「差別」という言葉が一体何を指しているのか、共通認識として厳密に定義しないまま対話や議論を重ねるとほぼ破綻する。差別に限った話でもないけど。いわゆる過激な差別・反差別主義者相手だと一対一でもおそらく難しいし、不特定多数相手のネット・SNSだとますます不可能だろう。それでも自分の中での「差別」に対する認識の再確認の意味も込めてきちんと考えておきたい。
まず「差別」は
・差別行動
に分けられる。
差別感情は内心の自由によって守られる。思ったり感じるだけなら自由だ。
差別行動はそれが法に抵触するならば法的に許されないし、道義的に間違っている(と他者・大衆が判断した)なら炎上する。
差別感情が理由で差別行動をするとは限らないし、結果としての差別行動に差別感情が伴うとも限らない。つまり両者の因果関係を完璧に判定することは不可能であり、法もそれに基づいて判断している(と思う)。
例:ある人が家族を人質に取られて「〇〇人はしね!と叫びながら〇〇人をころしてこい」と言われて実行したらその人の行動と〇〇人への差別感情は関係ない
が、この「差別感情と差別行動の因果関係は見えない」ということを理解できない人たちが一定数いて、理解できる人との間に軋轢が生まれる。さらに差別感情そのものを持ってはいけないという人までいる。特に自分の中の差別感情を認められず劣等感を持っている人は防衛機制として差別行動をしている(ように見える)他者に自分の差別感情を投影し批判している場合が多い。防衛機制ゆえに自覚的では無いので対話を重ねても理解を得るのは難しいだろう。
次に「差別行動」は
・積極的差別行動
に分けられる。
差別対象を避けたり、関わらないようにするのが消極的差別行動。
差別対象を物理的・心理的に攻撃したり排除するのが積極的差別行動。
後者はこれぞ差別という感じだが、問題は前者である。これは法に抵触しない。差別対象には何もしていないからだ(未必の故意は除く)。道義的にも、議論は分かれるだろうが問題ない場合も多いだろう。だが少数の差別対象に複数の個人がこれを行った場合、差別対象やそれを見た第三者が「差別が起きている」と感じる場合がある。別にいじめられてるわけではないけどハイ二人組み作ってーで毎回余る、みたいなものだ。
いわゆる「日本の差別」はこの「複数の個人による消極的差別行動」に当たる場合が多いのではなかろうか。対象を認識したときに差別感情は起きるかもしれないが、積極的差別行動にまでは出ず、見て見ぬ振りをしたり離れたりする。そしてその対象とは単に「見知らぬ人」「見慣れぬ人」などである。それが結果的に被差別者からすれば「自分は〇〇だから差別されている」という認識になるのではないだろうか。これは対話によって解消できる余地がある。実際地域に馴染んでいる「元・見慣れぬ人」たちも大勢いるはずだ。だが対話する前に「差別が起きた!差別だ!この人たちは差別してます!」と声を上げてしまう人もいる。その中には積極的差別の結果として排除されている人もいるだろう。だが結果として似た行動でも意図や理由が異なっている可能性があるものを十把一絡げに批判されたらそんな気がなかった側が「一緒にしないで欲しい」と思ってしまうのも道理ではなかろうか。
誰にだって差別感情はある。ネガティブだろうがポジティブだろうが感情の発生は止められないからだ。自分の中のそれをできるだけ分析して制御したうえで行動に移していきたいと思う。感情と論理の共存だ。