はてなキーワード: モヒカン族とは
匿名で、かつパーマネントリンクのある書き込みができるという、ある種画期的なシステムの「はてな匿名ダイアリー」別名「増田」。しかし、そこには議論が追いにくいという構造上の欠陥がある。
それは何か。
それは男女間の憎悪が渦巻き社会的地位の格差から罵詈雑言が溢れているというものだ。
そこでわたしは2006年の書き込みを読んでいたのでここで紹介しておきます。
■一部のはてなダイアラーの特徴
『はてな』(はてブ、スタッフのパロディ化)やネットコミュニケーションに関する話題が好き。ダイアリーでよくネタにする。
ライトノベルやエロゲーが好き。2次元キャラクターが好き。いくばくかの恥じらいがあっても2次元が好きな自分に誇りを持っている。
知識は新聞や書籍ではなくGoogleや、はてブやブログから要領よく手に入れられるものと信じている。百歩譲っても、教養なんて新書を読めばサクっと身につくと考えている。
コンピュータ関連の技術にあこがれている。習得したい。モヒカン族になりたい。
「いまはまだその時ではないけど、このままブログを書き続けていれば、やがて誰かが自分のすごさに気づいて取り立ててくれる」とぼんやりと期待している。
実年齢は大学生から社会人(30代)ぐらいだが、精神年齢は高校生(注1。
注1)リアル高校生で精神年齢が中2だったり、リアル中2ということもあるだろう。メタ談義好きのクラスターに参加しようと、簡単なことを言うためにわざわざ小難しい表現を使って背伸びするんだけれど、テキストの端々に学校生活臭。
これを読むと2006年当時のはてな界隈が想像できるんじゃないか。
フェミや政治ネタなんて無いただ単純に技術的な話ができる場所であったようだ
。(ニワカだとしても)
○ご飯
朝:なし。昼:酒。手羽先。サラダ。パスタ。夜:チキンカレー、ジャガイモとオクラのカレー、ナスキーマカレーの三種のあいがけカレー。
○調子
○アニシャドF
アニシャドの縦軸の話全部ほったらかして、この二人の関係値だけを延々とやってほしい。
時々アリスとミモリを交えてほしい。
大好きこのアニメ。
宝箱全部開ける程度にはモチベが高い。
楽しかったーーー。
コインをいっぱい集めると言うサブ目的のおかげで爽快感あって楽しいコースが多かった。
DLCコースはどうしようかなあ、ちょっとピンとこないからパスかな。
サンシャイン>NewWii>New2>3Dランド>ワールド>ランド2>3>1>ランド>ギャラクシー2>ギャラクシー>64>2>NewDS>USA
って、これメーカーはどうするんだろ。最初から入ってるコースだけ遊ぶとかかな。まあ一旦飛ばすか。
○NewスーパーマリオブラザーズU DX
というわけで早速購入してプレイ開始。
今日はブンブンを倒しただけ。2Dマリオでブンブンめっちゃ久しぶりだな。3Dだと3Dランドであったばっかりだけど。
あと急に全然脈絡のないこと書くけど、クッパ七人衆全く覚えれない。
名前は言えるんだよ、ラリー、ロイ、ルドウィック、ウェンディ、イギー、レミー、モートンでしょ。
で、紅一点のウェンディ、髪の毛ふさふさのルドウィックは見た目が違うから大丈夫。
この中でロイはスマブラで散々擦られたからグラサンがロイで、そうじゃないのがモートンって覚えれた。
誰が誰だかさっぱり覚えれなくない?
ネイティブアメリカンのモヒカン族のことだと思ってたんだけど、あれって北斗の拳のモヒカンだったのね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%97%8F_(%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E)
最近の若い人は知らないだろうけと、はてなにはむかし「はてな村」というのがあってね。
その村では論理的に間違っている人はボロかすに叩いていいという悪習があったんだよ。モヒカン族とか手斧の投げ合いとかいってね…いや細かい話はどうでもいいな。
その残滓というのかな、残穢というべきか。はてブにも論理的に間違っているやつはぼこぼこにしていいという風潮が残っているんだ。やっぱりそういう、コミュニティの文化、雰囲気みたいなものは残るんだと思うんだよね。
今のとその前の自民党政権は論理的に考えて穴がぼっこぼこの政権だったし首相も突っ込みどころ満載だから、はてブの人たちはもちろんぼこぼこにするよね。しょうがないことなんだと思うよ。
中韓は~とかの差別発言は論理的に正しくないから、そういうのには乗らないんだな、この人たちは。
もちろん誰かが論理的に間違っているからってその人を叩いていいことにはならない。でも相手が権力者だったり権力そのものだったらその限りではないからね。仕方がないね。
それは10年前の話で、2020年現在は東京はトップではない。
ソース:http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2017.asp?fname=T12-37.htm&title1=%87%5D%87U%81D%93s%93%B9%95%7B%8C%A7%95%CA%93%9D%8Cv&title2=%95%5C12%81%7C37+%93s%93%B9%95%7B%8C%A7%81C%90%AB%95%CA50%8D%CE%8E%9E%96%A2%8D%A5%8A%84%8D%87%28%90%B6%8AU%96%A2%8D%A5%97%A6%29%81F1920%81%602015%94N
ITが業界として成り立ち始めた当初から、IT業界全体にリベラル気質があふれていた。
それはApple IIのようなパソコン文化だったり、BSD・Linuxといったオープンソースだったり、あるいはM$帝国といったアイコン化などでもよく分かる。
IT関係者が当初のユーザーに多くいた"はてな"、特に"はてなブックマーク"にも、それは強く表れていた。
自由な環境を好み他人に寛容な典型的なリベラル気質の人が多く、東アジア諸国を見下すような愛国主義的なネトウヨもいないわけではなかったが見下されていたように思う。ただ、軽く見られて相手にされていなかったというところかも知れない。
いつの頃からかよく分からないのだが、"はてな"の特に"はてなブックマーク"の雰囲気が変わり始めた。
それはIT関連の記事がホットエントリーに上がらなくなってきた頃からか、政治や社会の記事がホットエントリーの常連になってきた。世間的には民主党政権の前か、最中か、後か、どうなのだろう。
それと共に、寛容さは失われ、攻撃性が増してきた。
「汚物は消毒だ~」というフレーズと共に半ばジョークとして半ば真剣に語られていた「モヒカン族」が、特にジョークであったはずの部分が現実化してきたようだ。元々「モヒカン族」は論理の棍棒で相手を打ちのめすという合理性と暴力性の合わさった存在として恐れられていたが、その合理性が独善化して自己完結化した結果、自分の正義に合致するか否かで暴力を振るう相手を特定し攻撃を正当化するように変容していった。これは、モヒカンの各氏が変わっていたのではなく、モヒカンを許容する"はてサ"社会が変わっていったと考えるのが正しい。
それは、表現規制やフェミニズム、その他様々な社会問題・政治問題でよく観察される。
一方、現実社会では、民主党の政権奪取と凋落などもありリベラルという看板が色褪せてきたためか、あるいは大陸中国の台頭もあって国際協調路線から民族主義的な危機感からか、世の中が左翼的な傾向から右翼的な傾向へ移行し始めている。それは、リベラリズム・グローバリズムが自分を救ってくれないという限界に対する失望感なのかもしれないし、対照的に自分を助けてくれそうな地域社会から見直しているからかもしれない。
"はてサ"が変わっていった一つの要因としては、そういった現実社会でのリベラリズムの退潮と無関係ではないだろう。
正義が揺らぐとき、その正義の正当性の是非が問われ、是であれ非であれ互いに正統性を主張することになる。それは寛容さを失わせ、自分の考え以外を異端と排除する方向へ向かうことになる。
正統性を求めるあまり狂気に走った事例というのは、古くは宗教戦争からフランス革命のジャコバン派の暴走、スターリン粛清・クメールルージュの虐殺など数えきれないほどある。昔から、人を狂気に駆り立てるのは、悪ではなく正義なのだから。
いずれにせよ、そのようにして"はてサ"の寛容さは失われた。
"はてサ"でも現実社会の左派でも結局残ったのは、他人に対して攻撃性を示す人たちばかり。政治の世界でも、報道でも、自らの正当性を主張して他人を非難・攻撃するのが左翼の姿になっている。かつてケネディが言った「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」という精神は、現状のリベラルの中には全く残っていない。
そのような有様で党派抗争に夢中になっている人々からは、何かを成し遂げようとする人は離れていく。
何かを成し遂げるためには、党派抗争は有害で邪魔なだけなのだから。けれども中にいる人には、その党派性こそが守るべき正義であり全てであるから、離れる人をも攻撃してくる。不正義に協力していると。そして更に教条的になり、異端排除、先鋭化していく。
もう、"はてな"ユーザーの中には、新しく何かを産み出すという気質は失われてしまったのだろう。
それは仕方のないことかもしれない。
はてなブックマーク - なぜ著者や編集者は「書店で買ってください」「初速が大事なんです」と言うのか|平林緑萌|note
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/moegi_hira/n/nea1769736db5
これは『応援したいと思っている人はそうして下さい』とお願いしているだけで。そう思わない人に何も言ってない。この方自身も普段はamazonにリンク張ったりしているし。
だのに、全てを焼き払いに行く人気コメント主達、やれ旧弊の権化の出版業界は出版社も流通も本屋もまとめてなくなってしまえ!消費者に指図をするな!ケツを拭かされる理由は無い!お前らは淘汰される側だ!システムの不備を消費者に押し付けるな!などなど。
https://digital.asahi.com/articles/ASL8R4S75L8RUCFI00B.html
回答としてとても全うで、納得のいくものだった。だったのだが、当然回答者が岡田斗司夫である以上、「朝日新聞は岡田斗司夫が指導者という立場を利用したりして精神不安定な女性数十人と異性関係を持ったことが判明したあとも、彼を切らなかった。metooと程遠い人権感覚の会社だと思ってる。 」というブコメがついている。
ブコメをつけた人を非難したいわけじゃなくて、これは正にme tooにおけるある種の「正義」の本質を表している。つまり、「言動そのものや、その人が作り出したものの是非ではなく、その人の社会的状況に応じてその人の言動を判断する」。
これは、不正義の是正を誰かに任せるのではなく、評価者自身の判断で不正義を是正するものだ、ということになる。一面の真理はあると思う。社会は完璧ではないので社会や公的機関が必ずしも正しい在り方をしているわけじゃなく、それを正すのは社会に生きる人間であるべきだ。そのような仕組みが市民社会であり、社会的不正義に対して暴動や大規模なデモが起きるのはある種「健全」なこととは言えて、そういう事例が散見されるアメリカやフランスと違ってどうして日本は……という話題は、本筋からズレるので閑話休題(こういったある種の国ごとの政治態度や市民感覚の違いをまとめてる研究書どっかにないですかね。真面目に読むので割と本気で募集している)。
そういった考えの裏には、実のところかつてのモヒカン族とは全く逆の価値観がある。評価するかしないか、という価値判断だ。
上記の例で言えば、岡田斗司夫は評価されていい人間かどうかである。とりあえず自分の評価は差し控える。その全く真逆の例で言えば、〈ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー〉シリーズの監督を務めていたジェームズ・ガンが、過去の不適切なツイートを理由にシリーズ監督から降板させられた事件だ。その二つの違いはなんなのか。違いはいくらでも挙げられる。実際に問題になっているのが実在の女性との実際の関係に関する話題か、不特定多数に対する言及だけか。日本国内で活躍する批評家か、全世界的にヒットした作品を生み出した監督か。社会的な評価の違い。味方についた人がどの程度いたか、それが大きく報じられたかどうか。「不正義」とされるものは白か黒かではなく様々なグラデーションが存在し、「灰色は白である」=推定無罪の価値観はあくまで刑事事件=公的権力が市民を罰する際に発生するものであり、このような違いが発生するのは当然である。だが一方で、ジェームズ・ガンは擁護されるのに、『二度目の人生を異世界で』の原作者「まいん」氏が炎上した挙げ句にアニメ化が中止になるのは当然であるとされる。問題発言が日本における大きな政治的争点かどうか、という違いはあるが、それ以上に大きな違いは、2人がどんな作品を書いていたか、と言ってしまっても差し支えないのではないか、と個人的には思っている。一方で、慰安婦を揶揄していた「月曜日のたわわ」の比村奇石はさほど炎上せずに未だに活動を続けている。比村奇石が炎上しないのは不思議だなと思っているが、とはいえ自分自身、「うっわー気持ち悪いことしかやってねーなこの人、でもめっちゃエロい作品書くな。もっとやれ」って思いながら毎週月曜日を楽しみにしている。しかし本当に邪悪。
雑多になってしまったが、何が言いたいかというと、me tooというのは「何が正しいか」ではなく「どんなかたちの正義を指示するか」というある種の価値観、雑な表現であるところの「政治的態度」を求められている。正義に対するコミットメントである。だが正義は一枚岩ではなく、黒と白の間には無限のグラデーションが存在し、結果me tooのような価値観はある種のダブルスタンダードを許容する。
社会において「理性的判断」というのは存在せず、人間は社会のなかでしか行動ができず、社会のなかで行動するなら結果的に社会にコミットしなければならない。あたかも村上春樹がデタッチメントからコミットメントへの転換をした(「せざるを得なかった」と言っていいのかは、正直わからない)ように、これはある種当たり前のことなのだが、その事実を前に困惑するひとは少なからずいるのではないか、と思っている。自分は比較的その変化を受け入れている側の人間ではあると思うが、困惑する人間がいるのはよくわかる。人間は矛盾する生き物だからね。
だがはあちゅうてめーは駄目だ。