はてなキーワード: 考察とは
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg
19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg
同人女の〜というバズりまくってるやつを見る度苦しくなる
どんなに創作をして発表してもあのようにはならない人間が一定数いる
仲間もファンもできない同人ぼっちにはとてもではないが夢物語でしかない
ちなみに同人やってたら嫌でもTLが盛り上がるので自衛しろはもはや無理だからな
Twitterやってりゃフォロワーや賛辞するマシュマロも定期的に増えるだろwっていうやつはお帰りください
マジでそんなのは神絵師か毎日交流しまくって義理マシュ交換やってるのくらいだから
こう言うと高尚様()って言われるかもしれんが、上手い人は素直に褒められるが上手い人しか褒めないと大手への擦り寄り()って言われてもう面倒過ぎる
界隈には恐らく嫌われて義理マシュも来ないのは良いが、ファンもフォロワーも増えないしで最近段々つらくなってきた
私は人に読んで欲しくて同人誌を描いてる、で
もイベントに行って本を出しても2桁出るかどうか
毎回買ってくれて楽しみにしてました!って言ってくれる人はただ一人
他にも毎度買ってくれる人はいるのだろうが、感想もなにもこないのでいないに等しい
そしてそのただ一人のために描くのがそろそろしんどい
私の作った本を読んでもらいたい、感想がききたい、そのために描いていたのに、仲間も増えずファンも一人
もっとワイワイキャッキャウフフできると思っていたのに、この物語はこういう考察と意図があってとか語り合いたい
同人を承認欲求に使うなと言われそうだが、そういうやつらこそ高尚様では?
同人向いてないとか言うやつら、なにもわかってない
趣味に向き不向きなんて関係ないしお前の物差しで勝手に判断するんじゃねぇ
数年やって誕席も取れないなら実力ないとかいうやつら、同人は実力がなきゃやっちゃいけねぇのかよ
なんだか勢いだけで書いてたらとても支離滅裂になってきた
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
と言っても自分から探した訳では無い。先日Twitterで相互とストーリーの考察などを話していた時、そのリプライを全く知らないアカウントからRTされた。初期アイコンでbioも「〇〇(多分絵師名)キモイ。」みたいなことが書いてあったのでどのようなアカウントかは予想がついたが、よせばいいのに(!)見に行ってしまった。(ここでブロックしておけば良かったと後悔している)
予想通りそれは自分が好きなコンテンツの愚痴垢だった。自分のリプライもRT先でけちょんけちょんに貶されていた。こちらからしてみれば相互と推し語りや考察をしていただけなのに、なぜここまで貶されないといけないのか。いやいやただの解釈違いの範疇じゃないか、と思った。(一応キャラ名など検索避けもしていた。)
愚痴を吐くのは勝手にすればいいがそれが好きな人の目に触れないようにこっそりやって欲しかったな。まあ自分もここで愚痴を吐いてる訳だが。
正直焼きマロが来た時よりもしんどかった。何故かはしらんがどうも思ったよりダメージを受けたみたいだ。とりあえず今日は好きなドーナツ食って寝る。あーしんどい。
元増田の言いたいこととブコメの内容や流れとがかけ離れてしまっているのでちょっと書きたくなった。
要点は以下の通り
まず「傷付いた」という考え方は、多くのブコメが書くように、ある。存在している。
ただし、他の感覚全てがそうだけれども、「傷付いた」という言葉・言語によって諸人が感覚を構築してきたという背景・歴史がある。
構築にはある程度共通の経験(少女漫画でもなんでも)があり、日本語としての「傷付いた」がこれを結びつけている。
元増田はこの「傷付いた」を一度構築し直しませんか? と言いたいのだ。
ただ、言い方が結構雑で「嘘の概念」とまで突き放してしまっているので、
ブコメでは「傷付いたことがある」「元増田の感情が欠落している」などの反応が多く、建設的な議論に発展しにくい要因になってしまっている。
では、元増田はどうするべきだったのか。
もっと、感情を「傷付いた」カテゴライズに放り込むデメリットや、そうしないことに関してのメリットを示すべきだったと私は感じている。
元増田はブコメなどへの返信でようやくその片鱗をみせているが、確かに「傷付いた」を一度考え直してみるのは良いことなのかもしれない。
ただし「ムカついた」「ビビった」もまた「傷付いた」と等しく、感覚が言語で取りまとめられているに過ぎない。絶対的な指標は、ない。
元増田もまた人生の中で、他の人が「傷付いた」ような経験をして、色々「ムカついた」り「ビビった」りしているのだろう。
その感情の処理がどう効用があるのか、「傷付いた」を常用している人に訴える射程がないと、話が噛み合わないのだ。
元増田がなぜ「傷付いた」概念に疑問を抱き、それを脱構築しようと考えたのかはわからない。
以下は私個人の感じていることだ。
誰しもが情報を色々なところで発信できるようになり「私はこんなに傷付いています!(だから配慮してね)」「私は傷つく恐れがあります!(だから配慮してね)」が必要以上に溢れている世の中になったことは確かだ。
誤解のないよう述べておくと、当然社会的に十分以上の(例えば違法な仕打ちなど)をされた人が必死の訴えでそう述べるのは重要なことだ。そして人生の中で「傷付いた」経験は各員日々生じているだろう。
もしかしたら元増田は「傷付いた」で周囲を困惑させるある少数の人々の振る舞いが気になっているのかもしれない。
じゃーこの増田&ブコメから何を考えればいいのだろうか。せっかくの秋の近く火曜日。何かちょっとでも考えたほうがいいような気が、私はしている。
元増田が雑だけど訴えている通り、確かに「傷付いた」カテゴリになんでも放りこまず、もう少し考えるってのは大事かも、と思う。
ブコメでも、自分が「傷付いた」と感じるときはどういう時だろうか、と考察している方がいる。
「傷付いた」を一度解きほぐすことは、確かに自分の生活の心理面を考える上で役立つかもしれない。
同時に「ムカつく」「ビビった」も解体してみるといいだろうし、「怒り」「安楽」など当たり前にあるような言語で示される感情の、それぞれの内実を省みることは、きっと生活上重要と思う。
今日見たニュースで強い違和感を覚えたのでここに吐き出してみる。
男性の被害者「100人以上」か…元中学校教師の男ら、睡眠薬飲ませ「準強制わいせつ」疑いで逮捕
被害にあわれた方にお気の毒という感情は無いことも無いが、しかしこのケースでは加害者・被害者ともに男性(つまりマジョリティ)であり女性の被害者(つまりマイノリティ)がいない。
そう、被害者にマイノリティである女性がいない、つまりこの件はマジョリティ間で生じた事件でありフェミニズム的な考察や解釈の余地が一切ない事件であり、法律に反していてもフェミニズムや政治的正しさには反していないことをここに記しておきたい。
自分が違和感(それもかなり強い)を覚えたのはブクマカのみなさんが被害にあった男性に同情的な点だ。
思い出してほしいのだが、トランスジェンダー女性は肉体が男性である以上女性専用の空間からの排除は正当だし、弱者男性a.k.a.KKOは救済の余地のないミソジニストだった。そしてすべての男性には加害性がある。この事件の被害者も例外ではない。
やや唐突だが思考実験をしてみたい。なんらかの事件で被害にあった男性がそれを理由に女性専用車両に乗り込んで来たらその場にいる女性たちはどう思うだろうか?
数年前から一次創作が好きで、某サイトで細々と小説を書いている。あまり反応は多くないが、それでも完結したときに貰える感想はとてもありがたかった。コメントしてくれた人の作品を読んでこっちからもコメントする等を繰り返していたら、いつの間にかコミュニティが出来ていた。
はじめは進捗や新作への悩みを載せるツイッターを数人からフォローされたことだ。作品のコメント欄よりもツイッターの方が声をかけやすいのか、そっちでは色々な意見を聞けて面白かった。
最近、一年ほど連載していた小説が完結した。プロットを書き終えてから本編を練るため、進捗やちょっとした悩みを呟いたときに貰える意見を少し参考にしつつ、自分の書きたかったものを満足に書けた。
その作品には結構な反応が来ていて、応援リプや考察ツイートまでしてもらっていたので、「応援してくれていた方々、ありがとうございました」と作品のあとがきだけでなく、ツイッターの方でも書いた。
そうすると、「完結おめでとうございます」や「面白かったです」という社交辞令じみたリプライや、内容に触れつつ感想を述べてくれるリプライが来た。どの作品よりも多い反応が貰えて、私は有頂天だった。
そこで一人から、よければ人物相関図やプロットがあれば見せてほしい、という言葉を頂いた。無論作品を書く前にそういったものは予め作ってあるので、書き込みが多く汚いけどと断りをいれて公開した。
すると、その人物相関図を見せてほしいと言ってきた人とは別の人から、「◯◯と△△ってお互いにこう思ってたんだ!さすが推しカプ」と言われた。(原文ママではないが、まあこういうニュアンス)
ん? ってなった。◯◯と△△はどちらも男。それも、恋愛関係ではなく、ありきたりだが互いに切磋琢磨していける関係に過ぎない。(だが途中で△△の方は死ぬ)
人物相関図にもそのような旨だけが書かれていて、どこにも付き合っているなんて書いてない。カップルじゃない。
ツイッターはほとんど自分からの発信しかしておらず他人の投稿はあまり見ていないため、その人が腐女子だと気付いていなかった。というより、腐女子だという旨がどこにも記載されていなかった。ツイートも遡ったがどこにもそんな雰囲気もなく、作品にもそれらしい表現はなかった。
私は同性愛者への偏見はないが、腐女子は正直に言えば苦手だ。それは確かにツイッターにもサイトのプロフィールにも書いていないが、誰が自分の作品を腐フィルター越しに見られると想像するのだろう。
これからは作品にそういったコメントをしないでください、と言った方がいいのだろうか。腐フィルターを通して作品を読むのはその人の権利なのでそこを責める気はないが、私には伝えないでほしい、と思った。
SVOOの第四文型だから、「Sは、O1のためにO2をVする」という訳になる。
だから「(anybody) find me somebody to love」は、「だれか、自分に愛すべき人を見つけてくれ」と訳すのは普通。
※命令文だからSは省略されてるけど、まあ歌い出しから引っ張ってanybodyでいいっしょ。
「愛されるより愛したい」とか言うとキリスト教倫理のようなものが想起されるけど、フレディ・マーキュリーはゾロアスター教だから違うかなぁ。いろんな宗教の要素を取り入れてるから、ありえるかもなぁ。
誰か考察してた気がする。知らんけど。
わたしは腐女子で、とある実写洋画作品をメインとした二次創作を読むのが好きだ。
ツイッターで語りたいし、語っている人のツイートを見たい。好きな俳優の出演情報も知りたい。
そんなこんなで好きな二次創作作品を書いている方を中心にツイッターでフォローした。時々イラストや文章も書かれているし、考察などを読めるのも嬉しい。同人活動されているのであればその情報もゲットできる。と、まるでツイッター初心者みたいにここまで書いているが、自分はツイッター歴としては10年程度である。リア垢と趣味垢複数を使い分けている。
はじめはTLに流れる萌え語りや考察や作品を楽しんでいた。公式から情報が出るとお祭り状態になるのもよかった。しかしいつからだろうか。TLに時折現れるざわつき。それをノイズと呼ぶには些か配慮が足りないが、気になり始めた。
ツイッターで「趣味のアカウントで政治的ツイートをしてはいけないのか?」的な論争が起こった。それに前後して、TLに政治的ツイートのリツイート、いいねの表示が目立つようになった。いいねの表示は単に公式が悪いんだが、リツイート、そしてそれに関するツイートは、紛れもなくツイート主が自らのフォロワーに向けて見せたいツイートだ。それが増えた。いまも多い。
洋画作品メインのわたしの趣味垢TLは、と、ひっくるめて語るのは暴力的ではあるものの、現政権が憎くて仕方がないらしい。フォローしている人の問題なのか?と思って少しだけ整理したこともあった。でも明らかに、他のジャンルよりも、多い。
それはジャンルとして政治活動への視座が成熟しているのか?かと言うと、そういうわけでもないとは思う。自分も現政権や行政に物申したいことはあれど、評価すべき点と批判すべき点は切り分けて考えたく思うし、やることなすこと頭から否定するような姿勢は取りたくない。しかし趣味垢のTLは妙に好戦的なのだ。なぜ??ヒーローが好きだからなのか??それとも海外文化を意識する機会が多いから??
そのうちTLと政治思想が合わないがゆえに彼女ら彼らが創作する作品すら読めなくなってきた。TLが怖いのだ。言いたいことがわかるときもあるし、同意できるものもある。でも、「安倍は早く辞めろ」みたいな、ほぼこのままのツイートをされていた方がいた時、なんだかもう怖くなってしまった。
趣味のアカウントでも政治的ツイートをしていい。もちろんそれには賛同だ。だけど誰かが言っていたけれど、じゃあ趣味で繋がった誰かが自分と政治的立ち位置において真っ向から対立したら、きちんとそれを分けて考えることができて、且つ互いの意見を尊重できるのだろうか?
わたしのTLというえらい少ないサンプルで恐縮だが、政治的ツイートをする自由を謳う人の殆どが現政権が憎くて政府の行ったコロナ対策は全て失策で、韓国があるべきモデルケース、というご意見だ。それのどれかひとつにでもうっかり反論したとして、この人たちは発狂しないだろうか?分からん。反論していないからな。怖いから。
わたしには難しそうだ。少なくともこんなに強い言葉を使える人に、私のようなぼんやりした立ち位置は理解してもらえる自信がない。
もうこのジャンルについては基本的にツイッターを見ずに、ひとり壁打ちするか公式からの情報を細々と食いつないで生きている。
因みに別ジャンル(少年漫画)のTLにはほぼ政治的ツイートが流れてこない。年齢層は大きく変わらないとは思うのだが。
因みにネトウヨですか?と聞かれたら、わたしは多分そうじゃない。逆に、趣味垢のTLが「美しい日本🇯🇵」「普通の日本人」「大東亜戦争は正義だった」とか言い出したら同じくらい怖くなってしまってTLから離れるかも。つまり、左でも右でもない、かと言って全く何も考えていないわけでもない(そもそも「考えている」ことは自らを必ずしも左右に振り分けることにつながらないのだと思う)、声も大きくない人がいるはずだ。
声が大きくないから、大きい声にビビって逃げてしまった。ジャンルの人がみんなそうじゃないとは思っている。でももう怖い。
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以上、どこかに放流したくて増田にそのよすがを求めてしまいました。反論があることは百も承知ですが、同じような人が誰かひとりくらいいないかな…と思いながら筆を置きます。
ありがとうございました。
社会人なりたてのころ、自身の物覚えの悪さと治らない遅刻癖と幾度とない職場での怒られの末、ADHD+二次障害で軽度うつと診断されました。
ストラテラ(80mg)というADHD薬を飲み始めてから1年位経ちましたが、ようやく仕事でマシに立ち回れるようになってきたと思ってます。
このストラテラ、薬効も強くて仕事をマシにしてくれたいいヤツではあるんですが、反面副作用(というより「普通の人」に近づいたせい?)も強く感じてます。
【よかったこと】
…学生時代は数分遅刻、必要な教科書やら書類やらを忘れることは日常茶飯事。でも社会人としては容認されるわけもなく始末書寸前までいってました。(よく首にならなかったなと思います。)
ストラテラを飲んでから、ある程度改善策を考える余地が出てきたのか、起きる時間や持ち物を徹底的に洗い出して改善できました。
…毎度書類の提出がぎりぎりor遅刻だったりしてたのが、事前にある程度なにやるかがわかるようになって期限内に出せるようになってきました。
同時進行でいくつも案件を抱える仕事をしている(そしてそれはADHDが最も向いていないと言われる仕事らしい)とき、順序立てて作業するのが苦手なんですよね。
重要度と進捗を勘案して作業できる感覚を覚えられたのは本当に大きいです。
【しんどいこと】
…服用前は場末で同人活動みたいなことをしていたんですが、ストラテラを飲んでからは完全にアイデアが枯れました。
いままでは常に頭の中でBGMが鳴って天啓のように振ってきていた推しカプのシチュや性癖の妄想といった類が完全に消え去りました。
なんというか、常に頭が凪いでいる状態で、集中はできるんだけどネタがないので描きようがない状態。
なんとかひねり出そうとして、過去に書き殴ったネタ帳からネタを引っ張ってきて必死に描いたりもしたけど、そろそろネタが尽きそうです。
今はなにも思い浮かばない。飲む前は溢れ出るほどTwitterに妄想やら考察やら垂れ流してたのに。
これが虚無か。
・意欲の低下
ADHDの特性の一つに「過集中」というのがあります。かんたんに言うと、知らないうちにマリオのキノコを食べて、無敵になったかのようにワンタスクに没頭できるスキルです。
このスキルで幾度とない試験を乗り切り、妄想を具現化してきたものの、この元気の前借りはあとからきっちり体力気力に請求されることになります。
ADHD薬飲んでるんですから当たり前ですが、今はこいつもまるまる消え失せました。
むしろなにもやる気が起きなくなりました。少なくとも、突発的に机に向かって創作や勉強、行動を起こす気力はなくなりました。
ただネットサーフィンして、眠くなったら寝て一日が終わります。普通の人はこれが日常なんだろうか。
・希死念慮
…以前Twitterで見た「スナック感覚で死にたくなる」現象。あれに襲われてます。
私の場合、突発的に浮かぶ感情の結果、夜な夜なGoogleAssistantに毎日「死にたい」と話しかけて心の健康相談ダイヤルを案内されてます。完全にメンヘラってますね。
ドクターにも相談してみるも、毎度ながらの無難なアドバイス(「まあそういうときもありますよねー」)と1分診断。まあ手の施しようがないということなんだろう。
うつの影響もあるかもしれないですが、ストラテラ服用始めてからは薄く引き伸ばされたように常に「死」が張り付いている感覚があります。
【まとめ】
薬で矯正して、「ひと」並になって最近ではお賃金も増やしてもらうこともできて、この薬(と診断してくれたドクター)には感謝してもしきれないです。
でも、あんなに激しかった情動がなくなって、自分から生まれるアウトプットがゼロになる感覚が不意に恐ろしくなる。
会社員としての圧倒的マイナスは薄れた一方で、趣味でわずかばかりに自信になっていたものまで一緒に消えてしまった。
薬があっても結局生き辛さを感じて息をしている。本当に、ままならない。
尊敬してる町山さんに言われると
辛いですね…
いつも深い考察ファイル
買わせてもらってます
今回の一件、米軍に轢き殺された
少女の背景まで知りませんでした。
発達障害(ADHD)丸出しで、考えもない発言
まあ全て言い訳になるので
黙って批判もレッテル貼も
受け入れて行こうと思ってます— 貞本義行@腰痛 (@Y_Sadamoto) August 11, 2019
人事部長という役職名ではないが、似たような名称のポジションだった。
問題のある社員への指導教育だったり、人間関係のトラブルに決着をつけたり、罪を犯した人間を罰したりする機能だ。
それに比べれば、勤怠管理だの、給与の支払いだの、社会保険の手続きなどは子どもの遊びに思えてくる。
今でも夢に見る。
後悔がある。どうしてあの時、もっとやれなかったんだろう、やらなかったんだろう。
どうして、あの人の心に寄り添うことができなかったんだろう。どうして、自分の思う正しさを貫くために上位の役職者を説得しなかったのだろう。
そんな後悔を吐き出したくて、はてな匿名ダイアリーに投稿することにした。
事案は4つある。そこまでぼかしてはいない。私自身と向き合うためには、真実を吐き出さないと意味がないからだ。
彼女は現場の仕事をする職種だった。現場といってもそこまで肉体労働ではないけれども、専門職なのは間違いない。
ある年から、その仕事を外注に出すようになった。このままでは失業することになるが、組織として無責任だということで事務職に職種変更となった。
結果は想像のとおりだ。てんで話にならなかった。
料金計算を間違えた請求書を送るし、システム上の顧客情報を誤編集するし、よく交通事故を起こすし、難しい質問がきたら硬直して動かなくなるし、気分の浮き沈みが激しい。
職種変更してからは、1年毎に様々な部署をたらし回しになった。当時の私は人事部長でも何でもなかったけれども、1年毎に異動するパターンの人なんだな、というありきたりの感想だった。
こういうタイプの人は、適合する部署が見つかると十年単位で同じ部署に磔になる。いい部署が早く見つかってほしいな、と思ったのを覚えている。
4つ目の部署だったと思う。この部署は、基本的に事務が主体だが、肉体労働の仕事もあった。
彼女は、あろうことか肉体労働のポジションに充てられてしまったのだ。木を切ったり、ごみを運んだり、池に浮かんだ鳥や鼠を回収したり…
一度だけ、見たことがある。ごみ処理場のダストシュートに軽トラックが止まっていて、60から70くらいの老人達(シルバー人材センターの会員だと思う。派遣労働者ならもっと若いことが多い)が伐採くずをダストシュートに投げ込んでいたのだが、その現場で彼女も仕事をしていた。
泥まみれの作業服。トラックの荷台の上で、えっちらおっちらと伐採くずをダストシュートに放り込んでいた。
ひどい話だろう。でも、当時の私はそうは思わなかった。その部署には肉体労働ができる男性が足りていなかったので仕方がない。そう思っていた。真奈美さんの上司は男性だったけれども、管理監督職がそんな仕事をすべきではないと素朴に考えていた。
労働組合の女性部が人事研修課に怒鳴り込んできたのを今でも覚えている。「どうして女性社員にあのような仕事をさせているのか」、「あなたたちには法的な正しさ以外は理解できないのか」といった内容だった。
その後すぐ、真奈美さんの職場を覗きに行った。上司に怒られている最中だった。周りの社員は何も言わないでいる。むしろ失笑していた。仕事が早いわけでもなく、制度が高いわけでもないので当然の結果だったのかもしれない。
翌日、私は課長に相談に行った。「真奈美さんはあのような状況ですし、肉体労働で女性の社員がケガをしたらうちの課の立場が悪くなります。今年度末で異動させた方がいいと思います。早ければ来月にでも」といった内容だった。課長は、「急ぎの案件ではない。そのうちまた検討する」と言っていた。
それが12月の初旬だった。この3週間後に真奈美さんは死を選んだ。死因は延べない。
今でも夢に見るのは、課長に相談をした場面だ。どうして、「うちの立場が悪くなる」という理由を述べたのだろう。「真奈美さんの健康が心配です。大事になる前に手を打ちましょう。今すぐに異動させるべきです」となぜ言えなかったのだろう。
なぜ私は、正しい行いができなかったのだろう。
事案2 結衣さん(当時18才)
性格は明るめだったと思う。高い声の人で、社内で大声で笑い過ぎて注意を受けることがあった。
配属されたのは債権管理の部署だった。知能テストで理数分野の点数が高かったのと、定型的な業務が中心の部署なので、新人に相応しい配属先だと判断された。
問題が起こった。配属されて3か月が過ぎた頃、人事に連絡が入った。「あの子は服装が派手過ぎる。あれではお客様の前に出せない。試用期間中なのにあれはひどい」というものだった。
先輩や上司が注意しても直す気がなく、それどころか、注意した男性の先輩をハラスメントで人事に訴えると威嚇したという。
結衣さんのいる部署の前を不定期に通ってみると、いくつかのことが判明した。
実際、派手な装いだった。髪は金髪だったし、ピアスをしていたし、ひらひらのスカートを身に着けていた。
接客態度もお世辞にもよいとは言えなかった。お客にため口になったり、自分1人では手に負えないのに先輩に相談せずに不動産会社に怒られていた。
人によって態度が違う。若手社員に対しては強気だが、お父さん風(?)の優しい雰囲気の社員の前では借りてきた猫のようにおとなしい。
結衣さんに対して研修室で面談を行った。当時は役職がついていた私と、課長(事案①と同じ人)と、結衣さんの直属の上司がその場にいた。
本人が言うには、
・変な格好で来ているとは思わない
・仕事に来る服装は自分で選びたいし、他人が口を出すのはおかしい
・この格好が自分らしい。学校でも、アルバイト先でも文句を言われたことはない
結衣さんは、最後には「努力します」と言ったけれども、金髪が直ることはなかった。服装は大人しめになった気はしたが、私にはファッションのことはわからない。彼女と同年代の女性社員に廊下でやんわりと聞き取ったところ、「反省する意思はない」とのことだった。
私は反対したが、すでに人事のトップである総務部長まで話が通っていた。あとは役員級が承認するだけだ。
さて、当時の手帳を見ながらこれを書いているわけだが、その中には彼女に対する個人的乾燥として、こんなことを書いていた。
自分の意志があって動いているように見える。高校生で3年間アルバイトをしながらうちの入社試験に通ったのはすごいし(※当時の弊社の高卒入社倍率は30倍程度だった。おそらく今でも)、3人の年配社員に囲まれても自分の意見を貫いたというのも尊敬できる。うちの娘や息子を見ていても思うが、彼女は優れている。ぼんくらじゃない。うちの子ども達が情けなくなってくる。でも、うちの会社とは相性が悪い性格なのは否めない
結衣さんは、その後どうなったと思う? ここに記している時点で読み手は察しておられるだろう。
久保になったのだ。試用期間で切られた。
あの時、研修室で「あなたを本採用できない」と伝えた時の彼女の面持ちは今でも覚えている。一瞬、歯ぎしりをしたように見えた。眉間に皺を寄せたと思ったら、すぐに平時の顔つきに戻った。淡々とした声の調子で、「わかりました」と言っていた。涙を浮かべるのを我慢していた。
…それから、私は結衣さんを首にしないために何をしたと思う? なにもしなかった。
『まさか、総務部長やそれよりも上の人間が、高卒の子を半年で切るという意思決定はしないだろう』
手帳には記していないが、私は当時、こんなことを考えていた。情けない。今でも結衣さんの顔が脳裏に浮かぶことがある。
そのことがあってから、「別の会社でうまくやれていたらいいな」とずっと考えていたし、ずっと祈っていた。
真奈美さんと違って、結衣さんの夢は見ない。良い知らせがあったからだ。政令指定都市の職員として働いていることがわかった。
知ったのは偶然だ。回覧物に閲覧済のシャチハタを押している時、偶然に名前を見つけた。
あの時の安堵を言い表すのは難しい。心の底から安心できた。この日は早く家に帰る予定だったが、変更して居酒屋に寄ることにした。
事例3 和也さん(当時20代後半)
発達障害と呼ばれていた。私には診断能力はないが、周囲の評価はそうだった。
ある時、彼が直属の上司を怒らせてしまった。その上司は、一般市民その他の重要人物が観ている前で怒鳴り声を上げたのだ。私も見ていた。イベント会場だった。彼が指示を守らなかったのが原因のようだ。
その上司と和也さんは偉い人から大説教を受けた。後日、彼の指導教育を人事で受けることになった。
事前の報告書によると――まず、空気が読めない。他人が喜ぶとかイラつくとか、そういったことを予想できない人だった。
会話能力が低い反面、言語での表現能力は高い。文書ドキュメントの作成能力は社員の平均を超えていた。特に、プログラミング能力が秀逸であり、エクセルの帳票データを改良しては、これまで半日かかっていたものを20分で~みたいな改革を進めているとのことだった。
文章やレイアウトのこだわりが非常に強く、人が気にしない箇所でも時間をかけて修正する。かと思えば、オフィシャルな文書で使うべきではない表現(見積りあざッスヽ(^^)など)をメールにしたためることもあり、取引先からやんわりと注意を受けることがあった。
彼と面談した頃は、人事研修課長と呼ばれる立場になっていた。実際に面談してみて感じたのは、論理性が高いということだった。すべての言葉に理由を付けようとする。とりとめのない理由もあれば、よく考えているものもあった。
「職場の和が乱れるのはどうしてだと思う?」という質問に対しても、「理由は不明です。非常識なことはしていません。でも、ほかの人と自分の感じ方が違うのはわかります」と答えていた。
ほかにも多くのやり取りはあったが、どうにもおかしい点があった。
彼の発達障害についてだ。当時は発達障害という言葉が流行り始めていた。今ほどには一般的な言葉ではなかったと思う。
彼は発達障害なのか?という疑問を持った。というのも、発達障害に関する書籍を読んだところ、真の発達障害では弊社の面接を突破することは不可能だと確信したからだ。
彼との面談では、イラっとすることはあったものの、怒りの感情とまで呼べるものは湧いてこなかった。彼はその実、他人に配慮することができるのではないか?
つまり、発達障害を装っているのだ。本来的には、別の何かであって、それが原因で周りとの不和が起きている。サイコパスとか、ソシオパスとか、反社会性障害とか、当時は色々と調べたが、素人に結論を出すことはできなかった。
ひとつだけ、わかったことがある。『演技』ができる人間だということだ。
彼の採用面接の記録を見たところ、今の状況とはまるで異なる印象が記されていた。例えば、個人面接では溌剌とした雰囲気だとか、グループ討論では司会を務めており、周囲と協調しながら自分の意見を主張できる~といった内容だ。
グループ討論というのがポイントだ。個人面接では、面接官との相性次第でどうにかなることもある。それが合否の大半を占めるといっても過言ではない。しかし、集団面接の相手は同じ受験者だ。その中でリーダーシップを取って、しかも面接官3人すべてから高評価というのは、これまでの彼の社内評価と矛盾している。
この問題については、根拠を示して解決できるものではなかったので様子見とした。彼は不和こそ引き起こしているものの、能力自体に問題はなかったからだ。小さいミスは起こすようだが、大きいミスの経験はないし、頭の回転も速かった。それに、弊社にとってプログラミングができる人材は希少だった。
彼と彼の部署は結局、不和を乗り越えることはできなかった。和也さんの態度にキレた別の上司が、彼に対して暴力行為を働いたのだ。それを見ていた一般市民が警察に通報し、社屋の前にパトカーが停まった。
半年後、和也さんは転職した。退職面談の記録によると、次に行く会社ではプログラミングの専門職のようだった。IT業界には詳しくないが、はてなブログでもたまに見る名前の会社だ。
彼にとっては、よい結果になったのかもしれない。でも弊社にとっては違う。あれから、社内インフラ等の整備に関する部署が新たに誕生したし、私が退職する間際も情報関係の業務ができる人材は常に足りない状態だった。
今思えば、電算管理システムを担当している総務課にでも異動させてやればよかった。そうすれば、あんな事件によって心が傷つくこともなく、今でも働いていたのかもしれない。
【追記】
昨日の夜にはてなブックマークの人気エントリーに入っているのを見ました。
今では、この日記を消したい思いでいっぱいです。
私は結衣さんのような人に憧れていたのです。
権威や、周囲の空気に流されずに自分を保ち続けようとする姿が羨ましかったのだと、日記を書いている最中に自覚しました。
誤字や脱字が多くなりましたが、修正はしません。このままにしておきます。
ご意見をいただいた皆様への感謝を込め、はてな匿名ダイアリーのコメントの一部に個別に返信します。
※全員へのコメントを考えていたのですが、やはりどうしても途中で切れるので一部としています。ご容赦ください。
長文なので0かな、と思っていました。
今は消したい思いです。
性別に関係なく、上司や周りに空気に逆らえる人間が眩しかったんだと思います。
ただ、若い子なので、自分の感情をぶつけて周りを不幸にすることがあったのは間違いないです。
死なないで。今すぐこの増田をプリントアウトしてもしなくてもいいから病院に行って。 あなたに必要なのは医療です。 読み物としては面白かった
もう少し考えたいと思います。
面白かったのなら幸いです。
彼は発達障害を演じていたのではなくて、定型発達の一般人としての振る舞いを求められて、都度学習しては演じていたのだと思いますよ 発達は本来の自分のままに過ごすと問題を起こ...
彼は頭の回転が速いタイプだったので、面接対策の本をよく読んで勉強していたのかな、とあなたのコメント読んでいて感じました。
突然久保になる結衣さん
日曜日の朝、「お前はなにをしてるんだ?」と恥ずかしさでいっぱいになりました。
率直な印象を書くと、自分ができることを過大評価している感じがするね。本人に起こったことは、本人の選択によるところが大きく、他人がしてやれることなぞはたかが知れているも...
でも、期待が働いてしまうのです。
例えば、ビリヤードの玉が転がっている最中に、横からちょっと力を加えると別方向に・・・みたいな。
自分の力で助けてやりたい、何とかしてやりたいと思うのです。
叶わないことの方がずっと多いのですが。
大事なところで失敗を繰り返してきました。
体力がそこまでないタイプの人でした。
とある中小企業で総務平社員(だった)も罪を告白してみる 人事部長さんの後悔を見て、自分の過去(数年前)がフラッシュバックしたので、総務平社員だった自分も勝手に懺悔の意味を込...
返信させていただいております。
昔の、たとえばサザエさんの波平とかが働いている会社では こういうった和也なんかはトンチの受け答えで 「あらそれもそうねえ、あはは」で居場所を作ってもらえていた気がする ...
今はどこの会社も余裕がありません。
適合できない人が生き残りにくくなっています。
退職鬱の症状はなかったのですが、最近になって、当時のことが頭をもたげてくるのが苦しくてしかたがありません。
こんなことを試さざるを得ないほど苦しいのです。
各事例については、当然ぼかして書いています。
誤字なのです。この年になると、体調がいい日と悪い日との落差がひどいのです。
事例1~3を書いた日は頭の回転が鈍く、こんなことになってしまいました。
それ以後の内容については誤字が少ないはずです。
ことの発端は、
「スケベ絵が描きたいけど全巻購読してないから(解釈違いが怖いから)全巻揃えたい」
と交流のあった相互がツイートしたことから始まる。その時は、最初から身体目的の関係みたいですごく嫌だなwwwと笑っただけでその後も交流を続けていた。
しかしこれが所謂”エアプ二次創作”と呼べるものではと疑念を抱き始めると、草も生えなくなった。pkmn界隈で二次創作していた絵師が炎上、海外ゲームのUTは公式がエアプ二次創作の禁止をしているのを知ったからだ。エアプ二次創作は良いわけがないという危機感が高まった。
自ジャンルは原作コミックスが全十数巻。読者は多いが、ヲタクは少なく、更に二次創作をしている人間となるともっと少ない。pixivでの総作品数も約300作品くらいだ。
まさか自ジャンルでエアプ二次創作を、しかも自ジャンルがきっかけで繋がった、5年以上関わりのある相互フォロワーがしているとは思わなかった。まあ、”どこまでは原作を読んでいるのか”、”どこからがエアプなのか”、そこまではっきりとしたツイートはなかったためその日はスルーをした。
数週間後、新規フォローした人と、原作の具体的な巻数や頁や台詞を交えながら空リプで語るという機会があった。その人も漫画を全巻持っていた訳ではないが、途中までのキャラクター考察、今後の展開予想などで盛り上がった。そんな中、相互はまた「全巻買いたい」と呟いた。相互への空リプだと思われなくたかったのでスルーした。(新規フォロワーはありがたいことに、数日後には漫画を全巻揃えた。)
何故だろうか、相互へのツイートへの反応のしづらさを感じていた。相互も自分がミュートされてると思ってか、普段の私なら即いいねしているようなツイートをする。1日のツイート数が極端に増える。それらが更に反応のしづらさに拍車をかける。
某日のこと。
私の最推しには誕生日が設定されていないため、界隈では名前から連想した日付(語呂合わせ)を記念日として祝っている。自身も毎年タグを利用してお祝い絵をあげていた。普段は別ジャンルにいるフォロワーも、今日は推しの新規絵を描いてくれた。
相互が最推しの記念日絵を描いた。キャプションに「気になるから全巻買いたい」と添えて。
本来なら嬉しいはずだが、その絵を描くにあたって「どこまで履修しているのか」がとても気になった。
いつもの強弱がはっきりしている線画ではなかった。立体的なつやベタ、綺麗なハイライト、パッと見ただけで相互が描いたと分かる入れ方のアクセントカラー、印象的な加工、全てが無かった。
誕生日さえあれば誕生日に祝いたい、その複雑な気持ち。マイナージャンルだから名前を検索かけてもヒットしない苦しみ。新刊が発売されたのが5年前という絶望。だからこそ、記念日の数日前からタグを浸透させようとツイートをしていた。
マイナーキャラだからいいねなんて二桁いけばいいはずだ。故にいいね欲しさではないだろう。
好きだから描いたのか?最推しが初登場する巻数までは持っているということ?
一つ違和感を覚えれば、あれもこれも不信感に変わってくる。
通話した時に他ジャンルの話ばかり聞かされたのは、語れるほどの知識がなかったからか?
5年間以上ずっと自ジャンルの行方が気になったことがなかったということか?
何故今になって……?
いや、今ようやく興味を持ってくれたと考えれば喜ばしいことだ。