はてなキーワード: 元ネタとは
85 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2014/06/03(火) 21:12:06.68 ID:U8PbAIkh0
近所の特殊支援学校に行ったときにすごいこと聞いちゃったんだが。
池沼って、趣味を聞くとアニメ鑑賞ってのがダントツで多いらしいぞ。
とくに男の池沼は、可愛い女の子が出てくるアニメを見せておけば、食い入る様に見つめて
すごく管理が楽になるそうだ。
ってことはだ
私たちは、過去障害福祉サービス事業を運営した経験から特に発達及び知的、
重心障害者の利用者様はアニメやキャラクター、アイドル等が大好きな方が
とても多いことに気付かされました。
ただし上記はQOLを上げるために当事者へ寄り添った素敵な取り組み
抱えている困難に関わらず誰もが好きを楽しめる社会であるべきだね
ダンジョン飯 ワールドガイド 冒険者バイブルのことなんだけど、
チルチャックがハーフフットの種族名のことを語る漫画があるじゃないですか。
わかっている人はスキップしてね。
もともとチルチャックみたいなハーフフットとかハーフリングとか呼ばれる、
背が低くてすばしこくて手先が器用でという種族の元ネタはトールキンのホビットなんです。
だから本当はあういう種族の総称はホビットになるはずなのです。
ところがトールキン著作権利を管理しているトールキン財団みたいなところが割と権利関係にはうるさいところで、
昔、テーブルトークロールプレイングゲームの元祖であるD&Dがホビットという種族名を使ったところを、勝手に使うな!と物言いがついたのです。
そこから、色々と派生して、どうもホビットという種族名を使うのは駄目らしいということになってホビットという統一名称は使われない世界線となったのです。
雰囲気としてはディズニーとか任天堂の著作に対してのネタみたいな感じ。
付け加えると、エルフとかドワーフもトールキンの著作から生み出されたと言っても過言ではないのですが、
エルフやドワーフは元々の単語として存在していたものでトールキンの創作ではないので物言いをつけることが出来なかったので普通に使われて現在に至るわけです。
場合によってはホビットという名称がエルフやドワーフみたいにもっとメジャーになっていたこともあり得るのですが、
悲しいゲームの話をしよう。
つい最近サービスが開始されたばかりなのに、知名度が低い作品。
自分が遊んでみて、結構好みなんだけど売れそうにないゲームの話を。
「咲うアルスノトリア」。
ニトロプラスがシナリオを作り、グラサマのシステムにそれを乗っけた悲しきキメラの話だ。
◆悲しいその1 ウマ娘の直後に始まった
これだけでも説明は十分だろう、話題はすべてゴルシにかっさらわれた。いや、ゴルシだけじゃないけど。
巨大な花火が打ち上げられた直後に、たとえ観るべきところがあっても小さな花火は誰も見てくれない。
◆悲しいその2 システムが古い
観た感じ画面はグラサマ。システムもだいたいグラサマっぽい。グラサマやってたわけじゃないんでどこまで一致とかは言えないけど。
これは何かというと、システムもUIもだいたい3~5年くらい前のソシャゲな感じ。
◆悲しいその3 ガチャが渋い
キャラと武器(ここではシジルといわれる)の混合で、キャラの出る確率は3%。渋い。
最初に固定キャラ1+確定2で3キャラは確実にいるのだが、初期石と初期ログインボーナスで80連を回せるとしても、キャラが出ない可能性がそこそこある。
自分は初日に1体来たので4キャラとなり、フレンドを入れないとバトル枠が埋まらない……という事態は避けられたが、それ以降出てこない。
しかも、このシステムメインストーリーを進めるほどガチャにキャラが増える(FGOのストーリーガチャと同じ)タイプだった。
また、キャラによっては周回ドロップ(艦これのレア堀り)もある。
なので、初日にキャラをたくさんそろえて……というゲームではない。先に言え。
◆悲しいその4 育成がだるい
FGOで言う種火もQPもすぐ枯渇する。種火周回には消耗品が必要で、なくなったら補充方法が課金しかないっぽい。
……と思ったら、係活動(艦これで言う遠征だ)でじわじわ集めることもできるっぽい。先に言え。
ニトロが噛んでるから当然といえば当然なのかもしれないが、ストーリーの見せ方は良い。
グラフィックも、ゲーム部分を除けば悪くない(メインキャラのデザインはリゼロの人だ)し、背景や模様のデザインはいい感じだ。(その分UIが古く見える)
・戦闘中にカットインが入って、セリフが入ったりする。チュートリアルだけかと思ったらそれ以降も時々ある。
バトルの最中に敵が話しかけてくる(戦闘が一時中断する)とか、なかなか見ない演出だった。
・チュートリアルで意味深かつ不穏なムービーを見せて、「敵(騎士/全員イケメン)」と「味方(全員少女)」の関係性を見せる。
で、なし崩しになんか記憶があいまいになって話が進むのだが、女の子たちとのゆるふわ日常生活の合間に、騎士側のストーリーがちょこちょこ挟まれる。
ここでムービーシーンが入るのはまぁわかる。が、ここでさらにオープニングムービーが流れてくるとは思っていなかった。チュートリアルと第一章は長めのアバンタイトルだったのだ。
おそらくニトロ側の要求じゃないかと思うが、話を見せるための演出は古いなりに結構いい感じなのだ。騎士側の話も並行して進んでいくみたいだし。
これが今風のシステムに乗っていればなぁ、とも思うがなんか時間かかったらしいので仕方ない。
これは正直おまけだけど、女の子たち(ペンタグラムと呼ばれてる)はかつて実在した魔導書の擬人化だと思われる。
タイトルにもなっているアルスノトリアは「アルス・ノトリア」、レメゲトン(FGOでも出てきたゲーティアがこれにはいてる)と呼ばれる魔導書の一つ。
他のメインキャラであるアブラメリン、ピカトリクス、小アルベールも何か聞いたことがあったり調べたら出てきた。
で。
メル……わからん。
「メル 魔導書」でググったらメルカリが表示された。魔導書売ってるのかメルカリ。
学校NPCのソロー(ソロモンの鍵?)、ハミット(ハーミット? 魔導書じゃない気がする)、ベルデラだかペルデラだか(ワインか、スペインの地名かアメリカの殺人犯の名前だった)、ヴォイニー(こいつはヴォイニッチ手稿だろう)もわからん奴多い。
あるいはどこかの攻略サイトに載ってないかな。ユーザー数少ないから難しいか。
これ、2019年に出てればなぁ……リボ8とかラスクラの時代なら……あとはDQWがあったくらいか?
その時期にこれで出てればそこそこ客が付いたような気がしなくもないんだが。
実際過去の名作だっていろんな映画や小説・演劇やらからインスパイアされた結果生み出されたもんなんだろうけどさぁ、
でもジャンプ漫画で有名ジャンプ漫画を、それも読者の記憶にまだ残ってる時点でここまで使っちゃうのって実際どうなのよ。
既視感が売りって言っても「あ、こいつゴレイヌだな」とか「カカシ先生じゃん」とか「あー、これブリーチのあのシーンかこれ」とかマジでそんなレベルのはっきりとした感じじゃん。
ここまで想起させちゃうのは元ネタを咀嚼して自分のものにしきれてないんじゃ?って少し思ってしまう。
これでいいのか?
基本的にこのシリーズ自体TV版・旧劇のリメイクとして発信しており、小ネタを色々入れているので、セリフや映像にところどころに元ネタが感じられたり、知っていると楽しめる要素が多いです。ですが、ストーリー的には序破Qさえ見れば大丈夫なように作られています。一定時間が旧作ファンへのご褒美になってる節がありますが。
逆に言うと序破Qが無いとほとんどのシーンがわからないと思います。あらすじもざっくりとしているので。
登場人物にそれなりの思い入れがないと感動できるはずのシーンも流れてしまうでしょうし。
TV版・旧劇とは設定が変更された箇所が多く、旧劇を見るとかえって混乱するおそれもあるので、今から始めるなら画像検索だけして25年前と比べて絵柄がきれいになったんだなぁぐらいに思っていればいいです。時間があったら見てみるのも面白いとは思いますが、評判の通り癖の強い作品であることは否定できないので……
他作品言及については、むしろオマージュと感じるべき要素すらあるので、どの辺のどんなところを似てると感じたのかが明言できるなら歓迎すらされると思います。監督もオタクでしてね……
SF要素は、オーバーテクノロジーを人なりに模倣しようとする、というのが許容できるなら十分楽しめると思います。超常技術に真の意味での科学者的アプローチを取るタイプのSFです。それとは別に宇宙空間での作戦とか割とガチ目にやってるっぽい箇所もあります。
序・破のノリで面白いと感じたならQ・シンも見てほしいですね。序破で合わないなら無理することもないです。割と人の関わり方・独白にそれなりに重点を置いたものでも在るので。
Qの評判については色々言われてますが、「急激に変わった世界で翻弄されて何が何だか分からないをシンジ君と一緒に感じる物語」なのでよく分からなくても大丈夫です。が、よくわからない作品を楽しめるかどうかはあなた次第だと思います。
生じる疑問の多くはシンで(全部とは言わないが)それなりに回答が与えられるのだと思っていただければ。(本来セットであるべきだろというレベルなんですが、ここが9年も間が空いてしまいまして。正直この評判も無理もないという感じです)
シンでは分かりにくいQとは打って変わって登場人物たちが目的と行動を口で説明してくれるので、「なんとなくわかったような気がする」ラインはわりと維持されていると思います。
あと、画面としてやや地味なシーンが連続して、登場人物の独白が続くところがあります。聞いている分には面白いと思ってるのですが、メカ・ド派手画面目当てで来た人は退屈しますね。ここが不評を稼ぐ節があります。
長文失礼しました。
ヤクザだけどクッキー焼いたよ!の元ネタがわかる世代で、年収700万くらい。都内賃貸住まい。第一子が生まれたばかり。
夫婦合算で1000万円ちょいあるけど、妻が一回り以上若くかつ昇給しづらい職種なので、自分の現収入かつボーナスに頼らずに買える範囲内でマンションを買うことにした。予算は3500万円に設定。
そうすると、SUUMO眺めて15分くらいで「新築だけ検索してても埒があかないな?」ということに気づく。その後適当に神奈川埼玉千葉あたりの中古物件をポチポチ、問い合わせから内見の流れに。
内見初日にすげーびっくりしたんだけど、居住中の人がお出迎えしてくれる。あと、現地に着くまでに仲介会社の人が「今の部屋を手放す理由」を教えてくれたりする。
仲介会社の人と合流した直後「今日見学するマンションの居住者は離婚されたようで」と一言。見るからに幸の薄そうな(偏見)男の人が、ボサボサ髪でお出迎え。子供部屋だったであろうスペースには、学習机を撤去した跡地に古いオモチャが散在しており、物悲しさが漂っていた。どんよりした気持ちで「わー広いベランダ」とはしゃぐふりをしてみるも、眼前には広大な墓地。なるほどこの眺望ありきの価格かと察した直後、仲介会社が「せっかくだから居住者の方に質問ありますか?」と空気を一ミリも読まないキラーパス。思わず「あ、大丈夫っス」というこいつ絶対買う気ゼロの台詞が飛び出してしまい、内見終了。
コロナ禍だからなのか、仲介会社の営業は大抵使い捨てスリッパとアルコールを持ち歩いており、それをお借りすることが多かった。居住者にしてみても安心だろう。そんな使い捨てスリッパだから、こちらとしては「できるだけスリッパを脱がずに見学しよう」と思うが、居住者にしてみたらカーペットや畳にスリッパで入って欲しくない気持ちが当然ある。そのため「あ、今ここにスリッパで踏み込んじゃったけど、居住者の人が明らかに嫌な顔したな」という事案が発生してしまった。ごめんなさいと素直に口に出せず、悶々としたまま内見終了。
購入契約を締結した瞬間に海外転勤が決まり、泣く泣くいったん賃貸に出しつつ機を伺っていたものの、コロナ禍のあれこれで帰国の目処も立たず、また収入も減少して結局手放すことになったお部屋を見学。居住者はいないし、賃貸後ハウスクリーニング済なので物一つない綺麗な空間。最初はうきうきしていたが、間を持たせようとした仲介会社の営業が「いやー大企業に勤めていても何があるかわかりませんね」「なるべく高く売ってくれとお願いされてます(笑)」など調子に乗り出したところでテンションが下がり内見終了。
「次のお部屋は、実家の都合でどうしても引っ越さざるを得なくなってしまったご家庭で。同じマンション同じ面積のお部屋よりも数百万高いですが、永住するつもりでだいぶ仕様をグレードアップされてるんですよ」という話を聞きながら入室した築3年のマンション。確かに壁紙やら照明やら棚やら、お金をかけた感はものすごく伝わってくる。ただそれ以上に、出迎えてくれた奥様の気合の入り方がエグい。普段買ってるトイプードルは「嫌がる方もいるから」との理由でペットホテルへ出し、お父さんと子供は近所の公園で待機。隅から隅までホコリひとつないくらい掃除済の部屋で「この仕切りは子供が掴まりやすいように」「このリネン棚は私の家事がしやすいように」とマシンガントーク。めまいがしてきたので内見終了。仲介会社の営業に「すみません、安い方の部屋を本命にします」と伝える。
見出しで言い切ってしまった。いろいろ丁寧に説明してくれていた居住者の奥様(上白石萌歌似)が、ほんわかニコニコ立ち続けていた壁がビリッビリに破れていることに気づいたのは内見終了1分前。こちらが「あ」と気づいた瞬間のバツの悪い表情は、演技派女優でも再現できないほど。前述のお部屋は極端だけど、中古売買なので売主側としては「良く見せたい」「悪いところは伏せたい」という気持ちが当然ある。それは重々理解するけど、やっぱり上白石萌歌に裏切られるのは辛い。
事故物件の定義は詳しく知らないけれど、仲介会社から「本来は告知事項ではないんですが」との前置きがあったお部屋が2つあった。1つは部屋で自然死。ここまでは「許容範囲かな?」という購入者も多いらしい。ただ本物件は孤独死で、長期間放置されたため、腐敗で床が抜けてしまったお部屋。フルリフォーム済なのに超安い価格で掲載されているので問い合わせも多いが、ここまで聞くと「うっ」となる購入者が大半とのこと。戦国時代まで遡れば全部事故物件論者なので個人的には気にならなかったが、一人の買い物ではないので深追いせず。
もう一つは「隣の部屋で自殺があった」部屋。売り出されてる部屋自体はピカピカなんだけど、こういう事情も事前に伝えるものらしい。さらに、「前向きに検討されるならもう少し細かい事情をお伝えします」とのこと。聞いてみたいという好奇心はなくも無いけど、聞いてから購入する可能性はゼロだなと察したので、深追いせず。
https://note.com/historicalmoc/n/n284957b96801
村上春樹の作品はほぼ読んだので大体同意だけれど、肝心の文章について全く語られていないのは片手落ちとしか言いようがない。こういう何かを語っているようでその内実がわかりにくい言葉を並べるからハルキストだのなんだの揶揄られるんだ。ファンなら真面目にやれ。村上春樹以外の人間が村上春樹の真似したら中身がない駄文にしかならないって小学校で教わらなかったのか。
つーか村上春樹の文章は別にうまくねえから。特徴的で読解大好き人間ほいほいってだけ。
というこの3点が村上春樹の文章でもっとも印象に残る要素である。本気で語るなら時期によっての文体の変化とか、もっといえば情景描写についてもまとめたいのだけれど、とりあえず書き散らす。なお、3に関しては他作品に関する読解を含み、ひとによってはネタバレと解釈しうるものも混じるので注意。
実例を挙げてみる。
四月のある晴れた朝、原宿の裏通りで僕は100パーセントの女の子とすれ違う。
正直言ってそれほど綺麗な女の子ではない。目立つところがあるわけでもない。素敵な服を着ているわけでもない。髪の後ろの方にはしつこい寝癖がついたままだし、歳だってもう若くはない。もう三十に近いはずだ。厳密にいえば女の子とも呼べないだろう。しかしそれにもかかわらず、3メートルも先から僕にはちゃんとわかっていた。彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。
1文1文が短い。技巧的な表現を使うわけでもない。文章から浮かんでくるイメージが閃烈鮮烈なわけでもない。日常語彙から離れた単語を使うこともない(「閃烈鮮烈」とか「語彙」といった単語が読めない人間は思いの他外多いからな。ここでの「他外(ほか)」とか/悪いATOKに頼りすぎて誤用なの気づいてなかった。指摘ありがとう)。ただただ「シンプル」だ。わかりやすい。
また、冒頭の1文の次にくるのは「~ない」で終わる文章の連続だ。テンポがいい。あと、どのくらい意図的なおかわからないが、↑の文章を音読していみると適度に七五調がまじっているのがわかる。そして、大事なところで「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断言を入れる。リズムで読者を惹きつけた上ですっと断定されると、その一文がすっと印象的に刺さってくるのである。
つまり、別に「うまい」わけじゃないんですよ。ただ「読みやすい」。それにつきる。読みやすい以外の褒め言葉はあんまり信用しちゃいけない。「うまさ」って意味なら村上春樹をこえる作家なんてゴマンといるし、村上春樹の「文章」がすごいなんてことは絶対にない。うまいとか下手とかを語るならナボコフあたり読んだ方がいい。
とはいえ、個人的な所感だと、この「読みやすさ」は村上春樹が発見あるいは発明した最大のポイントだ。「リズムがよくわかりやすい文章で圧倒的リーダビリティを獲得する」という、一見してみんなやってそうでやっていない方策を村上春樹が徹底しているせいで、誰でも座れそうなその席に座ろうとすると村上春樹と闘わなければならない。
で、そのあとにくるのが「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。彼女の姿を目にした瞬間から僕の胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。」という文章である。村上春樹の比喩表現は独特で、たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を適当にパラパラめくって見つけた表現として、「不気味な皮膚病の予兆のよう」「インカの井戸くらい深いため息」「エレベーターは訓練された犬のように扉を開けて」といったものもあった。この、比喩表現の多様さは彼の最大の持ち味であり、真似しようにもなかなか真似できない。
そして何より、「100パーセントの女の子」である。何が100パーセントなのか、どういうことなのか、この6ページの短編ではその詳細が説明されることはない。ただ、語り手による「彼女は僕にとっての100パーセントの女の子なのだ。」という断定だけが確かなもので、読者はそれを受け入れざるをえない。それはこの短編に限らない。「かえるくん、東京を救う」におけるかえるくんとは。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における〈世界の終わり〉とは。「パン屋再襲撃」はなんでパン屋を襲うのか。「象の消失」で象はなぜ消失するのか。「レーダーホーセン」でどうして妻は離婚するのか。羊男ってなに。
こういった例には枚挙に暇が無い。文章単体のレベルでは「読むことはできる」のに対して、村上春樹の小説は比喩・モチーフ・物語様々なレベルで「言っていることはわかるが何を言っているかがわからない」ことが、ものすごく多いのだ。
じゃあ、「村上春樹の作品はふわふわしたものを描いているだけなのか?」と言えば、そんなことはない。村上春樹の作品には「答えがある」ものが、地味に多い。
たとえば、「納屋を焼く」という作品がある。ある男が恋人の紹介で「納屋を焼く」のが趣味だという男性と出会い、ふわふわした会話をして、ふわふわとした話が進み、語り手は時々恋人とセックスをするが、そのうち女性がいなくなる。読んでいるうちは「そうか、この男は納屋を焼いているのか」という、村上春樹っぽいよくわからないことをするよくわからない男だな……という風に、読んでいるうちは受け入れることができる。
だけれど、この作品の問題は、「納屋を焼く」とは「女の子を殺す」というメタファーの可能性がある……ということを、うっかりしていると完全に読み飛ばしてしまうことだ(あらすじをまとめるとそんな印象は受けないかも知れないが、本当に読み落とす)。それが答えとは明示されていないけど、そう考えるとふわふわとした会話だと思っていたものが一気に恐怖に裏返り、同時に腑に落ちるのである。
その他、上記の「レーダーホーセン」においてレーダーホーセンが「男性にぐちゃぐちゃにされる女性」というメタファーでありそれを見た妻が夫に愛想をつかした、という読みが可能だし、「UFOが釧路に降りる」でふわふわとゆきずりの女と釧路に行ってセックスする話は「新興宗教に勧誘されそうになっている男」の話と読み解くことができる(『神の子どもたちはみな踊る』という短編集は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年1-3月頃をモチーフにしている)。
勿論、これらはあくまで「そういう解釈が可能」というだけの話で、絶対的な答えではない。ただ、そもそもデビュー作『風の歌を聴け』自体が断章の寄せ集めという手法をとったことで作中に「小指のない女の子」の恋人が出てきていることが巧妙に隠されていたりするし(文学論文レベルでガンガン指摘されてる)、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」と書かせた村上春樹がその小説の中で実は死とセックスに関する話題を織り込みまくっている。近作では『色彩をもたない田崎つくると、彼の巡礼の年』で○○を××した犯人は誰なのかということを推測することは可能らしい。
たとえば、『ノルウェイの森』で主人公が自分のことを「普通」と表現する箇所があったが、村上春樹作品の主人公が「普通」なわけない。基本的に信頼できない語り手なのだ。信用できないからしっかり読み解かないといけないようにも思える。
(なお、なんなら村上春樹が自分の作品について語ることも本当の部分でどこまで信用していいのかわからない。「○○は読んでない」とか「××には意味がない」とか、読解が確定してしまうような発言はめちゃくちゃ避けてる節がある)
ただ、勿論全部が全部そうというわけじゃなく、羊男とかいるかホテルって何よとかって話には特に答えがなさそうだけれど、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』あたりは何がなんだか全くわからないようにも見えるし、しかし何かを含意しているのでは、あるいは村上春樹本人が意図していないことであっても、読み解くことのできる何かがあるのではないか、そういう風な気持ちにさせるものが、彼の作品のなかにはある。
このように、村上春樹のメタファーやモチーフには、「答えがあるかもしれない」という点において、読者を惹きつける強い魅力があるのである。
増田も昔は村上春樹を「雰囲気のある作家」くらいの認識で読んでたんだけど、『風の歌を聴け』の読解で「自分が作品をちゃんと読んでないだけだった」ということに気づかされて頭をハンマーで殴られる経験してから「村上春樹には真面目に向き合わないと良くないな」と思い直して今も読み続けてる。
……なお、それはそれとして、セックスしすぎで気持ち悪いとか(やれやれ。僕は射精した)、そもそも文章がぐねぐねしてるとか(何が100パーセントだよ『天気の子』でも観とけ)(なお「4月のある晴れた朝に~」が『天気の子』の元ネタのひとつなのは有名な話)、そういう微妙な要素に関して、ここまで書いた特徴は別にそれらを帳消ししてくれたりする訳じゃないんだよね。
たとえば『ノルウェイの森』は大多数の人間が経験することの多い「好きな人と結ばれないこと」と「知人の死を経験し、受け入れること」を描いたから多くの人間に刺さったと自分は思っているが、だけどそれが刺さらない人だって世の中にはたくさんいるのは想像に難くない。
だから、嫌いな人は嫌いなままでいいと思う。小説は良くも悪くも娯楽なんだから。
マジで村上春樹論やるなら初期~中期村上春樹作品における「直子」のモチーフの変遷、「井戸」や「エレベーター」をはじめとした垂直の経路を伝って辿り着く異界、あたりが有名な要素ではあるんだけれど、まあその辺は割愛します。あと解る人にはわかると思いますがこの増田の元ネタは加藤典洋と石原千秋なので興味ある人はその辺読んでね。
「うまくない」って連呼しながら「『うまい』のは何かって話をしてないのおかしくない?」 というツッコミはたしかにと思ったので、「この増田が考える『うまい』って何?」というのを試しに例示してみようと思う。村上春樹に対する「別に文章うまくない」とはここで挙げるような視点からの話なので、別の視点からのうまさは当然あってよい。
小説家の文章が読みやすいのは当たり前だが、「文章が読みやすい」なら「文章が読みやすい」と書けばいいのであって、わざわざ「文章がうまい」なんて書くなら、そこでの文章」は「小説じゃなきゃ書けない文章」であるはずだ。
じゃあ、増田が考える「(小説の)文章がうまい」は何か。読んでる間にこちらのイメージをガッと喚起させてくるものが、短い文章のなかで多ければ多いほど、それは「文章がうまい」と認識する。小説のなかで読者に喚起させるイメージの情報量が多いってことだから。
具体例を挙げてみる。
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。
そのころのマコンドは、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』の冒頭。大佐が子どもの頃を回想して大昔のマコンドに話が飛ぶ際、「先史時代の」という単語を選んでいることで文章上での時間的跳躍が(実際はせいぜいが数十年程度のはずなのに)先史時代にまで遡るように一瞬錯覚する。
津原泰水『バレエ・メカニック』1章ラスト。昏睡状態のままで何年も眠り続ける娘の夢が現実に溢れだして混乱に陥った東京で、父親が世界を元に戻すために夢の中の浜辺で娘と最期の会話をするシーン。
「お父さんは?」
「ここにいる」君はおどける。
「さあ……仕事で遠くまで出掛けているか、それとも天国かな。お母さんがいない子供は いないのと同じく、お父さんのいない子供もいない。世界のどこか、それとも天国、どちらかに必ずいるよ」
彼女は君の答に満ち足りて、子供らしい笑みを泛べる。立ち上がろうとする彼女を、君は咄嗟に抱きとめる。すると君の腕のなかで、まぼろしの浜の流木の上で、奇蹟が織り成したネットワークのなかで、彼女はたちまち健やかに育って十六の美しい娘になる。「ああ面白かった」
理沙は消え、浜も海も消える。君は景色を確かめ、自分が腰掛けていたのが青山通りと 表参道が形成する交差の、一角に積まれた煉瓦であったことを知る。街は閑寂としている。 鴉が一羽、下り坂の歩道を跳ねている。間もなくそれも飛び去ってしまう。君は夢の終焉を悟る。電話が鳴りはじめる。
作中の主観時間にしてわずか数秒であろう情景、ありえたかもしれない姿とその幸せな笑顔から夢のなかで消えて一瞬で現実に引き戻すこの落差、そこから生まれる余韻の美しさですよ。
あるいは(佐藤亜紀『小説のストラテジー』からの受け売りで)ナボコフ「フィアルタの春」という小説のラスト。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲども、幸福の龍どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
ふわーっと情景描写がホワイトアウトしていって、最後にふっと現実に引き戻される。この情景イメージの跳躍というか、記述の中でいつの間にか時間や空間がふっと別の場所に移動してしまうことができるというのがナボコフの特徴のひとつである。
散文として時間や空間が一気に跳躍して物語世界を一気に拡張してしまう、この広がりを「わずかな文章」だけで実現していたとき増田は「文章がうまい」と認識する。自分が村上春樹の文章を「うまくない」って書く時、そのような意味での「小説としての文章」を判断軸にしてた。
村上春樹は下手ではない。村上春樹に下手って言える人いるならよっぽどの書き手だし、その意味で村上春樹に関しちゃ言うことはないでしょう。しかしごく個人的な私見を言えば、「文章」って観点だと、文章から喚起されるイメージに「こちらの想像を超えてくる」ものがめちゃくちゃあるわけではないと思う。
日本語の文法に則りシンプルで誤解の生まれにくい文章を書くことは高校国語レベルの知識で可能で、その点村上春樹は文章のプロとしてできて当たり前のことをやっているに過ぎない。平易な文章を徹底しつつその内実との間に謎や寓話やモチーフを織り込んで物語を構築するところがすごいのであり、そこで特段褒められるべきは構成力や比喩表現の多様さだろう。その際に使うべきは「構成力がうまい」でも「比喩表現がうまい」であって、「文章」などという曖昧模糊とした単語で「うまい」と表現することはない。小説=散文芸術において「文章がうまい」と表現しうるとき、もっと文章としてできることは多いはずなので。そして、このことは、村上春樹がしばしば(「小説」ではなく)「エッセイは面白い」と言及されることと無関係ではない。
ちなみに、増田は津原泰水やナボコフの文章技巧には翻訳を村上春樹じゃおよぶべくもないと思ってるけど、面白いと思うのは圧倒的に村上春樹ですよ。技巧と好き嫌いは別の話なので。
ここで書こうとした「うまさ」は佐藤亜紀がいうところの「記述の運動」を増田なりに表現したもので、元ネタは佐藤亜紀『小説のストラテジー』です。
最近、ウマ娘のリリース関係でしばしば『検索汚染』って言葉を見かけるようになったけど、この言葉の傲慢さが心底嫌い。
検索したら人やら馬やら物やらではなくそれらを元ネタにしたキャラクターが出てきたとして、それは検索エンジンとそのユーザーとの間の需給関係の結果としてそうなっただけで、汚染でもなんでもないだろーが。
需要が低いと検索エンジンに判断された側の負け犬が偉そうに他コンテンツに文句つけてんじゃねーよ!
検索エンジンはお前の知りたいことを教えてくれる担任の先生じゃねーんだよ!
文句があるならそのキャラクターコンテンツよりも需要があると検索エンジンに思ってもらえるように、自分で魅力的なサイトを作り、自分でその話題についてたくさん検索して需要を盛り上げろ!
意外にも検索上位はだいたいが歴史上の偉人である本物の信長についてだぞ。
信長はその存在感で数多くのキャラクター達を下位に押しやっているのだ。
悔しかったら、お前も自分の好きなモノにそのくらいの存在感を持たせて、後追いのキャラクターなんて検索下位に追い落としてしまえ。
……ただまあ最近見かける『ウマ娘に文句をつけている競馬ファン』はまだマシな方だとも思う。
その批判に論理的な正当性はないが私怨を抱くのは仕方ないとこだと思う。
俺だって自分の好きなモノを検索したら、よく知らない美少女イラストばかり出てきたら感情としてそれは嫌だと思う。
それよりも一番気持ち悪いのは、歴史マニアでもないのに偉人キャラクターに文句をつける奴らみたいな、そもそも自分だって元ネタの方を求めて検索するわけでもないのに、文句だけはいう奴らだ。
アーサー王やジャンヌダルクを検索してパツキン美少女が出てきたとして、お前は困るのか?
戦国武将を検索してイケメンが雑兵を薙ぎ払っているところが出てきたら、お前の生活に何か支障はあるのか?
一人のオタクがキャラクターのイラストを見るよりも多くの数、その人物の肖像画を画像検索してから出直してこい。
検索エンジンは自分たちの客のために情報を提供しているのであって、教科書みたいな公正な知識の伝達を役目としているわけじゃねーんだよ。
ちなみに俺はウマ娘はやってない。
競馬の方は人生で二度しかやったことない。友人に誘われて一度競馬場に行って楽しかったから今度は休みの日に一人で行ったら別に面白いとも思えず、一回目が楽しかったのは競馬そのものが楽しかったんじゃなくて初めて行った場所で友人とワイワイするのが楽しかっただけと気がついた。
土日は毎週飲み歩こうと思います
もう、彼らに協力しません。
私は、私のために生きようと思います。
これは、決意表明です。
高齢者の方々は、自分たちの安全のためならば、私たちの自由を抑圧することができると考えているように感じます。
医療の方々は、高齢者が顧客だからと、高齢者のために、人権侵害を国に要請している圧力団体に見えます。
政府は、そんな彼らの票を得るために、私たちをないがしろにしていると感じます。
また「人殺しになりたいのか」と私を脅すのでしょうか。
また「お前の自由よりも大切なモノがあるんだ」と、私を無視するのでしょうか。
今を取り返すことはできません。
今諦めれば、別の人がそれを手に入れるでしょう。
コロナが終わった時、それは私の世代のものではなくなっています。
「それよりも大切なモノがある」と言われても、それは私にとってではありません。
私は人間です。
子供の頃から、ずっと「今のままでは年金が崩壊する」と言われてきました。「高齢者を支える人数が少なすぎて大変なことになる」と言われてきました。
しかし、彼らの扱いは何か変わったでしょうか?
将来の私の分は減りました。
私の分は大きく減るでしょう。
でも、彼らは、何も変わりません。
「自分たちが逃げ切るまで動けばよい」と考えているようにしか見えません。
私はそんな彼らが残す、壊れたシステムの上で生活しなくてはなりません。
日本医師会の会長は声を張り上げて「家から出るな」といいますが、それで守れるのは彼らのメイン顧客です。
「ワクチンが来るまで待て」といいますが、私にワクチンが来るのはいつでしょうか?
彼らは「お前も罹ったら大変なんだぞ」と言います。
でも、私にワクチンは来ません
それどころか、ワクチンを受けた高齢者が街にあふれ、彼らが無症状で増やすコロナを、私は警戒しなくてはなりません。
彼らが自由を謳歌する中、私は彼らに恐怖して生活しなくてはならないのでしょうか?
その時、日本医師会は「特措法を使って老人を家から出すな」と言ってくれるでしょうか?
絶対に言いませんよね?
私の自由を奪ってでも高齢者を守るべきだと彼らは主張しましたが、逆はないでしょう。
彼らは高齢者のことばかりです。
もしかすると、医者は大変な思いをしているんだぞ、と怒るかもしれませんね。
業務過多になっているのであれば、上司に文句を言うべきです。それでも改善しないのならば辞めればよいのです。
あなたたちは資格で守られた、強い立場です。別の業界にも行けるでしょう。
そんな状況でも、「大金が欲しいから辞められない」というのであれば、現状を受け入れるべきです。
それは、あなたの選択であり、私の自由を制限する理由にはなりません。
だれかの労働環境が悪いことは、だれかの人権を奪うにする理由にはなりません。
未だに受け入れ可能数が増えない問題に至っては、完全に医療の問題ですよね?
はるかに多い患者数を欧米が対処しているのに、日本医師会や都の医師会は解決することもできないのでしょうか?
去年の全体の死者数も減ったそうですね。
医療にとっては顧客が増えたわけです。これから売り上げも上がるのでしょうね。
彼らにとって、とても満足な結果でしょう。
コロナのせいで、私は医療のために更にお金を払わなくてはなりません。
医療は私の自由を奪い、自分の顧客をひいきしてお金を得ています。
私はなんなんでしょうか?
私は働かなくてはなりません。
私は奴隷ではありません。
高齢者が生きるために生かされているのでしょうか?
日常で対面で為される会話って7割が気持ちの交流だからなー。言葉尻は3割。
結局こういう奴はただひねくれてるんだよ。
相手の気持ちをわかろうとしたくない、気遣いたくない、合わせたくない。
円滑で互いに心地の良いコミュニケーションの仕方がわからないんだと思う。
そいつ自身が本当にひねくれてるというより、そういうひねくれたやり方しか学べなかったんだろうな。
元ネタの娘ちゃんと母親の話については、むしろ気持ちをしっかり読んだ上で言語化に難儀してるのでまた違った話だとは思うけどね。
励ましの言葉や労いの言葉に対して、超上っ面だけを切り取って、「疲れてねえし!」とか「もう頑張ってるんだよ!」とか思うのは根本的に他人が嫌いで他人の幸せを喜べなくて交流したくないって気持ちがあってそこから発する反発心だな。
ファーストガンダムはテレビの時点では3体だったけど、今の設定では8号機まである事になったぞ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4699365219029156162/comment/grizzly1
いくら日本もはてなも高齢化社会とはいえ、1981年(40年前)から文字設定、1990年(31年前)から絵の設定があるものについて「今の」って言ってええのん?
設定の変遷
『ガンダムセンチュリー』(1981年)では、RX-78プロトタイプが8機存在したとされ、ガンダム4-8号機の存在が示唆されていた。
初出である『MSV』(1984-1985年)では、4、5号機はジムの母体となったことと、改修されて星一号作戦でホワイトベース級「サラブレッド」に搭載された(ただし正式な記録は現存していないとされる)ことが記述されたのみで、デザインは起こされていない。
のちに『M-MSV』とされる雑誌『SD CLUB』第9号の連載企画「モビルスーツコレクション 大河原邦男MS最新設定集」(1990年)で5号機とともにデザインされ、掲載小説「ア・バオア・クー攻防戦」では2機の活躍が描かれた。なお、シールドはジム・コマンドと同型のものを装備し(小説の挿絵より)、メガ・ビーム・ランチャーは計画のみで終わったとされている。
さらに、ゲーム『機動戦士ガンダム外伝 宇宙、閃光の果てに…』(2003年)ではカトキハジメによってリファインされた4、5号機が登場した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0_(%E6%9E%B6%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%85%B5%E5%99%A8)#%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A04%E5%8F%B7%E6%A9%9F
ガンダム4号機~8号機は、1981年(40年前)の時点で原型となる設定があり、
ガンダム4号機~7号機については1990年(31年前)からデザインがあり、
ガンダム4号機、5号機は2003年(18年前)に発売されたPS2ゲーム「機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙」のためにカトキハジメによってリファインされた。
ガンダム6号機は、2001年(20年前)に発売されたPS2ゲーム「ジオニックフロント」のために片桐圭一郎によってリファインされ、その際に「マドロック」の愛称が設定された。
ガンダム7号機は、2009年(12年前)に発売されたPS3ゲーム「機動戦士ガンダム戦記」のためにカトキハジメによってリファインされた。
なお元の増田が話題にしてるガンダムMk-Vは1987年(34年前)に発売された「モデルグラフィックス」誌のムック本「Mission ΖΖ」に「G-V」の名で登場したのが初出。
ブコメで名前が上がってるガンダムMk-IIIは、その名前とともに登場したのは1986年(35年前)の「B-CLUB」誌上が最初らしい。「SDガンダム外伝」の騎士ガンダムの元ネタであることでも知られる。
そしてそのMk-IIIとMk-Vの中間に位置するモビルスーツとして設定されたガンダムMk-IVは2001年(20年前)に発売されたPS1ゲーム「SDガンダム ジージェネレーション・ゼロ」が初出。
書いたな!俺の前で!○○の話を!構文あるじゃん。
■書いたな、俺の前で、革靴の話を!anond:20200218234717
■書いたな、俺の前で、低温調理の話を!
■書いたな、俺の前でウサミちゃんはそんなんじゃないよ~の話を!
■書いたな、俺の前で、おっぱいの話を。
https://honeshabri.hatenablog.com/entry/origin_of_oppai
■書いたな、俺の前で、雑な百合語りを!
などなど。
雑な語りをすると識者が飛んでくる。
お友だち85人ぐらいと集まって通天閣に登りましょうってなったんだけど、
しぶしぶ串カツに行きましょうってことになったの。
もう緊急事態宣言解除よろしく時間関係なく朝から飲み屋が空いている正に食い倒れの世界。
ずぼらやの河豚の大きな提灯もみんなで撮りましょうってなったんだけど、
みんな集まった85人ぐらいで右往左往していたんだけど、
結局見つからなくて、
そう言えばそれどころじゃなくて串カツに行きましょう!って話をみんな思い出して、
ずば抜けて30分早く開店する
出し抜け系の八重勝にみんなで行ったの。
もうお店の前は大行列でお店から新今宮駅までの行列の長さだったから
へー関西はこのぐらいが当たり前なのね。
さすが食い倒れと言うけど実際に食い倒れてる人は見たことない世界の新世界ね!ってみんなで笑っていたの。
私たち85人はなんとか行列待ちをしていよいよ入店したんだけど、
同じ八重勝に別れていったんだけど、
店員さん片手にジョッキ8杯、
計両手で16杯を持つという離れ業を成し遂げて、
し、新記録でちゃったのよ。
みんな、で、でたー!って今やもう何が元ネタか分からないぐらいの言い方の「でたー!」でその樹立した新記録は
その5分後に
な、なんと片手9杯ジョッキ両手18杯持ちを別の店員さんが記録叩き出しちゃって、
もう記録に残るよりも記憶に残る美味しいビールを飲んで欲しいだけです!って
ヒーローインタビューしていたけど、
おかげで私たち一行85人ぐらいのみんなは
それを煮込んで味噌だれて味付けしている感じで、
1皿3串だから、
私たち一行が一度に頼んだどて焼きの世界新記録を新世界で叩き出し樹立させちゃったのよ。
記録に残るどて焼きよりも記憶に残るどて焼きを食べたかったんです!って
当たり障りないヒーローインタビューを終えて、
ようやくどて焼きを平らげることが出来たの。
みんな他のお客さんは
それはもうサラダとは言えないけど皿に盛られてくるからもはや皿だ!なんて、
福山雅治さんも
サラダサラダサーラだーってにこにこの笑顔で歌ってくれそうな勢いだったわよ。
もうそこの厨房はみんな85人で一斉にどて焼きを前菜感覚で頼んじゃったから、
空中をどて焼きが飛び交っているの。
エンジニアのお友だちは85人でどて焼き頼んで3本出ててくるから
全部で255本でフィーバーしたみたいだね!なんつって笑ってたけど、
前菜を皆食べ終わるまでに私は原稿用紙ここまでで4枚ぐらい使っちゃってるんだけど、
途中揚げ物の鍋にラードを投入している様もパフォーマンスみたいで見ていて楽しかったし、
当てた手の串カツを太い菜箸で掴んで直接お客さんの口にダイレクトに入れて食べさせてくれるスタイルまで
昔から変わらないんだなーって、
串カツのベテランのお友だちはその様をみて大満足だったみたいよ。
私は好きなもの
ルービーも飲んだけど
両手20杯持ちという記録を叩き出したの!
8.5秒よ!
記録がじゃんじゃん出ていたのよ。
私たち85人が串カツをじゃんじゃん注文する数と同じぐらいにね。
今振り返ってみると、
あんなに大量に揚げ物油物食べたのに、
ぜんぜん胃もたれもしなかったし、
どうせ登ったんなら通天閣、
今さらだけど団体割引にしておけば良かったね!って言うもんだから、
じゃーもう1回登りなおしますか?ってなりそうだったけど、
さすがにみんなノーサンキューだったわ。
じゃみんなで次はあべのハルカスなんて言う
超高いビルに登ってみましょうってなったけど、
もう記録を記録してくれる人が居なくなったから、
本当に食い倒れている人1人も見なかったから
モノも言いようね!って思ったのよね。
本当にみんな高いところが好きなんだから~って
私は最後にそうヒーローインタビューで答えて
新世界の旅を終えたところよ。
今度はどこにまた行きましょうか?って
ワクワクするわね!
うふふ。
もちろんホッツよ。
野菜食べたカウントに入れていいなら私は秒で野菜1日ノルマ達成よ。
なんてね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「かわいそうじゃないと抜けない」&「徹底的にかわいそうな目にあったキャラが救われる瞬間に快感を覚える」だ。
なので元ネタがエリートばっかりの世界を描いてるっぽいウマ娘に全く興味がなかったのだが、
https://note.com/stormroastpork/n/n8834b1cd55f7
あああああああああああ。
私の心にずっきゅんきたあああああああああ。
「7SEEDS」っていうんですけどね。
とある学園で未来のエリートを育成するという名目で1000人以上いる候補生を集めている。
しかし実は、この学園の目的はこのうち生き残るべき優秀な7名だけを選ぶことだったのだ。
それ以外の生徒はその7名の糧となるべく選別の過程で全員皆殺しにされる。
「殺し屋組織で幼いころから競わされ、仲間を手にかけることを強制された」みたいな話だったら珍しくないだろうが、
殺される直前まで「7名に選ばなれなかったら殺される」ということを全く意識せずに教育されるというところだ。
みんな仲良しで、自分こそが7名に選ばれるものだと切磋琢磨しあっている。
直前までは選ばれなければ殺されるという悲壮感が全くない。
だからこそ、突如世界が地獄に変わった後多種多様な表情を見せてくれるのだが
そういうところが最高に私の性癖にずっきゅんな作品なのである。
上のnoteを読む限り、プレイヤブルなキャラクターから見たウマ娘の世界は、選別が始まる前の世界だ。
プレイヤブルなキャラクターは、たとえ目標達成できなくても何度でもやり直せる。
ただただクリアできるまでのびのびと走ることを楽しめる楽園のような世界だ。
ハルウララにすら勝てない雑魚の自分は殺されることを知っていたからだろう。
モブウマ娘は、毎回毎回背後に迫る死を感じながら走ることを余儀なくされる。
それが経済動物の極致である競走馬に知性を与えるということなのだ。
恐怖に押しつぶされそうになりながら走り、
そうやってアリジゴクの中で苦しみ続ける。
そしていざその時が来たら
助けを求める声をグッとこらえながら人知れず消えていくのだ。
そんな彼女が、全く勝てないくせに
むはああああああ考えただけで興奮する。
むくむくと二次創作の意欲がわいてくる。
のだが
ほんとすみませんでした。
友人にこの話をしたら
https://togetter.com/li/1372208
など全否定されました。
私がキモイ妄想を話しても引かない、とても懐が広いやつなのですが
とにかく口が悪い。
ぼろっかすに言われて悔しいので
友人を満足させるべく
もっとかわいそうなウマ娘二次創作設定を考えて送りつけることにします。
ありがとうございました。
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。