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2023-09-05

校正なんて賎業だろ

追記

「俺は今でも、あの41話をチェックした人のことを思っている」の末尾に句点なし。「一番最後」は口語表現OKなのかな。

ありがとう、助かる。

どっか落としてるだろうとは思ってたが、仕事終わりに自分文章なんかマトモに読めねえんだよな。

句点イレル。そういや同じ現場だった校正者もよくやらかしてたな。元気してるだろうか。

「一番最後」はママで。副詞用法だと「ぶっちぎり」みたいなニュアンスを感じるから、おっしゃる通り強調表現範囲内として個人的には違和感いかな。もちろん要指摘事項だが。

“?”の後ろに文章が続けばスペースあり、後ろが “」”の記号ならスペースなし、“これはいったい何年前の学説なんだ?って” と促音でもスペースなし、が校正ルールってことかなーと思いながら読んだ。

だいたいそう。最後場合はスペース入れる表記ルールも多いけど、俺は一文としてつながりがあるならアキなしの方が好き。

校正って、文章体裁を整えるだけじゃなくて、内容のチェックも求められるじゃん。

科学的に間違ってるとか、事実関係が間違ってないかとか。

そこまで求めるのかって思うわ。

この前もゲーム歴史みたいな本が、事実と違うって炎上して回収騒ぎになって、校正は何をしてるんだって出版社文句言われてたけど、こそまで調べられるなら著者に書かせないで出版社自分で書くだろっていつも思うわ。

文章体裁を整えるのは校正で、事実関係確認や内容に踏み込んだ指摘をするのが校閲であり、それぞれ別の仕事である……ってのは大昔の話。

写植がなくなり、ネットが普及した今じゃどっちもやるのが当たり前になった。

校正しろって言われても最低限の事実確認はするし、校閲しろって言われても行頭二分アキ折り返し天ツキー、だ。

現代じゃ校正校閲業務自体ラクになったんだろうが、そのぶん求められることが増えた。どっちの方がマシなんだろうな。

ゲーム歴史も、あんだけミスがありゃ業界素人校正者でも1個や2個ぐらいは事実との齟齬を見つけてたかもな。でも「校閲は何をしているのか」って増田にも書かれてるように、校閲者のひと声で進行がストップするなんてまずありえない。

「じゃあAIでいいじゃん」ってブコメがあったが、全くその通りだと思うぜ。




(本文)

なんか一瞬だけ校正話題になったらしいがな、あんなんロクな仕事じゃねえ。

俺はこの業界に入った直後の飲み会で「この仕事20年くらいで頭おかしくなって失踪ちゃう人多いから気をつけてね」って笑いながら言われたぞ。

俺はあと何年もつんだろうな。もう壊れてるかもな。

だいたい、どこのどいつがしょーもない誤字脱字を見つけられて感謝するんだ。

自分ミスをほじくり返されてイラつかない奴はいないだろ。

から嫌われるのが仕事なんだよ、校正は。

「いやいや、自分感謝している」ってか? 嘘つけ、とんちんかんな指摘が来たら逆上してSNSにアップするんだろどうせ。指摘がとんちんかんかどうかも出版社や著者によって変わってくるんだからな、まったくやってられねえ。

ある案件鉛筆を入れれば烈火のごとく怒られ、ある案件では鉛筆を入れなかったことにねちねち詰められた。

あの時の判断はどっちも間違ってなかったって、俺は今でも思ってるけどな。

一番クソなのは表記統一だな。あんなの気にする奴なんかいるか?

「つながる」だろーと「繋がる」だろーと、混在してようがどっちでもいいだろ。

一文中の漢字仮名バランスガーとかそんな高尚なもんじゃなく、単純に気にして読んでる奴なんて誰もいねえんだよ。

いるとしたら、そいつ校正者だ。話を聞く価値もねえ。

「繋」は俗字だから直せだと? うるせーな、てめえは校正者か?

今どき「繫」を使ってるメディアなんかねえだろ、たぶん。

まったくもって、誰のためにもならない仕事だ。

著者をキレさせて、読者にそっぽを向いて、出版の奴らしか気にしないようなエセルールを厳守して満足してるわけだ。

ダーシや3点リーダがひとつだろうとふたつだろうと、どうでもいいんだよ。

誤脱拾わせるのなんてWordにでも任せとけ。

とっととAIにとって代わればいいんだよ、こんな仕事

「非常に複雑な判断が求められるからAIには無理」とか言う奴も多いから聞かせてもらうけどよ、人間脳みそって本当にAIより出来がいいのか?

俺にはとてもそうとは思えねえ。あと5年か10年もすりゃ余裕で超えるだろ。

だいいち、人間サマの書いてる文章がそこまで上等じゃねえ。

AIのほうがよっぽどマトモな文章を書くぞ。

うさんくせえアフィ記事段落ひとつをまるまるコピペして、ちょろっと表現変えただけでファクトチェックは全部ぶん投げるクソライター

専門分野より先に日本語を学べってレベルで主述関係メチャクチャで、挙げ句の果てに自分とこの専門用語さえ間違えてるクソ学者

そんなものにセコセコ鉛筆入れてるこの仕事も、ロクなもんじゃないに決まってる。

AIファクトチェックができないって? なるほど、どうなんだろうな。

それならもしかしたら人間も、生き残れるかもな。

だが、専門家でもない俺らのファクトチェックなんざ、たかが知れてるだろ。

どうせパソコンたかたやって、ネットのマトモっぽいサイト見つけて「うーん……これはたぶん公式!」って適当認定して、そこから情報がきちんとコピペされてるかチラッと見る……やっぱもう5年か10年もありゃ、普通にAIでもできそうじゃねえか?

そもそも公式サイトだって平気で間違ってるしな。

「××駅から徒歩10分!」とか書いといて、GoogleMap見たら30分はかかりやがる。

俺ら御用達コトバンクだって、これはいったい何年前の学説なんだ?ってのがザラにあるじゃねえか。

ああ? もっと真面目に仕事をやれってか。

だが校正ってのはとにかく時間がねえ。出版ルートにおける一番最後、要するに下水道だ。

著者がなかなか書きやがらねえ。編集がなかなか回してこねえ。そのくせ締め切りは動かねえ。ならどうするか? 校正時間を削るんだよ。

まり一番どうでもいい工程なんだってことは、出版業界共通認識なんだろ?

とにかくこの仕事は、必要のないことをやって金を得ている。

ブルシット・ジョブよりタチが悪い。

役に立たないどころか、人をイラつかせてるんだからな。

若者台詞なのに「これはら抜き! い抜き!」とか鉛筆入れてる初校を見ると「バカかテメェは?」とか言いたくなるんだよ。

そんときばかしは著者に同情するな。「あの校正者をクビにしろ!」とかクレーム電話の1本や2本入れるかもしれねえ。

仕方ねえから初校フィードバックすると、すげえ不満そうな顔されんだよな。

正しい日本語ってなんだ? それは著者の表現したいものより大切なのか?

俺もさ、はじめはさ、希望を持ってこの仕事を選んだんだよ。

著者の頭の中にある世界を、誤字脱字なんか余計なノイズなしに、そのまま100%伝えるんだって

気づけば俺は、「十年と一〇年で表記がユレてます」なんてクソどうでもいいことばかり憧れの作家に抜かしてるわけだ。

でも仕方ねえじゃねえか。

木っ葉校正者地位なんてカスみたいなもんだから、身を守るには野暮な指摘を入れるしかねえんだよ。

「私はちゃんとここに気付いてますけど、あえてママにしているんですよね?」ってアピールをしとくんだ。

だって入れたくねえよ、こんな鉛筆。でもそうしなきゃ、いつ契約を切られるか分かりやしねえ。

正直な話、俺は小説より漫画が好きだからよ、いつもジャンプのことを考えてるんだ。

暗殺教室知ってるか。あれに有名な誤字があるんだ。

「転んだ」が「殺んだ」になってるってやつな。

俺は今でも、あの41話をチェックした人のことを思っている。

主人公の才能がついに開花したっていう超激熱エピソードでよ。

そんなクソ盛り上がるシーンなんだから松井先生もそりゃお得意の言葉遊びをするだろうさ。

俺がもし「(念)この『殺んだ』は『転んだ』の誤表記ではありませんね?」なんてお伺いを立ててる奴を見かけたら、もう絶叫しちまうよ。

当たり前だろ。マジで冷めるから鉛筆だろうと死んでも入れるなよ、そんな指摘。

ところがどうだ、実際はマジの誤植で、編集からお詫びまで出た。

いったいどうするのが正しかったんだろうな。

やっぱり指摘をしとけば、防げるミスだったんだろうよ。

でもな、答えを知っちまった今でも、俺はやっぱり「殺んだ」をスルーするのが一番だと思うんだ。

たとえ校正者として間違った態度だとしても。

「私はあなたあなた作品を信頼しています。だからこの表現には何も指摘を入れません」

そういう仕事をしてえよな。

ただまあ、もう一つだけ欲を言えば、俺が恐縮しながら入れた鉛筆が、作品世界ちょっとだけ広げることにつなげられたなら……。

いいや、それは下心がありすぎだ。何様だよ、お前は。

校正者が前に出ても、いいことなんか何一つねえ。

から俺は明日も結局、ホームページ代わりにインスタを使ってるオシャレ飯屋に悪態をついたり、聞いたこともねえ企業が前株なのか後株なのかを必死こいて調べたり、シャーペンの先っぽで一字一字ゲラ文字をぷちぷち押さえたりするだけなんだ。

誰にも求められてない仕事のためにな。

ああ、クソッタレ

2023-06-20

小説家になろうなんて所詮素人落書き

素人の文しかない

プロが書いてたとしても編集校正の目がはいってない初校

未完成しか載ってない

なろうは絶対にここから抜け出せない

なぜなら、なろうに出版済の小説投稿するのは規約違反

一般人はなろうの小説を読むくらいなら本を買うわけ

2023-03-03

anond:20230301211730

いくつか質問したい。

日本国紀』って百田 尚樹の著書で間違いないよね?

amazonで調べたところ、509ページとのこと。

初校なら15万ということで、ざっくりページ単価にすると300円ほどになるが、これが素読みの相場ってこと?

しかし、よくよく考えるとページの多寡は字詰めによりけりなので、ページ単価ってあんまり使わない?

だとすると、文字数で1文字いくらという話になるのだろうか?それとも、アバウトにまるっと一冊いくらという話なのか。

また、仮に増田が509ページの初校素読みを受注したとして、作業にかかる時間はおよそ何時間かかるのか?

もちろん内容によりけりとは思うけど、平均的に。

2023-03-01

校閲は何をしているのか

先日ホットエントリに入っていたブログエントリColorful Pieces of Game『書籍ゲーム歴史」について(5)』にて、

校正校閲はいったい何をしていたのか」

との言及があった(現在修正済)ので、校閲業界では若輩者の私ですが、書籍制作において「校閲は何をしているのか」を少しばかり紹介しておこうと思い立ちました。

まず前提としてご理解頂きたいのは、一冊の本が世に出るまでには様々な工程を経るわけですが、その中で校閲が関わるのは「かなり後のほう」という点です。

書籍制作において最も時間を要するのは「筆者が原稿を完成させるまで」、次いで「社内の了承を得て刊行が決まるまで」のプロセスだと思われますが、校閲の出番は更にその後です。通常、校閲ゲラが回ってくる段階では既に発売日・刊行部数etc.が決定しており、余程の(筆者都合の)問題でも起きない限り(*1)動きません。つまり、「企画に無理がある」「内容がおかしい」といった理由刊行を延期ないし撤回させる権限は、そもそも校閲には無いわけです。

校閲者でもフリーランスなら「降りる」という選択可能ではありますが、企業所属している場合だと、誰かが作業を引き受けざるを得ません。こうなると、多くの場合は「誤字・脱字etc.のチェック、および最低限(=具体的には固有名詞・年月日etc.)の事実確認のみ行う」という対応となります

ファクトチェック」という言葉も指す内容が広いのですが、最優先でチェックすべきは、前述したように固有名詞・年月日etc.です。その次に、筆者の行った引用・要約etc.確認作業(*2)が来るのですが、その際に「筆者の主張は妥当か」という評価を下すことは、校閲権限を超えています(*3)。

そもそも筆者は誰よりもその分野に詳しいから本を書いているのであって、その内容を筆者以上の緻密さでチェックできる人間は、論理的には存在しないはず。そして、筆者の主張を世に出すことが妥当ないし有意義だと編集者・版元が判断たから、企画として動いているわけです。こうしたことを踏まえれば、校閲者の有する権限編集者に比べるとかなり限定的ものに過ぎないこともお分かり頂けるかと存じます。言い換えますと、筆者・編集者が「内容はグダグダでも構わない」と開き直っている場合校閲抵抗する余地はありません。結果として事実誤認オンパレードと化した本が世に出てしまった場合、その咎は筆者と編集者が負うべきである、と一介の校閲者としては考えます

また、「チェックしようがない事柄」も存在します。例えば、筆者が行ったインタビューを基に書かれた原稿ですと、発言内容の真偽(*4)、あるいは遡って「本当にインタビューは行われたのか」を問うても意味がありません。また、専門的あるいはマニアックな内容(*5)だとか、そもそも記録が残っていないために手も足も出ないという例も、ままあります

最近ですと、漫画アニメゲーム音楽etc.に関する記述・論評をチェックしたい場合に、「信頼の置けるデータベースが見当たらない」という問題もあります。有名なシーンやトピックなら各所で言及されている場合もあるにせよ、本来なら現物を取り寄せて実際に確認するのが望ましいのでしょうが、実際の校閲作業でそんなことをしているわけにも参りません。最終的には筆者を信用せざるを得ず、どうにも頭の痛い問題です。

ついでながら、校閲を通す場合金銭的なコストにも触れておきます

例えば物議を醸した『日本国紀』の場合一般的相場ですと、素読み(=ファクトチェックは行わず、誤字・脱字etc.のみ指摘する場合)は初校なら15万円程度、再校で10万円程度(*6)。更にファクトチェックも求められた場合、かかった時間に応じて別立てで請求することが多いのですが、作業可能時間刊行スケジュールに制約されることを考慮すると、20万円程度が上限かと思われます。当然ながら「作業量を考えると、この日程(or支払額)では無理」ということもあるわけで、そういう場合は「できる範囲確認作業は行うが、手が回らなかった部分は、ともかく著者を信用する」という対応も起こり得ます

気の利いた編集者ですと、先回りして「ファクトチェック不要です」と言ってくれることもあるのですが、実際には「ツッコミどころが多過ぎることを編集者自覚しているが、それを筆者との間で摺り合わせる時間も気力も無い」だけじゃないのか?と、一介の校閲者として邪推したくなることはあります。『ゲーム歴史』の制作進行は、どんな感じだったんですかね。

ともあれ校閲者としましては、単純な誤変換の見落としetc.の指摘に関してはひたすら恥じ入るばかりですが、「文章破綻している」「内容が間違いだらけ」といったレベルのご批判でしたら、できれば筆者か版元へ向けて頂きたいと願う次第です。

(*1)個人的経験した中で最もアツかったのは「筆者の不祥事新聞沙汰になりました)が発覚して、既に校閲済=刊行間近の新書企画が飛んだ」という事例です。誤訳の指摘も含めて、ファクトチェック、すげえ頑張ったのに……。

(*2)挙げられている資料アクセス困難で詰む事例は珍しくありませんが、中には筆者自ら資料を開示して「引用や要約が適切か確認してほしい」と依頼してくる例もあります。そういう場合は当然ながら、校閲者が責任を持って作業に当たることになります

(*3)もっとも「前段と後段で主張が食い違うのでは?」といった指摘は起こり得ます

(*4)無論、明白な事実誤認記憶違い、言い間違いと思しき例など)が含まれていれば、その旨は指摘します。

(*5)とりあえずネット上で検索を試みたものの、ほとんど筆者自身による論文しかヒットしない、という事例は実際に経験しました。

(*6)ここを著者と編集者校正することにしてしまえば多少ともコスト圧縮できるわけですが、その結果どうなるかというと……

2022-11-14

https://someiyoshino.info/entry/2022/11/12/180700

俺は出版じゃなくて報道校閲だったか他文化のことは完全には分からんけど、人じゃなくてモノに「狂った」って表現使うの、そんな神経質に排除するとは思えないけどなあ。

予定が狂うとか歯車が狂うみたいな慣用句いくらでもあるので、俺がそういう表現指摘したことないし、同僚が指摘したのも見たことない。

まあ時間に余裕のある出版校閲だったら初校では指摘するかもしれないけど、それでも再三指摘することなんて無いと思うが。

百姓八百屋を直されたというのも、それを見下すようなニュアンスで使ってたからじゃないの。

2021-01-27

初校10年前、8年前、5年前の Javascript入門書がうちにある。

古すぎてもはや常識から違ってるだろうなあって思うものの、文法とか基礎的な部分は大して変わってないんじゃないかと流し読みしている。

どうなんだろうなあ…

2019-09-09

自分がただのコンテンツになっていた話

好きなCPがあった。

その二人はピクシブTwitter作品数が多いわけではなく、いわゆるマイナーカプといわれる扱い。

「少ないと言う前に自分作品を増やせ」という意見を当時沢山みたか積極的作品を書いてつぶやいていたと思う。

 

そんなある時、TwitterでそのCPアンソロ企画を見つけた。

執筆者募集していると聞き、告知アカウントに申し込みに行き、打ち合わせをしてスケジュールを確保できたので参加を表明した。小説での参加だった。

 

指示されたテンプレートに沿って、盛り上がりやページ送りの調整も気を使った。数ヶ月かけて話と紙面を作っていった。

無事に執筆を終えて締切通りに原稿を提出した。

初校がとして送り返されてきた原稿を開いた瞬間固まった。

自分が想定していた出来上がりとは全く違う、大幅にページ数が増えたものが送られてきたから。

その時点でテンプレート変更に関する連絡は主催から一切受けていなかった。

 

その後主催から連絡があり、当初に作ったテンプレート文章を入れると見づらいから変えた、とのことだった。どういうこっちゃねん。

作った作品をぶっ壊され膨大な修正作業をする時間私生活をどんなに削っても確保できなかった。

主催に辞退を申し入れたが、主催からテンプレート問題なら自分側で作成してでもいいから参加を継続できないかと言われた。無茶言うな。時間ねぇつってんだろ。

時間の都合がつかない。このままでは(すでに大迷惑かけられているけど)アンソロ発行するのに迷惑をかけてしまう。

申し訳ないのだが辞退させてほしいと再三伝えたにも関わらず的外れ提案と引き留めをしつこくされてうんざりした。

辞退は受理されたものの、主催自分不手際を表に出したくないのか辞退者が出たことすら告知されない。

主催側にせめて辞退(というよりまず当初予定していた参加人数から減ったこと)、辞退理由を発表していただきたいと申し出ても拒否された。

仕方がないから使っていたアカウントで辞退と辞退に至るまでの経緯説明を行った。

 

TLに沸いた言葉はあまりにも脱力してしまものばかりだった。

 

「この人、この件でCPから離れてしまうのでは?」

この一言を見た瞬間、確実に自分の心の中で何かが崩れた。

ああ、この人たちは自分のことをフォローしていれば好きなCPを発信するコンテンツしか思っていないんだと。

結局自分推しCPに纏わる言動は周りにただ消費されていただけに過ぎなかった。

 アンソロ主催に散々な対応をされた挙句に、自分CP界隈の中で人間扱いされていないことに疲れ果ててしまった。

とにかくCPを呟いていた自分の行動がバカらしくて仕方なくなった。

見ず知らずのお前喜ばせるためだけに活動してたんじゃないんだわ。

 

 

 

 

2019-05-30

現役校正者が書く校正フローとかの話(追記しました)

現役の校正者です。出版社校閲所属ではありませんので、多くの出版社とお付き合いさせていただいてます

幻冬舎見城徹社長インタビューhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/post-12205_1.php)と、そのブコメ拝読していて、いろいろと解説できることもあるかもしれないな、と思いましたので、一般的校正フローがどういうものか、ということについて、増田で書いてみようかなと思います

注意書き


校正フロー全体の流れ(一般文芸小説などの場合

初校ゲラを作る
  1. 原稿が書き上がる
  2. 書きあがった原稿デザイナー(あるいはDTPオペレーター)に渡される
  3. デザイナーによって組版が行われる(よく「流し込み」と言います
  4. 初校ゲラの完成
初校チェック
  1. 流し込みされた原稿ゲラが、関係各所に渡される
  2. 時間をかけて読む
  3. 校正者、ステークホルダの初校戻しを編集者が受け取る
再校ゲラを作る
  1. 編集者が、それらの指摘&自身からの指摘を整頓してまとめ、著者に渡す
    • この段階で、一部の校正指摘は却下されます。一例としては、「誤解による指摘」「著者が過度に傷つきそうな指摘の表現をやんわりしたものに書き換える」などがありえます。誤解なんてないに越したことはないのですが、「意図的な仕込みだとは思うが、ミスだとまずいので念のため伝えておく」というような、杞憂に近い指摘も出てきうるので。
  2. 指摘の一覧を受け取った著者が、「指摘を採用する/しない」の判断をし、自分修正したい部分も書き加え、編集者に戻す
  3. 著者からの戻しを受けて、編集者&著者が最終判断をする
  4. 修正指示=初校赤字校が確定し、デザイナーに渡される
  5. デザイナー修正作業をする
  6. 修正されたゲラ=再校ゲラの完成
再校チェック
  1. 再校ゲラが、関係各所にまた渡される
  2. 時間をかけて読む
  3. 校正者、ステークホルダの再校戻しを編集者が受け取る
完成原稿
  1. 編集者が、校正者・ステークホルダの指摘&自身からの指摘を整頓してまとめ、著者に渡す
  2. 指摘の一覧を受け取った著者が、「指摘を採用する/しない」の判断をし、自分修正したい部分も書き加え、編集者に戻す
  3. 著者からの戻しを受けて、編集者&著者が最終判断をする
  4. 修正指示=再校赤字校が確定し、デザイナーに渡される
  5. デザイナー修正完了する

この段階で、完成原稿扱い(を目指す)というのが一般的です。なお、上記説明では「完成」の判定を誰が責任を持つのか、デザイナーDTPオペレーターの職分の厳密さ、あたりがすっぽ抜けているんですが、そこの解説は省略させてください。パターンがいろいろありますし、枝葉の話かと思いますので。

とても高い正確性が求められる書籍(例えば辞書)の場合や、再校での修正量が想定以上に多かった場合は、さらに「修正指示が反映されているか」「もう一回読み直し」とサイクルを予定している/追加していく場合もありますが、だいたい多くの書籍では「初校・再校」の合計2回まででまとめていると思います

日本国紀』はあのあり方、ページ数などからみて、三校、四校まで実施しているかもしれません。遠くから眺める限り、いろいろと大物な予感がしますので、ちょっと再校まででは済まない印象がします。単なる勘ですけど。そういう意味では、インタビュー内の「通常の3倍以上」というのは、六校、七校まで実施した、という意味かもしれないな、と思っていたりします8-)

剽窃チェックについて

校正作業を行うにあたっては、「リスク認識した場合、そのリスククリアするためのチェックフローを追加する」というスタイルがよく採用されます。実務に沿って言い換えると、まずは「編集者からの依頼としてチェック項目のリストが渡され、それを元に読み進める。そして、実際に校正作業を進めてみて新たに発見されたリスクについては、適宜、リスクに応じたチェックを追加する」という形です。言葉にすると当たり前なように聞こえるかと思います8-)

これを剽窃チェックにあてはめると、「この原稿にはWikipediaコピペが含まれていそうだ」と判断した場合に、「Wikipediaコピペを検知するための確認作業を追加する」ということになります

Twitterで、小池みきさんが「社内校正ときに「ウィキコピペをしてないかチェックする」って作業があった」とお話されていました(https://twitter.com/monokirk/status/1133240351123099648)が、これは、続きの「ネットに詳しくないおじいちゃん郷土史家とかはけっこうやってしまうので」というのが重要ポイントで、リスクが高い状態がすでに認識されていたからこそ、コピペチェックが定型フローに含まれていた、ということだと思います

なので、「『日本国紀』はWikipediaコピペのチェックもしていないのか?」という問いに関しては、「百田尚樹先生文章について、なんらかの剽窃リスクが高く見積もられていなかったならば編集者から提示された最初校正依頼の項目に『コピペチェック』が含まれていなかったとしても、特別おかしいとまでは言えないと思う」という回答です。

そもそもとして、剽窃絶対にしてはいけない・出版倫理にもとる、というのが大前提なので、「著述家として実績を積み重ねた方であれば、剽窃不適切引用はしていないはず」という認識を基本とするのはわりとベーシックです。例えば飲食店において「お客様は全員きっと食い逃げするに違いない」という強いリスク感を持つのがさほどノーマルではない、みたいなことで、「剽窃あるかもしれない」とは考えますが、「剽窃あるはずだ」と強く疑ってチェックを重ねるのはコストが嵩みすぎる、という判断します。「存在する可能性が高いものを探すコストをかける」のと、「存在しない可能性が高い(と考えられる)ものを探すコストをかける」のは現実的には違うのです。校正作業にも締め切りや予算がありますから

ですから、多くの校正作業においては、「この原稿コピペが入ってるのでは? 剽窃かも?」というリスクをどこかではっきり認識したら、その時点からコピペチェックを追加します。「おそらくあるはずだ」に頭を切り替えるからです。「私の場合は」という但し書きはつきますが、おそらく多くの校正者がそうしているでしょう。

では、「最初偶発的に発見するしかないの?」という問いに関しては、「はい。ある程度は偶然に頼ります」というアンサーです。ですが、ベーシックファクトチェック実施していれば、どのみち辞書インターネット・専門書等を駆使して大半の単語記述を見比べながら読むこととなり、「剽窃不適切引用が多数存在した場合、そのうちのどれかひとつ発見する」という可能性はそこまで低くないと思います特にWikipediaからコピペ発見は多少は期待できます。実際、私自身も何度もそのような経緯でコピペ事例を発見したことがあります検索さまさまです8-)

一方で、参考文献のリストそもそも共有されていなかったり、それが不完全だったりすれば、「どこから引っ張ってきたのか」の見当をつけることさえできないので、かなり発見が難しくなります

日本国紀』で校正フロー機能してない問題全体の話

校正作業チェックリストの項目)は追加すれば追加するほど期間と金コストがかかるし、無限時間をかければ当然ペイしなくなってしまます。なので、特に校正フロー最初においては、クリティカルな点や、質への貢献が高い項目を重点的に校正する、というのが多くの場合の実情です。

作品固有の事情として、『日本国紀』がどういう売り方で、どれくらいの期間、どれくらいの利益企画していたか、ということは外側からではわからないので、「通史で全部のファクトを細かくチェックしていけば、校正だけで5年はかかります」というコメントから、「じゃあ5年かけろよ」とだけ言って終わらせてしまうのは、理想的ではあるものの、現実的可能かどうかはわかりません。

2019/05/31追記:「通史で」というところもポイントなんですよね。そもそも日本国紀』を通史相当とみなすのか否かから検討されなくてはならない。一般文芸書と学術書では求められるレベル感が違いますもの

金銭時間が膨大にかかる理想をすべての書籍に一律に求めることはできない実情は既にあるので、「『日本国紀』という作品については、どれくらい理想を突き詰められたのか、突き詰めるべきだったか」という評価判断と合わせての評価のほうが、現場にとっては建設的であろうと考えます。これは単に「校正現場にとっては」という話であって、思想云々、歴史云々の話は学術芸術的観点を含むため、また別枠だと思います。今回の増田でそのあたりを取り扱うつもりはありません。校正作業の話だけをします。

最初お断りしたとおり、私は『日本国紀』をまだ手にとっていないので、どれぐらいの校正コストが支払われるべき作品だったのかについて、特に言えることがないです。もしもこの増田に反応が多ければ、その時は目を通してみようと思っています。その場合見積もりのために数日ください;)

現に剽窃事実誤認誤記と見られる(らしい)記述存在したそうですから、「『日本国紀』において校正フロー全体は正しく機能していなかった」は正しいと言えるとして、ではその原因は何か?については妥当な推測ができません。例えば期間や予算がなかった、あるいは校正者の実力自体の不足で、(作品としての理想、読者の皆様からの期待の両面から)求められる成果にそもそも達していなかった可能性はもちろんあります。また、あるいは部分的に達せられていたとしても、編集の方、著者の方にご確認いただく過程で、指摘が却下されている可能性もゼロではありません。

校正者」という個人さらにその校正力にだけ、校正フロー機能不全の責が向かうとすれば、必ずしもそうとは限らないですよ、ということぐらいは言わせてください。

修正一覧を公開すべき論について

私は見たいです。勉強にもなりますし。

……という感想はさておき、インタビュー内の「版を重ねて修正するのはどの本でも当たり前のようにある」は事実です。また、特段の事情がない場合サイレント修正するのもよくあります

ただ、ごく短い期間で版が何度も更新され、さらに刷りを重ねているとなれば、最新の版以外を「古いもの≒正確でないもの」と認識した上で取り扱ってもらえるのが望ましいでしょうし、その必要性の度合は文芸小説等よりは高いと思います広辞苑記者ハンドブックなどを使用する際に「第◯版を使った」というのが重要視されるように、『日本国紀』第◯版読んだよ、みたいな感じで。

長くなってごめんなさい

増田でこんなに長くていいのかって思いながら書きました。すいません。

 
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