はてなキーワード: いちびりとは
今に始まった事ではないのだろうけど、飲食店で机に備え付けてあるソースや福神漬けとか箸とか、どっかのアホな客が何かやらかしてるんじゃないかと思って使いたくなくなってきた。
いやなら使わない、それこそ徹底してマイ箸持参すればいいんだけど、これから小梱包にしたり箸も含めて必要分をお盆に載せてくるのが主流になるんじゃないかな。
それにしても食べ物で遊ぶなんて、ほんと罪深いわ。
自分の子供にはこんなアホなことをやると巡り巡って自分に悪徳が降りかかってくるというのをしっかり教えておこうと思う。
医療支援に直接投入しろ!とか軍国主義みたいでキモい!とかそういうんじゃないねん
東京でやられた局所的なイベントがこんだけ話題になってるのがムカつくねん
みんな当たり前のように「見たら感動した」あるいは「嫌だから見なかった」つって、Twitterには写真とか動画が上がりまくる で、何万リツイート何十万いいねとつく
マジムカつくわ 島根でやったらどうなるよ?動画は上がっても20リツイート300いいねくらいやろ
東京ホンマキモいわ まず東京弁がキモいしな サブイボたつねんあれ気取っとって 田舎くせーだっせえアクセントなのにいちびりよって 死んでおくれやす
オイはのう、朝方ブルーインパルスのニュースみてへ〜よかったね、どうでもいいわと思って気にも止めてなかったんや クソみたいに汚ねえくっせえ街・東京のショボくて狭い褪せた空を飛行機飛んだところでワイにはなんの関係もありゃしまへんからの
語尾に「ひん」つけるのって、それほど伝統的な用法じゃないと思う。
というより、はっきりいえばおかしい。
ただ、そういうあえてけったいに聞こえるようなことをやるいちびり精神が大阪にあるのも事実。
「ひん」は、「できひん」みたいに動詞につけて使うのだけど、これは正しくは
「でけへん」と否定形の助詞である「へん」をつける用法だったはずだ。
この場合の「でけ」は、「できる」という動詞の活用ではなく「でける」という動詞の活用。
ただし、「できる」は標準語に存在するが「でける」は存在しない。
標準語だと「できない」。
標準語の「できる」に大阪の「へん」をつけると「できへん」になるが、
これにはどうも違和感がある。
そこで、「き」の「い」音に合わせて「へ」の「え」音を「い」音に変更して
「できひん」といちびったのが、「ひん」の発生ではないだろうか。
でもちょっと待って欲しい。
どうして比べられるのか疑問でならない。
何が何でも一番にならなければならないとする
慶應が如何に優れていようが、慶應生が東大に毎年大量に入学するのは
そうでなければ、東大より劣る慶應にわざわざ多額の授業料と寄付金を出して
入学したいとは思わないだろう。
ある国民的アニメの主役を張った有名人は自分以外は東大京大に入学して
自分は早稲田大学にしか通らなかった事を暫く悔んでいたという話がある。
これを見ても当時から早稲田、それと同レベルの慶應が東大京大に満たないという認識が既にあったのだ。
つまり劣等意識を持っていた、あるいは東大ブランドにアレルギーを持った人間は、
それはあくまで東大にアレルギーを持った大学でしか起こりえない。
加えて東大は慶應など歯牙にも掛けない程高みにあるが、慶應はそんな自分が許せない。
でもどうする事も出来ないから東大を貶して自分をアゲるのに必死なのだ。
慶應はそもそも東大落ちの受け皿筆頭格なのだから、東大より劣るのは当然だし、日本一の国立と日本一の私立とでは天と地との差がある。
そんなに大きな罪じゃないと思う。
あのまとめのコメント欄をながめてもはてブのコメントを眺めても全然建設的な議論になってない。
まあこれは程度問題で白か黒かで結論が出る話だとも思わなかったけど、それでも佐々木さんの発言はひどかったとおもう。
「吹聴するのがなんでいけないの?」
「そんな事を気にするくらいならなぜ中国野菜を使った弁当を食べられるの?」
他にもっと悪い事があるからこっちはええやん、という言い方は理性的ではないし反感も招くのは当然。
こういう言い方を変えれば話の流れも少しはかわったのに、と思ってます。
実際佐々木さんに否定的な意見をもったひとでも、あのアイスクリームをまちがえて食べたからって健康に影響が出るとか、
そういうふうに考えてる人は少ないと思うし、言いたかったのはそこじゃないと思う。
Togetterのコメントでも多かったけど、「俺も昔は悪かった、若いときはみんなそうだろう、通過儀礼じゃないか、なぜ寛容になれないんだ」
的な物言いに反感を抱いた人がいたんじゃないだろうか。
自分もそんな偉そうなことを言えるような倫理的な人間じゃないけど、でも能動的に人の迷惑をかけるような行動はしてこなかったつもり。
だからといってむかしバカやった人の事を責めてるんじゃなくて、でも過去の自分のバカを少しは反省してるようでないとこっちはイラつく、てのが正直なところ。
昔バカやった人が今一丁前の大人になって分別ありげに「こんな息苦しい社会じゃだめだ、寛容さはどこへ行った」ていうのは簡単だけどね、
その「バカ」「ヤンチャ」のかげで汗を流している人のことは忘れたらいけないと思う。
「ウェーイ」て居酒屋で騒いでグラス割ったりこぼしたり駅でゲロ吐いたり、どんだけいい思い出か知らないが、それを陰で片付けてる人は必ずいる。
壁にかかれた落書きのスプレーを必死で消してる人もいるだろう。チャリンコ盗まれて困った思いをしてる人も多いだろう。
佐々木さんの一連のツイートからはそっち方面への想像力が感じられなかったなぁ。
「昨今の倫理を過剰に求めすぎる社会は」とか、悦に入って論じてるひと、言葉だけ聞けばそれは全く正論だけど、倫理や規範は厳然としてあるんだよ、
そこをふまえた上ではじめて、「ゆるそうや、固い事いうなよ」、ていう話が出てくるんじゃないの?逸脱する為にはその元となる規範がいると思う。
実際に「社会」を成り立たせてるのは、黙々と道のタバコのポイ捨てを拾ってる人とか、理不尽に客に絡まれる駅員さんとか、そういう地道な人の営みなんじゃないの?
そこに目を向けずに「昨今の社会は」とか能書きたれられてる様な気がして、その「寛容」論は、違うやろう。という気になる。
で、そういう人の営みに敬意も何も抱いてないから、ああいう写真をアップする輩が出るんでしょう?
彼らは別に冷蔵庫に入る事が主目的じゃないよね、SNSにアップして注目を浴びたい、承認欲求を満たしたいからでしょう?
これは別に今に始まった事じゃなくて、海水浴場で監視員の制止を振り切って高い岩場から飛び込む若者とか、ある種普遍的な事ですよね。
そしてそれを自らネット上にあげる。それを見かけた我々がそれに対して「否。」ということがそんなに悪い事だとは思わないんだけど。
時にはそれがすごい数の否定が突きつけられるかもしれない、でもそれが社会的に間違った行為なら、それを指摘するのは間違っているとは、おもえない。
そこで悪い事を悪いと言わない事が寛容さでは、ないと思う。そしてそれは、「その店の関係者でも直接的な客でもないのに言う資格がない」
という話でもないと思う。だって彼らはアイスやピザを汚して、客に売りつけようとしてやった行為ではないのだから。
もっと普遍的な、人の仕事の、社会の営みの重さを知らずに、いちびりが賞賛を得られると思って世に吹聴する、という行為を目の当たりにして、
それは違うと意見表明するのはそのコンビニやピザ屋の客であるかどうかは、さして重要ではないのでは?
だってかれらは、SNSを通じて、我々の目に届けてしまったのだから。そして我々もそのコンビニに行かずとも、意見を表明する場を得てしまったのだから。
ネットにあげられる前なら、その店の上司が、社内規定をまげて温情で彼らをゆるす、ていうのはあるだろう。
そういうのは今までも、現在もよくある話なんだと思う。それを否定する気は全然ない。
その上司なりが自分の責任の範囲において規範をちょっと逸脱させて部下を許す、そういうのが「寛容さ」ではないのかな。
ただ彼らはいきなりそれをネットにあげてしまって、ローカルな問題をグローバルな問題にしてしまった。
ローカルでは逸脱できる規範も、グローバルではそういう訳にもいかない。規範をすべて壊してしまう訳にはいかないから。
ルーターがサブネットマスクを設定するように、身内と世間でルールを使い分ける、こういうタテマエ論が社会の規範を守ってきたのではないのかな。
今までは一つの出来事でドミノが一つ倒れるだけだったのが、今では一気に100個も1000個も倒れちゃう時代なんだと思う。
佐々木さんは最初のドミノを倒す人の事は放っておいて、末端のドミノに踏ん張れ、倒れるな、って言ってる印象なんだよなあ。
こういう事件があった時、我々はその商品を買う消費者であり、事件を起こした企業の一員であり、同時にネット上の傍観者であり得る。
無責任にならない為には、いろんな立場を考えて行動、発言しないといけないとは思うけど、事件を引き起こした彼らの立場は、いちばん共感し難い位置にあるのは確か。それに対して「俺も若いときは悪かった」てな事で共感はできないし、それができる人間にも共感したくない。
彼らの事をネット上で非難する人達は、決して安全なところから暇つぶしに言ってるんじゃなくて、
消費者としての自分、当事者の企業の一員になった自分を想像するからこそ、否定的な意見が出るんだと思う。
もちろんそれでネットによる過剰な叩きを肯定するわけにはいかないんだけど、でもやっぱり「悪い事は悪い」。