はてなキーワード: 通過儀礼とは
http://anond.hatelabo.jp/20150123232043
★ここで大胆な仮説を書いてみる。
「日本のリタイア年齢の後倒しの背景として、孫が出来る年齢の後倒し、ないし孫無し老人の急増」が関係しているのでは?
「孫が出来る年齢の後倒し」って、長ったらしいので、一言で「晩婚化」ならぬ「晩爺化」と称することにしよう。
★「老人としての通過儀礼」として、「仕事のリタイア」に匹敵する、いやそれ以上のイベントが「孫が出来る」ことである。
孫を抱くことで、「ああ自分も老人の仲間入りした」と実感することになる。
★いくら「リタイアを後倒しして、永久青年を気取ろうと」したところで、生物学的な「祖父母になった」という事実は変えられない。
リタイアを拒否して永久青年を気取ってた人が、孫が出来てしまったことで、『自分は老人であるという現実を受け入れて』リタイアする
★ところが、最近の子供(といっても、60歳代シニアの子供だから、まあ30歳代)はなかなか結婚しないし、
結婚してもなかなか孫を作ってくれない。
その結果、少し前なら60歳になったら過半数の老人が「孫持ち」だったのが、最近では65歳、70歳・・・と「晩爺化」が進行している
その結果、以前なら還暦と同時に孫持ちになり、「これで人生一丁上がり」とリタイアに踏み切っていたのが、
65歳・70歳と晩爺化することで、どんどん「人生の上がりの見極め時期」が後倒しされてくる。結果、リタイア年齢も後倒しされる。
★ちなみにお隣の韓国も、日本以上に高齢者就業率は高いらしい。
韓国が「年金制度が不備だから、高齢者就業率が高い」のかどうか、わからない。
ただ、韓国は日本以上に晩婚少子化の国なので、ひょっとして「晩爺化」で「老人になることを認めたくない高齢者」が増えているから、韓国就業率は高いのか?
★よく「年金はこのままだと破綻する!!」と恐怖感をあおる報道がなされる。
或いは、金融機関とか保険会社が、「だから養老保険に入りましょう」とセールストークする。
でも、年金が「見込より2~3割程度少なくなる」ことはあるかもしれないが、
「年金が見込みより半額以上減る」ことは現状考えづらい。
「半額以上減る、破綻する」と不安煽って商売する金融機関・雑誌テレビは猛省すべしだと思う。
彼らのせいで、日本人の経済行動が過剰貯蓄になり、さらに不安先行心理になって、出生率まで影響しちゃう。
★これは私見だが、日本の年金財政は、実は雑誌が煽るほどには悪くないんじゃないか、と思う。
出生率の予想は外し、利回りの予想も大外れなので年金財政が悪化方向であるのは事実だが、
一方で、「70歳近くまで、年金を受け取る側じゃなく、年金を払う側」に回る人も多い。
★実は、65歳以上高齢者の「就業率」国際比較データを見ると、日本は突出して高齢者就業率が高い。
社会学者は、その理由を「日本の年金水準が低いから(現役時代所得代替率が低い)」の一言で説明している。
実際「年金水準が低いから、仕方なく働かざるを得ない」の理由な人も多いだろうが、
それだけでこの高就労率を説明できるだろうか?
「経済的には働く必要もない」のに「リタイアするのが怖い、リタイアすると生きがいが無くなる、自分の居場所として職場が欲しい」
という「精神的理由でリタイアしない人」も、日本では結構多いんじゃないかと思う。
★成人になるのに、社会によっては「通過儀礼」を行うケースがある。
昔の日本の元服式、今の成人式、未開部落ではバンジージャンプ、韓国では徴兵制。
今の日本では成人式は通過儀礼になってない。だから「精神的に大人になれない、なりたくない20歳以上」が増えてる。
★60~70歳男性にとって、「退職」とは一種の「老人としての通過儀礼」。
しかし、「自分は老人だと認めたくない、精神的永久青年」が増えているため、
「老人としての通過儀礼であるリタイア」を極力後倒ししようとする日本人男性が多い、それが「60歳代後半の異常な就業率」の正体では?
★ちなみに、日本の平均リタイア年齢が69歳程度なのに対し、フランスは60歳を切っているらしい。
かの国では、「老人になることを受け入れる」精神風土があるのではないか?
22か国では「働く必要があると考える年齢」より、「リタイアしたいと思う年齢」を下回ったらしい。
世界的には、大多数の人は「もっと早くリタイアしたいのに、経済的にやむなく働かざるを得ない」
唯一日本のみが「働く必要があると考える年齢(60歳)より、もっと長くまで働きたい(62歳)」と回答したらしい。日本人のリタイア拒否症状は重症。
★また、『職位では特に管理職が、より長く働きたいと考える結果』だったらしい。
この調査結果は、すなわち、日本人のリタイア後倒し現象が、経済的理由に起因するものではないことを裏付けている。
管理職なら、経済的には『働く必要がない』のに、あえて働いている。
恐らく、管理職の『まだまだ若いモンには、ウチの会社は任しておけねぇ』という訳判らない『責任感』が、
★これ是非とも、「年収・資産」と「いつまで働きたいか?」のクロス統計を見てみたい。
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
私はちゃんとしていない。
昔から完璧主義で認知が歪みまくっており、とあるきっかけから自殺しかねないような状態になった。
そのときは本当に周りに迷惑をかけたし、自分でも恐ろしかったので、思い切って色々諦めることにした。
鬱の人間がゴタゴタするより少し暗い人間がのんびり暮らしているほうがいいのではないか。
そうして今はなんとか必要最低限働いて生きている。
贅沢は出来ないし我慢することは多いが、前より随分楽な気持ちでいられるため幸せである。
だけれど、(誰でもあることだろうけど)
「他人と比べて自分はまともか?」と考えると不安な気持ちにはなる。
わたしの中で「まとも」というのは、収入や生活レベルが安定しており、
その点私はまともではないと思う。
他人からは「この人はどうやって生きているんだろう」と思われているはずだ。
友人と会うと「どのくらい働いているの?」などと聞かれることは多いし、
自分でもこの程度で生きていけるのかと不思議なくらいだ。恵まれていると思う。
「この人はどうやって生きているんだろう」と思われても、死にたくないのが一番だ。
最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。
また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。
また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。
彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、〜しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう
最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。
彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう
今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。
また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。
その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。
今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。
企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。
生活保護を受けるのは非国民のような扱いを受ける。そもそも生活保護を受けるのも役人によるしぶとい駆け引きに勝たなければならない。
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
障害を持つものも、内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。
たとえ儲けが出なくても、働かざるは食うべからずという圧力で仕事が作られる。
駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。
彼らの中にはそういった欺瞞性に気付くものもいるが、どうすることもできない。運営してる福祉ですら、その欺瞞性を飲み込んでいかなければならない。
初めは人を救うという意志があったものの、欺瞞性や政治の結果、福祉の人として道を外れてしまい、いわゆる「腐った福祉」になってしまう
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
朝。そこには雀の気持ちいい鳴き声すら気づかない。
昨日の疲れが取れなかった苦しみだけが残る。
痴漢冤罪にならないことを恐れなければならない。
https://twitter.com/tm2501/status/442408904987639808
安全でうまい飯なら消費者はどこ産だって構わず食べると思うんです。一度は佐村河内守の音楽をありがたがったり、ゴーストが演出したビジネス書をありがたがった人!楽しませてもらったんでしょ?いいじゃない!
https://twitter.com/tm2501/status/442410005568819200
ゴーストライター騒動に関して思うのは、「騙された」じゃなくて「自分の感性で面白いかどうかの議論で総括したら?」ってこと。大体仕事に関わってからネタばらしするブラックジャックによろしくの作者さんも加担したのだから追求するとしたらそれは自己批判だよね…本気でアレはどうかと思ってる 。よく考えて欲しい。初めてに近い執筆で百ページ以上の本を書くのは大変です。普通できません。支離滅裂になったり、日本語がおかしくなったり、挫折したり…手直しする方が折れたり…そんな真実でも読みたいですか?そもそも特に訓練してない人は30ページぐらいまとまった構成で書くのも無理!「前に小説家志望者は大作志向を捨てて短中編を書こう」という話を創作クラスタの人とまとめたことがあるけど、アレと一緒。ブログの数千文字で支離滅裂になる人だって世の中にはゴロゴロいるのになんで芸能人だけ達筆さ?内心、ホリエモンのゴーストライターの話で盛り上がってる世の中を見て、僕はほくそ笑んでます。「ざまーみろ!お前達が文章の技術や書物をバカにしてきたからそんなことも見破れんのだ!見破れなかっただけならまだしもうろたえるのだ!」と思ってる。一応、長文書くのって手間暇かかりますので。伊東四朗が演技について駆け出しだった頃に「演技がヘタに見える役者さんが自分ぐらい、普通に見える人がプロ、うまく見える人はその業界の神様だ」みたいなことを言われたことがあるらしいけど、これ書物でも同じ。2000文字まとまったもの書いて読み返してみ?自分が下手だと感じるはずだから。創作論、書物論をああだこうだ言うのは見苦しくて好きじゃないし、正直言って書ける人同士の間では当たり前の「野暮」でしかない失敗談なのよ。思春期とか反抗期みたいな通過儀礼。でも、知らない人は簡単に騙される。自分自身が普段ポジショントークと消費者トークの二枚舌を使い分けてる自覚さえない。昨夜、ブログに書いたことにも重なるけど、自分がよく考えないでいらないと決めつけたものを既得権益だとか誰にでもできる簡単な仕事だと思わない方がいいよ。思うのは自由だけど、わざわざ言う必要ないよ。少なくともそれをしている人は傷つくか、無知さを見抜いてげんなりしそうなので。本当に評論や批評としてかっちりとした文章を書くのは難しいし骨なんです。紙媒体で買ってもらうような作品を書く時にはそれを丁寧にできないといけないので、骨が折れます。(苦労を知らない人は文体や語彙力が技術であることも知らぬ)お金を儲けたでも、人気を得たでもそういう人に対して嫉妬するのはいい加減辞めたら?そういう人と関わりを持って働いて「彼と同じ努力強いられた。あの会社の社長はブラックだ」とか言う言い分はまだわかるけど、人気があるからうらやましい。でもあの技術は評価されない…は愚痴であり嫉妬。無意味
はい、それでは青二才が自分で書いた同人誌の評価を見てみましょう。
http://anond.hatelabo.jp/20121120220837
http://anond.hatelabo.jp/20121120224627
それに対する本人の言い訳を見てみましょう。
http://tm2501.hatenablog.com/entry/2013/11/16/000506
青二才にこそ本を出す前に文章を読んでくれる友人が必要だった。
しかしそういうものが必要だった青二才にはその時何もなかった。
それでも青二才はあきらめず裸一貫で挑戦した。
そんな青二才を誰が笑えようか。
誰にも笑わせはしない。
本人以外には。
https://twitter.com/tm2501/status/442319653126168576
紙媒体で買ってもらうような作品を書く時にはそれを丁寧にできないといけない
http://anond.hatelabo.jp/20121120224627
うん、いいこと言うじゃない。でさ、想像してみようよ。
文章系の同人誌を買う客が仮に「自由にすればいい」を手に取ったとしよう。
あらすじはない。登場人物紹介はない。あとがきもない。手書きポップもない。
売り子に聞いてもあらすじがわからない。表紙も手抜き。
買うと思う?普通に考えて。商売に詳しいんでしょ?
自分は人付き合いが本当に苦手で、そういうわけだから当然オタクでもある。
それで、例の準強姦ともとれる記事を書いたPJ息子みたいな、強引なコミュニケーションをとれる非ヲタをワンランク上と思っていた。
ウェーイ系の大学生みたいな人とかも。ああいう人がコミュ力があると言うのかなと思ったりしていた。
でも違うらしい。あれは雑魚というらしい。私は無理して、わざわざ雑魚になろうとしていたのだった。
本当に人付き合いが苦手なので、人間関係に圧力を持ち込む人に屈するのがコミュニケーションだと思っちゃったようだ。
一気飲みの強制の雰囲気作る人とか、「ここまで着いてきてセックス断るってないでしょ」みたいなことする人ね。
ああ言う人にあわせるのが、コミュニケーションなのかと。
オタ友が、こういう人たちと無理して付き合ってさんざんな目にあってるのを見てきた。
それはまっとうな人間になるための通過儀礼なのかと思ったけど、とんでもなかった。
けれど話が面白くないオタクを相手にしてくれる非ヲタなど雑魚くらいしかいないわけで……
強くなりたい。雑魚に屈さず、素敵なひとたちと有意義な時間を過ごすために強くなりたい。
文字にすれば、このつかみ所のないもやもやとした暗い気持ちにも整理がつくかもしれないとの期待を込めて、心の暗部を覗いてみる。
照れていたのではない。悲しいような、つらいような、屈辱的なような、とにかく、これは嫌な感情だ。
小学校で、たびたび音読の宿題が出た。教科書の指定された箇所を、親の前で声に出して読み、その感想と日付を、専用の表に親に書いてもらって、先生に提出する。当時、そういう機会では空気を読まずにはしゃぐタイプの子供だった私は、必要以上に大袈裟に演劇的に抑揚をつけて、大きな声でハキハキと音読していたと思う。
父は、私が音読をすると、とてもよく褒めてくれた。
「天才だ。」
「すごいね~。」
「上手だなあ。」
それが本当に不快で。
なんだかひどく屈辱的な気持ちになった。だから私は音読の相手は母に頼んでいた。でも、父は仕事が終わるのが早く(夕飯はいつも家族皆で食べていた)、母が家事で手があかないと「お父さんに頼んで」ということもあったし、そういう時は本当に嫌だった。自分のプライドが許す限り、つまらなそうに、つまらない気持ちで読んだ気がする。
あまり覚えていない。
でも父親が笑顔でベタ褒めするのも、読めない達筆というよりは汚い字で何か一言コメントを残すのも、嫌な気持ちが湧き上がるものだった。
父は、自他共に認める親バカで、私のことをことあれば「天才だ、頭がいい」「かわいい、美人だ」と褒めていた。
「美人だね~と言って育てると、美人に育つらしい」と言っていたから、意図的に積極的に言っていたのもあると思う。
5歳の時に、親や祖父母が、この子東大に行けるんじゃないのウフフみたいな話をしていて、私は「東大ってすごいところ? じゃあ行く~!」と発言をした。この発言は高校生になるくらいまで繰り返しひっぱられ、その度に父は頬を緩ませた。あいにく東大はさすがににムリだったけど。顔面の方も、まあ仲いい人には褒められることはある。くらいに人並みで、劇的なモテエピソードなんかは特に無い。
父はとても頭のいい大学の頭のいい学科を卒業し、頭のいい人しか取れないような資格をとって、それでたくさん稼いでいる。ブランド志向というか、学校の名前をすごく気にしていて、私の受験のときも、あそこは旧帝国大学だ、筑波大は横国に比べて昔なんとかかんとかだったから格上だ、とか、そういうところをニコニコと語っていた。
父は私のことを間違いなく愛していたと思うが、小学校低学年くらいまでのころは、子供の子供な所に我慢ができず、時々キレて怒鳴ることがあった。
私はすぐにものを散らかしっぱなし、部屋を汚いままにしてしまう子供で(今もだけど)、「片付けなさい」といって片付けを始めても、他のことに気を取られてしまい、気がついたら片付けがちっとも進んでいない。ということが、たびたびあった。片付け以外にも、何か、やりなさいと言われて、「あとでやる~」と返事をしたきり、いつまでたってもやらない、ということはよくあった。そういう子供だった。今なら気持ちもわかるけど、子供の将来を思ってしつけが~とか、それ以前のところで、父はイライラしてキレた。(その気持も今はわかるんだけど)。
「なんでお前は言われたことができないんだ。」
「俺は命令しているんだ。俺がやれといったらただそれだけをやればいいんだ。」
「ただ1こやってほしいってお願いしているだけなのに、何でお前はソレ以外のことだけをやるんだ。」
「何回言わせるんだ。」
「お前は俺がやれといったことだけをやればいいのに、なんでそれだけのことができないんだ。」
「何度も何度も何度も。これだけ言っているのになんでわからないんだ」
なんていうか、たまに裏声混じりにでもなりかけた、抑揚のある言い方で、時には囁き時には大声になる、メリハリのある語り口で、父は私をよく、叱りつけた。
思えば反抗期は無かった。というより、させてもらえなかった、いや、できなかった。
父に少しでも叱られる…言及される可能性があることを避けていたから、いわゆる反抗期の時期は、自室でばれないようにばれないように泣くことが増えた。それだけだった。
家族で服を買いに行くことができなかったし、今でも親におねだりということができない。ちらりとでも、例えば「違うのにしたら?」みたいなことを言われると、なぜだかわからないけれど辛くて、泣いてしまう。
12月になって就活が解禁になって、自己分析とかそういうこと、その度に私は自分の卑屈さに苦しめられる。
頭ではおかしいとわかっているし、友人に溢す度に否定してもらっていることなのだけれど、自分の存在が企業にとって足手まといになるとしか思えなくて、つらい。失敗をして迷惑をかける未来しか思い浮かばないし、なにか自分の決断が、ささやかながらこの社会に影響をおよぼすのかと思うと怖くて不安で、何よりも申し訳なく後ろめたくて仕方がない。
この気持ちはもちろん、就活がストレスになっていたり、ゆとりつくした学生から社会人へとなる上での甘ったれた逃げや、通過儀礼的なものも多分に含んでいるのだろうけれど。
あなたが重視する価値観は? という分析では、「他者への影響」がゼロで「組織への忠誠」がマックス、「先人や上司への尊敬」が次いで高かった。ちょっと気持ちの悪い結果だ。笑ってしまった。
この卑屈さをたどったら、父に怒鳴られ萎縮してただただ泣いた15年前を思い出した。そうか、小さいころあんなふうに怒鳴られたら、そりゃあ卑屈にもなるなって。
少し違えば反骨精神あふれる人間になったかもしれないけれど。なるほど、あの過去が今にこうつながるのね。納得。
なにがあんなに嫌なんだろう。
私は父の笑顔のなにがショックだったんだろう。
育児論でよくNGとされる、「努力ではなく才能を褒める」ことをしたから?
じゃあ父は、どういう態度を取れば私は喜んだんだろうか?
私が『劇場版まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』を観ないたった一つの理由。
それは『魔法少女まどか☆マギカ』(以下まどマギ)という作品が実のところ魔法少女ものではないせいだ。
もっとも制作はすべて承知の上だろう。だから問題は受け手の側にこそある。
あなたはもしかしてまだ本作を魔法少女ものとして思ってやしないだろうか。あるいはアンチ魔法少女ものと惑わされてはいないだろうか。
そんな素直なファンたちにこそ伝えたい。魔法少女が現実に我々の社会を照らす光なのだということを。
最近だが『Fate kaleid liner プリズマ☆イリヤ』というアニメを観る機会があった。
嫌がる少女を無理矢理魔法少女にしたてあげたり、立派な女子高生がその衣装を着ることを揶揄したりと、なんとも悪趣味なパロディ作品であった。
——このままでは近いうちに変格が本格を駆逐してしまうのではないか。
その日が来る前に、伝えておかなければいけない。
敢えてそう主張しよう。
それは何だろうか。
笑わないで聞いてほしい。
魔法少女とは時代や年代で移り変わる少女の価値観を切り取り、輝きをまとわせるものでなければならない。それこそが魔法少女の資格であり、約束事であり、存在意義なのだ。
いま魔法少女と呼べるのはせいぜいキュアハートとフラメンコガールくらいのものだろう。
ここで『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982年)という作品を取り上げたい。
男性おたくを含め魅了した点で、本作の先駆けとも言える魔法少女ものの有名作品だ。
主人公は12歳の女の子。魔法の力で18歳に成長し、どんなプロフェッショナルにもなることができる。そうして「あなたの夢は私が守る」と視聴者に訴え続ける。
すると賢しい人はこんなことを言う。
「まどマギが正統派の魔法少女ものだなんて思っていないよ。あれはアンチ魔法少女ものなんだ」と。
……いいだろう。
そのテーマで私に論戦を張ろうというのなら受けて立とう。
アーキタイプとはC・G・ユングによる精神分析の用語で、世界中の神話や民話に繰り返し登場する人物像を抽象、統合したものをいう。物語分析においてはキャラクター類型論の礎として重用される。
この理論に則ると魔法少女は〈お姫さま〉のアーキタイプに還元される。
〈お姫さま〉は特別な生まれを持ち、国じゅうの人々の期待を受けている。社会の善性を表現し、人心を希望で満たすことが彼女の至上命題だ。
誰でも知っているように、すべての魔法少女はフェアリーテール(おとぎ話)の主人公なのである。
本稿は二つの作例を扱う。一つは『少女革命ウテナ』(1995年)。もう一つは『マルドゥック・スクランブル』(2003年。アニメ版は2010〜2012年)だ。
以降は『ウテナ』、『マルドゥック』と略記する。
知らない人は各自で Google にでも尋ねてほしい。
以下に読み解いてゆく。
『ウテナ』の真の主人公、姫宮アンシーのアーキタイプは〈娼婦〉である。〈娼婦〉は〈お姫さま〉の反対で、他人にへつらい、虐げられ、社会の悪性を負わされる犠牲のアイコンだ。
一方、表の主人公であるウテナは〈王子さま〉を目指す女の子というトランスセクシャルなキャラクター。
しかしこれは倒錯ではない。
洞察力を働かせればアンシー、ウテナのともどもが不在の〈お姫さま〉の鏡像であることに気づくだろう。
ちなみに敵対者である暁生は〈魔王〉。自らは何も生めず、他人を支配してその生産物を奪う男。暁生とアンシーの肌が黒く描かれるのはそのネガティブな心性が表出したためだ。
さらに続ければ枝織は〈悪女〉。力ある男に寄生してはダメにしてしまう中身のない女のアーキタイプ、となる。
閑話休題。
他方、『マルドゥック』の主人公バロットが〈娼婦〉であることに説明は不要だろう。
なのでもう一つアンシーと共通する特徴をあげよう。
未確認生物(サル?)のチュチュは典型的なダメ男の現身。人造ネズミのウフコックは使い手に依拠した万能の道具存在。そのいずれもが魔法少女の必須アイテムであるマスコットアニマルの成れの果てだ。
「学園の外の世界」だ。
そもそも「世界の殻を破る」というフレーズは二度目の誕生のメタファーである。
管理されたままでいるのも、管理する側にまわるのも結局は同じこと。
選んだのは未知に挑むという生き方。
〈王子さま〉でも〈お姫さま〉でもない。〈デュエリスト〉こそ『ウテナ』の提案するオルタナティブだ。
ではバロットはどうなっただろう。
彼女は当初こそ手にした力に溺れるものの、自分を裏切った男(野心の象徴)を殺すことはしない。逆に男を守ることで克つ。
さらに最後の敵(破壊の象徴)を相手に闘うときにも、バロットはひたすら耐え忍び、前のウフコックの相棒だったその男を止めることを考える。
運というものを理解したバロットにとってすでに暴力は勝利への要手ではないのだ。
どうだろう。
彼女は男性とは異なる価値観と武器を身につけたバトルヒロインとして成熟の階段を登っているのだ。
締めにふたたび『ミンキーモモ』の話をしよう。
この作品は途中、主人公が事故死するという衝撃の展開を迎える。これは現実への決定的な敗北であり、魔法少女というテーマに対する叛乱であるとさえ映る。しかし彼女はその後ふつうの人間として生まれ変わり、それからも夢を求め続けるのだ。
この出来事はいわば魔法少女という夢を現実に呼び込むための通過儀礼である。実のところ『ウテナ』で視聴者を騒がせたウテナの処女喪失シーンはこの発展ともいえる。
魔法少女とは何か、そしてアンチ魔法少女とはどういう所業なのか、理解されただろうか。
それではようやく『まどマギ』の話に移ろうと思う。
結論からいえば暁美ほむらはダークヒーローの女性版に過ぎない。
そして鹿目まどかの正体はヒロインへの変身を期待されながら最後はヒーローに変身するという、高次元のシェイプシフターであった。
結局、本編はまどかときゅうべえの二人がひとりよがりな正義に溺れたほむらにしっぺ返しを見舞う結末で幕を閉じる。
それに続く今作は——サブタイトルを信じるのなら——アンチヒーローとなったほむらがすでに叶えられたまどかのヒロイズムを覆そうとする物語となるはずだ。
実際、予告映像を観た後の私の予想は「どうせビューティフルドリーマーではじまってレイアース2で終わるんでしょ?」であった。
皆が『ファウスト』要素探しに忙しいようなので私が代わりに言うのだが、『まどマギ』の思想世界は『魔法騎士レイアース』のそれそのままである。
願いの力を世界の第一原理として位置づけ、その上で自己犠牲を否定するのなら、『レイアース2』の提示した可能性のいずれかに落ち着くのが妥当である。
ゆえに、いまの私に物語面に対する期待はない。
無論、映像・演出面のクオリティであればいくら期待してもよいのだろう。
しかし、だ。
『まどマギ』本編がやってみせたのは一見ヒロイズムの糾弾であるようで、その実勝つために既製の概念やルールを変える行為の全面肯定に他ならないのだ。
そんな作品である以上、魔法少女の外観は「釣り」以外の何物でもない。理解して食いつくのなら言い訳もできよう。舌に乗せたら甘美な味がする餌なのだろう。
しかし、我々は豚ではない。
食うためだけに生きるのも、食われるために生きるのも、どちらも御免被ると私は思う。
——部屋の灯りが落とされた。
そろそろこのノートパソコンを閉じなければいけない。これ以上の照光と打鍵音は周囲の観客の迷惑だ。
最後に。
これだけは言っておく。
そんなに大きな罪じゃないと思う。
あのまとめのコメント欄をながめてもはてブのコメントを眺めても全然建設的な議論になってない。
まあこれは程度問題で白か黒かで結論が出る話だとも思わなかったけど、それでも佐々木さんの発言はひどかったとおもう。
「吹聴するのがなんでいけないの?」
「そんな事を気にするくらいならなぜ中国野菜を使った弁当を食べられるの?」
他にもっと悪い事があるからこっちはええやん、という言い方は理性的ではないし反感も招くのは当然。
こういう言い方を変えれば話の流れも少しはかわったのに、と思ってます。
実際佐々木さんに否定的な意見をもったひとでも、あのアイスクリームをまちがえて食べたからって健康に影響が出るとか、
そういうふうに考えてる人は少ないと思うし、言いたかったのはそこじゃないと思う。
Togetterのコメントでも多かったけど、「俺も昔は悪かった、若いときはみんなそうだろう、通過儀礼じゃないか、なぜ寛容になれないんだ」
的な物言いに反感を抱いた人がいたんじゃないだろうか。
自分もそんな偉そうなことを言えるような倫理的な人間じゃないけど、でも能動的に人の迷惑をかけるような行動はしてこなかったつもり。
だからといってむかしバカやった人の事を責めてるんじゃなくて、でも過去の自分のバカを少しは反省してるようでないとこっちはイラつく、てのが正直なところ。
昔バカやった人が今一丁前の大人になって分別ありげに「こんな息苦しい社会じゃだめだ、寛容さはどこへ行った」ていうのは簡単だけどね、
その「バカ」「ヤンチャ」のかげで汗を流している人のことは忘れたらいけないと思う。
「ウェーイ」て居酒屋で騒いでグラス割ったりこぼしたり駅でゲロ吐いたり、どんだけいい思い出か知らないが、それを陰で片付けてる人は必ずいる。
壁にかかれた落書きのスプレーを必死で消してる人もいるだろう。チャリンコ盗まれて困った思いをしてる人も多いだろう。
佐々木さんの一連のツイートからはそっち方面への想像力が感じられなかったなぁ。
「昨今の倫理を過剰に求めすぎる社会は」とか、悦に入って論じてるひと、言葉だけ聞けばそれは全く正論だけど、倫理や規範は厳然としてあるんだよ、
そこをふまえた上ではじめて、「ゆるそうや、固い事いうなよ」、ていう話が出てくるんじゃないの?逸脱する為にはその元となる規範がいると思う。
実際に「社会」を成り立たせてるのは、黙々と道のタバコのポイ捨てを拾ってる人とか、理不尽に客に絡まれる駅員さんとか、そういう地道な人の営みなんじゃないの?
そこに目を向けずに「昨今の社会は」とか能書きたれられてる様な気がして、その「寛容」論は、違うやろう。という気になる。
で、そういう人の営みに敬意も何も抱いてないから、ああいう写真をアップする輩が出るんでしょう?
彼らは別に冷蔵庫に入る事が主目的じゃないよね、SNSにアップして注目を浴びたい、承認欲求を満たしたいからでしょう?
これは別に今に始まった事じゃなくて、海水浴場で監視員の制止を振り切って高い岩場から飛び込む若者とか、ある種普遍的な事ですよね。
そしてそれを自らネット上にあげる。それを見かけた我々がそれに対して「否。」ということがそんなに悪い事だとは思わないんだけど。
時にはそれがすごい数の否定が突きつけられるかもしれない、でもそれが社会的に間違った行為なら、それを指摘するのは間違っているとは、おもえない。
そこで悪い事を悪いと言わない事が寛容さでは、ないと思う。そしてそれは、「その店の関係者でも直接的な客でもないのに言う資格がない」
という話でもないと思う。だって彼らはアイスやピザを汚して、客に売りつけようとしてやった行為ではないのだから。
もっと普遍的な、人の仕事の、社会の営みの重さを知らずに、いちびりが賞賛を得られると思って世に吹聴する、という行為を目の当たりにして、
それは違うと意見表明するのはそのコンビニやピザ屋の客であるかどうかは、さして重要ではないのでは?
だってかれらは、SNSを通じて、我々の目に届けてしまったのだから。そして我々もそのコンビニに行かずとも、意見を表明する場を得てしまったのだから。
ネットにあげられる前なら、その店の上司が、社内規定をまげて温情で彼らをゆるす、ていうのはあるだろう。
そういうのは今までも、現在もよくある話なんだと思う。それを否定する気は全然ない。
その上司なりが自分の責任の範囲において規範をちょっと逸脱させて部下を許す、そういうのが「寛容さ」ではないのかな。
ただ彼らはいきなりそれをネットにあげてしまって、ローカルな問題をグローバルな問題にしてしまった。
ローカルでは逸脱できる規範も、グローバルではそういう訳にもいかない。規範をすべて壊してしまう訳にはいかないから。
ルーターがサブネットマスクを設定するように、身内と世間でルールを使い分ける、こういうタテマエ論が社会の規範を守ってきたのではないのかな。
今までは一つの出来事でドミノが一つ倒れるだけだったのが、今では一気に100個も1000個も倒れちゃう時代なんだと思う。
佐々木さんは最初のドミノを倒す人の事は放っておいて、末端のドミノに踏ん張れ、倒れるな、って言ってる印象なんだよなあ。
こういう事件があった時、我々はその商品を買う消費者であり、事件を起こした企業の一員であり、同時にネット上の傍観者であり得る。
無責任にならない為には、いろんな立場を考えて行動、発言しないといけないとは思うけど、事件を引き起こした彼らの立場は、いちばん共感し難い位置にあるのは確か。それに対して「俺も若いときは悪かった」てな事で共感はできないし、それができる人間にも共感したくない。
彼らの事をネット上で非難する人達は、決して安全なところから暇つぶしに言ってるんじゃなくて、
消費者としての自分、当事者の企業の一員になった自分を想像するからこそ、否定的な意見が出るんだと思う。
もちろんそれでネットによる過剰な叩きを肯定するわけにはいかないんだけど、でもやっぱり「悪い事は悪い」。
現代の若者は飲食店の冷蔵庫に入った写真を公開して馬鹿だバカだと叱られているが、昔は大学や山荘に立てこもって仲間を暴行したりして警察に突入されて、それをテレビで全国中継されていたのだから、大幅な洗練と進歩があったと言える。
http://twitter.com/masah/status/371855268063084544
学生運動もコンビニの冷蔵庫に入るのも同じ「自作自演の通過儀礼」であるとみなす考え方は、大枠は外していないと思う。問題はその自作自演の通過儀礼を行う層の学歴の低下だが、これには「大卒就職活動の激化」と、それに歩を合わせた「家庭的小規模産業の衰退」を原因として見て取ることができるのではないかと思う。
どういうことか。
まず、現代の大卒就職活動はじつに「通過儀礼」としてうまく働いている。「日常=大学生活」を離れ、「危険な場所=面接会場」に赴き、「宝=内定」を得て帰還すれば「大人=社会人」として認められる、という一連のプロセスは、多くの民族に見られる通過儀礼の構造そのものだ。これが多くの学生に普及した結果同年代の学力上位半分(大学進学者)にとって過剰な自作自演の通過儀礼は必要ではなくなった。これがひとつ。
もうひとつは、生活の隅々にまでロードサイドの大企業が進出した結果、これまで多くの低学歴な若者の雇用を吸収していた「家庭的小規模産業の衰退」を招いてしまった。彼らを雇い教育するのは血縁あるいは地縁でつながった「知り合いのおっさん」ではなく、本部から派遣されてきた「よく知らない兄ちゃん」に変わったのである。その結果「大人」であることの説得力は遥かに低下し、「ポカをやっておっさんにドヤされ、許される」という職業人としての通過儀礼もうまく提供されなくなった。よって彼らは「仲間内に過激なネタを提供する」という自作自演の通過儀礼に走らざるをえなかったのである。
この分析がある程度正しいとするなら解決策は一つしかない。すなわち、「職業教育の復権」である。学力階層の低い若者には、早いうちから「大人」に混じって働く機会を与え、あるいはまとまったスキルを与えてマックジョブ的な雇用ではなく「大人」の職場に吸収されるようにすることによって、彼らが「大人」になるのを待つしかない。
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「ローソンのアイス用冷蔵庫に入る男→契約解約及び当該店舗の休業を決定!」
http://matome.naver.jp/odai/2137384951250882101
もちろん話はそう単純なことばかりではない。この事例では馬鹿をやった若者は店長の息子だった。これは「家庭的小規模産業に吸収されたとしても、ちゃんと条件が揃わなければ通過儀礼は発動しない」ということをはっきりと指している。
加えて、大学生のアルバイトについてはここで述べた議論以外の対策が必要になる。
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ここで展開されている議論というのはすなわち、「社会全体が彼らにとっての教育の場となれ」ということである。むろん佐々木俊尚氏自身が著書で書いているように、国民国家が崩壊に向かっている現在ではそのようなことは不可能である。
シリアが化学兵器保有認める、軍事介入への使用示唆も| Reuters
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE86N00T20120724
シリア外務省のマクディシ報道官が化学兵器保有と外国の軍事介入に使用する可能性についてコメント。
www.cnn.co.jp/world/35020664.html
「アサド政権に対して通告してきた通り、我々は化学兵器の移動や使用が目に入った時点で、越えてはならない一線を越えたとみなす」(オバマ大統領)
NY Times
Syria Moves Its Chemical Weapons, and U.S. and Allies Cautiously Take Note
http://www.cnn.co.jp/world/35025181.html
IRIB(イラン・イスラム共和国放送 / イラン国営)
イランは反体制側の使用と主張。リビアで盗み出された化学兵器は、シリアの暴徒やテロリストたちの手に渡っている、と。
アルジャジーラが反体制勢力側からの情報としてシリア空軍機からの化学物質を搭載したロケット団を投下と報道。
The Voice of Russia
http://japanese.ruvr.ru/2012_12_25/shiria-hantaiseiha-seifugun-kagakuheiki-shiyou/
http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPTK830895520130116
IRIBもこれには好意的な反応。
このあと、IRIBは度々反体制勢力による化学兵器保有・生産・リビアからの入手をほのめかす報道。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2925432/10214232
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE91I00920130219
調査団は、殺害や拷問などの戦争犯罪が政権側と反体制派双方に見られる
とコメント。ただし、シリア国内での調査は行われていない。化学兵器についてはコメントなし。
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE82101L20120302
ロシアNOW
http://roshianow.jp/politics/2013/03/22/42033.html
The Voice of Russia
http://japanese.ruvr.ru/2013_03_19/108399085/
http://www.cnn.co.jp/world/35029732.html
ただし
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324309104578431510694834152.html
http://www.afpbb.com/article/politics/2946600/10792831
http://www.cnn.co.jp/world/35031925.html
この辺から、少なくとも使用は間違いない状況。ただしどちらが使用したかは確定的な証拠はない。(シリア国内での調査ができないので)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201306/2013060400776
国連が「信じるに足る根拠がある」とする報告書を公表。現地査察は行っていない。3,4月に起きた戦闘で使われたとの報告。
http://www.cnn.co.jp/usa/35033394.html
ロシア、米の武器供与に反発─シリアの化学兵器使用は「説得力なし」
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323504304578546861074009782.html
国連の潘基文事務総長もアメリカの反体制側への武器供与決定に反対、現地調査で事実を証明する必要と強調。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2955110/11022598
今度は逆にロシアによる反体制派の化学兵器使用との主張。 西側諸国はこれに反発。この時点で10件の使用を報告。
反体制派がこれに反発。ただし、アレッポ北部以外には触れてない。
http://jp.reuters.com/article/jp_mideast/idJPTYE96A06Y20130711
IRIB
http://mainichi.jp/select/news/20130728k0000m030052000c.html
在英の反体制派組織「シリア人権観測所」によると、アレッポ郊外では24日ごろ、反体制派に加わるイスラム過激派が投降した政府軍兵士51人を殺害した。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2955110/11022598
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2962475/11204973
調査団がダマスカス入り。2週間の調査の予定。
19日にも化学兵器が使用された模様。双方とも相手側を非難。
http://www.cnn.co.jp/world/35036249.html
【閲覧注意】化学兵器で1300人死亡か シリア反体制派、アサド政権への非難強める
http://www.huffingtonpost.jp/2013/08/21/syria_chemical_weapon_n_3792176.html
今回の流れを決定づけた、重要な事件。ただし、人数については反体制派シリア国民評議会による発表
AFPシリア「化学兵器攻撃」目撃者証言、青ざめた窒息遺体 吐き気や目の痛みも
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2963440/11234526
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTJE97M02720130823
「米国がいずれ、シリア国内における複雑な宗派対立を解消できるとの考えは行き過ぎだ」
シリア「化学兵器」に4つの謎 調査団が活動中なのに…政権側優位なのに…
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130824/mds13082408450001-n1.htm
使用されたダマスカス近郊アイン・テルマがどちらの支配地域か意見が分かれる。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130827/k10014056831000.html
21日の攻撃について26日から国連が現地調査するものの、向かう途中で銃撃に合う。
米英仏、シリア軍事介入準備ほぼ完了―アサド政権は対決姿勢崩さず
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324361104579039493731361738.html
23日の時点では慎重だったオバマ大統領もこの時は踏み込んだ姿勢に。
http://www.cnn.co.jp/world/35036572.html
当初、英議会を通す前に限定的な攻撃を行うか、との観測すらあったが、結局下院の判断を待つことに。もともと無理筋だったので議会に諮った時点でキャメロン首相は攻撃不参加の腹づもりだったのかもしれない。
ちょっとソースが見つからないが、テレビのCNNではオバマ大統領が米下院に電話攻勢。働きかけを強めてるとのこと。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130831-OYT1T01057.htm
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bwc/cwc/jyoyaku/pdfs/05.pdf
9 「この条約によって禁止されていない目的」とは,次のものをいう。
国連の査察が正確かつ包括的に行われるかにかかってるといえるが、これに賭けるには少々イノセントか。
双方ともに使用している可能性も。
アサド政権側は大規模な生産体制があるとの報道。500トンとも1000トンとも。
反体制側はリビア経由での入手との話も。また、アサド政権は反体制側も生産能力があると主張。
そもそも反体制側が本当に化学兵器を入手しているのか、というところを含め不明。化学兵器もいろいろあり、扱いやすさや攻撃能力も違う。ただ、8月21日の使用がどちらの手によるものなのかは今後最大の焦点になると思う。それ以前での使用では、政府軍が味方の陣地内に着弾させてしまったとの情報もあり、ミスなのかそれとも。
ここが一番良くわからない。確かに去年8月の警告から何度も、使用または移動で一線を越えたとみなすと言っている。イデオロギーの保護・拡大という時代でもあるまいが、イスラエルが1月30日の攻撃で警告どおりに行動に移したというのは影響しているのかもしれない。
少なくとも、反体制派が一方的な善というのはありえない。また、アルカイダが反体制派に協力しているという奇妙な構図もある。
もうひとつ、戦闘が終了したあとも、この中東地域ではアメリカの統治がうまくいかないのは民主党のオバマ大統領が良くわかっているはず。(それがある意味危険を伴うにもかかわらず。9.11の遠因を忘れたわけではあるまい)
本丸はイランとみるべきか。にしては予定している規模が小さい。
にしても、なぜこのタイミングなのか。
あまり遅くなると制裁の意味が無いとの観測もあるが、それなら規模が小さくてももっと早い段階で介入すべきだった。
軍事施設を民間人居住区に移す時間を与えないためという側面はあるだろうが。
8月31日になってオバマ大統領は軍事行動について議会の承認を求めることに。若干軟化か。
シリアと同盟関係にあるが、この化学兵器の使用に関しては国連による真相究明が先だと一貫して主張している。もちろん、それは初期にアサド政権自体が国連の調査を求めたからで、その後の反体制側による政権側の化学兵器使用の証拠があるとの報道以降は逆に受け入れを拒否するようになったのだが、ロシアは突き放す発言も目立つ。21日の件に関しては国連の調査が始まったばかりのタイミングで政府軍が行うわけがないと主張。
先日会社の人と横浜みなとみらいに行ったのだが、夏休みもあって、結構混雑してた。
幼児連れが多かったことについて、会社の人が「いくら夏休みとはいえ、何故?」と聞いてきたので、
「恐らく、アンパンマンミュージアムのせいでしょう」と回答したら、
「アンパンマンなんて、もう流行ってないでしょ?」とのたまわれて、ズッコケた。
「確か作者死んだよね」って、クレヨンしんちゃんと混同してないか?
早ければ3歳、遅くても4~5歳になると「卒業」するものだが、
「アンパンマンを見たことない」「アンパンマンが嫌い」という乳幼児には、自分はお目にかかったことがない。
日本の乳幼児にとって、アンパンマンはもはや「通過儀礼」化している。
アニメ放映開始時(25年前)の「アンパンマンの乳幼児への浸透度」が20~30%程度だとしたら、
現在のアンパンマンの乳幼児浸透度は、恐らく90%を超えているのではないか?
「少子化で、乳幼児向けキャラクター市場のパイが、どんどん細っている」という話なら、納得できる。
だが、その細っていくパイの中に占めるアンパンマンの比率は、高まりこそすれ、低くなることはない、
「アンパンマンなんて、流行ってないでしょ?」と発言した会社の人は、結構トシだが、子供がいない。
子供を持ってない人と、子供持ち(自分)との間で、ここまで皮膚感覚が違うとは、思わなかった。
一応ウチの会社、BtoC部門もあるし、子育て層は重要な顧客層なので、幼児キャラに無関心だと
仕事にも影響するんですが。
知り合って間もない男同士で集まり、飲んだりすると、通過儀礼のように「初体験はいつで、体験人数は何人」というような話題になる。
なんねーよw
知り合って間もない男同士で集まり、飲んだりすると、通過儀礼のように「初体験はいつで、体験人数は何人」というような話題になる。
童貞なんでできるだけ下ネタからは逃げるわけだけど、どうしてもそういう話題の好きな人がいて、つかまって白状させられてしまう。
30代のときは気まずいが、それ以上踏み込まれず、同情的に「こういうのはタイミングだから」となぐさめられた。
だって気持ち悪いと思われそうで。
もちろん、本当のことを言っても周囲の態度は変わらないのかもしれないし、相手は嘘だと勘付いているのかもしれないが。
よく性欲がないという人もいるけど、そういうわけではない。
好きな人と、ちゃんと初体験したいと、いまとなれば高望みをしていただけだ。
20代は女友だちも多かったし、飲み友だちに悩みを相談したとき「いまフリーだから、わたしでよければ相手してあげるよ」と言われたこともあった。
迷っているうちに新しい彼ができてしまい、あとで「1回やったくらいで責任とれなんて言わないのに」と笑われた。
合コンなんかもあるにはあるけど、そこでいい出会いが起こることはなかった。
まだ「ちゃんと恋愛したい」という願望も捨てていなかった。
40代でもう誰でもいいやなどと思い始めても、今度は自分が若い女性からは対象外になっている。
失礼かもしれないが、同年代の女性はなかなか性欲の対象にしづらい。
じゃあ風俗だ。
でも嫌だ。
そうやって自縄自縛になっている。
週末、新しく知り合った男だけのグループで飲みに行き、やはりそういった話題になった。
そこで嘘をついた。
(ストーリーとしては、件の飲み友だちに誘われて、短い期間だがつきあったことになっている。)
ほとんど逆恨みに近い感情を質問した男性に感じたが、見栄を張ったのも自分だし、「やらよそ」なのも自分の責任だ。
なんとかするしかないだろう。
ただ、年々上がっていくハードルに、呆然となっている自分がいる。
もう棒高跳び並みですよ。
わかるよ。大人になると確かに幸福感が変わる。子供の頃目指していた大人になれていないし。
子供の幸福感の正体ってなにかな?自由に夢を描いたり、欲しいものが手に入ることなんじゃないかな?
だけど大人になると、根拠がない幸せには不安が芽生えてきてしまう。
これは、棚ボタの幸せに一喜一憂することのバカらしさを学んだからじゃないでしょうか?
“何のために”欲しい物を手に入れるのか、手に入れて何ができるのかを考えだした。それは決してネガティブではないと思います。
例えば、子供は「うんこ」とかのリアクションで笑える。ハラハラドキドキの、ワンパターンな映画でも素直に楽しめる。意味やテーマを咀嚼せず、反応しているだけだから。
でも大人になるにつれて(頭が良くなるにつれて)「うんこの何がおもしろいの?」「あの映画と同じテーマだよね」って気づきはじめる。裏側の意味を楽しむようになる。
ワンランク上がるって言い方は語弊を招くかもしれないけど、意味のないものに楽しさや幸せを見いだせなくなった。ただそれだけじゃないかな?
そして、それを受け入れてみるのはどうでしょう。
と言うのは、幸せになろうとするんじゃなくて
ってこと。
大人の幸せは「今の自分を肯定すること」だと思います。今の自分が未来に繋がってるから。今の自分にしっくりきてないのに、バラ色の未来を描くのは難しい。
あなたはそれがわかっているから、バラ色の未来が描けないでいる。頭がいいんだよ。根拠もなくハッピーな未来を夢見るのは、子供だからできること。
だけど不幸だとは思っていない。自己実現はともかく、ある程度の欲求は満ちている。
可もなく不可もなく幸せです。
とか、そこらへんの考え方の根本的な部分が知りたいのかもです。
「諦め」って言葉はネガティブに使われがちだけど、元来は「明らかにする」って意味だし、悟り。明らかなうえで受け入れる。
妥協は受け入れないで、擦り合わせること。
自分の場合は、暗→明のほうへ人生が180度変わる出来事があった。とは言っても、精神的な変化だから、きっかけらしいきっかけはないけど。
ただ、それ以前が底辺すぎたから平穏を手に入れて嬉しいと感じた。
「幸せって精神的なものなんだ」って気づくと同時に欲が消えた。煩悩が消えた感じ?冒頭の例のように、奥行きが必要になってしまった。
あ、欲がなくなったと言っても食欲と睡眠欲はあるよ。性欲はなくても困らない。
時々「鬱なのかな?」って心配にはなるけど、死のうとは思ってないから大丈夫なんだと思う。
で、気とかオーラとか占いとかスピリチュアルとか、なぜか周囲にそういう人たちが増えて、一般的にあやしいと思われている分野へ足を突っ込んだ。
最初は、あなたと同じで疑り深くて苦手でした。今でも信じてないです。
でも「なぜそう言えるのか?」を調べていくのは楽しい。いずれも元を辿ると西洋哲学や東洋思想にたどり着く。
すると、人が人であるがゆえの悩みは普遍的で、それを整理する方法も大昔から研究され尽くしていて、それなのに未だに人は悩み多き生き物なんだってわかった。
ハードは進化してるけどソフトはあまり進化していないって。だから生きてるんだなって思えました。考える葦なんです。
前者は「内なる子供」で、後者は「高次の自分」と訳されるけど、適当にアレンジして「子供性」と「大人性」で解釈するとわかりやすいかな?
そのバランスを意識しなきゃいけない時期に差し掛かっているのかもしれませんね。
二十歳になったら成人式やって法的に大人になるけど、本当に大人になる瞬間は、経験によって人それぞれにバラバラで、
あなたが今置かれている状態は通過儀礼ではないかと思います。自分は20~24歳までモラトリアムになって、24の時に脱皮した。
大人性というのは、いつも自分を律したり、自分に指図している自分。
一方の子供性は、ありのままでいようとする自分そのもの。子供は「快・不快」に敏感。
ハイヤーセルフは、自分をあるべき姿へと導いている。だけどインナーチャイルドが時々「私って幸せなの?」と問いかけてくる。
心をないがしろにして自分を律しすぎている時には「素直に泣いてもいいよ」って子供が出てきていて、
ウダウダが長く続けば「あんた、ヤバイんじゃないの?」って大人が出てくる。
ややスピった考えを言いますが、
と考えてみてはいかがでしょう?律している自分も必要だし、駄々っ子の自分も必要。
「よくわからないけど、幸せじゃない。おかしいな」って感じている。今、そういう状態だよね?
今は心の中にいる子供がグズグズしている。そう考えると、啓発より癒やしかなぁと思います。
自分だって考えたら自分を上手く癒せないけど、自分の子供だって考えたら少し優しくなれませんか?
子供だと思ったら「泣くな、元気出せ」って言えないでしょ?
「無邪気に幸せを感じていた子供の自分」を否定しちゃうと辛いです。
それはそれ、仕切り直しの気持ちで「子供の頃はこうだったけど、今の自分はこう」って考える。
今が充たされないと、未来は見えないです。
あちこちのサイトを見るとわかると思いますが、インナーチャイルドとかハイヤーセルフが出てくるサイトには
天使やら偉大なるマスターやら、神秘的に説明されていて、知性面から捉えると「あやしい」ですw
でも、
これも持論だけど、啓発って「気づき」を得ることだから、人に教えてもらうもんじゃないと思います。
啓発本は「こうしたらイケてる奴になれるぜ」ってやつだから、すでに前向きな意志が持てて、契機づけたい時にのみ有効。
「教えやがれ!この野郎」って思える時に読むのがおすすめで、やる気が落ちている時にはあまり意味がない。
啓発本には啓蒙的なものが多すぎるし、意識だけやたら高くなっても、肉体がついていかないと使えないです。
スピ用語を使わずに伝えるにはどうしたらいいかな?と思っているうちに、長文になっちゃいました。
上手くまとめられていないと思うので、わかりにくいところはまた質問ください。参考になれば幸いです。
就活ってつくづく腹の探り合いだな、なんて思うのだ。
私は今までの面接でだいたいのことは素直に答えてきた。
多少、不利になりそうなことでもこれは言っとかなきゃいけないと思うことは言った。(例えば一緒に仕事したくない人とか)
その結果、全部落ちてきた。
確かに回答から自分に有利なことを言える賢さっていうのは見抜くのは大事なことだし、すべきことだと思う。
ただ「ミスマッチを防ぐ」なんて綺麗事は本当に辞めてほしい。
使えない奴を落とすための面接だなんてことはお互い十分に分かっていることだ。
そろそろ私も嘘をつくことをしっかり覚えなければいけない。
素直になるなんて結局コドモのすることなんだと言うことを痛感させられた。
就活は社畜になるための通過儀礼なんだということをひしひしと肌で感じている。
嘘をつくのと、自分に有利なことを言うということは異なることだと思う。
ただ、隠すということには何も変わりないことだろう。
ミスマッチなんかあって当然だ。
http://anond.hatelabo.jp/20121206034726
これは実際、結構ある動機だと思う
漫画を親が捨てるのなんかその典型
大人ってのは、ぬいぐるみを捨てて口紅を、合体ロボットを捨てて煙草を手にすることなんだ
「大事なものだから捨てないで」なんて主張は、一人前の大人になることを拒否していつまでも子どもでいたいという甘ったれた精神の発露と解され、社会では通用しない
むしろ、電撃処分というショックを与えて大人に叩き上げるイニシエーションを行わねばならない、という動機づけにさえなる
嫌がる『のに』捨てるのではない
嫌がる『から』捨てる
それで説明は付く
社会の成員としての生まれ直しを周囲の手で行わせる儀礼だということ
結婚式でのサプライズ暴挙が相次ぐのも同じ文脈で読み解けるのではないか?
(ラブプラス破壊の前にも、何かサッカーゲームでもあったはず)
バンジージャンプが元々成人儀礼だという話は有名だが、死ぬ思いをして勇気を示すから役割を果たす
既に大人同士であるはずの夫婦間についてはこれでは十分に説明できない
仮説だが、富の偏在を生まないための習性として人類が獲得したビルトインスタビライザーなのではないか?
財を著しく溜め込んだ者がいた場合に、放棄することで富の再分配を、あるいは破却することでリセットを行うよう習性付けられているのではないか
スペースを侵害しているわけでもない夫のものを勝手に捨てる妻(逆でも良いが)の脳裏には、富の集積=悪という、まれびと殺し譚の印象が過っているのではないだろうか?
こちらは強引だとも感じるので継続的に考えていきたい