はてなキーワード: バロットとは
なんか2部の半分くらいから3部の半分くらいまでをカジノ編が占めてて
お前途中でカジノ編書くの楽しすぎたんだろみたいなところもあったけど
実際カジノ編が一番盛り上がりも成長もあってよかった
昔どっかで聞いた「車のトランクに閉じ込められたけどフックが云々」の元ネタが
この作品だということが知れてよかった
人物配置としては「バロット」「ウフコック」「イースター」「シェル」「ボイルド」っていうのが
余りにわかりやすく寓意的でちょっとあからさますぎるかなぁと思ったけど
卵たちがピョコピョコ戦いあう中で
バロットを成長させる大人の女性としてベル「ウイング」が出てくるのはよい、好き
生まれてこられなかった雛のバロットがウイングを経て収穫祭(ハーヴェスト)を超えるというのはよくできてる
漫画版が存在するらしくて作者が茸の声の人っていうのは再現としてはどうなんだろうか
買おうかとても悩んでいる
断っておくが、俺は動物愛護団体の人間ではないし、ヴィーガンでもなければ、そもそも動物が嫌いだ。
嫌いな理由は命があると思えないからだ。こういうことを言うと、サイコパスになりたくてサイコパス診断を受ける厨二病みたいですごい嫌だが、犬ころの小さな体の、薄い皮の下に、命があり、血が流れていると思えない。
鳥なんて怖すぎる。カラスも鳩も、ひよこだって怖い。だけど、俺は鶏肉だって鶏卵だって、美味しい美味しい言って食べる。でも、バロットやピータンは目にも口にも入れたくない。
豚も牛も、馬も食べる。
魚だって、活き造りを新鮮で良いものだと思うし、釣りだってする。煮魚の目ん玉なんて筋も殻も食べるし、プルプルのコラーゲンが大好物だ。
だけど、俺は動物実験が怖い。自分の手で、ネズミを殺すことが怖い。
自分が進んだ進路を考えたら、どうしようもないが、血清を得るために、生きているネズミを手袋ごしに触って、注射を打って安楽死させて、解剖して、血を抜くことが怖い。
鶏をシメたことはないし、頭を落とされた状態なんて、想像するだけで鳥肌が立つ。だけど、魚は殺せるし、口に釣り針を引っ掛けることを何とも思わない。
ネズミが可哀想なのではなく、あたたかいネズミを触ること、それが嫌で、実験を日和っている。
この感情はなんだ?なんで魚ならいい、食肉ならいいと思えるのか?
その理由が俺が食べるため、なら、このネズミだって俺の勉強のためになる。
動物実験反対派のひとたちは理系に進むことは選ばないのかな?なんて思ったりもす。
たとえば「ルーマニア料理・チェヴァプチチ」なんかは今の今まで存在すら知らなかったし当然食ったこともないんだが、写真を見るとまあケバブ系のものかと思う
この「ああ、〜系か」ってのがないものが食いたいんだよな
例えば麺料理ってものを知らない状態でパスタなんかを見せられたらウオーなんじゃこりゃ!ってなるじゃん多分
「ああ、小麦粉系か…」ってテンションで流すってことにはならない気がする こんな形状の食い物があったのか、こんな料理の発想があったのかと感動するんじゃなかろうか
そういう感動って残ってねえのかな
「〜に似た」「○○風の△△」みたいな説明が不可能な料理、新体系に出会いたいんだよ
ただ、「食ったことなくて何にも似てない」っていうのをかなりしっかり満たしてるベトナムのバロットなんかを実際食いたいかっていうとそうでもないんだよな
新しい物に出会おうと思ったらもうゲテモノしか残ってないのか?ゲテモノとか言ってるからダメなのか?
魚を丸ごと直火で焼くことしか知らなかった人がつみれ煮に出会う、みたいなさ そういう体験がしたい 食の新大陸に上陸してえよ
食べたり飲んだりできた
・ワニ肉の唐揚げ
鳥肉に近い食感だけど、鳥よりもさっぱりしていて、筋肉質だからか脂も少ないヘルシーな食感。
モモの肉を出してもらったけど、尻尾の肉の唐揚げのほうが美味しいらしい。
コオロギの方が足が硬くて下に刺さったよ。
・オケラ
すげえ土っぽい。物凄く歯に詰まる。
・バロット
卵の白身のような部分はゆで卵とは思えない硬さだったけど、それでも白身。
鳥の形をしている部分は鳥ってことを意識すると吐きそうになった。
塩をかけると食べれる。小さいけど目はしっかりプチッとした食感があった。
このときだけ店長めっちゃ実況してた。そこの部位が~とか、鳥になるはずだったなんたらが~とか。
ウォッカのビンにサソリが一匹入ってるやつ。ショットで出された。
同じくスズメバチが一匹入ってる。
焼酎初体験だったから味はあんまり覚えてないけれど、サソリの時のような毒の感じはしなかった。
一緒に行った友人はおかわりしてた。
・トカゲ酒
ラップの上からきっちり蓋をしないといけないくらい臭いらしい。
飲むと精力がついてビンビンになるらしい。
翌日の朝勃ちが凄かった。
店主に聞いた小ネタ
・サソリが中々手に入らない。丸々一匹素揚げにして出すからインパクトから食べに来るお客さんが多いらしい。
・ザリガニが品切れだったのは、ザリガニ漁をしている人が入院してて手に入らないかららしい。
・犬肉を出したいけど中国人は日本人に売ってくれないらしい。深センでヴィーガンのイギリス人女性が抗議して中華鍋で頭割られたとかいう噂。
・提供する虫はタイからの輸入。向こうは本場だから安くいっぱい食べたいなら行ってみるべし。
・セミとタガメはメチャクチャ美味しいらしい。特にセミは去年食べすぎて業界で自粛ムードらしい。食虫業界。
無個性だから好きなものは書いてはいけなくて、誰かが好きと言っているものに対して便乗して書かなければいけない。
例えばみんなが好きなものと言えばお金だ。お金の他に、恋愛に興味がある。あと芸能界に対しても興味はある。
健康に対しても興味がある。勉強の内容ではなく、勉強の仕方なら興味が出るのではないか。
かくして無個性な文章を書こうとすれば、それは「恋愛に成功して健康な勉強法を維持しつつ芸能界のゴシップを得る金儲け」になる。
この中で一番失敗が大きいのは、恋愛の記事だ。ひとつ間違えば男尊女卑だ女尊男卑だと言われてしまう。
実際、家庭生活の日常をウリにしているブログで「男は何故洗濯物をたたまないか」なんていう記事にして主語がデカいという事例は後を絶たない。
それだけ恋愛や家庭に関してはプライベートな空間であってほしいと言うことだろうか。
健康は男女関係なくどの世代でも有効な話だし、あくまでも「勉強の仕方」と範囲を広げれば受験勉強でも資格の勉強でも融通が利く。
これがブログを書く意義だ。誰もが知りたいことを誰もが納得する文章にして送り出す。
そこで筆者自身が「ぼくは一度食べたバロットの味が忘れられない」なんて書けば、バロットに興味のない人は読んでくれない。
だからバロットよりも東京で見つけたおいしいグリーンカレーの店3選とか、そういう記事になる。
必然的に「もう知ってるよ」ということの再確認めいた記事が乱立し、新しい情報がなかなか入ってこない。
新しい情報と言えば、新聞やテレビで報道されることをブログで「速報!」なんて書くくらいだ。
このままだと、もう無個性であることがインターネットの中のステータスになる日も近い。
みんな等しく増田になろう。
私が『劇場版まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』を観ないたった一つの理由。
それは『魔法少女まどか☆マギカ』(以下まどマギ)という作品が実のところ魔法少女ものではないせいだ。
もっとも制作はすべて承知の上だろう。だから問題は受け手の側にこそある。
あなたはもしかしてまだ本作を魔法少女ものとして思ってやしないだろうか。あるいはアンチ魔法少女ものと惑わされてはいないだろうか。
そんな素直なファンたちにこそ伝えたい。魔法少女が現実に我々の社会を照らす光なのだということを。
最近だが『Fate kaleid liner プリズマ☆イリヤ』というアニメを観る機会があった。
嫌がる少女を無理矢理魔法少女にしたてあげたり、立派な女子高生がその衣装を着ることを揶揄したりと、なんとも悪趣味なパロディ作品であった。
——このままでは近いうちに変格が本格を駆逐してしまうのではないか。
その日が来る前に、伝えておかなければいけない。
敢えてそう主張しよう。
それは何だろうか。
笑わないで聞いてほしい。
魔法少女とは時代や年代で移り変わる少女の価値観を切り取り、輝きをまとわせるものでなければならない。それこそが魔法少女の資格であり、約束事であり、存在意義なのだ。
いま魔法少女と呼べるのはせいぜいキュアハートとフラメンコガールくらいのものだろう。
ここで『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982年)という作品を取り上げたい。
男性おたくを含め魅了した点で、本作の先駆けとも言える魔法少女ものの有名作品だ。
主人公は12歳の女の子。魔法の力で18歳に成長し、どんなプロフェッショナルにもなることができる。そうして「あなたの夢は私が守る」と視聴者に訴え続ける。
すると賢しい人はこんなことを言う。
「まどマギが正統派の魔法少女ものだなんて思っていないよ。あれはアンチ魔法少女ものなんだ」と。
……いいだろう。
そのテーマで私に論戦を張ろうというのなら受けて立とう。
アーキタイプとはC・G・ユングによる精神分析の用語で、世界中の神話や民話に繰り返し登場する人物像を抽象、統合したものをいう。物語分析においてはキャラクター類型論の礎として重用される。
この理論に則ると魔法少女は〈お姫さま〉のアーキタイプに還元される。
〈お姫さま〉は特別な生まれを持ち、国じゅうの人々の期待を受けている。社会の善性を表現し、人心を希望で満たすことが彼女の至上命題だ。
誰でも知っているように、すべての魔法少女はフェアリーテール(おとぎ話)の主人公なのである。
本稿は二つの作例を扱う。一つは『少女革命ウテナ』(1995年)。もう一つは『マルドゥック・スクランブル』(2003年。アニメ版は2010〜2012年)だ。
以降は『ウテナ』、『マルドゥック』と略記する。
知らない人は各自で Google にでも尋ねてほしい。
以下に読み解いてゆく。
『ウテナ』の真の主人公、姫宮アンシーのアーキタイプは〈娼婦〉である。〈娼婦〉は〈お姫さま〉の反対で、他人にへつらい、虐げられ、社会の悪性を負わされる犠牲のアイコンだ。
一方、表の主人公であるウテナは〈王子さま〉を目指す女の子というトランスセクシャルなキャラクター。
しかしこれは倒錯ではない。
洞察力を働かせればアンシー、ウテナのともどもが不在の〈お姫さま〉の鏡像であることに気づくだろう。
ちなみに敵対者である暁生は〈魔王〉。自らは何も生めず、他人を支配してその生産物を奪う男。暁生とアンシーの肌が黒く描かれるのはそのネガティブな心性が表出したためだ。
さらに続ければ枝織は〈悪女〉。力ある男に寄生してはダメにしてしまう中身のない女のアーキタイプ、となる。
閑話休題。
他方、『マルドゥック』の主人公バロットが〈娼婦〉であることに説明は不要だろう。
なのでもう一つアンシーと共通する特徴をあげよう。
未確認生物(サル?)のチュチュは典型的なダメ男の現身。人造ネズミのウフコックは使い手に依拠した万能の道具存在。そのいずれもが魔法少女の必須アイテムであるマスコットアニマルの成れの果てだ。
「学園の外の世界」だ。
そもそも「世界の殻を破る」というフレーズは二度目の誕生のメタファーである。
管理されたままでいるのも、管理する側にまわるのも結局は同じこと。
選んだのは未知に挑むという生き方。
〈王子さま〉でも〈お姫さま〉でもない。〈デュエリスト〉こそ『ウテナ』の提案するオルタナティブだ。
ではバロットはどうなっただろう。
彼女は当初こそ手にした力に溺れるものの、自分を裏切った男(野心の象徴)を殺すことはしない。逆に男を守ることで克つ。
さらに最後の敵(破壊の象徴)を相手に闘うときにも、バロットはひたすら耐え忍び、前のウフコックの相棒だったその男を止めることを考える。
運というものを理解したバロットにとってすでに暴力は勝利への要手ではないのだ。
どうだろう。
彼女は男性とは異なる価値観と武器を身につけたバトルヒロインとして成熟の階段を登っているのだ。
締めにふたたび『ミンキーモモ』の話をしよう。
この作品は途中、主人公が事故死するという衝撃の展開を迎える。これは現実への決定的な敗北であり、魔法少女というテーマに対する叛乱であるとさえ映る。しかし彼女はその後ふつうの人間として生まれ変わり、それからも夢を求め続けるのだ。
この出来事はいわば魔法少女という夢を現実に呼び込むための通過儀礼である。実のところ『ウテナ』で視聴者を騒がせたウテナの処女喪失シーンはこの発展ともいえる。
魔法少女とは何か、そしてアンチ魔法少女とはどういう所業なのか、理解されただろうか。
それではようやく『まどマギ』の話に移ろうと思う。
結論からいえば暁美ほむらはダークヒーローの女性版に過ぎない。
そして鹿目まどかの正体はヒロインへの変身を期待されながら最後はヒーローに変身するという、高次元のシェイプシフターであった。
結局、本編はまどかときゅうべえの二人がひとりよがりな正義に溺れたほむらにしっぺ返しを見舞う結末で幕を閉じる。
それに続く今作は——サブタイトルを信じるのなら——アンチヒーローとなったほむらがすでに叶えられたまどかのヒロイズムを覆そうとする物語となるはずだ。
実際、予告映像を観た後の私の予想は「どうせビューティフルドリーマーではじまってレイアース2で終わるんでしょ?」であった。
皆が『ファウスト』要素探しに忙しいようなので私が代わりに言うのだが、『まどマギ』の思想世界は『魔法騎士レイアース』のそれそのままである。
願いの力を世界の第一原理として位置づけ、その上で自己犠牲を否定するのなら、『レイアース2』の提示した可能性のいずれかに落ち着くのが妥当である。
ゆえに、いまの私に物語面に対する期待はない。
無論、映像・演出面のクオリティであればいくら期待してもよいのだろう。
しかし、だ。
『まどマギ』本編がやってみせたのは一見ヒロイズムの糾弾であるようで、その実勝つために既製の概念やルールを変える行為の全面肯定に他ならないのだ。
そんな作品である以上、魔法少女の外観は「釣り」以外の何物でもない。理解して食いつくのなら言い訳もできよう。舌に乗せたら甘美な味がする餌なのだろう。
しかし、我々は豚ではない。
食うためだけに生きるのも、食われるために生きるのも、どちらも御免被ると私は思う。
——部屋の灯りが落とされた。
そろそろこのノートパソコンを閉じなければいけない。これ以上の照光と打鍵音は周囲の観客の迷惑だ。
最後に。
これだけは言っておく。