はてなキーワード: ライムライトとは
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 秋分 の日
・03 『ちはやふる』
・04 窒素
・05 [ペア]2番と8番
・06 プレタポルテ
・07 [すべて]アフガニスタン ウズベキスタン カザフスタン タジキスタン トルクメニスタン パキスタン
・09 ビスマルク
・13 9
・14 リンドウ
・15 五木ひろし いつきひろし
・19 マウスピース
・21 海王星
・22 きんぴら
・25 [3択]55(日
・26 ペリカン
・27 エルヴィス・プレスリー
・29 オットマン
・30e 東京(湾
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
少し気にした時もあったが、深津絵里もそばかすあるけど美人だし逆にチャームポイントじゃね?と思って気にしないことにした。
(後年深津絵里の頬からそばかすが消えた時は少しショックを受けた)
しかし30代も半ばを迎え、頬に散らばったものがそばかすなんだかシミなんだかよく分からない状況になってきた。
全体的に色も濃くなってきて年齢を感じさせるようになった気がした。
(深津絵里も同じように年齢を重ねて気になるようになったのだろうと今なら思える)
今の国民皆マスク状態なら施術後のかさぶたも目立たなくてよいと思い、美容皮膚科でシミを取ってみることにした。
今後状態がもっと悪くなる前に取ってしまった方が安上がりなんじゃないかとも思った。
結構な日にちが予約で埋まっていた。美容皮膚科って繁盛してるんだなと思った。
コロナ禍でより繁盛している業種なのかもしれない。
自分の希望していた「ライムライト」という光治療を医師からもおすすめされた。
頬上部のみで1万円強である。初診料等含めて2万円あれば足りると思っていたが、施術後の飲み薬やら塗り薬やらも必要で3万円弱かかってしまった。
施術は看護師が担当した。医師も途中様子を見に来て数回顔に光を当てて去って行った。
痛みは多少はあるが光脱毛と似たようなものだったと思う。あまり覚えていないレベル。
(先週のオードリーのラジオで春日が顔のシミをピコレーザーで取った話をしていたが、春日って痛みに弱いんだね。ピコレーザーの方が痛みが強いのかもしれないけど。私も春日のこめかみのシミは気になっていたので取ってよかったと思う)
施術直後からシミそばかすが濃い茶色になり、翌日には黒いかさぶたになって、10日ほどかけて全てのかさぶたがはがれ、薄かったシミは消え、濃かったシミは薄くなった。
3万円もしたが最高の気分である。
しかしこうなってくるとドンドン全部消したくなるものなんだね。
てか、芸能人が肌綺麗なのってお手入れとかの問題じゃなくてシミ取りに通ってるだけだと思う。
おかずクラブのオカリナとゆいPはしょっちゅうシミ取りに通ってるって誰かにバラされてたし。マネージャーに「女芸人は肌だけはきれいにしとけ」と言われたとかオカリナが言っていた。
元増田。
帰ってきたら色んなコメントあって驚いた。
どうやったらオタクを続けられるかアドバイスくれたことがとても嬉しい。
深夜の書きなぐりをまじめに読む人いないと思ってたから、もう少し自分の考えを補足する。
(一人で楽しみたい、作品を楽しみたいのに)なんで他の情報も調べるのか?ってコメントもいくつかあったけど
監督の歴代作品、同ジャンル他作品、同時期他作品をみたり、作品の作られた時の時代背景とか調べたりすることで
その作品の何が面白いと思ってるか、何が優れていてここまで人気が出たのか、とか考察したくなるタイプのオタクなんだよね。
その調べてる途中に避けきれない二次創作に被弾するのつらい。画像検索すれば自己主張の激しいイラストとかコスプレとかにぶち当たる。
例えばアイカツ公式Twitterとか、もうそういう層に向けてツイート内容考えてるとしか思えない。
楽しんでいる人には悪いんだけどもそれみて喜んでるアイカツおじさんおばさんみてるとなんかもうがっかりする。
アニメもゲームも面白いのに原作者でもないいちスタッフが公式twitter使って二次創作してるようにしか感じられない。
SNSによってユーザーの力が大きくなって公式と近くなったからといって、公式がわざわざ誘導しなくても二次創作なんて勝手にするものなんじゃないのかな。
二次創作を通して才能開花して生まれた作品もあるし二次創作全てを否定してるわけじゃない。
二次創作はあまり読まないタイプだけどもそれでも素晴らしい作品に出会ってきた。
SNSで回ってくる色々な作品の中にはどう考えても作品が好きでやってるんじゃなくて、
「作品を好きな自分」が好きでやってるだろ、ってモノがあるのも事実だと思う。
過度な露出するレイヤーとか、オリジナルすぎて元がわかんない謎設定とか。暴走するラブライバーとかもその一部なのかもしれない。
どれもこれも作品利用して名声を得ようとしてるだけじゃないの?本当に作品に対するリスペクトはあるの?って思ってしまう。
それに対して若い時はそういう人もいるか、って許容できていたのに、ここ最近はただただ嫌悪感しか感じられない。
そういうことが積み重なってなんか、もうすっごく疲れた。
何もしなくても勝手に二次創作が擦り寄ってくる今の状況が苦しい。
何か切掛があったわけでもなく、物心ついた時にはオタクだった。
それをやめることは自分のアイデンティティといえるのかもわかんないけど、
やめた後の時間も、お金も何に費やせばいいのか検討もつかなくて踏み切れない。
まとめるとSNS時代についてけないキモオタ、ってことなんだろうな。もう少しSNSとの付き合い方考えてみる。
トラバにあったライムライトは今度舞台で見る予定だったし楽しみに見てくるよ。
明日はJリーグの試合もないし、好きな特撮映画の大魔神見ながら寝る。