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はてなキーワード: 冬休みとは

2020-09-21

睡眠時の幻覚のような模様について

表題の通り。

連休の3日目の月曜日今日、暇でゴロゴロ布団で惰眠を貪っていたんだけど、その時、歯車のような、流線型のような、模様のような黄色?の幻覚のようなものが見えたんだ。イメージ的にはお洒落雑貨幾何学ちっくなデザインのような、あるいは典型的サイケデリック模様のような感じ。

特に昼寝の時、覚醒睡眠狭間にいるときに、多かれ少なかれ見るんだ。で、これは自分にとってまあまあ普通のことで高校ぐらいから見える、というか知覚できるようになった。当時、友達に話してみたけどわかんないって言ってた。増田のみんなで経験がある、またはその分野に詳しいという方、コメント待ってます

以下追記です。

閃輝暗点

偏頭痛もちだけど、その時は現れない。しかも、生理的な、単にギザギザした光の形というというよりは無意識、夢の世界に近くて、アーティスティックぽささえあるように思える。頭痛はないけれど、倦怠感はある。

ナルコレプシー

Wikiで調べたんですが、これ系ぽいですね。わりと慢性的にやや倦怠感があり、特に感情が高ぶったりすると、運動神経全般がぎこちなくなるような感覚があります。ただ、軽く力が抜けるという程度で、倒れたり、体が動かなかくなるというのはないので、この症状と上手く付き合っていきたいところです。なお、神経内科で診てもらうのも検討しておきます

Pink floydプログレッシブ・ロック

当時から結構音楽好きで、サイケデリック・ロックやプログレッシブ・ロック(すまんが知らん人はググってください)をよく聴いていて、何となく幻想的な精神世界に興味を持っていました。初めてこの症状を見たときは、高1の冬休みに、チャイコフスキーの『冬の日の幻想』を聴いていた時で、(とは言ってもそこまで自分には響かず、退屈感も少なからずあった)目を閉じると幻覚的な光景が、色鮮やかに映し出されていって、不思議でもあり、怖くもあったのでますが、知的好奇心に身を任せ、束の間の風景を楽しんでいました。こうしてみると、この症状は少なくとも自分にとっては音楽と強い関わりがあるように思えます

2020-09-16

[]2020年9月15日火曜日増田

時間記事文字数文字数平均文字数中央値
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2020-09-15

夏休み冬休み春休み以外の昼間だけできる仕事

経営してるんだけど通常時は昼間暇なんですよ。

でも、中学生夏休み冬休み春休みは昼も夜も忙しいんです。

でも、今の時期は暇なんですよ。

学生の長期休み以外の昼間だけできる仕事ってないですかね?

2020-09-02

anond:20200827182934

易経とニーモック表を小学生に教えちゃえばいいんだよ。

個人的には小学生の時点で詭弁論理学逆説論理学が一人で読める地頭ある子供

中学上がる冬休みゲーデルエッシャーバッハ読む輪読セミナーの機会ぐらいあってもいいと思ってるが。

2020-08-31

夏休みのある学校がうらやましい

小中高と夏休みがなかった。正確にいうとお盆の期間しか休ませてくれなかった。

それ以外の期間はずっとクーラーのない学校に来させられて勉強部活をやらされていた。

大学生になって夏休みというものを知った。大学同級生は小中高と夏休み謳歌していたと聞いてカルチャーショックを受けた。

春休み冬休みも同様になかった。ドラえもんちびまる子ちゃん春休みには宿題がないからいいよね〜という台詞を聞いた時、意味がわからなかった。3月末も4月の初めも学校で授業があったからだ。

若い頃の長期の休みというのはいものだ。そして二度と取り戻せない。これから子育てをする人

、くれぐれも九州田舎町で子どもを育てるなんてことはしないでほしい。あの町は子ども奴隷しか思っていない。外にでなければ一生気づかなかった。

2020-08-13

字を上手く書くにはどうしたらいいんだ

自分の書く字がコンプレックス

何より下手だし、中途半端丸文字とミミズ文字ミックスみたいな感じで大変見苦しいと思う。自分でも読めない時がある。

今までも、「自分の字って子供っぽくてカッコ悪いな〜」と思ってたけど、昨日何気なく、Tカードの裏に書いてある自分署名と、店員さんが書いた有効期限の文字を見比べて、すごいガッカリした。自分の字きったねぇ〜!ヘタクソ!

なんかこう、何気ないメモとか板書したノートとかでも、キッチリ整ったきれいな字の人いるじゃん。ササーっと書いてるのに整っている。すごい。

私は罫線のない紙に横書きしたら文字の中心が揃わずデコボコするし、縦書きだとどんどん斜めになっていく。

「さ」とか「き」は繋げて書いてしまうし、「す」「お」「む」は横線を書いた後に一筆で縦の線も書く。分かりづらいけど伝わってくれ。

多分私の字の汚さの原因は小学生の時まで遡る。私の母や先生は、漢字ドリルのやり方にとても厳しかった。ドリルに書いてある熟語とかをノートに写す時、なんかもうまどろっこしいほどゆっくり丁寧に書かされた。(大人のせいだと言いたい訳ではなく、私がせっかちすぎてそう感じていただけである)

それがもう、当時小学生の私にはとても苦痛だった。たか漢字2文字書くのに時間かけて、お手本通り書けなければやり直し、書き順間違えてもやり直し。

そこで、根性や忍耐力が身について「字を書く時は丁寧に!」という心が芽生えれば違う人生を歩んでいたのかもしれないが、私は基本的にせっかちで飽きっぽい性格だったので、次第に適当に、なんなら字を書くのも嫌いになっていった。

そして、漢字ドリル提出のたびに、習字の授業のたびに、夏休み冬休み習字課題のたびに、周りと比べて字が下手なのを実感してさらに字を書くのが嫌いになるという悪循環

つまるところ、自分のせいである。

ちゃんと丁寧に習った漢字練習して、根気強く書く習慣をつけていればこのようなコンプレックスを抱くこともなかったのだろうが、無理だった。漢字練習よりも読書がしたかった。

一応美的センスはある(つもり)なので、レタリング技法を使えば美しい字は書ける。でも日常生活で字を書くのにいちいちそんなことやってられん。だいいちそれは私の字ではなく明朝体とかゴシック体だ。

もう来年から大学生だ。これからいろんな書類を書くことだろう。この、小学生の時から成長していない字で…。

本屋ペン字講座の本でも買おうかな…飽きっぽいから続くか分からんけど。なんかい練習法とか心がけとかないもんかね。

夏休み必要日数の計算を間違えた

当初の見積もり 5日

趣味  3日

家事  1日

・休む  1日

ぶっ通しでゲームして飽きたら家事やって休めばオッケー!


実際に欲しかった日数 15日

趣味  5日

レジャー 2日

家事  4日

・休む  4日

ぶっ通しでゲームやって飽きたらちょっと家事やって休む

普段やらないような事して気晴らししてそのあと休む

んで今まで仕事にかまけて部屋中散らかってるし掃除してないのをどうにかして休む

そのあとちょっとゲームやって書類整理とかやって休む

最後ゲームやって休むだけの普通休日

クソッ!

から有給取るか?

まあどうせ今年も残り15日ぐらい余ってるし取っちまうか?

いやでも一度5日でいいと言っちまった以上取りにくいし、これで突然コロナになったらよくないな。

しゃーねえ冬休みだな。

冬休みは思いっきり休もう。

大掃除も本場は冬休みだしな。

それまではこの汚え部屋で過ごすぜ。

風呂の壁とエアコンフィルターぐらいは掃除するか。

2020-07-28

父が死んで良かった

実家燃えてなくなった。

母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。

僕の昔住んでいた田舎実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。

その後、父と母と、一緒に住んでいた次男一時的市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎ放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。

父はぶっ壊れていた。

僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージ試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。

しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。

そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事洗濯や、子ども病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。

父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。

一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。

あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費ほとんど持ち出してしまたこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。

中学高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校あんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。

高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。

進学は田舎から遠い関東大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。

結局僕は関東大学合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着け空間だった。

外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学サークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。

そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。

色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。

それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。

そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。

僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しか自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しか思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。

その後の父

僕は自分普段生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたまから電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。

とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。

結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。

しかし、施設費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。

そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。

僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。

終わりが近づく

それから数年が経った2019年年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。

しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。

年末になり、実家帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。

さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。

母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。

部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。

父はたしかの子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。

そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。

最後大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。

父が死んだ

それから半年ほど経った。コロナ流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日

妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段生活をおくらせてあげたかった。

しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。

とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。

葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日告別式ということも忘れそうだった。

次の日、起きて甥っ子たちはフォーナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。

葬儀

葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休み冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢マリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休み大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。

おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我治療前頭葉があるため、簡単はいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。

しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。

その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。

導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイク全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフ誘導したのがおかしかった。

おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。

そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまたこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。

元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまたことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。

母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。

そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。

その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。

その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。

焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。

次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。

そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。

その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当バラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。

しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。

しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。

スタッフ説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。

そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。

思うこと

僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。

父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。

父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。

昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。

その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。

女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達ショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。

父のため仕方がない、と思いながらも、女性毎日どれだけ苦しいか想像をするだけでも苦しくなる。

その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分娘。さなから育てながら思うことは、この子楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。

しかしその全ての未来自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇さらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。

でも、死ぬということは難しい。自分死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さら介護されている状態自分死ぬこと自体そもそもできない場合もあるだろう。

この世には安楽死必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度必要綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。

とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。

2020-07-22

サイケデリック旅行(序)

説明しよう。「サイケデリック旅行」とは人間の内的世界すなわち夢・無意識世界に没入することで、その鮮やかで自由世界散歩することである。本稿では荒唐無稽支離滅裂な内容が続くため、物好きにして、根気の強い人のみ読むべし。

さて、初めてのサイケデリック旅行は、高校一年の時である。それは忘れもしない冬休み、雪のしんしんと積りゆくクリスマスイブ日の出来事である。聖夜の前日ということもあって、私はくさくさと家に篭り、もののけ姫dvdを観た後に、チャイコフスキーの「冬の日の幻想」を聞いていた。確か40分弱の曲で、高校生の私には長く、単調なものに感じられたが、20分ほど聞いていると、不思議なことが起こりはじめた。

まぶたの裏にあらゆる断片的なイメージカラフル原色となって浮き上がってくる。それも、有名な絵だったり、カードゲームカードであったり、動物だったり内容はまちまちである。はじめは、歌川広重の「おおはしあたけの夕立」が浮かんできて、様々な色の斑点を伴いながら、暗闇の深淵へと消えていった。それから子供の時に集めていた遊戯王カードが、回転しながら現れて、その次に物置に仕舞った、白色のPSPが浮かんできた。さらにその次に現れたのは、なんと説明しようか、いわば極度に抽象化された、概念的なイルカだった。そのイルカ点と線のみで構成されるアルゴリズムのようであり、イルカショーで見られるような美しく大胆な、水から跳ね上がる運動を延々と描いていた。

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1173

歌川広重「おおはしあたけの夕立

これは衝撃的な体験だった。それから私は無意識・夢の鮮やかで摩訶不思議世界の虜となり、夢日記をつけ、河合隼雄心理学を読み耽るようになった。夜、世界は青い静寂に包まれる。私は目を閉じて呼吸を穏やかにし、これからに映る美しい幻覚を心待ちにした。夢の中では空を泳いで、知らない街を見下ろしたり、通っていた高校に行って、やれやれ、なんて高校生らしい願望だろうか、ありとあらゆる同級生おっぱいを揉みしだいたり、セックスをしたりした。

以上が、この頃のサイケデリック旅行の記録である

就職について考えるだけで頭が痛くなってくるニート

私はMMMO(無能で無教養で無収入オタクである

働いていないので収入は無い。働かなければいけない、と時々思う。

だが私にはある悩みがある。就職について考え出すと途端に頭が痛くなるのだ。

どこで働けばいいのか分からない。どうやって応募すれば良いのか分からない。面接でどう受け答えをすれば良いのか分からない。どうやって働き続ければ良いのか分からない。

労働経験が一切無い訳では無い。冬休みほどの期間だが労働の真似事をした事はある。あまりに昔の事なのでどういう感覚だったかはもう覚えていない。

働かなければいけない。しかし働く事を意識すると頭が痛くなる。実際に働き出すとその日の内に辞めたくなる。

無能で無教養で無収入オタクである私だが、何とか働かずして収入を得る方法は考えなければいけない。考えると頭が痛くなるのでもう寝よう。いまはおやすみ

2020-07-19

夏厨」が死後となった世界で僕らはどう生きていくべきか

スマートフォンの普及により今では幼稚園児すらもインターネットに生息している。

僕らが子供の頃、インターネットゲームパソコンしか遊べなくて、そのパソコン学校だとか金持ちの家にしかなかった。

あの頃はインターネットなんてものは奇妙な無法地帯であり、そこで遊ぶということはアンダーワールドに片足を踏み込むのと同義だった。

今で言うダークウェブが、モデムを通して一歩ネットに踏み出したすぐ先に広がっていた。

その世界ものすごく危険場所だとみんなが知っていたから、サバイバルマニュアルを読んでから踏み入れるのが当たり前だった。

そこからADSLなんかが始まって少しずつ、何も知らずにその未開のジャングルにやってくる旅行者が増えてきた頃、港町の周りぐらいは治安をまともにしようって動きが出はじめて、浅瀬でチャプチャプするだけならそこそこ安全になっていた。

それでも、最低限の知識、リアバレだけは絶対回避しろだとか怪しいソフトは入れるなとかコマンドコンソール意味理解してない言葉を打ち込むなとか、そういった事を学ぶことは不文律義務付けられていた。

でも夏休み冬休みに暇を持て余していた新参のガキだけが、それを理解してなかったら悪目立ちして、「夏厨」という概念誕生するに至る。


あれから数十年。

今やルールなんて何も知らずにネットにやってくるキッズの数は計り知れない。

年齢だって非常に若くて、アンパンマンセイキン動画についてる応援コメントの中には言葉を覚えたての幼児だって珍しくないだろう。

「草」だとか「オモローwww」とかの言語能力幼稚園レベルにまで退化した大人たちのコメントに混じって、本当に言語レベル幼稚園児の幼稚園児が紛れているんだ。

そんな中では、厨房なんてまだ話がわかる相手になってしまう。

こんな状態では、常識マナールールルーツ、そんなものは全部流されていく。

新しい時代だ。

どう生きる?

今目の前にいる相手が、幼稚園児かもしれないインターネットを?

2020-07-18

anond:20200718070640

ものすごくやった」のは本当なんだろうけど、

テスト後の3日間だけ、冬休みだけ、

絵を描いたのも百枚だけなんだね

バイト代で絵の教室に行ってみたらよい

身銭を切ると違うよ

才能のある人間が羨ましいという話

この日記を見ていらっときた人、批判したくなった人、意見を言いたくなった人、どんな人が現れるかわからないが、深夜4時のテンションで日頃の鬱憤を吐き出したい。

お叱りの意見が来るのは承知である。あとで見返して大反省するのも承知である

大半の人間が何かしらの才能を持ち合わせているという事実

なぜかよくわからないが、周囲の人間に限ってはこの事実例外を見たことがない。

友達のSは絵が上手くて自頭がよく化粧やお洒落はしていないが周囲から愛される。

友達のYは友だちが多い。また頭の回転が早く旧帝大に現役合格しており、吹奏楽部幹部で頑張ってきたようだ。

友人のTも旧帝大に楽々合格して、運動神経も良い。ついでにルックスも良い

友人のMは友達が少なく勉強も苦手なようだが球技だけはずば抜けており、最近では趣味イラストも上達してきている。

などなど

私も良い大学合格したくて誰よりも努力した、少なくとも勉強時間でいうとクラスで一番だった。中学の頃は友達恋人に囲まれてる人が本当に羨ましかったし、趣味イラストだってずっと頑張ってきてる。

でも、なぜかできない。

何を頑張っても平々凡々にしかできない。そりゃあ、勉強だって高1の頃から居残りをして沢山やってたから、担任から一橋だって行けるんじゃないかって言われてた。周りがやってなかったから。でも、学年が上がるに連れて自分偏差値相対的に落ちていったし、何より効率よく勉強したはずなのに、一橋どころか地方公立でさえ落ちた。今は胸を張って高学歴だとは言えない私大に在籍している。自分頭が悪い自覚がなかった、周りが良すぎると思ってたし今も思っている。(受験について述べ始めるとキリがないが、政経センター対策参考書網羅したはずなのに、半分知らない内容だったし、数1A2Bだって自分の中では難易度の割によくできたほうなんじゃないかと思ってたら、平均点しかなくて絶望した、英文法も分厚い王道参考書網羅して自身があったのに某私大英語では参考書にない知らない文法ばっかりでひっくり返ったし、受けた奴らは皆簡単だったと言ってて暫くTLも見れなかった。)

模試の度に反省をしてトライエラー繰り返してきたけど、受験を振り返ってみると圧倒的にやった参考書の量と勉強時間が足りない。の一言に尽きる。誰よりもやってきたはずなのに、自分スマホ禁止している間スマホをやってた奴らのが成績が良かったのだ…。

私が記述数学対策必死でやってきた中で無対策友達に点数を好かれたら死ぬほど悔しくて、3日間睡眠食事以外徹底的に勉強した(一日15時間以上)り、冬休みネットテレビを経って毎日14時間ぐらい無我夢中勉強した

それでもセンターが近くなるに連れて周りの奴らが本気で勉強しだすので、自分の成績は上がりようがなかった、くそったれ

まぁ勉強は才能がなかったで終わり、今は就職のための新しい勉強をしているか学歴はもう良い、と最近は思う。まぁ、その勉強受験勉強と同じく好きだけど得意なわけじゃないか就職してもできるやつに追い抜かされるんだろう。

んでもってさ、勉強以外ができるのかって言うと、違うのよ。

まず自分は圧倒的に仕事ができない。ケアレスミスが多くてレジ打ちなんてもってのほか集中力がすごいだけで、一つのことに集中してはいけない接客業では圧倒的にハンデになる。マルチタスクがこなせない。何をやれば良いのかわからなくなってしまう。覚えたことがごっちゃになって、またそこでもケアレスミス。せめて仕事ができる人間だったら良かったのに

そして、受験が終わってから小学生の頃からずっと好きだったイラストをまた描き始めたがこれがまた成長しない。ネットで上手くなる方法を探してはトライエラーを繰り返し。デッサン模写も沢山やってるし、周りの友達可愛いね、上手だねって褒めてくれる時はあるけど、上手い人と比べると圧倒的になにかが足りない。同じ18歳で絵の上手い人なんてゴロゴロいるけど、自分より絵描き歴が短かったり自分より圧倒的に描いてる枚数が少ないのにこのレベルかと驚愕することが多い。(自分中学生の死ぬ気で絵を描いていた。)もうやだ、才能がない、辞めたい、過去絵みたら全部下手に見えてくるし、って思いながらも睡眠時間を削って大学課題をする時間以外はずっと絵を描いている、3月から。(諦めたり、辞めたりしない、継続する根性受験期に身についた)さっきも絵を描いていたけど、やっぱりちょっと楽しいと思う半面もう百枚以上は描いてるんだからそろそろ上手くなっても良いんじゃないかと思う。無念。

友達だって少ないし、人から愛されるような愛らしさや魅力もない。ツイッター愚痴ると嫌われるから本性は出さないようにしてここで愚痴ってるし、中3から化粧の仕方だってyoutube研究してきた。見た目のコンプレックスだって拭えない。

最近よく何かがずば抜けてデキる人が本当に羨ましいと思うし、自分は何をするにも鬱になるぐらい、他の娯楽を全部我慢して睡眠時間を削るぐらいの努力をしないと”そこそこできる”のラインに到達できないのに嫌気が差してきた。

自分には何ができるのかわからないしなんの才能があるとも思えない。ちょっとかじっただけで何でもできてしまう友人が本当に羨ましかった。

一時期はこの人だって自分より努力してるかもしれないと思う時があったけど、そう思えないほど自分精神的にも体力的も疲弊してるのに 相手SNSでの楽しそうな投稿を見る度にこいつは自分より才能があるんだっていう認識に変わる。

これでも、頭が良くて友だちが多くて運動音楽の才能がある多彩な人間ほどもてはやされた中学時代と違って、女子大生は才能がなくてもルックスだけ良ければちやほやされるから楽だ。自分普通だけど。

以上、今日徹夜イラスト練習をしているがその合間に書きなぐった愚痴です。文章ぐちゃぐちゃ。大勢の人に見てもらいたいわけじゃないけど、深夜のテンションとたまには愚痴ってもいいよねってことで吐き出してみた。

おわり

2020-07-12

なんで子供メニューが安いの

(ずいぶん前の話)

帰宅してテレビをつけると、ニュースが流れており、飲食店の一部が「子供」向けにとそれぞれの条件をつけて値段を半額にしたり半額以下にしたりする様子が映っていた。わけがからなかった。

どうしてそんなことをするのだろうか。やはり企業イメージの向上を図っているのだろうか。それとも、本当に見ず知らずの、一歩外に出れば赤の他人家計を案じて安い値段で飲食提供しようとしているのだろうか。

極めつけは飲食店内でインタビューされていた親が「休みがこうも長く続くとストレスたまると思うので、(値段が安くなるのは)ありがたいですね」という趣旨を言っていたことだ。意味がわからない。※(値段が安くなるのは)の部分は俺が補ってあげた。

だいたい、ストレスが溜まるのは子供なのだろうか?そのストレスの解消と、飲食料金の値段引き下げがリンクしているというのか?

まり、代金を支払うのは子供だということ?

ストレスが溜まっているのは子供じゃなくて親の方だと解釈するのなら、わけわかる。だが、先の文脈では「休みが続いている」のは子供なのであって、やはりストレスが「溜まっている」のは子供しか読めない。

飲食店側の対応も疑問がある。コロナ休みなんて、小学校冬休み夏休みが合体した期間みたいなものなのだから、親が子供のメシを用意するのはさほど負担ではないはずなのだ。それに、勝手子供を産んで育てているのだからメシを食わせる経済力だってあるのだ。だから子供menuを普段以上に引き下げるというのはビジネスとしてナンセンスなんじゃないかと思う。

そのニュースを観ながら、自分は先週に買っておいた即席ラーメンをゆでて、メンマ薄っぺらチャーシューをのせ、セブンイレブン冷凍チャーハンをメインに、生ハム香味野菜サラダを作って一人で食べた。

嫁さんもいないし、子供だっていない。なんで旦那や嫁さんがいて、おまけに子供もついている人間が俺より低い金額をメシに払っているのだろうか。そう思うと、怒りと悲しみがこみあげてきた。

2020-06-09

僕ヤバ:3巻まとめ

3巻のテーマ

1巻は市川山田を好きになる物語

2巻は山田市川を好きになる物語

3巻は山田が求め続けて、市川が応えるまでの物語だった。

2巻までの二人はただ相手が好きで、それだけで良かった。

3巻での山田市川を求めているし、市川に求められる事を望んでいる。

しかし当の市川自分本心から目を背けているせいで望みはかなわないのだ。

からこそ karte.43 で市川が絞り出した本心尊い

不器用で臆病だが精一杯山田を求める気持ちがこもっていて、ようやく山田は互いに求めあう事の充足を得た。

3巻の山田杏奈

3巻は全体的に、山田の心が市川でわちゃわちゃする様を愛でる話が多かった。

単話ごとで見ると、山田が初めての恋に振り回される様はとても微笑ましい。

一方で3巻全体を通して見ると、すこしずつ山田不安定になっていく様子がうかがえる。

求めるにつれ自制が失われ、年相応の性欲が芽生え、不安が募り、ついにはナンパ彼女というストレス要因によって弾けてしまう。

この不安定さは最終盤、仲直りのハグ(2回目)とLINE交換によって肉体・精神の両面から満たされる事で一旦解消。

幸せの中で4巻に続いている。

3巻の市川京太郎

市川は2巻中盤以降から相変わらずで、山田ほど恋に振り回されてはいない。

自分の恋心を「病気」と断じて未来への希望排除しているため、より親密になりたいという欲求自体抑制されているのだろう。

これはもちろん欺瞞であり、ポーカーフェイスの裏で溜りに溜まった歪みが終盤ついに吹き出し初恋破たん寸前まで追い詰めた。

市川が歪みの正体に気付き乗り越えた事で二人の関係は一歩前進できたが、まだまだ色々な事(欺瞞のものとか)から目をそらしている事は変わりなく前途は多難だ。


以下、各話あらすじおよび個人的解釈


karte.31:僕はLINEをやっている

市川とのつながりが欲しい山田LINEの交換を持ちかけるが失敗。

逆に成り行きで萌子市川LINE交換することになり激しく嫉妬する。

自分市川に妬かせるためにクラスの石室君とLINE交換せざるを得なくなるが、すんでのところで市川が(意図的ではないが)阻止。

市川のやきもちがうれしい山田だった。

karte.32:僕は距離を取れない

持久走の授業は市川山田もついでに原さんも苦手。

図書室以外での接触を避けたい市川距離を取ろうとするが山田は一緒に走りたい。

なんだかんだ山田が気になってほぼ一緒に走り、結果はビリだった。

ヘトヘトの山田市川の方に手を伸ばし、立たせてと甘える。

授業終わりでみんな教室に帰っているし、まぁいいかと手を貸す市川

クソイベントの持久走すら山田と一緒だと悪くないのだった。

途中で預かったジャージ上着山田に返して教室に戻ると、

返したと思ったのは市川ジャージで二人のジャージが入れ替わっていた。

karte.33:僕らは入れ替わってる

市川の名札が付いたジャージ山田が着てしまう事を危惧する市川

授業中に入れ替わりに気付かず(?)着てしま山田

市川は挙手して黒板前に進み出ると、問題を解きつつ山田に「名札みろ」とジェスチャーを送る。

が、山田は二人だけの秘密を楽しんでいるかの様に受け流すのだった。

ようやくの昼休み図書室に市川が入ると山田は先に来ており、山田から返されたジャージの襟元にはご飯粒。

市川はいもの食べこぼしだと思ったが、それは口元にご飯粒を付けた山田市川ジャージに顔をうずめた痕跡なのだった。

karte.34:僕は視聴した

市川一方的山田を観察する初期のテイストの話。

ネット山田がEテレ「コロンブス学園」なる番組に出演している事を知った市川

丁度放送日だった事もあり気になって視聴する。

山田が皆に知られてしまう事を危惧する市川だったが、実際のところ山田はひな壇のその他大勢に埋もれ、しかも出番はほぼカット

市川はホッとしつつも山田の傷心を思い「コロ学」の話は避ける事にした。

が、当の山田は少ない画面映りにも満足で自慢げなのだった。

karte.35:僕は勉強を教える

最近山田は昼休み宿題している事を知ったちい(小林)が図書室を訪れ、なりゆき市川問題の解き方を教えることに。

素直で裏表のないちいが市川とも距離なく話す様に、親友とはいえ嫉妬が隠しきれない山田

市川の方でも「山田とだけは普通にしゃべれる」事をちいに指摘されて動揺。

その日の昼休みは終始かき乱される二人だった。

結局ちいは進研ゼミを始めたため図書室に来たのは1日だけ。

代わりに山田市川勉強を教わる事にして、図書室の二人は並んで座るようになった。

karte.36:僕は母親と似ていない

三者面談学校母親接触したくない市川面談室前の様子を隠れ見る。

順番が山田家の次だったようで、廊下椅子には山田母・山田市川母が。

美人で凛々しい山田母に納得の市川

隣に座るのが市川の母と気付いた事から緊張しつつも軽く談笑する山田市川母。

市川市川母の共通点を見つけ出してほっこりする山田だった。

面談終了後、玄関に向かう市川親子を見つけて後ろから駆け寄る山田

そのとき面談前にすごく綺麗な子とアメを交換しちゃった」との市川母の言葉に、一部始終を隠れ見ていた市川「山田」と即答。

すごく綺麗な子=山田という市川の答えに顔が赤くなった山田はまともに話しかける事ができず、「ば、バイバーイ」とそのまま駆け去った。

karte.38:僕は接触を試みた

ちいが風邪でお休み

萌子にちいの代役(椅子)を頼んだ山田だが、椅子萌子山田の乳を揉んだだめ憤慨。

それなら、と黒板に「山田触っていい場所マップ」を書かせることに。

山田書き込み、それをのぞき見市川

その日の図書室、市川マップを見たと知っている山田は触って良いよとばかりに距離が近い。たじろぐ市川

三者面談の話をしているところに司書先生が入室し、慌てて距離を開けた。

ふと見ると山田宿題ノートの端にアメを出しっぱなしにしていて、市川マップ上「触って良い」になっていた肩を軽くたたき「アメ、隠せ」と耳打ち。

突然のささやきに山田は耳をおさえて赤面、超絶動揺してしまう。

後日、山田マップには耳が「触るのNG」として追加されたのだった。

karte.38:僕はホントにずぶ濡れた

小雨かと思ったらドシャ降り。

冬の冷雨に打たれながら自転車家路を走る市川コンビニを出た山田と鉢合せした。

市川の濡れた髪と面貌に見とれて思わず手を伸ばしてしま山田、たじろぐ市川に気付いてギリギリ未遂

後ろで傘を持って2人乗りしようとの山田提案もあったが、仕事の予定もあって結局断念。その場で解散となった。

ようやく家の前まで帰り着いた市川は、自転車の前かごに山田コンビニ袋が入ったままになっている事に気付く。

袋の中にはお菓子の他に生理用品もあり、慌てた市川は再び雨の中を駅へと急ぐ。

何とか間に合った市川、大声で山田を呼び改札越しに袋を渡そうとする。

山田はわざわざ改札を出ると、袋を受け取りながら濡れた市川の髪を拭いた。

市川が慌てていた訳に気付いた山田は顔を赤らめつつも市川の耳にそっと顔を近づけて

「これ、生理のやつじゃないから」と耳打ちリベンジ

なんだかよくわからない市川

続く「ママに頼まれた」という言い訳市川は「あのキレイママがなぁ・・・」とキモい妄想にふけってしまい、それと知らない山田はここぞとばかりにハンカチ市川を撫で続けるのだった。

karte.39:僕は夢を見た

前回の雨で風邪をひいた市川学校休み、平日昼間の一人の家を満喫

そこに給食イチゴババロアをもった山田がお見舞いでインターホンを鳴らす。

玄関先で少し言葉を交わした後、体調を気遣っておとなしく帰ろうとする山田を、市川咄嗟に「あ、お、お茶でも、飲んでいっ、たら・・・?」と引き留める。

表情を明るくする山田

自宅に山田がいるという緊急事態テンパる市川お茶の用意をしかけたところで汗まみれの寝間着が気になり着替えることに。

が、熱と緊張のせいか着替えの途中で気を失ってしまう。

半裸で倒れている市川を見つけた山田は慌てて駆け寄る。

朦朧とした意識の中で「大丈夫大丈夫」と答える市川だったが、上着を着せようとする山田の腕の中で再び気を失った。

熱のこもった裸の上半身山田に預け、荒い息を吐く市川

まりの状況に思考が追いつかない山田

熱に浮かされる市川は、山田に抱き寄せられるやけにリアルな夢を見ていた・・・

頬を撫でる手の感触市川が目を覚ますと、手の主は山田ではなく姉。

外はもう夜で、寝間着は不器用だが上下とも着替えていた。

市川にはどこまでが夢なのか分からなかったが、イチゴババロアと置手紙から山田が来たことだけは間違いないようだった。

karte.40:僕は練習台になった

山田映画に出るらしい。しかも有名監督に有名俳優と共演。

チョイ役だが一言だけセリフもあるそうで、唐突に冷たい声で「マジキモい」と映画セリフ披露する。

山田が発したその言葉セリフと知りつつ心底の劣等感が震えてしま市川

その後もセリフ練習を続ける山田だったが、周りの目を気にする市川提案で人気のない場所に移動することに。

山田が選んだのは階段下の用具倉庫だった。

狭い用具倉庫、至近距離で向かい合って映画の話を続ける二人。

公開日は卒業直前の再来年春だといい、市川は否応なくその時の二人の関係について考えてしまう。

(再来年の春に)映画を観てくれる?という山田の問いかけに、市川わからん善処する、としか答えられない。

が、ほんの少しだけ覚悟をきめると「観られる(自分になる)よう善処する」と、初めて二人の未来について真剣言葉を発した。

その顔を見た山田は胸がいっぱいになり、セリフ練習が続けられなくなった。

karte.41:僕は見えない

前回を受けてイチャラブ度がピークに。周りに隠す気あるのか?というレベル

席替えの結果市川廊下側2列目、山田はその左斜め前とギリすれ違い。

市川の隣は原さん、山田の隣は足立となった。

足立山田教科書シェア作戦を画策、市川が阻止。嫉妬が嬉しい山田

山田長身で黒板が見えない市川が原さんにノートを写させてもらう。頬を膨らませて拗ねる山田

休み時間「原さんが隣でよかったねと」弱気山田に「山田デカくて黒板が見えない」とも言えない市川

つい「授業中、山田しか見えない(から黒板が・・・)」と口走ってしまう。

言葉インパクトに悶絶する二人。

廊下で一部始終が聞こえていた原さんも思わずもらい悶絶。

結局席順は山田市川を入れ替えて、最前足立市川、2列目が山田・原さん、となった。

karte.42:僕は利用された

市川山田から借りた「君オク」を読んで山田から自分への好意に気付きかけるが、あり得ない希望を持たないようにその考えを打ち消す。

そんな折ナンパイがまたも襲来、しか彼女?連れ。

その場はちいが追い払うも、昼休み図書室に今度はナンパ彼女けが登場。謎の正妻アピール山田けん制する。

市川に誤解されたくない山田暴走してしまい、彼女に連れられて図書室を訪れたナンパイに、市川とのキスシーン(のふり)を見せつける強硬策に出る。

山田からするとかなりの覚悟を要した行動も、山田から市川への恋心を「あり得ない」と考える市川には「好きでもない男を利用する行為」と映ってしまった。

それは「市川ネガティブ世界観」と「山田が隣にいてくれる現実」のギャップを埋める説明としてこの上なく適切であるように思え、

市川は足をガタガタと震わせつつこれまでの全てが「ただ利用されただけの関係だった」と結論。自ら絶望する道を選んでしまう。

その選択はまた、内心抱えていた恐れから解放され、元の自分に戻るという逃避でもあった。

karte.43:僕は山田が嫌い

山田を拒絶し昼休み図書室にも姿を現さな市川山田不安を募らせる。

2日目にして耐えきれなくなった山田は、放課後市川に強引に詰め寄った。

山田はここ最近市川との接触を求めすぎていた事に負い目があったようで、

「おこってるの?なんで?」「私が距離近すぎるから?」と涙目で問いかける。

その質問に答える事すら拒否して立ち去ろうとする市川

ごめんねとつぶやき山田は恋を失った後悔の涙を流す。

涙をぬぐおうと取り出したのは、いつかの「ご自由にお使いください」ティッシュだった。

それを見た市川は「山田はそんなヤツじゃない」と分かっていながら気持ちを偽っている自分自身に気付く。

市川は「欲しくてたまらないのに決して手に入らない山田」を想う気持ちが日増しに強くなる事から逃げる口実を求めていたのだった。

自分本心を知った市川山田に歩み寄り、たまたま用事があっただけ、と弁解する。

山田は安堵からわず市川を抱き寄せるが、接触を求めすぎたことが原因だと思い出してすぐ離れ、仲直りのハグだったと言い訳

市川は精一杯素直な気持ちを振り絞って「嫌だなんて言っていない」と返した。

山田は再び市川を引き寄せると、ようやく心置きなく、愛情のままに市川を抱きしめる事ができたのだった。

karte.44:僕らはLINEをやっている

その日の帰り道。

足立山田賢者タイム市川の会話はイマイチかみ合わず市川はやはり山田との相性は微妙嘆息する。

逆に、君オクの感想市川から聞いた山田は好きな場面が一致した事で心を弾ませた。

せっかく仲直りしたのに、来週はもう冬休み・・・

とその時、突如IQが高くなった山田天啓が降り、君オクの続きを月曜に持ってくると市川約束した。

はたして終業式の月曜、山田は君オクを持ってくるのを忘れる。

別にいいと言う市川に、強引に明日渡すよと持ちかける山田

から、待ち合わせのために、LINE教えて、と・・・

あわてふためきながらもついにLINE交換する二人。

「じゃあ明日ね」と声をかけて、山田ウキウキと帰っていった。

今日12月23日だと市川は気づいていない。

2020-05-27

痴漢界隈が自粛解禁で浮き足立ってる話しってる?

3月ごろから休校になって痴漢掲示板の人たちはかなり肩を落とした。

学生がいなくなったからだ。

しかも、4月まで休校継続して痴漢たちは涙を流した。

4月といえば、冬休みが終わって学生たちが電車に乗る時期だし、新入生もくる。

この新入生というのが痴漢にとっては狙い所で、電車に乗り慣れてない女の子たちだから派手な事をしても騒がなくて

楽しいというのがあるらしい。しかし、コロナのせいで痴漢シーズンは消えた。

しかし、痴漢たちの冬が終わりとうとう休校解除される。

めでたしめでたしかと思えば、今痴漢たちが二分されているのだ。

そもそも満員電車はすぐには復活しない

分散登校するからJKの数が減ってる

・いやいや、いつも通り新入生に痴漢できるはずだ

とか。

すでに早いところは学校が始まっている。

さて、どうなることやら。

高校生たちは気をつけてね。

2020-04-23

新型コロナにおもうこと

岡江久美子さんが亡くなった。63歳だったそうだ。

うちの母は60歳、とても年齢が近い。

小学生中学生のころはなまるマーケットをみていた。

みていたと言っても平日は学校に行くからみられない。

夏休みとか冬休みとか。

長期休暇になるとはなまるマーケットをみながら朝ご飯を食べていた。

とても明るい方だったと記憶している。

明るくて、少し天然で、たまに強引なコメントがあった。

はなまるカフェおめざをおいしそうに召し上がっていた。

その姿は、うちの母によく似ている。

うちの母も、とにかく明るくて、小ボケかまし自分理論は強引なまでに主張する。

ちょっと悪口みたいな書き方になってしまったが、私はその強引さが好きだ。

自分気持ちをしっかり伝えられる強さが羨ましい。

話は逸れたが、学生の頃の夏休み、母は毎日仕事に行っていた。

私は一人ではなまるマーケットを見ながら、朝ご飯をもそもそ食べた。

毎日テレビに映る岡江さんに母を重ねていた。

別に母を亡くしたとかではない。

ただ、母のいない家は静かで寂しかった。

そんなひとりの家に、岡江さんの明るい声が響いていた。

それがとても心地よかったことを、テレビで岡江さんを拝見するたびに思い出していた。

母と重なる岡江さんが亡くなった。

私はとてつもなく悲しくなり、不安になった。

母もいつか死ぬ。当たり前のことを突き付けられた気がした。

新型コロナで亡くなったら、故人と対面もできないと聞く。

それを思うと、さらに悲しくなった。

家族の心情を思うともっともっと悲しくなった。

堪らなくなって母に電話した。

相変わらず、明るく笑っていた。

まだ実家に住む弟の愚痴はいていた。相変わらずだ。

声を聞いて安心した。

安心したと共に、近くに住めず、すぐに会えないことが口惜しい。

早くコロナが終息して欲しいと強く思った。

岡江久美子さん、心よりご冥福をお祈り申し上げます

2020-03-28

名鉄冬休み東部エリアで楽しもう!」(2019-2020年)のこと

Q:2019年に発売を開始した『記念乗車券』は何種類?

答えに「記念乗車券名鉄×近鉄 サクラサクきっぷ」」が該当すると「こっそり」追加されてたようで?

https://megalodon.jp/2020-0107-1756-05/https://www.meitetsu.co.jp:443/recommend/catalog/1257248_5053.html

2020-03-20

なんで子供メニューが安いの

(この前の話)

帰宅してテレビをつけると、ニュースが流れており、飲食店の一部が「子供」向けにとそれぞれの条件をつけて値段を半額にしたり半額以下にしたりする様子が映っていた。わけがからなかった。

どうしてそんなことをするのだろうか。やはり企業イメージの向上を図っているのだろうか。それとも、本当に見ず知らずの、一歩外に出れば赤の他人家計を案じて安い値段で飲食提供しようとしているのだろうか。

極めつけは飲食店内でインタビューされていた親が「休みがこうも長く続くとストレスたまると思うので、(値段が安くなるのは)ありがたいですね」という趣旨を言っていたことだ。意味がわからない。※(値段が安くなるのは)の部分は俺が補ってあげた。

だいたい、ストレスが溜まるのは子供なのだろうか?そのストレスの解消と、飲食料金の値段引き下げがリンクしているというのか?

まり、代金を支払うのは子供だということ?

ストレスが溜まっているのは子供じゃなくて親の方だと解釈するのなら、わけわかる。だが、先の文脈では「休みが続いている」のは子供なのであって、やはりストレスが「溜まっている」のは子供しか読めない。

飲食店側の対応も疑問がある。コロナ休みなんて、小学校冬休み夏休みが合体した期間みたいなものなのだから、親が子供のメシを用意するのはさほど負担ではないはずなのだ。それに、勝手子供を産んで育てているのだからメシを食わせる経済力だってあるのだ。だから子供menuを普段以上に引き下げるというのはビジネスとしてナンセンスなんじゃないかと思う。

そのニュースを観ながら、自分は先週に買っておいた即席ラーメンをゆでて、メンマ薄っぺらチャーシューをのせ、セブンイレブン冷凍チャーハンをメインに、生ハム香味野菜サラダを作って一人で食べた。

嫁さんもいないし、子供だっていない。なんで旦那や嫁さんがいて、おまけに子供もついている人間が俺より低い金額をメシに払っているのだろうか。そう思うと、怒りと悲しみがこみあげてきた。

2020-03-15

指定校はクソ!!!!!!

地元私大には馬鹿ってバレてるから推薦もらえないのに、遠くの日本トップレベルの誰が聞いても羨む有名私大から推薦もらえるって何?意味がわからない。

体育祭文化祭コスプレ大会卒業式はヘアメしてティアラつけて馬鹿かい花束持って。絵に書いたような馬鹿LIFE送ってこっちが3年間勉強しても受からない私大の推薦もらえるなんてほんと人生イージーモードだよね。

こっちは1年の頃から毎日授業でも朝でも帰りでも小テストやって、土曜日学校に行って、朝補習もあるし夏休み冬休みも半分以上補習。体育祭メガホンさえ持たせてくれない。当たり前だけどスマホ禁止

自分はまあ国立受かったからいい。いいけどさあ、周りにはまだFラン私立しか合格なくて後期まで私立受けて未だに不安抱えてる人だっているんだよ。

そんなに勉強してそれかよって思われるかもしれないけど、それはそうだけど、でも馬鹿高のトップよりは勉強できるわ。

指定校推薦の人は吐きそうになりながらセンター試験受けたりなんてしないでしょ?白髪になったり円形ハゲになったりもしないでしょ?どんだけ辛かったと思ってんの。センター試験模試だと思って受ければいいとか信じられない。

まじで指定校はクソ。

2020-03-02

いつまで経っても直せない、人間関係リセット癖についての一考察

人間関係リセットする癖がある。

中学とき高校とき、仲が良かったはずの友達と、卒業後は、連絡がきても1度も返していない。というかLINEを全員ブロックした。同窓会にも欠席した。出席する選択肢がなかった。

高校3年間」というスパンで見ても、仲が良かったはずの友達クラス替えで別々になったら、連絡をとるのがものすごく面倒になった。流石にリセットはしないけど、面倒で連絡を全然さないでいたら、自然と疎遠になった。大学生である今も、割と似たようなことをしている。

このリセット癖が何に起因するものなのか、自分でも分からなかったんだけど、きょう、理由がわかった気がする。

今、めちゃくちゃユリーカ!!!って感じなのだが、唯一使っているSNSであるInstagram友達と繋がってるうえに文章を書くのは向いていないし、あまりに薄情な理由なので、日記を書いている個人ブログに書くのも人間性疑われそうで躊躇するので、ここに書く。はてなってありがたいねありがとうございます

結論から言うと、「友達はじめ、人間関係大事ものと思える価値感が欠落しているから」。ユリーカするまでもない、自明の理ですね。でも今まで気づかなかった。

私の話をさせてもらいたい。

大学に通ったことのある人ならわかると思うけど、大学に行けば、暇な時間は実にたくさん転がっている。

30分超えの暇な時間なら、読書なり、勉強なり、配信サービス映画を観るなりするけど、細々とした空き時間だと、することがない。ないけど、暇だ。ではどうする?

正解は、「人に話しかける」。

内容なんてなんでもいい。相手が誰でも別にいい。とりあえず近くにいる人(手っ取り早いから)や趣味の合う人(どうせなら楽しく暇を潰したいから)と話す。そうやっていると、大学入学して1ヶ月もすれば、「誰とでも話す明るいフランクな人」っていうパブリックイメージができあがる。なかでも頻繁に喋る相手とは、「よく一緒に行動する友人グループ」みたいになる。中学高校のころも、学年が上がる時も、バイト先でも、同じだった。

事実、喋ること自体は嫌いじゃない。バカ騒ぎは苦手だが、色々な人の色々な価値観やもの見方に触れるのはとても楽しい

私は最初に「休日にわざわざ」が嫌い、と書いたけど、学校終わりに一緒にどっか寄って帰る、程度なら大丈夫だったりする。「暇つぶし」の延長だから

「誰とでも話す明るいフランクな人」をやっていると、なにかの幹事になることを頼まれたりする。すげなく断ることでせっかく構築した「暇つぶしの話し相手」を失いたくないし、リーダーシップをとってイベントごとを仕切っていくのは得意なほうなので、よっぽど面倒な役回りじゃない限り、引き受ける。

だが、いったんバイバイを言って、家に帰ったり、1人で寄り道をはじめると、大学友達は、「暇つぶし相手」ではなくなる。少なくとも、「"手近な"暇つぶし相手」では。だって隣にいないのだから。だからLINEがきてもなかなか読まないし、返さない。ただLINEなどのレスポンスが遅い人は一定数いるので、ごめんごめんと言いつつ適当に返して適当無視していれば、「そういう人なのね」と向こうが勝手に納得してくれる。

土日に「遊ぼう」と言ってくれる友達がいるが、土日は大学がないので、彼ら彼女らは「手近な暇つぶし相手」ではない。

なので、その遊びの誘いは、ただただ「面倒くさい」ものとなる。

面倒くさいので、バイトがあるから、とか適当理由をつけて、半分は断る。半分は申し訳ないし暇な時の話し相手を失いたくないしで、遊びに行く。

これが「夏休み」「冬休み」になると、友達の「手近な暇つぶし相手度」は、さらに低くなる。四分の三は断る。それでも4回に1度は行く。

ちなみに「誘いに乗って遊びに行ったらどうなるか」というと、ヘトヘトに疲れ、MPを大幅消費して帰ってくることになる。あの、本当に分からないんだが、ディズニー旅行ならまだしも、ただの買い物やくだらないカラオケを誰かと一緒に行うことのなにが楽しいんだろうか。1人なら誰にも気兼ねしないし自分のペースで動けるし無駄時間がないし、カラオケにしても特に聴きたくもない友達の歌を聴くことに貴重?な規定時間を割くこともないのに。

話が逸れた。

さて、先程の「土日」が「夏休み」になり、さら「卒業」になったら、「友達」は、私にとってどうなるか。

もう答えを言う必要もないと思う。「まったくもって暇つぶしにならない」うえに、たまに連絡が来たりする、「面倒な存在」だ。LINEがきても邪魔なだけなので、ブロックする。

中学とき高校ときもそうだったし、多分大学卒業するときも、同じことをするだろう。

そもそもなんで友達暇つぶしの道具扱いしていると気付いたのかについてそろそろ書かなくてはならない。今日美容院に行ったのだが、美容師さんと趣味の話になり、映画鑑賞が好きだと伝えると、奇遇なことに美容師さんも映画が大好きだという。一通り最新映画の話をしたのち、美容師さんが

「そういえば、Twitterとかやってないんですか? Twitter映画好きの人、いっぱいいますよ。映画感想言い合ったり、映画友達作ったり。」

と言ったのだ。

「えー、いやー、やってないですね。SNS苦手なので。」

「やってみたいとか思わないんですか?私やってますけど、びっくりするぐらい趣味のあう友達できますよ。あ、シャンプーしますね」

いい香りシャンプーで髪を洗われながら、わたしの脳は急速に回転していた。「私、びっくりするぐらい趣味のあう友達別に欲しくない。」→「なんで友達欲しくないんだ? 大学友達と喋ったりは好きなのに。」→「いやでも私めちゃくちゃ友達関係リセットするな。」→「わかった、私あの子たちを友達と思っていないんだ。だから惜しげなくリセットできるんだ。」ユリーカ!!!!!

私は、友人がほしいと、あまり思っていないらしい。というか、人間関係にあまり頓着していないらしい。そう考えると、予備校通いをしていたとき弁当を1人で食べていたら、同じ学校の子に異様に心配されてむちゃくちゃ困惑したこととか、高校でよく「交友関係広いよねー」と言われていたにもかかわらず(実際クラスほとんどと日常的に話しをしていた)、いわゆるスクールカーストみたいなパワーバランス全然読み取れていなくて、友達に言われてはじめて「え、あの子とあの子仲悪いの?!?!」とびっくりしたこととか、二十年以上生きてきて今まで恋愛という意味で誰かを好きになったことが1度もないこととか、他にもその他もろもろ、腑に落ちる。

居るなら居るで適当に付き合うし、居ないなら居ないで、べつに不自由しない。あるならあるでいいし、ないならないでいい。

今日気付いたばかりなので、さら考察を深めていけばまた違う事実が顔を出すかもしれないけれど、今の時点では、自分をこう分析している。人間に興味が薄いのに、映画文学演劇など、「人間が創るもの」が大好きな理由は、まだ分析できていない。

自分の悪癖に暫定的理由けができたのでなんとなくほっとしているが、多分結婚もせず、暇な老後を慰め合う友もおらず、孤独な老人になって死んでいくんだろうなと思うと、ちょっと残念ではある。それはそれで愉快な老後だと思いこそすれ……

2020-02-26

[]日本の北の方では夏休みが短い代わりに冬休みがとても長いってマ?

北海道学校はまだ2月なのにもう冬休みなんだってさー。羨ましい。

2020-02-15

8年ぶりに目が見えるようになったので再起を誓いたい

夜中になると、なぜ自分がこんな目にあわなければならなかったのかと思い、涙が止まらなくなる。現在21歳、大学3年生。半年前に目が8年ぶりにちゃんと見えるようになった。中学1年生の頃からである。8年間本当に長かった。

8年前の秋頃、中学1年生だった私は小学校以来のゲームのやりすぎで視力が低下していた私は黒板の字が見えづらくなっていることに気づいた。眼科に行き、視界が悪くなっていることを告げられ、まだ外見などあまり気にしていない半分小学生脳だった自分メガネをかけることに決めた。いわゆるガチャ目で、左目が0.2とかなのに対し右目がほとんど見えない0.01みたいな状態だった。ゲームをやるとき姿勢が悪かったのが原因かもしれない

ここまではよくある話だし、目が悪くなるというのが怖かったとはいえ周りにもメガネをかけている子供はたくさんいたので、絶望感のようなものはなかった。メガネをかければ普通に周りが見えるようになったし、日常生活に支障はなさそうだったからだ。

しかしいざメガネ生活が始まると、以前とはどうしても変わってくることがあった。一つはメガネキャラが定着してしまたこと。もともとそんなに明るくない性格だったのがメガネをかけたせいでさらに暗くなってしまった。別に友達づきあいは変わらないんだけど、中3にかけて子供が見た目を気にしだすようになるなか自分の見た目の悪さも気になるようになってしまった。

そしてもう一つは激しい運動がフルでできなくなること。メガネをしているのでサッカーとか野球とかできるだけ端っこで見るだけになってしまった。中学の時はサッカーに無理やり参加してメガネ割れたことがある。中学3年生の頃には自分のことがのび太のように見えたし、周りからもそう言われるようになった。

ここで何故コンタクトを使わないのかと思うかもしれないが、これがこの悩みの大きな問題点だったのだ。自分はどうやらコンタクトが合わない体質らしく、眼科に行ってもガチャ目だからコンタクトが合わない、メガネじゃなければダメだと言われていた。実際コンタクトをつけてみると、とにかく気持ちが悪い。つけていると船酔いのような気分がして額から汗がだらだら出てくる。一回コンタクトをつけて学校に行ったことがあるが耐えきれずにコンタクトを外してしまった。いわゆる眼精疲労というやつなのだが、本当に眼精疲労?と思いたくなるような症状が出てくるので、いやいやメガネに戻さざるを得ない。

そして高校生活が始まると、この外見コンプレックスに散々悩まされることになる。もともとメガネが似合う顔でもなく、絶対ないほうが良いのだけど、メガネを外すことができない。この消せないコンプレックスが悩みの種で奥手な性格さらに奥手になり、高校ではあまり周囲に心をひらけなかった。別にいじめられていたわけではないのだけど、とにかく自己評価が低くて周りと上手く接することができなった。なんというか顔に傷がある感じなのである。だから人前に出るのがいやだった。

それだけ自己評価が低いので、常になんか暗いオーラが出ていた。自分の姿が嫌で写真に写りたいとも思わない。だから高校時代写真ほとんどない。だけど頑張れるところは頑張ろうと思って勉強は頑張った。順位が貼り出されて学年一位という経験もしたのだがクラス友達がいないためご飯を食べる時は一人という惨めな思いを味わっていた。今思えばそんなの気にしなければいい話なのだけど、それがいやでいつも教室の隅っこの方にいた。運動も十分にできないのでだんだん運動神経は落ちていき、本当に勉強のできるのび太くんみたいになっていた。自分長所勉強しかないのが嫌だった。

から高校1年生くらいの時から視力回復トレーニングを色々やって見たのだが、如何せん効果がない。あの手のトレーニングはたまにネット上で効果があったとか書いてあるが、ほとんど無理である。一度目は悪くなったら自力視力回復しないと思う。だから高校12年生の頃は本当にどうしようもなくて、とにかく外見コンプレックスに苦しんだ。

そうこうしてるうちに高校3年生になった。17歳という、人間として容色もっとも美しくなる頃、受験勉強とともに私のこの外見・視力コンプレックスさら肥大化した。大学受験の不安よりも私は一生このままなのか、見た目にコンプレックスを抱え続けなければいけないのかという不安の方が大きかった。本当にメガネが外せないのかと悩み苦しみ、勉強そっちのけで眼科に何件も通い、なぜかメガネを10本近く買った。大学病院での検査検討したが、大学受験との兼ね合いで断念した。そんなものからそれまで維持していた成績は下がり始め、大学受験は第一志望に受かることはできず、コンプレックスも解消されないまま大学に進学した。浪人という選択も考えたが、当時のコンプレックスははっきり言って異常で、浪人したら今受かっているところにも受かるような気がしなかったため浪人を断念した。

大学に入ってからもこの外見コンプレックスに悩まされた。最初の頃は無理やりコンタクトをつけて登校していたが、だんだんきつくなってメガネに戻してしまった。そしてメガネにすると人前に出られない(?)ので、サークルも次第にフェードアウト大学1年の秋には学内自然孤立の道を選んでしまっていた。そんな人間が生きる道はインターネッツで、授業から帰宅してはネットサーフィンをする毎日一年冬〜二年秋まで送っていた。ネットサーフィンをしているうちにコンプレックスを忘れようとしていたのかもしれない。だが、20歳になったタイミングでまた忘れていたコンプレックスが再発がした。成人というのは大きなイニシエーションで、私の忘れようとしていたコンプレックスがまた復活していたのである

今度はさら孤独コンプもこじらせていて、高校の同期が大学で楽しくやっている中自分は部屋で一人ネットをしているのがコンプレックスになった。正直もう外見なんか気にしないで普通に人と付き合えばいいというのはわかっていた。でももう二年が終り、就活が始まるという段階で今更人付き合いを増やせるとも思えなかった。だから二年の冬休みはとにかく暗くて、どうすればいいんだろうという気持ちになった。不安と苛立ちが爆発し、家族にわけもなく当たり散らすようになった。散財もするようになった。一種パニック症である。原因不明の病というのはどんなに軽傷でも人の精神不安にするもので、私の心は不安に押しつぶされていた。人間思い込みというのも一つの病だと思う。

そして2019年5月に、最後の望みをかけてそれまで行った事のない眼科受診した。もう大方視力回復に間することはやり尽くしていたので、唯一やっていなかった。オルソケラトロジーという治療法にかけてみた。治療内容はググって欲しい。結果、オルソケラトロジーでも視力回復せず、私のコンプレックスは解消されないみたいだった。

しかしそこで一つの衝撃的な事実がわかった。

オルソケラトロジーを行う際に渡されたレンズを目にはめても一切気持ち悪くなかったのである

オルソケラトロジーは夜間に角膜を矯正するためのレンズをはめて就寝し、翌朝になったら角膜が矯正されているので視界がよくなるという治療である。この夜間にはめるレンズを昼間につけていても、全く気持ち悪くならなかったのである

中学1年生以来、およそ8年の時を経て裸眼で見る世界はとにかく新鮮だった。少し度が弱かったが裸眼道路を歩ける。水泳もできるしサッカーもできる。近くのビルの社名が裸眼で読める。夜は月がブレずに見える。鏡をみてもあの忌々しいメガネはない。あの時は嬉しかった。私が8年間、青春の間ずっと苦しんできた悩みはいとも簡単解決したのである

8年間の悩みが解決した理由もよくわからないのだが、私はどうやら「ソフトコンタクトだと体質的に無理なのだが、ハードコンタクトなら大丈夫」という事だったらしい。理解不能である。確かに私はコンタクトなんてどれも同じと思って、安いソフトの方を買っていたが、そんな意味のわからない解決法はネットでどれだけ探しても見つかったことがなかったし、中学一年生の時から百回は受診したどの眼医者もしてくれなかった。

目が治ってから、私は号泣した。普通病気が治ったら嬉しいと思うかもしれないし、私もそうだろうと思っていたが、こんな意味のわからない理由が原因だったこと、外見コンプレックスのせいで今まで失ってきたものが多すぎることに嗚咽し、自暴自棄になり、さら家族に当たり散らすようになった。8年間もコンプレックスに苦しんだこと、そのコンプレックスが実はすぐに治ったことを受け入れることは難しかった。ストレスの度合いでは大学受験に落ちたことなんか大したことではない。私は12-20までの8年の間でもっと色々なことに挑戦できただろうし、もっと色々な人と仲良くなれたはずなのである

8年間の理不尽は私から自尊心を奪い、一気に自暴自棄に陥らせた。3年春学期の単位は全て落とし、gpaは目も当てられない数値になった。部屋は片付けなくなった。暴食を繰り返し、体重半年で10キロ増えた。家中の皿を割った時は家族から家を出て行けと言われた。

学生時代ほとんどを思うように過ごせず、就職というラウンドまで来てしまった。現実を受け入れられなかった。3年の秋はなんとか学校に行っていたが、授業を受けている間も病的にずっと後悔していた。後悔先に立たずだけど、あの時ああしていればというのをずっと考えてたら1日が終わるとかザラであった。留年したので就職なんてどうでもいい。21歳の誕生日家族以外誰も祝ってくれなかった。家族からも暗くて一言も喋らないから怖かったと言われた。

カウンセリングに年明けから行ったが、正直今できることをやれ、気にするなとしか言われず、自分でもそれしかないとわかっていたので行く意味はないと思ってやめた。しかテストを受けるまでずっと落ち込んでて、単位も半分くらい落としたと思う。せっかくコンプレックスが解消した顔は激太りした上にやつれきっていた。

ただテストを終えたくらいから、ずっとこのままでもどうしようもないというのは体がわかってきた。ようやく、現実脳みそが追いついて気がする。もう一度三年生が始まり就職活動も始まる。何一つ悪いことはしていないのだが、人生を再スタートさせなきゃ行けない。今まで失ってきた分、これからはい人生を歩みたい。

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