はてなキーワード: 煩悶とは
http://anond.hatelabo.jp/20140604224538
37歳兼業小説家、既婚子無しです。あなたは書き続けたほうがいいです。以下、僭越ながらアドバイスします。
ニンテンドースイッチ向けにホグワーツレガシーが発売されたので買ってみたんだけど、最高すぎて今年一番ハマっている。
ちなみにハリーポッターは映画の一作目だけ見て「魔法が体系的じゃないしつまんねーな」と切ったレベル。
それでもTwitterで薩摩ホグワーツとかがバズっていたのでゲームの方はそれなりに面白いんだろうと思って買ってみた。
RPGでは必ず自キャラを女の子にするんだけど、14歳の女の子を自分好みにメイキングできるところでドキドキがとまらない。
洋ゲーはよくやるけれど、美形が作れるようになったとはいえおばさん感が否めないし、その点でもホグワーツレガシーは突き抜けていた。
丸眼鏡に四角い眼鏡、さらにはアンダーリムまで選べるので興奮は最高潮に達した。
これで赤いセルフレームのアンダーリムメガネが選べたらこの時点で昇天してしまっていたと思う。
そして当然魔法使いなので、ぞろっとしたローブを着込んでマフラーまで巻いているから露出度は皆無で、体型も全部隠れてしまう、が、それがいい!
むしろその方が断然リアルで存在感があって、北国の女子中学生感があって大変よろしい。
煩悶しながら出来上がったのは、ハーマイオニーを赤毛にして、眼鏡をかけた頭の良さそうな女の子だ。
さらにストーリーが素晴らしく良くて、この天才美少女が転校してくるや否やイケメンくんが「決闘でコテンパンにしてやるぜ」と突っかかってくるんだけど当然メタメタにされるわけだ。
洋ドラマだとここでライバル化するんだけどこっちが美少女なせいか(気のせい)他の生徒との決闘の時には一緒に戦ってくれたり、あまつさえ「お前にだけはこっそり闇の魔術を教えてやるぜ」と悪の道に誘惑してきたり、そのせいでイケメンだけには心を開いていた陰キャの闇魔法使いとのあいだで仲たがいが起こったりして「わたしのために争わないで!」と身もだえてしまう。
なんといってもこれらの物語がフルボイスで展開されるところが最大の魅力で、洋ドラマを見ているような感覚になる。
特にNetflixのウェンズデーとかセックス・エデュケーションに雰囲気が近い。
キャラクターの表情も豊かだし、声優の秋乃さんの声が良いこともあってCGなのに俳優さんのように生き生きと表現されているところがいいんだよなあ。
キャラクターもそれぞれバッググラウンドがよく作りこまれていて、それぞれの行動原理に整合性があるところがいい。
ポピーちゃんという動物を愛する女の子がいるんだけど、主人公よりもだいぶ背が低くておでこを出してて小学生みたいな外見でとても可愛い。
そんな彼女が密猟者集団にガチギレして一人でカチコミをかけたりするからビックリするんだけど、そこには悲しい過去が隠されていて泣ける。
みんなそれぞれ心の中に秘密や闇を隠し持っていて、お互いにそれを少しずつ明かしあいながら友情を深めていくあたりが、いかにも青春モノという展開で、魔法少女に転生してホグワーツを楽しんでいる感じがするのだ。
ほかにも魔法バトルがエルデンリングの純魔ビルドっぽかったり、装備を替えても見た目だけ好きに変更できたり、魅力はたくさんあるんだけどとりあえずみんな遊んでくれ! そして続編よ出ろ! 続編を出す魔法!
核心には触れないようにするけど、一応ネタバレ注意で。
何回「やったか?!」言えば気が済むんや。
まあそれはともかく、ゴジラ怖かったー。
太平洋戦争にうなされた悪夢みたいな存在感が、主人公のトラウマとリンクしてて物語の舞台装置としても完成度が高かった。
過去のゴジラは「ダメージを受けない」であったのにたいして、今度のゴジラは「ダメージを受けてもすぐに回復する」タイプの不死身ぶりで、輪郭変わるほどの損傷を受けても秒で再生する。非現実的な再生速度や、最後のシーンも含めて存在感は怪獣ではなくホラー映画の怪物である。過去のゴジラが理不尽に怒り狂った存在であるのに対して、今回のゴジラは怒ってるというより人類に対して悪意や底意を持っている雰囲気がある。ヒグマによる獣害においてヒグマの行動にある種の異常性を感じることがあるように、今度のゴジラには何か異常性のようなものがある。破壊欲だけでなく、獲物への執着心があるのだ。
冒頭は完全にジュラシックパークだったが、後になってからもとにかく口に咥えられるものは戦闘機でも船でも電車でもブンブン投げる。そいやそいやとザンギエフ並みに投げる。投げゴジラという戦法が確立してしまいそうなほど投げる。
CGを節約するためなのか、投げるシーンを割愛しがちで投げられた物がいきなり飛んでくるシーンからなので、取り敢えず何かが飛んで来るのがゴジラの挨拶みたいになっている。
放射熱線はぶっ放すまでのシーケンスがいまいち模型っぽい部分はあったものの、破壊力の描写は過去一で怖い。
シン・ゴジラのブレスは放射時間が長くて撃ってる間ずーっと被害が出ているが放射が終わったら静まるのに対して、
今回のブレスは原爆のメタファーなのか攻撃は一瞬で、その後爆風が津波のように周囲を破壊していく形。
描写はされなかったけど、銀座であれ撃ったのなら皇居や霞が関や永田町も粉砕されたのだろうと思う。(GHQ本部も銀座のすぐ近くなので吹っ飛んだはずなのだが……)
なので、熱線が当たらなくても怖い。とはいえ、最終決戦での熱線はどこ向けて撃っとんのやという感はあり、少々ご都合主義的な印象はあった。
主人公は、罪悪感はわからんでもないけど視聴者としては整備兵への腹立ちが先に立つ。止まってる飛行機で機銃撃つくらい整備兵でも出来るやろが。命令系統に属してる相手でもないだろうに、なに人にやらせといてキレとんのや。お前もなんもできなかったくせに。
あと気になった点としては、オッサン集会のオッサン臭いダメさ加減が、美談っぽく描かれた事。「いっちょやるか」じゃない。
あと、民間のくせに駆逐艦や戦闘機みたいな兵器ばんばん貸し出されて好き勝手できたこと。GHQはソ連気にして占領軍動かせない割に、独立も回復してない日本の民間人に軍艦や戦闘機引き渡して好き勝手やらせられるのはスジが通らんやろ。日本政府は空気以下で高官の一人すら出てこないし。
そんなこんなで、ちょっとご都合主義な部分が無いではなかったものの、主人公の煩悶と、今なお続く戦争の悪夢としてゴジラという位置づけが秀逸であり、大変満足感の高い物語だった。
シン・ゴジラもRRRもダンジョンズアンドドラゴンズもトップ・ガンも仮面ライダーも一回しか観に行かなかった自分だが、これは気が向いたらもう一回くらい観に行くかもしれない。(行かないかもしれない)
発達障害者は基本的に鈍臭く、段取りが組めないため、集団内で不和を生み、嫌われ者として排除されることがほとんどである。
大抵の場合、発達障害者自身の管理能力や他者への想像力が無く、コミュニケーションパターンも稚拙であるため、社会生活で問題を抱えることになる[1]。また、特定の物事については特段に(社会的に容認し難いほど)拘りが強い場合があり、客観的には能力の偏りとも捉えられる[2]。
例外的に、自身の特性を活かして成功を収めている(ADHD特有の幅広い行動を活かして起業家になるなど)発達障害者も居るが、一般的な発達障害者の末路は暗い。理由としては、軽度発達障害者は親を始め周りからも一般的な発達障害者よりも遥かに理解されないまたは理解されにくく、軽度だからと普通を求められたり、中途半端に健常者扱いされることや、他の発達障害者でも協調性に欠けていることが多く、社会的孤立について高いリスクを負っているためである。通常、発達障害者は文脈の理解が苦手で、悪気なく自己中心的な行動を行うため、周囲との協調が取れず社会生活に困難を来たすことが多い。あるいは、周囲に対して挑戦的な態度を取り、信頼関係を破壊してしまう。また、会話も単発の受け答えで終わることが多く、雑談を継続できないため、仕事以外での人間関係の維持も困難である。周囲からの指摘を繰り返し受けても、発達障害者は何が問題であるか理解できず、行動を改善しないため、周囲は発達障害者に対する評価を大幅に下げ、徐々に関わりを持たなくなって行く。周囲との協調が行えないことから、発達障害者は学生時代のうちに誰からも嫌われて不登校になるか、そうでなくても、社会人になった途端に認識の漏れや誤った解釈が多いという点で問題社員として扱われ始め、一切の信用を失った上で左遷や解雇などで職場を追われることが多い。
しかし、発達障害者は(軽度発達障害の親も)自身や我が子の障害を認めない傾向が強く、障害の事実を隠蔽したり、転職を余儀なく行う場合でも似たような職業を選択する傾向にあるほか、親が子供は発達障害ではないと否定したことで周りを振り回すことも増えている。また、周囲に発達障害の事実を伝えたとしても「普通にあること」や「甘え」として処理されたり、社会生活において何度も挫折することで引きこもりに至ることもあるほか、無理解親や学校・社会などの精神的負担及びストレスで二次障害を抱える人もかなり多くなっている。特に軽度発達の人はより無理解や精神的負担が大きいために二次障害を起こしやすい。
大まかな職業適性として、情報システム開発などのモノ作りの技術には非常に優れる場合が多い(ただし、コーディングのような下流工程のみ)が、関係者を纏めて牽引するリーダーには不適であり、管理職試験にも合格しないことが多いと報告されている。従って、勤続年数が増えても出世や結婚で同期に遅れを取り、収入の増え幅も少なく、生活水準も中々上がらない[50]。
1.^ a b c d e f g h i j k l m n o p “Facts About Developmental Disabilities”. アメリカ疾病予防管理センター. 2015年6月1日閲覧。
50.^ “発達障害を隠して入社し「本人も周囲も煩悶」の悲劇”. ダイヤモンド・オンライン. 2019年11月23日閲覧。
他から見れば卒なく物事をこなして生きている様であっても、お子さんにとってこの世は苦痛なんでしょう
本当に生まれてきたくなかったんでしょうね
それでも、産み落とした親を恨んでいる素振りを見せない(あまつさえ、育ててくれたことにマジ感謝している)のだから、とても素晴らしい良く出来たお子さんですよ
ラッキーでしたね
(まあ「育ててくれて感謝している」だののセリフは社交辞令というか気を使ってくれてるだけの可能性は高いですけどね)
あと、お子さんがその年になるまでそういった煩悶をおくびにも出さずにきたのが凄い
(実は出てたけど親が気付かなかった可能性も高いですけどね)
秘めたるものが抑えきれなくなったんですかね
ほぼタイトル落ちみたいなものだけど、公式のオンラインショップで買って色々と捗ったので書いてみることにした。
超特大オオサンショウウオぬいぐるみと初めて出会ったのは去年から一昨年にかけてのことだったと思う。
観光とも旅行ともつかぬ、午前中に家を出て新幹線の車内でビール飲みながら弁当を使って午後は用事を済ませてホテルに戻って一杯、みたいなよくある一泊二日の旅。
帰りの午前中がポッカリと開いていたのでホテルの周囲をブラブラと散策するかー、そういや京都水族館がペンギンの相関図でバズってたなぁと思い出し、折角なので行ってみることにした。
この時点でオオサンショウウオ自体アウトオブ眼中だったのだが、館内に入るや否や圧倒された。なんなんだ、このオオサンショウウオ推しは!
入口を入ってすぐといえば、もうちょっとキャッチーな生物を展示してあるものじゃないのかと訝る増田を尻目に、彼らはプチャプチャ所狭しと言わんばかりに泳ぎ回り、あるいは何か仲間同士でワチャワチャ、あるいは泰然自若にのたりくたり、と愛らしい姿を振りまいているではないか。
今までのオオサンショウウオ知識といえば和田慎二の漫画「銀色の髪の亜里沙」くらいしか無かった増田は、初めて見るその姿にはノックアウトされ小一時間ほど佇んでしまっていた。元より爬虫類や両生類が大好きなのである。
気付いた時には、頭にあったペンギンの相関図は吹き飛んでしまっており(これはこれで面白かったです。あとクラゲの展示がロマンティックで素敵だったんですが周囲はカップルばかりで浮いてしまってました)
オブジェとして展示されていた超特大オオサンショウウオぬいぐるみに魅了されてしまった。
デカい。とにかく、デカい!人の身長くらいは優にあり、綿がパンパンに詰まったフカフカなお手手(ちゃんと生態に合わせて前脚と後脚の指の本数が違う!芸が細かい!)、キュートな眼差し。模様もキチッと再現され隙が無い。
欲しい~、ねぇママこれ欲しい~!と心の中の五歳児が駄々をこねているのを必死で宥め透かし、この手の施設はミュージアムショップあるから落ち着けと理性でコントロールし、途中の展示は楽しみつつも足早に順路を急いだ。
そして途中の売店で小さいサイズのオオサンショウウオぬいぐるみ達に心を奪われつつ、いざ本丸。そして轟沈。お値段、28,233円なり(現在のオンラインショップでのお値段です。当時もそれくらい)。
さ、さまんえん弱は……途中でブラリと寄った所で買うグッズには……ちょっと、出せないぃ……。
今の自分の視点からは「買えーっ!買えーっ!」とノスタル爺が叫ぶものの、如何せん一目惚れしたばかりだ。愛はここから育んでいくものさ!ご縁があれば、また会える!と、おためごかし
3千円くらいのLLぬいぐるみを買ってお茶を濁しつつ、帰路についた。ちなみに、この子は抱き枕として申し分ない大きさだったので、毎晩ぎゅっとして寝てるよ
帰るや否やオンラインショップをブクマし、時々ページを眺めて入荷があれば値段に煩悶し、売切れたら落胆し、を繰り返していたのだが、最近ようやく清水の舞台から飛び降りる覚悟を決めてポチり、お迎えした。してしまった。最高です。もう言葉はいらない
何個か自分があそんだ作品があったので触発されてショートレビューを書いてみる。だいたい紹介順になっているはず。
(実は少女異聞録を紹介したいだけ)
いもうと好き作者によるいもうと好きのためのシミュレーション。攻略対象は同居している妹のみ。日々共に生活しながらじっくりじっくり仲を深めていって恋人になるのだ。仕事して、晩ご飯食べて、交流して、場合によっては夜中にエッチ(和姦、睡眠姦)して日々を積み重ねていく。シムなので堂々とオープンエッチでイチャイチャする事もできるし、本人にバレないようにこっそりと夜中に体を開発することもできる。
このシリーズの最大の特徴は、あえて全編にわたって白黒ビジュアルのみであるところ。フルカラーがデファクトスタンダードのジャンルでそれエロいの?と疑問に思うかもしれないが、巷に溢れる(エロ)漫画が白黒ならではの表現力があることを考えると全く問題ない。それどころかそこらのフルカラーより遥かに淫靡なのが不思議だ。我々の脳は開発されきっているので、漫画的な吐息表現や汗の表現をめちゃくちゃエッチに感じてしまうのだ。
続編のファンタジーの方は基本的にモノクロームにバトルやスキルという新しいゲーム性を追加して、さらにエロ機能を大盛りにしたもの。基本的にモノクロームの上位互換だけど、シムパートがシンプルでお金稼いでエッチするだけのモノクロームと比べるとプレイ感覚が少し異なる。いっぱい色々と遊びたければファンタジーを、とにかくシリーズを体験してみたいんだという人はモノクロームを買ってみれば良いと思う。
なお好きなプレイは、ボトムとショーツを脱がした後にボトムを再び履かせるノーパンじゃねえかプレイと、「エッチしたい」が出来るまで親愛度と性興味を上げた後にわざと両方のパラメータを下げて、エッチすることには積極的なのにいざベッドの上に場所を移すと兄妹でこんなことしちゃダメと突然貞操を気にする妹ちゃんになってしまう背徳プレイです(バグ)。
余談。モノクロームは今度スイッチでも発売される Needly Girl Overdose という作品に大きく影響を与えたことが作者のにゃるら氏により明言されている(4gamer インタビューより)。
魔法少女が特撮の悪役組織のごとき敵と戦う作品。魔法少女とあるけど、どっちかというと特撮バトルヒロインものフルコースだと思う。これでもかという程にその手のシチュが満載。キーワードを並べるだけでもバトルH、敗北H、自分の偽物に負けて市民に偽物としてお仕置きされるH、寄生蟲、敵アジトに監禁、催眠授業、体育教師の脅迫H、強制/自由売春、etc etc。コスチュームやアイテムも充実しておりRPGとしてのやりごたえもしっかりとあるし、街を守る魔法少女としてのストーリーも普通に面白かった。(あと一部の人に御用達の魔法少女受精機能もあり)
好きなシーンはマカイ地区での窃盗?イベント、痴漢から逃げられない選択肢、クラブ地下に監禁され逃亡のチャンスを窺いながら陵辱されるイベント、そして体育教師イベントです。
ぽやぽやとした性格の女性主人公アルシーが仲間たちと仲を深めながら自分の出自にまつわる謎を探求するRPG。個人的にアルシーちゃんの数々の一枚絵がめっちゃエロいかった記憶があるのだけど、それ以上にストーリーですごく感動したという記憶の方が強い。ラストバトルの演出は極まって思わずウルウルしてしまった。伏線回収が綺麗だったなあ。いまでもうっかりするとタイトル画面でも泣きかけてしまう。エロシーになって男どもから精を絞り取るのもよし。清純シーのまま美しく物語を納めるのもよし。
エロとしてはセレスフォニアのようにバトルでのHがあり各種イベントHがあるオーソドックスな作品。現代を舞台にしたセレスフォニアに対してこちらはファンタジーなのでオークとか盗賊とかでるぞ。アルシーちゃんはとある事情により非常に快楽に弱く流されやすいので無理やり描写は少なめ。すぐハート目になってしまうぞ。あと受精機能のみならず妊婦生活ルートまで用意されているぞ(妊婦生活ルートに入ると冒険を諦め健康を維持するプレイをすることになる)。
好きなシチュは、ローパー敗北ヌルヌル触手H、アツオとのラブラブH、カレンさんのBADEND、某所で見られるフラウの手遅れHシーンです。
平成初期の頃のホラーアドベンチャーにファイアーがエムブレムする作品でおなじみのカップリング要素を合体させたゲーム。両思いの幼馴染みと恋人になって二人で生き残ったり、逆に寝取られたり、はたまた成立したカップルを寝取ったりフリーダム。さらにボーイズがラブな機能もあり、幼馴染を置いて男色に走ったり、男ハーレムを作ったりも可能だ!(見たくない人にBLフィルターあり)
ぶっちゃけエロ要素がなくてもゲームとして十二分に面白いけど、エログロが演出として重要だからね。個人的にホラーやグロは苦手な方なんだけど、本作はドット絵なのであんまり気にならなかった。ちなみに筆者は気が強い女性が好きなので女性陣の中だとやちかが好き。男性陣だとやはり無二の親友であるきっぺい一択。
DMM でセールしていたので買ったのだけど自分の中でのダークホースになった。現代物好きで普通の少年少女が好奇心で堕ちていってしまうのが性癖という自分にクリティカルヒットした。作品内容としてはタイトルが異聞録だけど1や2ではなく4をモチーフにしたカレンダーシステムベースの現代物RPG。とある学校に通う少女たちが影に接触したことで異能に目覚め、街を騒がせる神隠し事件の謎を追うのがストーリー。
何が良いかって登場人物たちがみんな普通の家庭があって普通の学校に毎日通っている普通の少女たちなところ。美人で大人っぽいけどポンコツの白鷺先輩、遊んでいそうな外見だけど(ステータス的にも)乙女な後輩美羽ちゃん、小悪魔後輩の陽菜、そしてみんなの(おしつけられた)リーダーこと主人公なのに特別美人でもなければスタイルも良いわけではない平均的な女子生徒の梢ちゃん。そんな普通の少女が力を合わせて敵に立ち向かったり海で遊んだりお泊まり会をしたり学生生活プラスアルファを満喫するのが本作の一番の魅力。やはりカレンダーシステムは日常を演出する機能としてとても優れていることを実感した。世界を席巻したP4システムは偉大である。そしてそこに無理なくエロを差し込めば日常とのギャップがどえらいことになる。
主人公の梢ちゃんが普通の少女だからこそ、好奇心で道を踏み外したり、ストーカーに襲われたり、弟や父にエロい話をしていると体の関係になってしまったりと穏やかな日常の裏の顔のギャップが猛烈にエロい。別に絶世の美女ではない梢ちゃんだからこそ変なリアリティが出ているというかなんというか、ちょっと童顔で胸は小さめだけど美乳という設定も実にいいのだよ。そして年頃の少女たちがセックスをすれば当然出来るわけで…
そう、特筆すべきはカレンダーシシテムと妊娠システムの悪魔的相性の良さ。ゲームのエンドポイントがカレンダーで決まっているため、RPGなのに時間制限があるのがペルソナの特徴だが、本作ではそれに妊娠システムを取り込むことで妊娠段階の進行を可能としてしまったのだ。そして仲間キャラクター全員に妊娠差分が用意されているので、日常生活で普通にキャッキャしているけど服の下には膨らんできたお腹があるみたいなシチュが作れてしまうのである。あと妊娠してもゲームオーバーではなく普通にストーリーが進むので結構たくさん妊娠セリフ差分があるのが興奮する。
続編の方には触れられていないけどそのうち遊びたい。
可愛くむっちりした絵柄が好きで、キャラクター同志の掛け合いは面白ければ面白いほどハオという人に超おすすめのサークル。キャラクターは可愛らしいのに割と容赦ないイベントも仕込んでくるギャップもある。個人的には女キャラクターだけではなく男キャラクターも個性的に生き生きと描写されているのがとても好み。現代を舞台にした新作のアリサグリモアもすごく楽しみ。主人公のアリサちゃんの男前で腕力で解決するところが体験版遊んだ時からめっちゃ気に入っているので。
優等生のエロファンタジーRPG。女の子パーティーで冒険するという表面上(エロルート通らないなら)は女神様の森をわたしたちで守ろうというキレイできゃっきゃうふふな作品なのだけど、そこはエロRPG。道を外れれば変質者に襲われるしモンスターに負けるとエッチな展開になる。家庭教師をすれば生徒が迫ってくるし、万引きすれば肉棒制裁が下る。昂っていれば女の子同士で乳繰り合ったりもする。淫乱度でエッチが変化したりと、エロ内容的にもボリューム的にもたいへんに優等生で入門向けのゲームだと思う。
体験版ももちろんあるので、可愛らしい絵柄に興味を持てたなら遊んでみて。体験版のシーンだと風呂屋の右にいる男に何度も話しかけることで発生するイベントがエグくてよいぞ。元増田が挙げている「リコの不思議なお使い」は本作のスピンオフでパーティーメンバーの一人であるリコちゃんにフィーチャーした続編。
フリーのテキストアドベンチャーゲーム。メインがテキストなのでどっちかというと官能小説の方がジャンルが近いのかもしれない。超有名な作品なのでテキストを読むのに抵抗がなければ遊んでみると吉。
好きなシーンは契約問答じいさんとのバトルと地下世界13階の荒くれ者との戦い。
買いたいのだけど、未消化の積みゲーが溜まっているので買えていない。
性癖(誤用)マシマシ横スクロールアクション。ぶっとばし攻撃でどんどん敵を吹き飛ばしたり、キャンセル攻撃を組み合わせて無限コンボしたり動かしていて楽しいアクションゲームになっている。
エロとしてはドットエッチがすごい。まさにエロスの体現者。2コースも遊べてしまう体験版を是非やるべき。ゲーム内容には直接関係ないけど、ウディタ(Wolf Editor)でここまで快適なアクション作れるんだと感心した。
値段的にこの枠でいいのか迷ったけど、DLsite の同人カテゴリーで売られているしいいか。ダブルヒロインのベルトスクロールアクションゲーム。簡単操作で楽しく敵をぶっ飛ばしたりコンボを組み立てて爽快プレイしたりとベルスクとして普通に面白い。エロ方面としてはヒロピン全般。バトル中に戦闘員にマウントとられたり、ダメージで脱衣したりして体力がゼロになると敗北Hシーン。戦闘員にやられたり暴走した市民に襲われたり。ボイスありでヌルヌル動くぞ。自分で対位やシチュエーションをアレンジして再生する機能もあり。
女性目線寝取られゲーム。天才魔術師マジェノタは想い人の幼馴染のセロを伴い「禁書」を回収しようとクベルの首枷病という奇病が発生している街に赴く。しかしセロが病に倒れてしまい、またマジェタノも領主の馬鹿息子に遊び半分で禁術をかけられてしまい、その男に従わざるを得なくなってしまう。そして禁書を回収するために領主の息子に体を許してしまう。
彼女が知らないところで寝取られるというよりは、昏睡状態の彼氏にごめんなさいをしながら主人公がずるずると体も心も堕ちていってしまう系。とにかく主人公のマジェノタが堕ちていく様が段階的に丁寧に表現されている。白眉とも言えるのが堕落段階が進むにつれて得てしまう消せない記憶という称号。具体的に書くのが憚れれるがそれはそれは卑猥なものになっている。
絶対に満足度が高いことはわかっているが、遊ぶ時間が無い。悲しい。あと汎用エロシーンの作りがめっちゃ好き。特に射精に気が付く気が付かないのランダム分岐が実に背徳的に感じる。新作のビスカリアの解呪書が出るまでには遊ばないと。
監視カメラや携帯電話で恋人を狙っている上司の行動を邪魔する寝取られRPG。霊能会社に所属している主人公とヒロインは仕事でとある地方都市に出張することとなる。霊障を払うために各スポットを探索する必要があるのだが、霊障のせいで主人公達は同じ空間に居られない状態になってしまい探索が難しくなる。そこでそれを解消できる上司が一緒に行動することになるのだが、なんと彼女と上司が組んで一緒に行くことになってしまう。果たして別行動の彼女をセクハラ上司の魔の手から守れるのか(体験版を遊んだ範囲だとものすごく頑張らないと無理)。
本作に期待しているのは寝取られ匂わせ要素の豊富さ。上司と行動している彼女に電話をかけるが出ず後から気まずい雰囲気でかけ直してくる、ビデオカメラにうっすらと二人が映っている、エロ垢○witter に怪しい写真が流れてくる、彼女から助けを求める電話があったがその場所に誰もいない、などなどもしかして彼女が寝取られているのではないかと悶々するツボを抑えた仕組みになっている。特にアプリで閲覧できる彼女のステータス画面がすごく凝っているのが期待大。
某ハンティングアクションをフォローした純愛おあ、浮気あんど寝取られRPG。MHプレイヤーなら爆笑してしまうほどゲームサイクルを似せている。MHストーリーズまで知っているとバトルでもっと笑える。
主人公は恋人と結婚するためにユニコーンの素材を求めに田舎のギルドへ赴いたが、(選択肢により)呪いをかけられてしまい性欲上昇かつ恋人とエッチが出来ない体にされてしまう。そのため彼女以外の人と浮気エッチを繰り返してしまうが、彼女の方もなにやら雰囲気がおかしくて… 浮気エッチの内容は、村の人と普通に浮気、そしてモンスター娘に一方的に絞られるものとなっている。
絵柄が独特の可愛い系だけど世界観とマッチしているし、何より文章がエロい(当社比)。体験版遊んだ範囲だとモンスター娘のスノードロップのシーンがよかった。暖を取るだけだから浮気ではない→動かなければ浮気ではない→快楽に負けて腰を振ってしまう→死なないためと言い訳しながら朝まで浮気セックス。
https://www.otaru-uc.ac.jp/~egashira/diary/Cambridge/fukakai.htm
1907年『煩悶記』也奈義書房出版、岩本無縫篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする偽書。出版直後に発売禁止処分になる。
藤村は自殺未遂後、下山し、海賊船で世界を巡り、パリで悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は社会主義や無政府主義の強い影響を受けており、発禁処分もそのためとも言われる。現在、3冊しか存在が確認されていない希少本であり、神田古本まつりに出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、野間光辰が所有していたことが判明し、また別の一冊を谷沢永一が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』[31]に掲載されている[32][注釈 2]。また、城市郎の所蔵していたものが、明治大学に「城市郎文庫」として寄贈されている。[34]
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
ハンモック買ったんすけど、これがすこぶる良い
頗るって漢字で書くとややキモいんだよな 皮がついてんのがイヤ
それはとにかく、ハンモックは良いですよ
なんつうか、俗世から解放されるような感覚がある 本質的にオルタナティブじゃないですか 寝具として
せんべい布団だ、スノコベッドだ、吸湿シートだ、スプリングの効いた良いベッドだ、高級マットレスだ、低反発だ、高反発だ、ウォーターベッドだ
そういうのを全部置き去りにできる
寝心地はそりゃ違う まだ3日だし、正直慣れねえ感じはする
でも、寝付きは明らかにいいんだ
スッと寝られる 布団の中で煩悶・苦悩するあの時間がない ハンモックなのにw!
俺は寝ながらちょっとイヤなことを考えたりすると背中がじっとり汗ばみ、超不快な感じで布団が湿るタイプの人間だったんだが、ハンモックは湿りようがない
いいですよハンモック 揺れるのもいい
友人をネトストしたい。友人の推しキャラをアイコンにし、友人と相互フォローしているクラスタをフォローしてから、鍵垢フォローの申請がしたい。
もちろん、本当にそんなことをするつもりなんてない。休み時間に友人のアカウント名で検索して、友人の所属するクラスタが飛ばしたリプライを見る程度だ。めったに更新しないアカウントらしく、頻繁にリプライが飛んでいるわけではない。だから、よくやり取りしているアカウントは記憶してしまっている。
友人との付き合いは長く、学生時代からだ。元々は一緒に小説を書く仲間だった。友人が小説を書き始めたきっかけも、私がブログに詩を掲載していたからだ。紆余曲折を経て友人は小説家デビューしたけれど、私は芽が出なかった。最終選考には残ったが、プロから小説に向かう態度が甘いと言われた。数年ほど公募に挑戦したが最後には心が折れた。
私は最善を尽くした。けれどもダメだった。結果は受け入れている。友人がプロデビューしたのは、友人がさらに努力したからだ。けれど、最近はその友人もプロとしてではなく、小説サイトに連載することを選んだ。商業でやっていくことの大変さを知ったからだ、と言っていた。自分よりも構成やキャラクター造形が優れているのに、すごくもったいなく感じている。私よりもずっと読まれるべき作品を書いているのに、商業出版しないなんて。私は友人の保護者でも何でもないのに、そうした気持ちになってしまう。友人の小説を隅から隅まで読んだわけでもないのに。むしろ、友人に対する嫉妬と作中の地雷描写のせいで商業作品より後の作品には眼を通していないのに。私はあなたのファン一号、と言われたことをずっと引きずっているんだろうか。
私が友人に対して屈折した思いを抱いているのは創作にまつわることのほかにも、鍵垢で私よりも深くつながった友人がたくさんいるからだ。よくある話で、自分が相手に向けている感情が、相手が自分に向けている感情が大きいらしい。それだけのことだ。文学サークル時代にもそういう友人がいた。私が一方的に憧れて毎週のように会いたくても捕まらない相手がいた。
友人にも、私のあずかり知らないところでやりたいことが山ほどあるのだろう。だから、友人にこっちに振り向いてもらおうとは思わない。でも、複雑な家庭の事情を私にはあまり詳しく話してくれなかったのは単純に寂しい。
それでも、数か月に一回飲みに誘ったとき、なんだかんだ言いながら顔を出してくれるのだから、そこは素直に喜びたい。昔の人間関係にずっと執着してもしょうがない。書いてすっきりした。この煩悶をネタに小説を書くこともないだろう。もうちょっと職場で人付き合いをよくしよう。友人とも細く長く付き合っていきたい。
ネタバレあり。
つまり、散逸してバラバラになった過去の記憶の断片という意味合いで、それは死海文書なのである。
はっきり言えば今作で庵野のやりたかったことが十全に表現できているとは思えない。本来別の青写真があったにも関わらず、着地点が微妙にズレている気がする。
例えば、アスカとシンジの行方だとか、マリの作中での扱いとか、あるいは、ループする世界とか、月面の世界とか。
そういうものが完全に描き切られていたとは思えない。
庵野は忸怩たる思いなのではなかろうかと、外野ながらに推測する。
アスカはヒロインである。しかしシンジとは最終的に結ばれることは無かった。最終的に彼女の心を射止めたのは相田ケンスケである。
正直なところ、アスカの扱いがやや雑なのは否めない。当方アスカ派なので、「お、おう」といった気分である。
庵野秀明がアスカ役の宮村優子にフラれたのが原因であるとか、そういう説もある。
実際のところよく分からないけれど、要するに庵野自身にアスカを受け入れられない理由があったのは間違いあるまい。旧劇のラストシーンに見られる通りである。
旧劇のラストの解釈は様々に別れるのだけれど、アレは結局、他者を自己のエゴの延長としてしか捉えられないことへの絶望だったのではなかろうか。
他者を愛しているはずが、結局他者を介して自己を投影し、その自己を愛着しているに過ぎないことへの絶望があのシーンには表れていたように思う。
他者に決して行き着くことのない煩悶こそが、旧劇のラストシーンの意味ではないかと個人的には思っている。
とは言え、旧劇における破滅的なラストを、今作で繰り返すことは無かった。
否定的な評価を随分と集めている今作ではあれど、あのラストシーンの繰り返しにならなかったことは庵野における重要な進歩であることは間違いない。あれをもう一度繰り返さなかっただけでも、今作は評価に値する。
それは良いことなんだけれど、やはり視聴者としては少しばかり置いてけぼりなのだ。
そして、マリ=モヨコ女史説が頻りに訴えられている通り、マリは庵野にとってどこまでもエゴとはかけ離れた場所からやって来た存在であり、だからこそ、エゴの呪縛に苦しめられることなく、庵野はマリをヒロインとして愛することができたのではないかと、そう思う。
それにしてもシンジの心理描写も雑である。そっくりさんとの悲劇的な離別を経て、彼が何かを学んだことは間違いない。
つまり、そっくりさんはクローンであり、偽物であったとしても、その一回の生を全力で生きており、そこに生命の尊厳があったのだ……ということをシンジは学んだのであろう。
これは、後述のループ的世界観とも合致する成長プロセスである。
とは言え、やはりその描写は簡素というか説明不足な感が否めない。というかまだまだシンジは「神話になれ」と唄う例のテーマソングの示唆する精神状態には、行き着いていないのではなかろうか。まだ成長の途上段階なのではあるまいか。まだ、父親を救済できるほどの人格を備えてはいなかったのではあるまいか。
彼は本当に神話になれたのであろうか。
ラスト近くにてゲンドウを救済するシンジくんの姿に、些か置いてけぼりの感があった。
散々言われている通りである。
庵野氏が相互的な愛情をほぼ初めて維持できたのが、伴侶であるモヨコ女史との関係性だったのだと思う。
庵野のエゴの外側からやって来た彼女によって、彼はエゴの呪縛から解かれたのであろう。
でもそのエゴの呪縛が解かれるシーンを作中でちゃんと描いてないから、やっぱり展開が唐突に見えてしまうのだ。
あの世界はループしているというのはもはや自明だったと思う。真っ赤になった海は、旧劇のラストシーンの流れを受け継いでいる。
また、貞本義行によるコミック版のラストシーンもまた、ループを思わせる展開に収束する。
エヴァ世界はループしている。それが庵野秀明の世界観であることに間違いはあるまい。
我々の暮らす宇宙は遥か昔にこの座標に生まれ、未だにそのエントロピーは激しく運動し続けている。
しかし、いつかはそのエントロピーが相似形を描き、同じような結末と始まりを繰り返すのではないか、などと想像したことのある諸氏は多いことと思う。
エヴァ世界は、そのような意味合いでループしている。その周期は何年周期なのだろうか?
相対性理論的に、物体の運動に基づいてのみ時間を測定しうるのであれば、そこに時間的経過を求めることは難しそうだけれど。
And let me play among the stars.
何度闇を潜り抜けても息づいている記憶の姿を全力で描いてもらいたかった。
庵野が描いてくれたものには、ある程度は満足することができたのだけれど、完全な青写真ではなかった感がある。
それはあくまで、後世に受け継がれた、散逸した記憶の断片の内の一枚に過ぎなかったのではなかろうか。
自分は数年前に結婚できた(元?)非モテ男性なんだけど、結婚したことで恋愛ゲームから降りられて本当に良かった、というのが、noteの某記事を読んでの感想。
女性をダッチワイフであるかのように眼差すホモソーシャル的な男の子ノリには小学生の頃からまったくついていけず、そうかといって、いわゆる女心の機敏みたいなものにも疎くて当然モテるわけもなく、周囲からはちょっと爪弾きにされたような感じで人生の大半を過ごしてきた。
でも、そういう立ち位置にあったって、自身の内側からは多少の性欲や孤独感が湧き出してくるわけで、そうした衝動にかられて異性と良い仲になりたいと思ったりもしていた。イケイケの男女の交際や恋愛を理想的に祭り上げる世の中の雰囲気や価値観もそうした衝動に一役買っていて、自分がモテないという事実に必要以上に焦っていたと思う。
性別を考慮するより前に相手の人格を尊重したいと思うのだけれど、そうした内外の圧力によって形作られた衝動がときどき理性を裏切り、あわよくばもっと仲良くなれないだろうかという感じで、男性が相手であるときにはしないような内面への踏み込みの試みを、女性相手にしたことが何度もある。それはたとえば、偶然を装ったメールを送って会話を続けてみることだったり、一緒に街を歩いたり美術館に行ってみませんかと誘ってみることだったり。
当時の自分としては、嫌なら断ってもらえれば良いし、という気持ちでそうした誘いを投げかけていた。けれど女性からすると、下心の透けて見えたかもしれないそうした誘いを投げかけられること自体が不快だったかもしれないし、男性から女性に対して絶え間なく押し付けられる性的なハラスメントに連なるものとして、忌避感を抱かれていたかもしれない。冷静になると、そうした男性としての自分の業に嫌悪感を抱き、異性にそうした迷惑をかけるくらいなら自分は一生ひとりで生きていくのだとも思う。けれど、内側から湧き出してくる性欲や孤独感が理性をたぶらかし、いつしかまた女性に「あわよくば」という誘いかけをしている自分を認め、自己嫌悪に陥るのだった。
今考えて唯一救いに思えることは、社会的立場が自分より下にある女性に対しては、そうした誘いかけをしなかった(と思っていたけれどひとつだけあった。業が深い…)ことだ。
恋人や配偶者などのパートナーが自身にいない状態では、内側から湧き出す衝動に突き動かされ、しかし獰猛な男性性を理性は拒否し、ダブルバインドの状態で女性に接することになる。自身の下心と格闘し、相手の心を読もうとし、自分がどう思われているか、好意を持たれ得るのか、メタにメタな視点を重ねて自身や相手のことを考えに考えるが、答えはどこにもみつからない。
こうした葛藤と心の読み合いの恋愛ゲームは本当に自分を消耗させる。もし自分がこうした煩悶なく、目の前の相手と性別に関係なく対等な人間として向き合うことができればどんなに良いだろうかと、何度も何度も思うのだった。
そんな時代を経て、私は運良く結婚することができた。そして、この恋愛ゲームから降りられて本当に良かったと思う。当時、パートナーも異性との駆け引きみたいなものに憔悴しており、お互いに早くこのゲームから降りたいということで、付き合いはじめてからすぐに結婚しようということになった。
誰かの配偶者という立場になることで、もう相手を探さなくていいのだという安心を得ることができ、他者からは「この人は下心を持って私に接してきているのだろうか」と思わせてしまう負担を減らすことができる。独身時代は、性別に関係なく人間として惹かれた異性に対し、もっと相手のことを知りたいと何らかのアプローチを試みていく際、下心を持って接してきていると思われていないだろうか、という恐怖が常にあった。たとえ結婚していても不倫などはあるからゼロにはならないものの、夫というステータスを手に入れ薬指に結婚指輪がはまっている現状、異性との人間関係を構築していく際、過剰な自意識に悩まされる場面はだいぶ少なくなった。
女性からすると、気持ちの悪い下心を振りまいておいて、贖罪もなしに自分だけ「あがり」になってまたこんな気持ちの悪い文章を書いているのかよ、ということになってしまうかもしれない。そんな人間がこんなことを言うのはまったくおこがましいかもしれないけれど、誰しも目の前の相手と性別に関係なく対等な人間として向き合うことができればどんなに良いだろうか、ということを心の底から思う。