はてなキーワード: 通過儀礼とは
上司は歳も変わらず上手くやって行けそうに見えた。
デリカシーがないタイプなので、率直に聞いてみた「付き合ってるんですか?」
もちろん答えは「No」だ。
新卒のころ、
「社内恋愛は自由だ。しかし事実でも事実ではなくても噂を立てられた時点で、出世コースからは外れたと思いなさい」
と言われたことがある。
その時はぼんやり「アイドルみたいだな」と思っていたのだけど、
そのあと社内政治のありようをまざまざと見せつけられたので(比較的規模の大きい、社内営業が重要な企業だったので)
結婚まで社内恋愛は絶対にバレてはいけないものだという認識で今日を迎えた。
そんなわけだったので
「付き合ってるんですか?」と私が聞いたことはすなわち
しかし入社したばかりということもあったし、上司に対するわずかばかりの警告でもあった。
私は「出世コースから外れた人間」として上司を認識していたけど
出世争いも何もなく、ガラパゴス的にすくすくと職格が上がっていく環境だった。
私が入社すぐに「こいつら付き合ってるんじゃね?」と思うくらいなのだから、
「あの2人って付き合ってるんですか?」と私に聞いてくる人もいた。社長に直接聞いた強者も現れた。
しかし答えは「No」。
もはや、「"2人は付き合ってるのではないか?"という疑惑をもつのは入社間もない社員の通過儀礼」とさえ言われ始めた。
「これだけバレバレの行動をとっていても言動が変わらないのだから、本当は付き合っていないのではないか?」
とさえ思い始めていた。
最近、「事実に関わらず、社内恋愛の噂をたてられている人間を尊敬できない」と上司本人に伝える機会を得た。
返ってきたのは「実は5年以上付き合っている。今年中に同棲し、来年結婚するつもりだ」という言葉だった。
その時わかったのは
という2点だった。
私はあきれ果ててしまった。
バレているという認識がなかったのだから、さぞ楽しい会社生活だったのだろう。
私やそのほかの社員による「付き合っているんですか?」という質問に
自分を客観視することもなく、否定さえしていれば問題ないと考えていたそうだ。
そもそも社内恋愛の噂を立てられたらビジネスパーソンとして致命的だという認識すらなかったのだ。
それはそうだ。
「会社に迷惑をかけたか?」答えはNoだ。と言いたいところだが、割とYesだ。
2人が交際しているという疑惑があることで、個人的な相談は一切できなかった。
上司という立場であるにも関わらず、部下が相談しにくい人間になっているのは事実だった。
社をあげた結婚披露宴に向けた準備が行われるのだろう。
すべての人間が等速度で精神的・肉体的に成長するって科学で証明されてるの?
肉体の成長に関して言えば、どちらかと言えば等速度に成長しないという立場の方が有力みたいだし、
精神活動が肉体の成長と強い結びつきがあることを考えれば、精神能力だって等速度では成長しないんじゃない?
いわゆる「発達障害」だって、色んなパターンがあるから一概には言えないけど、
「年齢相応に成長しない」という原義で考えれば、それはようするに成長速度の個人差を病気や障害と言い換えただけなのは。
近代、特に学校教育が人間をベルトコンベアを流れる自動車のごとく、
等速度で組み立てられる製品のような感覚で捉えるようになった結果、
そうした成長モデルから逸脱した人々を「不良品」を障害者扱いしてるだけでしょう?
比較的古い心理学の本とか、浅い内容の自己啓発本なんか読んでいると、
「○○くらいの歳に××の経験(例えば、挫折とか恋愛とか)をしなかった人間はダメになる」みたいなことが
平気で書かれていたりするんだけど、そういう成長の絶対条件みたいなものがあるんだったら、
社会の側がそういう経験を用意してあげなきゃ、人材育成の点で非効率過ぎるでしょ。
わざわざ手をこまねいてダメ人間を量産してどうするんだよ、って話。
(ただ、未開社会では必ず非常に困難な通過儀礼を用意しているから、近代以前には全く無策ではなかったのかもしれないけど)
そういう物事は自然なかたちで経験しなきゃいけない、みたいなことを言う人もいるけど、
だったら「ダメ人間」になるのは、そうした経験に恵まれなかった不可抗力って言い訳を認めることになる。
でも、そういう言い訳を認めるために、理想的な成長過程を規定しているわけじゃないんでしょう?
http://anond.hatelabo.jp/20160107125638
心の年齢はまだ、学生時代を脱しきれない大人は多い。
さて、この人の夢を考えてみよう。
「学校は大体中学か高校時代」なのは、大学よりも中高の方が青春や未熟のイメージが強いからだろう。
この人の夢には、「仲が良かった友人」や部活の仲間ばかりが登場する。
これは充実した学生生活を示すとともに、対比的に当時の現実が過酷だったであろうことを暗示している。
「現国の授業」のイメージはもう少し具体的な感情描写がなければ推測しづらいが、
おそらく、この人の心の糧、もっとも人生の役に立つ授業が、現代文だったのであろう。
つまり、夢が現実逃避の場であったと同時に、現実と向き合う力を得るところでもあったのだ。
8月、それは大学院入試シーズン。もう合格した人、これからな院試な人、落ちて路頭に迷ってる人、色々います。学歴ロンダとか留学とかやってる人もいるみたいですが、配属先決定時に意外と軽視されがちな研究室生活。
学部の研究室志望決定で理由に上がるのが「研究テーマ」だったり「緩さ」だったり。
院の研究室志望決定で理由に上がるのが今いるからとか最終学歴良くしたいからどこでも良いとか。
本当にそんな軽い動機で決めちゃって良いんですかねえ?
アカハラだらけ、研究室にお金がない、研究内容が全く違う、連徹・年中無休は当たり前、研究成果が出ない……
人によって何がダメなのかは価値観が違うのでなんとも言えないけど、いざ入ってから上のような事例に遭遇してしまったらご愁傷様。平穏無事にストレートで卒業できれば君の勝利、卒論/修論が書けなくてor病んでしまって留年したら君の敗北。そんなクソゲー、自分から覚悟して入室したのならともかく、巧妙に隠された罠を踏んでやりたくはないでしょ?学部の配属ならまだしも修士2年/博士3年もそんなことに時間を費やせますか?
良い研究室を選んで充実した研究生活を送ることは、例え就職するにしろアカポスを目指すにしろ非常に重要だと思う。就活の面接で研究内容を聞かれたときに、この研究にはどんな意義があって、しかもこんな成果があって、を明るく決められたら人事だってイチコロですよ。アカポスだって時の運要素が強いけど、健康な心身とちゃんとした成果が無ければ非常に厳しい。そして上手くいけば趣味などに費やす時間だって作れちゃう。
そんな将来、実現したくはありませんか。
さて、そんな理想を現実にするにはヤバい研究室を回避しなければなりません。
教授・准教授・講師が獲得してくる科研費などの大型予算(グラント)は研究室の研究遂行に必要不可欠。
大学から各研究室に支払われるお金なんて雀の涙で、備品や消耗品を購入するだけですぐ使い切ってしまう。
つまり、グラントが無ければまともな研究遂行は難しく、それを途切れさせてしまう研究室は何らかの問題がある可能性あり。
グラントが無ければ雀の涙を使って研究するしかないわけで、まともに必要なものを買えなかったり、居室の居住性に難が出てきたり。
NEDOプロジェクトや科研費の場合、予算を与えていることは各機関で公表しているはずなので調べてみよう。
グラントを獲得するためにはその研究者が有能であることを示さなければならないので、外部へ発信することが必要になる。
評価されるのは英語論文誌への投稿や国際学会の参加(日本語論文誌や国内学会もある程度評価されるが)。
そんな大事な活動なのに行わない期間があるなんておかしいでしょう?
空白がある場合、教員のテーマ選定能力や指導能力、研究遂行能力に問題があるかも。
「大きなプロジェクトを極秘で回しているので出てないんです!」みたいなことを言う人がいるかもしれないけど、普通幾つかのプロジェクトを並行して回しているし、大きなプロジェクトならそもそも成果が出る可能性が高いんだからコンスタントに出てないのはおかしい=やっぱりテーマ選定に問題があるよね?
スタッフがきちんといる研究室なら、大抵の雑務は事務スタッフがこなしてくれるし、実験のテクニックや機器のトラブル対応は技術スタッフにやってもらえる。
スタッフがいない場合、作業は講師や助教に振られるか学生に振られてしまう。そうすると余計な時間消費が増え、指導がおろそかにされたり、研究に割ける時間が減ったり、果ては無駄に居残る必要が出たり。
いない・少ない場合、権限を持っている教員がそういった非生産的な状態に無頓着であるか、スタッフを雇う予算がない=金欠研究室の可能性あり。
「学生達の仲が非常に良い」「元気なメンバーが揃っています」「明るく楽しい研究室」なんて文言があったら要注意。ブラック企業かな?
リンクページに明らかに教員のブックマークらしきものがあったり、日本語のページなのに英単語混じり(ルー語)だったり、デザインが謎だったりする場合、独特な教員である可能性あり。
この4つは例え他大にいても調べればわかる。ここから先は内部に繋がりがないと知るのは厳しいかも。
例えば4人いて、1人炎上するくらいならそいつが悪い。けど、半分以上炎上している場合は危険。
基本的に卒論と修論の発表会は通過儀礼要素が強く、ちゃんと考えてるかを試問教員がチェックする場。
ちゃんと指導されていれば厚い研究になるし、研究室内でディスカッションが十分に行われていれば質疑応答にきちんと答えられるはず。まともな研究室なら試問前に研究室内で発表練習して臨むのである程度穴は塞がれているはず。
つまり、所属学生の多くが炎上している場合、教員がまともに指導してくれていない可能性が高い。
学部や修士の段階で単独で研究を遂行できる人間なんて一握り。ここでサポートがないと君に待っているのは約束された敗北の大炎上。
他の研究室が6人とか7人とか配属されている状態で4人とか2人とかしか配属されていない研究室は、学部生の間で何らかの悪い噂が流れている/事実として配属されたくない場所である可能性が非常に高い。院試については就職組や外部進学組がたまたま大量に出た可能性もあるので、2〜3年追ってみて同様の状況が続いているか確認のこと。
1つだけキャンパスの外れにあるとか、そんな理由で不人気だったりする(研究室は悪くないのに)ところもあるので見極めは重要。逆に他の研究室が固まっている場所から最近になって移転して1つだけ僻地に追いやられる研究室は専攻内(教授陣達の中)で何かがある。
4)と同じ。学部生の配属人数は均等にするルールがある大学の場合、強制的に配属された人たちの吹き溜まりになってしまう研究室がちらほら。そういうところはまず良くないので脱出してしまう。中には院試前はニコニコ対応で囲い込んで院試後からブラックに豹変する研究室もあるらしいが……
グローバルだなんだと言ってもここは日本。学部生の大半は日本人のはずで、配属される学生はほとんど日本人。それが修士や博士で外国人だらけになっているのは生え抜きの学生がいなくなっている、即ち何かしらの闇を抱えている可能性あり。博士に進みたい人材が連続して配属されなかったとか、海外で超有名な研究室だからとか、そんな理由の時もあるので一概には言えないが。
ただしその場合でもコミュニケーション面や指導面でのハードルは覚悟すべき。英語できないと最初大変かも。
授業にやる気がないお方や多人数への指導が得意ではない方も多数いらっしゃるのでなんとも言い難いけど、スライド形式の授業でスライドのデザイン・内容展開があんまりだとか、レポート課題がやたら鬼畜だとかは考えもの。
逆に授業がクッソわかりにくくても個別に聞きに行った時に丁寧に教えてくださる場合は良い研究生活が送れるかも(ただし、こちらから積極的に行動しない人には不向き)
特にスライドが酷い人のところだと、発表がいつまでたっても上手くならず学会や就活などで苦労するかも。
研究室にその辺がうまい人がいれば教えを請えるのでそれほど重要じゃない。
コミュニケーションが上手く取れないと非常に苦労する。噛み合わない場合、独自の世界に固執しているか、言語処理能力に問題があるかも。また、小出しにしてくる場合、ちゃんと重要事項を把握していないかもしれない。
毎回期限ギリギリorちょっと過ぎてから話を持ってくる場合、社会人(オトナ)としての最低限を持っていないかも。
最近の大学教員は事務作業などの研究外活動に忙殺されてスケジュール管理が難しいが、時間に大幅に遅れてきてもしれっとしているような人はちょっと困る。10)とも少し重複するけど常識が通じない人と意思疎通を図ることは非常に骨が折れる。
博士課程を3年ストレートで修了することの難易度がそれなりに高いことは確かなのだが、それでもODや単位取得退学を頻繁に出すのはちょっと問題があると思う。「とりあえず受け入れるけどあとは一人で頑張ってね」のような放置プレイをされる危険性あり。
流石にこれは危険すぎるので巧妙に隠しているはず。ただ、研究室所属者から「RA費の余りから出すって」のような会話が聞こえるようなことがあったらアウト。いつ明るみになってお取り潰しになるかもしれないし、不正の片棒を担ぎたくはないでしょう?
快適な研究室生活を送りたければ以外と重要。権力闘争とか面倒ごとには巻き込まれたくない。
上の14個以外にも講師や助教が死んだ目をしているとか、専攻内ではごますり星人だけど研究室ではやたら偉そうとか、他の先生をやたらこき下ろすとか、お金にならない共同研究・短期留学生受け入れを大量に抱えているとかそんなポイントもあったけど、その辺は院生として実際に所属してみないとわからないと思うのでやめておく。
上記に一部当てはまったとしても、必ずしも危険ではない。学部生に敬遠される理由としてゼミが厳しすぎる(指導自体は的確だが罵倒に近いため)という研究室は、卒業してみれば意外とありだったり(そう思える日が来るのは遠いが)。
これから研究室を選択できるチャンスがある人は是非よく吟味してほしい。
特に大学院から大学を変えようと思っているそこのキミ。その大学/研究室は本当にキミが望んだような場所なのだろうか?入ってから「前の研究室の方が良かった」と思っても手遅れなのだよ?よくリサーチした?
そろそろ大学院入試シーズンなので,聞かれそうな質問をまとめてみた.
質問は大きく分けて2種類ある.コンテキストに強く依存した質問と,テンプレ質問だ.
このうち,後者は仮に試験官が一切話を聞いていなかったとしてもできる質問だ.時間を掛ければ対策はできる.
よっぽど試験官の頭が良くない限りはテンプレ質問ばかり来るから,
テンプレ質問の準備をしておけば院試は恐れることはない.試験範囲が決まった筆記試験のようなものだ.
また,コンテキスト依存の質問も発表内容のみからできる質問と,そうではない質問に分けることができる.
『「手法にはナイーブベイズ法,決定木,SVMがあり,そのうちSVMを採用する」
とおっしゃっていましたが,なぜ他の手法を採用しなかったのですか?』
穴のない発表をすることは難しいので(試験官がちゃんと話を聞いていれば)
この手の類いの質問はよく来る.
論理的に行われる質問は,論理を押さえておけば容易に対策できる.
つまり,
あたりを押さえておけばいい.
例に挙げた質問に対しては,他の手法を採用しない理由,SVMを採用する積極的な理由を
きちんと答えられればOKだ.
これは試験官がその領域に対する知識を持っていて,かつ突っ込みどころがあるときに来る質問だ.
質問の種類としては一番対策が困難だが,これを綺麗に返すことができれば評価はうなぎ登り.
例えば,『「機械学習にSVMを利用する」とおっしゃいましたが,
ニューラルネットワークなど別の手法はご検討されなかったのでしょうか』
といった質問だ.もちろん検討しているけれど時間の都合上紹介しなかったという
雰囲気を出しつつ,隠しスライドでも出しながら説明すれば良い.
この質問に関しては,ひたすら基礎勉強・サーベイをして知識を身に付けるしかない.
時間がないのであれば不勉強を悔いつつ,このような質問が来ないように誘導しよう.
こういう質問だらけになることはまずないが,現実はそうではない.
逆に言えば,誰もが思いつくようなこのような質問に
うまく答えられない場合は評価はかなり低くなってしまうだろう.
いつでも明確な回答ができるように準備しよう.
上記新規性・有用性の変形だが,こちらの方がやや難しいことがある.
志望研究科が学際的な場合,特に前者の質問にはかなり困るけれど,
何となくそれっぽいことを答えよう.
時間が短い場合,これらを全て押さえた十分な発表を行うことは難しい.
ただし,これらについてはいつ聞かれてもいいように,
発表には使わなくてもスライドは用意しよう.
修士の院試であればどうせ研究は終わっていないのだから,絵空事を答えればいい.
このような質問をする人は大抵何もわかっていないので,何を答えても納得してくれる.
読んで無くてもタイトルを5本くらいは挙げて,
それらしい説明をしよう.
院試なんてものは通過儀礼なので適当に流せばいいと思うけれど,
これらの質問は学会その他にも応用できるので日頃から考えておくと良い.
また加減が難しいところではあるけれど,例えば先行研究を一切説明しないなどのように
あえて穴を作っておいて質問をそこに誘導するという手法もある.
明かな穴がある発表をしたことのマイナス評価を上回る場合は有効だ.
学位審査や院試といった場においては狙ってもいいかもしれないが,
周囲の人々がちょくちょく結婚を勧めてくるんだが、そのたびに心に疑問が芽生える。
結婚というのは通過儀礼として避けては通れないものみたいな意識があるようで
結婚したい→相手を探す
てのは順番が変だと思う。
あの人に出会ってしまった!大好きになってしまった!なんとあの人も自分を好きになってしまった!
ずっと一緒にいたい!
となって初めて「結婚」が選択肢の中に出てくるなら分かるんだが
結婚することが目的(結婚してから先の将来を含めてそれが目的になってるという意味)
になっている人を見るたびに、気の毒になるんだ
「結婚」という二文字の呪縛から解き放たれた方がいいよ。自分はそっちを強くオススメする
もしかしたらそっちのほうがずっと多いかもしれない。
なんてね
具体例はググればいくらでも見つかるので割愛するが、私大入試の歴史とか本当にひどい。
国公立より受験者が多いから、論述問題を出しにくいというのはまあわかる。
しかし、それにしたって教科書にも載ってないような用語や、どうでもいい事件の年号ばかり聞いて何がしたいのか。
トリビアみたいな知識や、キリストの生誕が半年遅れたら全部ご破算になるような数字の羅列を
2chのその種のスレでは、「『悪問』とされている問題は解かなくていい、他が解ければ受かるから」
とフォローされていた。それはわかるが、解かなくていい問題なんか最初から出すなよ。
と、そんな風に思っていた時期が私にもありました。
あまりに考えが浅かった。
「無意味である・無価値である」こと自体に、意味や価値があったのだ。
つまり、一見無意味な用語をひたすら暗記させることは、ただでさえ併願で逃げていく率の高い一般受験生に対し、
大学への忠誠心を試すための「踏み絵」として機能しているのではないか。
そう考えると納得できた。
例えばしごきや研修やバンジージャンプみたいに、部活や企業や特定の文化において
客観的に見ればあまり意味のないような通過儀礼がよくあったりするが、
アラサーの新婚。結婚というイベントに全力で向き合えず、ゼクシィも買うこともなく、照れて流すように済ませた。
親族だけで、それなりに満足できるアットホームな挙式をした。結納も婚約指輪もなし。
自分の性格的にそれで良かったと思ってるし、派手な結婚式がやりたかったわけでもドレスを何着も着たかったわけでもない。
それから半年ほど過ぎ、同僚の結婚式に参列したり、結婚準備の話を見聞きしていると、無性にむなしくなる。
それなりの学歴でそれなりの会社なので、結婚する同僚はそりゃもう、キラキラしている。女も男も。
「金がないから若者は結婚できない」ってどこの世界の話ですか?っていうくらい、浮ついてるし金かかってる。
カルティエの指輪、2週間のハネムーン、新郎のサプライズに感涙の新婦、手の込んだビデオレター、余興、
フワフワのウェディングドレス、とにかく大勢の友達・友達・友達が集まる二次会、三次会・・・
自分にはいらないし、羨ましいわけでも、悔しいわけでもない。たった1日に500万円使うとか、心の底から金の無駄だと思う。
ただ、そういうスイーツ的価値観を無邪気に甘受できる女に生まれ(育ち)たかったなーと思って、言い表せない悲しさで寝られない。
貧乏性、スイーツ的なものに対する憧れ、というのが正にドンピシャで刺さる。
派手婚できるくらいの貯金はあるけど、いくら持ってても結婚式に大金をつぎ込めない。
ブライダル業界は悪という意識が強かったので、結婚式と披露宴はプランナーを通さずすべて自分で手配した。
指摘があったように、キラキラした結婚式=大人の通過儀礼ということが分かってきたから落ち込んでいるんだと思う。
様々な労力(恩師に会いに行ったり、休みごとに打ち合わせしたり、友達に色々な頼みごとをしたり)を大幅にカットし、
その後のキラキライベント(新居への友人招待とか)もやりたくないし、やっても楽しめない、と思うのは、大人としての程度が低いと思う。
会社の飲み会で頑なに「一発芸できません!」「カラオケ歌いません!」と主張する新人のよう。
キラキラを体験もせずに勝手に凹むのもどうかと思って、海外でフォトウェデイングしてみたけど、思ったより楽しめなかった。
好みを変えたいという馬鹿な悩みなので、凹む。
言いたいことはよーくわかる。
ぼくも研究室配属の時、同じ学科の人たちがこんな研究をしだいだのなんだのと言っているのを尻目に一切迷うことなく一番楽な研究室に決めていたし、授業の一環で講演みたいなものを聴きに行かされた時も、どこぞの会社の役員の
「社会で活躍する研究者となるためには積極性がなければ云々」みたいな話を、「社会に洗脳されるとこんなことを本気で言うようになってしまうものなのか~」と思っていたぐらいだ。つまりはぼくも、仕事が面白かろうがつまらなかろうがそんなことはどうでもよくて、生活に困らないぐらいの給料が楽に稼げればそれでいい、と考えているということだ。まあ今時、こんな人間は石を投げれば当たるほど大勢いるとは思うけど。
だけれどもいざこの時期になると、そんなやる気のないことばかり言ってもいられなくなってきた。なにしろあと一年で大学を卒業してしまうのに、その頃もし職がなければ収入もない、収入がなければ死んでしまう。そういう非常にシンプルでかつ、容赦のない理屈が世の中には存在する。だからその自分の話す志望理由だとか自己PRだとかいうものが所詮おためごかしにすぎないとわかっていたとしても、やるしかない。有吉弘行がマイナビのCMで「やるしかないから、やるしかない」と言っていたけれど、身も蓋もないこの言葉はおそらく事実そのものだ。もちろんぼくは今も依然として向上心があり、リーダーシップがとれて、皆から人望がある人間なんて唾棄すべき存在だしクソくらえだと思っている。だがそれはそれとして、就活なんて“入社してからも続く、面白くもなんともない仕事”と性質は違うものの同じだと考えて、割り切った方が間違いなく得だ。どうしてもそれがイヤなのなら、頑なに夢を語らず内定のないまま卒業しても良いと思うけど、おそらくそれだと自分の思い描いている“普通”の暮らしとは程遠い生活になると思う。実際、その“普通”の暮らしを送ることができない人間は世の中にけっこうな数いて、もはやそれはぼくたちにとって決して他人事ではなくなっている。だから、我慢して夢を語ることと、自分の思い描いた暮らしを享受すること。その二つを天秤にかけて、好きな方を選択すればいいと思う。その結果はあくまでも自分の責任で、上手くいこうがそうでなかろうが、その結果は誰のせいにもできない。
就活というものはある意味、イニシエーションの儀式なのだと思う。
学生時代、人は誰でも自分のことを内心で特別な存在だと思っているが、その多くは取るに足らない凡人にすぎない。今まで特別だと思っていた自分という人間が、ありふれた存在であるということを知り、また自分の思っていた“普通”の生活を維持するのは思いの外大変だということを知り、人は通過儀礼を経て成長するのだと思う。しかし、人によってはその挫折に耐えきれないこともある。就活というシステムが若者にとって良いシステムなのか悪いシステムなのかはぼくにはよくわからないけれど、システム自体を変えることができないぼくたちは、ほどほどに頑張るしかない。