はてなキーワード: 異民族とは
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
安倍の代わりに総理大臣になって、はてな的な思想を完コピして改革を行おうにも抵抗勢力が強大過ぎて屈服するか降ろされると思う。総理大臣は独裁者ではないのだから、たとえ自分1人だけが正解を知っていても他人を説得して動かさなければならない。
コロナが現れた! コマンド? アベノマスクを配らなければ解決するような簡単な問題ではない。
劉禅の代わりに姜維に北伐をやめさせて国力を蓄えることに専念したところで時が来れば魏に攻め滅ぼされるだろう。
晋の恵帝に成り代われば八王の乱を止めて異民族の台頭を防げたか? 力を持った外戚・皇族・側近の激しい対立をどうやって収めるのか。皇太子すら殺すようなヤバイ奴らだ。死にたくなければ恵帝みたいに黙っているのがよかろう。
アッバース朝の最後のカリフは書道や読書にふけっていたというが、彼の代わりにモンゴル帝国を撃退できる自信がない。敵が大軍を率いて押し寄せてきたら現実逃避して読書でもやるのが自分にはお似合いだ。
ディズニー長編アニメで何が好き? と問われたら挙げるくらいに『ムーラン』(1998年)が好きだった。
『ムーラン』は中国の伝承をもとにした話だ。老いた父に代わり男装して従軍し武功を立てるも地位は断り故郷に戻る。最も古いのは詩と言われ、民謡、戯曲、小説の題材になっている。
時代によってどこに力を入れて語られるかは変わってくる。女で軍功を立てる力強さを描くのか、家族への孝行を尊ぶものなのか、国への奉仕を宣伝するものか。
ディズニーでのアニメ映画化にあたっては女性の自己実現という方向で物語はまとめられている。
主人公のムーランは、女は家でおしとやかにしているべきという風潮になじめない。老いた父を助けるため男装して代わりに従軍することになるが男ほどの力はない。しかし彼女自身の強みである知恵と機転を武器に自分を信じ、自分らしいあり方、誇りを見つけるのだ。
挿入歌『リフレクション』が名曲だ。映画のわりと最初のほうに歌われる曲で、含む意味が全編に影響してくる。家の名誉のためには仲人に気に入られて良い家に嫁がなければならない。でも失敗してしまった、という状況を受けて「水鏡に映った着飾った自分は知らない人に見える。ありのままの自分の心はごまかせないけれど、本当の私はいつか映るのだろうか?」と吐露する。
その後男装して(=別ベクトルで自分を偽って)活躍するわけだが女であることがバレてしまう。で、色々あって男だとか女だとか求められる役割だとかじゃなく、自分であることがいいよね! って結論に至るのだ。
さて、ディズニーのヒロイン像というのは時代によって移り変わる。おしとやかに待っていれば幸せ(王子様)が訪れる初期ヒロイン、自我がありパワフルながらやはり幸せはヒーローが運んでくる中期ヒロイン、恋愛から解放された最近のヒロイン。
ムーランは時代的には中期ヒロインに位置づけられる。とはいえロマンス要素は淡い。アジアが舞台で自己実現が主題という点が特筆すべきところだろう。
その頃のディズニーの非コーカソイドを取り扱った映画というのはエキゾチシズムあふれると言うかアメリカ解釈エスニック世界と言うか、なかなか文化描写が大味である。ご多分に漏れず『ムーラン』も西洋的なアジアであんまり正確ではない。突然念仏唱え出す登場人物が居るようなステレオタイプなオリエンタリズムである。また、男装のために長い髪をカットするシーンが山場のひとつだが、断髪して覚悟を示すことはとても西洋的な描写だ。古代アジアの人々は男女問わず長髪だからね。
それでも20世紀末にアジアが描かれたことは画期的で、東洋西洋の狭間で自分のあり方を考えていたアジア系アメリカ人二世三世に特に刺さったと聞く。また、脚本にはアジア系アメリカ人の女性が居た。そのあたりを思うにターゲットは西洋社会であったのだろう。
さて、そんな『ムーラン』が20年の時を超えて実写化されると言う。わくわくした。あの、魔法使いでもなんでもない同じ人間なのに圧倒的な力を持つかたき役、シャン・ユーの大軍勢が雪原に現れる絶望的なシーンが実写の迫力で見られるのか。ハリウッドに中国の方も増えただろうからオリエンタリズムの産物じゃなくてきちんと考証がなされた中国描写になるんだろうな。最近のディズニー映画のように現代の価値観を反映させるだろうから「異民族は悪、侵略者、だから防衛しなければならない」なんて単純な物語化じゃなく厚みを持って描かれるんだろうな。(アニメだと時代も場所もぼかされて相手はフン族という言及のみ。原典だとムーランは漢民族じゃなくて鮮卑の人っぽいし、北魏 vs 突厥 の戦争って遊牧民同士の戦いでつまり互いに侵略し合っていたってことだと思っている)アナ雪1でサーミの文化盗用と言われ、アナ雪2でサーミの監修を入れて文化盗用にならぬよう注意を払い、作中で植民地支配を彷彿とさせる歴史を描き、過去の過ちを直視し「今できる正しいことをしよう」と歌わせるディズニーだ。期待も高まるというもの。
そんな価値観も変わる時代の中にあっても輝く、自分らしく誇りを見つけるという変わらないメッセージ。名曲の数々、コミカルな相棒キャラクターであるドラゴンのムーシューと幸運のコオロギのクリキーのコンビ――彼らも「自分を偽っている」キャラだ。ムーランの物語は彼女だけではなく、ほかのキャラも自分を信じて自己実現する物語なのだ!――厳しくもきちんと実力は認めて義に厚く格好いいシャン隊長とムーランのほのかなロマンス。男装しているムーランに人間的に惹かれているっていうのがいいんだよねー。ああ、楽しみだなあ!
※ アニメ版と実写版の差異、未見のためニュース等で分かる部分のみ
うおおおい。やりたいこととやっていることとターゲットがちぐはぐで全方位損だよ。東西どちらにもいい顔をしようとして大失敗では。誰が嬉しいんだこれ。
いやね、きっと通常の劇場公開をしていたらふらっと見てしまっていたと思う。事前情報仕入れず見るタイプなので。公開延期で配信も加入しないと見られないと言うので時間ができてしまって調べたらさあ、ねえ。心情的にこれはもう見られない。
アニメ版が中国本土であまり評判が良くなかったというのは聞いたことがある。自分探しをするヒロイン、自立したヒロインというのが儒教感覚としてはそぐわないらしい。だからってアニメ版の主題であった自己実現を切り捨てて家のため国のため「孝」「忠」の話にするか? [追記] トラバで教えて貰ったが、アニメ版は中国本土でも人気だったそうだ。確かにレビューサイトの点も高かった。自分は欧米メディアの記事から人気がなかったのだと思いこんでいたが誤りだったようだ。失礼しました。えっ、じゃあディズニーはどこを向いて脚本変更を決定したんだ?
アニメ版のファンなんぞ知らん、商業的には大きなパイである14億人+全世界の中国ルーツの方々がターゲットなんだ! と言い切ってくれるならまだ理解できた。でも中華圏の評判も悪くてさ。聞こえてくるのは「孝」「忠」はこんなんじゃねーよとか伝統的な任侠精神を西洋騎士道のテンプレートに雑にはめ込みやがってとかムーランをフォースっぽい謎の不自然なパワーを持つ西洋的スーパーヒーローにしたなとかドラゴンのキャラの代わりに鳳凰がシンボルになったが鳳凰が象徴するのは古式ゆかしい女性性だぞフェニックスと混ぜてねーかとか『カンフー・パンダ』のほうが中国の伝承や比喩を尊重しているぞとか、そんな感想ばかりである。
中国をターゲットに完全シリアスな『花木蘭』実写化がしたかったらアニメの看板は控えめに、スタッフ陣にもアジア勢を揃えて時代考証風俗考証手厚く入れて中華圏を唸らせてくれよ……。
新疆ウイグル自治区でのロケってのもさ……。「異民族、それもモンゴルあたりで活動した今のトルコにも繋がると言われる実在の民族を排除するために戦う」ストーリー自体センシティブで取扱注意なのに、文化が異なるが故に現在進行形で人権侵害が行われている新疆ウイグル自治区をわざわざロケ地に選ぶとは。映画撮影のためにディズニーは人権侵害に目をつぶり「新疆ウイグル自治区は海外のクルーが来られるような安全で風光明媚なところで海外で言われているようなことなど行われていませんよ」という中国の宣伝に乗ったのだと言われても否定できないだろう。
ディズニーとしては MeToo を受けてストーリーは変更するが民族浄化は容認するみたいな基準なのか?
自分は今まで作品と作者・出演者は別と考えてきていた。役者が不倫していたり薬物をやっていたりしても作品の価値が貶められることはないし配信停止にすべきではない。また、過去の作品で今の基準だとアウトなものがあることも認識している。奴隷制を肯定的に描いている『風と共に去りぬ』、子役を薬漬けにして演技させていた『オズの魔法使い』などなど。それらも配信停止にすべきではないと考える。描写については注意書きを添え、新たに作る時は現代の倫理観をもとにし、新規であえて描写する時は「あえて」である説明を加えれば良いと。
とすると、俳優の発言は個人の思想と割り切れても現在進行形の人権侵害は了承できないな。俳優はアメリカ国籍とは言え中国本土の方だから一族も本土に居るだろうし当局の意に反する発言をしたら命が危ないのだろうけれど、ディズニーはウイグルの件を全く知らなかったとは言えないだろう。
ディズニーがどのような声明を出すのか、出さないのか。注目している。
[追記]
誤字を修正。
また、中国国内の反応を知りたくてデータを確認してみた。ご参考までに。
9/15昼時点の豆瓣(中国の代表的なレビューサイト)のスコア
作品名 | 公開年 | スコア (10点満点) | 最頻値 (最大星5つ) | スコアの母数 |
---|---|---|---|---|
実写版ムーラン | 2020 | 4.9 | 星2つ | 約16万人 |
アニメ版ムーラン | 1998 | 7.8 | 星4つ | 約20万人 |
実写版美女と野獣 | 2017 | 7.2 | 星3つ | 約32万人 |
アニメ版美女と野獣 | 1991 | 8.5 | 星4つ | 約14万人 |
実写版アラジン | 2019 | 7.5 | 星4つ | 約26万人 |
アニメ版アラジン | 1992 | 8.2 | 星4つ | 約6万人 |
ヴィッキー・チャオ主演版ムーラン | 2009 | 6.2 | 星3つ | 約9万人 |
アニメ版ムーランは意外と[追記] トラバで教えて貰ったが「意外と」ではなかった中国でも健闘していたようだ。レビューも楽しく読んだ。翻訳ソフトありがとう。
実写版ムーランは当初スコア4.7だったが、星3をつける人が増えて4.9まであがってきた。とは言え他のディズニー作品と比べると極めて低く、ここから他作品ほどスコアを上げるのは難しそう。
一番下のヴィッキー・チャオ主演版はディズニー関係ない中国発の歴史映画。そう、既にシリアスな実写映画は存在するのだ。
ランキング | 作品名 | 公開日 | 初週興行収入 | 累計興行収入 | 猫眼口コミ (10点満点) |
---|---|---|---|---|---|
1 | 八佰 | 2020/8/21 | 約6.4億元 | 約26.9億元 | 9.2 |
2 | 実写版ムーラン | 2020/9/11 | 約1.6億元 | 約1.8億元 | 7.5 |
3 | TENET テネット | 2020/9/4 | 約2.1億元 | 約3.6億元 | 8.3 |
6 | かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ | 2020/9/11 | 約0.03億元 | 約0.03億元 | 8.0 |
日中戦争を描いた超大作『八佰』と比較するのは酷として、興行収入面は大コケしなかったといったところだろうか? 有識者の見解を聞きたい。 [追記] トラバより 少なくとも口コミ的には大コケの大コケだと思う
とのこと。『アベンジャーズ:エンドゲーム』が初週約22.3億元、『アナと雪の女王2』が初週約3.8億元ということを考えると厳しい結果になりそうだ。
[再追記]
同じ作品を見ていいな、好きだなと思っていたことが分かって嬉しい。コメントでアニメ版が好きと表明して下さった方々もありがとう。
昨年、3ヶ月位働いた仕事を辞めた。
理由は色々あるけど、一番はお局さんだ。
この会社に入るまで私は男9割の業界にいて、今回初めて女9割の業界に転職した。
しかもそこは8割がアラフォーオーバーのBBAパラダイス、若い人は同じ歳くらいの人が3人位。
私はこの会社に前業界の仕事を担当してほしいと初めて入ってきた、お局さんにとって異物だった。
全く考え方の違う異民族って感じだ。
社長は殆ど思いつきで入れてしまったのですぐに仕事が用意できるわけもなく、まずは通常部署の仕事に入ってほしいと言われた。
9時50分までに出社と社長が言っていたので、30分に会社に到着、社長と話して着替えて通常部署へ行ったのが45分。
100%こいつがこの会社の裏ボスだって見た目と態度の人が、某ドラマみたいに後ろに他の女社員を並べて腕を組んで顔を真っ赤にしていきなりキレてきた。
理由は45分には準備を開始するのに何故早く来なかったのか。
答え、社長からそんな事聞いてないし入社前に貴方とエンカウントしてないからです。
すごい理不尽だ…と感動した。
男社会にいたせいで今までお局という存在にあった事がなかったのでまとめサイトでの妄想か誇張と思っていた。
オラ、ワクワクすっぞ。
とりあえずすみません、と頭を下げておく。
何か言ってるけど早口で聞き取れない。
更年期って大変だな、自分がなったら早めの治療を心がけようと思った。
そして、お局さんが奥の部屋に消えて仕事開始。
私の育成担当はお局様に頷いて相槌を打っていたおばさん、もう直ぐアラフィフ。
どっちにしろこの部署に今後来ることのない私を真剣に教える気もない、そりゃそうだよなぁと思う。
流石に仕事にならないので最低限は教えてくれたが、細かいところは知らないのにいきなり怒られる。
客対応以外に関係ない事…例えばゴミ出しの曜日とかシフト希望提出締切だとかは結局辞めるまでその人からは聞けなかった。
作業中はマスク必須で本当良かった、マスクしてなかったらビンタのひとつも食らってたと思う。
次に、少し年上の先輩。
細くて顔も綺麗でじじいの客のアイドルだった。
しかし、じじいなんて若い新人が入ればそっちに興味が湧くに決まっている。
じじい達は先輩の事なんて忘れてしまったかのように私に話しかけてセクハラギリギリをかます。
先輩が輪をかけて冷たくなったのはその時からで、影で私の事をジャージー牛みたいと呼んでいたのを聞いた。
ホルスタインと言わない所に例えが美味いなとこっそり笑った。
私は耳に一応ピアスホールが一つずつ空いてるし、黒髪が死ぬ程似合わないので会社の規定内の範囲の茶髪だ。
タグでも付けて行こうかと思ったけど辞めた。
嬢といっても、ギリアラサー。
社長と副社長、お局さんには完全に声を高くして同意しまくっているし、一人称は苗字。色々すごい。
ただし私には目が据わり低い声で話しかけてくるのでこっちが素なんだなあ、としみじみ。
辞める2週間前、パソコンエラーを直してあげたら少し優しくなった。
他にもいるけど、とりあえずこの4人が凄かった。
そして、シフト管理をしているお局さんは夕方早上がりする私にブチ切れてきた。
こっちにも事情があり、時短を条件に入ったのでキレるなら社長に言ってほしい。
入社直後に仕事が用意できずこの部署に入ったのも社長の指示なので。
お局さんはいろんな人…特に古株の人達に私の愚痴を言っているようだった。
お局さんとは担当がちがうので殆ど迷惑をかけてないはずなのだけど、色々言っていた。
声がでかいので休憩室の横を通ると聞こえてくる。
声が気に食わない(そんな事言われても)
今時の化粧をしているのが生意気(してない)
男に媚を売っている(売ってない)
婆さんから褒められているのが謎(知らん)
早く辞めてほしい(さいですか)
他にもいっぱい言っていたが、麦茶を飲んでるのが意味わからんって言い出した時点で吹き出しかけてさっさと帰った。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いになりかかっている。
大体比率としては半々。
私の仕事は専門的で調べる事が多い仕事なので半分位はネトサをする。
どうするかと悩んで考え込む事もしばしばある。
社長がお昼に行った瞬間、お局様が別の部屋からすごい勢いで突入してきた。
闘牛みたいだな、と思いながら耳を傾けると、簡単に言えば遊んでいるんじゃないかとキレてきた。
言い訳してもまた長くなりそうだなあと思い、とりあえずすみませんと言っておく。
社長が用意した私が使用しているパソコンは社員共通のパソコンなので使われると邪魔だとキレている。
そうして二ヶ月が経った。
その間に私の靴は無くなったし、全員に一つずつ配られたはずの社長の出張のお土産は貰っていない。
無視される事もあったし、知らない優しそうなおばさん社員からいきなりアンタここにいちゃ死んじゃうよ、と諭された事もある。
漫画みたいだ、そんなセリフ生で聞けるなんて人生でそうそうない、感動した。
どうしたものかなぁと思っている矢先、なんとなく現状を友達に話した所、友達経由で知ったのだろう古巣の知り合いから此方の業界に戻ってこないかと声をかけられた。
電車を乗り継がないといけないし家庭の事情でフルタイム残業が厳しくなり辞めたのだけど、時間も調整してくれるらしい。
まだギリギリ試用期間だし、そうだ、辞めよう。
早速社長に相談した。シフト締切3日前なのですぐ言わなくてはいけなかった。
とりあえず現状を話す。
社長もやはりお局さんから私の愚痴を聞いていたらしく、苦い顔をしていた。
誘われた会社よりこちらの方が近いし、時間を調整してくれると社長が言っていたから現状が好転するならこちらの方が都合が良かったので、今後他の仕事を手伝うにしても他の部署でお願いしたいと頼んだ。
僕にはどうする事も出来ないけど、君がみんなと仲良くできるなら考えてもいいよ。
そう言って社長は腕を組んだ。
頭の中の平次が叫んだ。
元はと言えば社長が私をいきなり雇い、いきなり別部署にぶち込み、私を入れてどうしたいか説明しなかったせいでいきなり訳の分からない新人が来るとお局さんがキレて私にあたり古株全社員に愚痴を言ってる中で、それを言うのか。
漫画じゃん?!
こういうの病院に置いてあるレディコミで読んだことあるぞ!!!
ハイになって、「えっどう考えても今更無理なので辞めまぁす!!!」と言ってしまった。
幼少期ぶりにバニラシェイクもクーポンで100円だったので買った。
飲んだら少し寝不足だった頭がすっとして、明日からどう会社で過ごそうかな、とワクワクした。
だって後13回働けばお別れだ、どうせなら漫画みたいな体験をもっとしたい。
ずっとは精神衛生に悪いので辞めるんですけど。
そうして出社したら、お局さまが辞めるなとキレてきた。
あれだけ辞めろと言ったのに、どうしたどうした?
面白い展開になってきた、よしお局さんの話を聞こう。
成る程、シフトに組んでしまったので今更組み直すのが困るですと?
まだシフト提出期限じゃないですよ?
仕事教え損?
それは申し訳ない、でも私今後在籍したとしてもこの部署には入らないようお願いしたと思う。
だって毎回引きっぱなしのネットの有線で転ばされるからアザがすごいので。
多分10分程一方的に喋っていたと思う、落ち着いたのでそっと靴下を引き下げてホルスタインみたいにブチ模様になった足を見せたらヒュ、とお局さんの喉が鳴った。
本当に喉ってヒュ、と鳴るんだな。
流石に察したらしい、どうしてアザだらけになっているかを。
靴も靴箱に置いておいたんですけど知りませんか、アレ兄からもらったものなんです(これは嘘だ、某大手靴屋で30%オフで買った)、パソコンのデータ知りませんか、アレは私が作ったやつを副社長が使っていたものなんです、給料まだ貰っていないんですけど、手渡しとお聞きしたのですが?
血の気が無くなる人も初めて見た気がする。
お局さんは多分、恐らく手を出さず愚痴や悪口を言っていただけなんだと思う。
誰が何をしたかなんて知らないだろう。
みんな大人だ、自分が何をしたかだなんて言うわけがない、きっと休憩室でお局さんに同意したりその日の私の行動を面白おかしく報告してただけなんだろう。
全部気に入らない、此方には味方しかいない。
ならば追い出したい。
実際最初に隙を見せた私という敵に先制攻撃を喰らわせられた事で、止まらなくなってしまったのかもしれない。
でもまさか手まで出す人間がいるなんて思ってもいなかったんだろう。
この会社で実際社長よりお局さんの味方の方が多い、だって実質会社の事を把握してシフト管理をしているのはお局さんだから、この人を敵に回すと子どもや孫のために休む事があるパート達は逆らえないのだ。
そのお局さんが敵とみなしたやつは、何をしてもいい。
だって実際私が辞める日に聞いたら、4人はお局さんに嫌われたお前が悪い!とキレて何処かへ行ってしまったんだから。
最終日、三ヶ月分の給料が入った封筒を手に私は地元の夫婦経営の焼肉屋に入ってテイクアウトのお弁当を買った。
私の事を気に入ってくれたお客さんのじじいの店だ。
来てくれてありがとう、また行くな!と明るく笑う尻を触ってきたじじい。
今辞めてきたんです、と言いながら焼肉弁当のお金をトレイに置く。
びっくりする夫婦、そりゃそうだ、地元密着のあの会社は馴染みのお客が多くGoogle mapの評価は悪いが爺婆には評判が良い。
なんで辞めてきたんだ、と焼酎片手に聞いたのはこれまたよく会社に発注を取りに来ていた地元の商店街に店を出しているじじいだった。
私は迷った。
全部話すべきか、それとも濁すか。
悪魔が囁いてくる、来週転職と共に引っ越してしまうんだからこの町には戻らないだろうと。
頭にいつか読んだ例のレディコミが浮かぶ。
私も漫画みたいな事をして締め括っても良いだろうか。
だって、あんな漫画みたいな事が起きた事、この感動を話してしまいたかった。
じじいにゆずサワーを奢ってもらった私はいくつかかいつまんで、ポツリポツリと話した。
じじい達は絶句して、腕の傷に気付いたばばあはそっと骨付きカルビを焼いて弁当に乗っけてくれた。
聞いてくれてありがとうございました、とゆずサワーを飲み干して浅く一礼し弁当を受け取る。
私もお局さんみたいに思った事を話してしまった。
悪意や敵意というのは印象に残りやすい。
初めて悪い事をしてしまった時の子供のように、少しの罪悪感と山程の高揚を胸に食べた焼肉弁当は最高に美味しかった。
そうして一年が経った。
多少の妬み嫉みはあるものの、あの三ヶ月と比べたら可愛いもので、本当にあの人間の醜い部分の煮凝りみたいな三ヶ月は漫画を読んでの妄想だったんじゃないかと思う。
それはコロナの所為かもしれないし、もしかしたら焼肉屋での15分がきっかけなのかもしれない。
もうあの田舎町に知り合いがいない私が理由を知る術はないのだけど、ふと半袖になって見えた傷の跡を見て思い出したので記念に書いてみた。
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
『政権に就いたことのある世界の少数民族政党 - 歴ログ -世界史専門ブログ- 』
https://reki.hatenablog.com/entry/190107-World-Minority-Party
日本では外国人の選挙権・被選挙権が認められていないため、国や自治体の政治において国内の少数民族の利益を代表する政治団体というものが存在しません。
この文章はおそらく国政政党として「琉球民族党」とか「アイヌ人民党」とかそういったものが存在しないことを指摘しているのだろうとは思うが、
また文末には以下のような記述も見える。
急速に「移民」が増えている日本でも、いつの日か外国人に選挙権・被選挙権を与える日が来るかもしれません。諸外国の事例をしっかり学んでおきたいところです。
ここに至ってこのブログを書いた方が「外国人」という単語をおそらくは「異民族」くらいの意味合いで用いていることが読み取れる。
ただし、この記事の目的は上記のブログの誤りを指摘することではなく、
誤った認識の背景に心当たりがあるのでその点について話したい。
結論から言えば、「日本人」という言葉が2つの定義を持ってしまっている点に問題があるように思う。
当然、少数民族だろうが何だろうが日本国籍を持っていれば「日本人」であり、現時点で既に参政権があり、結社の自由もある。
大和民族や和人などとも呼ばれる。歴史的経緯としては縄文人と弥生人の混血らしい。
これらははっきりと区別するべきだ。
もっと言えば混乱を避けるために前者(国籍)の意味においてのみ日本人という単語を使うべきだ。
逆に、日本国籍を取得したにもかかわらず肌が黒いとか白いとか、目が青いとかそういった理由で「日本人」とみなさず、
「外国人」と呼ばれる人々がいるのはかなり不合理で、差別的ですらある。
おそらく上記ブログの執筆者の勘違いもこの辺に原因があるのだろう。
とはいえ、自身の民族的出自に愛着や誇りを感じていて、ぜひ名乗りたいという人もいるだろう。
「大和系日本人」とか「フィリピン系日本人」とか、あるいは「ブラジル系」「朝鮮系」「琉球系」「アイヌ系」等々、好きなように名乗ればよかろう。
もっとこだわりがあるなら「ブラジルにルーツをもつアフリカ系日本人」などと名乗ってもよい。
(逆に例えば大和系日本人が日本国籍を離脱してアメリカに帰化したなら大和系米国人がよかろう。歴史的には日系と呼ばれているが)
まとめ
日本人は、これほど差別的になったのか——。ニュースを見かけ、そう思った。「大坂なおみに漂白剤が必要、芸人による黒人差別」。
明治以降、西欧列強に追いつけ追い越せと、日本人は持ち前の真面目さで取り組み、ついにその「欧米人」の価値観に追いついたらしい。こうして欧米人と同じく『肌の色が黒いことは悪いことだ』という前提で、「人種差別だ」と叫ぶようになったのだから。
私が批判するのは「漂白剤が必要」と言った「芸人」ではなく、それを「差別」だと叫ぶ日本人のことである。欧米人の価値観に寄り添うことが「良い」ことであると信じ、疑わない人々である。
差別とは何か。それは、並列であるはずの価値を善悪に並べ替え、「悪」のレッテルを貼ったものを貶めることである。そうしてできた価値観というものは、文化に依拠する。当然だ。日本の「新米は良いけど、古米は悪い」という価値観は、コメのない文化、あるいはコメがあっても年に何度も収穫できる地域の文化であれば、形成されることがない。そして、この日本において、「肌の色によって人を分ける」という価値観はない。なぜなら、日本人は異民族との関わりが薄い環境で、文化を築いてきたからである。
それが、なぜ「肌の色」に価値を置くようになったのか。日本が見習った欧米の文化が、そこに重大な価値を置くからである。アメリカでは、いまも「彼が黒人だ」——つまりは「彼の肌は黒い」というだけで、殺意の対象となり、実際に殺される。肌の色の価値観は、人の生死がかかるほど重大なものである。
だから「肌が黒いこと」は「悪い」。これが欧米人の価値観である。しかし、時代が変わり、「肌が黒いこと」で「人を蔑んだり、殺したりする」のは「良くない」ということになったので、それを糾弾することにした。これが欧米文化の価値観である。つまり、「差別」だというのならば、そこには「肌が黒いこと」は「悪い」という、前提が存在しなければならない。それなしに「差別」という言葉は存在しない。
「でも、実際『肌が黒い』ことは『悪い』でしょう」——この価値観から抜け出せないのならば、では別の例を挙げよう。例えば、同じように公の場で「あの人の耳は小さすぎる。もっと大きい耳があったらいいのに」と言ったらどうだろうか。これは人々の糾弾の的になるだろうか。ならないのである。なぜなら「耳の形」については、欧米人も、それを見習う日本人も、強固な価値観がないからである。
では、これが「ファッションモデル」が「細すぎる」という話だったら? 「彼女に足りないのは、脂身でしょうね」。これはどうだろうか。その発言者がもし太っていたら、そこには笑いが起きるだろう。なぜなら、この場合、「太っている」ことに「悪い」という価値がつけられ、「細すぎる」ことには「良い」価値がつけられているからだ。ならば「太っている」ことを前提としたこの「笑い」は「差別」だと糾弾されなければならないだろうか。「肌が黒い」と言ったときと全く同じ温度で、人々は憤慨し「差別だ」と叫ぶだろうか。
「黒人に漂白剤が必要」。これがお笑いとして、面白いか面白くないかという話は別であり、この場合、完全にスベっているので、見ているこちらの心が痛い話ではある。が、そんな個人の話よりも、ここに「差別」を見出す——つまりは「肌が黒い」ことを「悪い」と疑わない日本人がこれほど増えたということには、欧米化のツケを感じずにはいられない。
当たり前のように、欧米の価値を「良い」ものとする日本人。今回の問題についてすら、欧米人にインタビューをし、当然のごとく得られる「差別はいけない」というコメントを記載し、日本人に欧米人の態度を見習わせようとする記事。このまま彼らの後をついていけば、私たちは日本にはなかったさまざまな「差別」を身につけるだけである。日本人が目指すものは、欧米にはない。彼らとは違う、私たちの行く先は別の方向にあることを知るべきである。