日本人は、これほど差別的になったのか——。ニュースを見かけ、そう思った。「大坂なおみに漂白剤が必要、芸人による黒人差別」。
明治以降、西欧列強に追いつけ追い越せと、日本人は持ち前の真面目さで取り組み、ついにその「欧米人」の価値観に追いついたらしい。こうして欧米人と同じく『肌の色が黒いことは悪いことだ』という前提で、「人種差別だ」と叫ぶようになったのだから。
私が批判するのは「漂白剤が必要」と言った「芸人」ではなく、それを「差別」だと叫ぶ日本人のことである。欧米人の価値観に寄り添うことが「良い」ことであると信じ、疑わない人々である。
差別とは何か。それは、並列であるはずの価値を善悪に並べ替え、「悪」のレッテルを貼ったものを貶めることである。そうしてできた価値観というものは、文化に依拠する。当然だ。日本の「新米は良いけど、古米は悪い」という価値観は、コメのない文化、あるいはコメがあっても年に何度も収穫できる地域の文化であれば、形成されることがない。そして、この日本において、「肌の色によって人を分ける」という価値観はない。なぜなら、日本人は異民族との関わりが薄い環境で、文化を築いてきたからである。
それが、なぜ「肌の色」に価値を置くようになったのか。日本が見習った欧米の文化が、そこに重大な価値を置くからである。アメリカでは、いまも「彼が黒人だ」——つまりは「彼の肌は黒い」というだけで、殺意の対象となり、実際に殺される。肌の色の価値観は、人の生死がかかるほど重大なものである。
だから「肌が黒いこと」は「悪い」。これが欧米人の価値観である。しかし、時代が変わり、「肌が黒いこと」で「人を蔑んだり、殺したりする」のは「良くない」ということになったので、それを糾弾することにした。これが欧米文化の価値観である。つまり、「差別」だというのならば、そこには「肌が黒いこと」は「悪い」という、前提が存在しなければならない。それなしに「差別」という言葉は存在しない。
「でも、実際『肌が黒い』ことは『悪い』でしょう」——この価値観から抜け出せないのならば、では別の例を挙げよう。例えば、同じように公の場で「あの人の耳は小さすぎる。もっと大きい耳があったらいいのに」と言ったらどうだろうか。これは人々の糾弾の的になるだろうか。ならないのである。なぜなら「耳の形」については、欧米人も、それを見習う日本人も、強固な価値観がないからである。
では、これが「ファッションモデル」が「細すぎる」という話だったら? 「彼女に足りないのは、脂身でしょうね」。これはどうだろうか。その発言者がもし太っていたら、そこには笑いが起きるだろう。なぜなら、この場合、「太っている」ことに「悪い」という価値がつけられ、「細すぎる」ことには「良い」価値がつけられているからだ。ならば「太っている」ことを前提としたこの「笑い」は「差別」だと糾弾されなければならないだろうか。「肌が黒い」と言ったときと全く同じ温度で、人々は憤慨し「差別だ」と叫ぶだろうか。
「黒人に漂白剤が必要」。これがお笑いとして、面白いか面白くないかという話は別であり、この場合、完全にスベっているので、見ているこちらの心が痛い話ではある。が、そんな個人の話よりも、ここに「差別」を見出す——つまりは「肌が黒い」ことを「悪い」と疑わない日本人がこれほど増えたということには、欧米化のツケを感じずにはいられない。
当たり前のように、欧米の価値を「良い」ものとする日本人。今回の問題についてすら、欧米人にインタビューをし、当然のごとく得られる「差別はいけない」というコメントを記載し、日本人に欧米人の態度を見習わせようとする記事。このまま彼らの後をついていけば、私たちは日本にはなかったさまざまな「差別」を身につけるだけである。日本人が目指すものは、欧米にはない。彼らとは違う、私たちの行く先は別の方向にあることを知るべきである。
字下げ増田なの?
「肌が黒い」ことを「悪い」とするのは昔から日本の文化にありますが… 人種の問題ではなく「色黒=日焼け=外に出て働かなければならない下層階級」って意味で出来たものだけどな