はてなキーワード: 結果的とは
今年初めから突如現れた新型コロナの脅威の中、大規模クラスター発生をきっかけに当初から何かと注目されてきたライブハウス業界で、長くなるが、今回は自分の身の回りで起こったことについて。
まずは自己紹介。筆者の私はコロナ以前から楽器奏者としてとあるバンドに参加していて、普段から自主イベントを企画したりなど、月に何度もライブ公演の予定が入っているような生活だった。
といってもメンバーは音楽で生計を立てているわけではなく、普段は自営業をやったり会社員をやったり自宅で庭を眺めていたりなど色々で(これは主に私)、基本的にはその合間での活動のため、一般的にはアマチュアバンドと呼ばれる存在になると思う。
コロナが蔓延し始めた3月にもライブの予定は入っており、それはコロナ前に企画されたイベントのため、会場代とライブチケットのバランスなどから狭い会場にキャパギリギリまで客を入れるというスシ詰め状態で計画されていたものであった。
イベントを開催するに当たって、広い会場への変更か人数制限、検温などなんらかの対策が必要なのではないかと、イベント主催者でバンドのリーダー格の人間に提案してみたのだが、なんと必要ないと突っぱねられ、他のメンバーも問題視せずに、そのまま開催されてしまったのだ。
1人でもコロナ陽性者が紛れ込んでいたらクラスター確定の今考えると恐ろしい状況であるが、クラスター発生以前の 3月時点では、ほとんどのライブハウスはそこまで対策が必要とは認識していなかったのだ。
3月を思い出してみてほしいが、公共空間でのマスク着用や、ドアノブのアルコール消毒など今では当たり前に行われていることも、品物入手がそもそも困難だったりなどもあるが、そこまで浸透していなく、それはおそらく音楽以外の他の業界でも似たり寄ったりであったであろうし、そこは後になって責めることはできないだろう。
ただ、何も有効な対策をしないまま、密な空間で来場者同士お酒を飲みながら至近距離で相互に喋るというコロナ前と変わらないスタイルのイベント開催が乱立していた3月〜4月の状況でのクラスター発生は不可避だったと言える。
その後の全国的なコロナ蔓延と緊急事態宣言、クラスター連続発生で、業界全体の危機感、空気感はかなり変わり、配信や少人数での観客を入れてのかなり気をつけて運営していく方向に変わっていった。
夜の街と一緒に何かと槍玉に挙げられ、聞いた話では楽器を持って電車に乗っているだけでコロナをばら撒いていると差別を受けたりなど、そういったこともあったよう。再びクラスターを起こさないために、感染症対策を万全な状態で運営しつつ、国に業界全体の補償が必要と訴えていくような運動も自然に起こっていった。
ただ同時期に、「国が不安を煽っていて実際コロナは大したことがない、本当は大したことはないことで自粛すると経済が死んでしまう」「インフルエンザの死者数の方がコロナより多いので恐れる必要はない 指定感染症か外すべき」などといった楽観論というよりかは陰謀論に近いような説に傾倒してしまう人も現れはじめ、なんと自分の所属しているバンドのリーダー格の人間もそういった説を支持するようになってしまったのだった。
対話を試みるにも、極端な考えに取りつかれてしまった人間との対話は困難であり、自然とそのバンドとは距離を置くようになってしまい、演奏活動にも参加しなくなっていった。
メンバーの一人から報告があり、先ほど書いたバンドのリーダー格の人間から当日熱があるのに、熱があったことは秘密にしてライブに出てくれないかと出演を説得され、不安を感じつつ迷ったが、当日熱が下がったこともあり出てしまった。
その後、しばらく経ってから別件で40度近く熱が出てPCR検査に回されたこともあり、やはり冷静になってあの時のあの対応は不味かったんじゃないかと思い始めたと。
あろうことかそのライブ企画とはライブハウスからの無観客配信とはいえ、ライブハウス支援プロジェクトという名目で行われる自主企画だったのだ。
もしコロナだった場合、客を入れての営業も配信ライブと並行して行われているそのライブハウスの店員にまず感染し、クラスターが起きる可能性も考えられるだろうし、そもそもライブハウス支援企画との名目で自主的に行われるイベントで、主催者側がルールを破るというありえない行為が行われてしまったのだ。
勿論知らされないでテロを決行されたライブハウス側や、他の出演者には落ち度は一切ないし、むしろ被害者であるだろう。
当時この件を表沙汰にするべきかどうかとても迷ったのだが、結果的に何もなかったこともあり、迷った末、今後こういうことが起きない抑止力にはなるだろうから、周りの親しい知人やイベント主催者などにのみ起こってしまった惨状を伝えることだけにとどめることにした。
その後、発熱者に出演強要を迫った本人に連絡し、一体どういうことかと問いただして見たところ、なんと「発熱者が会場にいても、マスクを付けていれば感染しない」専門家もそう言っていると、とあるウイルス学者の書いたネットに上がっている文章を引用して反論してきたのだった。
調べてみると、どうやらそのウイルス学者がいわゆる反自粛派と呼ばれる人たちの理論的根拠となっているようで、発言もよく掘り下げて調べてみると他にも、「老人はコロナにかかっても寿命で死ぬようなものなので、気にせず自粛しないでどんどん活動していけ」などちょっと考えられないことを言っている方で、そしてどうやらライブハウスの新型コロナ感染対策ガイドラインもそのウイルス学者の方が監修に関わっていることがわかり、ライブハウス関係者で反自粛と言われる考えに傾倒してしまう人間少なからずいることに関係しているのかもしれないと考え始めるようになった。
元から反自粛と呼ばれる考えの人が、このウイルス学者の発言を自分の考えの正当性の根拠に使ってるのか、有名大学の教授でウイルス学の専門家という肩書きなのでこの人の発言に妥当性があると本気で信じてしまっているのかは判断できないところがあるが、どちらにせよこのウイルス専門家の言っている「陽性者が隣にいてもマスクしてれば大丈夫」などの発言はまるで現実的とは思えない。そして結構支持している人が周りにいるのが、やばい。
それから数ヶ月、全体的にはかなり気をつけて運営している人が多いにしろ、とある地方で感染対策に不備がある大規模イベントが行われてしまったりと、そういった事例も目にするようになってしまった。なんとなく大丈夫という楽観論も増えてきているよう。
過去の最短記録は3か月。
急に叫びだしたりブツブツ言いだすやばいおっさんのセクハラとパワハラに耐え切れず試用期間で退職した。(仮にA社とする)
今回はそれより更に早い期間でやめた。
コロナの影響で仕事がなくなり、転職活動をしている最中に即日で採用されたところだった。
でもやめた。
もっと短い期間でやめた人なんていくらでもいるだろうけど、それでもさすがに一週間はやばいよなとも思ったけど、会社までの行きも帰りも勝手に涙が出てくるようになって、銃で頭を撃たれて即死したドラマのワンシーンを見て(いいなあ)と思ってしまった自分にショックを受けた。
胃痛や嘔吐、食欲不振などのよくある症状をはじめ、会社に行くと過呼吸気味になったり難聴になったのに幻聴が聞こえたりしだした。
持病もぶり返した。
A社は2か月くらいかけてじわじわ具合が悪くなっていったのに対し、今回の会社(仮にK社とする。クソのK)は体調不良の度合いが急降下すぎて自分でよく分からなかった。
母親に「顔色がどんどん悪くなっていったし、喋らなくも笑わなくもなっていた」とやめた後で教えてもらった。
思い返すと、初日に話したおっさんの喋り方がキモくてちょっとやだなあとか感じていたのに、もう採用決定ですみたいな体で話してくるから(もっと上の立場の人とかと会わなくていいのか。なんにせよ仕事決まりそうだやったねラッキー)なんて能天気に思っていたころに戻って引き止めたい。
会社は半分くらい家族経営で、社長の奥さんと息子も仕事に携わっていた。
息子はまだ手伝い程度だったが、社長と奥さんはその道ン10年のベテランだ。
仕事内容はちょっと変わっていて説明しづらいので割愛するが、競合他社が少ない感じの特殊なサービスの仕事だと思ってほしい。
ダメもとで応募したし、会社側も本当にただのど素人ということを分かったうえで採用した。
なんせ仕事の内容も何をするのかも、説明を読んだうえでよく分かっていないことを伝えている。
現に「何でも聞いて下さい。何回でも教えます」と社長に言われたし。
結果的には教えてくれなかったが。
A社もそんな感じだった。
そちらは使うツールが専門的で、私はその初歩の初歩に立っているちょっと齧っただけの初心者だった。
A社のやばいおっさんも、K社のキモいおっさんも、最初はナリをひそめていた。
日がたつにつれて怒鳴り散らすことが増えていった。
もし読んでくれている人がいたら、私が素人で何もわからないし仕事もできなかったんだろうと思われるだろう。
なけなしの名誉のためにいっておくと、私は仕事に慣れることに関しては早い方だと自負している。
自分で真面目という人間ほど信用に値しないものはないだろうが、そこはなんとか信じてほしい。
学生時代のバイト先でも、A社に入る前に転々とした派遣先でも、「覚えるのが早いしちゃんとしている。昔やってた?」などよく言われた。
初めてやる仕事でもそんな感じだった。
ついでに生真面目すぎて損な性格とも言われた。
なのでA社やK社でこんなに怒鳴られるということは自分の知識が足りないんだと思って勉強もした。
しかし専門的過ぎて広大なネットの海でもなかなか資料が見つけられなかった。
でも心配はしていなかった。
何でも聞いていいと言われていたし、何でも聞いた。
もちろん仕事に関することで且つ専門的な知識が必要なことをメインに、そもそもこれは何に使う道具なのかとか、それを使って何をするのかということを聞いた。
返ってきた答えは「自分で考えろ」だった。
は?である。
というか、仕事の内容からして専門の会社があると思わなかったので、当然分からない。
考えるスタートラインにすら立てない。
マニュアルなどない。
しかし私は真面目なので、自分でできる限り考え、やっているところを見ながら「こうでいいですか?これで合っていますか?」と確認しつつ見様見真似で作業をした。
合っているとも間違っているとも言われず睨みつけられただけだった。
ど素人の私がベテランの社長と同じようになど到底出来るわけがない。
教えてもらえないのに失敗して私のせいにされるのは納得いかない。
なんとか食い下がって「合っているか確認してもらっていいですか」と聞いた時の答えは「黙って作業しろ」だった。
どちらかといえば太めな私だが、社長はそんな私が3人ほど入りそうな体積をしている。
その体から発せられる怒声は、とてもドスが効いていてよく響いた。
勤務3日目にしてこのざまだ。
退勤時にはどんより落ち込んでいた。
夕飯は喉を通らなかった。
社員の人がミスをカバーしてくれても、当然といったような顔をしていた。
私は社長に腹を立てるようになった。
「奥さんに聞いて」と言われたので探して聞くと「社長に聞いて」と言われる。
上には書いてないが、この4日目までにもこんなやり取りは多々あった。
二人の間をたらいまわしにされた挙句、二人とも分からず何故か私が怒鳴られるのである。
仕事をしないと当然怒られるだろうが、仕事をしても怒鳴られるのだ。
急にやる気がガクッと無くなった。
しかしその人も忙しいので途中で聞くことが出来なくなり、終業時間間近の頃には私はエクセルの表の同じ列を入力しては消し入力しては消し、仕事のふりをひたすらにしていた。
社長と奥さんはパソコンに疎いらしく、私がそんなことをしていても全く気付いていなかった。
土日をはさみ5日目もまた、仕事をしても怒鳴られる状態だった。
聞いても教えてくれない。
せめて説明書とか過去のデータとかがあればと思い聞くと怒号が飛ぶ。
なのにさも出来ないお前が悪いといわんばかりに簡単な作業を任されて、言われたとおりにやったのにわけのわからないことでまた怒鳴られる。
私には30分も休憩をとらせてくれないのに、社長と奥さんと息子はたっぷり1時間強休憩をとる。
いない間に荷物をまとめて帰ってやろうかと思った。
その後6日目の帰りにやめたいというつもりがビビって言えず、結局7日目の帰りになんとか伝えると次の日から来なくていいと言われ追い出された。
さて、ここまで長々と書いてみたがこの会社なんと契約書の類を一切私に寄越していない。
なので諸々に確認を取ったうえで勤めていた1週間の賃金や交通費を請求した。
もうとっくに書面は届いているはずで入金期限も近づいているのだが、今のところ何も音沙汰はない。
このまま動きがなければ労基にかけこむ手筈だ。
締め方もよく分からなくなってしまったが、極端に従業人数が少ないとか契約書を最初に渡さない会社は気を付けた方がいいことを知った。
それから1週間だろうが半日だろうが1時間だろうが、働いた分はしっかり賃金として支払う義務が会社にはあるそうだ。
更に権利者(請求する側)が請求すると、被請求者は7日以内の支払い義務が生じるとのこと。
もし短期間でやめたいと思って困っている人がいたら、この知識が何かの役に立てたら嬉しい。
クソみたいないい加減な会社ですねと言ってくれた役所の人本当にありがとう。
スッキリした。
全部金として測ろうとするから、起きるかわからない危機、生まれるかわからない技術としての産業について無視する。
更にいうと、金の循環についても事実上無視する。だから、金を貯め込む平均消費性向以下の富裕層や、資金余剰局面の企業をバカバカフリーハンドで減税して景気を落とす。
ケインズ主義としての資本主義は、資金調達しての支出(投資)と、収入のうち消費に回る比率(消費性向)に着目して、資金調達しての支出を初項、消費性向を公比とした等比数列の和と言うことを示した。
そして、資金調達しての支出って何かというと、まだ見えないものを金をかけて対策するということだ。政府であれば、まだ起きてない災害、疫病蔓延、困窮者の救済、企業が何に使えるかわからない段階の科学の探求。
企業であれば、まだ完成していない新しい商品に対する技術の検討、量産のための設備。
資金循環上、資金調達しての支出を意識しないと経済は説明できないからの副産物だったが、結果的には、資金調達して、まだ見えないものに金を出すということをしていたのがケインズ主義としての資本主義。故に1990年まで日本は強かった。
この「まだ見えない段階のものに金を出す」というのこそどれぐらい出すべきか、他のものと比べてどうかと比較するかが難しい。
しかしそんなのもの無視するという新自由主義としての資本主義が故にコロナに対しても十分な力を発揮することなく、現場の医者、看護師が頑張ればいいと無理強いするだけ。
まあ、無理強いして結果回れば新自由主義としての資本主義としては成功なんだろうけど、人不足で人がこないどころか、現職者がやめたりコロナに感染してさらに状況が悪くなる。
もっというなら、増田主は公立校を経て東大へ行った男性のようだけど、じゃあ増田主はその様々な出自の人が自分の見えないところで受けていた差別なり抑圧なりを認識していたのか?それを社会問題として実感しているのか?というと、文章からはあまりそれは感じられない。むしろ、「男性に多く払わせようとする」みたいな議論を持ってきてそいつらはニセモノのフェミニストと断じようとするあたり、この増田主は構造的な問題を理解しないまま偏見を保持しているように思われる。これは結局、上で述べた「公立校に行ったからといって差別を認識、是正できるとは限らない」のわかりやすい証左に増田主がなっているということではないだろうか。
「差別」という言葉が一体何を指しているのか、共通認識として厳密に定義しないまま対話や議論を重ねるとほぼ破綻する。差別に限った話でもないけど。いわゆる過激な差別・反差別主義者相手だと一対一でもおそらく難しいし、不特定多数相手のネット・SNSだとますます不可能だろう。それでも自分の中での「差別」に対する認識の再確認の意味も込めてきちんと考えておきたい。
まず「差別」は
・差別行動
に分けられる。
差別感情は内心の自由によって守られる。思ったり感じるだけなら自由だ。
差別行動はそれが法に抵触するならば法的に許されないし、道義的に間違っている(と他者・大衆が判断した)なら炎上する。
差別感情が理由で差別行動をするとは限らないし、結果としての差別行動に差別感情が伴うとも限らない。つまり両者の因果関係を完璧に判定することは不可能であり、法もそれに基づいて判断している(と思う)。
例:ある人が家族を人質に取られて「〇〇人はしね!と叫びながら〇〇人をころしてこい」と言われて実行したらその人の行動と〇〇人への差別感情は関係ない
が、この「差別感情と差別行動の因果関係は見えない」ということを理解できない人たちが一定数いて、理解できる人との間に軋轢が生まれる。さらに差別感情そのものを持ってはいけないという人までいる。特に自分の中の差別感情を認められず劣等感を持っている人は防衛機制として差別行動をしている(ように見える)他者に自分の差別感情を投影し批判している場合が多い。防衛機制ゆえに自覚的では無いので対話を重ねても理解を得るのは難しいだろう。
次に「差別行動」は
・積極的差別行動
に分けられる。
差別対象を避けたり、関わらないようにするのが消極的差別行動。
差別対象を物理的・心理的に攻撃したり排除するのが積極的差別行動。
後者はこれぞ差別という感じだが、問題は前者である。これは法に抵触しない。差別対象には何もしていないからだ(未必の故意は除く)。道義的にも、議論は分かれるだろうが問題ない場合も多いだろう。だが少数の差別対象に複数の個人がこれを行った場合、差別対象やそれを見た第三者が「差別が起きている」と感じる場合がある。別にいじめられてるわけではないけどハイ二人組み作ってーで毎回余る、みたいなものだ。
いわゆる「日本の差別」はこの「複数の個人による消極的差別行動」に当たる場合が多いのではなかろうか。対象を認識したときに差別感情は起きるかもしれないが、積極的差別行動にまでは出ず、見て見ぬ振りをしたり離れたりする。そしてその対象とは単に「見知らぬ人」「見慣れぬ人」などである。それが結果的に被差別者からすれば「自分は〇〇だから差別されている」という認識になるのではないだろうか。これは対話によって解消できる余地がある。実際地域に馴染んでいる「元・見慣れぬ人」たちも大勢いるはずだ。だが対話する前に「差別が起きた!差別だ!この人たちは差別してます!」と声を上げてしまう人もいる。その中には積極的差別の結果として排除されている人もいるだろう。だが結果として似た行動でも意図や理由が異なっている可能性があるものを十把一絡げに批判されたらそんな気がなかった側が「一緒にしないで欲しい」と思ってしまうのも道理ではなかろうか。
誰にだって差別感情はある。ネガティブだろうがポジティブだろうが感情の発生は止められないからだ。自分の中のそれをできるだけ分析して制御したうえで行動に移していきたいと思う。感情と論理の共存だ。
これな。
自分なりの解釈をがんばってできるだけわかりやすく論じてみる。
・はじめに
ここでいう差別は、差別問題とは異なり、あくまで差別そのものを指します。
問題にならなければ差別を容認するというわけではなく、問題に至る前の差別そのものの是非について論ずることが目的です。
・差別とは何か
公立中学を動物園だと言った人を差別主義だとする根拠は、自分の経験だけでまるですべてがそうであるように表現したことにあります。
それならば、その人の中にあるその一意見をもとにして、その人すべてを差別主義だと決めつけることも、やっぱりそれは差別的だと言わざるを得ません。
「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを決定づけること」
白人全てが黒人差別をしていないのと同じ様に、一人の個人の中だけでも、差別主義的な意見とそうではない意見が存在しえます。
それを無視して、一つの(もしくはいくつかの)意見をもとに、その人を差別主義だと決めつける行為は、やはり差別的だと言わざるを得ないわけです。
残念ながら、日本ではまだこの違いを理解している人は少なく、結果的に、日本人はまだ差別意識に対して未熟だと言わざるを得ません。
それではこの筆者も同じ様に差別主義ではないかと思うかもしれません。
そうした意見を、それは差別的だと指摘・議論することは、差別主義ではありません。
もしわたしがここで、だから日本人は差別主義だと結論づけたのであれば、筆者は差別主義だと言えるでしょう。
そうではなく、あくまで問題の一点を指摘した上で、傾向を論ずることは差別主義でも何でもないのです。
それに対し、「あなたは差別主義だ!けしからん!」と返していても、この議論が一生前に進むことはありません。
公立中学が動物園と表明する自由はあり、そして、その意見が間違っていると指摘する自由もあります。
だからといって公立中学が動物園だと表明した人を差別主義だと批判することは、自分自身も差別的な行為をしているにすぎないというわけです。
しかし、このすれ違いこそが、差別問題の解決を困難にする一番の要因であるとも言えます。
なぜなら、差別主義を批判している側からしてみれば、自分自身に差別の自覚がないからです。
ナイキのCMに対して、ナイキが行ったことは、一部でそうした差別が存在したかもしれないことの示唆です。(そしてそれには多くの経験者による賛同を得ました。)
この時点でナイキは、だから日本人は差別主義だとは決して結論づけていません。
それに対し、「日本人を差別主義だと決めつけるとは何事だ!」と反論しても、そもそも議論が噛み合うわけもありません。
紐解いてみれば、一部の日本人が、ナイキに対して「ナイキは日本人を差別主義だと決めつける企業だ」という差別意識を表明しているにすぎないわけです。
もしここで正しく抗議をするのであれば、ナイキという企業に不買運動を働きかけるのではなく、CMで使われた映像の事実確認を行い、問題があれば是正、なければ意見に対して抗議をするのが本来のあり方と言えます。
かと言って、そのコメントを残した人自身を差別主義だと決めつけることは、やはり同じく差別主義的行為だということに変わりはありません。
そしてこのロジックは、いじめ問題の根本的原因であるいじめが発生するメカニズムにも共通しています。
特定の個人が何かしらのやらかしをしたとき、そのやらかしをもとにその個人そのものに対する攻撃が始まるメカニズムです。
ここで最初に立ち返れば、本来であれば是非を問われるべきはその行為そのものであり、その個人ではありません。
その行為に対し是非が問われ、それをもとに改善が行われるべきであって、行為の是非を個人の是非にするべきではないのです。
それを無視して、それが個人への攻撃を正当化するための理由として用いられてしまえば、まさにいじめ発生のメカニズムそのものと言えます。
つまり、ナイキに対してみんなで不買運動をしようと持ちかけることは、まさに、差別問題を棚上げにした消費者によるナイキという企業に対するいじめを持ちかけようとしていた状況に他ならないわけです。
こう考えれば、問題を問われるべきがどちらなのか、火を見るよりも明らかなのではないでしょうか。
しかし、悲しいかな、日本の教育現場では、このいじめの芽を積極的に取り除く取り組みが行われていないのが現実です。
差別とは何かを定義づけるとしたら、以下の通りであると宣言しました。
「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを決定づけること」
ならば、差別問題をなくすために個人個人が取り組むべきことは、以下の通りです。
「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを「いつまでも」決定づけないこと」
例えば、大坂なおみを見た目で個人を決めつけようとすることも、国籍や名前にしばりつけようとすることも、どちらも彼女個人を無視した差別主義的な考え方でしかないのです。
そうした情報にとらわれず、彼女の意見、一挙手一投足を見て、彼女がそういう存在なのだと受け入れることこそが、差別意識のない姿といえるのではないでしょうか。
ここで忘れてはいけないことは、個人の好き嫌いは最後まで個人の自由であり権利であるということです。
彼女の様々な側面を見た上で、好きとも嫌いとも表明することは自由であり、誰が侵害してよいものでもありません。
しかし、それをもって彼女が正しいか間違っているかは別です。彼女の存在そのものの是非を問うなんてもってのほかです。
今後一層のグローバル化が進んでいく時代、もはやこれは義務教育レベルで教育すべき内容であると、個人的には考えています。
お互いがお互いのありのままの姿を受け入れあうこと。
・淘汰と勝者
そうです。
お気付きの通り、差別意識をもって生きることも、自由であり当然許された権利でなくてはいけません。
いわばこれは反差別主義による差別主義に対する宣戦布告にすぎません。
そしてこれが、在日韓国人として日本に生まれ、数々の差別に身を持ってさらされてきた自分が、国籍や境遇を越えて差別主義を滅ぼすべくたどり着いた結論です。
さぁ、生き残りをかけた戦争を始めようじゃありませんか。
少し前の話だし、同じような話を既に散々してる人もいると思うけど、思った話なので書く。
2020年11月中頃、スパコン「富岳」が二期連続の世界一を達成した。そこで思い返されるのは、「2位じゃダメなんでしょうか?」という蓮舫議員の発言であった。この喜ばしいニュースに対して、「2位じゃダメなんです」といったものや、「今振り返ってみても、恥ずべき発言であった」などの意見が相次いだ。
民主党政権当時、事業仕分けの名のもとに様々な研究開発予算が削られることとなった。例えば、iPS細胞の研究費150億円は、事業仕分けによって3分の1に減らされる危機に瀕し、危機感を感じた山中教授は趣味のマラソン大会を通じてカンパを募るほどだった。そして、当時研究開発が行われていたスパコン「京」の研究開発においても例外ではなかった。
そんな渦中に飛び出した「2位じゃダメなんですか?」の発言。批判が多いこの発言の本意とは何だったのかを今一度おさらいしたい。
当時の事業仕分けの議論に実際に立ち会った人物が、その時の流れを解説している記事がある。少し長い文章であるが、引用したい。
○2社の撤退によって大きくハードが変更になった中で、ソフト開発を同時に行う意味があるのか。
○スピードだけを求めるのではなく大事なのは利用者(研究者)の使いやすさ。例えば、1台のスパコンに10ペタを搭載するよりも、1ペタのスパコンを10台作って実際に利用する全国の若手研究者のいるところに置くなどの考え方もあるのではないか。10ペタのスパコンを開発すること自体が目的化していないか。
○10ペタのスパコンに対する産業界のニーズが本当にあるのか。
○アメリカが2012年までに10ペタのものを作ろうとしている中で、仮に一度日本のスパコンが世界最速になったとしてもいつまで世界一でいられるのか。
○「サイエンス」には費用対効果がなじまないことは理解するが、1000億円以上もの税金が投入されることの成果がまったく見えてこない点は、改善すべきではないか。
このような議論の過程で、蓮舫議員から「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 二位じゃだめなんでしょうか?」という言葉が出た。
要するに、スピードが世界一になったところで利用者の使い勝手が悪ければ使われない、しかもすぐに抜かれるだろうという予測もある、なぜそれなのにスピードばかりにこだわるのか?という趣旨だった。
『スパコン「京」の運用終了。「2位じゃダメなんですか?」は何だったのかを改めて整理する』-https://news.yahoo.co.jp/byline/itoshin/20190909-00141136/
つまり蓮舫議員の発言の本意は、「1位でも役に立たないスパコンを作るくらいなら、2位でも役立つスパコンを開発すべきだ」というものだったのである。
そして、富岳は「世界1位をもぎ取るための圧倒的なスピード」ではなく、「使いやすさ」を重視した設計思想で開発された。
後継機「富岳(ふがく)」の開発に携わる理化学研究所計算科学研究センター長の松岡聡さん(56)は、京の足跡に敬意を表しつつ「富岳(の演算速度)は世界2位でも全然かまわない」と話す。
ーー(中略)ーー
一方、松岡さんは「特殊なソフトでしか動かせないなど汎用性(はんようせい)に乏しく、商業的に京が成功したとはいえない」とみる。富岳では、世界的に普及するマイクロソフト社製の文書作成ソフト「ワード」でさえ動かせる汎用性を重視。性能は京の最大100倍を目指すが、それ以上に、富岳用に開発した技術が広く社会に普及することを重視しているという。
松岡さんは「世界ランキングは、結果的に1位を取るかもしれないが、われわれは気にしていない」とし、「国民の関心が高い医療や防災、産業、エネルギーなどの分野で成果を挙げることを重要な目標にしている」と話す。
『スパコン「京」電源ダウンへ 後継「富岳」使いやすさ重視』-https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201908/0012646505.shtml
つまり何が言いたいかと言うと、富岳は蓮舫議員の発言の本意と全く同じ理念で開発されたスパコンであり、蓮舫議員の発言は全く間違っていなかったのだ。演算速度世界1位を優先した結果、「京」の汎用性には問題があったし、使いやすさを重視して開発された「富岳」は、演算速度が早いだけではなく、様々な分野での活躍が期待されている。
そして、蓮舫議員の発言に対する、批判とも言えないようなお粗末な意見は、まったく物事の芯を捉えていないことは明白である。「蓮舫さんww、やっぱり1位じゃなきゃダメなんですよwwwww」などという発言は、非常に短絡的でブッ飛んだ発言なのだ。
少し調べれば分かるような事実すら知ろうともしないで、適当に何かを褒め称え、何かを叩き、悦に浸る。そこには何の知的活動も存在せず、あるのは「自分が気持ちよくなりたい」という欲望だけ。昔のドラマに「好奇心や、探究心のない人間は人間じゃありません。猿以下です。」というセリフがあったが、まさにその通りかもしれない。
そして、忘れてはならないことがある。それは、日本という我らの国を、誰が動かしているのかということだ。
政治家や官僚が国を動かしていると思われがちであるが、それは全くの間違いだ。民主主義国家である日本において、本質的には、日本という国のハンドルは日本国民が握っている。
そして、そのハンドルが人間の手から、猿以下の存在に渡ってしまう危機を、この出来事は暗に示している。政治の動向や議論の内容を全く理解できない国民は信じられないほど多く、その連中が政治に積極的に介入したらどうなるのか。
もし、そうなったら日本という国は、中長期的な利益や、少し考えれば分かるような事実やリスクを鑑みず、「国民の欲望を短期的に満たしてくれるかどうか」のみを判断基準にして突き進もうとする国になってしまう。日本が誇る技術や文化は全て消えさり、過去の栄光にすがるだけの悲惨な国になってしまう。もしくは、ナチス・ドイツのような悲惨な結末を辿るようになるのだろうか。
猿以下の存在が大船のハンドルを回す日は、もうすぐそこに迫っている。もしかしたら、もう既にそうなっているかもしれない。
...いい加減目覚めなさい。
いや、なんとしても目覚めなければならない。もし、辛く苦しい暮らしではなく、心から素晴らしいと思える暮らしををしたいと思うのなら。自分の親族や、孫やひ孫、そのまた更に遠い世代の事を想うのなら。そして、日本という国が大好きで、もっとこの国をより良くしたいと願うならば。
本当に目覚めなければならない。
自分の場合は両親も自分も小学6年生の8月か9月ぐらいまではそんな世界があるとすら知らなくて
元はというと小学校の成績表がどんどん落ちてったんでヤバイと親があわてて適当な塾に放り込んだらそこが進学塾だったという
それで妙に試験結果が良くなっちゃって3カ月ぐらいで一番下のコースから進学コースに上がっちゃって
いつの間にか中学受験することになって気が付いたら合格してしまって
たまたま親が進学に金出せるぐらいは稼いでくれてたのが生まれた環境の違いといえば環境の違いなんだろうけど
なお大学受験で浪人するまで勉強したことなかったので勉強の方法身に付かなかった
親も勉強したことなくて一夜漬けだけでだいたいどうにかなったと言って勉強のやりかたなんて教えてくれなかった
そんなんでも偏差値60ぐらいの学校は受かったし勉強なんてそんなもんだと思った
今となっては後悔してます
さておき中学で私立に行った結果、地元のヤバイとこで有名な中学校には行かないで済んだことになった
もともと通ってた小学校の段階で学級崩壊で先生が管理放棄してたんでその進学先は推して知るべきなんだけども
その行くはずだった中学で教師が生徒に虐められて失踪したと新聞記事になったのを見たのが中学2年か3年のとき
結果的に親は中学受験は子の危機回避に使えると学習し、自分の下の二人は私立中学進学前提になった
進学先でイジメ行為がなかったかというと実はあったんだけども、自分の場合はマイルドな程度に収まったと思う
(殴る蹴るはなく、筆箱に弁当の中身を入れられるとかそういうぐらい。小学校だとイジリと直接暴力とカツアゲだった)
そんな感じなので中学受験イコール学歴というイメージが全然なくて済まん
そんなドア砲でも読み書きはできるからヤンチャやったあと他に仕事なくてドカチンやって親方にツルハシで殴られて道路掘って埋めて高速道路作ったりしてたんだから最低限の教育として成立してて日本の教育水準って結果的に凄かったってことなんだろうな
今のことは知らん。
なんて偉そうなタイトルだが、元増田家は正直あまりちゃんとやっていなかった。
皮肉にもコロナウイルスの流行後に、嫁がとあるアウトドアブランドを給付金で買ったことから、
環境問題に興味を持ち始めた。
結果的に我が家ではちゃんと分別しようということになり(その位しかやることがない)、まだ数か月だが今の所きちんと分別している。
自分達が住んでいる都市は焼却で、最終処分場(埋め立て地のこと。この存在も知らなかった)に行く前に中間施設?という所で焼却、粉砕して、
最終処分場へ運ばれているようだ。
きちんと分別されていればリサイクルされる物が、分別されていないと埋め立て地行きになるらしい。
とはいえ夫婦共にそんなに熱心ではないので、たまにビニール袋もらうし、たまに分別が完璧ではない所がある。
これは思い返すと心に余裕が無い時だった。
嫁と話していて思ったのが、全然余裕が無い(経済的だったり、仕事のことだったり、家庭のこと等)人が、
そんなこと考えている余裕や暇も無いのでは?と思う。
自分達が正にそうだ。きっかけがあって考えるようにはなったが、完璧に実践できているかと言われたら大分あやしい。
仕事や育児に追われる中でゴミをきちんと分別するのは「ストレス」でしかない時がある。
可視化できて数値にされれば取り組む人もいるのかな?とか色々考えるが、
という話を嫁以外にできる人がいないので増田に垂れ流す。
はっきり言って外出自粛要請を出せばなんとかなると思ってる人々は、本当に馬鹿なんだろう。
とはいえ何もしないよりかは要請を出した方がまだ『マシ』だとは思うけれど、結局『マシ』レベルなのであって、本当に、国が、国民が、コロナ収束を本気で望むのであるならば、正直に言って選択肢としてはロックダウンしか無いだろう。
しかし、強制力を有する都市封鎖を行うとなると、おそらくゆるふわサヨクの人々が、補償だの人権だの色々と現実について何も考えずに、ただ批判のためだけにいちゃもんをつけてくるだろうから、もう正直どうにもできないだろう。
この国の国民は馬鹿が大多数なんだから、本当に日本を良くしたいと思っている人々は、こんな強制力もない要請なんて誰も従わないという現実にちゃんと向き合った方がいい。
僕は基本的には安倍政権に関してはあまり支持しない考えではあるが、ここ1ヶ月の人々の動きやグズグズした状況を見ていて、当時、アベノマスクやコロナ対応の後手後手感、コロナ対策における議論不足感は否めないが、コロナを有事だと結果的に判断し、国難として先陣を切って国が責任を持って緊急事態宣言を出したことに関しては、きちんと評価されるべきだと思っている。
ではGoToはどう思ってるんだと言われるかもしれないが、個人的に経済立て直しは必須であるから基本的には賛成派ではあるが、ちゃんと状況を判断しながら、止めるときは止めるという運用しないと駄目だと思うし、トラベルやイートだけではなく、もっと身近な普段の買い物にも適用できるような制度もあったほうが良かったのでは?と思っている。
ただ、もうこの国や国民はどうしようもないんだから、マスク着用はエチケットとして必須だけれど、外出自粛要請なんて無視して、みんなコロナ前のように、今まで通り生活したほうが、気持ち的には楽になるよ。
中学受験のメリット・デメリットは色々な所で論じられているが、記名ではなかなか書けない部分をちょっと書きたいと思う。
よく言われるメリットは、中高一貫校で高校受験がないために自分の興味に集中出来るであるとか、自由な校風が主体性を伸ばすであるとか、そういったものだと思う。自分も間違いなく大きなメリットだと思う。
また、小学校の時に行う中学受験の訓練は、それがすなわちロジカル・シンキングに結びついており、大人が必要としている思考ツールの練習になるという指摘もその通りだろう。卒業後の縦横の繋がりも深い学校が多い。
中学受験を経験し、難関校の入学を達成した時点で、その後の人生において大きなアドバンテージを得ているのだ。ここまででも十分に立派なメリットである。
しかしそれ以上がある。それは、家庭の選抜である。中学受験に十分な投資するような家庭で育った子どもたちは、家庭全体としてある程度優秀であることが保証されており、教育に対する理解も深い。そういう家庭で育った子供が集まる、ということが非常に大きなメリットだ。
公立で地毛であっても黒髪に染めさせた、みたいなニュースが話題になっているが、先生の立場にたてば理解出来る。ろくでもない大量の生徒をしっかり教育するには、管理教育にせざるを得ない。枠をつくり、そこから外れた人だけを注意するやり方でないと、限られたリソースで対応していられない。ペアレントにモンスターもいて気をつかう。生徒の個性なんてものに気を配る余裕なんてない。型にはめるしかない。
これが中学受験により入学者がフィルタリングされた学校であれば、家庭がしつけをしっかりしていることをある程度前提に出来るので、自由な校風が実現出来たり、生徒の個性を伸ばしたり、いじめを取り締まったり、そういうことに先生(それも高給で優秀な話の通じる先生たちだ)のリソースを割くことが出来るようになる。
一泊 10 万円のホテルであったり、家賃 100 万円の家であったり、ファーストクラスであったり、そういうところを選ぶ人は「そこに来る人がフィルタリングされている」というのが大きなモチベーションになっていることが多い。ホテルでは朝食で部屋番号のチェックすらされないし、バイキングでパックに詰めるような人はまずこない。マンションでも最低家賃が 50 万円あたりを超えるとご近所トラブルなどまず聞かない。ファーストクラスでマスクを着ける着けないなどということを言う人はまずいない(ファーストクラスだけはアップグレード等で変人がくる可能性がすこし高いが)。
中学受験もそういう側面があるが、この場合のフィルタリングは「教育に価値を置いている家庭の優秀な子供が集まる」という点が素晴らしく、「金持ちの子供」よりよほど良いフィルタリングである(結果的にやはりお金持ちが集まる側面はあるが、生活に困窮しながらも子供を中高一貫校に送るご家庭も多い)。結果として自由な校風で個性が伸び、進路に関しても最新の情報が手に入り(数年前から学部からの留学が流行っているなど)、縦横のつながりにより卒業後もアドバンテージを持った人生が歩めるシステムがあるのだ。
入ってくる子供がフィルタリングされている。それが中学受験の、あまり表で書けない大きなメリットであり、その前提があるから他の校風やら個性やらの話が生まれてくるのだと思っている。受験のない環境において同じ教育を与えることは、残念ながら原理的に不可能だ。
結果的に一生独身だった人の多くは特にそんな「決断」をした訳じゃなくて
相手が見つからないから仕方なく一生独身だったって人が殆どだろうし
「秋元康案件ばっかりかよ!」と言われるかもしれないけど、結果的にはこうなってしまった。
自分が見つけきれていない曲やMVもあると思うので、個人的な推しで良いので(そもそもそういう企画だ)教えてくれると嬉しい(意外と年末のこの時期に発表された曲も多くて追いかけきれない)。
部門はさらに追加するかも(細かく部門を追加すると各グループ1曲ずつは選びそうなのでとりあえず厳選してみた)。
【企画賞】
「世界中の隣人よ」
コロナ禍の重い空気の中でアーティストがメッセージや楽曲を発信する特別企画は沢山あったが「現役メンバーだけでなく一部卒業メンバーも歌唱および映像参加」という特別感はアイドル企画の中でも群を抜いていた。
「各自が自宅で素材を撮影」という要素も含めて、この状況だからこそ生まれた奇跡。
【タイアップ賞】
タイアップ前提の楽曲は、基本的にタイアップする企業や商品のメッセージが優先され、アーティストサイドの色や個性は薄れがちであるが、本作はFPSゲームとのタイアップで、結果としてタイアップのイメージを最大限に尊重しつつ、最近のBiSH楽曲の中ではもっともBiSHらしさが出たのでは、と思える傑作。
【MV賞】
日向坂46
「アザトカワイイ」
楽曲のコンセプトだけを考えれば、MV冒頭や随所で挿入されるシリアスな表情(笑顔ではない)のシーンは一見不要なようにも思えるが、日向坂46がひらがなけやき(けやき坂46)だった時代の楽曲「期待していない自分」のMVでは笑顔を封印したシリアスな表情だったこととの対比、その時以来、久しぶりに(日向坂46としては初めて)佐々木美玲がセンター復帰という物語として捉えると、エモい。
MVの制作チームは違うので、狙ったものかどうか真相は不明だが、その物語を連想させた時点で勝ちである。
【大賞】
「君のことをまだ何にも知らない」
発表やライブ披露は2019年末から行われていたが、発売は2020年1月なので2020年にノミネート。
今年これを超える女性アイドル曲は出てくるのだろうか……とずっと思ったまま、結局1年が経過してしまった。
番組内での楽曲の仮歌による音源発表時にNGT48の中井りかが悔しがっていたように、アイドル曲としてあまりにも完成度が高すぎて嫉妬したアイドルや「推しのアイドルグループにほしい!」と思ったアイドルファンも多いのではないだろうか。
青春時代のせつない片思いの物語を描く歌詞だけでなく、それを支えるせつなさ全開のメロディ、ただせつないだけでなく、イントロやサビ前、コーラス(ボイス)など、随所にライブでの盛り上がりを期待させるアイドル曲らしい味付けが丁寧に加えられている。
さらにラストの落ちサビからラストサビは、メロディの盛り上がりと共に楽曲の中の物語の進展を連想させる仕掛けになっており、最後まで完璧。
いわゆるアイドル曲としてはベタ中のベタだが、丁寧な仕事をするとベタも傑作になるという良い見本だと思う。
しかし、青春高校3年C組、テレビ東京ローカルからスタートした番組企画ゆえか(現在は5局ネット)、MV含めたYouTubeの再生数が他のメジャーアイドルと比較すると明らかに少ない。
元来起業なんてもんは理由があってとか続けていくために結果的になったとかそういうもんであって
タイトルのような思想というか、考え方の本でおすすめがあったら教えてほしい。
なんて言えばいいんだろう・・・。
洋服とか機械とかあらゆるもので、すぐに新しい物を買うのではなくて今あるものを大切に使ったり、直して使ったりするのが好き。自分で作ってみようという考えも好き。昔のものも好き。
今風に言えばサステイナブルとかSDGsとか?地球環境がーーーとか言うつもりはないけど、結果的に地球に優しかったらいいよね。企業だとアウトドアメーカーのパタゴニアがぱっと思い浮かぶ。パタゴニアのworn wear てのはまさに自分の思考にマッチしている。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。