2020-12-11

公立中学動物園だと言う人を差別的だとすることもまた差別

これな。

差別問題を語る上で、この違いを理解できてない人が多すぎ。

自分なりの解釈をがんばってできるだけわかりやすく論じてみる。


・はじめに

ここでいう差別は、差別問題とは異なり、あくま差別のものを指します。

問題にならなければ差別容認するというわけではなく、問題に至る前の差別のものの是非について論ずることが目的です。


差別とは何か

公立中学動物園だと言った人を差別主義だとする根拠は、自分経験だけでまるですべてがそうであるように表現したことにあります

それならば、その人の中にあるその一意見をもとにして、その人すべてを差別主義だと決めつけることも、やっぱりそれは差別的だと言わざるを得ません。

差別とは何かと聞かれたら、自分ならこう定義づけします。

「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを決定づけること」

白人全てが黒人差別をしていないのと同じ様に、一人の個人の中だけでも、差別主義的な意見とそうではない意見存在しえます

それを無視して、一つの(もしくはいくつかの)意見をもとに、その人を差別主義だと決めつける行為は、やはり差別的だと言わざるを得ないわけです。

残念ながら、日本ではまだこの違いを理解している人は少なく、結果的に、日本人はまだ差別意識に対して未熟だと言わざるを得ません。


差別を決定づけるもの

それではこの筆者も同じ様に差別主義ではないかと思うかもしれません。

しかしそれは違います

そうした意見を、それは差別的だと指摘・議論することは、差別主義ではありません。

しわたしがここで、だから日本人は差別主義だと結論づけたのであれば、筆者は差別主義だと言えるでしょう。

そうではなく、あくま問題の一点を指摘した上で、傾向を論ずることは差別主義でも何でもないのです。

それに対し、「あなた差別主義だ!けしからん!」と返していても、この議論が一生前に進むことはありません。

公立中学動物園と表明する自由はあり、そして、その意見が間違っていると指摘する自由もあります

からといって公立中学動物園だと表明した人を差別主義だと批判することは、自分自身差別的な行為をしているにすぎないというわけです。

しかし、このすれ違いこそが、差別問題解決を困難にする一番の要因であるとも言えます

なぜなら、差別主義批判している側からしてみれば、自分自身差別自覚がないからです。


ナイキ実例をもとに考える

ナイキCMに対して、ナイキが行ったことは、一部でそうした差別存在たかもしれないことの示唆です。(そしてそれには多くの経験者による賛同を得ました。)

この時点でナイキは、だから日本人は差別主義だとは決して結論づけていません。

それに対し、「日本人を差別主義だと決めつけるとは何事だ!」と反論しても、そもそも議論が噛み合うわけもありません。

紐解いてみれば、一部の日本人が、ナイキに対して「ナイキ日本人を差別主義だと決めつける企業だ」という差別意識を表明しているにすぎないわけです。

もしここで正しく抗議をするのであれば、ナイキという企業不買運動を働きかけるのではなく、CMで使われた映像事実確認を行い、問題があれば是正、なければ意見に対して抗議をするのが本来のあり方と言えます

その上で不買運動をするもしないも、それは個人自由です。

公立中学動物園だと決めつけた意見はたしか差別的です。

かと言って、そのコメントを残した人自身差別主義だと決めつけることは、やはり同じく差別主義行為だということに変わりはありません。


派生するいじめ発生のメカニズム

そしてこのロジックは、いじめ問題根本的原因であるいじめが発生するメカニズムにも共通しています

特定個人が何かしらのやらかしをしたとき、そのやらかしをもとにその個人のものに対する攻撃が始まるメカニズムです。

ここで最初に立ち返れば、本来であれば是非を問われるべきはその行為のものであり、その個人ではありません。

その行為に対し是非が問われ、それをもとに改善が行われるべきであって、行為の是非を個人の是非にするべきではないのです。

それを無視して、それが個人への攻撃正当化するための理由として用いられてしまえば、まさにいじめ発生のメカニズムのものと言えます

まりナイキに対してみんなで不買運動をしようと持ちかけることは、まさに、差別問題を棚上げにした消費者によるナイキという企業に対するいじめを持ちかけようとしていた状況に他ならないわけです。

こう考えれば、問題を問われるべきがどちらなのか、火を見るよりも明らかなのではないでしょうか。

しかし、悲しいかな、日本教育現場では、このいじめの芽を積極的に取り除く取り組みが行われていないのが現実です。


解決方法

差別とは何かを定義づけるとしたら、以下の通りである宣言しました。

「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを決定づけること」

ならば、差別問題をなくすために個人個人が取り組むべきことは、以下の通りです。

「一つの(もしくはいくつかの)意見・側面をもとに、その人の全てを「いつまでも」決定づけないこと」

例えば、大坂なおみを見た目で個人を決めつけようとすることも、国籍名前にしばりつけようとすることも、どちらも彼女個人無視した差別主義的な考え方でしかないのです。

そうした情報にとらわれず、彼女意見、一挙手一投足を見て、彼女がそういう存在なのだと受け入れることこそが、差別意識のない姿といえるのではないでしょうか。

ここで忘れてはいけないことは、個人好き嫌い最後まで個人自由であり権利であるということです。

彼女の様々な側面を見た上で、好きとも嫌いとも表明することは自由であり、誰が侵害してよいものでもありません。

しかし、それをもって彼女が正しいか間違っているかは別です。彼女存在のものの是非を問うなんてもってのほかです。

今後一層のグローバル化が進んでいく時代、もはやこれは義務教育レベル教育すべき内容であると、個人的には考えています

お互いがお互いのありのままの姿を受け入れあうこと。

それこそが差別意識のない世界といえるのではないでしょうか。


・淘汰と勝者

そうです。

お気付きの通り、差別意識をもって生きることも、自由であり当然許された権利でなくてはいけません。

いわばこれは反差別主義による差別主義に対する宣戦布告にすぎません。

そしてこれが、在日韓国人として日本に生まれ、数々の差別に身を持ってさらされてきた自分が、国籍境遇を越えて差別主義を滅ぼすべくたどり着いた結論です。

自覚なき差別主義の皆さん。

さぁ、生き残りをかけた戦争を始めようじゃありませんか。

  • 差別意識を持つことと、差別意識を言葉に出して当事者に伝えるのとでは別物だからなぁ 因みにインターネットで不特定多数に向けて自分の差別意識を表明するのは後者ぞ

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