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2017-02-12

無職日記

 まず、スマホをやめることにした。仕事電話メールはもう来ないし、妻や恋人はおろか、親しい友人さえいないのだから、誰に気兼ねする必要があろう。思えば、朝は天気予報を調べ、通勤中はニュースを読み、昼はゲームに興じ、帰宅後は着信を知らせるランプを頻りに確認するのが、働いていた頃の日課となっていた。それに比べて、現在たいへん快適だ。さすがに貯金も心細くなりつつあるので、そろそろ職探しに本腰を入れるつもりだが、また働き出しても、できる限りスマホから離れた生活を送りたい。このご時世では中々難しいだろうが。

 次に、鏡を見ないことにした。現代社会には鏡に毒された人間が多い気がしてならない。なるほどメイクやらスキンケアやらで多忙女性が身だしなみに敏感になるのはある程度はやむを得ない。大体、鼻毛が飛び出ている女とのデートなんかお断りだ(無職とのデートなんかお断りよと聞こえてきそうだが)。しかし、自らの容姿を念入りに観察するような男には、どうも違和感を覚える。そんなに見惚れるほどでもないのに。そんな暇があったら中身を磨けばいいのに。と言っても、仕事中は何より外見を重んじていた私に、彼らを批判する資格があるかどうかも疑わしい。出勤前には寝癖のチェックが欠かせなかった。昼食におにぎりを食べたらお手洗いに行かねば気が済まなかった。或いはこれはビジネスマンとして当然の振る舞いなのかも知れない。ただ、私は少し疲れてしまった。誰とも会わない今なら、髪がボサボサだろうが歯にノリが付こうが一向に構わない。実に清々しい。

 そして、髭を伸ばすことにした。人生初の試みである。頭の隅に浮かんだのは、エイブラハム・リンカーンまさか彼みたいな美髯を目指すほど私も阿呆ではあるまい。単なる憧れだ。少年のころに図鑑の中で触れた、第16代アメリカ大統領の威容は、今なお私の脳裏に鮮やかに焼き付いている……と、ここまで書いて、我ながらちょっと呆気にとられてしまう。私は無職になって、悲しむどころか、むしろこの状況を楽しんでいるかのようだ。楽観主義も度が過ぎれば身を滅ぼす。けれども、信じられないかも知れぬが、私は実際、ほとんど常に悲観的であった。考えれば考えるほど思考は悪い方へ傾き、夢も希望も見出せず、自暴自棄に陥る。他人との比較が癖になり、酷い劣等感に悩む。「怠けた頭は悪魔仕事場」という外国の諺には、一つの真理が含まれるのではなかろうか。私は毎日悪魔暮らしているようなものだった。

 ある夜、都心の休憩所のベンチに腰掛けコンビニで買ったアメリカンドッグシュークリームを食べていた。妙な取り合わせだが、たった二百円でできる贅沢は他に無い。いや、正直に告白しよう。懐が寂しかったのだ。無収入生活がいつまで続くか見通せないため、財布も満足に使えなかった。林立するビルディングの明りの下を、仕事帰りのサラリーマンOLが、揃って足早に過ぎてゆく。車や電車の走る音がかまびすしい。デパートの買い物袋を提げた婦人たちの笑い声が耳を打つ。ふと、「どうしてこうなのか」、と思う。孤独を感じた。大都会の喧噪が却って私を独りにするようだった。周囲のベンチに座っているのは、単独の人が多いようだけれど、誰かとメッセージのやり取りでもするのだろう、彼らはスマホを熱心に操っている。私の存在に気付く人など何処にもいない。だが、ここで泣き出す訳にもいかない。

 その後も無為徒食の日々は変わらなかった。公園の木陰でぼーっとしたり、広場に群がるハトを眺めたり、日が暮れるまで彷徨したり、諸方の社を参詣したり。どこへ行っても充たされず、空腹は甚だしくなる一方で、足はいよいよ痛くなる。かといって、すぐに働く気も起きない。虚しかった。行き着いたショッピングモールトイレで用を足し、自らに課した戒律を破って鏡を見ると、生気に乏しく、いかにも自信のなさそうな、無精髭を生やした男が一人、救いを求めるような表情で立っている。そこにリンカーンの姿は無かった。足を休める場を求めて店内をさまよう。が、既に老人らが座を占め、熟睡しているらしい。安心しきった寝顔にみえる。帰りの難儀を憂えつつ、やむなく出入口へ引き返す。「いらっしゃいませー」「ただいま30%引きでございまーす」という若い店員のいきいきとした調子がなぜか辛い。女子学生愛嬌も、年配夫婦の微笑みも、母に抱かれた赤子の眼差しも、私には全てが辛かった。ようやく家に到着してテレビの電源を入れれば、アスリートの勇姿を目にするたび、怠惰自分を痛感し、アナウンサーの顔が映るたび、鏡の自分を想起する。私の居場所はいずこにありや。やがてテレビも見なくなった。

 さて、私はこの日記を「吾輩は無職である名前は言えない。」で始めようかと思った。己の憐れを笑い飛ばせるくらいの朗らかさが欲しかった。ところがこの通り、筆致はだんだん暗くなっていく。まあ無職から仕方ない。最後に、ついこの前、海へ行った話を綴って、明るい気持で筆を擱こう。それは、とてもよく晴れた、穏やかな日だった。太陽の光が海のおもてをきらきらと照らし、寄せてはかえす波の音がたえまなく響く。突堤で腕組みして獲物を待ち構える釣り人、のんびりとウォーキングを楽しむおばあさん、浅瀬に浮かぶカモの群れ、軽やかな足取りのミニチュア・ダックスフント、波打ち際できゃっきゃ言いながら貝殻を拾う女の子と、それを嬉しそうに見守るお父さんお母さん。おや、あそこの男の人は、どこか悟り澄ましたような目つきで大洋のかなたを遠望している。同志だろうか?(失礼)

 「明るい気持で筆を擱こう」と書いた。でも、このかぎりなく静かで、平和海岸に臨み、やわらかな潮風に身を任せていると、明るさも暗さも、楽観も悲観も、全部きれいに吹き払われて、どこかへ行ってしまう。不安や焦燥はしぜんに消え去り、自分無職であることさえ、いつしか忘れている。そこには何もない。あるのは広い海だけ――青空をのびのびと泳いでいるのは、カモメカップルだろうか。仲睦まじく羽を交わしている。幸せそうでちょっとむかつくけれど、もう人(鳥)と比べるのは止そう。カモメには、カモメカモメによるカモメのための鳥生があり、私には、私の私による私のための人生がある。お前らは、勝手にいちゃいちゃしてればいいのさ。

 
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