はてなキーワード: 眼差しとは
なんか今バズってるらしい男性保育士の記事だけど最後の方に問題がたくさんあって怒りが収まらないので自分の思考を整理するためにメモします。
https://travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/
たくさんコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/s/travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/)がついているようだけども、はっきりいって的外れ。手ばなしにいい記事とか言ってる人のセンスがわからない。自分の差別意識に気づいていないのかな???
1ページ目の保育の現場のレポートはとてもいいと思います。現場を知らない人がこういうのなんだって知るのは大事。
このページの前半も、とてもいい。
保育園の整備の必要性だとか、保育士の専門性、子育てを核家族が担うのは限界がある現代で、保育園が保護者に子育ての専門知識やスキルのインプット・サポートになっているという指摘は本当にその通り。
https://travel.spot-app.jp/hoikuen_nagahashiryo/2/
千葉市長の掲げた「男性保育士活躍推進プラン」にSNSから批判がたくさんあったことに関する話に及んだところで、千葉市長は、自分にコメントを寄せたアカウントなどを全部過去発言なども遡って調べたと言って、こう述べる。
「マジです。この問題は、真面目に研究しなくてはならないと思いまして。で、調べていくと、“ジェンダーフリー”の生き方を持った方々で、例えば女性の権利を守るために活動している方が非常にこだわっていらっしゃることも分かりました。もちろん、保育園に預けていた経験のある方で反対意見を出していた人もいましたけれども、それは本当にレアなケースで。例えばその人たちの中には、“旦那が自分の娘のオムツを替えているだけでも嫌”みたいな意見を言っている人もいました。でもそれはもう、ポリシーの話ですからね。生き方の」
ここのあたりの段落よんで、それまですごくいいねこの記事!って思っていた心がボキっとへし折られました。
私の周りで男性保育士活躍プランが出た時に批判していた意見を思い出すと、(かなりざっくりまとめると)実際に現実に起こっている小児への性的虐待をいかに防ぐか、そこが大事なのに、その議論をしなくて男性保育士を増やそう〜っていうのってどうなの?っていうことだったと記憶している。
(市長も「自分に寄せられたコメントを調べて」意見を言っているので、私も自分の周りでみかけたコメントから意見しますね)
で、そういうコメントの多くは、過去に学校とか教育現場で男性の教育者、あるいは家族や親族の中で年長の男性から向けられる性的な眼差しや振る舞い、そういったものに感じる「いやーな感じ」を思い出して、「やめてほしい」っていう感覚を抱いている、そう見受けられた。
この千葉市長の答え方の問題点は、そういう、過去の性被害体験につながるようなものも含まれているはずの批判を、十把一絡げに「“ジェンダーフリー”の生き方を持った方々」と雑にまとめてるところだと思う。はっきり言ってこれはセカンドレイプではないですか?
この発言によって、「性的虐待の心配がある」という指摘が、「うるさいフェミニズムがなんか言ってる」という文脈にすり替えられてしまっていて、問題が矮小化されて対策が全く取られなくなってしまう。子どもを主役に考えるはずなのでは?子ども守れないよねこれじゃ?
性的被害やそれを守ろうとする人の意見をこうやって矮小化するのは、被害を防ぐことはできないどころか、温床にしてしまう可能性もあって本当に危険。
「とはいえ、例えば“性犯罪の9割が男性だ”という意見なども出ていました。こういう意見は、男性として受け止めなければいけない現実っていうこともありますよね」
「それはある種の真実でもあるし、そのご意見に至るなんらかのご経験をされてきたことを受け止めなければならないと思います。しかし、我々が議論しているのは、保育という世界の話です。ですから、保育という中において望むべきものについて、少なくても公的な側はしっかりと筋を通さなければならないと思います」
ここにきてトンデモ感が倍増。保育の世界の問題、と切り取って、対策を打とうとしないのは、いじめの問題を教育現場で「教育の問題なんで」って言って、本当は暴行脅迫、金銭の搾取なのに刑事事件にしないのと同じくらい悪質。
そもそも、ジェンダーフリーの何が悪いんですか?と小一時間問い詰めたい。
インタビューの最後の方で、「“男性の子育て”を多くの市民に理解してもらうという意味もありましたけど」とか言っているくせに、なんでジェンダーフリーに批判的なの?
ジェンダーフリーってそもそも「女性を守る」ってこの市長はインタビューで言っているけど、女性の方が男性に比べてハードモードだから、そこから守ろうよって言っているだけで、別に男女の間に格差がなければわざわざ守ろうとしなくてもいいはず。
女性の方が小さい・若いうちからレイプに遭いやすかったり、性的搾取(JKビジネス、って狂ってるよね、まだ学校行ってる高校生で医学的にも発達過程だったりするんじゃないの?な存在で性的サービス受けるとかさ…)されやすかったり、女性だけ家事育児を担うような風潮があったり、その影響で男性が正社員長時間労働化するから男性の方が賃金高くなって格差があったりするから、そこをイーブンにしようとするだけじゃん?
だから、ジェンダーフリーになったら、子育てに理解のある男性も増えるし、男性保育士も増えるだろう?なのに、そういうダブルスタンダードに気づかずになんとなく言っている。
そういうところが、ほんと〜〜〜にムカつきました!
あと、そもそも論として、「男性保育士活躍推進プラン」の政策的な面に対して分析すると、ダイバーシティを促進するために男性保育士の働きやすい環境を整備するというものらしいんですが。
https://www.city.chiba.jp/kodomomirai/kodomomirai/unei/documents/danseihoikusi.pdf
これ、つまり、男性保育士の数がめちゃめちゃ少ないから、将来男性保育士がこれだけ増えるように数値目標を立てましょう。それを達成するために魅力を発信したり、働く環境の整備をしたりしましょう。ということみたいなんですが。
環境とか魅力の発信もだいじだろうけれども、そもそも根本的に増やすために、じゃあなんで男性保育士がこんなに少ないの?っていうのをまずかんがえてほしい。
去年の待機児童問題の国会の議論以降いろいろ発表されてますが、ざっくり、女性だけで比較しても、全産業平均より5万少ない、男女全部平均すると、全産業平均に比べて10万少ないって言われてる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201605/CK2016050102000129.html
http://www.sankei.com/life/news/161205/lif1612050042-n1.html
冒頭記事にもある通り、子供の命と発達を担う責任重大な仕事で、最近はブラックな現場も多いというし、それだけ働いて、手取りが少なかったら、そりゃみんな辞めるよね?
ましてや、「結婚したら一家の稼ぎ頭」を期待される性役割分担を負いやすい、男性が、長く働けるだろうか?
だから、男性を増やすという施策をするよりかは、とにかく保育士という仕事の待遇をもっとよくする、根本的にはこれが男性保育士も増える本当の解決策だと思うんだよね。
もちろんトイレとかないんだったらそういうのの整備は大事だけど。でも給料安くてもトイレと休憩室よくなったから続けよ、って思わないよね。
あと、男性保育士批判を批判してる人に、子供を主役に考えてないっていう人いるけど、それも違うとおもう。
子供の性虐待防止のための現場の仕組みをもっとしっかり作ることが、男女関係なく、現場の保育士への疑いも晴らすし、子どもの安全も高める。
あと性虐待ではないけど、保育園での死亡事故は毎年報道されていて、これは根本的には「お昼寝中のうつぶせ寝をさせてはいけない」みたいなスキルの共有ができていなかったり、人手が足りなすぎて泣いちゃってる子どもをぐるぐる巻きにしちゃったりという、結局は現場の保育士への教育・人的リソースが足りていないせいでおきている。
だから、性虐待、暴力的虐待、ネグレクト、いろいろふくめて、子どもの安全性を高めるために、保育士の配置を増やしたり、研修のリソースを増やしたり、ということで対応するべきで。
そういう対応をちゃんとして、男性保育士に子どもを世話されたくない、という恐怖心を持っている人も、男性保育士が増えても大丈夫、って思えるような仕組み作りをしないといけないはずでは。
ネットの世論は福島から自主避難した横浜の児童へのおごりの強制は「いじめだろ!みとめろよ!」っていうのに、保育園で虐待を防ごうよっていう話にはなんでこんなに気づかないんだろうね。まあみんなが保育園行くわけではないからしょうがないのかな…
そこで、週1回くらいの確率で、電車内で放屁する屁ロリストが現れる。
ただでさえ人がひしめき合う通勤電車の車内、
そこに追い打ちをかけるかのように、悪臭を放つ奴が自分のすぐ近くに現れるのである。
しかも、すかしっ屁に成功したのを良いことに何食わぬ顔して本やスマホに目をやり続けているのである。
これは何とも憎たらしい状況ではないだろうか。
いいですか、電車内での放屁は完全なる害悪であり、とんでもない重罪です。
そこで全国の電機メーカーの皆さんにお願いです。
どなたか「オナラ探知機」なるものを開発してもらえないでしょうか。
大きさはできればガラケーくらいの大きさで。
それを対象者の尻に近づければ、「ビーッ!ビーッ!ビーッ!」とけたたましくブザーが鳴るのです!
慌てる屁ロリスト。そんな憎っくき屁ロリストの腕を私はガッと掴んでこう言うのです。
「この人、オナラです!!」
さらに慌てる屁ロリスト。周囲は軽蔑の眼差しを彼に送り続ける。
かくして屁ロリストは車内での居心地悪くなり、次の駅ですごすごと降りるしかないのです。ざまみろ。
私たちは空気のきれいになった電車内で快適な通勤を続ける。なんて素敵なことでしょう!
そうそう、ついでにオナラ探知機にはニオイ除去機能も付けてくれるとうれしいです。
コミュニケーション障害者、社会人になれず。
私はその先輩を尊敬している。
その先輩は強い個性を有していて、文学や映像作品に独自の解釈や視点を挟むことができる人だった。周囲の人が話し掛けてもロクに目を合わせずに自分の思っていることを話すし、全く空気を読まない人だったけれど、大衆のそれとは違うなにかを秘めている人だった。
でも、先輩は一年を通して懸命に就職活動をしたにも関わらず、零細企業すらも通らなかった。留年して、もう一度満を持して就職活動に挑むらしい。詳しい就活の話は聞いていないから、企業を選り好みしたのかもしれないし、そもそもエントリーした企業数が少ないのかもしれない。
今でもその先輩を崇拝の眼差しで見つめている。尊敬こそすれ馬鹿にするつもりはこれっぽちもない。
ただ、普通ではない人が普通の人の輪の中に溶け込んで生きていく、たったそれだけのことが遠いものに感じられただけ。
異常者が爪弾きにされるのは当然の摂理かもしれないけれど、そういう人にも最低限の幸福が望めるような、そんな社会がいいと思った。空虚な理想論だけど。
次。幸せのマチを読んだ。岩岡ヒサエの漫画はほっこりするし全般的にあたたかな内容なんだけれど、ところどころにひりひりする内容を忍ばせてくれるのがいい味出していると思う。
一冊で簡潔なので気軽に手に取ってもらいたい。ひなびかけた商店街を舞台にした若者たちの奮闘と恋愛に主題を置いているんだけれど、それを見守るとあるキャラクターたちの眼差しが素敵な作品だった。
次。春と盆暗を読んだ。なんかよくわからないけれど、とても魅力に満ち溢れている漫画だった。
一応は恋愛漫画に分類されると思う。でも、全体的に妙に掴みどころがないというか、登場人物たちがありがちなキャラクターからずれているので、不思議な読書感を味わえる漫画になっていると思う。
ふわふわとしていて、でも何かしら本質を捉えていそうな物語が好きならあり。もちろん、読み取れていないだけで相応なメタファーが隠されているのかもしれないけれど。
次。おんさのひびきの新装版を読んだ。銃座のウルナの三巻が見つからなかったんだよ。でも、これはこれで素晴らしい作品だった。
内容としては文学小説を読んでいるような感じがちょっとした。登場人物それぞれに懊悩があり苦悩があり煩悶がある。それでも生きていかなければならない子供たちの姿を、精緻に切り取っているなあって思った。
エトもマコも順基も、きっと大人になったらそれぞれの内面で、それぞれの関係性で、何かが変わってしまうのだろう。それでも彼らの十年後ないし二十年後が読んでみたくなる漫画になっていた。
http://anond.hatelabo.jp/20170304120801
さて、前編では「何故俺が不幸なのか」を考察し、納得するところまでいった。
後編では「そんな俺が幸せになるにはどうすればいいか?」を考察したい。
・幸福に必要な要素は「自己実現と成長」「独立とマイペース」「つながりと感謝」「前向きと楽観」
・俺には「つながりと感謝」が圧倒的に足りていない。
・俺の「溢れる金と時間」を「つながりと感謝」と交換すれば解決!
⇒俺は幸せになるぜ。
最初に「何を持ってれば幸福感を感じるのか」をまとめておこう。
色々と記事や本に目を通していたところ、前野隆司さんの「幸せのメカニズム」という本が参考になりそうだった。
それによると、幸せを感じるためには以下の4つが必要だそうだ。
・自己実現と成長
・つながりと感謝
・前向きと楽観
一人で素晴らしいサービスを作っている俺としては上記の「自己実現と成長」「独立とマイペース」「前向きと楽観」は満たされていると実感している。
俺は「収入が上がれば、幸せになるだろ、普通に考えて」と思っていた。
そもそもなんでこんな勘違いをしていたんだろう?
この謎が氷解した。
実は俺以外の多くの一般人にとって、「収入が上がれば、幸せになる」というのはだいたい正しいのだ。
何故なら、日本人の大多数である会社員や公務員にとって「収入が上がる」というのは「昇進して地位が上昇する(つながり力アップ)」ことによって副次的にもたらされるからだ。
たとえば俺みたいに年収3000-4000万円といえば会社員であればそこそこ大きな企業の取締役レベルの収入になる。
そのくらいの地位になると、「可愛い部下が尊敬の眼差しで見てくる」だの「地域に顔が効くのでツテがある病院で好待遇を受けられる」だの「数百人の部下を持つトップとして君臨する」だのということがあり良い感じの「つながり」が大きくなる。
だから、多くの人にとって「昇進して地位が上昇する(=収入が上がる) ⇒ つながりが増える ⇒ 幸福感に繋がる」わけだ。
しかし俺の場合は「昇進とか無くて地位とか無いけど収入が上がる ⇒ つながりは増えない ⇒ 収入は高いが幸福には繋がらない」となるわけ。
なんでこんなことになったんだろうって思い返したところ、そもそも俺は次のような性質を持っている。
・自由が好き
・効率が良いのが好き
・個人プレーが得意
この性質を満たして仕事をしようと思うと「極力他人と関わらない」という仕事スタイルになってしまう。
一方で、自分に合ったスタイルで仕事をしていたため、能力を十二分に発揮することができ、仕事自体はうまくいき、収入は上がっていったわけだ。
逆に言うと、つながりを重視して「自由」「効率性」「個人プレー」という俺の性質を放棄すると俺は力を発揮できなくなり、「自己実現」「マイペース」「前向き」といった他の幸せ要素を阻害することになってしまう。
では、どうすれば俺の性質をある程度考慮した上で「つながり」を増やすことができるだろうか?
考えた。
俺には金と時間がある。
ついでに言うと、それなりの仕事力もあると思う。
では、この「金と時間と仕事力」を「つながり」に変換できないだろうか?
そもそも「金」というのは交換手段であり、色々なものと交換できる。では「つながり」と交換できないだろうか?
直接交換する・・・というのは難しそう。「お金あげるから友達になってください」「お金あげるから恋人になってください」っていうのは本当の意味で「友達」「恋人」ではないだろ。
せいぜい悪質な「つながり」ができるだけ。
ただ、「金 ⇔ 何か ⇔ つながり」というふうに間に何かを挟んでやれば、成立するのでは?
この「何か」をウンウン考えてたところ以下の観点から「訪日外国人×地方創成」のビジネスが良いのではないかと思った。
・その土地に根付くビジネスなため、事業パートナーとして地元の人々との繋がりができる。
・短期間で儲けるのは難しそうだが、他ビジネスで日銭は稼いでるため問題ない。
・グローバル感覚があんまりないけど、興味はある俺にとって、面白みがある。
ただ、「自由」「効率性」「個人プレー」という俺の性質を妨げないよう以下の制約を設ける必要はある。
・メンバーは超少数精鋭で。MAXは6人。できれば俺を含めて2〜3人程度のメンバーで事業を進める。
そもそも最初に差別し始めたのは男の方だし、男性への差別的な発言はカウンターでしかない。
最初に言い始め、それを許容し、持ち上げ、悪辣な態度で女性を断罪する差別主義者の世の男たちは男性差別などと口にする権利はない。
石器時代から停滞した文化様式を否定しているだけで男性差別などと言われたのではたまってものではない。
結局は女性を奴隷としか思っていないからそういった非人道的な思想に染まるんだ。
女性は男の下で、そうあるべきという考えに支配され否定することもできないのがお前ら男だ。
そもそも最初に差別し始めたのは男の方だし、男性への差別的な発言はカウンターでしかない。
最初に言い始め、それを許容し、持ち上げ、悪辣な態度で女性を断罪する差別主義者の世の男たちは男性差別などと口にする権利はない。
石器時代から停滞した文化様式を否定しているだけで男性差別などと言われたのではたまってものではない。
結局は女性を奴隷としか思っていないからそういった非人道的な思想に染まるんだ。
女性は男の下で、そうあるべきという考えに支配され否定することもできないのがお前ら男だ。
そもそも最初に差別し始めたのは男の方だし、男性への差別的な発言はカウンターでしかない。
最初に言い始め、それを許容し、持ち上げ、悪辣な態度で女性を断罪する差別主義者の世の男たちは男性差別などと口にする権利はない。
石器時代から停滞した文化様式を否定しているだけで男性差別などと言われたのではたまってものではない。
結局は女性を奴隷としか思っていないからそういった非人道的な思想に染まるんだ。
女性は男の下で、そうあるべきという考えに支配され否定することもできないのがお前ら男だ。
バレンタインデーということもあり、一通り満喫したのでネタを放流します。
ただ、ある程度ターゲットが絞られるので、好みに合えばどうぞといった感じで。
20台後半から30代中頃
◯前提条件
自分がどれだけイケメンで好条件が揃っていても、戦う場所を間違えれば勝利はない。
逆に、不細工で条件が揃っていなくても、自分より劣った人間ばかりか、もしくはそもそもライバルの少ない環境に行けば勝率はかなり高くなる。
片思いのあの子を落とす方法ではないので、それを期待していた人は帰っていただいて構わない。
◯狩場
最近至る所で目にすることのできる、コーヒーと輸入食品のワンダーショップ
◯理由
「ここで働いている女性は、9割が女性社会に疲弊しているから」
そんな理由で?と思ったなら、まずはそれが自分のモテない原因だということを自覚して欲しい。
あのお店をよく見て欲しい。
しかもいつも高いサービス力でハキハキと働いている。サービス力の高い女性を選んで採用しているのだろう。
せっかく高いサービス力を発揮しても、同性特有の冷たさであしらわれている場面を数多く目にすることができる。
もしそんな中で感じのいい男性客がいたらどう映るか。童貞のあなたにもわかるはずだ。
ここを選んだもう一つの理由は、コーヒーやワイン、調味料などの扱いが多いだけに、そういうものに興味をもった女性が働いている傾向が強いという点だ。
あとは個々の趣味に合わせるが、そのあたりに興味を持って質問をすると喜んで対応してもらえることが多い。
女性社会にもかかわらず男性が入店しても違和感がないという点も大きなポイントと言えるだろう。
自分の場合は、エスニック料理とワインにそれなりのうんちくがある。
そのあたりを、嫌味なくそれでいてこだわりがあるように伝えることができると、相手の記憶に好印象に残ることができる。
◯場所
自分の行動範囲外の店舗、もしくはショッピングモールなど働いている女性の居住区圏外を選ぶ。
近所ではないということが、人を恋愛に対して自由にさせてくるからだ。
◯時間帯
平日の昼間が最適。次に夜。
間違っても主婦であふれかえる平日の午後。人で店内がごった返す祝日を選んではいけない。
コーヒー、調味料、ワイン、その他専門食材の前で、しばらく悩みながら店内の様子を伺う。
品出しの女性が数名回っているので、誰かがストライクゾーンに入るようなら行動開始。
◯声掛けのパターン
・具体的な料理名を挙げ、適切な調味料やおすすめの食材を質問する
・特定ジャンルの中から、贈り物にしたい商品を探していると質問する
客が少ない時間帯を選ぶ理由は、こうしたコミュニケーションの尺を長くとるため。
特におすすめなのは贈り物で、ラッピングまでのコミュニケーションや、人に贈り物をする人という好印象を残すことができる。
あとこれを書くと付き合った相手がピンと来てしまうかもしれないけど、最初の声掛けがちょっとポイントで、忙しい相手を気遣う言葉がよい。
「今お聞きしてもいいですか?」とか「ちょっと悩んでるんですけど聞いてもらえますか?」とか。
殺伐とした環境の中で、気遣いある声掛けをすることの効果は大きい。
言われた記憶あったらそれは僕かもしれません。
◯いい人の演じ方
・下心は見せず
・表情は柔らかく
・姿勢良く
・立ち居振る舞いは緩やかに伸びやかに、それでいて時に力強く
・「すいません」ではなく「ありがとう」を使う
・高圧的でなく、卑屈でない
・完全に無知ではダメだけど、相手のほうがちょっと詳しいくらいを演じる
◯2回目以降の来店
1回目の来店から1週間から10日くらいの間に再度来店して、1回目の来店で教えてもらえたことの感謝と具体的な成果を報告する。
それでいて、2回目はもう少し踏み込んだ質問を用意する。
これであなたは相手の大切な顧客になり、働く意欲の源になることができた。
4回、5回と繰り返していくうちに、相手はそれがないことが物足りなくなるようになる。
その見極めは、来店と同時に相手の表情を見ればわかる。
例え言葉にならなくても、疲弊の眼差しから安堵や歓喜の色が見て取れるはずだ。
◯スカシのステップ
もし安堵や歓喜の色を感じることができたら、次は先に上げた忙しい時間帯を選んで来店する。
コミュニケーションを取ろうにも取れないことが相手にはストレスになるはずだ。
相手が忙しさを理由にコミュニケーションを拒んだら、大人な対応で店を後にする。
もしそれを実感出来ないようなら、また一つ前のステップに戻って欲しい。
◯仕上げ
次に訪れるタイミングは、当然コミュニケーションに余裕がある時間帯だ。
相手は前回の罪悪感を埋めるためにより積極的なコミュニケーションを求めてくるだろう。
それをしっかりと大人に受け止めることができれば、お膳立ては完了。
「感謝の気持ちをお返ししたい」という名目のもとに、コーヒー、ワイン、専門料理など、今までのコミュニケーションの延長にある外食に誘い出すことのハードルはかなり下がっているはずだ。
慣れてくればここまでのステップを1ヶ月、5回程度の来店でこなせるようになる。
時間に余裕があるときは3店舗くらいを同時に回すこともできる。
そこから先はその時次第になるが、ワンチャンで十分というなら嘘なりおべっかなりいくらでも積み重ねてその日のうちにどうにかするくらいの可能性なら十分にある。
その中で、いかに自己肯定感を満たしながら癒やしになるかということこそ大切だ。
そのためには、質問にある程度の手応えとやりがいがなければならない。
生半可に見透かされてしまうことのないように、事前準備、もしくはある程度得意な分野から攻めることを忘れないで欲しい。
そうして、重みのある「あなたのおかげ」という気持ちを伝えることができれば、相手の自己肯定感を満たしかけがえのない癒やしになることができるのだ。
◯ちなみに
何気ない毎日を「楽しい生活」にする家具・雑貨店も悪くないのだが、あそこは少し意識が高すぎて面倒くさいのと、デートに誘い出すきっかけを作るのが難しい。
同じく、あなたの“一杯”にたどり着くまでのストーリーを紡ぎ出すコーヒー店も、スタッフに男性が多いのでおすすめできない。
やはり同じ意識が高いでも、スタート時点で状況に疲弊しているというポイントは大きい。
婚活だなんてライバルの多い環境に自ら特攻するくらいなら、同じ趣味を持った相手が集まる場所に入っていったほうが成果は得られるだろう。
まず、スマホをやめることにした。仕事の電話やメールはもう来ないし、妻や恋人はおろか、親しい友人さえいないのだから、誰に気兼ねする必要があろう。思えば、朝は天気予報を調べ、通勤中はニュースを読み、昼はゲームに興じ、帰宅後は着信を知らせるランプを頻りに確認するのが、働いていた頃の日課となっていた。それに比べて、現在たいへん快適だ。さすがに貯金も心細くなりつつあるので、そろそろ職探しに本腰を入れるつもりだが、また働き出しても、できる限りスマホから離れた生活を送りたい。このご時世では中々難しいだろうが。
次に、鏡を見ないことにした。現代社会には鏡に毒された人間が多い気がしてならない。なるほどメイクやらスキンケアやらで多忙な女性が身だしなみに敏感になるのはある程度はやむを得ない。大体、鼻毛が飛び出ている女とのデートなんかお断りだ(無職とのデートなんかお断りよと聞こえてきそうだが)。しかし、自らの容姿を念入りに観察するような男には、どうも違和感を覚える。そんなに見惚れるほどでもないのに。そんな暇があったら中身を磨けばいいのに。と言っても、仕事中は何より外見を重んじていた私に、彼らを批判する資格があるかどうかも疑わしい。出勤前には寝癖のチェックが欠かせなかった。昼食におにぎりを食べたらお手洗いに行かねば気が済まなかった。或いはこれはビジネスマンとして当然の振る舞いなのかも知れない。ただ、私は少し疲れてしまった。誰とも会わない今なら、髪がボサボサだろうが歯にノリが付こうが一向に構わない。実に清々しい。
そして、髭を伸ばすことにした。人生初の試みである。頭の隅に浮かんだのは、エイブラハム・リンカーン。まさか彼みたいな美髯を目指すほど私も阿呆ではあるまい。単なる憧れだ。少年のころに図鑑の中で触れた、第16代アメリカ大統領の威容は、今なお私の脳裏に鮮やかに焼き付いている……と、ここまで書いて、我ながらちょっと呆気にとられてしまう。私は無職になって、悲しむどころか、むしろこの状況を楽しんでいるかのようだ。楽観主義も度が過ぎれば身を滅ぼす。けれども、信じられないかも知れぬが、私は実際、ほとんど常に悲観的であった。考えれば考えるほど思考は悪い方へ傾き、夢も希望も見出せず、自暴自棄に陥る。他人との比較が癖になり、酷い劣等感に悩む。「怠けた頭は悪魔の仕事場」という外国の諺には、一つの真理が含まれるのではなかろうか。私は毎日悪魔と暮らしているようなものだった。
ある夜、都心の休憩所のベンチに腰掛け、コンビニで買ったアメリカンドッグとシュークリームを食べていた。妙な取り合わせだが、たった二百円でできる贅沢は他に無い。いや、正直に告白しよう。懐が寂しかったのだ。無収入の生活がいつまで続くか見通せないため、財布も満足に使えなかった。林立するビルディングの明りの下を、仕事帰りのサラリーマンやOLが、揃って足早に過ぎてゆく。車や電車の走る音がかまびすしい。デパートの買い物袋を提げた婦人たちの笑い声が耳を打つ。ふと、「どうしてこうなのか」、と思う。孤独を感じた。大都会の喧噪が却って私を独りにするようだった。周囲のベンチに座っているのは、単独の人が多いようだけれど、誰かとメッセージのやり取りでもするのだろう、彼らはスマホを熱心に操っている。私の存在に気付く人など何処にもいない。だが、ここで泣き出す訳にもいかない。
その後も無為徒食の日々は変わらなかった。公園の木陰でぼーっとしたり、広場に群がるハトを眺めたり、日が暮れるまで彷徨したり、諸方の社を参詣したり。どこへ行っても充たされず、空腹は甚だしくなる一方で、足はいよいよ痛くなる。かといって、すぐに働く気も起きない。虚しかった。行き着いたショッピングモールのトイレで用を足し、自らに課した戒律を破って鏡を見ると、生気に乏しく、いかにも自信のなさそうな、無精髭を生やした男が一人、救いを求めるような表情で立っている。そこにリンカーンの姿は無かった。足を休める場を求めて店内をさまよう。が、既に老人らが座を占め、熟睡しているらしい。安心しきった寝顔にみえる。帰りの難儀を憂えつつ、やむなく出入口へ引き返す。「いらっしゃいませー」「ただいま30%引きでございまーす」という若い店員のいきいきとした調子がなぜか辛い。女子学生の愛嬌も、年配夫婦の微笑みも、母に抱かれた赤子の眼差しも、私には全てが辛かった。ようやく家に到着してテレビの電源を入れれば、アスリートの勇姿を目にするたび、怠惰な自分を痛感し、アナウンサーの顔が映るたび、鏡の自分を想起する。私の居場所はいずこにありや。やがてテレビも見なくなった。
さて、私はこの日記を「吾輩は無職である。名前は言えない。」で始めようかと思った。己の憐れを笑い飛ばせるくらいの朗らかさが欲しかった。ところがこの通り、筆致はだんだん暗くなっていく。まあ無職だから仕方ない。最後に、ついこの前、海へ行った話を綴って、明るい気持で筆を擱こう。それは、とてもよく晴れた、穏やかな日だった。太陽の光が海のおもてをきらきらと照らし、寄せてはかえす波の音がたえまなく響く。突堤で腕組みして獲物を待ち構える釣り人、のんびりとウォーキングを楽しむおばあさん、浅瀬に浮かぶカモの群れ、軽やかな足取りのミニチュア・ダックスフント、波打ち際できゃっきゃ言いながら貝殻を拾う女の子と、それを嬉しそうに見守るお父さんお母さん。おや、あそこの男の人は、どこか悟り澄ましたような目つきで大洋のかなたを遠望している。同志だろうか?(失礼)
「明るい気持で筆を擱こう」と書いた。でも、このかぎりなく静かで、平和な海岸に臨み、やわらかな潮風に身を任せていると、明るさも暗さも、楽観も悲観も、全部きれいに吹き払われて、どこかへ行ってしまう。不安や焦燥はしぜんに消え去り、自分が無職であることさえ、いつしか忘れている。そこには何もない。あるのは広い海だけ――青空をのびのびと泳いでいるのは、カモメのカップルだろうか。仲睦まじく羽を交わしている。幸せそうでちょっとむかつくけれど、もう人(鳥)と比べるのは止そう。カモメには、カモメのカモメによるカモメのための鳥生があり、私には、私の私による私のための人生がある。お前らは、勝手にいちゃいちゃしてればいいのさ。
感想は増田に投稿済みだし、最終考察も投稿をバリバリ編集中なのだけど、
先ほど、ずっと一緒に推理に付き合ってくれていた友人が、《原作の真相》に1つの答えを出してくれた。
私はこの解釈を読んで、江戸川乱歩まじすげぇ人なんだな、と思ったし、
「舞台の感想を聞いて原作を読み返した」という超間接的な位置に居る友人にまで影響を与えたこの舞台まじやべぇな、と思った。
この話は、やれBLだホモだと騒がれているが、こんなにも『人と人との愛の深い部分について書かれている』ことに萌えている感想は、まだ一度も見たことがない。
腐女子の皆さま、乱歩パイセンの名作は、想像を絶する至高のBL小説だったよ……(震え声)
観劇してから120時間。神経衰弱するほど友人と推理を重ねてきて、友人が辿り着いたこの結末に私は本当に感動したので、記念に最後にもう一度観劇しようと決めたのだけど、観劇前に今までのことを日記として残したいと思う。
(友人との推理に使用した部分以外は原作未読をまだ貫いているし、私の主観での希望的観測は友人とは少し違うのだけど、それは最終考察とあわせて観劇後にまとめたい。)
どうせ同じ高いお金を支払って観劇するのなら、楽しめた方が絶対にいい。
私はもう「視点を変えれば、世界が変わる」=「つまんなかったものが最高に面白くなる」という瞬間を短くない観劇人生で知っていたので、本作初見では何か視点を歪められてるような印象にすごくもやもやした。
今思い返すと、色々なテクニック…いや、ヒントが散りばめられていた。
作中の探偵二人が言う「常識ではトリックを見落としてしまう、視点を変えるんだ」というようなセリフが印象に残っていたり(大事なことだから2回言いましたの法則。一度だけならスルーしていた)。
ストーリーテラーがやけに観客の目をガン見してくる→目を見るというのは語りかけてくるということで。しかしその眼差しに乗るメッセージは無く、視点誘導にも思えるのに最終的にストーリーテラーを非難するような印象で終わる。この矛盾。
原作では『簑浦』という名前の主人公が『箕浦』であったり。同一人物に別の名前が与えられ『一人二役』であったり。
いかにも裏がある風で、どうしてもひっかけられてるような感覚があった。
「結局胸糞悪いだけだった」作品も結構観てきたけど、それらは完全に私との解釈違い…美意識というよりもっと恣意的な『美学』の違いで、どうにも受け入れがたいという点からくる胸糞悪さだった。
でも本作では諸戸に感情移入できてしまったし、そもそも異形とは何かみたいな問題提起の要素もあり、そんな乱歩の原作が『美学の押し付け』には絶対にならないという妙な確信があって。私は謎解きに踏み出していた。
推理小説は読まないけど、リアル脱出ゲームとかは好きなんです。
(一晩明けて昨日、一緒に脱出できた経験のある頼れる別の友人が、私の沼りっぷりを気にかけて舞台を観に行ってくれた。そして私が完全に見落としていた最重要ヒントを見つけてきてくれた。優しすぎるし天才すぎる。)
(そう言えば原作解釈の友人も、私にとっては自明の理すぎて結構雑に扱っていたヒントが友人にとっては盲点で、そのヒントがあったからこの解釈に至ったと言ってくれた。嬉しかった。)
(そして、盲点とは必ず存在するし、それは本当に自分には見えないだけで、他人から見たらこうも軽々と見えるものなのだなと、また一つ得難い経験をすることができた。人生って楽しい。)
終演後からすぐ調べ出して、最初のヒントには帰りの電車内でもう出会えていた。検索上位だった。有り難い。
だからそのまま寝ずに感想を書き上げて翌昼増田に投稿したのが初見感想。
なんで増田に上げたかと言うと、これが《私》の感想であると、他の友人知人に知られるのが恥ずかしかったから。お陰で普段以上に壁打ち感ぱなくて孤独だった。それを全部友人との推理にぶつけていた。この五日間付き合ってくれて原作真相にまで辿り着いてくれた友人マジで有り難う。
自分の感想の反応はサッパリだけど、各所に皆さまがどんどん感想を投下されるのでひたすら読み漁っていたのですが、どうにも自分の知りたい解がそこにはないように思えてきて。(感想を拝読させていただいた皆さま、失礼な物言いになってしまいすみません。今回が異例だったのです。通常の演劇作品の感想としてはとても楽しく面白く拝読させていただきました。公開してくださったことを心から感謝しています。これからも是非よろしくお願いいたします。鍵、イクナイ。)
先述の私の盲点にあったヒントを見つけてきてくれた友人との会話でも判明したのですが、私が求めていたのはどうやら『感想』ではなく『印象』だったのです。
感想とは『事象に対峙した発言者の想い』である。対して印象とは『事象に対峙して発言者が捕捉できた部分』である。
私は自分では見えなかった作品のありのままの姿を知りたかったみたいです。
その点では、原作を読んだけど舞台は見ていない友人と、舞台は観たけど原作を読んでいない私の探偵コンビはなかなか良いバランスだったのかも。
お互い違う表現を見ているから感想だけでは語れないけど、小説も舞台も作品の本質が同じなら、印象と事実も一緒に突き合わせることで対話が成立する。
書いていた続きが寝落ちたら消えていたので、ちょいちょい追記していく。
先生と出会ったのは、わたしが中学生の時です。彼は大学院を卒業後、国語の非常勤講師として赴任してきました。わたしと1周りほど年が離れていて、身長は10cm程度高く、かわいい顔立ちをした、少し年齢不詳気味の人でした。
当時のわたしは、授業中は寝ているか、教科書の隅に落書きをしていて、学年下位をふらふらと彷徨っている、やる気のない生徒でした。そんなわたしに「やればできるから」と声をかけ、必死に授業に参加させようとする先生は、いかにも「教師になりたて」で。その熱い眼差しで見られる度に、わたしは居心地の悪い思いをしていました。どれだけ無視をしても「おはよう」と笑顔で手を振る先生、「わからないことがあればいつでも聞いてね」と教室を去る間際、席までわざわざ歩いてきて声をかけてくる先生。わたしは、彼の笑顔がどうしても嘘くさく見えて、大嫌いでした。
気持ちが変わったのは、制服のシャツが半袖に変わり始めた頃でした。一週間遅れで課題を提出しに行った際に、とある難関大学の過去問を意地悪のつもりで聞いてみたら、さらりと答えられてしまい、その際に知った彼の学歴の高さに意外性を感じたからです。先生はいま思い返してみても、とても頭の良い人でした。自分が頭の良いことを知った上で、きちんと、相手にあわせたレベルで話ができる、勉強を教えることのできる優秀な先生でした。彼の解説を聞きながら、初めて、答えを導き出す楽しさに気付き、勉強が楽しいと思うことができたのです。
いま思えば、わたしは彼のパフォーマンスの引き立て役のひとりでしかなかったのでしょう。後々、彼の鞄から発見した、クラスの成績表の書き込みを見れば分かります。伸びしろはあるがやる気がない、かつ、やる気になれば伸びるタイプ。わたしは「ちょうど良い生徒」に過ぎなかったのです。そして、幸か不幸か、彼の好きなタイプの顔立ちをしていました。
先生は褒めるのが上手でした。たった10問の小テストで満点をとっただけでも「偉いなあ、嬉しいなあ」と、にこにこ頷いてくれました。自分で言うのもアレですが、わたしの地頭は悪くなかったので、少し本腰をいれて勉強するだけで見る見る間に成績は上がっていきました。周りの教師が驚いた眼で答案を返してくるのが面白くて、わたしはもっと良い点数が取りたいと思い始めていたのです。
いや、違うかもしれません。分からない問題を先生に聞きに行きたいがために勉強をしていたのかもしれません。先生は担当教科の国語だけでなく、どの教科も教えることができ、また、教え方が上手だった。だから、分からないものがあれば、どの教科でも先生に聞きに行っていた。わざと分からない振りをしていると見抜かれてしまうので、本当に分からない問題を探し、解決していく内に、分からない問題は減っていき、どんどん難解になってしまった。わたしは先生に会いたい、質問をしたい、話したい一心で、教科書に向き合っていたのです。
たったの半年程度で、わたしの順位は下の下から、上の上へと上がっていきました。先生は桁数の違う成績表を見比べて笑っていました。その彼の横顔を見ながら、わたしは少しだけ、意地の悪い考えを抱いてしまいました。言わなければ、幸せでいられた言葉を言ってしまったのです。
「1位を取ったらデートしてください」
先生は、びっくりした顔でわたしを何秒か見つめた後、視線を宙に泳がせました。「お願い」。そう、一歩前に出たわたしから距離を開けるように後ずさり「1位は難しいよ?」と苦笑いしました。「無理だと思うなら、約束してください」。その時の彼の脳内には、きっと、学費免除をされている学年主席の優等生の顔が浮かんでいたのだと思います。先生は意を決したように「いいよ、ただし、全教科合計順位で」と小声で告げました。
300人いない程度の学年でも、1位を取るのは簡単なことではありません。優等生は、わたしの学校でも飛びぬけて頭の良い少女でした。しかし、わたしには彼女に負けない思いがある。恋心です。
わたしは、先生とのデートの権利をかけて彼女に一方的に勝負を挑みました。彼女の苦手科目であった生物を攻略することで、大幅に点差をつけたわたしは、僅差で勝つことができました。学年末試験の結果が書かれたA4のペラ紙を持って、勝ち誇った笑みを湛えながら職員室に飛び込んできたわたしを見て、先生は少し罰の悪そうな顔をして「おめでとう」と返しました。
誰かに見つかるのは避けたいと提案された場所は、あろうことか先生の自宅でした。少し驚きましたが、恋は盲目状態だったわたしは先生からのメールが届いた瞬間、秒速で返信しました。春休み、まだ蕾のままの桜並木を見ながら、ミスタードーナツの袋を下げて、先生の自宅への道を歩みました、人生で1番幸福な瞬間でした。私服姿の先生は想像の何倍もおしゃれで、部屋も黒を基調とした、かっこいいものでした。
わたしたちはドーナッツを食べながら「教師と生徒」という禁断の響きに似つかわしくないほど、平凡で下世話な話をして盛り上がりました。教室内のヒエラルキーも職員室内のパワーバランスも変わらず馬鹿らしいと腹を抱えて笑いあいました。先生が録画をしていた、ただ絵面だけが派手な洋画を見ながら、作品とは全く関係ない話に興じました。
映画を見終わった頃、先生が不意に真剣な表情で聞いてきたこと、その声音を、わたしは忘れることができません。「俺のこと好きなの?」。いつも飄々としていた先生が、こんなに真剣になるのを見たのは初めてでした。報われぬ片想いを今日で最後にするつもりだったわたしは、笑顔で「大好きです、結婚したいみたいな意味で好き」と頷きました。次に出てくる、哀れで馬鹿な生徒の恋心を突き放す言葉に怯えながら。
しかし、先生の口から発せられた言葉は、予想の真逆をいくものでした。わたしのことがひとりの女性として好きなこと、これからもこうして会いたいこと。しかし、くれぐれも周りの人に気付かれてはいけないこと、それが守れなくなった時点で離れたいこと。彼の話していた言葉はよく覚えていませんが、約束事の多さだけは覚えています。「教師と生徒」の恋に怯える先生の気持ちを手に取るようで、その真剣な眼差しに促されるように、わたしは「はい、はい」と頷いていました。
先生が、なぜわたしのことを好きだったのかはわかりませんが、彼はよく「愛に飢えててかわいそう」とわたしを評しました。両親も健在ですし、人並みに可愛がってもらえていたはずですが、わたしは両親との関係性というものがどうしても希薄にしか感じられなかった。そんな姿が、愛に飢えているように見えたのかもしれません。彼は小さな頃から過剰な愛、過干渉を受け育ったそうです。だから、その与えられすぎた愛を持たざる者(と彼が思うもの)に受け渡すことで、バランスを取っていたのかもしれません。
先生とわたしは、密かに逢瀬を重ねていきました。学校では、若いお気に入りの教師に熱を上げる馬鹿な生徒を演じ続けました。その一方で、2人で会う時のわたしは、あまり騒ぎませんでした。先生に似合う、大人の女性に早くなりたかったので、静かに、黙っていました。
高校生になり、バイトを始めると、わたしの身なりは少しずつ「ちんちくりんな子供」を脱却し始めました。大人になるにつれ、彼の熱が上がるのを感じ、気分が良くて仕方がなく、その感覚を味わう度に自分の箍が外れていく気がしました。己のアイデンテイティがうまく掴めなくなり、自分が子供なのか大人なのか分からなくなる瞬間が増え、ぼーっとした日々を過ごしていました。誰にも言えないまま、大人になるストレスは存外厳しく、不安に泣いた日も多かった気がします。
そして何よりも、わたしは頭が良くなってしまった、なりすぎてしまった。あんなにも尊敬していた彼の大学の合否判定は「A」しかでませんでした。学年1位は優等生からわたしの手に移ってしまった。彼が枕元で得意げに語る知識に、目を輝かせることは、もはやできなくなり、ただ黙って薄笑いを浮かべることで精いっぱいになりました。そういったわたしの変化を感じてか、彼はわたしの「人に言えない」ことに漬け込むようになっていきました。
「共犯者だよ、君も捕まる」
そんな言葉を言われる度に、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、嗚咽をあげて泣くか、へらへら笑うことしかできなくなりました。誰かに言わなくては、と思いつつも、その先に待つ破滅を考えると声が出せない。何よりも「淫行教師」と「可哀想な女生徒」として衆目に晒されるのが耐えられませんでした。
わたしは、先生のことを本気で愛していました。彼の未来は輝かしいものであってほしかった。たとえその先に、わたしがいなくても。先生がどれだけ汚い姿を見せてきても、教室の隅で燻っていたわたしを救ってくれた人に他ならないのですから。それが例え、先生の株をあげるためのパフォーマンスであっても、救いだったのですから。
物語の幕引きは、あっけないものでした。先生は、自分の罪を周囲に告白してしまったのです。2度目の冬のことでした。放課後、その曜日は先生が学校に来ていない日だったので、早めに家に帰って漫画でも読もうといそいそ帰りの支度をしていたわたしを学年主任が呼び止めました。主任は、まるで化け物でも見たような、恐ろしい、それでいて悲しそうな目でわたしを見ていました。すべてを察しました。
先生は、主任と校長にだけわたしたちの関係を告白しました。校外で2人で会っていた事実を認め、これ以上関係が深くなる前に学校を去りたいと告げたそうでした。主任と校長は、わたしに深く頭を下げました。そんなことしてほしくないのに、する必要ないのにと焦るわたしを2人は涙を堪えた目で見上げてきました。そして、痛切な表情で「肉体関係はあったのか」と問うてきました。「ありません、断じて」とだけ答えると、先生たちは泣き出し、再び謝り始めました。わたしは校長室の分厚い壁が、この大きな泣き声を外部に漏らさないかだけが心配でした。
先生からはその数日後、直接、学校を去ることを告げられました。彼は、わたしが嘘をついたことを責めました。勝手な生き物だと、少し幻滅したのを覚えています。一方的に罪を告白し、逃げ出すのはルール違反だと怒りたい気分でした、しかし、解放されたがっている自分がいたのも、また、事実でした。わたしたちは主任と校長に話したこと「だけ」が2人の間にあった関係であることを確認会話し、男と女の関係を辞めました。
先生とわたしは、3学期中をいつも通りに過ごしました。終業式で言い渡された先生の退職を聞き、泣いている生徒の多いこと。別れを告げ、さよならを惜しむ生徒たちを横目に見ながら職員室に顔を出さずに、わたしは去りました。先生の机に重なった書類の多さは、1日やそっとで持ち帰れる量ではないと判断したからです。
春休み、わたしは毎日のように学校に通いました。先生の机が見える、職員室と質問コーナーの境目に陣取って赤本を進めました。毎日通うつもりでしたが、たったの1日だけ大雨が降り、行かない日がありました。その翌日、いつものように職員室に向かうと、先生の机はもぬけの殻になっていました。わたしはその瞬間、初めて人前で叫び声をあげ、怒り狂いました。教師たちの静止の声も聞かず、わたしは何度も横に立ち、椅子にもたれかかり、無意味に引き出しを開け閉めして遊んだ、彼の机を蹴り上げました。そして、糸が切れたようにしゃがみ込み、永遠と、わんわんと小さな子供のように泣いていました。
高校3年生の時、知り合いから先生が都内の某大学で働いていると知らされました。わたしは当時の志望校よりも幾分か偏差値の低いその大学を第一希望に変更し、無事に合格しました。学びたい学問でもなんでもありません、ただ、先生がいるからでした。何も言わず、大雨の中逃げるように去っていった彼に、文句の一つでも言ってやりたかったからです。大学生としてあらわれたわたしを見た先生は、怯えきっていました。「お金ならあげるから」と言われた瞬間、わたしは、あの日職員室で暴れた時のように先生の鞄を投げ捨て、近くのベンチを蹴り上げました。
なぜか彼は土下座をして、許しを乞うてきました。わたしがしたかったのは、してほしかったのは、そんなことではありません。ただ「さようなら」とだけ言いたかっただけなのです。先生は、季節が夏になる前に海外へと去っていきました、何か月か後に届いたエアメールには「許してほしい」と何度も綴られていました。
先生は、わたしのことが恐ろしくて仕方がないようでした。大学でふとすれ違っただけで、化け物を見るような顔をして踵を返されるたびに、わたしの心は潰れました。きちんと別れを言いたいだけだったのに、いつしか、互いに恨みが募っていってしまったのです。彼はすでに日本に戻ってきているようですが、わたしは、まだ会いに行けていません。会うのが怖いのです。あの目が怖いのです。
わたしの家には毎年、主任と校長から年賀状が届きます。他の生徒には届いていないようですが、わたしにだけは届くのです。罪を共有し合う仲間ですから。わたしはその年賀状に、便箋3枚程度の手紙で近況や1年の振り返りを送るのが常でした。母は、特別親しくもなかった教師への手紙を綴るわたしを眺めては、毎年、不思議がっていました。
はじめて家を出ることになり、年賀状の送付先が変わることを告げる手紙を綴る最中、わたしはぽろりと母に罪を告白してしまいました、勿論、関係については「公然の事実」のみ伝えました。母は「でも、好きだったんでしょう?」と聞いてきました。そうです、わたしは好きだったのです、先生のことが。そして、今でも好きなのです。「さよなら」を言えないまま、わたしは片想いの渦にまだ囚われているのです。「なら、良いじゃない、世間はどういうか分からないけれど」。そうです、他人など、どうでもいいのです。どうでもよかったのです。
冬になり、主任と校長は一人暮らしになったわたしに年賀状を出すことなく、立て続けにこの世を去りました。わたしのことをずっと気遣ってくれた2人は、成人し、就職が決まったことをとても褒めてくれました。彼らが、あの日以降、罪について話題に出した日は一度もありませんでした。わたしを気遣う優しい文面、文化祭に遊びに行ったわたしを出迎えてくれた笑顔、どこまでも優しい2人でした。
2人の葬儀には沢山の生徒、教師が集まりました。その中の誰も、わたしの罪を知る者はもういません。しかし、幼き日の思い出話に花を咲かせれば、誰もが「あなたは、あの先生が好きだったのでしょう?」と聞いてきます。わたしはその質問をされる度に「好きです、今でも」と答えるのです。そう答えながら、喪服姿の先生を横目で探してしまうのです。ヒールをはいたわたしと同じぐらいの身長、年の割にかわいい顔立ちをした年齢不詳の人。わたしは、彼がどんな姿をしていたのかも、もう曖昧にしか思い出せません。一緒に撮った写真はたったの1枚しかありませんでしたし、それもどこかに消えてしまいました。
はじめて会った日から、気付けばもう10年以上の月日が流れてしまいました。あの頃急速に大人になってしまったわたしは、ひどくアンバランスな心を抱えて生きています。わたしの心は未だに、あの新しいようで古ぼけた校舎に囚われたままなのです。職員室を入って右側の島、奥から3番目の灰色の大きな机、先生の足元にしゃがんで、顎をひんやりとした板にのせて、話すのが大好きな子供のままなのです。
しかし、わたしがいまいる場所は、生きている場所は、あの箱庭ではないのです。過去の罪に囚われる時代はもう終わりなのです。だからこそ、口に出さなくてはいけないのです。だからこそ、会いたいのです。会って、言いたいのです。
せんせぇ、さようなら。
コミケでカメコに囲まれているコスプレイヤーの"画像"を見るととても安心する、精神が安らぐ
それがどんなに美人であっても、その"画像"からその人物の承認欲求が読み取れる
普段相手にもしないであろう下層たるカメコに、その人数や熱気にあてられコスプレしてしまっている美人、という搾取が感じられる
ローアングルからの下卑た眼差しを受けている愚かなコスプレイヤーという構図は本当に肴になる
それは"画像"で画面の向こう側の出来事で、それは俺に笑われるだけの"画像"でしかない
さっきツイッターのリツイートで某アイドルコンテンツのコスプレを見かけた
ものすごく上手な絵師が描いた美少女の絵がリツイートで流れてくるように
ポートレートとでも呼ぶのだろうか、被写体の他に余計なものが写っていないもの
コスプレ元のキャラ同様なんだか品のよさが伝わってくる、鼻も高いしものすごく美人だ
その人のアカウントに飛んで数分間、他にも公開しているコスプレを見漁った
背景や構図なんかも素敵でため息が出る
プロフから察するに良くわからないが本職は別にありコスプレがメインじゃないらしい
そんな風に漁っていくうちに熱が引いていきだんだん冷めていった
キャラへのリスペクトも感じ取れるし、流行りものにだけ乗っかっているとかそういう感じもない
コスプレへの態度がしっかりしているほど、公開されているものの美しさに目を奪われるほど、負の感情が溢れていく
この人はコスプレに執着しているわけでもない、本職もある
生まれ持った顔の美しさで上からこちらをぶん殴ってくるコスプレ
上等な暮らしをしている人が片手間に楽しんでいるであろうコスプレ
この人が公開しているのは作品であって、俺が肴にするようなコスプレ"画像"ではない
あくまで俺はその作品を見せていただいている四畳半で暮らす下流のオタクで、俺がこのコスプレイヤーを搾取することなど到底出来ない
その事実を認識するばするほど情けないやらなんやら腹が立ってくる
ツイッターはリアルから切り離された場所である!電脳世界万歳!自分の身分も忘れられる!そう思いたかった
フェイスブックのようなリアル自慢、充実アピール大会が行われない場所でないと思っていた
そのはずが、こんな完璧人間が住む世界と地続きになっていただなんて
それも男性向けオタクコンテンツのコスプレでそれを見るだなんて
不意打ち、だまし討ち
最悪だ
復讐として腹いせとして、搾取の構造を守りたい俺は欲望のはけ口にしてやろうかとも思ったがそれも出来ない
新春絵画「酉展」の開かれているミュージアム中仙道に行ってきましたわ。
昨年は300週年で各地で催し物が開かれた若冲の絵が目玉です。
細かい足の鱗の描き込みと鎧の札のように規則正しく並んだ羽根の表現が
作者の鷹に掛ける強すぎる思いは伝わってきました。
藤田嗣治の飛び魚を獲る海鳥の絵が、鳥と植物の基本を押さえた日本画の中で
ひどく異色でした。植物がないうえに、とても躍動感が溢れています。
海鳥が水面に突入した後を示す水滴の表現も写真のようで見どころですわ。
絵画の他には地歌舞伎と陶磁器、甲冑・刀剣の展示室がありました。
陶磁器コーナーでは仰韶時代のとても古い土器から始まる中国陶器の歴史を
追うことができます。
ここに展示されている水色で縁取られたバウムクーヘン型の水滴がとっても素敵で、
身バレしない程度にフィクションも混ぜとくがこんな感じ。厚生年金健保あり。手取りは月35万くらい。
会社はまあそこそこ大手のアニメ制作会社。上場とかはしてないけど、それなりにTVシリーズや劇場をやってる。
仕事は一応Pかな。ラインPもしたけど、最近は企画P寄りの仕事が多い。何でも屋っぽい。
嫁さんはフリーのアニメーターで去年の年収300万(毎年それくらい)。子供2人。車無し。
23区内の中古のマンション買って暮らしてる。ローンは年内に繰り上げ完済予定。
入って数年進行やってた時以降は徹夜とかもそんなにはない。
もちろん休日返上とかは普通にある業界だけど、逆に平日適当に休んだりもできるしな。
仕事内容は楽しい。自分が企画に関わってアニメになるのは快感ある。観た人の反応があるのは嬉しいよな。
業界全体としてはDVD頼りからパチ屋頼りから、配信へといろいろ模索中。配信も何年持つか。
オール3Dなんかも各社各メーカーが動いてるが、日本のアニメ業界が全部そっちというのは無いだろうと思う。
新人育成は常に悩みだが、もう半分諦めてるところはある。どんだけ育てても定着せんし。
嫁がアニメーターだから若い頃の低収入もわかるんだが、金の稼げないやつを何年も何人も抱えてられないし。
うちの社長は演出も作画ももう育てるのやめて他から取ってくることに決めてるっぽい。
まあ俺的には監督クラスあんだけ中から出したマッド(阿佐ヶ谷荻窪時代)のが遥かに畏怖の眼差し。
俺自身の給料はもうそろそろ頭打ち。社内の社員制作はこのあたりが上限っぽい。
監督、キャラデクラスの拘束は年間にすればもちろん俺より上だけど。
こんばんはメリークリスマス。これは残念な発達障害アラサー喪女のしんどいクリスマスの話。
私の険しいスペック
・家族と不仲
・腐った方のオタク
一人暮らしは5年前からで、家族が私に辟易して半ば追い出される形でする事になった。
投薬治療と婚活費用、自分の生活費と出費が重なり正直元々貧乏なのに更にここ1年程苦しくなって来年実家に帰る事を親に相談していた所。
最近将来が後ろ暗い事で悩み、更にうつが酷くなり部屋はぐちゃぐちゃ、部屋にいても孤独感でしんどいのもあった。
クリスマスに食事を誘われたのをきっかけに発達障害の事を親に告白しようと思ってた。
少しでもお互い理解出来たら、楽になるかなって思って。
昨日から実家に帰って過ごした。鼻風邪と生理の貧血で頭は働かずぼーっとしてたせいで発達の症状は酷く出ていた。
母とは終始折り合いが悪かった。我慢してたけど口撃が凄くて終始頭がガンガンした。
私が発達障害でずぼらなとこもあるかもしれないけど、それでも昔よりは失敗を糧にしてかなり気を使って生きてる。
それでも足りないのか母はどこか異常に神経質で細かくて。
他人や私のミスやちょっとした不器用さにもそこまで言わなくてもというとこまで執拗に口撃する。
寛容さがなくて、許容値が狭い。
身内で、私が発達で何も期待に応えなかったグズで嫌いな子供だからつい口が出るのかもしれないけど。
…やっぱり母と私は合わない。
発達の事を話すつもりだったけど、、、辞めた。
私は存在否定と肯定感を得られず更に苦しむ。
そもそも、大して心から褒められたりそのままの私を認めて肯定してくれた事が殆ど記憶にない。
「お前には何度も裏切られた」ってわざわざクリスマスに言われた。
母も人間だから、頑張った事(子育て)に対して見返り(子の人間的成長や報酬)が欲しい、その気持ちは解る。
けれど、発達の私にはそれがどれも上手く出来なかった。
私も周囲の成長に合わせられず何故「普通に」出来ないのか、わからなかった。吐くほど苦しんだ。
母や父の眼差しが曇りいつしか弟にしか目を向けないのを私は黙って見てるしか出来なかった。
弟は私を当然蔑視し、中高生当時学校も家庭も人間関係が上手くいかず苦しんでいた私を容赦なく罵倒した。
血の繋がった家族に、守られるどころか心の傷を更にえぐられたショックで私は弟と口が聞けなくなった。
今年で15年近く喋ってない。
年明けに弟とその彼女と食事をするので出席して欲しいと母に言われた。
という私も今年婚活して付き合った人が居たが別れた。改めて男女付き合いにも疲れた所だった。
弟には家庭の癌みたいな私をもう気にしなくていいよと思っている。私の事嫌いつってたし。
もう、お互いの為にも自分の幸せだけ考えてくれればいい。そこに私が介入する必要ない気がする。
ていうか、彼女に姉が発達障害ですなんて言うの?それ彼女的にはすげー悪条件なんじゃないの?
破談の責任取れないよ?もし破談になったら弟に刺されて殺されるか私が自殺するかのどっちかかな。
ああ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、頭痛くなってきた。
もし穏やかに食事して結婚も済んだとしても、弟の彼女が私に次に会うのは私の葬式かもしれないよ
それ最悪に寝覚め悪いでしょ。会わない方がいいよ
アスペルガーって40歳の誕生日を迎えられない事が多いらしいね
そりゃね、こんなクソみたいな人生死にたくなるよ
やべークリスマスなのにほんとしにたくなるね
しぬまえになんとなく、思いつきで、リトアニアの十字架の丘を見に行きたい
しあわせになりたい
ただそれだけでうまれてきたはずなのに
弟の事を考えると発達の事は黙秘してしんだほうが皆しあわせになれるだろう
はっきりとそう言えないってだけで
発達障害ですという前置きをつけるだけで
健常者と関わるかぎり「こいつ空気読めてないな鈍くさいな」という眼差しからは逃れられないし
健常者と関わらずに生きていくことなんてできない。
健常者は発達障害者の欠点を受け止めつつそれをカバーできるよう
なんとか良い面がうまく作用するように工夫して付き合う必要があるし
発達障害者も障害は欠点にしかならないということを受け止めた上で
自分の長所や個性を活かせるライフスタイルを模索したほうがいいんだよ。
「障害があるからこれまで人生うまくいかなかった」んじゃないの。
あなたの人生がうまくいかなかったのはあなた個人の問題であって
あなたと同じ様な障害を抱えていても地位や名誉や富に恵まれている人もいるし
健常者なのにあなたと似たような境遇に陥って困っている人もいるんだよ。
と感じる。
障害があれば難しいこともあるのはわかるけど、
ああいう人って外的要因のせいにして自分を正当化しようとしてるところない?
「障害さえなければもっと人生うまくいってた。障害を除けば自分は結構能力高いんだよ。」
相応の待遇って何なんだろう?
自分のことを無能だと思っている人が目につかない世界を構築しろってこと?
増田が無能扱いされてて、一般社会の目に晒されればそういうこともあるだろうっていうのは事実であって覆せないんだよ。
「空気読めない、鈍くさい」ということが明文化されてる分余計相手は意識して見てくるよ。
無能であることを受け入れて、そんな自分でもできることはないかって考えない限り
そのフラストレーションって消えないよ、多分。
「障害者だからこんなもんしか出来ないでしょ」って眼差しの中で生きていくのと
鈍くさいとか変わってるとか影で言われながら健常者として生きていくのと
発達障害の診断下されて楽になったとかいう人を時々見かけるけど
もし養護学級に通って障害者として社会参画して生きていく人生だったとして
「障害者で良かった。私は健常者のようには絶対振る舞えない。」と感じられたかというと僕はそうは思えないな。
トータルバランスが悪いだけで一要素だけにフォーカスを当てたら
健常者より優れている面もあることもあるから
「私だってやろうと思えばこれくらいできるのに」という風に考えるんじゃないのかな。
現に世の中に名を残した偉人に障害を感じさせるエピソードとかあったりするわけじゃん。
障害者という枠に収めた方が面倒がないっていう健常者側の感覚はわからなくもないけど
「そのほうが楽になる(なった)」という障害者側の言動は理解できない。
でも成人はそれで障害者雇用枠に応募できたり作業所の対象になったりするんだっけか
そうならちょっと変だね