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はてなキーワード: 猟師とは

2024-10-22

anond:20241021004208

え、達人だけが猟師漁師を名乗っていいと思ってんの

どんだけ常識無いの

2024-10-21

追記あり日本絵師界隈が、反AI因習村と化した理由についての一考察

10/22追記

深夜のダラダラした文章に、思った以上の反響があり、恐縮です。キャンセルカルチャー運動辟易していましたので、考察と言いつつ、n=1の、偏見まみれのくさすような内容になっており、申し訳ございません。

コメントを通して、西洋史観や海外勢の動きなど己の勉強不足を感じ、大変参考になりました。ほか、新たに以下の視点を得ました。

絵師界隈にもプレイヤーはきちんと多数存在していて、それはいわゆる多くの「二次創作をメインに活動する者」なのではないか
にもかかわらず、「二次創作をメインに活動する者」は、自身を「プレイヤー」ではなく「クリエイター」だと勘違いしているから、絵師界隈の創作の循環は停滞し、変なことになってしまっているのでは?

現行法合法とされている無断学習(?)をダメとし、無断の二次創作をヨシとする矛盾性など)


声優はどうなの? について

彼らの職業は、対脚本家演者という関係からみて、クリエイターではなくプレイヤーよりかなという偏見があったため、言及していません。

そもそも、声は、創作というより身体的特徴なので、人権の一つとして適切に保護されることには、なんら議論余地はないのでは。

■ 「絵師」だけじゃなくて、「猟師」とかもあるやん? について

自他ともに達人と認める域に達した方が、「ワシは猟師じゃ」と自称するのは、偉そうだけど実際に偉いし、じゅうぶん身の丈にあっているのでいいんじゃないでしょうか。

追記終わり


本編


最近日本の「絵師」と呼ばれる者達の界隈で、生成AIに対する反発が拡がっている。

それは年々過激さを増し、最早、「お気持ち」や「感情的な反発」ただそれのみで、法的にも倫理的にも問題のないコンテンツを焼き払うまでにいたった。

因習村呼ばわりも、宜なるかな・・・・・・。

もちろん、全ての絵師がそうだとは思わないし、思いたくはない。

このような状況下では肯定的意見など出せようもないだろう。魔女狩りの憂き目にあってしまう。


さて、リーガルマインド(法的思考能力)は、法学部法律科目をみっちり学んでやっと習得できるようなものなので、これを持たない相手議論をふっかけても、いつの間にか例えになっていない例え話にすり替わるのがオチだ。

から、反AIを説得したり、論破したりするつもりは、私にはない。

ただ、不思議な点があったので、分析しようと思った。


生成AIに過剰に反発をしているのは、「絵師」やそれをとりまく「アニメコンテンツ」(以下、「絵師界隈」という。)に限られている。

他の分野でも生成AI進化・深化はめざましいが、変な炎上なども起こらず、粛々と最新ツールとして活用されている。

実際、私がメインで活動している音楽分野(以下、「音楽界隈」という。)でも、生成AIは、比較自然に受け入れられている。

同じクリエーターなのに、なぜ、こうもスタンスが異なるのか?


私は、三つの理由があると考えた。


-「創作の循環」の認識の違い

音楽界隈にいると、少数の作曲家(以下、「クリエイター」という。)、多数の演奏家(以下、「プレイヤー」という。)、無数の聴衆(以下、「リスナー」という。)が互いにインスパイアし合う「「創作の循環」、古から続く巨大なうねりを、あらゆる局面で感じる。

生成AI学習云々の問題は、この循環の一要素として、肯定的に受け入れられている。

しかし、絵師界隈には、循環の要となるプレイヤーがほぼ存在しないため、「「創作の循環」を知覚しづらい。

全ての創作は己の独力によるものだと勘違いしてしまう。


-「才能と作品」の認識の違い

西洋芸術は、音楽絵画の分野を問わず、才能は神から与えられたもので、作品は神に捧げるもの、という共通認識のもと、発展してきた。

信仰が薄れてきた現代においても、なお、フェアユース思想として残っている。

対して、日本には、そのような一神教概念はないものの、少なくとも音楽界隈にあっては、神に奉納する神楽なる存在がある。

更に、音楽理論そのものが、西洋ルーツとするので、「与えられた「捧げる」意識を醸成する機会が多い。

一方で、日本絵師界隈は、ガラパゴス状態進化しているため、「自分ゼロから努力して勝ち取ったもの」「作品自己表現」という認知になりやすいのではないか


-クリエイターレベルの違い

今、音楽本業として、いわゆる音楽でメシをくっているクリエイターは、厳しく長い音楽不況を乗り越えた存在であるので、生成AIときには脅かされない実力がある。

そうでないクリエイターは、純粋趣味として作品を作って発表して楽しんでいるので、生成AIも、面白いツールが出たな、としか捉えない。

一方、イラスト本業として、それでメシをくっている絵師界隈は、クリエイターの淘汰が進んでおらず、生成AIとき簡単に脅かされてしまう。

リアル生活がかかっているのなら、反発も過激になってしまうだろう。

参入障壁の低さと、00年代から需要の急速な拡大が、本来実力に見合わない人間プロとさせてしまったのかもしれない。

さながら、チューリップ・バブルだ。


以下、それぞれ、補足。


創作の循環」の認識の違い

音楽界隈においては知覚しやすい「創作の循環」

音楽界隈では、古くからクリエイタープレイヤーリスナーが繋がり、互いに影響を与え合う「巨大な循環」が存在している。

例えば、クラシックプレイヤー過去の偉大なクリエイター作品演奏し続けたり、ジャズヒップホップにおいて、サンプリングリミックスを通じて新しい音楽を生み出すのは、既存作品表現再利用する文化根付いているかである

表現の蓄積に敬意を払いながら、新しい創造を探求する」というプロセスを自然に受け入れられる土壌が存在している。

これは、DTM世界も同じで、音源サンプルが膨大に共有され、再利用されている現状からすると、AIによる生成もただ新しい音源手法を追加しただけという感覚が強い。

技術的な進化日常的に行われており、特定の著名なプレイヤー演奏サンプリングして音源化することも一般的である

これにより、生成AIも単なる新しいツールとして、既存の「循環」の中に自然に組み込まれている。

また、音楽界隈において、多くの場合クリエイタープレイヤーを兼ねており、リスナーもまた、プレイヤーを兼ねている。

ただ純粋聴くだけの音楽愛好家は存在するのだろうか?

音楽愛好家ならば、誰だって、一度は何かしらの楽器を触って、誰かの作った曲を演奏しようとした経験があるのではないか

クリエイタープレイヤーリスナーは、多くのケースで同じ立場で、創作の循環に積極的に関与している。

AIがその中に入ることは、「革命」ではなく、単なる「進化」だ。

私自身、音楽を通じてこの循環を何度も経験してきたため、AIを恐れることなく、むしろ新しい創作可能性として受け入れている。

音楽分野では、クリエイタープレイヤーリスナーが互いに影響を与え合い、生成AIもその延長線上にあるのだ。


絵師界隈においては知覚しづらい「創作の循環」

一方で、音楽界隈における「プレイヤー」に相当する役割が、絵師界隈には存在しないか、または極めて少ない。

クリエイターリスナー立場を結びつけ、要として機能する「プレイヤー」という存在希薄であるために、絵師界隈では「創作の循環」を感じる機会が乏しい。

その結果、生成AIは「自分領域侵害する存在」として映ることが多い。

絵師界隈において、絵師は、自分作品について、「自分ゼロから作り上げたものであり、完全な自己表現の成果」として捉える傾向が強く、他人作品に手を加えたり、既存表現再利用することに対しては、現行法問題がなくとも、極めて強い抵抗を感じやすい。



「才能と作品」の認識の違い:

西洋における芸術史とフェアユース

絵画音楽を問わず西洋における芸術歴史を振り返ると、才能は「神から与えられたもの」として見られており、芸術家はその才能を用いて作品を神に捧げるものだった。

パトロンは、神のために芸術家を支援して、芸術家は神のために技術研鑽を重ねた。

結果として、優れた作品がたくさん残り、ありがたくも現代にまで継承されてきた。

芸術史への脱線は避けたいので、軽く触れるにとどめるが、少なくとも、西洋芸術特に歴史的な音楽絵画の中では、才能は「神からの贈り物」として見られてきたため、それを使って作品を作ることは神聖な使命の一部であった。

元来、芸術作品やそれを生み出す才能は、個人の所有物ではなく、社会や神に捧げるものとされてきた。

この背景が、西洋フェアユース概念が広く受け入れられている一因のように思う。

才能や作品は神のものとして共有されるものというコンテクストのもと、生成AIによる「学習」や「再利用」も一部では容認されやすいのだろう。

任天堂とパルワールド訴訟問題における、日本欧米の反応の顕著な違いに、この当たりの感覚の違いが明確に出ているように感じる。

この点、日本絵師界隈にとって、才能は「自分努力によって勝ち取ったもの」であり、作品は完全に自分の所有物という感覚が強いのでは。

創作の循環」という巨大なうねりに触れる機会もないもんね。

その態度を傲慢とみるか、当然の権利とみるかはさておき、だからこそ、生成AI個人努力創造性を「奪うもの」として見られやすく、反発が生まれやすいと考えられる。



まとめ::生成AI技術未来資本主義への影響

このまま日本絵師界隈の生成AIに対する過剰な反発、炎上騒動が続くと、日本では、生成AIアンタッチャブルとなり、なんらの議論進歩も遂げなくなるだろう。

最終的に、生成AI技術は、外国の「GAFA」などの巨大企業によって独占され、資本主義論理に飲み込まれ可能性が高いと感じる。

外国大企業規約契約に巧妙に生成AI技術云々を盛り込み、最終的には技術データを独占し、クリエイターがそれに従わざるを得なくなる未来

絵師界隈の過激活動により、日本企業にとって生成AI技術のものアンタッチャブルとなったので、日本企業呆然と、日本人の優れた才能が外国資本に奪われていくのを眺めるしかできない。

そういう世界に誰がした?

もちろん、これは資本主義の一環であり、技術進化の中で繰り返されてきた「ひとつの循環」として受け入れるしかないのかもしれない。

私自身はそのような未来諦観し、これもまた創作における流れの一部だと考えている。

技術は常に進化し、その中でクリエイティブ表現方法もまた変わっていくものだ。

しかし、絵師界隈は、そういう未来をどう考えているのだろうか?

AIをただ拒否するのではなく、技術と共にクリエイティブ可能性を探求する道もあるのではないかと思うが、彼らはその選択肢考慮しているのだろうか? 

AIは決してクリエイター創造性を奪うものではなく、創作の循環、巨大なうねりの一部として受け入れられるべき可能性を秘めている。

これからクリエイティブ世界で、AIと共に新しい表現の形を探求していきたいので、絵師界隈には邪魔しないでいただきたい。

クリエイターは、絵師だけではない。



余談:呼称問題

「生成AIを使っているヤツを、絵師を呼ぶな」問題にも触れておきたい。

私としては、生成AIを用いて絵を出力する者は、「プロンプト・エンジニア」がより正確な呼称だと考える。

望む絵を出力することは、絵師界隈の人が想像しているような、そう簡単技術ではない。

命令文の模索や、好みのモデル階層マージ云々、どれをとっても、相当な知識必要だ。

現に、クラウドワークスでは既に、「生成AIイラストを出力してほしい」旨の依頼がわんさかある。

もちろん、これらはローカルGoogle Colaboratory等に環境を構築している者に限って、の話である

「Novel AI」や「Dall-E 3」、「Grok-2」など、企業最適化して、提供している出力サービスを使っている者は、今のところ「消費者」かな。

企業最適化したサービスを使ってキャッキャしているだけの人は、ごく普通の・・・・・・一般消費者、それ以上でも以下でもないのでは。

消費者イラスト生成AI恩恵にあずかれるようになっただけ。


そんなことより、絵師界隈の人たちは、自分自分のことを「絵師」って呼んで、恥ずかしくないの?

絵師」という言葉は、2000年代の2チャンネルの「同人板」で、敬称として、使われ始めたと記憶している。

「表紙を絵師に書いてもらって~」とか、「好みの絵師が~」とか。

敬称なので、自分自分のことを「絵師」と名乗る者は、当時はいなかった。

絵師になりたいです!!!」なんて、とんでもない。

一体全体いつから自分自分のことを「師」」と自称するような、恥ずかしい使われ方をされるようになったんだろう?

ニコニコ動画が出てきて、ネットが低年齢化して、「動画師」や「MIX師」という、変な亜種が登場したあたりからだろうか。



2024-10-19

熊も一生懸命生きてるんだよなきっと

関係ニュースを見て思うんだけど

有害とか害獣って言うのに少し疑問というかを感じる

勿論クマ可哀想だ!駆除なんかするな!!とかいうどっかのババアみたいなことは言わないが、

それでもやっぱりなんというか

だって必死に生きてるわけで、一生懸命食べ物を食べて生きてる中でちょっと道を外しただけで殺されちゃうのは若干可哀想な気がする。

当然だからと言って駆除しないわけには行かないし猟師非難する意図はどこにも無い。

2024-09-27

追記フレンチという一生モノの沼を薦めたい

追記

こんな文章が、思ったよりもバズってびっくりしたので、ツイッターで「フレンチ自作沼(アカウント名は@French_jisaku)」というアカウント作成しました。

フレンチ自作界隈の人がいたらフォローしてもらえると嬉しいです。


以下でいただいたコメントの一部に返信していきます

おおよそ素晴らしいことが書いてあるけど③だけ解像度が低い気が…というのも、料理というのは基本的には科学と同じで味に再現性を持たせる必要があり、そのためには分量を正しく理解し守る必要がある(この分量の正確さをレシピなしでも把握できているのがプロ)。その上で、③では"短時間だとミスった時のリカバリができず"とあるけど、正確な分量を計って料理をすれば大きな失敗はなく連鎖的に料理崩壊することはまずあり得ない。短時間作業でのミスとして、例えばイタリアンならカルボナーラの卵に火を通し過ぎる等の失敗はあるかもしれないが、少なくともそれで全体が大きく崩れることはない。

ありがとうございます

崩壊”という表現は強かったな、というのと、単に私がインド料理中華料理にそこまで沼ってないからかもしれません。

これを書いた時に脳裏にあったのはスパイステンパリングでした。スパイステンパリングは、スパイスごとの香気成分抽出温度がすごいシビアかつ、そこをのがすと苦い種になってしまうという実感があったので、テトリスに近いな、という印象を持っていました。

イタリアンパスタ場合も、フレンチに比べると複数行程同時並行かつ短時間で仕上げるので、ルポゼの間にソースを仕上げればOKフレンチよりはシビアな印象がありますね。

お客さんに作り方聞かれても説明できないよ

まず用語が通じないしブランシールやエキュメやミルポワがなんであるから説明しなきゃいけないかもしれないだろ

(簡単日本語にできるものしか挙げなかったが例えばミジョテとかだとちょっと説明的に訳すしかない)

フレンチを作り始めればわりと用語は覚えるかな、と思ってます。なぜなら私がそうだったからです。

動画を見て、レシピ本を見て、実際につくっていくうちにミジョテとかシノワ、パッセ、タミゼ、クラリフェ、リソレ、アセゾネとかその辺の頻繁に出てくる用語自然に覚えるんじゃないかなと思っています

なので、これを読んだ人はあまり気にせずにフレンチを作るところから始めてもらえると嬉しいです。

別に店に行ってシェフに話しかける必要だってないです。多分作ってると店にはいきたくなるとは思いますが。

日本一般大衆レストランフランス料理を作ることなんて勧めるもんじゃない

勧めるなら家庭料理

一生ものの沼としてのフレンチを紹介したかったので、家庭料理入り口にするアプローチはやめました。

まず家庭料理だと、プロの味を食べて自作との差分を楽しむことができないのが一つ。

あと、ミクニさんのレシピもそうですが、基本的には短手番なレシピが多いので、時間が溶けていくような趣味にはならないかな、という理由もあります

あと、誤解なきようにお伝えしておきますが、自作をどこまで極めてもプロを超えることはないです。

理由は三点あって、

そもそも調理技術絶対にかなわない:せいぜい二か月に一回作る素人と、365日作っているプロではまったく比較にならない技術差があります

②フォンやソースは大ロットで作ったほうが美味しい:ソースやフォンの味と仕込む量は比例するため、一回に10L仕込むプロと、せいぜい1Lしか仕込めない素人では味に差が出ます

③入手可能食材品質に差がある:プロが扱う品質食材一般人が入手することは極めて困難です。例えばジビエプロ契約した猟師さんから送ってもらえますが、素人楽天で買うしかありません。魚もピンのもの(例:分厚いアマダイ)は素人向けには販売していません。

ただ、あくま趣味なので、プロの味を超えられなくても、何ら問題ないと思っています

藤井くんに勝てると思ってやっている将棋沼の住民はいないでしょうし、ツールドフランスに出場できるとおもっているロードバイク沼の住民もいないでしょう。


(本文)

https://anond.hatelabo.jp/20240925202106

記事はこれ。この増田、ならびにこれを読んで高い飯を食ってみたいなーとおもった人に、全力でフレンチを薦めたい。

それも、ただお店に食べに行くのではなくて、

自分フレンチを作ったうえで、お店にもいく”

という楽しみ方を紹介したい。

対象者

・この楽しみ方はある程度の自炊スキルがあることが前提となる。

・具体的には、包丁を多少扱うことができて、強火と弱火の違いが判る、大さじや小さじの意味が分かる程度には自炊ができる人向けのエントリである

〇楽しみ方(スタートキット編)
①まずはフレンチを作ってみよう。

・お店で出てくるような、ある程度本格的かつ王道レシピのほうがよい。

・具体的には牛肉ソースボルドー赤ワインソース)とか、真鯛ソースヴァンブラン白ワインソース)くらいから始めるとよい。

・あまりシンプルレシピすぎると②の楽しみ方ができないため、「簡単!おうちビストロメシ!」みたいなのは避けた方がいい。

・具体的には以下の二つのYoutubeチャンネルを見ることから始めるとよい

George ジョージ https://www.youtube.com/channel/UCP2gnyy_-ToZeIDw6qeI6HA

Bocuse at Home by シェフ星野晃彦 https://www.youtube.com/@bocuseathomebyteruhikohoshino

・複雑な料理も避けた方がいい。具体的にはパイ包みやパテ系の死ぬほど複雑で構築的なメニューは、最初は避けた方がいい。100%失敗するのと、複雑すぎてどこが失敗したのかが切り分けできないので。

自分の作ったものと同じメニューを食べに行こう。

・①で自分の作ったメニューと同じものを実際に食べに行こう。①の答え合わせの感覚だ。

・いきなりロブションとかのハイエンドグランメゾンに突っ込むのではなく、ランチで5000円程度の店に行くのが無難

・なぜならば、この段階ではフレンチへの解像度が低すぎるため、グランメゾンフレンチを食っても、値段相応のよさがわからいから。

自作プロ作の違いを分析しよう。

・実際にプロの作ったものを食べるといろいろな気づきがある。なぜなら自分で作ったことがあるので、解像度が段違いになっているから。

ほとんどのケースでは、プロが作ったもののほうが圧倒的にうまい。なぜか考えるのがこのパートの楽しみ方だ。

・例えば真鯛ポワレソースヴァンブラン白ワインソース)を食べたとする。「自分でやると身がぱさぱさになっちゃったな……。火入れの仕方の違いなのか、鯛のポテンシャルの違いなのか、何が違うんだろう。鯛を見た感じ、身の分厚さは変わらないか火入れの仕方が違うのかもしれない。ソースもとっても香りが豊かだな、なんかハーブを入れているのかな……。ソースにはかなり酸味をつけているな、自分でやるときもこれくらい酸味をつけてみるか……。」みたいなことを考えながら食うと、漫然と食べているよりも圧倒的に美味しく感じる。

シェフに聞こう

厨房が激しく忙しいとき以外は、「とっても美味しかったです。もし可能なら、シェフに話を聞きたいんですが……」といえばだいたいシェフに話を聞ける。

自分が美味しいと感じたポイントと、どうやってそれを実現しているのかをシェフに尋ねてみよう。③で自分分析した内容の答え合わせをするのだ。

・鯛はどう火入れしているんですか?(フライパンだけ?フライパンオーブン?)とか、聞きたいことは山のように出てくるはず。

上記①~④を繰り返す。最初比較難易度の低い料理から始めて、だんだんと複雑な料理ステップアップしていく。

多分二年くらいやってから、いわゆるグランメゾンにいくと、その高度な技術と美味しさ、芸術的なまでのアイデア力に感動するはず。

〇なぜフレンチがいいのか

この項目では、なぜカレーでも中華でもイタリアンでもなく、フレンチオススメするのかを説明したい。

時間をつぶすのに最適

・上にはったYoutubeチャンネルを見てもらえばわかると思うが、ソースから自分で仕立てるとなると、平気で二日三日かかる。

段取り設計材料調達→下ごしらえ(ソースベース作成、肉のマリネなど)→仕上げ(火入れ、付け合わせの作成)で、週末まるまるつぶせたりする。

・ネトフリみて時間溶かすよりは遥かに充実感がある。

しかも待ち時間もそれなりに長い(ソースベース作成時など)ので、ネトフリも捗る

勉強がしやすく、深めやす

フレンチそもそもエスコフィエとかいオッサンが100年以上前フレンチ技術レシピを体系化し、公開したことで爆発的に広まった料理(いまでいうオープンソース化)。なので、他のジャンルに比べると圧倒的に体系化されていて学びやすい。

・また、日本フレンチ大国なので、日本語ソースも非常に多い。大型書店で、料理コーナーにいくと、和食の次くらいにフレンチ料理本が充実していると思う。

・他ジャンルに比べると、中級者に進むとき勉強のしやすさが段違いである。例えばカレー中華にハマるオッサンは多いと思うが、この二つのジャンル食文化のゆたかさのわりには日本アクセス可能学習ソースがきわめて少ない。初級レベルでは問題にならないのだが、深めようとしたときには、日本語文献の乏しさに加えて、そもそも体系化されていないので、学習難易度が跳ね上がる。

・作るときの深めやすさに加えて、食べるときの深めやすさも段違いである。フレンチをやる人は大体みんな調理学校基本的調理技術を身に着け、それなりのレストラン就労しているから、安価なお店でも高価な店でもベースとなる技術は同じ場合が多い。

・例えば鮨の場合は、2000円の回転ずしと二万円の鮨では全然別の技術が用いられている。根本的に握り手のキャリアルートが違うからである。2000円の回転寿司バイトロボット操作して握るし、二万円の鮨は専門的な店で修行を積んだ職人が握るのである。一方でフレンチ場合は二万円の店で働いていた人が独立してビストロやって2000円のランチをだしていることは余裕でありうる。

相対的に低い難易度

・そりゃバズレシピかに比べると難易度は圧倒的に高いよ。

・だが、他ジャンルに比べると美味しい味を作りやすいと感じる。

・これはA.多数の工程時間をかけて積み重ねていくという調理プロセスと、結果として、B.足し算の料理である、ということに起因する。

A.多数の工程を順に組み合わせていくという調理プロセス:例えば中華特に四川系)やインド料理イタリアンは多数の工程を短時間で重ねていくことがおおい。短時間だとミスった時のリカバリができず、連鎖的に料理崩壊していくことになる。ゲームとしてはテトリスとかぷよぷよにちかい。一方でフレンチ場合は一個一個の作業を丁寧にこなしていけばそれっぽいものができあがる。こっちはマインクラフトっぽい。

B.足し算の料理フレンチは味の要素が多い。肉のうま味や、ワインの酸味、甘味バターの脂質やハーブ香りを積み重ねていく料理である。そうすると必然的に美味しさのストライクゾーンは広くなる。食材の持つうま味も苦味も臭みも、すべて一皿に詰め込むのがフレンチの基本思想である。これが和食だとどうか。和食は徹底して引き算の料理である食材の持つ性質のうち、客に見せたい部分以外をすべて除去し(野菜をゆでこぼすのとかね)、組み合わせるのが基本思想である。味の要素が少ない分、ピントを合わせるのも非常に難しくなる。引き算に失敗したり(例えばえぐみが出るとか)、そもそも見せたい部分を間違えてました、とかね。

④基礎的な調理技術が幅広く身につく

料理を作るのに必要技術が割とまんべんなく身につく。

調理学校カリキュラムとかを見てもらうとわかるけど、大体西洋料理和食に分かれていて、西洋料理技術ベースフレンチである

フレンチを一通りやると、肉や魚の火入れも格段に上手になる。小麦粉を使ったルーが使いこなせればシチューカレー簡単に作れるようになる。ソースオランデーズが作れればカルボナーラはお手の物だ。

〇楽しみ方(中級者へのステップアップ編)

スタートキット編の楽しみ方を一年くらい続けていると、一通りのものは作れるようになっているはず。

・具体的には、肉の火入れは肉を触ればわかるようになるし、魚も皮をパリッと焼くのはお手の物、くらいにはなっているはず。なんとなく手癖でソースボルドレーズとかソースヴァンブランくらいは作れるようになっていると思われる。

・そこから先にステップアップするなら、プロ(の中でもレジェンドシェフ)の書いている本を読むのが一番よい。

レジェンドシェフ料理本を読む→作る→お金をためてレジェンドシェフの店に行く→もう一回作る、を繰り返せば無限時間が溶けていく。

基本的には近所の大型図書館(住んでる自治体旗艦図書館)にいって、フレンチ料理本コーナーで厳つい雰囲気を出している奴を手に取ればOK

最後に、僕の個人的おすすめ書籍を紹介して終わる。

おすすめの本

フランス料理 王道探求』 手島純也

現在シェイノというグランメゾンにいる手島さんの料理

・僕のバイブル

説明も多く写真豊富で読んでいるだけで楽しい

ソース -フランス料理ソースのすべて』 上柿元勝

アランシャペルの下で長年働いていたこれまた有名なシェフシェフの間でも当初をバイブルに挙げる人は多い。

辞書的に使うのもよい。また、一個一個ソースを作ってクリアしていくだけでも楽しい

みんなもフレンチ、作ってみような。

フレンチ自作界隈が周りにいなくてさみしいので、この界隈が盛り上がってほしい気持ちがある。

2024-08-25

anond:20240823165753

英語じゃないけど、俺ずっとジビエのこと「地冷え」だと思ってた。

なるほど~~~昔の猟師さんは地中に埋めて獲物を冷やしていたからそう呼ぶのか~~~って勝手に納得してた。ほら、氷室とかあるじゃん? ああいう感じのを勝手妄想してた。

ジビエという単語ネットとか雑誌とかの文字しか知らなかったのも誤解に拍車をかけていたと思う。人が発音してるのを聞いて「??? なんかアクセントおかしくね???」って思ったのが語源を調べてみるきっかけだった。なんでみんな「ジ『ビ』エ」じゃなくて「『ジ』ビエ」って発音してるんだろうなって思ったよ!

2024-07-17

anond:20240717103512

それ俺も覚えてる

悪い地域で育ったやつと猟師が強くてFPSゲーマーはだめみたいなの

2024-07-06

anond:20240706161958

安心して暮らせるようにするために猟師のみなさんが頑張ってくれた成果ですがなにか

2024-06-18

奈井江町でひぐま駆除予算がありません!っていうけど住民から寄付して貰えば?

ひぐま退治で猟師に払うお金

一年分集めて、分配

ひぐまの被害写真とか町内会長さんに配っていい感じに集めてよーっめお願いしたら集まるって

2024-06-13

anond:20240613182741

イルカクジラ批判されているんだし調子に乗っていると猟師世界から批判されるようになるんじゃないか

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-05-26

[]ゴールデンカムイに見る長期連載漫画の受容の変遷

あんまり多く語られてないが、初期のゴールデンカムイは明らかに山賊ダイアリー」とかのジビエブームの流れに乗っていた。

公式切り抜きがネットミームになったり、そういうところから徐々に認知度が上がっていった作品だ。

今では評価が固まり過ぎて「多様性が」とか「歴史評価が」とか、批評的にお利口な語り口でばかりその魅力が語られるが、実際に初期から連載とその人気拡大を追っていると、ゴールデンカムイにはそれだけでない多様なフックと、それをタイミングよく引っ掛けるそれこそ漁師神業がふんだんに見られた。

ゴールデンカムイの受容(需要)の変遷をまとめることによって、長期連載漫画が当たるためにどれだけ多くの仕掛とチャンスを要するのか、改めて考えてみたい。

 

【連載開始】最初は古臭い冒険譚。世間の関心は薄い?(1〜2巻)

 2014年8月、連載始まる。 増田はこの頃はまだ読んでいない。

 

 1話ははっきり言って、刺さる人には刺さるのかも知れないが、古臭い冒険もの空気しか感じられない。

 「露助」と差別語を使う戦争帰りの主人公囚人を殺して皮を剥ぐ猟奇趣味。まだ頭身の高い美少女アシリパ

 一部のネクラには受けても、一般には忌避される湿っぽいダークさが作品を包む。

 キャラクターも、薄汚い囚人たちに、死をも恐れぬ兵隊、そのトップの怪人中尉と、マイナーさは否めない。

 

 しかし、連載数話目から、この漫画にはちょっとだけ流行の要素が入ってくる。「ジビエである

 当時は「山賊ダイアリー(2011〜2016)などの猟師ものが密かにブームを迎えていた。

 あるいは、同時期(2011〜2019)のメジャー作品として荒川弘の「銀の匙」など、「命をいただく」をテーマにした漫画も人気を博していた。

 ゴールデンカムイはこの流れに乗って、「冒険をしながら猟師生活を見せる」というストーリー構成で注目を集めていくことになる。

 

ミーム化する】アザラシ猟とオソマミーム(2巻〜)

 ニコニコ静画タイムスタンプによると、ゴールデンカムイ公式切り抜き漫画「アシ(リ)パごはん第一回が掲載されたのは、2015年1月となっている。

 初回は「リス」。可愛らしいリスの皮を剥き、ミンチにしていく様子がコミカルに描かれるシーンを作中から数ページ切り抜いて公開した公式の切り抜き漫画である

 これが、受けた。

 チタタプ、オソマルイベなど、アイヌ語食べ物名前が広く知られるようになり、アシリパアザラシをしとめるシーンなど、コミカルカットネットミームにもなる。

 しかしこの頃もまだ、一般受けする漫画とは言い難かっただろう。なにせ「山賊ダイアリー」のような、「命をいただく」テーマ自体が重すぎる、マイナーメジャーのものだ。キャラクターも男臭い変態だらけで「ホモソ受け」という感じは強く、牛山も女を武器にする卑劣漢だった。(このマンガがすごい! 2016 オトコ編 2位、マンガ大賞 2016 大賞)

 増田自身、この頃作品を知り、アシリパごはん面白く読んでいたが、金塊探しというメインストリーにはまったく興味が持てず、長いこと本編は読まずじまいだった。

 

【大確変腐女子トメ心を掴んだ尾形と鯉登(10巻〜)

 10巻頃まではこの漫画はこういった男向けの要素だけで進んでいく。変態的な囚人覚悟を決めた簡単死ぬ兵隊、「命を食らう」生活感。

 しかし、ここにきて大確変要素が加わる。プリンス鯉登、心に闇を抱えた尾形などの、圧倒的に乙女受けなキャラクターエピソードが増えたのだ。

 彼らのシーンを見た瞬間に、増田は「あッ、これはジョジョみたいに腐女子アンテナにひっかかるゾ」と確信した。

 今となっては当たりも当たり。SNSで「ゴールデンカムイ」を検索すれば9割女性向け同人イラストという現状への変動がこの瞬間に確定したのである

 そして本作はこの勢いを掴んだまままさに滝を遡る鯉のごとく大作へと変貌を遂げていく。

 

【最盛期】網走監獄編、腐女子掴み、文化的描写評価が重なり、人気拡大、アニメ化、そして大英博物館の顔に。(14巻〜)

 シリーズ前半のクライマックスとも言える網走監獄編を見事なテンションで描ききった本作は、アニメ化(2018)、手塚治虫文化賞 マンガ大賞(2018)、大英博物館特別展においてキービジュアルを飾る(2019)など、大躍進を遂げる。

 アニメシリーズは海外配信も好評で、海外にもファン層を広げる。

 大英博物館の展示では、「女性を表している点。(中略)アイヌという少数民族文化を描いている点」など「ダイバーシテイの理念体現する作品になっている」を評価されキービジュアルに選ばれたとされる。

 「多様性」や「文化歴史描写」に優れた名作という評価は、この段階で確立された。

 

ホモり過ぎ】迷走の樺太編。しか腐女子は掴み続ける。

 網走監獄編で大きな波をひとつ越えたあと、人によっては中だるみと言われる樺太編に入る。

 すでに確立された名声を揺るがすような劣化も見られないが、特に新しい要素が受けたわけでもないので話題は少なくなる。

 このあたりで増えた要素と言えば谷垣を中心に多用される「ホモギャグである

 増田の受け止め方としては、「文化的な名作」扱いに対する作者の反発と言うか、何かヤケクソなものを感じる。

 宇佐美の「◯◯探偵」に至っては常軌を逸しているというか、ここだけをもってして「文化的作品」として他人に勧めることは出来ないだろうと思う。

 しかしこれもある意味時代は掴んでいるのかも知れない。一部のラディカルフミニストを中心に、この過剰な下ネタが「セクハラミラーリング」として全面肯定される現象も見られた。ほとんどの人には、ホモソーシャルの笑いの延長にしか見えないと思うが。

 

大団円】終わりよければすべて良し。炎上した内容も修正して晴れて「名作」に。

 清濁合わせのみ毀誉褒貶を越え、本作は2022年に連載終了を迎える。

 作品としては大団円だったものの「文化的」という名声を得すぎた故の重箱の隅をつつくような批判最終回のいくつかの描写につけられた。

 単行本化に際してそのうちのいくつかは修正され、うるさ方もそれで納得したのか、今では「文化的」で「多様性」を表現した、歴史に残るすばらしい名作という評価がほぼ揺るぎないものになったように思われる。

 しかしその8年にも渡る連載期間を省みれば、このようにさまざまなフックと変化で客を掴み、興味を維持し続けてきた結果のことなのであって、ただ「綺麗な作品」(と思う人もまあいないとは思うが)を描いたか評価されたというような単純な話ではないのだということは覚えておきたい。

 

感想感想

 トラバブコメもだけど、「自分趣味にあった部分」だけが評価対象じゃないと許せないって思考回路のやつ、キツいわ。

 「血なまぐさい男受けだけじゃ同人受けや海外受けまで広がらなかったよね」ってことが書いてあるのわからん? 日本語わからん

 根本的にこの文章で書いてあることが何かということが理解できてないと思うので、自分機能的非識字だと認識した方が良いよ。

 

 クライマックス付近無料公開で認知を広げたのは書いといても良かったなとは自分でも思った。

 

 増田に「資料がない」とか言っちゃうアホがいるの笑う。

 なんでそんな本気で書いたもんを増田投稿しなきゃいけないんだよ。

 いい加減自分が賢いつもりでアホ丸出しのこと言ってる自覚持てよ批評家気取りの低学歴ブクマカ

2024-05-23

何で男って頭おかしいんだろう

公共プールを借りて、中学生エロ水着を着せて、エロポーズをとらせて、キモおっさん共が写真撮影していた。

普通の人ならそれは許されないことだなと思う。

でもそれで写真撮影会の使用許可を取り消すのは許せねぇ!って埼玉に苦情入れまくって千人くらい集まって東京デモやるのが日本人男性

熊殺した猟師クレームいれるキチガイ以上のキチガイが、男の圧倒的多数として大規模に存在しているのが怖いな。

少なくともX内部ではほとんどの男が怒り狂ってたし。

2024-02-18

anond:20240218120828

ワイは金貯まって仕事辞めたら狩猟免許取って猟師になりたいやで。

2024-01-02

anond:20240102113647

負のインフルエンサーが言っていることやアレな政治家が言っていることを唱和してるだけだぞ

なので高学歴にもいますわな

 

いか悪いは別として土地を買い取って独立コミュニティを立ち上げるとかでも、

農業漁師(猟師)として生活を立てる技能があるわけでも無いのに、

エシカル消費文脈ではなく、ただただ資本主義を全面否定する人らもおるぞ

 

主張は両極端なれど自分の頭で考えないできゃっきゃ唱和するメンタル構造

どちらも同じ

2023-12-27

なぜロリコン人権はないのか 熊理論

タイトルではロリコン、としたが(ほとんどの日本人ロリコンペドフィリア同義と思っているため)

正確には「小学生以下を好む成人(主にペドフィリア)」の話をする。


青汁王子の「ロリコン人権なんてない。心底気持ち悪い。児童への犯罪もっと厳罰化しろよ。」ツイートがバズり、賛否をよんでいる。

・反対派の意見は主にこうだ。

「心の中で思っているだけなら自由」「一部のペド犯罪行為しているだけ、エロ本見てるだけならいいはず」

LGBTや他のマイノリティ性的嗜好と同じ」「普通の嗜好の男性性的加害してるのにペドだけ迫害するのはおかしい」


結論から言うと、大衆感情的ペドフィリア人権を得ることはまずないと思う(法律的にどうか、は置いておく)

なんでそうなるのか、

想像力が足りない人に向けて「ペドフィリア理論」を唱えたい。


ーーーー

明日からお前の住む街に5000匹の熊がやってきます

人間を食べるのが大好きな熊です。

安心してください、朝昼晩ちゃんと餌用の加工人肉を食べるので基本的にはお前を食べることはありません。

ただお前の方をじっと見つめて寄ってきたり、ひっかいたりすることはあるかも。だっておいしそうなんだもん。

まあ、ごくまれに一部の熊が街の人を食べちゃうこともある。

でも大体腕や足を食べられるだけで命まで奪われないし、熊にも人生があるので我慢してね。

もし熊に危害を加えたら、お前は犯罪者。刑務所に入れられます

熊が怖いなら、猟師と歩いて自衛してね。

ーーーーー

この社会、お前は住めるか。

ペドフィリア社会的に認めるってことは、児童は上のような暮らしを強いられるってことだ。

大衆感情的に許されないのは、マイノリティからでも気持ちいからでもなく、

児童にとって「言葉の通じない獣」だからである



ペドフィリア相思相愛はない。

小学生以下の女児性交渉がどれだけ自分の体を傷つけるか理解した上で

成人に自ら性的欲求を持つことは100%ない。

エロ本エロアニメの中だと起こりうるだろうが現実にはあり得ない。

平安時代戦前は違うかもしれないが今は令和だ。何度も言うがあり得ない。

圧倒的な力の差がある者から一方的性的欲望

児童から見るとそれは殺害に近い加害欲となる。



「でもペドフィリアも心の中で思っているだけなら自由だろ」は、

「熊も一度は生きた人間を食べたいと思っている。

 ただ心の中で思っているだけだから許してほしい。餌を食べるから人間は滅多に襲わない」

と言われてお前は熊と一緒の街で暮らせるか?が答えだ。

たまたま餌を抜いた時間に前を通りかかったらどうする?



ここまで読んでも、まだ理解ができないペドフィリアがいたら

一刻も早く病院治療検討してほしい。

(ただ個人的には、それが一生満たされない欲望理解した上で、本当に絶対にどう間違っても本物の児童に手を出さないなら、ひっそりとその思いを抱えていても良いとは思う)

追記

と思っていたが、小学生レベル煽りコメントを見ていると対話は難しいのかもしれない笑

「(児童から見るとペド全員が)言葉が通じない」「相思相愛100%あり得ない」

「(児童から見るとペド全員が)獣的な暴力性(圧倒的な力の差、獣的な理性と言っているわけではない)」

 がポイントであって、もちろん一般男性はあてはまらないよ。

2023-12-10

anond:20231209114957

クマだって地元じゃ人間が付けた名前と手配写真が出回るし、人の味覚えたクマ危険から役所猟師が血眼で捜索するでしょ

何人も殺したクマは全国ニュース載るし、仕留めたらまた全国ニュースだよ

よく動物愛護現実を知らないって言うけど、虐待派も大概現状を把握してないよね

2023-12-08

anond:20231208183949

肉体の性能に則って男女の役割分担すべきだわ

男はみんな農家猟師警察官自衛隊消防士など肉体労働

女はみんな人に接する仕事デスクワーク全般

デスクワークを男がやるのはおかしいんだわ

IT系パソコンカチャカチャする用の肉体じゃないんだわ

田んぼの力と書いて男ぞ

2023-12-02

Netflix】ザ・キラー

・カッコいいモノローグ言うても初手ミスっとるからなあ

吹替声優さんの渋カッコいい声でもフォロー

しきれん…!と低空気味に見てたけど下記の

「それを埋め合わせる自分白眉部分」がポツポツあるので

時間無駄やったわ とはならない

黒人の人との暴力シーンが見てて怖さを感じさせられるくらいすごかった

アクション」というか「暴力撮影してる」感があって

今まで見てきた中で一番ポジに入った

撮影とかでもこれモロに喰らったら命に関わる感あって

アクション見てて初めてスリルありすぎて見てらんねぇ!って目を細めた

パワーとスピードを併せ持った「暴」、三次元存在してた…

・本当に綿棒っぽい

熊さん猟師さんの話、エッッッッ

回を増すごとに武器パワーアップしてることに

趣を感じる

最後までみた

ラストは「そう決着をつけるか」ってなったけど

やたら映画好き界隈で話題になる程の…やつ…か…?とはなった

俳優さんとか監督さんとかジャンル映画とかの何かしか

文脈があると見方が変わるんだろうか

2023-11-10

anond:20231110185311

結果が出て治安が保たれるなら理由なんかどうでもいいよ

鉄砲使いたいやつが警官になったり猟師になったりするやろ

2023-11-02

anond:20231102205322

俺が言いたいのはもっとシンプルで、赤ちゃんの時は大人保護がないと生きていけないけど、成人したら自力で食料を調達できる

ワイは、職業として農業やるとか、猟師自給自足するとかは、ツテも能力もまったくないので無理だ

農家サブスクレンタル畑くらいなら出来るかもしれない

 

でもまぁ出来ることは出来る範囲でしたいね・・・おんぶに抱っこではなくてね

2023-10-22

[] 人生に本当に必要な物はなにひとつとしてお金では買えない

家族恋人友達、生きがい、健康、それらはもちろんのこと、ペットすらそうだ

ペット自体は生体販売お金で買えるけど、ペットとの絆はお金では買えない

  

でもいうて、成熟していないので、結局は些細な贅沢を辞めれず、ある程度はお金奴隷なっちゃう部分はあるのかな・・・とは思いつつも、

これらについてぼんやり考えてる

 

まず、田舎職業として農業やるとか猟師自給自足するとかは、ツテも能力もまったくないので無理だ

東京まれとは言いつつも周囲には住宅しかなかったので都会っ子の自認はまったくないのだが、

やっぱ、街灯がまばらで青年会が山道の整備とかしている地域とか、雪かき必須地域で生まれ育った人らと比べると、あらゆる面において貧弱だ

メンタルもやしでツテが無くても、器用でDIY得意だとか、人付き合い能力めっちゃ高いとか、大柄で筋肉隆々だったら、またぜんぜん違ったんだろうけどな

宝くじとか当たって家庭菜園レンタル畑をやれたらいいなとは思う

でも、薄ぼんやりとした食糧不安をずっと持っているので(農業従事者の平均年齢が70歳を超えてしまっている。あと円安)

宝くじ当たらなくても、農家サブスクレンタル畑くらいはやってもいいかも知れない

 

次に必要お金

円がゴミ屑にならない前提・食糧に困らない前提で、雑に月30万くらいあれば特別なことが無きゃ老後過ごせると思っている

60歳から40年で1億4400必要で、所得もしくは売上げを全額貯金に回せば余裕でイケる額だけど、当然ながら全額貯金は出来ない

娯楽(ゲームマンガエロ)で一発当てるか、人を雇う規模感でのビジネス成功か、投資で爆益が必要なわけなんだが、

宝くじに期待するのとあんま変わらん気がする

なので基本的には一生INを確保する・・・まり一生働ける方法を考えなきゃいけない

 

あれ?お金奴隷にならないってのはどうしたんだって話だが、どうあってもお金の話はついて回る

家族恋人友達、生きがい、健康を買わない(買えない)のに、『お金でなにを買うつもりなんだ?』と言ったら、

"安全" と "快適" だよね

 

日本は今のところ先進国かつ銃でヒャッハーしている人はいないので "安全" は多少目は瞑ってもいいが(いうて、侵入窃盗ひったくり放火・寝タバコが多い地域は避けた方がいい)

"快適" は、世界中どこでも価値のあるものだよね、もちろん日本においても

"快適" と "不要な贅沢" の線引きは難しいが、人間幸福には下記のどちらかは必要だ(両方あるとより望ましい)

 

 

このどちらかを維持するのに必要な経費が "快適" だろう

 

 

 

しかし、任天堂山内氏の経営哲学は、本当に "それはそう"感 あるな

面白いと思うものをつくれ

商品が売れるか売れないかは、正直いって誰もわからんよ。しかし、面白いか、面白くないかは誰にでもわかる。おもしろものをつくれば会議検討したり、市場調査をしたりする必要もないわけや。事実ゲームソフトで370万本売って超ベストセラーになった「スーパーマリオブラザーズ」など、100人中90人までがおもしろいと評価していたよ。

実力だけではなく運も認める

運を認めないといけない。運を実力だと錯覚するということは、これほど愚かなことはないんです。経営者としてね。ところが、人間ですからついつい運の存在無視して「俺の力だ。俺のやり方が良かったんだ」と言いたいんですわ、人というものはね。それは駄目。

世間にはよく成功した人間尊敬する人がいるけれど、それが僕には不思議でしようがない。たまたま運が良かっただけの人を、どうして尊敬できるんでしょうかね。

ーーーー

「世の中でうまくいっている人の言葉金言のように聞いて、『なるほど』と言って真似をしたがる人がいるけれど、自分にはそれが理解できない」

「なぜなら、うまくいっているのは全て運だからだ」

運を天に任せる

人事を尽くして天命を待つというが、人事なんてなかなか尽くせるものではない。そのときは、やるだけやった、あとはどうなっても満足だと思うかもしれないが、しくじったら、そのとたんに、ああしておけばよかった、こうもすればよかったと、次から次に反省が生まれものです。だから、どんなに人事を尽くしたつもりでも、人間所詮天命を待つ心境にはなれない。そういう意味でもわたしは、任天堂の名の由来のごとく、人事を尽くして天命を待つのではなく、単純に「運を天に任せる」という発想を積極的に取りたいと思っています

 

経済的成功出来るかは知らんけど、少なくとも自分自身面白いと思える作品や、自分自身は役に立つと思うシステムについて、もっと真剣に考えたいなって改めて思いました

あと、立派な人は経済的成功していなくても誰の目から見ても立派なので、世間評価がどうこうではなく、やはり引き続き、善行ができる人を目指したいと思いました

2023-10-20

anond:20231020112011

ワイの知り合いが猟師だったけど、コミュ障だったか猟友会でうまくやっていけず最後は他の会員からの誤射で死んだ

実際は故意だったんじゃないかと疑っている

anond:20231020112011

弱者男性は熊に遭遇したとき「今この熊を撃ち殺さずに自分が殺されれば死ねるじゃん」と考えて故意に殺されたり

熊の前から騒ぎながら逃げ出したりして人間を恐れない熊を量産するため

猟師には向きません

anond:20231020112011

でも猟師なんて今はそんな稼げないじゃん、大体は兼業でしょ

2023-10-19

最近クマ被害について

西日本田舎の話

鹿が増えてて春になると楽しみにしていた山菜も全滅。田畑も2mくらいの柵をしないとなんぼでもやられる。

猟友会に入ってると有害鳥獣駆除として春から秋も狩猟ができる。目標捕獲頭数があって1頭捕まえると1〜2万円報奨金がでる。

鉄砲担いで山に入るのではなくて箱罠、くくり罠をしかけて餌撒いて見回りしてかかってたら12Vバッテリーに100Vインバーター繋いで

電気ショック殺処分写真撮って尻尾切って事務局に提出すると毎月口座にお金が振り込まれる。

定年退職した老人が年間100頭とったら100万円、いい小遣いだ。

その鹿をどうするかというと①食べる②ジビエの食肉加工場に持ち込む③焼却場で処分④穴掘って埋める⑤山にポイ

処分の手間も含めての報奨金だけど⑤が多い。背ロースだけ取る人、角だけカットする人はいるけど中途半端な穴掘って埋めても翌日には

獣に掘り返されてる。山にポイしても翌日にはきれいになくなってる。

他人の山に勝手にポイすると不法投棄だけど自分の山にポイしても違反でない。他人の山に罠しかけさせてもらって許可をもらってその場にポイ

しても違反ではない。モラル的にはアウトだけど自然循環で考えると燃やすよりはましかとも思う。

自治体もこの問題には悩まされていて冷凍庫で一時保管してまとめて焼却場に持ち込むとか食肉加工場に補助をだしたり菌で分解させる減量化施設を作ったりと試行錯誤してる。

けれども猟師にとっては山にポイが一番楽。お金くれるなら持ち込むけど。

ポイした鹿はたぬきカラスキツネが食べてるんだろうけど熊も食べてるはず。

そんな山奥の話ではない。車で通れる道のついた集落からそんなに離れていない山でそんなことになってる。

どんぐりが不作とか豊作で数が増えたとかもちろんその通りなんだろうけど猟師の後始末が原因でこれからクマ被害が増えるのではないか心配してる。

ちなみに猪は豚熱が流行ってて山には粉末ワクチン撒いたり対策してるけど養豚場はかなり神経質になってるはず。

鹿の数を減らすには自衛隊の訓練がてら山を封鎖して夜間の一斉掃討がいいと思うけど国民理解は得られないと思います

とりあえず自治体は山際にはフェンスを張り巡らせ田舎の人は鈴を鳴らして歩いて対策しましょう。

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