2019-09-30

漂白芸人批判する人こそが、本当の差別者である

 日本人は、これほど差別的になったのか——。ニュースを見かけ、そう思った。「大坂なおみ漂白剤が必要芸人による黒人差別」。

 明治以降西欧列強に追いつけ追い越せと、日本人は持ち前の真面目さで取り組み、ついにその「欧米人」の価値観に追いついたらしい。こうして欧米人と同じく『肌の色が黒いことは悪いことだ』という前提で、「人種差別だ」と叫ぶようになったのだから

 私が批判するのは「漂白剤が必要」と言った「芸人」ではなく、それを「差別」だと叫ぶ日本人のことである欧米人価値観に寄り添うことが「良い」ことであると信じ、疑わない人々である

 差別とは何か。それは、並列であるはずの価値善悪並べ替え「悪」レッテルを貼ったもの貶めることである。そうしてできた価値観というものは、文化依拠する。当然だ。日本の「新米は良いけど、古米は悪い」という価値観は、コメのない文化、あるいはコメがあっても年に何度も収穫できる地域文化であれば、形成されることがない。そして、この日本において、「肌の色によって人を分ける」という価値観はない。なぜなら、日本人異民族との関わりが薄い環境で、文化を築いてきたかである

 それが、なぜ「肌の色」に価値を置くようになったのか。日本が見習った欧米文化が、そこに重大な価値を置くからであるアメリカでは、いまも「彼が黒人だ」——つまりは「彼の肌は黒い」というだけで、殺意対象となり、実際に殺される。肌の色の価値観は、人の生死がかかるほど重大なものである

 だから「肌が黒いこと」は「悪い」。これが欧米人価値観であるしかし、時代が変わり、「肌が黒いこと」で「人を蔑んだり、殺したりする」のは「良くない」ということになったので、それを糾弾することにした。これが欧米文化価値観である。つまり、「差別」だというのならば、そこには「肌が黒いこと」は「悪い」という、前提が存在しなければならない。それなしに「差別」という言葉存在しない。

 「でも、実際『肌が黒い』ことは『悪い』でしょう」——この価値観から抜け出せないのならば、では別の例を挙げよう。例えば、同じように公の場で「あの人の耳は小さすぎる。もっと大きい耳があったらいいのに」と言ったらどうだろうか。これは人々の糾弾の的になるだろうか。ならないのである。なぜなら「耳の形」については、欧米人も、それを見習う日本人も、強固な価値観がないかである

 では、これが「ファッションモデル」が「細すぎる」という話だったら? 「彼女に足りないのは、脂身でしょうね」。これはどうだろうか。その発言者がもし太っていたら、そこには笑いが起きるだろう。なぜなら、この場合、「太っている」ことに「悪い」という価値がつけられ、「細すぎる」ことには「良い」価値がつけられているからだ。ならば「太っている」ことを前提としたこの「笑い」は「差別」だと糾弾されなければならないだろうか。「肌が黒い」と言ったときと全く同じ温度で、人々は憤慨し「差別だ」と叫ぶだろうか。

 「黒人漂白剤が必要」。これがお笑いとして、面白い面白くないかという話は別であり、この場合、完全にスベっているので、見ているこちらの心が痛い話ではある。が、そんな個人の話よりも、ここに「差別」を見出す——つまりは「肌が黒い」ことを「悪い」と疑わない日本人がこれほど増えたということには、欧米化のツケを感じずにはいられない。

 当たり前のように、欧米価値を「良い」ものとする日本人。今回の問題についてすら、欧米人インタビューをし、当然のごとく得られる「差別はいけない」というコメントを記載し、日本人欧米人の態度を見習わせようとする記事。このまま彼らの後をついていけば、私たち日本にはなかったさまざまな「差別」を身につけるだけである日本人が目指すものは、欧米にはない。彼らとは違う、私たちの行く先は別の方向にあることを知るべきである

  • 字下げ増田なの?

  • 「肌が黒い」ことを「悪い」とするのは昔から日本の文化にありますが… 人種の問題ではなく「色黒=日焼け=外に出て働かなければならない下層階級」って意味で出来たものだけどな

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