにも不安要素しかない。
5話くらいしてまた復帰する可能性もあるけどさ。退場させる意義があんまりないんだよね。
主役であるギーツやそのライバル枠のバッファは、正直あまり映えない。
バッファは影があるため多少いいかもしれないけど、ギーツに関してはメタ貼り過ぎでなんかもう負けても勝ってもどうでも良さそう。というかこのゲームで勝利することに何の意味もないだろうってことが第一話あたりからわかっているため、ゲームが強いことに何の面白さも見えないんだよ。
嘘喰いのように、ゲーム外での陰謀なんかもありつつも、ゲーム自体は極めてシンプルで面白くどんでん返しもあるってパターンが定着しているよね。
ギーツのバトルは世界の存亡をかけているけど、それ自体はミニゲームで単に回数を重ねるためだけのものにすぎない。
地方少年野球のグダグダな予選リーグをひたすら見せられている感覚だ。
人に勧められてチェンソーマンを読みました。たしかに面白い。でもその面白さは、ある程度情緒を育んできた大人が、登場人物たちや作者の意図しているのかしていないのかわからない精神的浅さをスリリングに楽しむ、みたいな方向に昇華して生まれるものでしょう。
デンジの動機も、マキマの心理描写のなさも、他キャラクターたちの全く一面的な性質も、突然出てくる詰めの甘い設定も、すべて浅いししょうもないけど、それがなんやかんやうまいこと噛み合って生まれる浮世離れした感じにヒヤヒヤニヤニヤして楽しめる。藤本タツキはどこまでそれを自覚してこれを描いてるのかなあ。ぜんぶわかっててやってるならすご〜く良いよね。他のも読んでみたい。
なのに、終盤愛に関する描写が出てきました。嘘でしょ?
そりゃ普段しょうもない人間のしょうもなさを悪く言うなんてことはしません。しょうもないってのはそもそもそんなに悪いことじゃないし、しょうもある(笑)側の人間が自分はしょうもありますよみたいな顔して気持ち悪い選民思想を抱くほうが異常。恥づべき行為なのは間違いない。
でもここで愛についてまでしょうもなさで侵すのはやめてほしかった。愛に対してだけは誠実に表現してほしかった。ずっと幼いうちに解決したはずのしょうもなさへの嫌悪、嫌疑が沸き立つ。愛についての描写はあれだけだけど、じゃああれが愛の全貌だなんて藤本タツキは思ってるんだろうか。愛を正しく理解したいと願う人間が、愛についてまでいい加減なことを書くだろうか。どっちにしろ藤本タツキがわからない。チェンソーマンを勧めてくれた女の子になんて感想を言えばいいかなあ?その点でずっとモヤモヤが消えない。
ここ数年の課題として、自分の毒が蓄積されている感覚があります。
おそらくその原因は「自分が他の人と比較して欲望を犠牲にして実績をつけてきた」という自負だと思っています。
これは半分事実で半分は嘘、というか運が良いだけだと思ってます。
そこで私はエンジニアの管理・調整などを行いつつプロジェクトを進めていく役割になりました。
なんだかんだで実績を出せて利益に繋がり徐々にメンバーも増えていったのですが
控え目に言っても3年は私がいなかったら存続しなかったのではないかと思っています。
これは驕りと思われるかもしれませんし、一方で会社なんて誰が辞めても存続はするように仕組みを整えるものだと思いますが
そうは言っても当時は私がコアメンバーだったとは思いますし、私が抜けなかったことで成立した側面は結構大きかったのではと思っています。
幸いなことにきちんと上司には評価され、平均年収を軽く超える収入を得ました。
労働時間もベンチャー企業と言いつつもある程度は管理され、規格外の残業時間になるようなケースはなかったです。
こう聞くと恵まれているように見えます。それは事実である一方で失われつつある感覚もあります。それは感性です。
仕事のせい、と言い切る訳ではないのですが、大きな要因ではあるのかなと思ってます。
コアメンバーになってしまったのである種必然的ではありますが、案件の難易度は高く、かつ会社的に重要なものが多かったのです。
そういう状況を繰り返す中で「難しくてもなんとか解決して乗り越える」実績はそれなりにつきました。
もちろん人間関係にも恵まれていた方だと思いますし、メンタルも結構強い方だったみたいです。
ただやっぱり、サービス残業や休日出勤はしないにせよ、勤務時間後や休日に仕事のことをモヤモヤ考えたり、仕事の分野を少し勉強したりはありました。
コロナ禍でリモートワーク主体になることもあって、余計に仕事とプライベートの分割の難しさを感じました。
とは言うものの、仕事がアイデンティティの中に入らないようにはコントロールしました。
というか、私の感覚としてどんな案件であれアイデンティティにそもそも入らないみたいでした。
「お客さんを助けたい」とか「社会問題を解決したい」とかそういう強い意思はなくて、ただ目の前の案件をクリアする。
ゲーム感覚でしかないのです。ただ性格・能力的にあった仕事で楽にお金を稼いで、それなりに快適に暮らせたらそれでいい。
ついでに周りの人から重宝されたり感謝されたら少し嬉しい。その程度でしかないのです。
もともと上昇志向なんてそんなにありません。プロジェクトをうまいことコントロールしつつ
トラブルなくスムーズに進められたらそれでいいという感覚でしかないのです。
適度に妥協しつつ、それでも要件は満たすように良い感じの着地点を設定して進める。
そういう感覚がベースとしてあるにもかかわらず仕事の難易度はそれなりに高かったので
「ちゃんとしないといけない」という感覚が自分の中で強まり、プライベートが徐々に侵食されていきました。
シンプルに頭が疲れるので、休日は結構寝ないと回復した気がしません。
残業は少ないにせよ、新しい娯楽を楽しむ気力がなかなか持てず、睡眠を優先してしまう。
仕事の方で頭をフル回転させないといけない。そういう感覚に徐々になっていくのです。
じゃあ休んでリフレッシュすればいいじゃんってなります。それはそうです。
もちろんストレスに負けたら有給は取得しますが、普段はなかなか押せないんですよね。
これは環境ではなく私が原因の側面が大きいのですが、替えが効きにくいポジションになってしまうことが多い以上
有給を取ったとしても自分の仕事を他の誰かがやってくれるわけではないからです。
なので、ある程度プロジェクトがうまくいってる時か、プロジェクトの切れ目とかではないと
なかなか有給は心理的に取りにくいと感じてしまいます。うっかり仕事中心の生活にしてしまうし、うっかりクリアしてしまう。
だから評価されるし、次の案件の難易度は必然的に高くなる。そうして見えない神輿に乗せられて、徐々に降りられなくなっていく構造を感じます。
このサイクルを繰り返すことで、私は徐々に感性を失っていくような気がしてきました。
とは言いつつ完全に無趣味になってしまうかというとそういうことはなく
友人とゲームをやったり、たまにライブに行ったり、映画や漫画などの娯楽は適宜摂取しています。
でも、昔と比べて全部上滑りしている感覚を拭えないのです。
学生時代に何かに夢中になって徹夜したとか、ストーリーや登場人物に没入してめちゃくちゃ泣くとか
授業中にもそのことを考えて空想してしまうとか考察サイトを全部追って自分の解釈と比較するとか、そういう感覚になるほど夢中になれたりしないのです。
ストーリーものなら疲れたとか眠いとか思いつつ、時には仮眠をとりつつ完走するとか
競走系なら友人とDiscordで繋いでゲームするとかそんな感じでしかないのです。
感想も「なんとなく良い感じ」とか「中だるみもあったけどなんだかんだで割と面白かったな」で終了。
常に40-70点の感覚です。上振れも下振れもありません。ただ通過するだけ。
単純に年齢によるものかもしれません。あるいは体力もおそらく関係するのかもしれません。
そもそも、インドア趣味に飽きつつあるフェイズなのかもしれません。
あるいは、夢中になれるほど時間を費やしていないのかもしれません。
これまでの経験上、感性を培うにはそれ相応の時間が必要だと考えています。
現状では、その時間が不足している気がしてならないのです。
趣味は自分の感性を培うのではなく、ライトなコミュニケーションツールでしかない。
多くの人はそもそもそのくらいの温度感でしか趣味をしていないのかもしれませんが
どれもフワッとした楽しみ方しかできない自分の空虚感をすごく持ってしまいます。
今後仕事で更に求められる水準が高くなり続けるであろう状況を鑑みて
一人で心身をコントロールしながら乗り越えていくのは厳しいし
でも、現段階で一人で生きると決断できるくらい肝が座っているわけでもない。
そこでお互い現代社会を乗り越えて、色んな楽しみを共有できるようなパートナーが欲しいと思い、婚活を始めてみました。
1, 2年マッチングアプリをやってみて10人前後に会いました。
曲がりなりにもスペックだけ見ればそれなりに高いので、そこそこの人数と会えてしまいました。
でも、私の中での感性が減っており「ピンときた!」感覚になかなかなりません。そうして無意識にコミュニケーションの中で相手の地雷を踏んだり
アプローチの決め手に欠けて及び腰になったり、なんとなくで交際を申し出て
とりあえずOKをもらっても上手くいかなくて数ヶ月で破局したりというケースになりました。
こうした中で、私の致命的な欠点を感じました。それは「他の人を見下してしまう」というものです。
例えば仕事の愚痴を相手から聞くことがあったとして、うんうんと聞いてる裏で「どうしてこの程度で愚痴を言うんだろう?」
と思ってしまう自分が少なからずいるのです。そもそも自分の環境がある程度恵まれていることや、マネージャ的な視点が強いからという点もあるのですが
多くの人にとって仕事は「降って湧いたもので、理不尽を強いられるもの」という感覚だとか
自動的に仕事とアイデンティティを結びつけてしまうから、仕事の否定を自己の否定と直結させてしまうとか、そんな傾向を感じてしまいます。
そして、こういう類の愚痴を聞くと「それはあなたの認識の問題じゃない?」ってすぐに考えてしまうのです。
ある程度信頼関係があるなら直接言っても問題ないのかもしれませんが、そうでない関係だと言うのはさすがに良くないでしょう。
「それは本当つらいよね」とか「あなたはよく頑張ってる」とかで共感を示せたらいいのはわかっています。
というか言います。でも、心の中でそんなことを思ってない自分がいる。相手に好きになってもらうことを考えたら
それが最適解になるのはわかっています。でも、本心は全然共感していないのです。
私たちはそれぞれ地獄があるとは良く言われますが、オアシスを地獄だと思う癖があるのではないかとか
悲劇のヒロインぶる癖があるのではないかとか、メリットとデメリットを客観的に見ることができず
デメリットを過大評価してしまっているのではないかとか、そういう見方をしてしまうのです。
そういう考えが根底にあるのでコミュニケーションのどこかで「この人は危険だ」というセンサーをどこかで作動させてしまっている気がしてならないのです。
というか事実そうなのでしょう。自分の中で「真っ当ではない」心があるのを感じます。寛容になれない心があるのを感じます。
そう考えると、私の中でモラハラ気質はめちゃくちゃあると実感してしまいます。
幸い職場ではまだ発露していないですが、家庭を持つとなると何がきっかけで発露してしまうかわかりません。
ただこれは仕事ができてしまった、たまたま評価されてしまった報酬と引き換えに持ってしまった性質としか言いようがないのかなと思っています。
こうして見ると、分不相応な難易度の案件を仕事に過剰にリソースを割くことでクリアしてしまい、結果性格を拗らせてしまったという状態なのでしょう。
自分の中に蓄積された毒を認識し、それを発露させないように取り除くのは極めて難しいと思っています。
私の場合、仕事の報酬や実績と引き換えに持ってしまったので尚更です。
おそらく男性は自分の価値観や性格が変わりつつあることを意識しない人が多いと思います。
また内面を話して受け入れてもらったり、フィードバックをもらう機会はそう多くないと感じます。
ただ、そうやって定期的に毒や棘を取り除いていくことで表面的には穏やかな性格に見られるのかと思います。
しかし、そうした機会が少ないと棘の上から武装することになる。するとふとした瞬間に相手に毒や棘を見せて危険だと思われてしまい、結果的に拒否される。
そういうケースは非常に起こっているのではないかと感じます。現代社会を生き抜くためには精神の武装を強いられますが
鎧の耐久値を上げることに躍起になって解毒や棘を除くことを怠るのも、それはそれで歪みを生じてしまいます。
必要なのはパートナーという形でないにせよ、信頼できる人に内面を話して理解してもらうだとか、楽しいことにフォーカスするとか
仕事の役割を変えてもらうよう交渉するとか、そもそも転職や引っ越しをして環境をガラッと変えるとか、そういったことなのかなと思います。
とはいえ、私も体力がある方ではないですし、すぐに解決することは難しいので、できる範囲で少しずつ試していくしかない。
そうやって世の中とチューニングしていくしかないかなと思っています。
今回は解毒の手段の一つとして自分の状況を言語化し、可視化できる状態にしてみました。
そしてあわよくば全世界の人からフィードバックを得ようという算段で増田に投稿してみます。
みなさんの毒はどういう種類のものですか?
そしてそれをどのように取り除いていますか?
https://anond.hatelabo.jp/20221021063413
だいぶ違う
※書いたのはあくまで素人なのでちょいちょい変なとこあるかも、コメントなど指摘してください
結構この状況は説明してるプロ沢山いるから大はずしはしてないと思うけど
現代の金融政策では「丁度いいインフレ」「丁度いい経済成長」が良いとされている
それでも景気が刺激しきれなくなってきて、最近はマイナス金利や量的緩和(QE)という方法が使われるようになった
量的緩和はつまり、無理やり銀行に金を与えることを意味する(代わりに国債を買い取る)
量的緩和(QE) → 金を巡りを増やす、景気刺激 → インフレになる、株高
量的引き締め(QT) → 金の巡りを減らす、景気抑制 → デフレになる、株安
ハイパーインフレ → 物が買えない、今持ってる金が紙くずになるリスクがあるのでまずい
機関投資家 何兆円何百兆円も運用してる奴ら、年金基金とかも含まれる
↓
景気を下支えするため、各国が量的緩和を行った
↓
金は余るので当然株価も上がる
例:NYダウは20000割った後対策されて35000を付けた
インフレになる
2020 1.2%
2021 4.7%
2022 8.0%
↓
↓
アメリカが量的引き締めと金利引き上げにより景気を抑制しようとする
↓
ドル高になる
株安になる
↓
↓
↓
圧倒的な円安
※ウクライナ戦争もかなり影響してるけど、大筋の原因はコロナという認識なので割愛
ただ負けることもあるので、今回のような誰が見ても明らかな状況は大口の機関投資家にとって大チャンス
例えるならビットコインみたいな感じ
・コロナ対策で他国は金をばらまきまくった結果インフレになったが、日本はケチったためインフレ率が低い(コロナ対策が上手くいってしまった、あくまでお願いベースの対策だった)
・日本は今「QEで景気刺激する作戦」の真っ最中だった、それを放棄するかどうかという話になる
ただし他国が一気に量的引き締め・金利上昇に動いたため悪目立ちし、大口の機関投資家に狙われる羽目になった
こういうことはよくある
「他国も利上げしてるんだし日本も為替安定のためやればいいじゃん」という意見があるだろうが
今の米株を見るとわかるように、同じようにすると株が暴落する
例:日経平均はコロナから他国の回復に釣られて上昇しそのまま維持している
※株が暴落するというのを「銀行が融資してくれなくなる」に置き換えると分かりやすいかも
じゃあ正しいのかと言えば、そもそも「量的緩和+マイナス金利でも景気刺激あまり効いてないじゃん」という批判がある
これはアベノミクスから言われていたことで目下国内金融政策の一番の悩みだと思う
ただ、他国に追従したら株価が下がるわけだから、どっちに転んでも批判されると思う
他国はインフレを抑えるか、株価安定を取るかの2択だが、日本は為替安定を取るか、株価安定を取るかの2択になってる
アメリカ次第だけど
アメリカは11月と12月にまた金利を大きく上げるとほぼ断言してるのでドル円はまだ上がっている
でも「来年はちょっと上げるか横かも」って言っていて、何ならやりすぎると景気後退(リセッション)するから金利を下げるのでは?と言われている(アメリカはリセッションしないもん!って言ってるけど)
だからピークは年末か、来年のどこかで、来年末にはドル円ももっと戻してるだろうというのが多くの専門家の予想(特に投機筋がやりすぎた分戻す)
再来年にはもっと戻るだろうと言われている(まだ不透明だけど)
(一応為替介入はしている、まあ介入すると大口は煽りに行くから余計に過熱感が出ちゃうんだけど)
黒田そろそろ辞めるらしいけどね
ただ急激な変化は企業も対応できないのであまりうれしくないらしい
今回なんて1年以内に結構行ってこいしそうだから混乱するだけだよね
なんかする気なさそうだししても効かなそうなチャートの形してるよね
介入は2回は最低限したっぽい
あまりやるとアメリカが「為替操作国だ」とかいう認定してくるからしづらいらしい
よほどのことじゃないとしないし、する時もある程度アメリカに根回しはしてるだろうと見られている
そうじゃない時もあるらしい
・アメリカ株が年末か来年上旬くらいに底打つと見られているので積立NISAとか始めるなら大チャンス(?)
・金利上昇、金利下降が始まったらガチで為替が動くので投資してたら気をつける、中央銀行の声に耳を傾ける
・他国の株を買う(この冬)
・金やビットコインを買う(この冬)
※すいませんドルベースで考えてました、円ベースだと米株買いは為替差益出ちゃう
買うだけで毎年4%増えるってすごくね
日本人が米国債買おうとしたら為替差益の方がでかいから無意味なんだけど
あほくさ
元となるデータはエネルギーとか家賃らしいからそりゃ変わんねーよ
コロナのツケを払ってる感じ
今の日本株が耐えてる理由が円安にあるかどうかは正直わかりません、たぶんプロもわからないのでは
ファンダメンタルズはあんまり当てにならないものも多いけど、金利とQE、QTだけはガチ
この知識だけで致死率減ると思う
あ、ごめんなさい米株買う時に為替差益が発生するのに気づいていませんでした(株は素人すぎる)
この話難しいようで、わかってしまうとインフレ促進させるかインフレ抑制するかの2択だからそんなに難しくない
難しいのはその手段がたくさんあるってことと、影響がどう出るかあたり
日本の状況は非常に特殊で出口戦略が求められてるけどそれはまた別のお話(難しくて説明する自信ない)
ところで今のアメリカの状況は国が「もっと不景気になれ!」って言ってんのにそれが効かないみたいな状況で面白い
物を買うな!金を貸すな!国債かって大人しくしてろ!失業しろ!と言ってる
ここが違うと思う、FRBはドル高にする事でもインフレ抑制を狙っているからそんな無限地獄になってない
じゃぁなんで利上げができないのかっていうところだが、それはいま日本で住宅ローンを組んでいる人たちが大惨事になるからだ。国の判断によって国民がトラブルに陥ることだけはしたくない。
住宅ローンの話もあるかもしれないけど基本景気全体という理解をしている
そんなに大したことは起きないかもしれないが、政府の支持率がガタ落ちになることだけは間違いないのでやりたくないだろうな、政府。
FRBはすでに計画を出しているし、CPIを気にしてるのはむしろ市場や投機筋
黒田はもう辞める
利上げに転じられないのは検証済だと思う、詰んでるだけ
あと投機筋の話が足りてない
・ジュナイブルファンタジー物、見たの久々だったから面白かった 学校制度自体滅茶苦茶ツッコミどころは多々あるけどそこより視聴者の青少年を思いっきり楽しませる!っていう感じが良かった
・他のシーンで滅茶苦茶お金かかったから森裁判のとこで予算を少なくしようという努力が伝わった
・アガサたそ、聖女すぐる
「ぼっち・ざ・ろっく!」、通称「墓石」が、アニメ作品としてヒットすれば、まんがタイムきららは危ない。ヒットしなくても危ない。
当たり前のように使われてるが、どう考えても良い言葉ではない。胸を張って「私は陰キャだ」と言える人なんて居ない。ネット上(に限らないが)で「陰キャ」という言葉が出たとき、その言葉を言われた対象が賞賛の的になっていることは皆無と言っていい。明らかに「陽キャ」こそ上位の存在だと見做している。「陰キャ」であることを短所と見做すしかなくなっている。「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公を見て、名誉ある人物だと思う人はいない。そういう風にこの主人公は作られている。
昔は「リア充」「非リア充」という言葉がよく使われていた。ネット民である「俺」や「お前ら」は、まず「非リア充」の方に位置していた。しかし昔のネット民は「リア充爆発しろ」だのと攻撃的な姿勢でいた。それは冗談でもあり虚勢でもあったが、俺達こそ素晴らしいのだという感覚を得ることができた。「非リア充」であることに誇りをもっていたと言ってよい。またリアルでの充実というのは、恋人の有無に限らないことであって、趣味に熱中することができるならそれもリアルでの充実と言えた。「陽/陰キャ」という言葉の場合、現実が楽しいかという次元の話ではない。ただ人間性について判断しているのであって、いくらネットで面白いことができても、趣味に熱中したところで、「陰キャ」と言われれば「陽キャ」には勝てない。現に「リア充爆発しろ」に相当する言葉をまとに見たことがない。
「陰キャ」という言葉は、かつてインターネッツではほとんど使われていなかった。しかし2015年前後から急速に当たり前の語彙となった。この言葉はインターネッツ発祥の言葉ではないだろう。しかし今、こうして当たり前の言葉となった原因はネット民に、ネット掲示板にある。それはなんでも実況Jが2ちゃんねるの都となってからのことだ。その時期といえば、とある炎上に関わった弁護士が大いに叩かれていた。かつてのネット民の意識であれば、「俺達は弁護士よりも上」だと言っていただろう。しかしいつしか、「弁護士は俺達よりも下」になっていた。
そもそも人間の性質を二つに分けることは乱暴なことだ。世の中に、完全に「陰キャ」でしかない人はほぼ存在しない。完全に「陽キャ」でしかない人もいない。人間には必ず陰と陽とがある。5対5のように、両方のバランスによって成り立っている。そのバランスは時と場合によって3対7や1対9のように変化していく。誰を相手にしているか、どの場所にいるかによっても変わる。本人の気分によっても変わる。学校では無口でも家では饒舌なら、それだって本人の「陽」の側面が強まっていることになる。ネットでは強気になれるなら、それも「陽」と言っていい。ただし、そんな時にも「陰」の面はある。また、自分では「陽キャ」だと思っていても、他人からは「陰キャ」だと思われていることもある。自他の認識によって、人間の性質は変わる。
我々は、「陰キャ」という言葉を見たとき、「陰キャ」と呼ばれる人を見たとき、絶対に自分の中にある「陰キャ」の側面を実感している。全員が共感できるから、「陰キャ」という言葉はここまで当たり前の言葉になっている。「陰キャ」という言葉が捉える範囲があまりに拡がりすぎている。使う人のさじ加減によっても変わってくる。
人が自分や他人を判断する材料が、「陰キャ」か「陽キャ」かしかないとは、短絡的なものだ。我々の人を見る目は蒙昧で貧弱なものになってしまう。
現在まんがタイムきららでは、「陰キャ」という言葉を全面に押し出している作品が三つある(正確にはその一つの連載は終了している)。「ぼっち・ざ・ろっく!」と「ななどなどなど」と「むすんで、つないで。」のことだ。いずれも主人公が「陰キャ」と言われたり自称したりしている。しかしこの主人公三人は、同じ「陰キャ」であるにもかかわらず、共通点がない。「陰キャ」である状態が異なっている。
「ぼっち・ざ・ろっく!」の主人公はまともに人と話すことができない。言葉を発すると緊張の度が過ぎて、たどたどしい滑稽な姿になる。
「ななどなどなど」の主人公は、問題なく人と会話が出来る。ただ、自尊心が強く、気高く、高圧的に人と接してしまうため、人との不和を起こす。そういう人間性から、この彼女は「陰キャ」と呼ばれた。
「むすんで、つないで。」の主人公は、自分のことを「陰キャ」だと思っているが、周囲からは憧れの的となっている。容姿端麗で、成績優秀だとして賞賛されている。間違っても「陰キャ」とは言われていない。このように、自己へ下す認識と、他人から与えられる認識に差異がある
「会話が困難な人」「会話は出来るが人格に問題がある」「会話もできるし人格も整っているが、その人自身は不安を消せないでいる」。これらは完全に別物であり、違った性格を持った人物の集まりだ。それなのにこの三人は、「陰キャ」だと一つにまとめられている。こうした乱暴な処理がなされた結果、「陰キャ」の意味は広く曖昧なものになった。
「まんがタイムきらら」の枠に留まらず、今や日本では、人間は「陰キャ」と「陽キャ」のどちらか二つに分類されるようになった。しかし人間はそこまで簡単に分類できるほど、単純に造られていない。漫画の登場人物ですら、多種多様な性格をもっている。繊細な性格によって表れ出ている人間の姿を、真っ二つに分けることなど、とうてい出来ない。出来るとすれば、相当に乱暴な作業と言うほかない。
ひどく曖昧な意味をもっている言葉を平然と使う。普通の人が日常会話でつい使ってしまうのならまだしも、漫画家という表現者が使うのはいかがなものか。使うのであれば、考えた上でやらなければならない。考えた上で使うことが出来ている作品は、「むすんで、つないで。」しかない。
こういう考えもあるかもしれない。「陰キャ」がもう当たり前の言葉となった以上は仕方がない。その言葉をあえて使うことで、読者の共感を得ることが容易になる。確かに「ぼっち・ざ・ろっく!」は、「陰キャ」という言葉によって、現代の我々の思考を写し取った作品になっている。しかし、それがまんがタイムきららにとって、いかに異質で危険なことか。それを考えなくてはならない。
一時期のまんがタイムきららは、多くの嘲弄を受けてきた。きららからアニメ化される作品は「日常系」と呼ばれ、「中身がない」だの「美少女動物園」だの散々言われていた。
そういった意見に間違いがないわけではないだろう。一つの正解であるとも言える。
しかし面白い作品のあり方はさまざまであってよい。劇的な物語がなければ、作品として成立しないなんてことはない。キャラクターが死ぬのを見れば、それは悲しいシーンとなる。涙を流すこともあるだろう。しかしその涙は、純粋な感動のためではなく、感動という暴力を受けて涙を流しているだけかもしれない。
何気ないことに心を動かされることがある。そのことを追求したのが、過去のまんがタイムきららだった。何気ない瞬間の美しさを、美少女キャラクターに託していたのだ。そのためには、細心の注意を払ってキャラクターをつくらなければならない。例外もあるとはいえ、人の死があるわけでもない、激越なバトルがあるわけでもない、何か大会で勝ち上がっていく過程もない。ただそこにはキャラクターがいる。読者の感性に訴えかけるキャラクターを描かなければならなかった。それがかつてのまんがタイムきららの様式だった。そうしてきららは、いくつもの作品を世に送り出してきて、少なからぬ成功を収めた。
そんなきららが、今では「陰キャ」「陽キャ」という、曖昧かつ極端な言葉にとらわれてキャラクターを作ろうとしている。これは創作の妥協であり、怠慢だ。きららが今まで築いてきたものを否定している。いわゆる「なろう系」や異世界転生もののように、圧倒的な成功を得られるならまだ良い。しかし「ぼっち・ざ・ろっく!」に圧倒的な成功や勝利や名誉の獲得はない。
きらら編集部は、人々の口に上ることの多い「陰キャ」という語を、訳もわからず商機と見做して漫画に取り入れたつもりなのだろう。しかし、この「陰キャ」という言葉は、近年の「インターネッツ」の売り物の一つなのだ。「陰キャ」の隣には「ショウガイジ」があり、「すき家でチーズ牛丼を注文する男性」も陳列されている。周囲を見渡せば大量の炎上コンテンツがある。「ゲイ向けのビデオ」があり、「大物YouTuber」もあり、「ネットに強い弁護士」もある。
きらら編集部がもし「ショウガイジ」を選択していたら、問題視されただろう。しかしさすがに、きらら編集部は「ショウガイジ」がまずい意味をもっていることを知っている。だから「陰キャ」を選んだというのか。特定の人種を差別しているわけではないと判断したためにか。「陰キャ」という語が、「ガイジ」と紙一重の意味合いと動機で使われていることをきらら編集部は知らないのか。知っていてやっているなら邪悪でしかない。知らないからといって、何でも認められるわけではない。「陰キャ」を使っていいのは、人の気も知らず、自分のことも顧みず、悪口でも何でも好き勝手使うネット民だけでよい。
まんがタイムきららの編集長は、「雑誌とは社会の公器であることを認識しなければならない」という教えを守っているのだという。「常に新しいことにチャレンジする」ために、「意識的に尖った作品を多く掲載するようにしている」側面があるのだという。その「尖った作品」の第一として挙げたのが、「ぼっち・ざ・ろっく!」だった。まんがタイムきららは、尖った作品を作るために、社会の公器であるために、ネット民の小競り合い、煽り合いを利用したということだ。
きららアニメは、今までニコニコ動画で散々「ゲイ向けビデオ」のコンテンツと共演させられてきた。きらら作品のキャラクターが「ガイジ」扱いされることも多かった。きららアニメの大元であるきらら編集部は、ついに自ら「インターネッツ」の汚れた部分に浸かることを決めた。しかも「社会の公器」であるから、「ガイジ」のような過激なものは使えず、なるべく穏当な「陰キャ」を手に取って、「インターネッツ」の人々と仲良くすることを選んだ。
編集長のインタビュー記事 https://www.mashiro-writer.com/interview-houbunsha70th
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功すれば、今後も「陰キャ」「陽キャ」という観点でキャラクターが作られるだろう。人間の性質を無理にでも二極化して行くだろう。過去の伝統を振り捨てて。
もし「ぼっち・ざ・ろっく!」がアニメとして成功しなければ、新たに売れそうな漫画を作り出さなくてはならない。約五年前のように、一年に三つも四つもきらら出身のアニメが放送される時代は終わっている。過去に人気を博した作品も続々と完結している。現状のまんがタイムきららに見込みがありそうな漫画は数少ないと言ってよい。アニメ化が決定した「星屑テレパス」を含めれば、あと四つほどだろうか。「ぼっち・ざ・ろっく!」はきららの最終兵器とよく呼ばれている。最終兵器とはまるで後がないかのような言い回しだ。
やあ、表現の自由混乱増田だよ。今日も今日とて混乱してる。以下、メタブより。
以前のブコメより
俺の考え。自明?
表現するな = 表現の自由の抑圧、で納得してた牧歌的な時代はとっくの昔に過ぎ去った。
肯定しないでという批判に正当性を認めて、というのが出てきた。ならば、肯定しないでという批判に正当性を与えるような登場人物を出さないで、とかは表現の自由にとって何なんだろうか? 眠りは日増しに浅くなっていく。
結論から言うと、やや勇み足だったのではと思う。お前誰だよって話だが、ただのしがない一町民である。
美瑛町によると、実際は町の病院を経ずにドクターヘリで旭川の病院に直接搬送することがあるという。放送後、町議がフジテレビに「実態と異なる」と電話で指摘したところ、12日に番組関係者が来町。角和浩幸町長が「フィクションとはいえ、医療過疎、住みにくいという印象を与えて残念だ」と抗議したという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/52f840229039f3f4f4caff46e37bef41e950a2e7
そんなに適当なもんを作ったんか、まああってもおかしくねえよなフジだし(偏見)と思って、試しに一話を見てみた。
指摘部分に係わる話の流れはこう。美瑛のロケ地で体調を崩した子役の女の子。救急車を呼ぶか迷うも、最寄りの病院までは一時間の距離。救急車が来るにも時間がかかるということもあり、女の子とその母親はスタッフ(?)の運転で町の病院(美瑛記念病院、モデルは美瑛町立病院だろうか?)に車で向かっていたが、その途中で嘔吐、さらには吐血と容態が悪化した。焦った母親は町の病院に電話をしたが、母親は気が動転していて情報を伝えられず、電話を受けた若い医師も、母親を落ち着かせるような話術の訓練が足りていなかった。一旦は町の病院に運ばれ状況をみたが、大きい病院に運んだほうがよいという判断がなされ、道北医科大学病院(おそらくモデルは旭川医大だろう)に搬送され救急が行われるが、小児専門の外科医がいないために根本的な治療は行えなかった。ドクターヘリで北海総合大学病院へ搬送されるも、そこのPICUは救急を受け入れられず、残念ながら女の子は亡くなってしまう……。これが数年前の話。
美瑛旅行中に車中で苦しむ女の子を偶然目撃していた主人公は、小児科の医師として働いていたが、突然の辞令で丘珠に新設されるPICUに配属になり……という風にお話に関わってくるのだが、そこは割愛。
まず指摘からいくと、美瑛町内から町の病院まで1時間というのは、ロケ現場がかなり奥地だったとしても、ちょっと盛っている。北海道の車で一時間はだいたい道のりで50kmぐらいである。美瑛町内だとほとんどの場合ぶっとばして30分以内だと思う。が、まあフィクションの範疇で済むかなと思う。(追記あり)
ただ、それを別にすれば、別に話として破綻はしていないと思った。たしかに、初手から救急車を呼べていればドクターヘリを現地まで呼ぶなり別の対策があったかもしれないが、当初は救急車を呼ぶかどうか迷っていた程度の容態だし、救急車を呼ぶのに躊躇した理由についても「救急車を呼ぶと結局倍時間がかかる」と言及があり、(それが本当であれば)車で送ることを選んだ理由になっている。町の病院に運ばれるまで大きい病院に送る判断ができなかったのも、母親と医師とのコミュニケーションがうまくいっていなかったことで説明がつくし(ここで原因を医師の腕のせいにせず、情報の伝達がうまくいっていなかったとするのも巧いなと思う)、そもそも全てが上手く行っていたとしても、道内に救急を受け入れるPICUはなかったのだから、結果が大きく変わらなかった可能性は高い。登場人物全員が全員なりに良いと思う選択肢を取ったが、それでも救えなかった、という理由付けがかなり丁寧になされていると思う。
町の病院まで一時間は盛っていると思うが、そこから旭川の病院まで20分というのはかなり正確な数字で、ちゃんと北海道の地理を調べて設定を作っていることが伺える。美瑛からちょっと車で走ったら函館に着いたどこぞの映画とは大違いである。
なので、"町の病院を経ずにドクターヘリで旭川の病院に直接搬送することがある"という町議の指摘は、この話への指摘としては不適当だと俺は思った。そういう選択肢があったとしても、この事例では結果として使うことができなかったのだ、という理由がしっかり説明されていると思うし、見ている人にも伝わると思う。実際の地名使っておいていい度胸してんじゃねーかと見る前は思ったが、見終わったあとではべつにそういう感想は出なかった。つーか普通に良いドラマだ。みんなフジの月9だと思って毛嫌いしないで見た方がいい。安田顕がかっこいい。
まあ、でも、コレを見て、「美瑛って旭川の隣なのにクソ田舎でろくに病院も無いんだな」と思われる可能性は大なので、そういう意味で「医療過疎で住みにくいという印象を与え」という町長の言はまぁわかる。実際俺もこれが地元だったから違和感を覚えただけで、アメリカの話だったら「アメリカってそうなんやー」って思うもんな。まあフジテレビも「住みにくいと思われるだろ」と言われても困るだろうが。
あとこれは余談だが、美瑛は意外と医大も日赤も近く、それでなくても旭川の隣なので、道内でも医療へのアクセスはかなり恵まれているほうではある、という事情があるし想起できるところなので、女の子の一件の舞台(兼、主人公の旅行先)として美瑛を選んだのは単純によくわからない。知床とか、それこそ離島あたりにしとけばツッコミの余地もなく最寄りの救急病院までも遠い、という状況は作れた思うが。それだと最初からドクターヘリ出動に考えが及ぶから逆にリアリティに欠けるとか、単純に映える景色が欲しかったか、ロケが楽だったとか、そういう事情なのかな(旭川空港に近く、羽田からのアクセスが良い)。
と、ここまで書いて、こんな記事も見つけた。
こうした声を、美瑛町はどのように受け止めているのか。あらためて美瑛町役場総務課に聞くと、フジテレビ職員との話し合いがあったことは認めたが「報道では抗議という表現されているが、フジテレビ様のほうから、うちのほうにご来庁されて、その話(ドラマの内容について)の説明があった」と、報じられているほどの苛烈な声明ではなかったという旨の返答があった。
道新とsmartflashどっちを信じるかは難しい問題だが、これが事実なら、町議がやや暴走しただけで、フジの人はわざわざ説明に来てくれた誠実な人で、町長は建前上否定的なコメントを出しただけで、道新がそれを恣意的に美瑛がキレてるかのように記事を書いただけの可能性が高いな……。フジを叩くつもりでこの記事を書き始めたが、道新の株が下がる結果となったとさ。ちゃんちゃん。
【追記】
「美瑛町の1次救急体制として、救急車が到着するまでに2時間もかかるということはあり得ません。さらに、救急医療に関しては、ドクターヘリの運用も含めて、旭川市とも連携しており、美瑛町内の病院を経ずに、旭川の病院に救急搬送する体制があります。フィクションとはいえ、子育て世代などの移住定住政策を推し進めている中で、実態とは違う表現で、美瑛町の小児医療体制が整っていないかのように描かれ、マイナスイメージを持たれてしまったことは残念です」
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e4a71eefb3d01a78af41868147aea1bce2f2427
記事内にもあらすじの説明があり、前半はまっとうな指摘であると思う(ただ、救急車が到着するまでに2時間というのは不正確な表現で、劇中での説明は、片道一時間だから、救急車が来て病院に患者を運ぶまでに往復で2時間、ということだろう。救急車が一般の車の半分の速度で走るわけがない。ただ、どちらにしろ1時間かかることもまずあり得ない)。コメントにもあったが、俺はフィクションで済むと判断した部分だったが、誤った印象を与えるとして、町として抗議したのだと思う。
後半の指摘については的はずれだと思う。どれだけ体制が整っていても、母親とスタッフは救急車を呼ぶという判断をしなかったのだから、病院にできることはない。そして、片道一時間という設定を受け入れてしまえば、大人たちが救急車を呼ばなかった理由にも一応の理屈は立っているのだから(あくまで理屈が立つというだけであって、正確には容態が急変した時点で車を止めてでも119して指示を仰ぐのが正しい判断だろうと思うが)
「ドラマにおける町の描写は医療過疎、住みにくいという誤った印象を与えかねず、現実と乖離しているため、遺憾の意をフジテレビ側にお伝えしました。町から隣の旭川市の病院までは車で30分まで移動ができ、1時間以上かかることはありません。町としても医療体制や救急搬送には力を入れています。ドラマであった患者のたらい回しみたいな事は起きておりません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0edd3e9afa7f989125e0eac6303a312fecf5ee9e
こっちの記事はひどい。
「旭川市の病院までは車で30分」については、上で言及した通り、「美瑛記念病院から道北医科大学病院まで20分」とあるのでむしろ正確である。
「患者のたらい回し」についても、女の子の症状は最初は体調不良かと思われたのだが、どんどん容態が悪くなりPICUの必要があることがわかってきた、という筋書きであって、たらい回しにされたわけではない。
なんで2日続けてこんな内容の違う記事が出るんだ。担当者のコメントの内容がまるで違うので、同じ人物が書いた記事ではありえなく、どっちかは(あるいはどっちも)ろくに取材もしないで書いたんだろうと思う。たぶん記事のペラさから見て下のほうなんだろうなあ。一応ソースもあたってみたが、記者名は当然書いてなかった。日刊ゲンダイも信用できねーなぁ。
あとは余談だけど、この記事で(おそらくただのいちゃもんとして)あがってる、稚内の医者を訪問するとき普通列車で行くか?という指摘。西稚内駅は架空の駅なので、稚内まで飛行機で行ってから、駅弁買って宗谷本線(的な架空の路線)に乗ったという理屈は、まあ普通に立つ。こういうところを見るに、ちゃんと架空の地名を作る配慮が無いわけではないんだよなあ。なんで美瑛は伏せなかったんやろ……?それで全部丸く収まったのに……
ノクターンノベルズ(小説家になろうの18禁版)のランキングを「AI挿絵つき」が席巻し始めている。
今現在のランキングだと、1位と12位が全話AI挿絵付きの長編。
1位と12位はNovel AIを使用していると明記されている。
7位は明記がないがおそらくNovel AIと見ている。
AIイラストは、複数の生成イラスト間で同じ登場人物を同じように描くことが苦手だと思っていたが、それもできている。
これは、3Dカスタム少女やコイカツなどで3Dモデルを作っており、それに任意のポーズをとらせて出力した画像をimg2img機能で挿絵に変えているという考察があった。
元々、3Dカスタム少女による画像を挿絵として入れている作者はノクターンノベルズに存在したので、仮説として十分ありうる。
また、上記小説の説明を見ると、AI生成イラストに対してさらにレタッチを行っているらしい。
3Dモデルから直接出力した画像に比べて平面的に描かれるAI生成画像は、修正もしやすいだろう。
3DモデルとAIイラストの良いところを組み合わせる方法で正直賢い。
面白いのはこれがノクターンノベルズでのみ起きていて、小説家になろうでは同様の波が来ていないことだ。
これについては以前読んだこのエッセイを思い出した。
https://ncode.syosetu.com/n3823bk/2/
読み手は、それまでの人生の蓄積のなかから、既知のイメージの張り合わせを行って、描写の内容を“想像”する。
想像の難易度は、小さくて単純なものだと簡単だが、大きくて複雑なものになると極めて難しくなる。
読み手の想像そのままのプレーンな状態に、書き手の指定が、あまりに多く入りすぎると、想像に注釈がたくさん付いた状態になって、すなわち読み手の処理能力に負荷をかける。そうすると想像したものの保持自体が難しくなってくる。
もちろんネット小説と言えども小説を読んでいる人間ならば、この「想像の保持」ができないわけはない。
ただエロ小説の場合それでシコるという巨大なタスクがある関係上、「想像の保持」にかかるコストは通常の小説と異なり、少なければ少ないほどいい。
また、エロ小説というのは読者に「読者の頭の中で作られた映像」をエロく感じさせる必要があるので、本来独特の難しさがあった。
シチュエーションや感情描写やセリフにより、ある意味情念に訴えるような間接的なエロが要求された。
Noval AIは本家Stable Diffusionと違って18禁画像の生成が封じられていないので、その点非常に都合が良い。
Novel AIは、投稿画像のほとんどがpixivやエロゲCGなどの無断転載で占められる悪名高き画像投稿サイトdanbooruから学習したモデルだという。
あそこはコンプラめちゃくちゃな癖にタグ付けが異様に充実していることは以前に書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20171022133100
本当に無制限ってことはないだろうが、見かけ上の上限は無い。少なくとも50個くらいは付けられる。
キャラ名や作品名、シチュや場所を表す言葉から、キャラの人数、ポーズ、付けている装飾品の隅々までほとんどタグ化されている。
これは確かにAIにとって非常に学習しやすい環境だろうと思う。
あとネット上のあらゆる画像ではなくpixivやエロゲCGがほとんどなので、小説の挿絵的なものにはかなり向いていそうだ。
ノクターンの多くの小説に挿絵がつくようになるのも良い変化だと感じる。
ただ、それをもたらしているものが違法転載から学習したNovel AIだというのがどうしてもいただけない。
今後、法規制、クリーンなモデルの発展、Novel AIの相当多くの日本人への膾炙からの既成事実化などがあれば、自分も使うかもしれない。
https://gendai.media/articles/-/74450
この記事、納得出来る部分もあるんだけど、外見で値踏みされるのって男よりも圧倒的に女の方だよ?
女はずーっと前からそういう扱いを受けてきた。男は度胸、女は愛嬌っていう。女と似たような扱い(でも女に比べたらまだ全然甘い)を男も受けるようになったら突然ピーピー喚きだしてるって印象が強い。
まあ白饅頭って時点で論外ではある。
こことか特に。
『生身の人間に対してだけではなくて、近年では、自分が相容れないフィクションの登場人物や表現などに対しても、「加害である」とか「差別である」というロジックで排除を唱える人が一部にいます。それはしばしば「政治的正しさ」という文脈で語られるわけですが、実際には理論的な裏付けや、何が差別なのか、何が加害なのかといった根拠を明確にして反発している人よりも、「不快になった」という感情に、後からそれらしい理屈をつけて怒る人の方がはるかに多い。』
『その上マイノリティとして認定されることもない中高年男性などは、苦境に陥っていてもなかなか苦しみを理解してもらえないということになりかねませんし、事実としてそうなりつつあります。』とかさ、
なんで中年男性に限定するんだろうね。そんなの、女も若い男性もそうだっつーの。この間も22歳の男性が発達障害と診断されて自殺したのが話題になったのに。
寧ろ中年男性は十分苦しみを理解されてるだろ。女性に非正規労働者が多くても当たり前だとして話題にしなかったのにちょっと男性に非正規労働が増えたら突然社会問題として取り沙汰されるようになり、若い人や女性の自殺が増えたって報道がされただけで中年男性の方がーって大騒ぎされてるし。
漫画読んでるときとかアニメ見てるときに、登場人物の表情とおんなじ顔をしてしまう癖があるんだけど、これって普通? 脳みそが子供なのかな
特に笑ってる系と睨んでる系はなりやすい 泣いてる系も若干うつる 驚いてる系はうつらない
実写でもならないことはないけどそれほどでもない
これ書いた増田だけど。
あ、ちゃんと返事してくれた。
漫画好きだったら、より「闇堕ちして敵として戦うことになってしまった元味方の悪役」っぽい感じにするわ。
サンドバッグと思って改心させてみ。
正直、自分の気持ちを誤解のないように広めたいなら、もうちょっと考えて文章書いてくれとしか言いようがないわ。
長文だったし伝わらなかったら悪かったけど、「はじめに」のところだけじゃなくて、全体的にふわっとしてんだよ。
「自分の半生に基づくサンプルデータ1の、めちゃくちゃ主観的な話」なんだろ?
なんで極めて主観的な見方をしながら、そうやって主語を大きくして言い切れるかが全然読み取れない。
あと、その説明があった前提で、「否定的な気持ちで見る」ってどの時点の話?
のどっち?どっちも?
たぶん後者かなと思うけど、主張全体を読むとどっちもかなってなって、分からなくなってくる。
いずれにせよ、自分の半生に基づくなら、俺は「最初から」批判目的で、漫画を最後まで読んだことが何度かある。
そうでなくても、「途中で」批判的な見方に変わったけど読み続けた漫画もたくさんある。
俺じゃなくたって、ジャーナリズムだとか科学的な視点で批判のために読む人がいるんじゃねえの?
主観的な話をするなら、「↑みたいなケースは含めない」とか言えば良いんだけどさ。
好意ってなに?
前段の文章と組み合わせると、
「漫画を否定的な気持ちで見ないということは、つまりその漫画に好意を持つということだ」
って読めるんだけど、てかほぼ原文のままだけど。
「否定的な気持ちで見ない」ということは、それは「無」か「中立」かせいぜい「肯定」であって、いずれにしろ「つまり好意」ではないだろ。
主観的な話をするなら、「俺の思う好意とはこういうことだ!」って説明をしないと伝わらねえよ。
で、くどいけど、その「元増田が思う好意」があるのは「元増田にとって」
のどちらなのか、どちらもなのかが読み取れない。
仮に、「どちらも」だとしようか。
俺にとって、好意ってのは最初からあるもんじゃない。一目惚れだって、一目見るまでは好意にならない。
人に勧められて半信半疑で読んでみて、いつの間にかハマってた、ならまだいい。
途中まで好意的に読んでたけど、なんか登場人物の言動とか作者の言動とかが原因で「あ、これダメだわ生理的に受け付けない」みたいなこともある。
この、「あ、やっぱこれダメだわ」についての説明はどうすんの?
「例外はない」みたいな書き方をしておきながら、読んでるこっちは例外ばっかりポンポン浮かんでくるから主張がふわっとすんだよ。
ふわっとしてるか判断すんのは元増田じゃない。読んでるこっち側だ。それを指摘されて素直に認めるかどうかが問われる。
返事してくれたのは良いけど、その文章も相変わらずふわっとしてる。
だから結局、「お前が思うならそうなんだろう、お前の中ではな」みたいな感想にしかならない。
こんな感じだわ。
ここより前の文章は、元増田のふわっとしてるところを指摘しただけだから答えなくていい。
だけど、その「ハッピーエンド」と「善意」ってそもそも何?ってのが、今のところお前の頭の中からちっとも出てきてねえんだよ。
それを引きずり出した上で、