はてなキーワード: 一冊の本とは
いい加減疲れてきていてとにかく終わらせたくて仕方がない。
せめて第一章の終わりぐらいにはさっさとたどり着きたいと毎日思っている。
じゃあ適当な所で人生を区切ればいいじゃないかと周りは思うだろうが、今の状態でどこから切ってもバットエンドにしかならない。
人生の中でとりあえずいい感じにゴールした瞬間がなさすぎる。
例えばスポーツの地方大会なり読書感想文コンクールなりでもいいから一度でも一位になれば「とりあえずそこまでの集大成が出た」で一度切り上げられる。
そう言えるようなものが一つもない。
おそらく多くの人がこういう感情を何処かで抱いているから、壮大な結婚式なんかをやって「自分たちの人生は一度は高い山に登りましたよ」とアピールしたがるのだろう。
実際問題として30年もダラダラと終わらない敗北の物語をしているのはしんどすぎる。
そういうものだと人生を割り切るには多くの物語を浴びせられ続けてしまった。
自分の人生を一冊の本のように眺める癖がついて、自分は主人公なのだと思ってしまう。
負け犬として転がり落ちるだけで終わる物語なんて創作のプロが手掛けるものであり素人がやるのは得てして安易なハッピーエンドだ。
自分が自分の人生を綴るときにもそれは同じで、大抵の人間はハッピーエンドにならなければ成立しないような物語として自分のこれまでを自分に書き込んでいってしまう。
だが訪れなかった。
受験も就活も趣味も仕事も、ダラダラとした惰性の中で妥協を繰り返して、世間が作り上げてきたものの落ち穂拾いで何とか食いつなぐようなことばかりしている。
なんのゴールもない。
成果もない。
ひとまずのエンディングとしてスタッフロールを差し込んでしまえるタイミングがない。
バッドエンドだというにしたって、画面にゲームオーバーと表示してタイトルに戻すだけで、バッドエンドなりのスタッフロールさえ流せそうにもない。
その苦しさから逃れるために毎日のように人生にフィナーレを求めてしまう。
どうでもいいような物事に「この瞬間を迎えるために人生を生きてきたんだ」という感動を期待してしまう。
そんなハードルを乗り越えられるようなものなんて、自分が作り手として関わりもしないなら世の中にはないわけだから、当然のように全てはそれ未満の期待外れに終わる。
いい加減こんなことは辞めにしたい。
しんどすぎる。
性的消費や性的搾取は定義が先にある言葉ではなくて現象が先にある言葉だからな
現在女性が社会的ミームや広告やメディアや文化風俗その他、性的選択や性的自由を軽視される人権軽視を受けているもの
どこからがセクハラで何がセクハラじゃないのか?どこからがパワハラで何がパワハラじゃないのか?どこからがイジメで何がイジメじゃないのか?的な
主体性や人格を置き去りにして女体や性シンボルとして記号化が行われてる状況とでもいうのか
本人が望んだプライートな場などでの主体的「性的自由」以外のケース、つまり本人が積極的に望まない場合に性的に扱われないことを当然に期待できる人格的尊厳の毀損のこと
本人に悟られないようエロい目で内心見てしまうのは「人を性的に扱う」ではないが、言動として外に出したら「人を性的に扱う」となる
公共の場や望まない場で「性的客体化」を拒む自由、「記号化」されて女性性を扱われない自由というかな
主体×主体としての性ではなく、女性が一方的に鑑賞・評価・嗜好品等として性的充足のために扱われる客体化されることでの性的自由の侵害のこと
ワイは堅い説明ばかりしちゃうタチなので分かりにくかったらすまん。柔らかい説明は他の人に聞いてくれ。
アンチフェミって低学歴なこと多いので理解力なくて何度説明しても分からんやつばかりで説明に疲れたから面倒くさくなってフェミニストさんはみんな説明しやんのやろ、、多分、、、
「望んでAVにでてる女はいない」という主張の具体的意味は次のものが思いつくな。実際そのフェミニストがどの意味で言ってるかは不明だが。
・AV業者の大人たちが複数人でまだ社会常識のない20歳などの子供を囲って断りにくい雰囲気で契約書にサインさせて、もしくはホストやスカウトとグルでなかば洗脳的にAVに堕としてるパターンのことを指してる
・AVスカウトの常套句「バレない・○○には載らないから出てこない・あとで消せるよ」などを騙してると呼称してるケース
・AV女優に結構いるらしい、軽度知的障害者などを言いくるめているパターンのこと
・女性を経済的に困窮させる経済的差別をしながら生活保護課では風俗を勧める一連の流れを指してる
・自ら望んでAVに出演した女性は保護を必要としないので例外としてそもそも話題の中に入ってないケース
・AV女優や風俗をカジュアル化させて気軽で大したことがないかのような雰囲気作りを随所で行ってることを子供を騙してると呼称してるケース
・風俗斡旋業者の羽振りの良さや借りただけのブランド品等を使った営業を騙してると呼称してるケース
・日本の性教育や人権教育の乏しさからくる権利意識や自尊心の乏しさを指して男(政治家)が認識を捻じ曲げて正常な判断能力を奪ってると呼称してるケース
・AV界隈が性犯罪者やアウトな人物を起用した真っ黒運営も行ってきたにもかかわらず自浄なくそのままそれらを擁してるにも関わらずキラキラプレ芸能界的な皮を被ることを指して騙してると呼ぶケース
・取り返しがつかないリスクの極めて大きな企業対個人の契約であるため、未だ十分な個人の権利保護の法整備がなされてないという意味で使われてるケース
・日本社会全体の性的搾取を大したことない・よく分からないとして軽視した風潮そのものに影響された性的搾取に過剰適応している女性のことをそう呼んでるケース
まだあるかもしれん。かならずしもそのフェミニストさんが合ってるか間違ってるかは分からん。所詮は市位の有志なので女性学の専門家というわけでもないなら全ての人が必ずあってるわけじゃないからな
正しいことを言ってるフェミニストさんだけ支持したらええよ
パッと思いつくのはこんな感じかな。分かりやすいといいのだが。長くてすまんな。フェミニストも個人が毎回一つ一つ説明しきれないのかもな。
まあこれだけで多分一冊の本が出るレベルなんで、詳しく気になったらフェミニズムの本を色々読んでみることをお勧めするよ。これからの社会平和には必要だよ。
先日ホットエントリに入っていたブログエントリ、Colorful Pieces of Game『書籍「ゲームの歴史」について(5)』にて、
との言及があった(現在は修正済)ので、校閲業界では若輩者の私ですが、書籍の制作において「校閲は何をしているのか」を少しばかり紹介しておこうと思い立ちました。
まず前提としてご理解頂きたいのは、一冊の本が世に出るまでには様々な工程を経るわけですが、その中で校閲が関わるのは「かなり後のほう」という点です。
書籍の制作において最も時間を要するのは「筆者が原稿を完成させるまで」、次いで「社内の了承を得て刊行が決まるまで」のプロセスだと思われますが、校閲の出番は更にその後です。通常、校閲にゲラが回ってくる段階では既に発売日・刊行部数etc.が決定しており、余程の(筆者都合の)問題でも起きない限り(*1)動きません。つまり、「企画に無理がある」「内容がおかしい」といった理由で刊行を延期ないし撤回させる権限は、そもそも校閲には無いわけです。
校閲者でもフリーランスなら「降りる」という選択も可能ではありますが、企業に所属している場合だと、誰かが作業を引き受けざるを得ません。こうなると、多くの場合は「誤字・脱字etc.のチェック、および最低限(=具体的には固有名詞・年月日etc.)の事実確認のみ行う」という対応となります。
「ファクトチェック」という言葉も指す内容が広いのですが、最優先でチェックすべきは、前述したように固有名詞・年月日etc.です。その次に、筆者の行った引用・要約etc.の確認作業(*2)が来るのですが、その際に「筆者の主張は妥当か」という評価を下すことは、校閲の権限を超えています(*3)。
そもそも筆者は誰よりもその分野に詳しいから本を書いているのであって、その内容を筆者以上の緻密さでチェックできる人間は、論理的には存在しないはず。そして、筆者の主張を世に出すことが妥当ないし有意義だと編集者・版元が判断したから、企画として動いているわけです。こうしたことを踏まえれば、校閲者の有する権限が編集者に比べるとかなり限定的なものに過ぎないこともお分かり頂けるかと存じます。言い換えますと、筆者・編集者が「内容はグダグダでも構わない」と開き直っている場合、校閲に抵抗する余地はありません。結果として事実誤認のオンパレードと化した本が世に出てしまった場合、その咎は筆者と編集者が負うべきである、と一介の校閲者としては考えます。
また、「チェックしようがない事柄」も存在します。例えば、筆者が行ったインタビューを基に書かれた原稿ですと、発言内容の真偽(*4)、あるいは遡って「本当にインタビューは行われたのか」を問うても意味がありません。また、専門的あるいはマニアックな内容(*5)だとか、そもそも記録が残っていないために手も足も出ないという例も、ままあります。
最近ですと、漫画・アニメ・ゲーム・音楽etc.に関する記述・論評をチェックしたい場合に、「信頼の置けるデータベースが見当たらない」という問題もあります。有名なシーンやトピックなら各所で言及されている場合もあるにせよ、本来なら現物を取り寄せて実際に確認するのが望ましいのでしょうが、実際の校閲作業でそんなことをしているわけにも参りません。最終的には筆者を信用せざるを得ず、どうにも頭の痛い問題です。
ついでながら、校閲を通す場合の金銭的なコストにも触れておきます。
例えば物議を醸した『日本国紀』の場合、一般的な相場ですと、素読み(=ファクトチェックは行わず、誤字・脱字etc.のみ指摘する場合)は初校なら15万円程度、再校で10万円程度(*6)。更にファクトチェックも求められた場合、かかった時間に応じて別立てで請求することが多いのですが、作業可能な時間は刊行スケジュールに制約されることを考慮すると、20万円程度が上限かと思われます。当然ながら「作業量を考えると、この日程(or支払額)では無理」ということもあるわけで、そういう場合は「できる範囲で確認作業は行うが、手が回らなかった部分は、ともかく著者を信用する」という対応も起こり得ます。
気の利いた編集者ですと、先回りして「ファクトチェックは不要です」と言ってくれることもあるのですが、実際には「ツッコミどころが多過ぎることを編集者も自覚しているが、それを筆者との間で摺り合わせる時間も気力も無い」だけじゃないのか?と、一介の校閲者として邪推したくなることはあります。『ゲームの歴史』の制作進行は、どんな感じだったんですかね。
ともあれ校閲者としましては、単純な誤変換の見落としetc.の指摘に関してはひたすら恥じ入るばかりですが、「文章が破綻している」「内容が間違いだらけ」といったレベルのご批判でしたら、できれば筆者か版元へ向けて頂きたいと願う次第です。
(*1)個人的に経験した中で最もアツかったのは「筆者の不祥事(新聞沙汰になりました)が発覚して、既に校閲済=刊行間近の新書の企画が飛んだ」という事例です。誤訳の指摘も含めて、ファクトチェック、すげえ頑張ったのに……。
(*2)挙げられている資料がアクセス困難で詰む事例は珍しくありませんが、中には筆者自ら資料を開示して「引用や要約が適切か確認してほしい」と依頼してくる例もあります。そういう場合は当然ながら、校閲者が責任を持って作業に当たることになります。
(*3)もっとも「前段と後段で主張が食い違うのでは?」といった指摘は起こり得ます。
(*4)無論、明白な事実誤認(記憶違い、言い間違いと思しき例など)が含まれていれば、その旨は指摘します。
(*5)とりあえずネット上で検索を試みたものの、ほとんど筆者自身による論文しかヒットしない、という事例は実際に経験しました。
(*6)ここを著者と編集者で校正することにしてしまえば多少ともコストを圧縮できるわけですが、その結果どうなるかというと……
今「高齢者の集団自決」とか「colabo問題」などあるが、この頃炎上させる気持ちも分からんでもないけど、その力を少しだけ救う方向に転換してみてはどうだろうと思っている
じゃぁその中にいる高齢者達をどう救うのか
「成田さんはよく『老人は自害』と言ってるじゃないですか?老人は実際日本から退散した方が良いと思うんですよ。老人が自動でいなくなるシステムはどうやって作ります?」
みたいなことを考えて、その答えにのっかるような発言をされた小学生とどう接していいのか
他の方向へ考えることの方が必要だとは思った。
ちなみにウィリアム・マッカスキルの『〈効果的な利他的主義〉宣言!善意活動への科学的アプローチ』は持っていて、物凄くさらっと読んで、日本赤十字社のトルコ・シリア地震救援金に5000円払い初めて自ら寄付というものをした。
しかしその後、このお金でビックマックいくつ食べれたんだろう…とかいう『シンドラーのリスト』の中のシンドラーが、私の心の中では反シンドラーという現象(誰かこの現象を上手く名付けてほしい)が起こっていた。
まぁ今はどんどん現状がひどくなっているようなので多分良かったんだろうと思っている。
他には献血とかも行った方がいいのかなとか考えてたりする。ただ針が怖いのでちょっと躊躇しているが。
やっぱ、グラフとかデータとかで貧困国の状況とか比較であらわせられても、自分に時間とお金に少し余裕がないとなかなか、行動するのは難しそうだし、まずやっぱり国内から救った方がいい思ってしまった。
多分分かってない部分がかなり多いので、あとでじっくり読んでみようとはしている。
この後の文章は
安楽死に対する考え
私の現在状況が書かれている。
興味のある方は読んで欲しい。
T4作戦を実行したナチスドイツの総統のヒトラーが現代にタイムスリップして世論を動かしていく『帰ってきたヒトラー』とか
実際歴史はあってるのかよく分からないけど、物語の中では軍の命令で、戦って手や足がなくなったり動けなくなったりした重症の人達に毒を飲ませたり、刃物で自決したりする、『激動の昭和史 沖縄決戦』
を見てたのでさすがに怖くなって、あなたに安楽死について考えてほしいなんて言われたくないし、どうせメディアも視聴率や再生回数のためにTVやネットで出してんだろうとは思う。
「colabo問題」はいろんなのが絡んでて実際よく分からんが、不正に税金使ったり、叩き合ってるイメージしかない。名誉棄損的なものが互いにあって、怖いし苛立ってるんだろうなとは時々思う。訴えたりするのも仕方がないのだろうが、その集めたお金で一体何人救えるのだろうとは思った。
安楽死については
カルト問題にちょっと興味をしめし始めた頃、『世界』の2022年の12月号を買ったのだが、ちょうど『安楽死を遂げるまで』や『安楽死を遂げた日本人』を執筆した宮下洋一氏のルポが載っていた。フランスの巨匠ゴダール監督の安楽死について書かれている。
安楽死容認国では今、「死にたいと」思わせる社会に潜む問題の解決よりも、その意図に反映に重点を置く傾向にある。それが「死ぬ権利」というものなのか。私の理解が彼らに追い付くには、まだ時間が足りないのかもしれない。
『PLAN75』とはちょっと違った目線から見る、もし現代自分の家族が安楽死を願ったら?というのがテーマで、主人公の父親が脳卒中で回復を少しずつしているのにも関わらず、死を願う。というのがあらすじ
終末期でなく、まだ生きる望みがあるならば?
「尊厳ある命」とは一体何なのか…。
とコメントしている
見た感想としては、まずこの親子関係複雑だし、抗うつ薬みたいなの飲んでるし、その精神的なものを回復できることはできなかったんだろうかと思った。何がどう回復なのかは分かってないのかもしれないが。やっぱ価値観が違うんだろう。
まだ自分の親は認知症でも脳卒中でもないし、今聞く勇気もない。
主人公の父親のようにあそこまで頑固でもないと思うし、病気になって回復してきたら少し気持ちが変わるかもしれない。
いろいろ考えると答えは出ない。
私の場合、おそらく個人の尊重を優先してと思いながら親の安楽死を願ったとしても、必ずどこかでは自分の介護の負担が出てきて楽になりたいとう気持ちがどこかには少なからずあると考える。
もし今、日本の政府が安楽死法案を出すとしたら、本当に苦しんでいる人には悪いとは思うけど、私は反対する。
今回の問題発言もそうだし、それに賛同する人達や、笑っている人達、や政治家たちの失言を見ると優生思想が強すぎると感じる。
私の現在状況
その時のB型事業所は、月曜日から金曜日10時~16時(昼休憩45分)で給料は平均して月1万5千円くらい。
今の給料は平均して月7万円くらい。
家賃は3万ほど出している。
今、年金は払っていない。
まだ私は親がいる分、生活は楽な方だとは思っている。
貯金は300万ほどある。
もう遅いのか、NISAとか考えた方がいいのだろうかと最近思う。
発症原因はあまり教えたくないので、ここには書かないことにする
普段、母親の部屋で洗濯物を取り入れて畳んでいるのだが机の上に、一冊の本がカバーを裏側にして置いてあった。
なんだろうと思い、カバーを取ったら『老いの品格』という本だった。
中の目次さっと見たら、良い老人であろう的な感じがした。
まぁ品格って書いてあるし、そうなんだろう。
これを見て思い出したのが、テレビでやっていた『月曜から夜ふかし』の"通りすぎる人全員に会釈するおばあちゃん”の回である。
ある女性がその行為を不思議がって調べてほしいと投稿した話なのだが、そのおばあちゃんの理由が感動というよりも、そこまでさせないといけない社会なんだなと思ったし、私たちもそういう風になるのかもしれないと少し怖くなってしまった。その理由は興味があれば調べてほしい。
私は母親とうまくいっておらず、会話はほとんどない。なので何を考えているのかよく分かっていないのだが、そんな感じでとりあえずこの本をkindleで買うことにした。そして最優先にこれを読もうと思う。
ついでに、映画『生きる LIVING』のパンフレットも置いてあった。
まぁ母親と話せば済む話なのだが。それができないのが私のダメなところである。
どこで働いているか判明されるかもしれないので、分かりにくく書くが、清掃作業をするととある消耗品が毎回なくなるのだが、それを注文するたびに一枚の絵ハガキが入っている。
その絵は私にとっては上手くはない。おそらく障害者が描いたであろうと思われる。
初めはその絵ハガキを清掃道具入れにためていた。捨てると罪悪感がある気がしたのもあったし、以前ここで障害者雇用として働いていた人がずっとそうしていたのもある。
その後一旦その清掃道具入れを整理してほしいと補助役の人に言われたので、このたまった絵ハガキはどうしようか相談し、申し訳ない感じもするが捨てようということになった。
それから少し経って、相変わらずその新しく入ってきたその消耗品の中には、絵ハガキが入っている。ふとなぜこの絵ハガキは入っているのだろうと疑問に思い、その意図は分かってはいないが、私としては「絵は描けます」というメッセージみたいなのを受け取った。
もしこれが、障害者でなく高齢者だったらどうなんだろうとか、通院している精神病院に、病にかかっている人が作った、よく分からないパズルとか、ちょっと凝った折り紙だったりとか展示されているのを見るとあれは一体何なんだろうと不思議だったが、これも実際意図は分からないが、この社会にいる存在を表しているのではないのかと思うようになった。
その後、私はこの上手くはない絵ハガキをなんとなく家に持って帰っていて、本当に何かの緊急事態が起こった場合以外は捨てずにためることにしている。
その消耗品の会社が分かった人は、変な人が絡むと嫌なので黙っていてほしい。
終わり
この記事を読んで、「きみ」とは自分のことだと思ったら、「ぼく」にひとこと連絡をくれると嬉しいです。
こんな回りくどいことをしないで、人づてに連絡してこいって思うかもしれない。それはもっともなんだけど、久々にきみのことを考えた時、なんとなくインターネットという海に瓶詰めの手紙を流したいと思った。
大学生の頃、きみがNHKで矢沢永吉特集を観て、一冊の本を読み、一人の友人を思い浮かべながら、僕に話してくれたことだ。
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ヤザワと呼ばれるひとたちがいる。というか、これからそう呼ぶ。ヤザワとは、要するに矢沢永吉みたいなひとのことだが、ロック・ミュージシャンとは限らない。
ヤザワは、少し変わったひとだ。少なくとも、世の中の大多数はヤザワではない。
ヤザワは、端的にいってしまえば、夢見がちなひとである。誰もが年をとるにつれて捨ててきたり、置いてきたり、失ったりしたものをいまだに持っていて、それだけでは飽きたらずにそれを持ち続けることがよいことであると全方向的に信じている。
彼らの一部は、「私」や「俺」など、代替可能・抽象的なものではなく、一人称として彼自身の名前を用いる。そのため、彼らが自分について語るときには、主観的に自らを規律しながらも、人称のトリックによって客観的に表現する地位を得ている。
例えば矢沢永吉が「ヤザワはBRAVIA」というとき、それは「俺はBRAVIAを選ぶ」という主観的な語りであると同時に、少し離れて「矢沢永吉はBRAVIAを選ぶ」という客観的な記述をしている。ここにおいて、ヤザワは自ら意思決定をすると同時に、第三者に決められているという一見矛盾した状態に置かれる。この矛盾した状態に置かれていることが、ヤザワを理解するうえで重要となる。
こうしたヤザワは、周りから当然疎んじられる。周囲のひとびとは、口々にヤザワを夢見がちで、キレイゴトを信じ続ける、子供のような存在だと罵る。しかも、たいていの場合、ヤザワはうまくいかずに挫折する。時として、挫折したヤザワは強い反ヤザワになる。
しかし、そんなヤザワのなかにも、時には成功するひとがいる。というか、矢沢永吉そのひとである。
するとその時、今までさんざんヤザワを罵り、いわゆる普通の道を歩ませようと努力してきた周囲のひとびとは、手のひらを返したようにヤザワを賞賛する。ひとびとは口々にいう、「夢も現実になる、キレイゴトを信じてよかった」と。ひとびとが押し殺してきた何かをヤザワがぶちまけてくれることへの感謝である。もっとも、夢を見続け、キレイゴトを信じ続けたヤザワは、そのときには既に周りのひとびとには分からないことばを話すようになっている。
きみは続けた。「そういうヤザワを、ぼくは見守るよ。」
そしてこう締めくくった。「ヤザワは矢沢永吉になる可能性を秘めている。それを周囲のひとたちが潰してしまうのはもったいない」
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きみの話はいつもとても面白かった。ここでは細かく書かないけれど、ある時女の子と一晩限りの夜を過ごそうと思ったら、その子がおばさんの履くような紫色のパンツを履いていて、しかもそのパンツに毛玉があって萎えてしまった話とか、切り絵で女性器を詳細に模して、潮を吹かせる方法を教えてくれた話とか、とてもよく覚えている。
なかでもこのヤザワの話はお気に入りで、お茶碗の裏側ぐらいしか器のないぼくは正直きみの器のデカさにすっかり感心した。それ以降こういう状況に巡り合うたびに、きみのことを少し思い出す。それと同時に、その頃きみが住んでいたシェアハウスの部屋がぼんやりと頭に浮かぶ。
大学を出てからすっかり疎遠になってしまった。この春でもう8年になるね。子供がいるって聞いてるよ。ぼくにはまだ子供はいないから、子育てのことはよく分からないけれど、きっと忙しくしていることと思う。それでもこの夏、東京に戻るから、また一緒に飲みに行ったりできたら、本当に嬉しい。
くれぐれもお達者で。
現在、Twitterで炎上中の雁琳(がんりん)こと、甲南大学非常勤講師・山内翔太氏。まだ30代頭の駆け出しの研究者なのだが、彼が「身バレ」して炎上するに至った経緯を見るに、東大教授・池内恵氏が故意に仕掛けているとしか思えなくなった。
ご教示いただきありがとうございました。大学の人間としては山内翔太さんですね。衒わず自分の名前で堂々としていらっしゃればいいんです。言論を理由に圧力・工作かける人はとっくに知っているはずなので、実名で堂々としていることが最大の防衛策です。
https://twitter.com/chutoislam/status/1454774138883608586
例えば2021年10月31日の上記ツイート。わざわざ山内氏のリサーチマップ(研究者のプロフィールサイト)を貼って、彼の匿名アカウントと個人情報を紐付けている。
もし池内氏のこのツイートがなければ、ここまで炎上することはなかっただろう。
非常勤講師と勤務先の大学との関係がこのようなもの(メールボックスももらえないから宛先には使わないのが常識で、高い確率で大学当局が開封してしまう)であることは大学関係者には周知の事実なので、大学当局が読むことは予期していたと推認できるが、その推認が働かなかった理由は何か
https://twitter.com/chutoislam/status/1484392599200829440
また2022年1月21日の上記ツイート。すでに多くの大学関係者から「んなわけねーだろ」とツッコミが入っているが、池内氏がこのように非常勤講師に対する大学当局の「横暴」を強調することで、山内氏と勤務先の甲南大学との間に、無用な対立構造を生み出してしまっている。
書くならその白饅頭とやらを駆逐する規模で書かんと話にならん。客を奪われた白饅頭にネットで陰口言われ揶揄されるぐらいになれ。陰口怪文書書く側になるな。書かれる側になれ。以上
https://twitter.com/chutoislam/status/1484838070562160641
それはTwitterで書かずに一冊の本としてお書きになればよろしい。単行本500ページの憎悪と呪詛を書き連ねて文学・思想、文明批評となっている原稿を送ってくれれば、出版社を紹介します。読む人いるでしょう。
https://twitter.com/chutoislam/status/1484832718407933952
そして極めつけは、2022年1月22日の上記の2つのツイート。東大教授という立場や出版社とのコネクションを利用し、若手研究者の言論・執筆活動を束縛し、自らの従属下に置かんとする態度がありありと見て取れる。
これが大学人、しかも東大教授のやることだろうか。池内氏は山内氏を玩具にして遊んでいるつもりなのかもしれないが、自分の道楽でひとりの若手研究者の人生が終わりかけていることを深刻にとらえていただきたい。
好きで好きでしょうがなかったけど、パリンパリンの童貞だった自分には彼女にアプローチを仕掛けていく術など無く、「彼女に触れたい」という思いはいつしか「彼女が触れたものに触れたい」という気持ちに転化して、必然的に変態行為に走ることになった。
しかし変態行為が彼女に発覚してしまってはすべてが終わってしまう。表面ではあくまで紳士的にふるまいつつ、悟られぬように事を行わなければならない。言ってみれば変態紳士だ。
手はじめに、蔵書整理の時に彼女が使った軍手を持って帰って匂いをかいだ。ホコリの匂いがした。
それからおもむろに股間にはめてオ○ニーをしたが、終わったあとはものすごい罪悪感におそわれて、彼女をそういう卑猥な対象にするのはやめようと思った。ホコリまみれの軍手をはめたせいで股間に雑菌が入って大変なことになったが、天罰だと思って耐えた。
彼女が使っている髪留めと全く同じものを買い求め、こっそりとすり替えて匂いをかいだ。ゴムの匂いがした。
もっと強く嗅げば彼女の匂いがするかもと鼻の穴にねじ込んだら、奥まで入りすぎて勉強机の上に嘔吐した。親から勉強のしすぎでストレスがたまったかと疑われて検査入院させられたり、いない間に机の掃除をされて秘蔵のエロ本が軒並み廃棄されたが、天罰だと思って耐えた。
ある夏の日、彼女の水泳バッグが準備室に置いてあった。準備室には自分ひとり。逡巡の後バッグを開けて顔を突っ込んで、思いっきり匂いを吸い込んで元に戻した。塩素の匂いがした。次の日の水泳の授業の時にそのことを思い出して勃起してしまい「勃起ング」という不名誉かつ月並みなあだ名をつけられたが、天罰だと思って耐えた。
放課後の貸出カウンターで彼女は私物の本を持ち込んで読んでいることが多かった。図書館にはこんなに蔵書があるのに、それ以外にも読む本があるとは!との畏敬の念と、集中して本を読むその横顔を眺めるのに夢中でついぞ声を掛けることなどなかったのだけど、勇気を出して何を読んでいるのか聞いてみた。尾崎翠の「第七官界彷徨」だった。もう何回も読んでいるから興味があるなら貸すよ、という申し出に一も二もなくうなづいて借りて帰った。
自室で正座して本を広げると、わずかに花のような香りがした。劣情を催すよりも、どうしてお互い図書委員で本が好きなのは分かっているのにこういう普通の交流が思いつかなかったのかと、自分の浅はかさに慟哭した。
一週間かけて何度も読み直し、いかに素晴らしい本であったかを控えめかつ熱意をこめて感想を述べると彼女は微笑んで「気に入ってもらえて良かった。今度は君のお気に入りの本を貸してね」と言った。
しかし自分は吉川英治や山岡荘八などの時代小説しか読まないうえに、自分で本を買う金を惜しんで図書委員になっているくらいだったから蔵書というものもなく、あれこれ悩んでいるうちに受験シーズンとなり貸出業務のローテーションから外されて、彼女に本を貸す機会にはついに恵まれなかった。
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彼女は女子高に進学し、それから全くの音信不通となった。クラスも違えば共通の知り合いもなかったので、彼女がどこで何をしているのか知らないままに僕は大学を出て地元に戻って就職した。
働き始めて1年たってようやく気持ちに余裕が出てきたので、久しぶりに本でも読もうと市の図書館へと足を運んだ。何冊か物色して貸出カウンターに行くと、そこには彼女が、当時の面影を残したまま、いや、それよりもだいぶ/かなり/相当きれいになった彼女がいた。
「「こんなところで何やってんの?」」
貸出の手続きを終えて「それじゃあ」と言って図書館を出た後、しばらく外のベンチに座って頭の中を整理して、もう一度貸出カウンターに向かった。
「どうしたの?」
「裏にケータイのアドレス書いてるから、時間があるときにでもメールちょうだい」
と言って返事もまたずに家に帰った。本当は、
「借りるのを忘れた本があるんだ。君という一冊の本を。あの時読みたくて、読めなかった本。貸出期限は無期限で頼むよ」
と言うつもりだったが、言うのをやめて本当によかった。言っていたら多分、天罰だと思っても耐えきれなかっただろう。
幸いなことに彼女からはその日の夜すぐにメールがあって、何度かのやりとりの後には映画に行ったり美術館に行ったりして、なんやかんやあって今年の秋、彼女と結婚することになった。
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中学高校大学と、華やかで彩られた学生生活とは無縁の人生を過ごしてきたけれど、人間地道に真面目に生きていればいいことが起こるんだなあと、しみじみ思っている。なので、現在のところ暗い学生生活を送っている人も、自暴自棄にならないでいい感じに頑張るといいと思う。
それと、件の変態行為については彼女は全く気がついていなかったようだ(勃起ングという不名誉なあだ名は伝わっていたけれど)。そのおかげで今の生活があるのだと思うと、変態行為を行うのは男として仕方のないことだけれでも、あくまで紳士的に、相手になるべく迷惑のかけない形で行うのが良いよ、と伝えたくてこの文章を書いた。今では思う存分、彼女の脱いだ靴下や下着の匂いを嗅いでいます。
私は昔からのオタクだから二次創作で利益が出ることにいまだに抵抗があるタイプ。元の作品が好きで好きが高じて二次創作してるのに利益が出てしまうと元の作品へのリスペクトがなくなる感じがするから。
でもなんか流れが変わりつつある気がする。もちろん二次創作OKというコンテンツ元が増えてるのはあるんだろうけど最近は電子での同人誌販売が普通に行われてて不思議な気持ちになる。あくまで頒布する際に印刷代がかかっちゃうからその分本の代わりにいただきます。大手は刷れば刷るほど1冊あたりの印刷代は少なくなるけどそうなると弱小サークルが困るくらい一冊の本の平均の値段が下がるから大手はどうしても利益が出てしまう。その分ノベルティで補佐しようかな、みたいなそういう理由付けがされてた感じが好きだった。二次創作OKなコンテンツ元もこのコンテンツを使って利益を出していいよとかじゃなくて二次創作も活発になってもらってこの作品が活気づいてほしい、グレーゾーンだ云々での争いをなくしてほしいってだけだと思うんだよね。
流行りの二次創作をすれば手っ取り早く作品を見てもらえるし手にもとってもらえる。でもどうしてもそこに愛はあるんか?って気持ちになってしまうよ。二次創作でどうしても利益出したい?ネットに大公開はそんなにいや?頑張って描いたんだからお金が欲しいってその作品好きって気持ちで頑張ったんじゃないんか〜〜〜〜いって私は思うよ?!利益出したいならオリジナル作品描いたらどうかな?!
母親の知り合いであるEさんが食事をおごってくれると言ったので、高校時代の友達であるNちゃんとYちゃんを誘って一緒に行くことにした。
Nちゃんが卒業した大学の附属病院を待ち合わせ場所にしたが、Nちゃんは「診察を受けてくる」と言って私たちを残し、病院のいちばん奥の診察室に入ってしまった。
異様に大きいトイレの看板とソファーしかない廊下で、Yちゃんと一緒に立ち尽くしていると、看護婦さんがやってきた。
「当院では、スタッフ以外は全ての衣服を脱いでいただく決まりになっています」
「でもNちゃんは脱いでませんでしたよ」
「そうなんですか……」
そんな会話の後、看護婦さんに連れられてしぶしぶ更衣室に入った。ドアもなくカーテンで仕切られただけの狭いスペースで、床に直置きされたカゴには誰かの服が脱ぎ散らかされていた。
面倒くさいことになったな、と思いながら私も服をカゴに放り込んで全裸になった。今まで何もしゃべらずボーッとしていたYちゃんも、いつの間にか全裸になっていた。
よく見ると、部屋のすみっこの方に固まっていた5,6人ぐらいの女性のグループは、全裸にならず水着に着替えていた。彼女たちはどうやらグラビアアイドルで、健康診断に来ているようだった。
「この病院はトイレがいっぱいあっていいね」とか「何でみんな全裸なのかな」とか、そういう会話をしていた。こっちが訊きたいよ、と思った。
Nちゃんの診察が終わると、やっと病院を出られた。私とYちゃんは何故か全裸のままだった。恥ずかしくはないけれど、なんだか貧乏臭くていやだった。
「何の診察受けてたの?」
「私、鼻の血管が一本足りないらしいんだ」
「怖いね」
そんな会話をしながら歩いた。Yちゃんは相変わらず何も喋らないし、ボーッとしていた。
Eさんの家は古い日本家屋で、玄関がどこにあるか分からなかったので窓を叩くと、Eさんが顔を出してくれた。
「ご飯おごってください」
Eさんは私に一万円札を三枚渡し、「元気でね」と言って窓を閉めた。確かに奢りといえば奢りだな、と思った。
お腹が空いていなかったので、小さな民宿で昼寝をすることにした。畳に布団が三枚敷いてあるだけの質素な部屋だった。
Yちゃんはさっさと寝てしまい、Nちゃんは「珍しい同人誌を見つけたんだよ。レアなんだ」と一冊の本を見せてくれた。
B5判で、クリアファイルみたいな素材の黄色いカバーがかかったそれは、どのページを見てもボディコン服を着た女の人(多分アメリカ人)の単調なイラストが載っているばかりで、セリフもストーリーもなくてつまらなかった。
私が「英語の教科書みたい」と言うと、Nちゃんは怒ってしまった。何とか機嫌を直して欲しかったけれど、その本には褒めるところが見つからなくて困った。
いちかばちかで思いついたギャグを言ったら、笑ってはくれたがやはり怒っていた。どうしようと思っているうちに、室内にはグルグルと赤い光が回り、サイレンが鳴り始める。
近くの駅の電車の時刻に合わせて鳴るサービスらしく、若い男の人が妙に嬉しそうな声でアナウンスをするが、強烈に音割れしていて不快だった。
物騒で暴力的な赤い光のもとで、私は呆然として、Nちゃんはまだ怒っていて、Yちゃんは安らかに眠り続けていた。
おわり。
現実のEさんの家は普通の一軒家で、Nちゃんの出身校に病院はないし、彼女が怒ったところを見たこともない。Yちゃんも無口ではない。
纏めてったら一冊の本になりそう
庶民に一冊の本も届かない時代にそれらを習得する(させる)には宗教システムを使うのが手っ取り早い。近代化で次々と宗教のバグが見つかり人類は宗教に絶望し緩やかに捨てた。
廉価大量の製紙技術は情報増大をもたらし宗教に頼らず個の判断で生きることも可能になった。
ネット時代に入り、さらなる情報過多は個人の知を向上させず混乱を招いた。
人類は他己による
の基準を求め始めた。
集合知、民主的な意思決定。欠点は無い。SNS同調はロジカルな収束だ。
特に推論は過去の知識と経験と言語と感情、様々な脳機能を組み合わせる必要があり、
右脳左脳脳幹前頭葉すべての部位で大量の酸素と糖が消費される。
これは人体にとってはコストパフォーマンスの悪い活動である。
丸太を右から左に移動させる単純作業ではエネルギーは筋肉で消費されるが、本来ヒトを含む動物はこういった活動に最適化されている。エネルギー効率から見るとコストパフォーマンスが高い活動といえる。
片付けして身綺麗にしましょう
今後は、
やがて離合集散の時代を経て勝者いくつかのグループにまとまるだろう。
この動きはすでに始まっている。天皇信奉するネトウヨなどもそれ。
古くからネットやっている人間に言わせりゃンな事ナニを今更だろう。
ネット勃興時代からすでに指摘されており、2ちゃんねるでも散々テーマになった。
他人の感情を集めて煮詰めるには、調理と鍋と料理人が必要であり
例え調理人になれなくても、諦めて無自覚な具材になるよりマシだ。
そうだそうだ、久しぶりに筒井の「朝のガスパール」を読み直そう。
(筒井は30年前にこうなることをあっさり見破っていた)
気がつくと増田は図書館から借りた一冊の本を手に持っていた。題名も覚えている、米沢穂信「満願」だった。図書館の場所が分からず友人aに聞いたのち自転車で図書館に行った。図書館に着いたのだが、気がつくと自転車は消えていて、何故か自分で本を本棚に戻していた。その時の風景は本屋と図書館を合体したような場所であった。何というかショッピングモールの本屋に図書館にある読書台がポツポツある感じ。そこに友人aもいた。が、友人aに対する増田の興味は薄く友人aも気がついていなかったので無視して満願を本棚に自分で戻しに行く。驚く事に満願はシリーズ作品では無いにも関わらず「満願2」「満願3」が本棚にあった。とりあえず満願を本棚に戻す。そこから少し意識が飛ぶ、気がつけば図書館の外にいた。増田は自転車を駐輪場に置きに行っていて、そこで子供用のカゴがついたママチャリに乗る女性に会った。子供が一緒居たかどうかは記憶にない、そして増田は気がつけば彼女を姉御と呼んでいた。正直タイプだった。増田の好きなアニメキャラの特徴を全て併せ持つ様な女性だった。久しく恋愛感情を忘れていたが、増田は夢の中で彼女と付き合いたいと思った。図書館の中に入ったはずが気がつけば彼女とゲームセンターにいた。完全にデートだ。しかし、甘い時間は長くは続かない。そこで目が覚めてしまう。凄く贅沢で甘美な夢だった。巨大な忍者ハットリ君軍団に追われる夢を昔見たが、それ以来初めて忘れられない夢を見た。
ある友人に我慢できず、他の友達に話すのも気が引けるので筆を執ることにした。
私の自分語りを多分に含んだ愚痴のような物なので、肩の力を抜いて読んでいただければ幸いだ。
私はしがない字書きの大学生である。中学生の頃には仲の良い友人二人と、自分たちを模したキャラクターを架空の世界の中活躍させる創作を交換ノートの中でやっていた。元々絵を描くことも好きだったが、どう足掻いても上手く描けないことに諦めを感じ、気付けば文章ばかりを書いていた。
高校に入ると文芸部に入った。入部届けを提出するまで、入ったことは親には黙っていた。シンプルにそれまでやっていた吹奏楽に嫌気が差しただけなのだが、高い楽器(丁度自分の貯めていたお年玉やらお小遣いやらの全額程度だった)を買ったというのに吹奏楽を続けなかったので、父親は後にも先にも無いほど激怒した。当時の私は相当にショックを受けたが、まあこれは関係の無い話なのでやめておく。
とにかく文芸部に入ったのだ。正直本当に楽しかった。気の合う友人もできた。文学という架け橋が無かったら話すことも無かったような、私とは系統の違った部員と一冊の本を作るのは刺激的だった。空が白んできても何も浮かばず空虚な日の出を見たり、締切の為に定期テストそっちのけで徹夜をしてキーボードを叩いて編集をしたり、高校生なりの熱量で部活を、書くことを、“創作”を、楽しんでいた。
恐らく想像がついている方もいらっしゃると思うが、私はオタクである。とはいえ、二次創作をイラスト等の投稿や閲覧が楽しめるSNSに投稿を始めたのはつい最近で、それまでは内輪のオリキャラでの創作小説を書いたり、時には友人を主体にした夢小説を書くこともあった。
そんなこんなでここの所二次創作を楽しんでいる私であるが、どうにも腑に落ちないことがある。
端的に言ってしまうと、あまり好かない友人がいるのだ。彼女は高校1年生の頃からの友人で、ありがちな書き方ではあるが彼女をAと呼ぼうと思う。(A以外にアルファベットは出てこないので、特に気に留めて置く必要はない。)
Aは自信家だった。帰国子女のAは英語を始めとして成績優秀で教員にも好かれる模範的な生徒だった。本人はそれを隠すこともなく、「私は天才だから」「と言うより、努力型の秀才なんだけどね」と言ってのけていた。努力を惜しまない姿勢は素晴らしいし、怠惰な私は純粋に尊敬したが、その努力をひけらかす行為はいただけなかった。受験期にはキーワードをページいっぱいに書き連ねたノートやボロボロになった単語帳を常に持ち歩き、志望校の赤本まで隠さず机の上に置いてあった。私は「落ちたら恥ずかしくないのかな」とぼんやり思っていたし、本番当日にもAは「Twitterしてる場合じゃないけど不安 報われなかったらどうしよう」だの「爆死」だの呟いていたが、最終的にAは無事合格し、その大学へと進学した。
思うに、Aはオープンな性格なのだ。未だにTwitterの鍵垢同士で繋がっているのだが、課題の進捗やらをよく呟いている。「自称天才だから(オンデマンド)授業明日の分全部受けてレポートまで書いた」「虚しいから労って(レポートの画像)」などなど。活きの良い大学生である。
さて、本題から離れてしまったが、私がお話したかったのはAの創作についての話である。
実はAは高校在学中から一次創作を嗜んでいた。Aはもう一人の友人とタッグを組んで自作のゲームを作ろうとしているようだった。所謂ファンタジー物で、次々とキャラクターを生み出してはストーリーの核となる部分を練ったり、キャラクター自身の掘り下げをしていた。
なぜ私がそれを知っているのか。それは彼女が片っ端からTwitterに放流するからである。興味が無いので完全にスルーしていたが、AやAの周りの友人はいつもAの生み出したキャラクターの話をしていた。
彼女はゲームのシナリオとなるその“創作”の本筋を書いて、もう一人の友人は立ち絵や背景を書いていた。
Aのそんな旨の呟きをよく見かけた。
そのうち、Aの周りにいる友人は、そのキャラクターのイラストを描き出した。漫画にせよ小説にせよ映画にせよ、ストーリーを追ううちにキャラクターの個性を見出す私にとっては、設定や性格が書き連ねられた一枚絵を見せられても特に何も思わなかったが、友人たちは違ったようだ。確かに毎日それらのキャラクターの話を聞いていれば興味を持つのも自然だろう。
最初こそAは大いに喜んでいたが、そのうちさして大きなリアクションをとらなくなっていった。そのうち、「おまえらのファンアート15溜まったら本編まじで進めるわ、ケツ叩いてもらわないと無理かも」といった旨をツイートしていた。
Aとタッグを組んでいた友人は、徐々にTwitterに浮上しなくなっていった。その代わり、Aは自分のことを“字書き”と自称することが増えて、ゲーム制作の話は一切しなくなっていった。
Aはよく産みの苦しみの類いのツイートをする。
そう言って一通り喚き散らした後、「やっぱり今日は書けないから寝よう」と言って日付の変わる前には就寝している。
なるほど、AもAなりに書くことを楽しんでいるようだ。いつか自分の創作を完成させて、それが大々的に二次創作される日を夢見ているらしい。丁度今、絵の上手い他の友人に描いてもらっているように。
四の五の言わずに書けよ。
一発当てたいなら本気で完成させろよ。
甘えてんのか。
もちろん私は今の文壇をリードするような大作家でもなければ、新進気鋭の小説家でもなんでもない。しかし、Aよりも文字を書くことは数こなしてきた。適切な表現が思い浮かばなかったり、心苦しくても大部分を削除してエンディングを書き直したり、寝食を忘れて夢中になって書いていたこともある。もちろんそれが重要なことでないこともわかっている。
「わたし、○○(私の本名)ちゃんのことすごいと思うよ。文芸部に入ったら、締め切りとかそういう重圧で死んじゃいそうだもん。自分の好きな物上手く書けなそうじゃない?」
私はこれに何と返したかは覚えていない。しかし、文芸部は私に書き終えることの大切さを教えてくれた。
オープンな彼女は書いている最中の苦しみを漏らすことを抑えていられない。しかもそれをやたらと文学的に表現しようとする。浮かんでこない、降ってこない、突然書けなくなる……、そういったありきたりの表現で。Aはやたらと“創作”や“小説”という言葉を使いたがった。自分が今しているのは“創作”で、“小説”を書いている。その行為に酔っているように見えた。けれど言葉が固くなってはいけないと思っているのか、進捗状況が載ったスクリーンショットに映る文はなろう系を模したような劣化させたような文体なのである。
「私の文幼稚なのはわかってるんだけど、かっこつけた描写はしたくないな。児童書目指してるし」
子供が読みやすい文、単純に砕けた文、そして口語ばかりで仮名遣いの怪しい文。難解な表現を使うことと、状況を説明するために上手く言葉を組み立てること。これらは明確に分けられていると思う。斜に構えた描写を、子供には解しがたいと思っているのだろうか。私は自身の素の書き方がかなり固いこともあり、まるで自分が“かっこつけた描写”をしているような気がしたこともあり、なんだか頭にきてしまった。
また、数日後にはこんなツイートもあった。
「承認欲求足りな過ぎて手っ取り早く誰かに褒められたいけど、二次創作は書けないからなぁ」
私は、自分の書いた二次創作を「承認欲求を得るための行動だ」と言われたように感じたのだ。書いた物を貶されるのは嫌だけれど、書く動機をAのようにあからさまに「誰かから評価されるため」にすり替えられるのが耐えられなかったのだ。ネットに公開している以上、何らかの反応があることはもちろん嬉しい。しかしそれ以上に、頭に浮かんできたシチュエーションを練ってひとつの話を作ることが楽しいのだ。
今思うとAはそこまで考えて発言したように思えない。恐らく私の考えすぎだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いし、何を言ったかより誰が言ったかが気になる質なのかもしれない。
SNS上でのAとの繋がりを消そうにも、そのアカウントには共通の友人が多く、彼女たちが気を利かせて私の転生後のアカウントをAに伝えてしまうことは想像に難くない。かと言って「繋げないでくれ」とあからさまに嫌う素振りを見せて友人関係にヒビを入れたくもないし、ログアウトしてしまうと他の友人の呟きまで見れなくなるのも寂しい。そういうわけで今でもAとはFF内で、表向きは仲良くやっているわけである。
さほど苦ではない。しかし確実に自分がストレスを感じていることはわかるので、いつか縁を切ろうと思っている。
結局これはさして大きな問題ではなく、周りからチヤホヤされている人間を妬ましく思っている私の醜さが露呈しただけなような気がしたので、この辺で筆を置いておこう。自分の“創作”のスタンスに口を挟まれて気分を悪くするのは、私自身もそうだから。
どうでもいいマジレスすると
出版業界はバブル時代に広告収入モデルで雑誌の部数も刊行点数も極度に増えた
その後、広告収入モデルが機能しなくなって沈没が続いてるわけだが
***
(書店ではなくコンビニで売ってる紙質の安い雑学本がメインだ)
仕事の本数自体は極端に減っていなくても単価の減少は痛烈に感じる
10年ぐらい前は一冊の本を3人ぐらいで分担して2~4か月ほどで作って
20万円前後にはなり、それを同時並行で3本ぐらい回していれば生活できた
ところが現在は、同レベルの仕事では1本当たりの単価は2~4割は減少してる
そりゃそうだ、今や金を出して紙の本なんか読む奴は年寄りしかいない
(しょせんは無署名記事でも)たまーに一度担当した本に増刷が掛かり
***
歴史雑学本とか統計データ本とかを書くぐらいしかできる仕事はない
(直接インタビュー系は依頼されることがかなり減った)
これでも、勤め人をしていた当時のような人間関係トラブルはないし
文筆専業になる以前よりはマシな方だとは思う
仕事の場を紙の出版からネット媒体に切り替える気はないかって?
自分らの世代まではギリギリ逃げ切れるのではないかと述べている
その背景として、自分らより下の世代は今さら紙の出版を目指す者が
かなり少ないので、下世代に食いぶちを奪われる危険性が低い点が挙げられるが
それもどこまで楽観して良いものか……
俺はひとまず“クエスチョン栞”という命名センスをスルーして、他に気になっていることを質問した。
「この人、店で用意した栞に感想なんか書いちゃってるけど、それはいいのか?」
一冊の本に対してこんな使い方していたら、必然的に栞は使い捨てになってしまい、提供側のコストもバカにならない。
「ウチは提供しているだけで、どう使うかはお客さん次第だよ」
マナーの悪い客が一人でもいれば破綻しそうなサービスだが、マスターの見解は大らかなものだった。
まあ場末のブックカフェだから、そうそう問題は起きないとは思うが。
そこまで本格的なサービスってわけでもないし、多少ユルくても支障はないのだろうな。
「……さあ?」
名付け親にそんな返答をされたのでは、もはやこちらが言えることは何もない。
「どうしたの、何か気がかりなことでも?」
奥歯に物が挟まったような俺の態度を察して、マスターが様子を伺ってくる。
「いや……そうだなあ」
俺は言い淀んだ。
「強いて言うなら……栞は付箋タイプにしたほうがよくない?」
俺は床に落ちたままの栞を、元の場所に戻すことにした。
やり方はこうだ。
まず空いていた穴にペンの先端を通し、掬い上げる。
そして持っていた本を開いて、そこに栞を落とす。
要は“金魚すくい”みたいな感じさ。
「んー、ここでいっか」
どの箇所に挟まっていたかは分からないので、とりあえず真ん中あたりに入れた。
「ページ数とか、この栞にメモしてくれればなー」
栞を落とした自分のことを棚に上げつつ、本を棚に戻す。
「これでよし、と」
俺はそう呟いた。
自分に言い聞かせることで、この栞に対する“違和感”を拭い去ろうとしたのだろう。
店に入ると、マスターが迎えてくれる。
「お、マスダくん。いらっしゃい」
マスターは口ひげを蓄えた壮年の男性で、いつも白いワイシャツに黒いベストを着こなしている。
どちらかというとバーテンダーの方が似合いそうだ、と店に来るたび思う。
「ホットの水出しで」
意味もなく気取ってはみたが、実のところ俺はコーヒーが好きじゃない。
いや、厳密には好きでも嫌いでもないというべきか。
コーヒーは美味いだとか不味いだとかいう次元で語る飲み物ではないからだ。
香りがどうだとか、苦いだとか酸っぱいだとか、厳密な評価基準なんて知ったこっちゃない。
コーヒーはコーヒーでしかなく、後は砂糖が入っているかミルクが入っているかの違いだ。
そんなものをなぜ飲みたがるのかと聞かれても、「コーヒーってそういうもんだろう」としか言いようがない。
「作り置きがないから抽出中だよ。うちの店で水出し頼む客なんていないからね。しかもホットだから尚さら時間がかかる」
言葉の響きだけで選んでしまったが、どうやら「水出し」は時間がかかるものらしい。
深く考えずに注文した俺の責任とはいえ、焦がれてない黒水のために何十分も待たされるのは予想外だった。
しかし「せっかちな人間にコーヒーは飲めない」と言ってしまった手前、今さら注文を取り消すなんてできない。
「暇なら本でも読むといい」
そういえば、ここはブックカフェでもあったんだ。
店内の半分以上が本棚で埋め尽くされているのに、マスターに言われるまで全く気づかなかった。
たぶん読書に関心がなさすぎるせいで、認識の範囲外だったのだろう。
「そうさなあ……」
学校の課題以外で本なんて読みたくなかったが、それでも何もしないよりはマシだ。
俺は重い腰をあげると、恐る恐る本棚の群生に近づいた。
そしてタイトルを読むこともなく、手ごろな厚みという理由で一冊の本を引きずり出した。
「……ん?」
その瞬間、本から細長い紙切れが滑り落ちた。
どうやら栞のようだ。
お前エア同人作家だろ
創作やるなら誰もが持っていて当たり前の、創作者の孤独への恐怖というものが感じられない
自分が書いたものが他社の評価を経ない歪んだものであるかもしれないという恐怖は?
自分が書いた解釈が本当は間違っているのかもしれないという恐怖は?
自分が本当は物を書いてはいけないのかもしれないという恐怖は?
自分が同好の士との関係をうまく築けないかもしれないという恐怖は?
どれもねえだろ
同人誌ってのは自分が書いた文章が形になる、それだけで嬉しいもんなんじゃねえの? これまでは自分の頭の中にしかなかった「ぼくが書いた一冊の本」を活字として手に取れるのが最上の喜びなんじゃねえの?
これをなんと呼ぶのか教えてやる
これから同人始めようというニュービーに歪んだ同人誌像を刷り込むからやめろ
苦労するのはそいつらなんだぞ