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はてなキーワード: 入学式とは

2020-09-08

社交辞令かわいい

かわいいと思ってた、とよく言われる。

中・高・大、入学式だったりクラス替えだったり節目のタイミングで必ず言われてきた。しかしながら自分は俗に言うかわいい顔にカテゴライズされる顔ではなく、かわいいと言わせる雰囲気を持った人間であることに生きづらさを感じている。

かわいいと言われることは素直に嬉しい。スキンケアも化粧もヘアセットも好きで、ニキビ毛穴の手入れはもちろんコンプレックスを隠すための化粧の研究PC診断骨格診断など自分をよく見せるための労力とお金は人並み以上に費やしている思う。何が言いたいかというとかわいいと言われてもいいでしょう?って開き直れる程度には日頃から頑張っているつもりなのである

その頑張りは実ってかわいいと言われているわけだが実のところ顔はかわいくないのである新垣結衣、twiceのナヨン、aiko結構な頻度で言われる芸能人だがもう信憑性がない。この3人だけで顔が全然異なる。個人的にはaikoに似てると思うけどaikoに似てる一般女はかわいくない。aikoかわいい、歌も割と聴く

愛嬌と素直さと計算高い性格がうまく融合し、人に害を与えないよう努め、そこそこ自由に振る舞いながらも適当ぶりっ子していればかわいい称号はもらえる。

問題かわいいと言ってくる人間への対応だ。かわいいと言ってくる人間にもパターンがある。

シンプルに私の顔が好み。

メイクが好きな女の子

社交辞令

④下心

①と②はいい、すごく嬉しい。話しかけてくれる時に目がキラキラしてる気がする。優しくしてくれるから私も極力優しく接したい。④は論外だけど分かりやすいし対処やすいか別にいい。③が難しすぎる。

場を繋いだり盛り上げるための社交辞令シンプルでいい。向けられたかわいいに対して否定しようが肯定しようが取り留めのない会話として流れていく。

最悪なのはマジでミリも思ってなさそうな卑屈そうな人間が言ってくる社交辞令としてのかわいいだ。肯定しても地獄否定しても地獄、なんて答えりゃいいのよこれ。もう私も嫌になってきたか暴言混じりに愚痴を吐くんだけれど、大抵肌荒れもある眉毛も整ってない化粧が下手くそで後ろに一本、いい値段のマイナーブランドで全身固めた勝気な女ばかりだ。もうめっちゃダルいかわいいと言いながらジロジロ品定めしてすごい形相でマウントを取っていく。一本!一本やるから黙ってくれもう。何が書きたかたかも分からなくなってきたしなんかすっきりしてきたのでここでもう終わることにする。飽きた。とにかく努力してる分かわいいって評価されるのは妥当だと思うしうるさい女はどこにでもいるけど大概ブスだから問題なしっていうことよ。

2020-08-22

今更だけど上野千〇子の祝辞に関して東大生が思うこと

私は一生公教育なんて信じない。私の命は中学受験で救われた。

私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。

とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生放火をし、中学生喫煙し、高校生バイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。

私の家は紛うことなホワイトカラー一家だ。元ボンボンサラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しか女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。

そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的あくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験小学校四年生から始まった。それもSAPIX日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。

しかし、それでも学校教員からの敵意からは逃れられなかった。

彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。

そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。

まずは保護者会で、担任教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生言葉絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。

休み時間円周率計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強しました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからいじめが始まった。

帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。

先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。

おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生なのだクラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは仲間意識の強い」彼らなのだ

悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。

また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。

私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休み図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。

一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこから漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。

担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。

だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。

真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。

別の小学校越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまたからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分学校問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。

私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分オーディションに受かったら、自分母親と隣のクラス教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。

話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。

もし父親先見の明がなかったか、私が過度のストレス受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。

数年前の東大入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれ人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。

エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。

2020-08-19

軽薄な人間が集う大学入学式に軽薄な芸人を招いて喋らせるのが恒例らしい

2020-08-15

OGNZ

自分知識ベースで書く。この辺日本だと混同されてるというかそんな感じがするので。あと、間違いは結構あると思う。

NZマオリについて

マオリNZ原住民だ。当初ニュージーランドオランダ人が見つけた。オランダジーランドという場所がある。そこにちなんでつけられた。

ただ、上陸するなりマオリの襲撃を受けて犠牲者を出しつつにげ帰った。

その後に来たのはイギリス人入植者。今のウェリントンのあたりから上陸したらしい。

マオリイギリス人入植者の間でいざこざがあり、マオリ戦争という全面戦争的なことをしてイギリス人入植者勝利、ワイタン条約を締結して、イギリス支配下に入った。

当時南島は寒すぎてマオリがいなかったので、イギリス南島はかんたんに占領できたらしい。

ワイタン条約では、英語マオリ語の翻訳がきちんとできてなくて、確か統治管理誤訳からマオリは、統治権はマオリに残されたと思って条約に納得したことマオリ部族が多すぎて全部族との合意が取れる前に条約が締結されてしまったという問題があり、未だに解決していない。というかNZがこの辺の問題対応し始めたのが割と最近のことだ。

おかげで一部部族は今もニュージーランドマオリの国であって外国人は出ていくべき、車、家、財産はお前らが勝手に持ち込んだんだから我らが黙ってもらってもモンクは言えない、と言う人らもいるとかいないとか。

ニュージーランドではマオリ語は公用語であり、ニュースでは必ずキアオラ、というし、公的記者会見ではマオリ語でなにかいう。学校入学式のようなイベントではその土地マオリ族長が来て歓迎の儀式をする、ということもやる。国歌の一番はマオリ語、2番は英語だ。

ただ、マオリ話者絶滅しかけている。

オーストラリアアボリジニについて

オーストラリアアボリジニ黒人風貌でありながら金髪という特徴がある不思議民族だ。中部オーストラリアに行くと今も血の濃いアボリジニがいる。

大陸北西部には彼らの聖域のような領域があり、地図には立ち入らないようにとか、相当偉い族長許可がないと入れないとかそんなような警告が書かれている。多分なんの装備もなくそのへんに行ったら途中で遭難してしまうと思う。

オーストラリアはもとはイギリス流刑地であり、アボリジニは、イギリス人入植者たちの奴隷ハンティング対象にされてしまった。タスマニア島アボリジニがいないのは、入植者たちがひとり残らず殺してしまたからだそうだ。

都市部アボリジニたちは混血が進んでおり、どうやら純血のアボリジニはもういないらしい。中部オーストラリアで薮の向こうからひょこっとアボリジニ一家が出てくるのを見たことがある。

アボリジニたちはひたすら迫害を受けたあと、今度は同化政策対象になった。生まれたばかりのアボリジニを両親から取り上げて白人家庭に育てさせる、ということをした。

白人家庭で育てて白人価値観を身に着けさせて名誉白人にしてあげよう、ナイスアイデア!ということかな。余計なお世話だったのは言うまでもないが、政府がそれをやってしまった。

確か2010年くらいの当時のオーストラリア首相がこのことについて謝罪をしたが、マスコミから非難轟々だった。あの腰抜けふざけんな、頭下げるとかねーよ、という論調だった。

オーストラリアではアボリジニに対する生活保護がかなり手厚いらしく、学校いかなくても、仕事しなくても食うに困らないそうだ。

その結果、酒とドラッグに溺れるアボリジニも多いらしく、治安を悪くしている、という皮肉状態にもなっている。

アボリジニ語という言い方かは知らないが、カンガルーというのがアボリジニ言葉で「お前の言ってることの意味がわからない」というのは有名な話だ。

オーストラリアアボリジニ伝統文化に敬意を示し始めたのが2000年以降くらいで、エアーズロックウルルと呼ぶようになったのもその一つだ。最近やっとウルルに登るのが完全に禁止された。

オーストラリアは今でも白豪主義があるので、一部白人白人以外いなくなれと思っているが、良識的な大多数の人たちからは厄介で困ったやつだなあと言う目で見られている。

10年くらい前のエディトリアルかなんかで、こっちの大学にいる某国女性たちは、永住権のためにオーストラリア人との間で妊娠狙いのどうしようもない奴ら、とかひどい書かれ方してたのをみたし、そういう記事が発行されてるので、まぁ、そういう人はそこかしこにいると思っていいかもしれない。

景気がいいときと悪いとき特に白豪主義が強く出る印象がある。

アボリジニマオリ共通しているのは彼らの言葉発音がなんだか日本語によく似ていることだと感じている。

両国に行くと、アボリジニ語の地名マオリ語の地名がそこかしこにある。

ニュージーランド最北端にあるケープレインガは、マオリ族の死者の魂が旅立つ場所などと言われているし、ウルルには女性出産するための洞窟があったりする。

これらの民族のことを意識しながら両国を見てみても面白いかもしれない。

両国国旗は恐ろしく似ていて、オーストラリアに気を使ったニュージーランド国旗を変えようとして候補をいくつか選定、国民投票の直前でキャンセルするというおちゃめなことをしたが、国旗の成立は実はニュージーランドが先ということはあまり語られなかった。

からビームを出すキウイと言う国旗案がなにげに支持を集めていたので、そういうのりの国でもある。

オーストラリアニュージーランドの間では結構緊密な仲になっており、軍隊ANZACというオーストラリアニュージーランド連合軍という形をとっていて、第一次世界大戦でのガリポリの戦いで活躍した。おかげでトルコ人からはすこぶる評判が悪い。

オーストラリアはたまにだけどニュージーランドオーストラリアの州にしてはどうかという人が現れる。

ニューサウスウェールズビクトリアクイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリアノーザンテリトリータスマニアにつぐ第8の州にしたいらしいがいつもいうだけで終わる。

あと、ごく最近ニュージーランド定義大陸ということがわかった。大陸棚が凄まじく広く、その面積がグリーンランドを超えるらしい。これによって大陸というのは、グリーンランドより大きな島、という定義を学んだ人は多いと思う。でも大陸棚を含んでいい、というのはなんかインチキ臭いなと思っている。

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

2020-08-10

リアルクソデカ感情の話

人に興味ないよねとよく言われることが多かった。確かに人の名前は覚えられないし、学生の頃話題になりがちな誰と誰が付き合っているだとか全くわからなかったし興味もわかなかった。

あるときふと気づく。確かに私は人のことをあまり覚えられない。でも大切にする人は大切にしていると最近気付いた。人に興味のない人の言い訳テンプレートのようなものだけど、これが事実ほとんどの人に興味はなく、興味の大きさがクソデカ感情しかない人間だったらしい。

そんな私の3つのリアルクソデカ感情とその相手について話そうと思う。

無意識クソデカ感情

同じクラス不思議女の子がいた。

不思議というか破天荒というか突拍子もない行動をするというか、世間的には問題児しかないような彼女。なにか問題起こしてもまぁ彼女ならしかたないよねという風潮まであった。タバコを吸うとかそういう問題ではなく、体育祭日傘をさしていたり、人間が入れないはずの小さいロッカーから飛び出てきたり、入学式うそう他クラスまで殴り込みにいき、名前なんていうの?って聞いて回るような変人しかも一回みたひとの顔と名前絶対に忘れないという変人オブ変人だった。

そんな変人で、すらりとしていて、いつも飄々としていた彼女が美しいとしいと思ったのだ。恋愛的な意味ではなく、なんといえばいいのかわからないけど、毎日彼女がかわいくて仕方がなく、「おはよう今日かわいいね○○さん」と挨拶のように言っていた。かわいいね、好きだよと毎日言っていた。女の子同士のじゃれあいのような感じではなく、かといって恋愛的に好きなわけでもないのに、私はほぼ真顔で毎日伝えていた。私自身それがクソデカ感情だとよくわかっていなかったかである彼女ほどではないが、彼女に限らず、女の子がかわいくなったら、なにも考えず本心で「かわいくなったね」とか「美人になったね」と真顔で言っていたし、男の子にもまた「なんかかっこよくなったな」ということもあった。そのときは大抵ドン引きされるか「でっしょーーやっぱり私超美人からさーーww」と茶化されることばかりだった。それが当たり前だとは思う。

引かれてもおかしくないような挨拶毎日していたけれど、何故か彼女はいつも普通の顔をして「おはよ」といっていた。

学校卒業して一年後あったときに流石にクソデカ感情抑えようと以前の挨拶をしなかったら、「もう私のこと好きじゃないの?」ときょとんとした顔で聞かれた。流石に沸いた。何故かわからないけど彼女は私のクソデカ感情を、こいつはそういうもんだと思って受け止めてくれていたのだ。ありがたい。

気づいたらクソデカ感情

部活動で私とふたりセットにされる男の子がいた。ふたりとも他の部員より積極的活動していたからか、この学年だとこのふたりだよねといわれるようなセット。

彼は意図も言わず理解できないような無理難題を急に言い出して、私に押し付ける。不思議なことにそのどれもが成功し、私に押し付け無理難題は確実に意味のあるものだった。

最初は彼のことが恋愛的に好きだったのかもしれないけれど気づいたら、恋愛なんてなにもなく、崇拝していた。彼のやることな絶対成功する。彼の思い描いた思想を叶えることが楽しくて楽しくてしかたなかった。相棒のように頼り、頼られることがなにより嬉しかった(振り回されてばかりだったわけではなく、こちからもかなり頼っていた)。部活動死ぬことはないと言えど、不思議なことに彼のためなら死んでいいなと本気で思っていた。

ここにきてやっと、もしかしてちょっといかとしれない?と思うようになったこと、またもともと恋愛的に好きだった疑惑あいまり、クソデカ感情をぶつけるのは流石にアカンなと思うことができたらしい。しかし隠せないのがクソデカ感情というもので、疲れているとき無理難題を言われると、「君のいうことは必ずいい方向に向かうし私は君のためならなんだってやりますよ」とか言ってしまっていた。何度か言ってしまたことがあり、スルーされたり苦い顔をされたした。本当に申し訳なかったと思う。

カンと一発クソデカ感情

遠い昔「クラス部活も一緒なわけでもないし仲良いけど、二番目なんだよなー」とある女の子に言われた。他意はなかったのだろう。放課後とか休み時間によく遊びはするけれど、お互いの家に言ったこともないし、クラス部活も違う。クラス部活も同じ子とより仲良くなるのは当たり前だ。

いや、わかるけどわざわざいうかね?一番になりたいというより、どれだけ仲良くなっても私は二番目という認識が離れなかった。

私は特に怪我をしているわけではないが階段が苦手で降りるのも上るのも無意識なら上れるけれど意識するとよたついてしまう。母親には階段の上から「落ちても助けんからねーw」とよく言われていた。当たり前だ。幼稚園児や小学生ならまだしも高校生相手なら私じゃなくて下敷きになった母が大怪我する可能性がある。人が上からふってきて怪我したくないものリスク避けるのは大事

ある日疲れから死ぬほど段差に弱い日があって、「おまえほんと今日ヤバイよ気を付けるどころの騒ぎじゃない」と周囲に言われていた。そんな日でも階段を使わなければならないときはあるもので、彼女と一緒に下の階へ向かおうとしていた。

「おまえ絶対落ちるなよーww」といいながら彼女は私の前にでた。前と言うことは私の下。

「え、前いくん?落ちたら危ないよ?」

「目の前で落ちたら気分悪いじゃん」

恋におちたようにクソデカ感情爆誕の瞬間である

彼女は当たり前かのごとく少し前にでて後ろを振り返りつつ私をみて「大丈夫かー」と声をかけつつ降りてくれたのだ。もう二番目といわれたのは何年も前だけれど、二番目でも良いか彼女になにかあったら絶対に守ろう。彼女心配してくれたその言葉だけで生きていける気がした。

これ以来彼女階段を上るときも下るときもいつも私の落ちる側にいて声をかけてくれる。その度に彼女になにか嫌なことを言うやつがいたら、胸ぐらつかんで殴りにいこうと決心するのだ。

彼女はおそらくクソデカ感情が苦手なのでなるべく出さないようにしている。やっと自分がクソデカ感情持ちだと気付いたのだ。ただ、やっぱり隠しきれないのがクソデカ感情であり、彼女へのクソデカ感情を出すとガン無視される。ごめん。以前手紙かいたらラブレターになってしまったのは本当にごめん。


以上3つが私のクソデカ感情である

クソデカ感情を向けてしまっている方々には申し訳ない。

かにもあと2,3人ほどクソデカ感情を向けている方もいるが、あまりにも長くなってしまうので割愛する。

クソデカ感情をぶつけられて気持ちのいいものではないと思う。私は嬉しいが、苦手な人だっていっぱいいる。流石に私もあったことのない人にクソデカ感情向けられてぶつけられるのは怖い。クソデカ感情が生まれしまうのはもう仕方がない。なるべく出さず、クソデカ感情が苦手な人に無意識にぶつけないようにしなければならない。相手不快な思いをさせてしまったら駄目だ。

あとクソデカ感情以外の人たちにもっと興味をもつようにしなければならない。興味の触れ幅が0か100しかないのはいろいろと不便。あと大変申し訳ないのが彼氏がいたときですら、クソデカ感情のほうが限界突破してしまっているという状態(今は彼氏いない)。勿論彼氏のことはちゃんと大好きになるし大好きだから付き合った訳なのだけれど、その思いがクソデカ感情に勝てない。相手申し訳ないし、失礼だからちゃんと向き合わなきゃいけない。

私の人生はまだまだ続く。

クソデカ感情によって人を不快にさせないように。拗らせて犯罪を犯さないように。明日我が身だと自覚をもってクソデカ感情との向き合いかたを考えつつ生きていかねばならない。

人達人生も続く。

なにか困ったことがあるかもしれない。私が相談にのってよいと君が思うのならば私がいくらでも話を聞こう。愛する人を見つけるかもしれない。直接教えてくれたとしても風の噂で聞いたとしても私は全力で祝福しよう。直接教えてくれたのならば心からのおめでとうを沢山伝えよう。風の噂で聞いたのなら祝福の意味を込めてひとりぼっちティーパーティをしよう。

愛すべき友人達に幸あらんことを願ってこの文章を終わろう

2020-07-29

税金取られすぎ

「30%も税金にとられてるよー」と友人が愚痴を言った。日本大企業に勤めてる友人。年収もそれなりにありそうだしダブルインカムだしで、体感値的には一番税負担が重いんだと思う。

当然「だからこそ税金の使い道もっと考えて欲しいよねー」という展開になるんだと思ってた。今はコロナ下で未だかつてないくらいみんな政治に注目してるし、アベノマスク第二弾やら旅行業利権やらで話題だし。医療従事者や福祉労働者への報奨とかさ。

まさか「だから弱者は切り捨てるしかないよねー」って言ってくるとは思わなかった。え、そっちの展開!?!?びっくりだよ。いつ自分家族弱者ポジションになるかわからない世の中なのにね。災害事故障害エトセトラ


切り捨てる側にいると自分では思ってるんだろうけど、今そのポジションにいれるのは幸運の積み重ねだってことを理解してないんだろうなぁ。(このへんは上野千鶴子先生東大入学式祝辞にあった問題提起と近い)

ノブレスブリージュ的なさぁ…

持てる者が声をあげたり支える社会の方が健全だと思わないのかなぁ。なんで日本はこんなに持てる者と持たざる者対立するのよ。

こういう考え方の人が世の中にいっぱいいると思うと怖いよ。

2020-07-22

私立女子校の思い出語り(支離滅裂で長くてつまらない)

私は某私立女子校卒業生である。身元を特定されたくないので、入学卒業年度はフェイクにした。

これを書いたのは、学校自体にそれほど恨みはないが、中学校口コミを集めるサイト誹謗中傷判定されているのか自分体験談が載せられないことに違和感を覚え、とりあえずどこかに載せたいと思ったからだ。

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入学1週間で始まったいじめ

北の大地に建つ某私立女子校(以下、S校)が私の通っていた中学校である。これだけで候補がだいぶ絞られただろうと思う。

S校には、各地から生徒を集めるため、寮が付属しており、2010年頃、私は関東の親元を離れて入学・入寮した。

入学式の日は今まで訪れたこともなかった土地での親元を離れた生活に心を躍らせていた。この先6年間、新しくできるはずの友達と一緒に楽しい寮生活を送る自分想像していた。

しかし、私のその期待は叶えられなかった。というのも、入学してから1週間が経過すると、たちまちいじめが始まったかである


いじめっ子は入学してわずかな期間でスクールカーストの上層に地位を築き上げた“かわいい子”(以下、H)とその取り巻きである

Hは外国の血が混ざっているとかで目鼻立ちがくっきりしており、明るい色のくるくるした地毛が愛らしい子だった。そのかわいさとハキハキと物を言う性格から成るカリスマ性を発揮し、あっという間にクラスの内外で忠実な部下をこしらえた。

いじめ理由は大したことではなくて、要約すると「気に入らないから」。気に入ってもらえなかった原因はさっぱり分からない。

(Hとは入学式の前にあるガイダンスで知り合ってはいたが、「綺麗な髪だね」「これ地毛だよ」「そうなんだ」と会話したのち、すぐに別れた。綺麗な髪だねという言葉彼女の気に障っていたのだろうか)


Hもその取り巻きも中1女子だったので殴る蹴るなどの暴行はなく、主にシカトハブ掃除の押しつけ・呼び出しての暴言が主だった。

同じ寮生のみならず、自宅から通う生徒(以下、自宅生)にもHの影響力が及んでいたようで、友達は一切できなかった。

教室でも廊下でも校庭でも教師の目がないところでは常に陰口をたたかれていた(らしい)。

テストの点数が良ければカンニングだと根も葉もない噂を立てられ、点数が悪いとき知的障害者だと笑われた。よく分からん噂で教員説教されるよりも、バカだ、知恵遅れだと言われるほうが楽だったので、テスト時間いっぱい寝るようになった。もともと授業態度が良い方ではなかったのでなんら不自然ではなかったと思う。

彼女らの寮則破りはすべて私の責任になって、しょっちゅう先輩や寮母に怒られていた。生徒間では私に友達がいないことはほとんど周知の事実だったのに、部屋のお菓子パーティーの声がうるさいとか片付けがなってないとか怒られた。

在室時は部屋の前にスリッパを並べるのが規則なのだが、毎日、知らぬ間にスリッパ廊下の端と端に飛び散っていた。寮則違反なので怒られる。

乾燥室に干した衣類はぜんぶ床に落とされ、足跡が残されていた。何度だって洗濯する。1回100円、中1には痛い出費だった。

洗濯機を回している時に目を離すと止められるので、洗濯中は見張る必要があった。トイレに行った一瞬で止められたとき相手気合の入れように驚いた。

週末の昼は寮の洗面所に呼び出され、4~5人に囲まれて1時間から、長いときは3時間くらいひたすら悪口を聞かされることが多かった。負けず嫌いだったのでいじめっ子たちの前では絶対に泣くまいと歯を食いしばって聞いていた。慣れると聞き流すようになった。

避難訓練の際、自分スリッパが見つからず、裸足で外に出る羽目になった。「ガラス片が落ちていたら危ないでしょ? ケガしたいの?」と寮母に怒られた。スリッパ洗面所ゴミ箱から見つかった。汚くなっていたので買い替えた。

一番ダメージが大きかったのは、いじめが始まる前までは口をきいてくれていた子たちが、Hの「増田と喋ったらハブるよ」の一言で口をきいてくれなくなったことだ(寮生活を始めたばかりの13歳の女の子たちにとって同級生からハブられることは何よりの脅威だった)。

いじめが始まる直前まで仲良くしてくれていた子に「増田のことは嫌いじゃないし、増田は何も悪くないと思うけど、私もいじめられたくないから……ごめんね」と言われたときは、さすがに堪えて、1日中ベッドのなかで泣き続けた。(断っておくが私のケースでは、こうして私から離れた子、私と話さなくなった子は何も悪くないと思っているし、今も彼女らを責める気はない)

泣き続けるかたわらで、いじめっ子のひとりが同室の子と楽しそうに喋っているのが心底ムカついた。単純に、死ね、と思った。

家族悪口を言われたこともあった。両親に申し訳なく思った。


両親は私がいじめられていることを知ると、高い入学費や学費を払ったのにもかかわらず、すぐに「いつでも戻ってきていいんだよ」とか「退学したくなったら言いなさい、退学手続の準備はできてるから」とか「がんばって通い続ける必要はまったくない」とか「退学していじめを避けることは逃げでもないし格好悪いことでもない」と何度も何度も私に言い聞かせて、自分たちが味方であること、逃げ道があることを教えてくれた。

逃げ場を提示するという両親のサポートのおかげで私はいじめを乗り越えることができたのだと思う。

※決していじめは乗り越えるものではない。むしろ逃げるほうが最善・最適である。周囲に何と言われようといじめられている子供いじめを乗り越えようと努力する必要はないし、何より周囲は彼・彼女いじめを乗り越えさせようとするべきではない。


表立ったいじめ中学2年生の夏頃まで続いたが、寮生ほど影響力を及ぼしづらい自宅生の子たちが喋りかけてくれるようになったのをかわぎりに、いじめっ子集団以外からハブりやシカトはなくなった。中2の夏休みが終わった後にようやく友人がひとりできた。

相変わらず掃除の押しつけやパシリ悪口・陰口は続いていたが、私自身も慣れてしまったのでほとんど気にしないで学校生活を送っていた。


いじめられている後輩の退学時期を予想して遊ぶ私たち

中学3年生になった頃にはいじめっ子集団を除いた同級生とはおおむね仲良くしていた。

スクールカーストトップグループとはいえ彼女たちを嫌う生徒も出てきたからだ。そういう子たちは彼女らの前で嫌悪感をあらわにはしなかったが、それまで避けていた私との交流を持つようになった。

そうして心に余裕が出てくると、2学年下の中1の間にも同じようないじめが起きていることに気づいた。話を聞くと、1年前(私が中2の時)も新1年生の間でいじめは起きていたらしい。さらに毎年、1年生は誰かしらひとりがいじめられると聞いた。

いじめられているのは、少し太っていて、自室のベッドに引きこもり、お風呂に行かなくなってしまった女の子(以下、K)だった。

わが寮では、「いじめられる側にも非がある」という考えが徹底していた。

いじめられっ子にはいじめられるような理由があるのだからいじめられたくなければ自ら改善しなければならない。改善努力がないならいじめられても仕方がない』

こう考えることで、私たちは後輩間のいじめを黙認し、いじめを止められない自分たちを擁護していた。

実際、Kちゃんは「汚い」「くさい」って言われているのに風呂に入らないんだから、まあ仕方ないよね、とかなんとか話した記憶がある。

風呂では当然、全員が裸になる。私も経験があったが、風呂場では普段見えないところの悪口を言われる。私も体毛が濃いことをさんざんバカにされた。勝手憶測だが、Kもおそらく風呂場で太っていることを笑われたのだと思う。それで風呂に入れなくなってしまったのだろう。彼女は何も悪くなかった。

さて、入学から2ヶ月経つと、Kは夕食の場にも出てこなくなった。その頃合いか上級生の間では彼女が退学する時期を予想するのが流行りだった。

「去年の▼▼ちゃん夏休みが終わったら帰ってこなかったんだよね」

「Kちゃん夏休みじゃない? ぜったい帰ってこないよ」

「いや、夏休み前にやめそう」

「Kちゃん電話で『やめたい』って言ってるの聞いた子がいるから、私も夏休み前だと思う」

みんなで休日お菓子を食べてカードゲームをしながら、その話題で盛り上がっていた。

私も、「増田はどう思う?」と聞かれて、「1回親元帰ったらもう学校には戻らないんじゃない」と答えていた。

賭ける? という言葉もチラホラ出てきた。お菓子を賭けて遊ぶのだ、いじめられている子がいつ耐えきれなくなって退学するかを。

後輩間のいじめを止めようともせず、いじめられる人に非があるという考えに迎合している時点で手遅れだが、賭けへの参加は固辞した。

結局、Kは夏休み開始と同時に退寮・退学した。親御さんも来て片付けをし、最後、寮の玄関で寮母に「ありがとうございました」と頭を下げていた。

食堂の窓から退寮する彼女を見かけた。入学時は小太りだけど小綺麗な女の子だったのに、たった半年も経たずにずんぐりと太り、髪もボサボサで、みすぼらしくなっていた。

弁当箱を洗いながら、2学年下のKと同室だった後輩の「やっと部屋の空気が綺麗になる」という言葉を聞いていた。


ちなみに私の代では、中2になってから同時進行でいじめられるようになった他の子が2人ほど中途退学した。

入学時の人数が最多だった私たちの代は、卒業までの間に減った生徒数も最多だった。


あなた中学しか卒業していないので卒業生ではありません」

2年間をいじめ無駄にしたものの、私は卒業まで在籍し続けた。

だが、付属高校エスカレーターで進学する気にはなれなかったし、それ以上在籍する価値がある学校じゃないという親のアドバイスもあり、外部へ進学した。

そして、高校2年になる直前くらいに、かつて仲良くしていた自宅生の子から久しぶりに遊ばないかという誘いを受けた。

私が3年間過ごした寮は卒業生なら無料宿泊できることを知っていたから、快諾した。卒業生の先輩が泊まっていたのを見たこともある。

念のために、電話で寮に問い合わせ、確かにまれることも確認した。

しかし、事はそう簡単に運ばなかった。

いざ荷物を持って寮まで行ってみると、問い合わせたときとは別の寮母(当然顔見知り)が、

増田さんはね、中学しか卒業してないから、ウチの卒業生扱いはできないのよ」

と言ったのだ。

おもしろすぎて笑った。いや、中学卒業してるんですけど。今あんたも言ったけど、中学卒業生なんですけど。

なんとまあ、中学のみだと卒業生認定してもらえないらしい。

心の底から、くだらねえ学校だな、と思った。


いじめてきたやつはせいぜい一生苦しめ。そんで死ね

あースッキリ

2020-07-20

当時は学校休業不要とか言ってなかった?

https://www.tokyo-np.co.jp/article/43611

都立教員です。

思考停止」だとか「考える力のない人間教育を任せてる」だとか散々な言われようだが、現場感覚からすると、国旗国歌に関する決まり平時においてもその他の職務命令と比してアホかと思うくらい徹底して遵守を確認させられるので、通達があったらそりゃ従うだろうなと思ったのが最初感想

例えば、普通入学式卒業式の際にも国歌斉唱CDを流す場合なんかは、万が一CDが流れないと最悪は服務事故になりうるという認識があるため、担当教員ラジカセCDバックアップを用意しておいたりもする。そのくらい現場ビビってやってる。

そう。ビビってやってるだけ。まあ普通に考えればわかることだが、私の観測範囲では、嬉々として国旗に礼をして国歌を口ずさむ教員など見たことがない。皆「決まりから」「やらないと何言われるかわからいから」「評価に傷がついて次の異動先に希望が通らないかも知れないから」「ひょっとすると処罰であるかも知れないから」そうしているだけだ。

公立校教員基本的教育委員会の言いなりである。それを思考停止と言われればそれまでなのだが、言われた通りに動かないとそれはそれで市民は怒るじゃないですか。公務員のくせに、って。それでも思考して処罰されるのも厭わず通達に反した行動を起こせるのは、通達に従うことがそれなりに公共の福祉に反すると明らかなときだと思う。

しかし私は卒業式での国歌斉唱が、そうした事態に該当していたとは思わない。3月上旬といえば、学校休業によって生徒たちは街に溢れ、「学校休業は不要だったのではないか」という論調が幅をきかせていた頃だったと思う。むしろ、それでも殆ど都立校の卒業式では、出席者が卒業生教職員のみで、現在以上に生徒間の距離を確保しながら厳戒態勢で式を挙行していた。当時世の中で一番厳戒態勢を取っていた場所こそ学校だったのではないかとすら思うほどだ。当然、記事にある通り国歌斉唱も好ましくないという判断は各学校でもあっただろう。うちでも「大声では歌わないでください」という指示を出していたと記憶している。それこそ現場判断でやったことだった。

……とか言ってると正当化し過ぎと思われるかも知れないが、別に問題はなかった」と言いたいわけではない。今その判断を迫られれば、都立だって国歌斉唱などさせないだろう。そのくらいにはこの件には問題があった。しかし、3月前半の当時、世の中は斉唱をすることの危険性をそこまで明白に共有できていただろうか。この点を踏まえると、少し理不尽な叩かれ方だと感じる。

あと何より思うのは、国歌を歌えと言ってるのは国であり自治体であり教員は「歌わなくていいだろ」と言い続けた結果、公務員なんだからまりに従え!と言われて裁判負けて処罰されて今こうなってるわけで、別に「こんなこと」で処罰されないなら自分たち判断しますよと思うわけです。みんな「こんなこと」と思ってんだよね?なら強制しないで欲しいなって。

2020-07-17

別の理由でおもらしフェチをやめたい

私もおもらしフェチだが、やめたい理由増田とは違う。

私のオカズはおもらし小説女の子葛藤の末我慢我慢を重ね、決壊してしまう話が好きだ。

いうまでもなく、そういう話はバッドエンドが多い。おもらしは当人にとって不幸な事だからだ。

中には不登校になって引きこもってしまったり、友達に見捨てられてしまったり、その後どうなってしまうのだろう、自殺してしまうのでは、と思うような可哀想なバッドエンドを読んでしまったりする。

そんな時私はすごく沈み、不安で怖くて堪らなくなる。この子はその後どうなるのだろう。もう一生立ち直れないのではないか自殺してしまうのではないか…と。

不安で胸が痛くて頭から離れなくて、叫んだり頭を打ち付けたり指を噛んだりしてしまう。

自分で救われる続きを想像する?そんなの意味ない。所詮自分の都合の良い妄想に過ぎない。作者が本当に救ってくれなければ意味ない。

フィクションだと割り切る事はできない。だって、本当にありえることなのだ。

それに、本当の体験談を読むこともある。友達の多かった明るい子が、おもらしをきっかけに「もらし」と呼ばれる暗い子になって長年トラウマになってしまった…という話を読んだ。フォローしなかった友達が許せない。

こないだなど、本当に自殺してしまう話を読んだ。慟哭した。こんな救いのない物語はこの世に他に存在しない。

世間でバッドエンドとか鬱とかいわれる作品を私は普通に楽しめたりする。いくら人が死のうが平気だ。

だが、おもらしのバッドエンドだけは駄目なんだ。

この性癖である以上、何度も何度もこうして苦しむ。この性癖でなければもう少し楽に生きられたかもしれない。

ああ、入学式で新入生代表の読み上げの時に全校生徒の前でおもらしをしてしまった子は、その後どうなってしまうのだろう。

卒業式の壇上や転校早々に大を漏らしてしまった子は、その後どうなってしまうのだろう。

https://anond.hatelabo.jp/20200716202831

2020-07-14

女は同性に抵抗がないは嘘。女体が嫌いな女もいるよ

女子校入学式の時に女が数百人だけの体育館に入って吐きそうになった

2020-07-10

anond:20200709150934

うちもこれ

増田みたいなあからさま金持ちではなかったけどピアノあったし親のさせたい習い事強制されて「お金がないお金がない」って言われ続けてた

ピアノ練習で間違えると肩を掴まれて責められながら揺すられたりして、そのたびに「お金がないならピアノなんてやりたくないのに」と思っていた 言うと椅子から蹴落とされて足蹴にされた(殴られたことはないかも)

お金がない」と思ってたか小学生の頃は冬も半袖半ズボンを貫いたり中学生の頃は小学生時代のぼろぼろのトレーナーとかコートとか好んで着たりしてた(そのうち勝手に捨てられた)

高校時代休日でも制服を着てた(あまり外に出なかったが)し、親が無理やり買う服や連行される美容院に常に罪悪感をおぼえていた

それなのに発表会や入学式でなんか高そうなおべべを着せられて釈然としなかった。いらない着ないと言っても無理に着せられて怒られてお金ないくせに何買ってるんだと心底思っていた

自分のせいで金がないんだと思っていたしそれはそれで正しかったと思う 高卒風俗自殺かと考えて思いつめてた割に結局奨学金を借りて大学まで行った

一人暮らしの部屋選びでも家賃を安くしたい自分旅行時のホテル代わりにしたい母で揉めたりした 親の所有物なので選択権はなかった

ちなみに私を育てるために遣った金は返すようにと請求されているがまだ返せそうにないので督促されるまでは何も言わずに置こうと思っている 宝くじでも当たって一括返済できそうならスパッと返してすっきりしたい

私が地元に居なくなってから、とくに就職してからは親は毎年のように海外旅行したりしていて、今更ながらなんかお金あったんだなと思っている

家族旅行に行ったのは祖父母の家(国内)くらいだったので意外だったが、今のところ仕送りできるほどの貯金収入はないので旅行できるくらいなら仕送りせずに済みそうで良かったと思う

もういい歳だけど未だに金を遣うことに抵抗があって相変わらず休日ボロボロTシャツだし髪は風呂場で切っている

結局うちには金があったんだろうか? 金銭感覚がどうも歪で判断できない

2020-05-25

anond:20200525144023

当時の観測範囲だけだけど、ヘイト飛ばしてるのの一部は男子大学生だった。

入学式卒業式?とかの写真まであげて罵詈雑言を投げつけてたよ。

少なくともしっかりした教育絶対必要

2020-05-20

今まで無駄遣いだと思っていたことは正義だったのか。

倹約家の母と浪費家(…というかその場のノリや勢いで金を使ってしまう)の父に育てられた。父はそこそこ名の通った会社に勤めていたけれど、若い頃の給料はそんな高くなかったし、母は専業主婦結婚してすぐに私と弟が産まれ育児に追われることになったので、あまり贅沢はできなかった。

父方と母方の祖父母が、何かイベントがあれば援助してくれたのか、七五三とか入学式とかでそんなに惨めな思いをした記憶はない。が、母が自分のために洋服アクセサリーを買い揃えていた記憶もないので、子どもにはそれなりのものを用意しても、自分我慢していたのだと思う。

私と弟がある程度大きくなってからパートなどで働き始めたので、その気になれば多少は自分の好きなものを買ったりできるようになったのではないかと思うのだが、母がショッピングを楽しんでいる姿を見た記憶がない。同居していた父方の祖母が「好きな洋服でも買いなさい」と時々お金やら商品券やらを母に渡していたけれど、結局お歳暮お中元などに使うぐらいで、むしろ「おばあちゃん(祖母)は金で人の心を買おうとしている」と怒るばかりであった。

そもそも高額な洋服アクセサリーに興味がないようだったけど、それならそれで、他の自分の好きなことに使えば良かったのに、そういうこともしなかった。逆に父は友達などに流されやすく、飲み会やらゴルフやらに誘われれば可能なかぎり付き合い、欲望のままに買いたいものを買った。が、中途半端ケチで、いい歳になっても安い腕時計を買ったりしていた。あと、営業マンなどの美味しい言葉に乗せられやすく、立地は良いがかなりボロいワンルームマンションを買わされて不動産投資なども試みたが、たぶん損をして安く買い叩かれて終わったと思う。

お金の使い方について、私は母が正しく、父がアホだと思って育ったが、経済を回すことを考えると、深く考えずにホイホイお金を使っていた父のような存在は世の中に必要だったんだなと思った。コロナ禍で人々が外出しなくなり、お洒落や化粧のニーズも減り、飲み屋で何も考えずに金を使う連中がいなくなって、世間の雲行きが怪しくなっている。

今まで出かけても極力高額な買い物を避け、贅沢な食事もあまりしなかったけれど、幸いなことに今も普段と同じお給料をもらえる立場なので、ある程度使う方が世のため人のためになるようだ。まだ10万円の給付金請求していないが、もらったら気持ちよく使いきるべきなのだろうと思う。独り身で将来が不安なのでついつい貯金に走りがちだけど、扶養家族がいなくて自由がきく分、意識してお金を使った方が良いのだね。今までの価値観簡単にはひっくり返せないけど、敢えてお金を使うということの必要性を知った気がする。

anond:20200520100337

これまた野暮かもしれんが、そこまでくると地域無自覚な連中を脅しまくるのも手なんじゃないか

おまえらうちの病院が潰れたら寿命6年縮むと思ってろよ、うちの病院を捨てるなら孫の入学式まで生きられる確率は半分以下に減るで、孫自身も急病で3人に一人死ぬぞええか?ええね?」

くらい言ってやったほうがいいと思うんだよな。

なんつーか、基本は感謝しかないので近くにあって本当に潰れるなら守りたいくらいだわ

野暮なことばっかり言ってすまんの

2020-05-15

anond:20200515214741

桜ってどちらかというと入学式より卒業式じゃね?

はかなく潔い、からの別れの象徴というか

それが単なる酒のつまみの花になるのは悲しい

2020-05-08

大学始まる

学校始まるの虚無だし教授からメール英語で泣くしパソコンは届かないし入学式はないし単位落とす気しかしないし文書けないし家にいるの苦痛だし勉強してないし絵の練習してないし鬱だよ むり 新歓ないし でもオンラインで外出なくて良いのは良いけどサークルzoomでやるの話しかけるタイミングわかんないし全員に声伝わるからはなしたいひとだけには話せない!!!!!!!!!!!部活の後輩同じ大学志望するかなって思ってたけどずっとTwitterに入り浸っててウケる真面目な子だったのにかわってしまったね…………Twitterでは年齢隠してやってたから今更大学生とか言えなくて辛いだってみんな年上だし年上の人好きだから中高Twitterで年齢言ってこなかった 今更言えなくて辛い 年下のツイートって年下のものしか見れないんだよ だから年齢言いたくない でも大学生って言いたい

2020-04-30

九月入学が始まったら、いかにもな平成が生まれるかと思うと感慨深い

九月入学するべきみたいな議論が始まって、それを本当にするかどうかは政治に任せるとして

もし始まったら、4月に桜で入学式をやる漫画アニメ

「うわ!いかにもな平成!」って言われるようになるんだろうなあ、とか思ってしまう。

いかにもな昭和」は共通イメージあるけど「いかにもな平成」って今まで共通イメージなかったから、ようやく生まれるんだなあ、と

2020-04-29

anond:20200429032719

炎天下野球やってるほうがよっぽど狂気だよ。入学式残暑なんか気にしてる場合じゃないし、そもそも現在だって始業式がある。

2020-04-23

合唱をやめた理由

前置き

ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。

本題

自分小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティ演奏ビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたか記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。

中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長合唱経験になっている。

高校に入るとき自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。

合唱から距離を置いた結果中学合唱時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。

高校を出る頃から今まで、自分合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露たかった。)

2年を経て上京して、大学に入った際、大学グリークラブ一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。

それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。

ミサ

結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。

しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。

大学時代に歌うミサ自分にとって余りにどう歌えばいいかからない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。

それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。

追記

1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。

思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います

想像にお任せします(汗)

グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています

ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身中学から90人程度、ほかの中学10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティ存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。

今の自分思想無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人不思議に思えてしまうのです。

それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰告白歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます

  • 自分の興味関心が次第に浮かび上がり来る人生と感じた。歌や信仰について現在どういう距離に置いているのか解らないけど、人生の中で少しずつでもそれらに対し思考したり思考する様な材料のある環境にあってほしい。

言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰無神論寄りになって、クラシック合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います

ミサの項は特にデスノートですね

1年くらいたって見返したら椅子から転げ落ちているか

2020-04-11

校長の話を聞いた子供が早朝に叫ぶようになった

我が家には小学校1年生になったばかりの子供がいる。

現在休校中ではあるが、数日前に入学式実施された。

式で校長先生が「朝起きたら1番におはようございます!と元気に挨拶しましょう」と話されていた。

それを聞いた子供は、日が昇って少しして目が覚めると

おはよう!!!

と叫ぶようになってしまった。

ちなみに本人は7時過ぎまで二度寝している。

2020-04-10

ダメ人間

子供入学式休校を知らされ、緊張感が完全喪失した。

今朝は弁当作って洗濯機二回回したものの干さずに数時間。 

子供は起こさずに起きるまで寝かせて、起きたら遅い朝御飯チーズトマトベーコンピザトースト弁当の残りの卵焼き

子供YouTube見てる…

洗濯干して掃除して台所片付けて礼服クリーニングさないと。

あと子供のワークやるのみて、図書館に本返して銀行に行って牛乳買って。

洗濯掃除くらい当たり前にこなしてる人が多いんだろうになあ

在宅勤務、専業主婦子供小学一年生

2月下旬から在宅勤務となり、子供入学式はやったものの次の日から緊急事態宣言テレカ会議めっちゃ発生してて作業時間全然取れないし、子供奥さんに任せっきり。子供と物凄く近くにいるのに会話する機会ももてない。

家族全員にストレスが溜まってきている。

れいつまで続くんだろう。金銭的には今んトコ問題なさそうなのだけど、奥さん子供ストレス半端ない

子供連れて公園に行くと「近所から苦情が来るのでー」と帰らされるとのこと。散歩しかないのかな。しかも人がいないところへ。子供の行き先がない。

いっその事業務停止命令して欲しい。

ご飯の用意くらい自分がしようと頑張ってるけどできない日もあり、宅配でもレトルトでも活用しようと思っても休業中・買い占めでうまくいかない事も多い。

小学一年生の子供の口からコロナのせいで!ていうセリフが出てきて驚愕した。

生活に困窮している訳ではないので恵まれた方なのではと思っているけど、ストレスは元の状態から見て相対的にかかるものだと思うので多分全員が全員同じレベルストレスを抱えているのだと思う。

なんかここ一年ものすごいこと起こりすぎだよなー。これから毎年の様に同じようなことが起きるとしたら俺は子供をこの時代に産み落とした事が過ちだったのではないかとすら思えてくる。

なんか笑かしてくれよ。ストレス発散させてくれよ。

2020-04-09

anond:20200409025637

戸部○○○くんが入学式でいきなり「飛べ!○○○!」っていわれたときにはみんなざわついた

2020-04-07

春の駅のホーム待ち増田す街マムー穂の消えのルハ(回文

おはようございます

あのさ、

マイナンバーカード暗証番号アンリミテッドにアンロックしたいほど3回間違えてロックしちゃったのね。

この私の生き方ロックでしょ?

そんで今お役所に行ってきてアンリミテッドにアンロックしたいほどロックされたマイナンバーカードのそういうのを解除と言うか再設定してきたのよ。

これで午前中はまたそれはそれで潰れちゃうから愛嬌よね。

全くもって最初交付されるときに、

そういうこと考えてなかったわ!

私達はいかにマイナンバーカード雰囲気申請してたかってことよね?

そうじゃない?

だってだって駅で待ってるホールの後ろにある小学校からは、

入学式が厳かに執り行われていて、

一言で言えば、

仰げば尊し!って感じの北斗の拳の作者の難しい漢字の人、

うそ武論尊さんみたいな感じで

その小学校体育館からは新入学生であろう、

それはそれはピカピカの1年生だわっ!って思うほど元気のいい、

名前を呼ばれて返事する声が聞こえてくるのよ。

まるで春ね!って感じもするし私は私で春キャベツのことを思い出して、

サラダでも作っちゃおうかな!って仰げば尊しなのよ。

ここで一句詠むわ!

春うらら仰げば尊し春うらら

ちょっと何言ってるかよく分かんないわ!


今日朝ご飯はまだ食べてないわ!

役所の近くの茶店でグッドなモーニングでもしてきたらよかったかもね、そうかもね。

電車乗って考えるわ。

デトックスウォーター

キャベツウォーラーもいいと思うけど、

定番イチゴちゃんウォーラーハウンドドッグのあの曲に乗せてお送りしたかったけど

それは辞めて、

イチゴレモンとのベリーレモンウォーラーしました!

春感じてね!

うふふ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

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