はてなキーワード: 気づきとは
俺さ、信じてたんだよ。
確かにゲームの詰め合わせが95%オフとか滅茶苦茶だなとは思ってたよ。
でも欲しくないゲームも7割ぐらい入ってるから実質85%オフぐらいだしまあこんなもんだなと思ってたの。
違うんだね。
いや、犯罪ではないんだろうな。
ただのバグ利用。
他人がバグを利用して安く仕入れたアイテムを露天で購入してる感じ。
でも俺は本当に信じてたんだよ。
やりもしないゲームを積んでいく影で誰かの命が救われているんだって。
ゲームを買うゲームっていう何がしたいのかわからないことをやっている俺たちの人生にも意味はあるって。
でも本当は違うんだね。
Steamが放置してきたおま値の利鞘で稼いでる怪しい人達がいただけ。
でもまあWIN-WINだったと思うよ。
だって俺は結局85%オフじゃなかったら買ってないゲームを買ってるわけだしさ。
ゲームって開発にはコストがかかるけど販売の軌道に乗ったらあとはもう原価0円じゃん。
それならどんな値段であっても売れたなら利益になるわけだから、まあ結果として誰も損してない説あるよね。
でも俺は騙されてたんだなって気づきはショックだな。
いや、騙されてたんだなって思いたいだけなんだろうな俺が。
なんかおかしいなと思いながらも都合よく信じて、でもいい加減それに疲れてきたから丁度いい答えが欲しかったんだ。
せめてそれがクレカの不正利用とかじゃないものであって欲しいと信じたい所にそれらしい答えが転がり込んできたから飛びついてるだけ。
現在ウマ娘プリティダービーの中で行われているイベント「目指せ!最強チーム」の評判がすこぶる良い。
なぜこのイベントはこんなに評価されているのだろうか?今までのイベントとはどこが違うのか?
自分の殿堂入りウマ娘の中から一人チームリーダーとなるウマ娘を選ぶ。
そこに固定のモブキャラ6人を含めたチームが与えられる。
他のプレイヤーと非同期でレースを行い、自分のチームのウマ娘が一着になると勝利。
勝った場合はスカウトポイントが与えられる。このスカウトポイントを使って相手チームのウマ娘をスカウトし、自分のチームのウマ娘と入れ替えることができる。
つまり、レースを行うごとにチームを強くしていけるということだ。
・チームリーダーは自分の殿堂入りウマ娘の中から毎試合選ぶことができる
・ウマ娘ごとに、チームに含めた状態でレースに勝利すると名簿登録される。名簿登録された人数に応じて、レース中のステータスバフ、勝ったときにもらえるスカウトポイントに倍率がかかる
・レースの内容は3戦ごとに変更、先のレースのスケジュールも見ることができる
1.育成周回させるイベントではない
これが今までのイベントと最も違う点。
今までのイベントは、すべてひたすら育成を繰り返させる内容だった。
しかも、サポカ縛りや因子縛りなど、何らかの縛りをさせられた状態で育成させられることが多かった。(毎月行われるストーリー付きのイベントは、さすがに縛りが以前よりもマシになったが)
これにより、対人戦用の育成や、因子狙いの周回と兼ねることが難しく、ただ育成のための育成をしているといった有様だった。
ウマ娘の育成はソシャゲとは思えないほどプレイ時間がかかり、イベント専用の周回を煩わしく思うプレイヤーも多かった。
今回のイベントは殿堂入りしたウマ娘をレースで走らせるだけであり、何ならイベント中に育成をしなければいけない必要もない。
上手く育成することが出来たウマ娘に活躍の場を与えることができ、喜んでいるプレイヤーが多い。
対人戦であるチャンピオンズミーティングは、ゲーム内資産及びゲームにかけた時間が露骨に結果に現れるため、嫌うプレイヤーも多い。
今回のイベントは、概要で説明した通り、別のチームからウマ娘をスカウトすることができるため、強いウマ娘をスカウトすれば強いチームを作ることができる。
今年ゲームを始めたようなプレイヤーや無課金のプレイヤーでも、イベントの報酬をすべてゲットすることは難しくないだろう。
このため、不満が出にくいイベントとなっている。
2とは相反するが、それを踏まえた上で、ゲーム内資産が有利に働く場面もある。
自分の殿堂入りウマ娘から選ぶチームリーダーは毎レース変更することができるため、レースに応じた強いウマ娘を多数所持しているプレイヤーほど有利になる。
また、名簿登録のシステムがあるため、単純に全ウマ娘持っているプレイヤーであれば、スカウトに頼らずに自力で名簿を埋めることができる。
このように、今までの課金が有利に働く部分もちゃんとあるため、廃課金プレイヤーからも不満は出ていない。
4.育成に誘導している
育成を強制させられるイベントではないにも関わらず、育成したくなったというプレイヤーが多数いる。
筆者も、殿堂入りウマ娘の中にテイエムオペラオーとスーパークリークがいないことに気づき、あとから育成しなおしてイベントに参加させた。久しぶりに育成したスーパークリークは大成功で、満足することができた。
このように、育成のモチベーションを高めることができたのは、育成イベントではないからこそである。
○今後の展望
では、このイベントを毎月定期的に行えば良いのだろうか?
どんなイベントでも続けば慣れてしまい、解析も進んで最適解が決まってきてしまい、やらされてきている感が出てきてしまうだろう。
今後、このイベントのように、今までのイベントの不満点が解消された内容の新しいイベントを投入することができるかが肝要だと思われる。
発達障がいがあるかどうかと思っているのは、増田の想定している発達障がい者がネットの自称やなんちゃってだからだと思うで
差別に繋がるので大々的にやっちゃいないけど発達障がいの犯罪率は高い研究幾つも出てて
文部科学省でも非行に繋げないために特別な支援が必要な子ども扱いになってる
そら自制出来ずに人殴ったりヒャッハーしてたり異常に共感性が薄いと必然的に犯罪者デビューするわな
で、親のせいなの?って言ったら、親のせいとそうじゃない場合もある
例:デンマークのSpecialisterneなど。Thorkil Sonne氏の息子が自閉症と診断された後、発達障がい者で構成されたIT企業を設立して創業19年目
「足して二で割ったような」という言い回しがある
これに対し「足して二で割らない」という亜種の言い回しがされることもある
AとBを足して二で割ったような、と言うときはAとBの両方の要素を併せ持つという意味合いだろう
このとき二で割っているからAとBそれぞれの要素が半分に減っているという数学的連想がなされるのかも
だからこそ足して二で割らないという言い方は、AとBの両方の要素を併せ持つがそれぞれの要素は強く残ったままというのを強調した言い方なのだろう
しかし、足して二で割ろうが割らなかろうが濃度という観点では結局等しいんだよな
足して二で割らないというのは要素の絶対量を重視した言い回しと言える
この前ゆる言語学ラジオで「1の多義性」という話題でトークがされていたのを思い出す
数量としての1と割合の総量としての1の二種類があるという話だった
足して二で割らないという表現は、強調表現として言いたいことはわかるが割合の総量としての1をわかってない言い回しだなと思った
小学生が算数を学ぶとき、割合の総量としての1でつまづきやすいという話もされていた
人間という生物の脳が直感的に判断できる数の認知の限界を感じさせる
書いてから思ったが、足されるものそれぞれの量が同じという前提で考えていた
必ずしもそうではないという気もしてきたな
であれば話が変わってくるか
AとBを足して二で割ったような、というときAとBはだいたい同じレベルのものなのではないか
ドラゴンボールとデスノートを足して二で割ったような漫画という言い方には違和感はそんなにないはず
ドラゴンボールと(なんらかの10週打ち切り漫画)を足して二で割ったような漫画という言い方はあんまりしないか?ちょっとこれは自信無いが
悟空とベジータを足して二で割ったようなキャラは言い回しとして違和感ない
フリーザと戦闘力5のおっさんを足して二で割ったようなキャラは……そういうふうには言わんわな
しかしここで気付く
この言い回しは、足して二で割った結果何かを算出しているのではない
算出されたとされる何かがまずあって、比喩として足して二で割っている
この気づきに何らかのヒントがあるか
「昔の君に戻って欲しい」
付き合い始めた頃のように、怒らずニコニコしてほしい。笑って欲しいとの事らしい。
怒鳴られなければ、共働き生活費完全折半だから家事負担をもう少し担ってくれれば、夜の生活マグロやめてくれれぱ、もう少しニコニコ出来たと思う。
男女へだてず「あの頃のアナタに戻って欲しい」と思う人はいるかもしれないが、戻させないのはお前さんだろうとしみじみ思う。
直近で別れた彼氏にも、振られる直前似たようなことを言われた。
あなたが浮気しなければ、仕事で悩んでいる時に「なぜそんな事でストレスを溜めるのか到底理解できない。逃げだ」とガン詰めされなければ、鬱を発症して性欲が無くなった時に「セックスできない増田なんて意味が無い」と言わなければ、もしかしたら前のなんでも笑って受け止めて、毎晩要求にもすすんで応える私のままだったかもしれないね。
とある男性と同棲していた時に、恥じらいを忘れ妙な部屋着ばかり着用していたら突然夜の生活が無くなった。
でも振り返って「ああ、これは私の蒔いた種だ」と気づき、相手に求めるのではなくもう少し節度と恥じらいを備えた生活に戻した。
案の定すぐに相手は求めてきたが、生まれて初めて男性から数ヶ月にわたり拒否られたことでプライドがズタズタになり、自分が性生活に消極的になった。
結局相手が後輩を妊娠させてしまい破局したが、今でも何割かは自分が原因だと思ってる。
だからこそ、相手が変わった原因は自分にもあることに気づかない人を見ると「なんでぇ?」と面を食らう。
しかも伝えてもあまり理解できないようで、最終的に向こうの主張は「君が俺を愛してくれないから」に帰結してしまう。
何もしていない他人が勝手に悪意を持つとか相当レアケースでは。それこそ通り魔のような。
先日も振られたはずの元彼からくどくどと説教されて、同じ話をしてもやはり「お前のせいだ」に帰結してしまってだんだんと自分ひとりがおかしいのかと思い始めた。
結果には原因がある。そこを理解しない限り同じ過ちを繰り返すだけなのになんでなんで?と思ったが、自分は今いわゆる精神病というカテゴリの中にいるので自分の思考回路にも自信がなくなってくる。
旧統一教会の勢力拡大に「日本人の占い好き」が影響 紀藤正樹弁護士が言及
https://news.yahoo.co.jp/articles/fc35460cb3a8085a966f5d152b136b6f139c4313
>さらに、1970年代に旧統一教会の勧誘担当者らは「日本人は占いが好き」「占いをやると引っ掛かりやすい」という特性に気づき、勧誘の際に占いを導入。手相などを取り入れ、巧みに信者を増やしていったという。
>紀藤弁護士によると「占いは相手を知るのにとてもいい手段。占いで人は嘘をつかない。占い師に対し、生年月日や財産内容などで嘘をつくと正しい占いの結果を得られないと思うから」とのことで、現在でも様々な宗教の勧誘場面で使われていると語った。
最近まで返済にかかってたらしいよ
これから加齢によって生じるオタク趣味…娯楽の消費に関する食指の動かなさから感じた人生の正しいライフステージと、筆者自身が抱えている発達障害との関係性、そして現代の世の中について乱文をしたためていく。
ご覧の通り、主語が大きくやや誇張しているような表現を多く含むが、個人的にかなり深刻な問題なのでわざとオーバーに書いている。ご容赦願いたい。
また、とにかく書きたいことを書いたため本文中の出典に関しては省略している。必要があればタイミングを見て追加するかもしれない。
まずはじめに、私はそろそろアラサーに差し掛かりそうな20代半ばの年代だ。
新卒時にちょうどコロナ禍が始まり、業界に対する打撃で案件が来ずロクな仕事を与えられないまま転職、人間関係の不和でひと月経たずに退職し、しばらくして職業訓練で茶を濁しながら10ヶ月ほどの無職期間を経て、今年4月に障害者枠で総務として勤務を始めた。一応今現在まで仕事はなんとか続いているが、障害者枠なので周りが残業していても基本定時で帰してもらえるし、電話応対もない。
そう、私自身が発達障害者だ。ASD(自閉スペクトラム症)で診断され、精神障害者保健福祉手帳3級を取得している。
ひたすらコミュニケーションが苦手で、変化に適応できなくて、その時関心を持ったものにしか興味が持てず、短期記憶が著しく弱く、どうでもいい長期記憶が異常に強く、反復脳死作業しかできることがなく、言葉や文字そのままでしか解釈できず、自分の世界で全てを判断するような性質がある。そして自分が慣れているもの以外の刺激に対して非常に弱い。
そしてプライベートではイラストや漫画、アニメ、ゲーム、動画など、所謂オタク趣味を謳歌している。毎クールごとに気になったアニメをチェックだけし、流行っているソシャゲや動画配信には手を出し、好きなジャンルの二次創作を逐一チェックし、商業同人問わず漫画を購読し、絵に描いたようなオタクライフを満喫しているわけではない。
実際のところはこんな感じだ。
・その割にツイ廃だと思われたくなくて反応は控えめ
・据え置きゲームも中盤あたりで詰み、最後までクリアできたためしがない
・絵は月一で描くという自分ルールを設けたが、毎回月末になって慌てて描いている
・新しい漫画やアニメ、ソシャゲは刺激されて疲れるのが嫌でWikipediaと公式サイトの文を読んで満足
・4つある自ジャンル(いずれも旬ではない)の情報だけはしっかり追っている。ただしコンテンツそのものよりも運営や民度のことばかり気にしてる
・音楽に対するフットワークは軽いと思っていたが、最近のTikTok文化には全くついていけない。ノリも苦手
・そもそも新しいジャンルにハマる元気がない。ずっと広く追わなきゃならないVtuberは全般的に苦手。
・頭の中では常に一次創作の設定のことを考えていて、そのための資料集めのために生きている。なお創作の本編には手を付けられてない
・特に時間がないわけではないが、とにかく疲れてTL巡回以外何もできない
・盛り上がっているオタクを見ると羨ましい
・そのくせに現実(仕事、結婚、育児、介護など)としっかり向き合っている周囲の人を見ると不安になって焦る
趣味を楽しみたい欲望だけ募らせて「疲れた」を理由に何もせず、同時に現実を見て生きている人たちにも劣等感を抱くという、オタクにも一般人にもなれないモンスターと化してしまった。
これは自分でもまずいと思うが、どうにも意識してコントロールできることでもないようだ。
このように気力不足で何もできず劣等感だけ募らせている私が、普段何ならできているのかを列挙する。
・盛り上がっているオタクの観察
・一応惰性で見ているアニメの実況
・オタクや推し絵師やリアル知人の生存確認(唐突にいろんな人物が頭に浮かび大抵更新が止まっててショックを受ける。発達障害あるあるだと思う)
・自ジャンルのアフィブログの愚痴記事のコメント欄や5ちゃんねるの愚痴スレをひたすら監視(界隈やコンテンツの問題点も踏まえて正しく把握するため)
・Twitterのトレンドから社会問題に関する考察(という名の悲観的な被害妄想)
・数年前の一番楽しかった頃に描いた絵や当時やり取りしていた旧友(今はほとんど疎遠)とのメッセージを見返して心を痛める
・自分の脳内にある情報だけで一次創作の世界観の設定を練りまくる。どう頑張っても中学生の黒歴史ノートレベルのクオリティにしかならない
一通り書いてみたが、本当に精神衛生上良くないものばかりなことに気付かされる。ただ、脳汁が出てやめられないのだ。
こんなことをしている暇があるのなら勉強するなり作品鑑賞をするなりすればいいのに、前述の通り興味関心が向かなかったり趣味にかまけることに罪悪感があったりで何もしない癖にTwitterや5ちゃんやアフィのコメ欄やまとめブログばかり見て心を傷つけている。こうやっていつも言い訳しかしない。
私がこうなったのも、世の中の流れや身の回りの人間の変化も少なからず影響している。
これがかなり大きい。一応私も社会人3年生で、周りの友人もバリバリ働いている。
当時一緒にオタクして楽しんでた友人たちもだ。彼ら彼女らは私以上に見る影もなく、家を会社を往復するだけの虚無な人生(本人談)を歩んでいるそうだ。時間を犠牲に金だけを生み出し、その半分ほどを税金や必要経費で持ってかれているので貯金も満足にできないらしい。
問題なのは仕事に対して楽しんでいるわけでもなく、常に辞めたい辛いなど愚痴を吐きながらなんとか繋ぎ止めている状態なのである。転職を勧めても、もう一度就職活動する方が苦痛だから今のままでいいという派が圧倒的だった。
なんなら社会に出た途端SNSから手を引き、音信不通になった人もたくさんいる。久しぶりに話せたかと思えば、仕事以外は何もできてないとのことである。
会社の手となり足となる人生以外の選択肢を潰したのだろう。きっとそれは正しいことだ。
正直、私から見れば友人らは圧倒的につまらない人間になった。いや、社会がそういう人間を望んでいるのかもしれない。
自分の好きなことのために生きているオタクこそ、社会にとっては癌なのだ。強い自我は社会の歯車を回すにあたっては邪魔なだけだ。
つまり社会に出れば社畜化することの方が求められていて、あたかもそれが正しいことのように錯覚している。
そして、こういう人生の話と切り離せないのが結婚出産だが、私の身の回りに既婚者は2,3人ほどしか確認できていない。みんなとっとと結婚して親を安心させるのかなと思えば社畜街道まっしぐらな方向性を選んだ人の方が多かったようだ。
その既婚者たちも、子どもができれば家庭優先になるのは当たり前である。趣味を謳歌する余裕などない。
ただ、それが正しいのだ。いつまでも好きなことをしてるクソガキであろうとする私が間違っている。そういう人たちを見ると、なおさらそう思う。
たまに話もするが、仲良く絡んでたときとは価値観が打って変わってしまった。いや、私が変わらなすぎるのかもしれない。
私はこのように、世の中に求められている使命をしっかり果たしている人たちの足元にも及ばないのが悔しくて仕方ない。人間不信も相まって生まれてこの方恋愛したことないのに、どこで挽回できようか。
だからオタクみたいなことを続けるのに抵抗が生じてしまうのだ。
身の回りのオタク友人だけじゃない。ネットにいる二次創作絵師やフォロワーも例外ではない。
2020年あたりを境に、Twitterの更新が止まったりアカウントを削除したり、動いてはいるものの低浮上になったりしている作家やフォロワーがたくさん増えてきた。
それは、コロナ前の同人誌即売会で購入した作者の現在を調べて初めて判明する事実だったりする。こういうことを慢性的にやってしまう。
何が何であれ、別れというものには耐えられない。いや、慣れてないだけなのかもしれない。
なんせ一方的に観察してるだけなので、少しでも顔を見せないと生存そのものが心配になってしまう。
理由について推測する。
コロナ禍では巣ごもりが奨励されており、創作は流行るだろうと思っていたが現実は真逆だった。本の印刷という明確な納期がなくなったことによりモチベーションが著しく減退したサークルが多く確認されている。今回控えているC100もサークル数は前回比で減っており、同人需要すら落ちているようだ。
「オンライン推奨なんだからWebオンリーとかコミッションとかが主流になったのでは?」とツッコまれそうだが、私が言いたいのは”ネットに顔すら出さなくなったクリエイターが爆増している”ということである。これは正直巣ごもり関係なく、何らかのタイミングで起きていると思われる。何故コロナのタイミングで、とは思うが人手不足の穴埋めをさせられたり、単純に業務量が上記を逸していたりするのだろう。基本的に観測できる範囲には真面目な人ばかりだ。
私が新卒で入社した会社はコロナで仕事がなくなった業種だが、逆に多忙を極めている業種もある。オタクの本業とは一体何なのか…もし医者やSEといった仕事が主流なら、私はまた(人生スペックに対する)嫉妬に狂ってしまう。みんなちゃんと仕事しているし、会社に殺されてこき使われてるのだ。
そもそも想像力が乏しいので、人間はみんな四六時中SNSを見ていて当たり前だと思っているフシがある。全員がそうとは限らないだろうが。
私みたいに、常にネットから得た知識でこれから起こることに対して悲観的な妄想をしたり、目の前のことをかなぐり捨てて現実逃避しているわけがないのだ。
ネットのオタクからも「現実をちゃんと生きているのに」という劣等感は強く感じる。普通に中の人は人間なのだから。社会を回して当然だ
だが、ここまで仕事に忙殺させてもなお終わらない無茶なタスク振りや、いくら働いてもまともに暮らせない賃金体系にも問題があるのではないのか?
こうなると社会そのものへの愚痴になるのでこのあたりで留めておく。
ここまでつらつらと書いてきたが、私自身も趣味に対して食指が動かなくなったわりにオタク気質だけは残ったままになっている。”キモオタ”から”オタ”を取った”キモ”状態だ。
現にアニメ・マンガ・ゲームとかに触れずとも、Twitterの逐一巡回やアフィなどの監視を惰性でやって時間を浪費している奴をまともと呼ぶわけがないだろう。
何故楽しかったあの頃より熱が冷め、エアプマンになったのか分析していこうと思う。
まぁこれに尽きる。正式に言うと「ネガポジ問わず刺激によって疲れる」のが嫌になった。フィジカルもあるが、メンタルの話だ。
人が一度に受けられる刺激には限度があると思う。これを超えると心身に悪影響を及ぼしかねない。そしてその容量は年齢に反比例している。
仕事は当然神経をすり減らして責任を持って取り組まなければならない。その時点で一日に受けられる刺激量はとっくに超えている。そんな状態じゃコンテンツを摂取することで何らかの感情をかき乱すなんて疲れるだけだというようになり、いつしか避けるようになる。
長い文章が読めなくなるのもこれだ。重く激しい展開を忌み嫌うのもこれだ。
私はアニメやゲームを実況することが生きがいだ。初見の感想を記録し、未来の自分の役に立てたいという気持ちが強い。
ただ、半ばそれが義務や使命と化していて正直かなり疲れている。ASDは自分のタスクを輪に組み込んでしまえば永久的に続けられる性質があるが、それは「何も考えずにできること」限定であり、実況や考察など自分の言葉を紡ぐ行為はかなり消耗する。この文章だって3時間かけて執筆している。
作品に触れているのだから、何らかの感想を残さねばという自分自身に課した強迫観念のようなものが私には存在する。
そんなことを思いながらも、基本的に自分の頭のデータベースに情報を一気に突っ込めなくなり、処理もできなくなっていってる。
旬コンテンツに触れないと置いていかれる観念もこれだ。名前を出してしまうと、「100日後に死ぬワニ」や「モルカー」や「タコピーの原罪」などが一斉に流行りだすと、未履修の人間はツイッターランドにおける非国民であるような気持ちになる。
Twitterのトレンドが特定のコンテンツで一色になっているのも、同調圧力を感じて疲れてしまう。追えてないことに残念な気持ちになるが、追う元気もない。
そんな感じで、うっすらとした気質だけ抜けられないまま、置いていかれないように上澄みだけ啜っているのが今である。
何度も述べている通りである。大人になるとは、社会を回すために責任を持って使命を遂行することである。
その使命を放棄し、自分の好きなことばかりに現を抜かすなど、人間としてあってはならない。そんなことが許されるのは大学生までだ。
人間には、生物として繁殖しなくてはいけない義務がある。日本国憲法においては、教育・労働・納税の義務がある。
つまり、仕事や育児から逃げるのは罪なのだ。その逃げとは、趣味のことである。
普通の人間は社会に出れば「個人」をやめ、「社員」なり「役職」なり、はたまた「親」なりの肩書を持つ。名前なんて呼ばれなくなるだろう。必要なくなるだろう。
オタクは「個人」のままできるが、それは大人になった瞬間捨てなければならない。肩書にふさわしい義務を果たさなくてはならない。
私は、20代も後半に差し掛かるというのにこれらの義務を果たせる予兆がまるでない。仕事も、同年代と比べると誰でもできるようなことしかしてないしはっきり言ってぬるい。
結婚だって、恋愛を嫌がっているのだから当然できるわけがない。人間との共存に本気で虫酸が走る。
そんな奴が適齢期になっても責務から逃げ、いつまでもガキ臭いことをする道理が見当たらない。その結果、打開策が見えず将来を憂いているだけで何もできない生き物になってしまった。
何度も言うが、逃げとは責任の放棄であり罪だ、そしてその逃避こそが趣味なのだ。
こんな経験はないだろうか。「作品よりもスタッフや運営に注目するようになった」と。
コンテンツにゴリゴリに入り込んで感情移入するのは、幼い子のやり方だ。夢女子がそれとも言われるが、傍から見れば虚構と現実の区別がついてないように見える。
それをいい歳こいた大人がやれば、立派な精神異常者だ。作品の世界に入り込むなど、これこそ先程から罪だと言っている現実逃避にほかならないだろう。
そして、ある程度読解力が育ってくれば作中のモチーフや描写、張られた伏線などから「考察」というものをするようになる。この段階でやっと観客になれるのだ。その考察も、ガキの魂胆で行えばただの妄想に成り下がるが。
では、そのようなコンテンツの見方に慣れると作品をどのように見るようになるのか?
答えは「構造批判」である。作品の評価をファンの民度やスタッフの質、運営の対応などで行うようになる。特にお金の話と絡めたがる。
作品同士を「このジャンル、ファンがクソガキしかいない」「なろうテンプレだなこれは」「お涙頂戴ねはいはい」「運営のおっさんはこれが儲かると思ってんだなぁ」と比較や批判するようになる。Twitter民にも心当たりはあるだろう。
こういう考えはコンテンツ研究する立場においては大いにアリだが、普通に楽しむにあたってはノイズになりかねない。なんなら「構造批判」するために作品に触れる(たまに触れてすらいない)ようになり、叩くのが目的になる。
そうすれば、何を見ても昔のような楽しさは感じられないだろう。
現代は情報化社会だ。誰もがクリエイターになれるし、どんなものもスマホひとつで手軽に大量消費できる。
そうなれば必然的にコンテンツで溢れかえる。取捨選択が難しくなる。
これらの流れをくんで、最近ではAIが閲覧傾向を読んで勝手にレコメンドしてくれる。口を開ければ合うものを放り込まれる。そしてなんとなく偏っている。
ただ、なるべく偏らせないで色々見たい人は、とりあえず全部手にとって味見する。その絶対数は一生に捌ききれないほど多い。
悩んだ結果、車は
スズキ ソリオ HYBRID MZ 全方位モニター付メモリーナビゲーション
いつになったら正式発表されるんだ。
Creative Trend というブログが流してくる情報を見てたが、EPBなし全車速ACCも最上位のみという残念仕様。
納車も未知数だし完全にやる気なくなって見送る事に。
カーシェアで借りて高速も走ってみたが、実際乗ってみるとなかなか良い。
特に静粛性がよく、アイドリングストップした後の再始動がかなり静か。
エンジン再始動の振動が好きではなかったのでこれは大きかった。
中古なら5年落ち180万程度、ハイブリッドなら燃費も良く、メンテコストを考えても経済的な気はする。
気になったのは、加速がちょっと悪いと感じた事と、3列シートをたたむと邪魔な事。
中古ならナビが古くCarPlayとか使えない、エアコンの効きがイマイチに感じられた。
あと、ACCが30kmで切れるのもあるが……。
特にエアコンの問題は結構重く、2列目に乗せる子どもの事を考えるとサーキュレータがあるソリオにする要因になった。
5年落ちぐらいなら、中古だと同じくらいの価格であるので一瞬考えた。
古いわりに電子装備が充実している気がする。
そんなでかい車もいらんしな……。
ライズを一回借りた事があり、合わなかったのでなしに。特にステアリングの感覚がストレスだった。
ルーミーは違うかもしれないし、EPBやストロングハイブリッドの設定はあるのはいいんだが……。
と思ってたんだが、前が短いぶん運転席から見てすっげぇ取り回しがしやすいという事に気づき……
ディーラーで試乗させてもらったが、思いのほか静かでエンジン音も気にならず。なんか遠くの方でエンジン鳴ってんなって感じ。
マイルドハイブリッドでアイドリングストップの再始動も静か。燃費も悪くない。
前評判では低速域でエンジン来れるからブレーキに癖があるとか、アクセルが固いとかあったが、全く気にならなかった。
ソリオで良かったのは、新型車で上位モデルになるので装備が結構良かった事。
なんといっても全方位カメラ!車庫入れ下手くそなので感動してしまった。
カーシェアならバックカメラにガイド線がないのもザラにあるのに、4輪全部の軌道までわかるなんて……。
シーリングサーキュレータやIRカットガラス、サンシェードも標準で入ってるのは良かった。
ただHUDは正直いらんなと思った。目が疲れそう。センターメーターは意外と気にならない。
高速走行もしたが、一世代前のモデルだったからかロードノイズが気になった。ここは新型の設計に期待。
あとロングドライブを考えると…新型はシートが妙にやわらかいのは、正直ちょっと気になるんだが。
けどこのシート妻の評判はすげーいいんだよなー。
フリードに対してはサイズの差がやはり大きいかったが、各所との調整の結果3列目はいらないという合意がなされた。
荷台も狭いが、普段の買い物や旅行には十分。床下収納があるのも地味に良い。
フリードは3列目の跳ね上げが邪魔だし、広い分逆に奥の方に入ってしまったりする。
ほぼデッドウェイトを運ぶのも不経済。
という事でソリオになりました。
創価中高ですごした増田(https://anond.hatelabo.jp/20220714094742)に触発されて。
今のわたしのように、たとえ大人になってから学会活動をやらなかったとしても、親の庇護下・監督下にあり、人間として成長段階でもある、幼少期・思春期・青年期前半くらいまでを「二世」として過ごすって、人生経験の中で結構なインパクトがある出来事のような気がする。
たまに誰かに話したいな~とか思うけど、世間的な見られ方から、「私親が学会で~」っていうのはいまだに言いづらく、そこでどんな活動をしていたかというのは周囲の非学会員には一切話したことがない。
増田になら…と改めて思ったので、書いておこうと思う。
うちは最初に母が入って、父が母につられて入ったという感じで、活動に熱心なのは母だった。
父は言われて新聞配達してたくらいで、仏壇の前に座るとかそういうことは一切しないライト会員。
私は生まれた翌年の桃の節句の日に入会した。0歳なのでもちろん自発的な悟りとか目覚めとか釈迦みたいなことではなく、親に勝手に入れられた。
このシステムがまずすごいよなと思う。自発的な意思が芽生えないうちから新興宗教に入会って人権的蹂躙っちゃそうだろという気がする。
入会日を桃の節句にあわせたのは女の子だったからだそうです(シンプルな理由)
私自身に学会員の自覚はなかったが、母はバリバリに活動していた。会合なんかにも連れられて行っていた。
地域の役員…地区部長とか? 的な人の家でやるやつと、文化会館といわれる宗教施設でやるやつ、どっちにも連れていかれていたが何の集まりかは全然わかってなかった。
人がたくさん集まってて、同年代の子どももいる集いにつれていかれ、後ろのほうで遊んだり絵本よんだりしてるくらいの感じ。
ちなみにこのころは、まだ学会は日蓮正宗に破門されていなかったので、普通に七五三等で日蓮正宗のお寺にも行っていた。
戦前戦後の墨塗教科書感があり、当時ですらちょっと「え? もうお寺にいかないの…なんで…?」ってなってた。
母が地区の役職についたようで、低学年のころから自宅が週2くらいある会合の会場になった。
家が創価学会の会合の会場になるとか、もしかしたらかなりヘビーな悲劇の二世体験のように思われるかもしれないが、実際にはに集まった大人の人らにかわいがってもらったりおしゃべりしてもらったり、同世代の子どもと楽しく遊んだりという記憶でしかない。
家に人がたくさん来るのがシンプルに楽しいので、自分から会合の場にいることが多かった。
嫌だな~と思ったことはなかった。日常風景みたいな。でもそれは小さかったからで、多感な時期からそうなってたら絶対嫌だったと思う。
会合の最初にみんなで法華経方便品自我偈をとなえたあと、唱題する。
低学年のころ、その方便品の教本(勤行要典という)をみて、会合に来た大人たちに「これは外国の言葉なのか? 何が書いてあるのか?」ときいて困らせた記憶がある。ひらがながふってあるので音だけは読めたが意味不明すぎて…。
あと、会合してる裏で、当時家で飼ってた猫が産気づき、私が猫にかぶりつきで「がんばれー! もう少し!」とかでっかい声ではげましていたので、隣の部屋で会合中の大人らはこっちが気になってしかたなかったらしいということがあった。
会合・座談会の内容は、『大百蓮華』(日蓮の残した著作(まとめて御書とよばれる)の抜粋がのってる会合用のテキスト。月刊)の勉強とか体験発表とか、今思っても穏当な感じだったなと思う。
家で歌われまくってたのと、中学くらいまで学会歌のオルゴール目覚まし時計(なんかの記念品)で起床していたので、今だにメロディーの一部をおぼえている。
https://www.youtube.com/watch?v=Z5ydB2Onbo8
朝この曲で起きてました。奇特すぎ。
役職についてる人がいるとはいえ、子どもの目には会員同士の関係はあくまでフラットな感じに見えていた。
今もあるのかしらないが、当時、学会二世キッズは、学会がやってる合唱団にさそわれることがあった。
しかしこれは入会時とちがい、親に強制的に入れられたのではない。
母に「やってみる?」ときかれたので、そのころウィーン少年合唱団にあこがれていたというただそれだけの理由で「やってみるわ」と答えた次第。
ウィーン少年合唱団にあこがれてなかったらたぶんやんなかったし、やんないならやんないで母は何も言わなかったと思う。
一応入団に際してオーディション的な歌唱テストもあったが、そこで音痴だったら落ちるのかっていうのはわからないし、多分そんなことないんじゃないだろうか。
入ってみたら、多分毎週ではなかったと思う駆れども、日曜日に文化会館で指導があった。
指導は学校で音楽教師してる等、歌舞音曲の心得のある会員が、おそらく無報酬でやっていて、学会歌ではなく一般的な合唱曲の練習をしていた。
「たんぽぽ」(どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう♪)にここで初めて出会って、なんて素敵な曲なんだろう、情景が目に浮かぶぜ…とめっちゃ感動したのはいい思い出の一つで、いまだにとても好きな歌。でもタンポポは別にいらない…。
小学校が違う気の合う友達もできたし、先生の一人が若めのイケメンだったので合唱団は楽しみだった。
創価中高の増田も似たニュアンスのことを言ってたが、池ちゃんは外国の歴史上の偉人をリスペクトしがちで、それが関係してるのかしらないけど、ある日突然第九…大晦日に歌うあれを練習しますーってなった。
小学生ながらに「フロイデーシェーネルゲッテルフルケン」とかって一生懸命練習したよね…。
なんのためにやってたかというと、当時、学会がヤフド(当時は福岡ドーム)を貸し切って、そこで池ちゃんがやってくる大規模な記念式典をやることになってて、そこに九州ブロック? のみんながあつまって第九合唱する…みたいな話になってたので、そのため。
このときの練習は普段の練習の20倍くらい気合が入っていて、池ちゃんが来ることの重み・貴重さ、池ちゃんの前で歌を披露できることがどんなに名誉かをめっちゃ説かれた記憶がある。
あと、合唱のほかにも「夢や目標をもったら、それがかなうように唱題(お題目を唱える)を一生懸命やりましょう」的な指導があったのだが「でもお題目を唱えるだけではだめ。目標をかなえるためには、そのための努力もかかせない。努力に加えてお題目も唱える。どっちかだけでは意味がない」ということを先生が言っていたのを今でも覚えている。
今の私は別に努力だけでいいだろと思うが、現世利益志向の宗教として、特段変な教えじゃないよなってのは思う。
なんの催しか忘れちゃったんだけど、発表会のために合唱団員の何人かからダンスするメンバーを選ぶってことがあって、私は踊りとかドへたくそなのになぜか立候補。
練習時点でグダグダの踊りを披露してたんだけど、そのとき「自分でやるっていったんだから、責任もってしっかりやろう」という、もはや信仰とかなんも関係ない普通のダメだし(指導)受けたのも印象に残っている。
学会二世には「選挙は祭り」って感覚持ってる人がいるんじゃないかと思う。
実際祭りだし、会員はその時期になると手弁当で友人知人宅を突撃し、候補者のビラをわたして投票のお願いをしていた。電凸とかじゃなくて、家凸。やば。電凸もしてました。
でも不思議なことに、母って、当時凸ってた相手と絶縁どころかいまだに仲いいし、最近できた非会員の友達(母はめちゃくちゃ社交的で友達が多い)に対しても、投票日に投票所に連行する「連れ出し」とか平気でやってるのに、不思議と嫌われてる様子もない。こないだ連れ出し被害食らった人と母と私の3人で飲んだくらい。
私は自分の友達に同じことやったら絶対ドン引きされて絶縁されるだろうなと思うんだけど。このへんは世代感覚なのか、母のキャラゆえなのか、いまだによくわからないところ。
とにかく私は同じことはできないし、したくもないし、そもそも公明党には投票してない。
話がそれたが、当時の家凸は、同じ地区の会員同士で車とかに乗り合わせて回ることがおおくて、子どもの私も車に同乗していた。
完全にお出かけドライブ気分だし、乗り合わせする家の同世代の子とかも来るので、普通に楽しんでついてってた。
あと、当時は親のやってることや信じてることを当然に受け入れていたので、乗り合わせた子といっしょに、信号停止中、後部座席からリアガラスに候補者のチラシを掲げて、後続車にアピったりしていた。
若いカップルがにこにこ笑って、オッケーマーク出してくれたの未だに覚えてる。向こうは覚えてるかなあ。
今おもえばひたすらめちゃくちゃ寛容な人たちだ…それか会員だったのか?
小学生のころから国語と社会(歴史)が好きだったんだけども、中学生になると古文の授業がはじまり、日本史の分量も増えたこともあり、その分野への興味関心は増していった。
母の蔵書である古典文学全集や解説書、文学系文化財の図録本などを開くのが大好きで、たのしみな時間だった。
円地文子が清少納言と枕草子を解説している文章のリリカルかつキリリとした美しさに感銘を受けた。
腐女子としての目覚めとこじらせも発生していて、その脳のままに平家物語の現代語訳を読んで、平経正と守覚法親王の関係(都落ちに際して琵琶返しにいくあれ)に爆萌え。
絶対修学旅行では仁和寺に行きたい!! って心に決めて実際行ったり、数多のいにしえの物語や随筆の舞台になった京都、その登場人物である彼女ら彼らが参詣し今も残っている古寺への興味がすごく高まった時期だった。
しかし学会員は寺とか神社とかを蛇蝎のごとく嫌っており、母もそういうメンタルだったので、京都や、京都に限らず、寺や神社に積極的に行きたがる私との間でちょっと揉めた。
寺や神社を頭ごなしに否定する学会員の在り方に疑問が芽生えてきたのもこのころだった。
教本には、勤行の最後には「諸天善神のおんために」祈ると書いてあり、ご本尊にも「南無妙法蓮華経」の字のまわりに、いろんな神様の名前が書いてあるのに謎すぎる。
(ちなみに改定が入った現在の教本では諸天善神のおんために、部分は割愛されてるらしい。祈れよ)
私は母に、はるか昔から善男善女が祈ってきた場がそんなに悪い場所であるとはどうしても思えない。貴重な文化遺産、歴史の息吹を感じさせるすてきな場所だとしか思えない。そんなに嫌うなんておかしい、というような趣旨のことを懸命に訴えた。
訴えられない、訴えても聞き入れてもらえない学会の家の子もいたのかもしれないけど、私の母はそういうタイプでもなく、私の考え方や言動によって、寺や神社への抵抗感は薄れたといっていた。
そんなわけで、母とはのちに一緒に京都旅行を何度もすることになったし、そんなときには寺や神社にも普通に詣でた。
世間一般は学会に偏見をもっているんだなあ…ということを知ったのもこのころだった。
中学の友達が立正佼成会で、呼び出されて逆折伏されそうになるっていう出来事もあってしんどかった。そして世間からしたらどっちもどっち。
政教分離的なところでも疑問が生じてきて、もやもやすることが増えてきた。
でも学会は小さなころから当たり前に傍らにあるもので、うちは別に多額の献金とかで破産してるわけでもなければ、活動で生活が破綻してるわけでもない。どころかその時点で、楽しい思い出がいっぱいあった。
(今もって)学会の一側面しか知らないにもかかわらず「世間で決めつけられてるような団体じゃないのに…」というジレンマを感じていた。世間で決めつけられてるからには理由があるだろうに…。
ちなみに、法華経の方便品は一体何を言ってるのか? という低学年のころ解消されなかった謎は中学生の時まで続き、ミネルヴァ書房から出てた法華経の日本語訳を読んで解消した。(文化会館の、数珠とかうってるグッズ売り場で普通に買えた)
読んで「シャリホツ!(なるほど!)」みたいな感じあった。(?)
日本語として何を言っているのか? という謎は解消したが、内容は中学生には難しい部分も多く、あまり心に響くことはなかった。
教学試験について説明すると長くなるので省く(説明はここ: https://www.sokanet.jp/kaiin/news/2022070101302/)けど、リンク先にもあるとおり、中学生になると、先述の「御書」やなんやから出題される試験を受けることになる。
一般的な検定試験と同じで、初級~上級みたいな段階的な区分けがあって、当然上の試験程合格は難しいし、そもそも試験も年に1回きっちりあるといかそういうもんでもないらしいがよくわからない。
上級のほうになると、ある程度しっかりした活動してないと受験資格も得られないんじゃないだろうか。
ただ最初にうける、英検で言えば5級的な試験だけは、中学生になったらすぐ受けられるっぽくて、私も中学時代に受けた。
さっきも書いたけど、古文が好きで得意だったので、「御書」の勉強はシンプルにおもしろかった。夜にやってる勉強会も同世代が集まるから楽しかったし、普通に合格した。
でもそれ以降の試験は受けたことないし、受けろと言われたこともない。多分受験資格が発生してない。
高校のころは学会活動への興味はほぼ0になっていたので、文化会館でやる大きい会合だけ顔を出していた。
信教の自由であるとか、折伏や新聞啓蒙、選挙活動についての疑問についてまじめに、ナーバスに考えていたのはむしろ中学生のころで、高校ではもはやあまりそういうことに囚われなくなっていた。
やりたい人がやればいいし、やりたくない人はやらなくていいい、自分はあんまかかわりあいになりたくないかな、くらいの、ごくのシンプルなところに落ち着いてきた。
親は、そういう私の姿勢についてはじめのうちはいろいろと小言を言ってきていたけど、会話を重ねるうち「それも考え方だね」とむこうが折れた感じ。
高校生になると学区がかなり広くなり、生徒数も中学までとは比べ物にならないため、同級生の二世について「あの子学会なんやな…」と会館である大きい会合の場に来て出くわして互いに知ることになる。
けっこういるのにおどろいた。
多分あなたのまわりにもいっぱいいると思いますよ、私がそうであるように口にしないだけで。
学会員の間では、創価大学は超絶いい大学、東大にも負けない日本最高峰の大学! みたいな扱いなので、高校に進学してから偏差値的に全く大したことないのを知って驚いたというか拍子抜けした。
めちゃくちゃいい大学なら目指すのもありかなと思っていたけど、そうでもなかったので、最終的に滑り止めの一環として受験した。
活動自体はどうでもいいかなと思いつつ受験しているの……もうこれは、幼少期からの刷り込みとしか言えないと思う。
偏差値的に大したことなくても、学会員の間ではめっちゃほめてもらえるのもわかってたし…。
当日の試験も易しかったし、学費免除の枠で合格したが、魅力を感じてるわけではないので進学はしなかった。
同じクラスの、割と熱心な二世からは「せっかく合格したんだから行かない?」と最後まで説得されたが「すまん、京都行きたいわ!」ってことで断った。
親でもそんなこといってこないのに…とおもってちょっと引いた。
そんなわけで京都に進学したら、すぐ現地の会員の人が面会に来て、京都の会館(堀川にある立派なやつ)に連れていかれたし、同じ大学の先輩ともつながらせられた。
ちなみに大学には創価学会のサークルがあって普通に活動していた。
極左サークルとかはめっちゃ厳しく規制されてて、校内いたるところに掲示があったが、創価学会のサークルは普通に野放しになっていた。
どっちにしろ私は入らなかったし、学会員としても一切活動しなかった。会館に行ったのも最初の一度くらいだったかな。
この時つながらせられた大学の先輩、1回生前期のかなり早い段階で連絡を取らなくなり、名前も覚えていないのだけど、この人に勧められて宮本輝の『錦繍』を読み、最終章で身も世もなく泣きまくったのを覚えている。
山上徹也容疑者が使用したあの特徴ある自作銃ですが、あれとそっくりな手製銃を使用して、警官を射殺した人がソウルにおり(2016年)、その人は日本の右傾化を批判する本を2014年あたりに三冊も出版しているらしいのです。(第二次安倍政権2012-2020年)。主に竹島などへの対応を非難しているらしいのですが、だとしたら批判されているのは安倍首相でしょう。
韓国と日本に安倍首相を特別憎む人がいて、その二人はまったく同じタイプの自作銃で人を殺している。偶然かな?
参考:
美容でなく健康上の問題から体重を減らすのが急務となり、毎朝リングフィットとフィットボクシングやるようになってわかったことがある。
それは「腹筋割るのはすごくたいへん」という気づき、そしてそこからくる「腹筋割ってる人間は男女問わず全員セクシー」という真理だ。
腹筋割るのが大変ということは知識としてはわかっていた。しかしそれは「本物の理解」と呼ぶにはあまりにも貧しく薄っぺらい、「エビデンスに基づく認識」にすぎないものだった。
やってみて身に染みてわかる、腹の贅肉の落ちなさ。解剖学的事実に基づけば生まれつき割れているはずの己の腹筋、その上に積み重なっている皮下脂肪の、指先の沈む深さ柔らかさ即ち分厚さ。
最近やっと「そう言われてみれば、実は割れていると言えなくもない、かな?」くらいに陰影がつくようになってきたが、それでも叩けば目に見えて波打つこの腹の腹立たしさに比例して、既に割れている腹筋を誇る人々への畏敬の念が募っていく。
そもそも腹筋は皮下脂肪を落とさないと目立たせることができない筋肉で、脂肪というのは内臓脂肪の方が皮下脂肪より先に落ち、かつ腹部の脂肪は他の部位(腕・脚・胸・背中などなど)と比較して落ちづらい部類に入るという。
つまり腹筋が割れるほど鍛えていれば腹筋以外の部位も自然と引き締まるのは当然で、割れた腹筋とは努力と自己研鑽の象徴、トレーニングの厳しさ食事制限のつらさを乗り越えたあかし、身体を完成させる最後の1ピースにしてトロフィーに他ならない。
どうして今まで気づかなかったんだろう。腹筋割ってる人間は全員もうめっちゃ偉いし、割れた腹筋はもれなくセクシーだ。最近は広告のモデルさんとか直視できなくなってきた。
ああ腹筋割ってる男性と付き合いたい。ぜひお付き合いしてみたい。でも出会いがない。全然ない。
コロナで在宅勤務が板につき、リングくんの褒めとフィットボクシングトレーナーの実践性あふれる指導(「相手のアゴを狙って」「みぞおちをしっかり狙って」「(パンチを)真横から大きく打ちます」)の元に修行に励む身なので、もう腹筋以前の問題として人と会わなくなって久しい。ジムとかバーとか行かないし、電車も月に5回も乗らない。
そもそも私の好みの腹筋の持ち主ってどういうところで出会えるんだ。出会い系もといマッチングアプリか。でもアプリとかにそんなステキな腹筋の持ち主っていなくないか。
細かい話だが腹筋が「割れた」人じゃなく腹筋を「割った」人を求めているのだ。
腹筋を割った人、それは腹筋が割れるほどの負荷に耐えた人であり、その負荷のつらさを知る人、つらい負荷を乗り越えようとする意志を冷笑せず励ませる、必要とあらば手助けさえできる人だ。
自分で言っておいて思うが、そんな人アプリとかに居なくないか。だって誰でも好きだろそんな人。心清くて身体は美しく、おまけに腹筋は割れている。そんな人物をキライなやつおる? 絶対既にパートナーいるやつじゃん。
出会いを於いてもまだ問題はある。そもそも私がそんな腹筋の持ち主に釣り合わないということだ。体質と年齢の問題で当面の目標はBMI23くらいだが、今後5キロくらいは落とす必要がある。あと異性とお付き合いした経験に乏しくアピールポイントがあんま無い……一人暮らしだから家事はやるけど得意とは言えないし、かと言って主夫やってもらえるほどすごく稼いでるわけでもない……贅沢はさせてあげられない……
考えれば考えるほど凹んでしまうが、メンタル凹ませてる暇があったら腹を凹ます努力をしたい。いったんこの件は保留とし、持ち帰って検討させていただきます。腹筋割って待ってろ王子様。
何か原因はあるんだけど、言語化できない理由でそう言われる、ってのは厳しいもんがあるな。
知人じゃなくて、全く関係ない第三者のカウンセリングを受けてみる、っていう手はあると思う。
変な団体とつながりのないまともな専門となると、金かかってしまう所が多いけど、対価取って責任持って原因を探ってくれるクリニックのような所に頼るほうが、結果的には無難じゃないかな。
自分が他人からどう見えていてどんな印象与えてるかってのは、本当に自分だけじゃわからないから、状況改善したいなら多少しぶとく、複数の相手に聞き回っても一緒に原因探ってくれる他人を見つけることをオススメする。
参考や慰めになるかわからんが、俺の場合は「笑い方がキモい」ってのを、大学時に女の子に言われた。全く自覚がなかったんでショックだった。
「直したいので率直に教えてくれ。俺の性格に触れての指摘でもいい。一切反論はしない」って約束で、当時の友人に感想を徹底的に聞いた。まな板の上の鯉の心境だった。
どうも声を抑えて笑うのが癖になっていて、息を吸う際に高い声が漏れ聞こえていたサマが、他人からは浮いて「キモく見えていた」らしい。
遠因として、それまでの人生で感情を前面に出すことを咎められるシーンが幾度かあった、なんだかんだ他人との会話の経験値が低く緊張していた、って心理があったと自己分析している。この領域はたとえ親友や夫婦関係であっても踏み込むのは無礼に入るゾーンだと思うから、他人の証言を手がかりに自分でたどり着くしかない。
それ気をつけて、笑うときは声を出して開放的に振る舞うようにしてみると、談笑時に変な目で見られることも(たぶん)なくなったし、女とも普通に会話して付き合えるようになった。
その友人にも、元指摘のあった女の子にも、もう十年以上会ってないけど、重要な気づきを与えてくれたと感謝している。
そんで、「なぜ」の部分を掘り下げた結果、もうこれは自分に責がない話で、治すことはできない、って結論になったら、自分に合わない奴は割り切って人間関係整理していくのがいいんじゃないかな。っていうか、30過ぎると自動的にそんな感じになっていくと思う。
何か役立てばいいけど、立たなければ読み捨ててほしい。健闘を祈る。
自分は彼の政治信条に全く賛同しない。その影響もあるのだろうが彼の人間性の全てに否定的な感情を持っていた。彼の死を知ったときも正直に言えば多少の同情はあれど哀しみの感情は自分でも驚くほどに湧いてこなかった。
彼の首相在任中の支持率の高さが自分には意味不明に思えて、なんとなく彼の周りには利害関係だけで人が集まっているのだと思いこんでいた。利権に預かることのない世間の支持者たちも彼自身のことには興味なく自らの主義主張の権威付けのために支持しているのだと思い込んでいた。彼を利害関係無しに本当の意味で必要とする者愛する者などいない、彼は本当のところ孤独で惨めな存在なのだと信じて疑うことはなかった。
ところが昨日今日の報道を見ていると与野党問わず多くの政治家が、また多くの一般人が本気で彼の死を哀しんでいるようにみえた。彼は本当に人気者だったのか。目に映る世間と自分のズレに対する気づきへの心のざわつきにうまく対処できないでいる。
小説を書くとしたら、表題にあるタイトルを付けようと思っていた。
しかし、もはや40代となり、その可能性も無くなったので、ネットの海に投げ込むことにする。
それはあたかも、大事なものを空き瓶に入れ、大海に流すかのような気分だ。
内容は、自分の見るもの、読むものが、自分より年下の人間が関わるものばかりになっていることへの驚きを描くつもりだった。
例えば、憧れていたとあるスポーツの選手たちが、気づいたら自分より年下ばかりになっていた、その気づきを描きたいと思っていたのだった。
そして、その流れに抵抗しようとする中年たちの悪戦苦闘、それと失敗を描くつもりだった。
つまり、世の中の「物語」は若者と中年、どちらが支配するのかという世代間抗争を描き、
当時は若者側だった私は当然に、古い物語たる中年側の失敗を描くつもりだった。
小説を描く能力が無い以上に、中年側の失敗を描く勇気が無くなった。
自分が中年側になり、そんな自傷行為をする気が無くなったのだ。
これぐらいだろうという見積もりがたまたま当たったとしても単なる運でしかない
<電車と徒歩>
・電車の乗換はヤフーの方が精度が高いと思う。何番線のホームからどこ行きに乗るのかメモする
(全然違う場所に向かう電車が1つのホームに混在している駅もあって怖い)
・徒歩経路は一度ストリートビューで最初から最後まで辿ってみて見える風景を覚える
・駅内の経路も抑える。初めて行く駅は、駅の構内図を検索して、どういう風に歩けばいいのかイメージする
<家>
・予めカバンに入れて置けるものと、出発直前持ち出すもの(スマホとか)も種類分けする
・家の鍵とスイカは同じ入れ物に入れてるので、それを絶対に忘れたくないものと一緒に置いておく
(さすがに鍵を忘れて出発はしないから)
・できれば出発時間になる前に、一度出発する時と同じ装備で、靴を履いて家を出るようにすると
・天気予報と気温もチェックする