はてなキーワード: 名鉄とは
まだ地元の田舎住んでいた時に、東京へは小さい頃から時々遊びに行っていた。田舎と違って移動の手段は電車。四方八方から聞こえてくる電車の接近メロディや発車メロディは新鮮な都会の音だった。
30になって仕事で東京に住むようになって、そのメロディを当たり前のように耳にするようになった。昔は駅に溢れるメロディを聞くたびに都会に来たという感慨とワクワクでいっぱいだった。…のに、今はむしろげんなりする。ときめきどころか、いまは現実の音でしかない。聞くとただただ辛い。
いや、こうなるのはわかっていたし、よくあることなのだ。
学生時代に愛知県に住んでいたときは地下鉄や名鉄ユーザーだったんだが、たぶん当時は聞き慣れた駅の音にウンザリしてたと思う。とくに学生時代は辛いことが多かったし。でも、愛知を離れた今は地下鉄も名鉄の音も懐かしくて恋しくてYouTubeで時々聞いちゃうんだよね。
研修で大阪に行ったときは御堂筋線の接近・発車メロディがインパクト強くて(関西にあまり行ったことがなかったので色んなことが新鮮だったのだろうけど)、今もYouTubeで聴いてしまう。でも、きっと大阪に住んで地下鉄を使うようになったらその音にうんざりするんだろうな〜。
トヨタ自動車が日本で有名な自動車メーカーであることは言うまでもないことだが、その前身が食器メーカーであったことはあまり知られていない。
豊田市は愛知県の北部に位置しており、瀬戸市や岐阜県多治見市と隣接している。
瀬戸市は日本六古窯の一つである瀬戸焼で有名であり、東日本では陶磁器全般を瀬戸物と呼ぶほどに広く流通していた。
多治見市もまた陶磁器の名産地であり、アニメ化もされた「やくならマグカップも」の舞台と言えば説明が早いだろう。
豊田市・瀬戸市を中心とした猿投地区は古代から窯業が盛んであり、日本の三大古窯の一つである猿投窯跡群を形成していた。
今でこそ豊田市に窯業のイメージはあまりないが、トヨタが自動車製造を事業化する以前は、瀬戸市や多治見市と同じく窯業を主産業とする町であった。
窯業は縄文時代(縄文土器)から存在する生活に不可欠な産業で、時代と共に需要は大きくなっていき、明治維新によってさらに窯業製品の需要は大きくなる。
西洋建築の勃興による煉瓦(れんが)の需要、石油製品や化学薬品を保存する甕(かめ)の需要、送電線を支える碍子(がいし)の需要である。
しかしながら、瀬戸焼はこうした需要に応えることはできなかった。
常滑焼もまた日本六古窯の一つだが、愛知県知多半島に位置する常滑市は伊勢湾に面しているので、海運で日本各地の需要を支えることができたからだ。
一方で、瀬戸も常滑に対抗しようと流通力を強化するために鉄道を敷設したが(後の名鉄瀬戸線)時すでに遅く、近代産業から撤退して食器作りを中心とした伝統産業へと回帰していった。
常滑では明治時代に伊奈製陶が創業して、INAX・LIXILと企業名を変えながら国内の窯業で高いシェアを誇っている。
トイレや洗面器ではTOTOに次いで国内シェア2位で、タイルについては国内どころか世界で1位のシェアである。
一方で瀬戸からはそのような大企業は生まれていないことから、愛知県内の窯業で近代産業を担ったのは常滑ということが理解できるだろう。
ここでようやくトヨタの話になるが、明治時代に豊田市は存在しておらず、その前身である挙母町でも近代産業を支えるほどの陶磁器製品を生産することはなかった。
佐吉は小学校を卒業後に家業の食器作りの修行をするが、父が伝統製法に固執して経営が伸び悩んでいることに苦心していた。
18歳のころ、家業を立て直す唯一の道は最新技術を学ぶことと考え、東京方面へ出奔する。
その折で、東京上野で開催していた内国勧業博覧会を何度も見て、最新の窯業技術を目に焼き付けた。
そして東京から帰郷し、当時最新鋭の台車式トンネル窯を製造した。
それ以前の窯は、製品を人力で運び入れてから予熱・焼成・冷却の全工程を何日もかけて行った後に、人力で運び出す必要のある代物だった。
種類にもよるが陶磁器の焼成に1000~1400℃まで加温する必要がある一方で、人力で搬出入する際はもちろん窯の中に入れる温度まで下げなければならない。
これでは、温度の大幅な上下が必要なので時間がかかるだけでなく熱効率も悪い。
一方で台車式トンネル窯なら、製品を乗せた台車をレールに沿って動かすので、人が窯の中に入って搬入出する必要はない。
窯は温度分布のついたトンネル状の部屋になっており、台車がトンネルを進行することで自動的かつ連続的に予熱・焼成・冷却ができるので、温度管理も簡易だ。
この台車式トンネル窯により食器を自動的に大量生産できるようになったので、佐吉は豊田自動食器株式会社を設立することとなった。
会社設立後の経営は右肩上がりだったそうだが、明治から大正へと年号が変わる頃には製品の輸送に悩まされることになった。
歴史的に挙母町の物資輸送は矢作川の船運が担っており、豊田自動食器の食器工場で製造した食器類も例外ではなかった。
しかし、知多半島方面への用水供給を目的とした愛知用水の開発により、矢作川の水量が減り船運が困難になった。
食器の生産量は増える一方で矢作川の船便は縮小していき、代替としての馬車や人力車の輸送にも限界があった。
それでも、当時は三河鉄道の敷設中であり(後の名鉄三河線)、開通によって挙母町から国鉄刈谷駅へ鉄道輸送が可能となるのは決まっていた。
しかし、それまで待ちきれない佐吉の息子の喜一郎は、自動車を独自に製造して食器を自動車輸送することを考えた。
喜一郎は食器販売の滞りで需要の無くなった台車式トンネル窯を分解して自動車部品にした。
そして、窯の燃焼ガスを動力に台車を運転する機構を応用して、台車に燃焼機関を乗せることで自動車の製造に成功した。
さらに、食器を自動車輸送するだけでなく、自動車を製造・販売することにも思い至った。
それだけでなく、喜一郎は将来自動車が大量生産されることを予測して、食器を台車に乗せて連続的に生産するように、自動車も台車に乗せて連続的に生産する仕組みを考案した。
これが現在自動車生産で主流となっている、ライン生産方式である。
このようにして豊田自動食器に設けた自動車製作部門が分離独立したのが現在のトヨタ自動車株式会社であることは、もはや説明するまでも無いだろう。
なお、食器工場は第二次世界大戦の空襲によって焼失し、喜一郎の経営判断により食器製造部門は切り捨てて自動車生産へと舵を切ったので、豊田自動食器株式会社は現存していない。
話は少しそれるが、トヨタ自動車の前身は豊田自動織機である、という誤記をネット上でよく見かける。
もちろん正しくは豊田自動食器なのだが、「食器」と「織機」で読みが同じなので誤変換してしまうのだろう。
それだけならまだいいが、トヨタはミシンを製造していたというヨタ話(トヨタだけに)も一緒に流布していることもある。
豊田市(挙母町)で窯業が盛んだったことは地理的にも考古学上でも明らかなのに、なぜそのような勘違いをしてしまうのだろうか。
カラフルタウン!
カラフルタウンは岐阜羽島ICから県道1号線を北東へ直進8.0km、13分!
カラフルタウンは駐車台数3,000台!
境川らくちゃんバスなら名鉄柳津駅より赤ルートで30分!青ルートで40分!
カラフルタウンのATMコーナーは三菱UFJ、ゆうちょ銀行、十六銀行などの取り扱いがある!
カラフルタウンには世界的に有名なケンタッキーフライドチキンがある!
カラフルタウンのロフト前のスペース使用料金は平日1日4万円!
カラフルタウンはトヨタオートモールクリエイトのショッピングモール!
トヨタオートモールクリエイトはグローバルゲートの8階に入っている!
つまり、デ・ラ・ファンタジア!
みんなも、都心からデ・ラ・ファンタジアを撮ろう!
なんでそんな名前にしたんだお前は
こちとら出身地聞かれたときに静岡県って答えるのがイヤで浜松って答えてるんだよ
当たり前だろ俺はしょっぺえ浜松生まれ浜松育ち、なんやかんや駅前がにぎわってる静岡とは文化が違うんだよはんぺんだって白がいい
そこへなんだお前は、浜松町お前、関東圏の人らに出身浜松ですって言ったとき「あっモノレールあるとこですね~」って返されるけどねえわなんだモノレールって、名鉄より赤くない赤電のことか?
そりゃお互い様だと思いてえよ、でもお前その地名こっからとってんじゃねえかマジかよどの辺が浜松なんだ?行ったことねえけど浜松町は都会だろ、ブラジル大使館もうなぎパイ工場もないだろ?アカウミガメの産卵だって見たことねえようなビル街なんだろ?なんで浜松名乗ったんだよ、どうした?浜松出身の田舎者がごめんな
名古屋鉄道、名古屋本線と西尾線が交わる特急停車駅、それが新安城駅である。もうこれだけで利用者数がかなり多いことが想像つくだろう。
そんな新安城駅の何が最悪か。最も簡潔に最悪さを伝えるとしたら、「乗り換えも改札も、実質駅西端にある狭い地下改札前を通るしかない」 という、駅の構造に尽きるだろう。
もうこれだけで、電車が停まるたびにその通路がごった返すのがわかるだろう。乗り換える奴、新安城駅で降りる奴、その電車に乗りたい奴がひしめき合う地獄だ。
さらにそこに、愛知県の鉄道のクソさ、名鉄のクソさが重ねがけされる。
まず愛知県の鉄道のクソさ。JR東海も名鉄も酷い殿様であることは、もうこの際おいておこう。なによりも乗客が、電車に乗るのがヘタクソすぎる。入り口はパンパンなのに車内中ほどはガラガラ。このご時世でもずっとそう。狛犬どころか仁王像レベルのバカ、まだゾロゾロと降りてる人が居るタイミングで乗り込んでくるバカ、終点でみんな降りるために並んでるのに無理矢理前に入ってくるバカ、デカいリュックやエナメルバッグ背負いっぱなしの高校生"一団"。関東圏から来たら、マジでビビり散らかすレベルの「民度」が見れるぞ。
続きまして名鉄のクソさ。各駅停車への乗り換え、各駅停車からの乗り換えはほとんど考慮されず、乗換時間3分か25分か、みたいなクソダイヤを作っている。しかも各駅停車はその他快速や特急が遅れたら遅れる。そして通勤ラッシュでは、前述の民度によって数分の遅れはいつものこと。一応、各駅に/から乗り換える人がいることは知ってるっぽいので、乗り換えを待つ"こともある"。つまりは、乗り換え時間3分は名鉄のドア閉める人のさじ加減のギャンブルになる。
そして問題の新安城駅のクソさ。「乗り換えも改札も、実質駅西端にある狭い地下改札前を通るしかない」ので、みんなそっち側の車両に乗る。ダッシュする。新安城駅の駅員はそのダッシュする第一陣を乗せたら、「乗り換え完了、ヨシ!」でだいたい出発する。その端っこの車両に乗っていないと、新安城で降りる人やそのあとの特急に乗る人、別路線に行く人、今しがた降りた電車に乗りたい人などの普通のペースの人混みと逆流に飲まれ、乗り換えは100%間に合わない。頑張って乗ったとして、「乗り換え時間が短く申し訳ありません」を「ノーカエジカンガミィカク モウシワッキャーセン」みたいなこなれたアナウンスして煽ってきやがる。わかってんならダイヤどうにかするか乗り換え待てや。ちなみに、「実質駅西端にある狭い地下改札前を通るしかない」の実質は、東側にある高架乗り換え通路に行っても100%間に合わないからだ。なぜ間に合わないか?その高架に行くには"エレベーターしかない"し、そのエレベーターはめちゃくちゃ遅いし、「エレベーターに乗りたいから停車位置がエレベーターに近いところに乗った奴」で満員だからだ。
駅を作るにおいて、最も愚かしいことをやっている。「乗換駅なのに乗り換え通路が十分でない」「十分でないどころか実質1つ」「その1つが改札も兼ねている」「その1つが狭い」シムシティで病院への道を険しくして遊ぶ奴が設計したのか。東京の通勤ラッシュってストレスだろ、あれにランダム性が入って乗れたり乗れなかったりする上に電車が30分間隔だと想像してみてくれれば、どれだけストレスフルかわかるかもしれない。
そんな新安城駅、現在工事中で、ようやく東側に階段で行ける乗換通路ができるらしい。とにかくストレスフルな、最悪の特急停車駅「新安城駅」、皆様も是非来てみて、人間の愚かさ、名鉄のクソさ、愛知県民の電車に乗る技術の低さ、何も考えずに駅を作ってはいけないという至極当たり前の教訓などを学びに来て欲しい。私はもう日常的には使っていないし、ラッシュタイムは二度と利用したくない。
金山駅の線路にはみ出している屋根はもっと線路側に延伸する予定はございませんでしょうか。バランス的に難しいのでしょうか…。
普段は金山駅を通過していますが、雨の日に金山で途中下車し再び乗ろうとホームで待っていたところ(階段横の狭いゾーン)、電車が止まるたびに電車からの跳ね返りの酸性雨が私の薄毛進行中の頭皮にかかるのです。なんといけてない設計なんだと、電車停車中に限り傘を差してみたところ、案の定駅員さんに見つかって怒られました。駅員さんからの提案は「もっと広いところに行っていただければ濡れない」と。。このコロナ禍の折り、いつも車内アナウンスいただいているよう、ソーシャルディスタンスを保つべく人の少ないところに分散しようと思っていたらこの仕打ちです。とても悲しかったです。
今気付きましたが、これからは同じような状況のときは頭皮さえ守りたいのであればハンカチを頭に置けばいいですね。ありがとうございました。
(名鉄)
なんか盛り上がってるので参加させてくれ。
[基本スペック]
ややADHD気味で人の話に集中できない。図形脳で言語スキル(特に会話)が弱い。
親は両方中卒で無口、兄貴は不登校引きこもり、弟は知恵遅れ気味。親に何かを教わったという経験があまりなく、親の無口が自分にも遺伝している。
家は全く裕福ではなく、父親は過去有名鉄鋼会社で工員勤務。俺が小さい頃に仕事中の事故で片足を失ったがそれでも家族を養うために働き続けてくれた。
[中学校]
大阪の西成に近い、低階層のクラスの家庭が沢山あるエリア。なのでヤンキーが沢山いる地域だった。周りの奴らと比べて頭の出来が良いかも?という自信はあったが、ある時進研模試を受けて自分の偏差値が55程度であることを知る。しかしその当時は偏差値の意味もよく知らず、周りは皆偏差値45ばかりの中55とってる俺は輝いて見えたし、学年一番の偏差値60の奴が天才に見えた。
勉強はあまりしなかったが図鑑などを読むのは大好きだったし特に数学が好きで他のやつが解けない難しい問題を解けるという自信があった。
周りの友達にはあまり行儀の良い子はおらず、いつも誰かの家に集まって夜中までワイワイゲームしたり、夜の公園に集まって時には朝まで駄弁ったり、楽しかったがあまり真面目に勉強はしなかった。授業中はほぼ教科書の落書きかパラパラ漫画を書いていた。
授業中騒ぐようなことはなかったが、もともとADHD気味で人の話を聞けないのと、夜まで遊んでいたり早朝新聞配達のバイトをしたりしていたので先生からの覚えは悪かった。受験の時に「お前は内申点悪いから公立いけんぞ」と言われた。金のない親には非常に申し訳ないことをした。
[高校]
高校に入って最初の構内統一試験みたいなものがあり、そこで自分は大して頭が良くないらしいということに気づいた。周りの友達と話をしていても、なんか自分の考え浅いし遅いな、と感じることが増えてきて、それまで自分はそこそこ頭いいと思っていたのが叩き潰されて結構なショックを受けた。この時に感じた自分は凡人以下であるという自己認識はその後の人生に大きな影響を与えた。それと同時に英語や国語は負けてもいいが数学だけは負けては行けないというプライドに火がついた。
高校の偏差値は高くなかったが担任の教師が偏執的に関関同立に執着しており、お前たちは人生に勝つために勉強しなければいけないという脅迫まがいのプレッシャーを毎日のようにかけてきた。もともと中高一貫の進学組は大学受験マインドが高く、関関同立目指して頑張るぞ、という空気があったので自分もだんだん感化されて勉強するようになっていった。
担任教師は人間性としてはそびえ立つクソだったが奴がいなければ今の自分はなかっただろうな。
だんだん勉強が楽しくなり、受験マニアの友達ができたこともあり、書店で参考書を眺めるという日課ができてきた。
当時家に金が無いことはわかっていたので小遣いはもらっておらず、どこかに遊びに行くとか美味しいものを食べるとかできる状態ではなかった。思い返せば高校の間友達とプールに行くとか遊園地に遊びに行くとかそういう経験は一度もなかったな。
しかし書店にある沢山の参考書を買いたい欲が日に日に強まってきた。そこで、小遣いはもらってはいなかったが毎日昼飯代として500円支給されていたので週の半分くらいは昼飯を食わずにお金を貯めることで月5,000円くらい貯めてこれで参考書を買ったり駿台夏期講習に申し込んだりできる仕組みを開発した。
参考書の数が増え真面目に勉強をするようになり、やはり自分の数学の能力は人より優れているという自信を再度取り戻すようになった。数学は本当に楽しくて熱中した。そのうち数学の先生から「大学への数学」の存在を紹介されて毎月購読するようになった。
と同時にやはり自分の頭の回転は良くないので自分が将来何かを成し遂げたいのであればただ一つのことに時間を集中しなければ他人には勝てないという確信を持つようになった。
だから毎日往復二時間に通学時間の間はずっと参考書を読むようになった。Z会の速読英単語など、最初は全く意味を取れなかったが何度も何度も読みまくることで次第に英語が読めるようになってきた。
高校3年になった頃にはもう勉強が非常に楽しくて生活の中心になっていた。特に大学への数学では毎月巻末に難問が出されて解答を編集部に送ると添削してくれるのだけどそれに本当に熱中していた。この問題は本当に難しく、自分の頭では数時間考えた程度では全く解けず、数日、時には数週間同じ問題をひたすら考え続けるという生活を送っていた。夜寝る前まで布団の上で考えて、眠りながら考えて、朝起きたら布団から出ずにまた考え始めるということをしていた。今考えると頭の使い方が稚拙というか同じところをぐるぐる周ってる感じだったのだけど、そうやって何日も考えると解答が思いつく瞬間が必ず訪れるのでそのカタルシスに当時は本当にハマっていた。毎月添削結果が送られて来るたびに模範解答のエレガントさと、自分の地をのたうち回るような回りくどい議論の差を見せつけられやはり自分は凡人であるということをつきつけられた。点数はいつも150満点中145程度で一度も満点を取ることが出きなかったのは悔いが残る。自分は過去の思い出とかにはあまり執着がなく、京大博士の卒業証書も使いみち無いのでゴミに出したのを友人に止められたくらいだがこの添削結果だけは今も大切に保管している。
自分は記憶力が異常に弱く国語や歴史は非常に苦手だったのだけど、物理や化学も覚えることが多くて困っていた。しかし駿台の著名な先生(山本義隆氏と石川正明氏)の書いた書籍を読み、覚える物理・化学から考える物理・化学へとパラダイムシフトを起こすことができた。ただ暗記するのではなく、なぜその式が成立するのか、なぜそのような化学反応が起きるのかというより深いところを理解できるようになった。同時に物事を深く認識するということが自分の性格に非常にマッチし、そして自分はそのために人の10倍の時間を捧げることができるということが自分の強みであると確信するようになった。この強みは40になった今でも活躍している。
この頃は駿台や河合塾の模試でも上の方に乗ることが多く、志望学科の中では上から2番目を取れるくらいにはなった。そうなると今度は予備校の方からただで授業を受けませんか、というお誘いが来るようになる。これは合格者一覧の名前を稼ぐマーケティングである。その中でも駿台の数学特別講義という非公開の授業にお誘い頂いた。数学がよくできる学生を数十人集めて難問の講義を行うというもので、これもなかなか楽しかった。周りは皆灘とか東大寺の中に偏差値55の学校が混ざっているのはむず痒い感じではあったが、すぐに自分はやはり彼らとはレベルが違うということがわかる(毎回試験があって採点される)。一人明らかな天才がいて、その人は今有名な数学者になっている。
後のことは上記の事の結果でしか無いので端折るがセンターは確か国語社会が6割くらいしか取れず志望学科はC判定、というのが送られてきて先生が「気を落とすなよ」慰めてくれたが自分としては全く想定通りの結果であり過去の模試の結果からこの差は二次で覆すことができるという強い自信が会った。
家の経済的事情から滑り止めを受けるということはできず、前記京大後期阪大のみを申し込んだ。これについては先生から怒られた。本当は阪大の後期にも申し込みたくなかった。
試験は数学は色々ケアレスミスをしてしまったが大筋では正しい解答ができ、物理化学はどちらも1問しか間違えなかったので合格を確信した。
しかし合格した当時自分は中二病を引きずっていたので一緒にいた親に笑顔も特に見せず「合格した」とだけ言った。これは人生の最も大きな後悔の一つ。
大学に入った当時は研究者になることを夢見ていたが大学に入ってからは本当の天才を目の当たりにし、また博士課程卒業間際になり研究というコミュニティもコミュ症では構造的に海外のリア充に勝てないということに気づき断念、IT企業に就職して今はスタートアップをしている。