はてなキーワード: 対峙とは
殴ることそのものを否定したら、状況によっては他者に一方的に虐げられるよ。お花畑のなかにずっと生きるならいざ知らず。
あなたが自分の大切な何かや誰かを守るために、拳を握ることを否定して、自分が対峙する何かに一方的に蹂躙されることが望ましい形だというなら、なかなかの平和主義者で集団自殺志願者だよね。
問題なのは、正当性なく、思慮なく、節度なく殴ることで、私利私欲のために、他者を虐げるために殴ることだろう。
まあでも好き嫌いは個人の領分だし、そう感じてしまうのも仕方ないのかもね。
単に殴ることを嫌悪する気持ちは、それが身近にないか、あるいは歪んだ形で身近にありすぎて、触れることを生理的に拒むという感情的反応ゆえのものだと思うので。
論理は正しいけど、感情は心地よいから、そして人間は刹那的だから、どうしても感情に身を委ねるよね。人間らしくて素敵だよね。
大半を占めるのが真っ当な感想。
ポエム、全く反省していない、被害者に無断でなぜこのような本をだすのかetc
その中で少数意見が出てくる。
断言しよう。
過度に飾られた、ちょっと文学に浸って己を過信した、中二病の文章だ。
中二だ。これが高校になるとこのくらいの文章を書く奴は少し増える。
大学になるともっと増える。皆そういった恥ずかし気を越え一周して簡素な文章になる。
目立って特別な文才ではない。
ただ元少年Aの文章がそこまで囃し立てられるわけは「ゲテモノ」だから。
タブーを犯したゲテモノが書いた文章だから、専門家はそのー言葉に意味を見つけたいのだ。
少し頭が良くて少し文章が書けて。自分が犯した行動を抑えきれない自己顕示欲で、オナニーを見せつけるのだ。
誰かがはっきりと言ってあげなくてはいけない。
ネットの評価では文学的だとか一部ではそんな意見があるけれど。
賞に出しても一次で落ちる。バイトが選考するのにも引っかからないね。
これ以上表に出てはいけない。
出家して、人の目が届かないところで一生許されることない罪と対峙してほしい。
誰にも見えないところでね。
もう2度と世間に出てこないでください。
ほら、男性の中に何割か痴漢がいる、という現実はこんなにも争いを生む。
まともに生きている男性は「関わらなければいいや」で済む。
まともに生きている女性はまんべんなく被害に合うので、戦わなければいけない。
(その脅威は、男性は娘を授かったときに初めて意識する人も多いみたいだ)
女性はまともな男性と痴漢をわけて戦えればいいけど、「お前痴漢だろ」といってターゲットにするわけにいかないので、男性全体に向かって呼びかける。
まともな男性はそうだね、と聞いてくれつつも、あまり言われると面倒だな、というメーターも上がっていく。
かわいそうだとは思うけど、自分を犯罪者みたいに扱うなよ、女性は気にしすぎ、という意見が出てくる。
相容れない。
たとえば、自分の恋人や娘が、目の前で痴漢にあったらさすがに助けるだろう。
痴漢に対して腹も立てるだろう。
でも残念ながら、男性と共に行動している女性を痴漢が狙うことはないので、それはあまり無い状況だろう。
対峙して慌てるのはせいぜい、自分より上位と感じる男性に対してだろう。
だからまともに生きている男性が、痴漢を否定するのが一番効果的だと思う。
痴漢冤罪についてだと、逆の事が言えると思う。
痴漢冤罪を実行する女性が居るのだとしたら、女性はより強く、その行為を否定しなければならない。
なぜなら痴漢という行為の存在を、あやふやにするやっかいな事案だからだ。
しかし何よりも、満員電車という状況が痴漢を生み出している。何よりも。
私からしたら、こんなものに乗らなければ生きていけない社会の方が、絶対的な悪だ。
男性に痴漢被害について、もう少し理解を示して欲しいと思うものの、「日常でないものに対して日常的に考える」なんてそんなもの無茶だとも知っている。
無理にとはいわない。真摯に生きている男性が「女性は思ったより日々痴漢被害にあっている」という認識をもってくれるだけで、私は今のところ充分だと思う。
努力して、変わっていっている面もある。
女性専用車両の導入で、少なくともそこでの痴漢発生率はゼロだろう。痴漢冤罪発生率もゼロだろう。
痴漢を見つけたら、他人でも助けてくれる男性だってきっと皆無ではないはずだ。
痴漢を憎んではいるけど、具体的にどうしていいかわからないだけの男性だってきっと居る。
痴漢冤罪については、認知度が上がって、そういう場合もあるという考えが定着しているように思う。
それは冤罪を起こさせないストッパーになって、認知されなかった時代よりは、多少は機能しているはずだ。
女性は痴漢被害について、こうやって世の中に発信できるようになってきた。
きっと、社会だって少しずつ良くなろうとしている。ただ歩みがゆっくりなだけで。
それにしても。
普段はスカスカの電車に乗るからめったに痴漢に遭うことはないんだが、たまに、朝方の満員電車に乗ると5回に1回くらいの割合で痴漢に遭う。(夜の満員電車はなぜかあまり痴漢に遭わない)
そういうときは足を踏んだりして応戦している。その都度ピンヒールを履いていないことが悔やまれるのだが、まあその場で痴漢をやめてくれるのなら大事にするつもりもない。私だって急いでいるのだから。
先日もそういうことがあった。しかしそのときは踏める位置に痴漢の足がなかった。
そういうときは、半径2,3メートルの人々に聞こえるくらいの声で やめてください というようにしている。周囲からの、は?何言ってんだこいつ?という視線は痛いが、大抵の痴漢はこれでやめてくれる。
なので今回も同じように やめてください と言った。一瞬、私を触る手が止まった。そしてまたサワサワと動き出した。やめる気はないようだった。
腹が立ったので、手を掴んだ。少し爪を立てた。痴漢の顔を見た。30代前半くらいのサラリーマンらしき男だった。驚いた顔をしていた。
手を掴んだまま、今度は奴の目を見て やめてください と言った。
男の第一声は 痴漢冤罪だ! だった。続けて、誰がお前みたいなブスを…というお決まりの台詞が続いたがそれはどうでもいい。
私は少し混乱してしまった。
いや、お前、痴漢してんじゃん。冤罪じゃないじゃん。チョーウケるんですけど。深層心理に隠れていたギャルが何故かここで目覚めて、脳内で毒を吐いていた。
カッとなりそうだったのだが、突如現れたギャルのおかげか少し冷静になることができた。
私は、 べつに痴漢されたなんて言ってないんですけど、そう言うってことは痴漢してたっていう自覚があるってことでいいですか! と言った。重箱の隅をつつくというか、揚げ足をとるというか、ダサい発言だったと自覚しているが、周囲の人々の 冤罪かよこのブス という表情が なるほど痴漢か という表情に変わったような気がした。結果オーライである。
男は一瞬しまったという顔をしたが、すぐに何か色々と言い返してきた。内容は覚えていない。何度もブスと罵られていたことは覚えている。自分がブスであることくらい自覚しているのだから何度も言わなくていいのに。少し傷ついた。
冤罪だの、ブスだの、色々と言われて再び腹が立ったので お互い警察に行きましょう と言った。男ははっとした後、嫌そうな顔をした。
私は被害者であるはずだ。なぜ悪者にならなければいけないのか。
次の駅で降りてお互いの言い分を警察を交えて決着をつけるか、今ここで謝るか、どちらかを選ぶよう伝えた。
なんだか、闘いに勝ったような気がした。腹は立っていたが清々しい思いだった。
また5秒くらいして、そばにいた40〜50代くらいのサラリーマンらしきおじさんに声をかけられた。このまま卑劣な痴漢を野放しにしていいのか、ということだった。たしかに、良くない。だが私は急いでいたためあまり時間をとられたくなかった。
しかしそんな話をしていると再び痴漢がキレだした。謝れば不問にすると言っただろうとのことだった。
そんな事を言われるとますます腹が立つではないか。やっぱり突き出してやろうかと考え始めたところ、おじさんが 実は痴漢しているところを見ていた。何も言えなくてごめん と言ってきた。おじさんは証人だったのだ。
どう考えても私に有利な状況である。痴漢はこの世の終わりのような顔をしていた。
痴漢と、おじさんと、私も証人になると言ってくれた数名の方々(目撃したわけではないらしいが、痴漢を取り押さえてくれていた)と一緒に次の駅で降りた。大所帯であった。
駅員さんに伝え、小部屋に連れて行かれた。あったことを話した。
痴漢曰く、気の迷いだったそうだ。一時の気の迷いで他人の心に傷を負わせちゃだめだろう とお巡りさんに怒られていた。その通りである。
しかし私も、一時の気の迷いから生じた過ちを裁くために1人の人間の人生を狂わせてしまうのも荷が重かった。まあ、本人の自業自得であるのだが。
よって示談ということにし、後日、謝罪と幾らかの示談金を受け取った。
一段落ついた後に友達にこの話をしたところ、うち一人の男友達からかけられた言葉に意表を突かれ困惑した。
その場の全員が、芸人顔負けのチョットマッテを決めていた。
この話を聞いてすぐにこんな言葉が出てくる人もいるのか。これは、相容れないわ。と感じた。
今までの付き合いで普通の思考の人間だと思っていたからこそなおさら驚いた。思考云々というより彼の場合はただの非常識な人間である。
男の立場で考えるとそういうことになるのだろうかと思ったが、その場にいた他の男友達も こいつは頭がおかしい と言っていたので、彼は極端な例なのだと思う。思っていても、普通は言わないだろう。
そして先週末にようやく、証人となってくれた方々が全員揃って食事に行くことができた。示談金はここで使った。
みんな、あの後の予定に遅刻してしまったようだったが、とりたてて支障はなかったらしく、安心した。
特におじさんは事情を話したところ(私からも連絡を入れた)上司に褒められて会社で表彰されたらしい。最初は見て見ぬ振りをしていたくせに、と思ったのだがあえて言わないでおいた。
電車から降りようとする時、たまにドアの正面に立ち空いたと同時に乗ろうとする奴に遭遇する。
決まって50代以上の中高年だ。
ドアを介して対峙しても、ドアが開いて面と向かっても、奴らは全く動じる気配を見せない。
むしろ、何だお前はって顔をされる。
今まで、ホームのアナウンスでも聞くように、降りる人が先だと思っていたが、
次第に自分が間違っているんじゃないかと、段々と思うようになった。
あー、そうか、きっことこれが年の功ってやつか。
先日、電車のドアが開くと同時に堂々と入場する、
大きなキャリーバッグを持ったおばさんがいた。
ちょうど若い女子大生風の2人が電車から降りようとして、お見合い状態になった。
若い2人は、「降りる人が先でしょ」と、当然のようにサラっと口にした。
年の功って言葉を身を以て知っている僕は、
「あー、やっちゃった。違うんだなー」と心の中で思ってしまった。
ほら見たことか。優先権を行使して先に車内に乗り込んだおばさんが、
若い2人を黙って睨みつけている。
おばさん、教えてくれてありがとう!!
この機会にいい勉強になったんじゃないかな。
やっぱり僕はまだまだ若い。
会社で報告書を書いたり、議事録を書いたりってすごく集中力、注意力の要る作業。特に若手は周りに声をかけられてすぐに返事や対応する必要があったり、電話が鳴ったら真っ先に取らなきゃいけなかったりでものすごく途切れるんだよね。みんなその辺上手くやってるのかなぁ。
職位が上がるほど、周りが声かけるときはその人の状況を「今声かけて大丈夫かな?」とか「作業中じゃないかな?」とかうかがっているから途切れることが減っていくと思うんだよね。そうやって仕上がるスピードが速くなっていくからその自分の基準で部下にその速度を求める。
仕事とはつまり「集中力」だと思うんだよね。定時退社できるか否か…。人と会話したり、電話を受けたりするときもそう。集中力を削ぐ「何か」によってストレスが起こる。それを周りが気付いてフォローできるようにしないと誰かが負担を追うことになる。
ただ、バブル入社組とか賑やかにワーキャー仕事してきた人種もいる。その人らは周りから声をかけられない時間が長くなるとどうやら不安でモジモジ・ソワソワする傾向にあるようだ。自分の場合その心境にまったく共感できないから、その人種と対峙して一緒に仕事をしていると非常にストレスがたまる。
元増田の出身校の体制がどうなっているかは判らないけれど、小学校の移動教室は何校かで体験したので、参考までに書きたいと思う。
移動教室や修学旅行で、先生たちが酒盛りをしているというのは昔のイメージだったりする。消灯後も忙しいのだ。
小学校の場合、消灯は21時頃であることが多いと思うが、教員はその後フリーになるわけではない。
まず、消灯直前までに、寝る前の服薬が必要な子に頓服済みか確認する。夜尿癖のある子を、トイレに行かせる。
消灯後は、大多数が寝静まるまでは廊下に居り、男子が女子の部屋に忍び込むのを邪魔したりする(悪く思わないでほしい。現に「15歳の母」のような事案は存在するのだ。避妊具でも発見した日には厳戒態勢である。「避妊するだけマシ」という論理性は危機管理には通用しないし、「小学生だから」と甘く見ると大やけどをすることを教員は痛いほど分かっている)。
それと平行して、風呂を済ませる教員もいる。宿の風呂が深夜まで使えるならば良いのだが、23時までだったりすると、主任の先生は風呂を諦めることもある。部屋にシャワーがあれば最高である。また、イベントの担当などの小規模な打ち合わせを行ったりする。
その後、22時~23時あたりで、一度、全体ミーティングを行う。20~30分ほどのことが多かったように思う。実踏で確認はしていても、いざ児童を引率すると、思わぬ問題が発生したりする。見学先やバス移動時のサービスエリア、鉄道利用時の駅などで、居合わせたお客さんから苦情を頂くこともある。その場合は翌日に同じことが起きないよう検討しておく。また、翌日の注意点も共有し合う。タイトなスケジュールだったり、自由行動やオリエンテーリング等で迷子になりやすい場所を確認したりする。
……とはならない。
23時半~0時を目途に、夜尿の心配のある子を起こしてトイレに行かせたり、喘息発作の起きやすい子の様子をみたりする。体調不良の子が居れば、その子の様子も確認する(これは基本的には養護教諭マターだったりするけれど、担任も度々様子を見に行くだろう。性悪説で考えても、子供の信頼を得られなければ、仕事がしにくくなるのは目に見えている。ここで手を抜くのは損である)。
そして、自分のための支度をして、仮眠となる。そう、たいていは仮眠なのだ。不寝番の時間が来るまでの。
もし幸運にも不寝番をせずに済んだとしても、6時には児童が起床するので、その前に起きなければならない。寝れて5時間強だろう。帰りの電車やバスで教員が寝ていても、そっとしておいてあげて欲しい。移動教室や修学旅行は、何より睡眠不足との戦いなのだ。
なお、場合によっては2時ごろにも夜尿の心配のある子を起こしたり、喘息の子に吸入させたりする。この場合は担任でなく、不寝番の教員が代行する事も多い。
世間の目が厳しい平成20年代にもなって酒盛りをする文化が残っている学校は少なくなっているのではないだろうか。校長がカップラーメン位は差し入れをしてくれているかもしれないが、酒盛りをする勇気も元気も無いように思う(ただ、小学校教諭は体力自慢も多いので元気な教員は居るかもしれない)。中高の部活の遠征で、保護者も同伴するような場合は勝手が違う可能性もある。
「夜中すぎ」が何時かは判らないが、全体ミーティングに重なっていれば、そのミーティングを行う部屋によっては、教員が認知できなかった可能性はある。
なお、ミーティングの内容は、円滑なスケジュールの遂行の為の確認と、トラブルの未然防止がメインである。事故や喧嘩が起きるのが、教員は何よりも怖い。仮に、教員が責任感や正義感を持ち合わせていないとしても、である。トラブルが起きれば、教員は眠れないし、修学旅行後も後々まで尾を引く問題になる。児童が怪我をすれば最悪の場合は刑法犯、業務上過失致死傷に問われるのだ。正義感の無い教員が居るかどうかはここでは論じないが、正義感が無い教員が居ると仮定しても、DQNの襲撃や火遊びによる失火などは最大のリスクの1つであり、放置するのは教員集団の行動原理としてはあり得ない(個々としては不合理な判断をする者も居るだろうが、複数の教員がそのような不合理な判断をするとは思えない)。
結論を言おう。
元増田の件では、教員が酔っぱらいを認知していなかったか、認知はしたが対策をしつつ事を荒立てない選択をしたと考えるのが自然である。
前述したように、ミーティングと重なった場合、ミーティングの場所によっては教員が酔っぱらいを認知していなかった可能性がある。
もしその状況を教員が認知したら、教員自身のリスクを考えても、必ず何らかの行動を起こしているはずである。
認知していたとすると、たとえば、直接対峙せずフロントに連絡したり、児童に危害が起きないように注意深く見守るなどの対策をしていたことが考えられる。また、教員がおだかやに「お願い」を申し出て、酔っぱらいが素直に聞き入れてくれた可能性もある。
元増田の証言にあるように朝にスルーしたのは、「児童も寝ている時間であり、気付いてないだろうから、わざわざ言って不安にさせるのはよくない」という教育的判断が働いたのではないだろうか。まさに「寝た子を起こすな」の理論であるが、教員が、児童は寝ていたはずと思っていたのなら、ストーリーとしてあり得るのではないか。小学生は案外早く寝落ちするものである、という経験則が教員にはある。
実際は増田らが起きていたわけで、教員が本当にこのような判断をしていたのなら、これは結果論ながら教員サイドの判断ミスと言えるだろう。
教員サイドのポジショントークに見えるかもしれない。しかし、失火の可能性すらある状態を認知したら、怖いから放置するという判断はできない。むしろ、放置のほうが怖い。いかなごを校庭で焼くという明らかにネタの予告でさえ、万が一を考えて職員会議と警備強化を行うのだ。放置するのは不合理である。
あれさーチョ〜うらやましいんだよねー
ほら、あれってさ、うちら付き合ってまーす!愛し合ってまーす!っていう宣言みたいなもんじゃん?
周りもあれ見たら無意識的に、あの2人は愛し合ってるんだろなーって思うよね?
俺あれやってみたいんだよね〜一度でいいから堂々と!
こいつと愛し合ってますよ〜!って無言の吹聴がしてみたいんだよねー
でもそういう訳にはいかない。
俺らがやっちゃうと、周りは訝しげに見るだろうし、何より気持ち悪がるだろうし。
そりゃ男同士で手を繋いで歩いてたら気持ち悪がられるよ。無理もない。
ま、もしも周りが気持ち悪いなんて思わなくても、あいつは手なんて繋いで歩いてくれるわけないんだけど。
今割と話題になってる同性婚あるじゃん?渋谷区の。あの話もしたんだよね。
あの条例はすごい画期的で、喜ばしい事だよねーって言ったりして。
まあでもああいう条例の効力?恩恵?にあやかる事は同時に自らのジェンダーっていうの?
そういうのをある程度の人にカミングアウトしなきゃいけないわけじゃん?
そこまでしてそういう権利みたいのを俺は享受しようとは思わないわけよ。
契約の紙みたいなもの(そんなのがあるかどうかは知らないが)を持ってきたら、
それはめちゃめちゃ嬉しいよね?ってかそれに至ったプロセスが何より嬉しいよね?って話に同意してくれて、
なんだ、普段冷めてるように見えて、そういう気持ちあるんじゃん!とかちょっと嬉しくなって。
その話をした後、渋谷区に引っ越しちゃおうかな〜とかバカみたいな妄想してさ〜
そういえば初台は渋谷区だっけかな?とか。そもそもそういうのにあやかる気はないとか言ってたくせにさ。
連絡がなくなってそろそろ1ヶ月経つかな。
今日はメールがくる!とか、まったく当てにならない直感を日々信じて。
諦めたらジェムが濁って魔女化する!そうなったら完全に終わりだ!!とか思って、
何よりあいつを信じようと、前向きに前向きに過ごしてきたけど、そろそろそれも限界かな。
この1ヶ月あいつの事、そして何よりも自分自身ともしっかり対峙できたじゃねーか。それでいいじゃねーか。
絶対口にしなかった「諦めよう……」という言葉を口にした瞬間、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
あなたがいなくて、とても寂しい
作品が悪いとは言わないが、私の好みに合わなかった。絶望的に合わなかった。
姫様を巡って二人の(自称)騎士が争う話と二人の騎士が自分を巡って争うのを姫様がやめさせる話というのは自分の中ではだいぶ違う。
もっといえば、スレインという一人の人間が狂っていく様をみんなで止めるという話になってしまった。
2期も、二人が争い、そしてザーツバルムを始末する展開までは良かった。競り合ってる感じがした。
優秀なイナホに対して、スレインがコウモリ呼ばわりされ、どこにも居場所がなく、もあがき苦しみ一気に駆け上がっていく様はとても見応えがあった。
ついには二人が同じ場に対等な立場で立ち、旧世代のザーツバルムを始末する様をみて、いよいよ本番が始まったと思った。
その後は二人が争うことがなく、スレインの独走をただぼんやり眺めているだけの展開だった。
スレインは姫様の方だけ向いて行動しており、イナホを意識している様子があまり見られなかった。
1期においてはスレインがザコでイナホの方がエースであったために見向きもされなかったことの対比なのかもしれないが
直接対戦してお互いの脅威ぶりを確認した後にしてはあまりにも不自然だった。
ただ騎士を順番に逐次投入していくという、戦略としてクソみたいなことを繰り返していた。
機体とか能力とか格好いいのに戦略が糞なので戦闘には全く見応えがなかった。はいはいテンプレテンプレ展開。
イナホ側はイナホ側で問題があって、姫様を取り戻すべくいろいろ行動していたし、騎士たちと戦っていたが、
相並び立つ存在として受け止めるにはあまりにも二人の間のバランスが悪すぎる。
スレインがぐいぐい目的に向けて駆け上がっているのに対して、イナホはあまりにも歩みがゆっくりとしていた。
チートな能力を持っていたのはイナホ側であり、スレインは機体こそ強いものの普通の人間である。
イナホも、戦闘ではなく別の戦い方で本気を出すべきだったのではないのか。
その結果として、二人の重要度がまるでつり合わなくなっているのである。
終盤において二人が対峙するという本来一番大事なはずのシーンが訪れるが、
これがどうにも偶然の産物であり、必然性がないように感じられる。
ここをいかにドラマチックに、避けがたい運命のようなものとして描写するかが大事だったのではないのか。
また、この対峙が全体の局面からしても重要度が低いというような描かれ方、位置づけになってしまっている。
スレインの立場では、一兵卒にすぎないイナホとの対決よりも重要な事があるという状況になっており、
引き合いに出す例が古くてなんだが、アムロとシャアの対決のような盛り上がりを期待できなかった。
一番大事なシーンであまりにもひどい盛り下がりぶりである。やってらんねー。
更に情けないのが、二人の対決は、アセイラム姫の決断によって、さらに重要度の低いものへと貶められる。
「騎士の誇りをかけた戦い」が、姫様からすると「あほなことやってないでさっさと帰ってらっしゃい」という感じで
カーチャンの叱責によってあっさり収められてしまうようなガキ同士の幼稚な戦いレベルまで落ちているのだ。
結局この物語は最初から最後までアセイラム姫の意思が重要であり、
二人の戦いは、そのアセイラム姫の意思が発揮されない間だけ成り立つような、くだらない思い込みでしかない。
こうして二人の物語は途中まで寝ていた姫様によってあっけなく簒奪され、回収され、放棄される。
姫様が宣言をした時点で、もはや二人はこの物語には不要な存在となっている。
だから、ラストシーンでスレインが生き残ろうが死のうが、改心しようがしまいがもはやたいして重要ではない。
スレインは姫様の意思によって生かされ、飼い殺しのまま死ぬ。イナホもただ姫様への思いを抱えたまま一兵卒として死ぬ。
姫様だけが、いっときの恋を過去のものとして自分の物語を自分の意思で歩んでいく。なんてひどい話だ。
殺さないまでも、私は、姫様が最後まで目覚めない物語こそを見たかった。
それでも、姫様が助かって、この物語が姫様のものになったことを二人は喜んでいるのだろう。
そのくらい強くその人の幸せを願える存在に出会えたということは、そしてその人が幸せになることは二人の幸せなのだろう。
視聴者である私は二人の感情にまったく共感できないものの、この物語はそういう形で終りを迎える。
でも私はこういう物語ではなく、もっと凄惨な殺し合い、周りを巻き込んで破滅させつつも己の目的を達成していくわがままな戦いが見たかった。
先日親類の墓参りに行った。
新しめの霊園で、その親類の墓は
自分にとっては一般的な「○○家代々の墓」ってタイプのだったんだけど
「絆」とか「感謝」とか書いてあるのをちらほら見かけて面食らう
誰がこんな墓にするんだろう。洋式墓ってなんかモダンでいい感じ
それにしたって「絆」とか「感謝」って、J-POPじゃないんだし
今どきは墓までキラキラかよと、正直心のなかで思った。
今まで「死」という現象を全く意識してなかったんじゃないのかなあと。
で、突然我が子の死に対峙して色々悩んで泣いて悔いて責めてとか色々あったんだろうと、
でも、主に時間的な、次に予算的な数々の妥協を受け入れていく中で
どこにでもある何者でもない感じで切ない
我が子にオリジナリティのある命名をしたつもりが
常日頃から思っていたけど、墓というのも
とても恐ろしい。
自分の死んだ後ってのも気になるんだけど
それよりもまず、親しい人たちを今後どう見送るべきかってのを
はてなが戦火に覆われるようになったのは、不満がくすぶる第三次はてな大戦からの必然的な流れであり、開戦は避けられようがなかったということは誰しもが認める事実である。ただし、その引き金というのが男女の揉め事というのは娑婆世界的で品がないとも言えるが、概ねありきたりなことが発端となるものである。また誰も予想していなかったが、この戦いは思わぬ効果をはてな運営にもたらすこととなった。
開戦の火蓋となったのはある恋愛騒動であった。この騒動のどちらに立つのか、はてな民は真っ二つに別れた。まず、はてなアイドルが先頭に立ちメンヘライテンド(青)を結成。カリスマが立ち上がったことで、はてな女子の支持を一挙に集めた。
青い勢力結成に恐れをなしたモヒカン族はコレクタンス(緑)を立ち上げて対抗。正しさと秩序あるはてなをキャッチフレーズに、古参ユーザーや久谷女子などの面々が参加した。自分語りをするメンヘライテンドに対して、マズローの欲求5段階説を毎日のように啓蒙し、自分の心と対峙して調和する必要性を訴えた。
両者の戦いはB!クマガールズやはてサをも巻き込み、はてな史上最悪のバトルとなったが、これによってカラースターガチャがおもしろいように売れるようになった。争いが激化するにつれ青スターと緑スターだけではなくパープルスターまでもが大量投入され、誰もノーマルスターを使わなくなった。
いつしかはてなブックマークには、青いスターばかりが目立つ「コレクタンスの馬鹿ども」といったエントリーや、緑のスターで埋め尽くされた「病院送りにすべきメンヘライテンドのリスト」といった内輪向けのエントリーが並ぶようになり、かつてのように多様な空間ではなくなってしまった。大喜利で有名なブックマーカーのアイコンも所属する陣営に配慮して、綾波レイ、さやか、イカ娘など特定のキャラに偏ってしまうようになった。
一方、鳴かず飛ばずだったはてなは爆発的な利益を上げて最高益を達成。スマホ向けアプリ「はてな王国」は中高生にも大ヒットとなり、IT企業として大逆転を果たした。
ISILによる邦人誘拐の一報が出た時から、ネットやテレビでよく言われていたフレーズが、ずっと疑問だった。それは、「テロリストの要求に応じれば、更なるテロを招く」というものである。予め断るが、今回、政府が身代金を支払わなかったこと批判したい訳ではない。2億ドルを出さなかったのは間違いではない、と思っている。この疑問は、日本がテロリスト達とどう向き合えばいいのか、あるいは向き合わない(今回の日本の選択は後者だと思う)のか、という問題なのだ。
前述の主張の概要はこうだろう。「テロリストに身代金を渡した場合、新しい武器や、移動手段、その他の機器、また食料などを買う幅と量が広がる。それによって活動の範囲や攻撃力を増しテロが増える。また、日本は身代金を取れる国・要求に応じる国であると認識され、邦人の誘拐を誘発させる。だからテロリストとは交渉すべきでない」
この主張のうち前段部分は容易に理解できる。身代金の目的は活動資金の確保の訳だから当然だ。また、これをもって、「テロが増える」というのであれば疑いの余地はないし、身代金を支払わない理由には十分なりうる。これだけだったら疑問はない。(なので表題は正確ではない)
だが、後段の更なるテロを誘発するという部分が理解できない。理解できない理由は「要求に応じない国の人物は見逃されるだろうか。殺害されるだけではないだろうか。」ということである。つまり、「要求に応じない国」だからといって、テロなり暴力なりの対象から外れる訳ではないだろう。下手すれば、見せしめの生け贄要員にならないだろうか。暴力の対象から外れないのであれば、「更なる誘拐を招くから要求を受け付けない」という意見には「誘拐されるくらいなら殺される方がマシ」という下の句が付いてまわらないか。
人質にならずに単に殺害されるのであれば、悲劇は回避できていない。そうであるなら、私は賛成できない。やはり人命は最優先されるべきだ。「要求に応じる国」だろうが「要求に応じない国」だろうが悲劇は起きるのである。
だとすれば、先ほどの「身代金が活動資金になるから、更なるテロを招く」という点さえ解決できれば、要求に応じることは選択としてあながち間違いではないのではないか、と思うのだ。第1の声明の直後に、中田氏と常岡氏が外国特派員協会で「日本はイスラム国の支配地域に2億ドルの人道支援をすべき」「イスラム法に乗っ取ったイスラム法廷を開かせてはどうか」と主張した。また、私は当初、荒唐無稽だと思っていたが、よくよく考えてみると、ISILの暴力を促進しない範囲でお金拠出し、かつ、彼らが反論できない彼らのロジックによって言いくるめるというのは、そんなに悪いアイディアじゃないのかもしれない。いわゆる落としどころを探るということだ。果たして、政府はそうした交渉をISILとしたのだろうか。
テロリストと交渉をしない、という選択肢は、暴力には暴力で対峙するという決意と実際の能力が必要だ。そして、日本はその選択肢を取るべきではない。いま、テレビで盛んに言われている「世界で日本が”尊敬”されている」というのは、先の大戦で打ちのめされた先人達がその選択肢をとらなかったからこそ、得られた財産であると思う。暴力で対峙するのではなく、かたくなに要求に応じない、という訳ではなく、落としどころを見つけられる国家になれば、それこそ世界における日本のプレゼンスは向上し、”美しい国”になるのではないかと思うのだ。
すべての物事には必ず難癖がつけられるというのがポリシーです。こんにちは。
さて、人質事件無事解決すると良いですね。
特に腹案もないのでそれについては何も言えませんが、リテラシーを見るに良い題材なので、具体的に書いてみたいと思います。
プロのデバッガーになると、症状を聞いただけでバグってるところのアタリが付けられるそうですが、
なんか変だな?と思うポイントというのも、実はアタリが付けられます。
身も蓋もないですが、素人がある一定の信頼を置くのはどこかというと、書き手の所属だったりします。
はい。聞こえそうな非難は百も承知ですが、確率的に「自称専門家」と「大学教授」なら正しいのは教授です。
(ただし、専門領域に限る。工学部教授が医学に口出す時は「自称専門家」扱いしましょう)
*今回の殺害予告・身代金要求では、日本の中東諸国への経済援助をもって十字軍の一部でありジハードの対象であると明確に主張し、行動に移している。これは従来からも潜在的にはそのようにみなされていたと考えられるが、今回のように日本の対中東経済支援のみを特定して問題視した事例は少なかった。
(中略)
そうであれば、従来から行われてきた経済支援そのものが、「イスラーム国」等のグローバル・ジハードのイデオロギーを護持する集団からは、「欧米の支配に与する」ものとみられており、潜在的にはジハードの対象となっていたのが、今回の首相歴訪というタイミングで政治的に提起されたと考えらえれる。
という記述を観た時に、リテラシー的にまずおさえておくべきことは、
普通は、この程度で「ふーん、そんなもんか、他のニュースではどう言ってるのかな」と思えば良いわけです。
が、自分の主義主張とは違うので難癖つけしたい時は、見るべきポイントが実は違います。
(まあ、リテラシーとして「変な偏向がかかってないかな?」と確認したいとき、でも良いわけですが)
*「集団的自衛権」とは無関係である。そもそも集団的自衛権と個別的自衛権の区別が議論されるのは日本だけである。
現在日本が行っており、今回の安倍首相の中東訪問で再確認された経済援助は、従来から行われてきた中東諸国の経済開発、安定化、テロ対策、難民支援への資金供与となんら変わりなく、もちろん集団的・個別的自衛権のいずれとも関係がなく、関係があると受け止められる報道は現地にも国際メディアにもない。今回の安倍首相の中東訪問によって日本側には従来からの対中東政策に変更はないし、変更がなされたとも現地で受け止められていない。
さて、さっきまで言ったとおり専門領域外については、自称専門家扱いするのがリテラシー的には良いわけです。
なので、2番の「従来の対中東政策に変更はないと現地で受け止められている」は正しそうでOKですが、
1番の「集団的自衛権と個別的自衛権の区別が議論されるのは日本だけ」というのは、ナンカ変だな?と思った方が良いわけです。
ブログ筆者は、(自称)池内恵さんであって、イスラム政治思想が専門なので、国際法の専門家では無いからです。
つまり、「素人が専門家の予測にケチをつけるのは難しい」と言うのが大前提な上でケチをつけるには、
イスラム政治思想研究を専門にやってる人よりも精度良く予測できると思うだけのナニかがなければいけないわけです。
(たまにそういうこともある。自分の専門領域で、相手よりも情報を多く入手できる立場にいる等)
もしくは、「素人が素人にケチを付ける」状態まで持って行くことが必要です。
同じ土俵でなら、技のかけようもある。
例えば「集団的自衛権は、個別的自衛権よりも適用範囲が曖昧な為、国際司法裁判所沙汰になることもある。当然日本以外でも区別されて議論されている」等。
(逆に言えば、なんか礼儀知らずの記者にその辺煩く突っ込まれて専門外なのにキレてんだろうな、という予測をした上で、塩をすり込むワケです)
あーなんか気に入らない、なにか反論したいと思った時、大抵の場合他の人が先にやってくれています。
これは「俺は素人だけど、なんとなく違う気がする」というレベルでOKです。自分の感性は大切にしましょう。
taro terahara @srgmtaro 2015-01-21 07:39:09
池内恵のこの意見は強弁。安倍晋三はイスラエルで、どうみても「従来からの政策」とは言えない「イスラム国に対抗する国々への支援」を名言してる訳だし、イスラム国からの声明にもそれははっきり示されている。従来通りの支援を継続することが理由ではなく敵対する立場の表明が理由じゃないの。
この人はどういう人かというと、http://srgmtaro.jimdo.com/profile-1/ にあるようにバーンスリー(インドの横笛)奏者で有名な人ですね。
なので、インド音楽とか、横笛の演奏技法については信頼して良いけど、今回のは専門外だなあ、と思うのがまず一歩目。
直接的にISと対峙するトルコやレバノンなどの国々にISと戦う兵力や施設を整えるためのお金を提供すると読むのが当然です。今までの政策を変更したというメッセージに受け取られても仕方ありません。
前衆議院議員の三谷英弘さんです。(残念ながら専門は知的財産権、個人情報等)
専門外だけど、流石に元議員さんなら変なことは言わない訓練を受けただろうと予測して、この発言を使いたい。
裏取り、と言うか、証拠集めですね。
なんか難癖をつけたい。既に反論書いてくれてる人がいる。使いたい。
今回は、元議員さんがヒントをくれてるので、外務省のページをググりましょう。
イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。
安倍総理大臣は「ISIL対抗の為に支援します、総額で2億ドル程度」と明確に言ってる。
次は、「従来の政策と違う」事を示したい。
が、探せども探せども出てこない。
両者は,ISILの脅威に一致して対応する必要があるとの認識を共有した。 岸田大臣からは,ISILの脅威に対抗する国際社会の連携が強化されている旨述べ,活発な広報活動への対抗,資金調達と人員流入の阻止,暴力的過激主義対策といった取組も重要である旨述べた。
米国と一致してって言っちゃってる。米国はISILには結構強気なのはご承知の通り。
(過激なオバマさんの2014年9月10日のスピーチはこちら→http://japanese.japan.usembassy.gov/j/p/tpj-20140911c.html)
イラク政府を含む国際社会のISILに対する闘いを支持し、必要な協力は惜しまない考えであり、ISILが弱体化され壊滅されることにつながることを期待する旨述べました。
更に岸田大臣から、今般、イラク国内避難民への人道支援として、新たに約2,000万ドルの支援を国際機関を通じて行うことを決定し、他の周辺国支援と合わせ、総額約2,550万ドルのISIL対策支援を決定した旨述べ、イラクの安定と国家的統一に向け、支援を継続していく旨伝達しました。
やはりイラク政府に岸田文雄外務大臣が、ISILの壊滅を期待するし総額約2,550万ドルのISIL対策支援をするよ、と言ってる。
ダメか。
ISILの脅威に対抗するため,日本は,軍事的な貢献はできませんが,人道支援やテロ対策に積極的に取り組んでいきます。今般,日本は,新規に約2550万ドルの支援を行うことを決定しました。
事務方じゃなくて、政治屋側の補佐官も「軍事的な貢献はできませんが」とハッキリ口にしつつ、ISILの脅威に対抗するために金を出すと言ってる。
テロはいかなる理由によっても正当化できず,我が国は,このようなテロ行為を断固として非難し,イラク政府によるテロとの闘いを支持します。
((文中に『テロ組織である「イラクとレバントのイスラム国(ISIL)」が』と言及有り))
そもそもテロ組織から(自称)イスラーム国に転換したのが2014年6月下旬だもんなあ。
さて、そういうわけで、残念ながら難癖の付け所は「集団的自衛権」の部分のみになってしまいました。
こういう時には「イスラム文化に関連の深い人」が、「今までは2000万ドルなのに、今回は2億ドルと桁が違う」と一気に10倍にしたところが方針変更だ、と強弁してくれるのを待ちましょう。
閑話休題。
さて、結論としてははてな村の皆さんに最も嫌われそうな「誰が発言しているかで信頼性を担保する」という結論に落ち着きました。
その道の専門家が、その道の話をしている件に対してケチを付けたい時は、慎重にしたほうが良いよ、
意外にググれば裏取りも出来なくはないよ、というお話でした。
まあ、本当は専門家も複数の見解があるはずで「この専門家って本当に専門家として大丈夫かなあ」と素人は判断できないので
そこら辺は多分、仏教の主流概念である因果と無我を説く際に邪魔になるんで語らなかったんだと思う
仏教はバラモン教と対峙するために自我を否定して純粋に因果関係だけで世界を説明しようとしたんだけど、
そこを突き詰めると世界は初期パラメータで決められたとおりにしか未来に遷移しないということになり、「じゃあ初期パラメータは誰がどうやって決めたんだよ」って話になる
「その問題を考えても苦しみから逃れられないよ?それはお前の目的なの?」みたいなことを言った。
というのが俺の理解。
この傾向は中国哲学でも同様で、諸子百家でも無神論の儒家は「怪力乱神を語らず」みたいに言って避けようとしてる
有神論で一神教の墨家はそうでもなかったんだけど、こいつらが生き残っていたらきっと今の西洋哲学みたいに発展していったんだろうなー。
http://anond.hatelabo.jp/20150117153405
次元大介の墓標 の再訂正を兼ねて
ほとんど同時に銃を抜く二人。
。。。
ほどなく敵役が崩れ落ち、主人公が警句じみたセリフを喋ったり、生きていることが明らかになる。
クライマックスにおける主人公の偽装された死と復活の一種の典型である。
余談だが、チャンバラ時代劇で侍や忍者同士の決闘でこれと同様のシークエンスがみられるのは
前述の「偽装された死」を書いていたときイメージしていたのはダークナイト(ノーラン2作目)のアレっぽいアレによる偽装だったが、
アレはクライマックスではなかったので、増田日記の流れ上はまちがっていた。
この作品の偽装された死(に近い最大のピンチ)はやはりクライマックスにあった。
怪我をおった状態の次元。次元の銃が重く抜き打ち勝負にはむかないかという情報が視聴者に提示される。
直前の要人狙撃シーンからこの間のHOWはやや複雑だが、説明付き準奇跡として視聴者を満足させるものとなっていたと思う。
2014の西部劇コメディ。2014なのでジャンル・メタ化した作品であることが宿命づけられている。
クライマックスはひ弱で射撃の上手くない主人公対リーアムニーソン演ずる凄腕悪者ガンマンである。
前半に「三つ数えたら撃つ、と言っておきながら待たずに撃つリーアムニーソン。なんて卑怯な悪者」という伏線がある。
その情報をヒロインからこっそり教えてもらった主人公も「三つ数える前に撃つ」作戦に出る。
しかし、真似された悪漢リーアムニーソンは発砲された直後から大激怒である。
だまし討ちにかけていたであろう主人公にこの後打つ手はない。ヒロインもまとめてひどい目にあうだろう。
だが…(
ここで奇跡がおき、主人公は死なず、理由が説明される。>フィナーレへ
銃撃による死の偽装はなかなか難しいように思える。
とにかく生きていたんだよ!(仮面ライダーS)方式は昭和も終わって、なかなか通用しないだろう。
だが、銃撃に限らず(ザ・松田、男塾)とにかく生きていたんだ、が巷間に跋扈しているおかげで、前述の
綾波の偽りの死に見えて偽装でなかったという妙なミスリーディングが成立したといえる。
胸ポケットのジッポのライターや保安官バッジが、銃弾を受けとめたから…撃たれて死んだように見えたが死んでいなかった。
というのも、説明付き奇跡の例ではあるが、今ではギャグでしか存在を許されないだろう。
仕事上、いつもは美人と会うことが多い。仕事仲間も身綺麗な人が殆どで、友達も、顔で選んでいるつもりはないけど、ブスと話して改めて友達はみんな可愛いなと感じ入った。普段道を歩いていてさえ、あまりブスはいないなと思う。
ブスは肌が汚く、髪は太くて多すぎ、歯が黄ばんでいて、化粧は申し訳程度。産毛は未処理だった。服装は子供のようで安っぽく、体型は大柄で骨太だが筋肉がなくだらしない。自分の話ばかりするが、表情が乏しく卑屈で、気分の浮き沈みが激しく、何の話題でも暗くする。何より会話するつもりがないのかと思うほど声が小さい。しかし心理学に詳しいと言い出す。
これが十代ならまだ許せるけれど、結構な大人なのだ。でも無職で、両親と同居しており、公共料金も払ったことがないという。
バカにするとか見下すとか以前に、呆気にとられ、どうしてこうなったのか不思議に思った。ベースになる骨格や髪質、顔のパーツの配置は確かにまずい。スタートダッシュは遅れるかもしれない。けど清潔にして、髪を梳き、綺麗に化粧をして、姿勢を正し、明るい表情をしていたら、今の何倍も良くなるのではないか?少なくとも第一印象が「ブス」となるのは避けられるのでは?
いやもう外見は捨ててもいい。なぜ何十年も生きて来て、ホームレスに見える大学教授がいるように、幸せな結婚をする芸人がいるように、会話スキルや頭の良さ、趣味の良さ、働きぶりを売りにしようとシフトしなかったのか?
本人も、初対面の相手に「怠けてきたブス」だと感じられているのを察してか、益々萎縮する。萎縮したって、実際に小さく縮んでいなくなる訳ではないのだ。萎縮した人間は余計に空気を悪くする。
かといって、迂闊に優しくすると、ブスほど手放しに施しを待っていて、あっという間に全体重をかけて他人に頼る。アイデンティティがないのか、他人の指示を待ち、無責任に従いたいようにも見えた。
本当に久しぶりに強度のブスと対峙したので、悪い意味での情報量の多さにクラクラしてしまった。
いくらなんでも、ああいうブスにはなりたくない……。それ以上に、極端なブスの存在を野放しにして欲しくない。ブスもさすがに悪臭はしなかったけれど、じゃあもっとステップを上げてみようよ。鏡と戦ってみようよ。もう手放しでありのままの姿を世に放つのは止めて欲しい。親も止めてやれよ。なんなら国や自治体が支援してやって欲しい。
いやタイトルと通りなんだけどさっき見てきたけどすごいよかった
良かった点をなぐり書きしてみる
なおかなりのネタバレはあるのでこれから見たい人は注意。読まないように。
まず映画見終わってからの第一印象はすばらしいCG技術だけではなく脚本がよく練られた映画はだったということ。
各々のキャラクターにそれぞれ一貫した役割が存在しすばらしく非常によく描けてる。
様々なキャラクターがそれぞれ役割を持って舞台を演じ、リアリティがあるのでのめりこめる
そして泣き笑い一緒に葛藤できる、それが良かった
頭が良くて才能を持て余していた弟が兄の死をきっかけに
彼が作ったロボットを通して兄の死の真実を知り人間的に成長していく
そんな話だ
で、この映画でもっとも注目するべき点は主人公の人間的な成長だ
映画監督はその点に最大の力点を置いてキャラクターに役割を振ったように思える。
まず主人公の弟について。
彼はすごく頭がいい。それこそ天才的なロボット工学のセンスをもっている。頭もいい。
しかし彼がそのありあまる才能を利用する対象は常に「自分」だ。
お金儲けをするため破壊衝動を満たすため知的好奇心を満たすため。
そしていつも周りに迷惑を掛けている困ったさんだ。
一方で主人公の兄。
彼は弟に比べたらすごく凡人だ。
これといった才能もないしロボットの知識も弟に比較して全然ない。
ただし彼は主人公にない物をただ一つだけ持っている。
それは何か?
他人を思いやる心だ。人を助け合う心。それは弟には決してないものだ。
まず彼は自分の弟を思ってる。
自分の弟の才能を適切な道に導こうと、くすぶってる彼をなんとか羽ばたかせようとする。
そして教授を助けるために無謀にも火の中に飛び込んで命を落としてしまう。
彼は優しい心をもっている。
ベイマックスは決して人を傷つけない。
なぜなら兄は破壊衝動を満たすためではなく知的好奇心を満たすためではなく人を助けるためにロボットを作りたいと思っている。
彼の関心や興味は全て他人へ向いている。
力だけでは決して手に入れることのできない強さを持っている。
そんな兄がベイマックスを残して死んでしまった。一人残された弟。
途方に暮れた弟はどうするか?
自分の破壊衝動や復讐心にとらわれベイマックスを改造し兄を殺した犯人を捕まえにいく。殺しに行く。
改造で強化されたベイマックスは彼の心をそのまま映しているように思う。
いやそれは違うだろう。
「人を幸せにする」という本来のベイマックスの役割を理解する。
それは助けるためだ。
そして今まで気付かなった点に気付くようになり、復讐が本当の目指すべき道ではないことを知る。
この映画は典型的なヒーロー映画のように見えるが、実のところ本当の悪役は基本的にいない。
一方的に善と悪を対峙させてお決まりのパターンでヒーローが勝ち町に平和が訪れる。
そんなストーリーでは決してない。
一点の迷いもなく自分の身を呈して人を助けようとする。
それは燃え盛る炎の中で教授を助けに迎えにいってなくなった兄の姿と重なるようであった。
そしてベイマックスとのお別れ…
それはただ単に力が強いだけ、頭がいいだけでは得られない本当の強さだ。
そんな成長を遂げてエンドになる。
細かいところはちょっと違うかもしれないがこんな感じの映画だった。
すごくよかった。
■本文。
うう……今回こそちゃんとゲームレビューをやろうと思っているんだけども、とりあえず、前回の思考の続きから入ります。いや、書かないとイライラして、安心して本題に入れないんですよ……。
まず、美少女ゲームの主流が、オブジェクト嗜好による「萌え」至上主義に至った理由を考えると、前にも書いたけども、次のステップとなるべき目標が不明瞭になっているからだろう。社会的な成功といったものに価値を見いだせない世界であるために、細分化された個人主義……拡散という現象になるのだろう。もっとも、求心力のある価値観を求める動きが無かった訳ではないのだけど、それは、エヴァンゲリオンで暴発した結果、衰退し、その後は保守反動的な状況がずっと続いている。
これは、過去においてもそうで、アニメを取り巻く言論は、『うる星やつら~ビューティフルドリーマー』など、問題作が次々と出現した、1984年を頂点に、アニメ情報誌として特化されたニュータイプが台頭してくる80年代後半にかけて、急激な反動化が起こっている。以後、閉塞に伴う縮小再生産を繰り返しながら、消費スピードは加速していく。また、ゲームという媒体が台頭し、それが大量消費に適した媒体だったことも、更に状況を加速した。
結局、そんな閉塞が行き着いた状況で現れた、エヴァンゲリオンという暴発の反動で、何も考えたくないという心境に陥った人々は、萌えという言葉で思考を止めて、大量消費を自己肯定する事で精神の安定を求めているのだと思う。現在は「閉塞による安定の状態」と考えてもいいだろう。だけども、極端な状態には変わりはない。
おそらく、創作にしろ、批評にしろ、これからは商品という手段をもって、極端な両者の格差を埋める作業が必要になってくるだろう。また、そうでなければ肝心な人々には届かないと思う。そのためには、バランスの取れた商品が必要になってくる……やべ、今回こそきちんとゲームレビューをやらなくては……。
さて、いきなりあからさまな発言なのだが、『フロレアール~好き好き大好き』というゲームを買う動機は、メルンに萌えるか、前作『好き好き大好き』の続編(?)だから、のどちらかだと思う。メイドで、妹(的キャラ)で、ロリという、現在の美少女ゲームにおいての最大公約数的な設定のキャラクターであるメルンに、ヒロインを一本化したことは、『好き好き~』に比べて、牙を突き立てる対象……もとい、購買層の狙いを絞ったことを伺わせる。だが、『好き好き大好き』をプレイした人にとっては、『フロレアール』には別の期待があったはずだ。
実は、筆者も後者に属していたのだが……結論から先に書いてしまうと、どちらの期待も最終的には超越してしまった感があるのだ。
『好き好き~』が、自己の内面とひたすら対峙する内容……ヒロインの存在はあっても、ヒロイン像は自己の内面にのみ存在しており、その内面が現実との摩擦で生じるギャップに物語としての強度を求めた……いわば、変化球的なアプローチだったのに対し、『フロレアール』の場合は、メルンとのコミュニケーションから生じるギャップから、自己の内面を浮き彫りにする手法を採っている。言ってみれば、正統派でストレートな演出を行っている訳だ。そして、その演出を反復することで、物語の強度を上げているし、あくまでメルンという中心軸を崩さないあたりは、非常に慎重でもある。
まあ、筆者も某誌のレビューでは『好き好き~』を「プレイする人を選ぶゲーム」と書いたのだけど、今回はむしろ、「こんなに分かりやすくしていいのか?」という感想を持った。確かに、平気で会話の中に「ハイデガー」とか「象徴交換と死」なんていう固有名詞が出てくるので、敷居が高い印象を受けがちなのだが、そういう単語に頼っている訳ではなく……シナリオの中で、普遍化する作業がきちんと行われているので、意識しなくても意味そのものは把握できるだろうし、作り手の思考が一貫しているため、むしろ分かりやすい作品になっている。
そして、この認識を間違えると食わず嫌いでもったいないことになる……というか、『フロレアール』は、結果として、両者の中間を行ってしまったのだ。これは、どちらの期待をしていた人にとっても、予想外の事態だったと思うし、ニーズを意識した上での意外性には、商品としての誠実さも感じられた。
だけども、物語としての強度が、商品としての強度とは必ずしもイコールにならないという状況がある。完結する物語や、密度の高い物語にユーザーが興味を示さないというか、ユーザーはバランスの取れた作品より、歪んだ構造の作品に惹かれるのが、現在の状況である。
確かに、物語を楽しむということは、「自分の人生と違う人生を体験する」ことだけども、それは、「何も考えたくない」「楽しいことだけ考えたい」という意志を肯定するものではない。そういう態度は、あまりにも想像力に欠けた姿勢だと思う。基本的に創作や批評という行為は、想像力の限界を拡げるような意外性と強度を持つ必要があると筆者は考えている。それは、「萌え」とか「泣き」という、偏向した一つの感情ではなく、喜・怒・哀・楽、全ての感情を刺激して、初めて成立するものだと思う。何故なら、想像力の欠けた世界は、縮小再生産へ向かうだけだからだ。……まあ、青臭い理想ではあるのだが。
偏向したニーズに合わせて、偏向した物語が生み出され、大量消費されていくという、最初から意外性を排除した状況からは、当然、意外なものは生まれないし、想像力の限界は決して拡がらないだろう。
だけども、巨大な意志の集合体としての「市場」を無視しては、届く訳もないし、商業的にも成立しない。作家性と商業性の相克という問題は、本来、作り手と呼ばれる人々が抱える基本的なテーマだったはずなのだが、オブジェクト嗜好による極端な記号化という、個人主義の究極的な所まで解体されてしまった世界では、作家性や意味といったものは、ノイズとしか扱われないので、意味の伝達そのものが困難で、作家性自体に意味が見いだせなくなってくる。従って、慎重なバランス取りを行った『フロレアール』の誠実さが、単なる徒労に終わる可能性は高いと言わざるを得ないのだが……。
そして、批評が追いつけないのは「個人」による創作ではなく、巨大な意志の集合体としての「市場」なのだ。深く閉塞し、肥大し拡散していく状況に追いつけないのだ。
結局、物語と記号はどちらも極端な……両極と言える位置に離れてしまった。しかし、その両者はコインの裏表でもある。そして、両者を繋ぐものの可能性はどこにあるのだろうか……と、ぼやけた頭で考えているのだけども。
確かに、新マシンを買ったこと自体は嬉しいんだけども、鬱の症状は悪化の一途で、あと何回この連載が続けられるか分からないし、自分がどうなるかも分からない。本文ではああいうことを書いても、自分に関しては、批評する意義とかは既に分からないし、実際、だんだん書けなくなってきているし……考えていると、際限なく落ちていきそうで……とにかく、このコラムは自分への認知療法なのだと割り切って書くしかないんだろうなあ……新マシンで貯金ゼロになってしまったし。いや、実は、うかつに貯金があったりすると、逃亡の旅に出てしまいそうだったんで……という訳で、来月は本当に未定です。どうしよう……。
■本文。
今年上半期の美少女ゲーム業界を見渡すと、市場の拡大に伴う、保守化の流れに向かいつつある感がある。これは、おたく業界全体が内包している問題ではあるのだが、正直な所、拡大する市場を追いかけるのは既に辛くなっている。個人的にも、久々に行った秋葉原で、ギャル絵の洪水に立ち眩みがしたのも確かだ。
さて、コンシューマ市場は肥大したが故に、一般性の高さが必然となっていった。例えば、ドリームキャストの失敗は、古くからのセガファンが放つ、マニアックな重力から作り手の側が脱する事ができなかったが故の悲劇とも言えるのだが、一般性ばかりを追い求める状況は、作り手の側にも不満が蓄積されていく。
その、取り残された創作性を実現させる場所として、美少女ゲーム業界が成立したという背景がある。実際、筆者が一番面白かったのはDOSからWINDOWSへ移行する過渡期で、けったいな野心作が多く出た時期だったのだが、その後、市場として、成長・拡大すると、やはり、メディアミックスなど、資本主義的な視線が入り込んできた。
そして、今の美少女ゲーム業界は、昨年来からのレーベル数の増加と、タイトル数の増加と反比例するように、ゲームのジャンルの多様性が失われる傾向が生まれている。タイトル数の増加の背景に、発売サイクルの短期化があり、制作期間の短縮に伴い、システムやシナリオの練り込みが薄れている作品も多い。バグなどの不具合の発生が日常茶飯事になっていて、インターネット上での差分ファイルの配布が流行している現状に至っては、もはや何をいわんかや、という感じでもある。
不幸中の幸い、筆者はそういうゲームにあまり遭遇したことはないのだが、シナリオの練り込みが足りない上に、一時間程度で終わるゲームの為に一万近い金を出すのは、効率が悪いよなあ、という心境は間違いなくあるだろうと思われる。また、メイドものや恋愛ゲームがタイトル数の半分以上を占めるという状況では、やる気そのものが起きなくなってくるのは事実だ。
まあ、メディアミックスを基盤とした企業複合体のシステムに組み込まれた大手では、実験的な企画はほとんど通らないという話もあるし、一獲千金を狙う中小メーカーも、安全パイの企画しか通さない所が増えた。市場が拡大すればするほど、ジャンルが逆に淘汰されていくというのは、当然と見るか、皮肉と思うべきなのだろうか……。
このような、メーカー側の風潮と相互作用しているであろう、ユーザー側の意識についても、前回、「オブジェクト嗜好」と指摘したように、非常に即物的な傾向を示している。キャラクターの消費サイクルが非常に早くなっているため、自己の内面においての批評的な掘り下げが生まれなくなったのだ。
既に、ゲーム誌の編集者すら、全体を把握しきれない程、美少女キャラクターが氾濫している現在の市場状況では、その心性に惚れ込むのではなく、快楽的な記号の組み合わせだけで、売れ線のキャラクターが成り立ってしまう。あまりにも多い選択肢に対峙した時、人間というのは表層的で直接的な視覚イメージを優先してしまうからだ。
ところが、快楽的な記号を積み重ねれば積み重ねるほど、どんどんキャラクターはフリークス化していくし、リアルな少女像から離れれば離れるほど、逆説的にキャラクターがイノセンスを獲得して、ユーザーはヒーリングされる……といった構図になっているのだろう。多分。
何故、おたくのセックス観がリアルな肉体から遠く離れなければならないのかを考えると、それだけでこのコラムの3回分になってしまう位に深くて浅い問題なのだが、やはり、日本の特殊なフェミニズム環境が背景に存在しているような気がしてならない。これほどまでに、二次元の美少女を消費しなければならない、内的な問題とはいったい何なのかについては、また改めて書くとしても、これらの背景に、戦後日本の構築した、過剰な消費社会のターゲットが若者のみに向けられ、若さの素晴らしさや、青春の幻想をメディアが強調しつづけた蓄積の結果であると思われる。その副作用として、「オブジェクト嗜好」も含めた、おたくの奇妙な性嗜好が構成されているようにも思う。
これは、日本独自のフェミニズム的なものに対する、無意識下での抵抗と位置づける事もできるし、その中で形成された美少女概念と現実のズレが生み出した現象ともいえる。現に、美少女ゲームにおけるヒロイン像の大半が、十代中盤の保守的な少女に設定されているのは、当たり前と言えば当たり前だが、不自然といえば不自然でもある。だが、少なくとも、筆者はこの状況を全面肯定できるほど、気楽にはっちゃけられないのだ。
しかし、同じおたくの枠に括られているとはいえ、メタ的なものやフェミニズム的な表現を賛美するサブカル好きなおたくと、ひたすら癒しを求めて空想世界に依存し続ける昔気質なおたくは、明らかに正反対の方向を向いているし、それ故に、前号の本誌「オタク定点観測」にもあったが、双方の感情的な対立も表面化している。だが、前者には普遍化させようという意志が欠けているし、後者には相対化する視点が欠けているので、おそらく、どこまで行っても歩み寄ることはないだろう。
まあ、自分のことは棚に上げるが、本誌のコラム陣もまた、サブカル否定・おたく保守の傾向が強すぎるようにも思うし、最近はあらゆる所で極端な対立が起きるので、さすがにどちらかに与して云々という気持ちも無くなってしまったのだが、おたくという言葉が生まれて、15年の歳月が経ち、その括りだけでは収まりきれない時代になっているのだろう。美少女まんがはそれぞれのニーズに応えようとして、遂に80誌を超えようかという所まで肥大してしまったが、ならば、美少女ゲームはどうなっていくのだろうか?
加えるならば、前回の原稿を書いている時にインターネット上でぶつかった、萌え派と泣き派の思想的対立というのも、拡大する市場と、それに伴う価値観の拡散に伴う混乱、そして、批評軸の喪失といった状況が、結果、ユーザーの思想を脆弱にしてしまったという意味では、分かりやすい例だと思う。
快楽記号が多くてキャラクターに萌えられるから良いゲームだ、とか、心の琴線に触れて泣けるから、良いゲームだ、というのは、はっきり言って、どちらも同じ穴のムジナだし、良いゲームかどうかを決めるのを、一元的な価値観のみに拠って決めること自体が、ゲームの本質を歪めているようにも思うのだ。そして、作り手の側も、「時代がそれを求めている」とかいう言葉で、その表層的な状況をそのまま受け入れているようでは……なんだか、ヒヨコが先か、タマゴが先か、といった話になってきたのだが、もう、この世界は良い方向へ向かうことは絶対にない、と言わざるを得ない。これは、鬱のせいばかりじゃないと思うし、美少女ゲームに限った話でもないのだ。
批評軸の無い世界は自由に限りなく拡散していくのだろう。だけども、空洞化した世界には秩序は生まれないし、結局、内面の闇から逃げる為に、無意味な祭りを繰り返すのだろう。そして、絶望と祭りを行ったり来たりする筆者の心は、まるで墓場と酒場を行ったり来たりする沢田研二のような気分なのだ。ダバダバダバダ(意味不明)。
■暑くて憂鬱な夏の総括。
なんか、またゲームの話をしなかったなあ、このコラム。最初は普通にゲーム評をやるつもりだったんだけど、すっかり別物になりつつあります。ごめん。しかし、ゲームのことを書くと、褒めても褒め方が気に食わないと文句付けられるらしいので、いっそ全く書かない方がいいのかも知れない。まあ、これは某メーカーの広報誌と化した、とあるコンシューマ系ゲーム雑誌で書いている友達の台詞なので、美少女ゲーム誌では、そんな事はないと僕は信じているけどねっ☆