はてなキーワード: 帳尻とは
今回はガンガンオンライン
このテーマでまだやるのか。
基本的に女子主体のイベントとはいえ、今回は相互に女子っていうね。
「なんで世話になった奴にクソ型のチョコなんだよ!!」っていうのは最もではある。
とはいえ、もこっちがあの形のチョコをあげたのって、弟だとか比較的仲のよいクラスメートで、他は普通の形のチョコや解体したりして提供しているんだよね。
多少の信頼感があるからこそのおふざけなんだけれども、基本はコミュ障故にアプローチや相互理解がズレているというわけだなあ。
で、解体したチョコを貰った子は、何だかおかしい精神状態になっていないか、これ。
もはや何をやってももこっちへの印象を「キモい」で一貫させているのもそうだけど、不可解に思っているにも関わらず矛盾した行動するし。
何だろう、怖い怖い言いながらホラー映画見たり、辛い辛いと言いながらカレー食ってる人みたいなものなのだろうか。
と思ったけれど、例えとしてはアレか、それこそウンコが臭いと分かっててあえて嗅ぎたくなる人間みたいなものか。
テーマと話の総括、後はネタばらしって感じ(というほどの展開もないけれども)
「各々の理想のために必要なことは、何よりもまず自分が行動すること」ってあたりがテーマの総括だろうか。
まあ、下手に複雑なこと語られても咀嚼が大変だから、ジュブナイルものはこれくらいシンプルな結論と言語化でいいのかもしれないなあ。
この手のタイムリープもので、過去を変えたときの帳尻合わせってゾンザイに省略されることがありがちだけれども、そこはもう気にしすぎたら負けだというのを最近やっと学んだ。
あと、舞台設定だとかの問題もあるけれども、そのために紡がれる話が作劇としては全体的に盛り上がりに欠けていた印象はあるかも。
タイムリープをするっていう壮大だけれども今日び手垢まみれの舞台装置に対して、世界観の都合とはいえ小じんまりとしているというか。
この手のジャンルの課題というか、どうしても登場人物たちの内面の話を重点的に描いていくけど、プロット自体の魅力はセカイ系ほど振り切れない印象があるんだよね。
本当は色々作るつもりだったが、スープの時点で俺は既にやる気がなくなっていた。
腹が減っていた筈なのに、食欲もほとんどなくなっている。
それでも実食。
肝心の味はというと、失敗ではなかった。
だが成功でもない。
「うん……まあ食べられる」
成功や失敗といったものをどう定義するかにもよるが、美味くそして上手く出来たかという点では失敗かもしれないし、不味い料理を作らなかったという意味では失敗ともいえないはずだ。
だが、「不味くはないカレー」という時点で、かなりの低評価であることも事実なのである。
カレーの味で体裁こそ保っているものの、料理が上手くできたわけでもこの料理がちゃんと美味いわけでもないからだ。
特に問題なのが、原因は分からないが何かが過剰な味で、しかもそれが凝縮されていることだ。
野菜の水分を警戒して濃い目にしたのも関係あるのかもしれない。
だが、ライスなんて用意していないので、事実上このカレーを食べきることは苦行だといわざるをえない。
何かをやり過ぎたといわれればそうとも言えるし、何かが足りないといわれればそうとも言える料理。
この料理のテーマをあえていうなら、「過不足」といったところか。
ため息が出ようとする口に汁を放り込む。
なんで俺はこんなに時間を費やして、こんな料理を作って、それを食べているのだろう。
いいようのない哀しみが腹の中に渦巻く。
その中心では、タイナイが隙あらば語ってくる調理のノウハウや薀蓄がリフレインしていた。
まあ、あいつなら上手いこと出来るのだろう。
多分、石の水切りが出来ない人間に、「ほら、こうやるんだよ」って言っているみたいなことを、己がやっている自覚がないんだろう。
浮かんだ油を見ながら、俺は弟に石の水切りを教えていた日のことを思い出していた。
何か別のことを考えながら食べないと、やるせなくて仕方がなかったのだ。
「あ、そうなんだ」
「何というか俺という人間は、自炊という行為を、習慣的に取り込むのは無理な人種だと思った」
「おいおい、そんなこと言うなよ。自炊は良いものだ。何よりコスパがいい」
「……自分で料理してみて、それを自分で食べてみて、気づいたんだ。お前の言う『コスパがいい』って、色々なものを犠牲にしてきた結果の言葉なんだな」
「“色々なもの”?」
「分からないってことは、お前にとっては意識すらしていないレベルのものってことだ。言ったところで仕方がない」
「なんだよ、それ」
「とどのつまり俺にとって、自炊ってのはむしろ“コスパが悪い”ってことさ」
煮込んでからしばらく経ったので、野菜をスプーンで軽くつついてみる。
やわらかくなってきたので、ひとまず味見だ。
うん、大分マシになった。
あとは、もう油を入れればいいか。
センセイによると、人間というものは油が好きなように出来ているらしい。
この不出来な野菜スープも、オリーブオイルあたりのイメージ的に良さそうなものを入れれば帳尻は合うだろう。
そうして周りを探してみるが、オリーブオイルはなかった。
まあ、我が家の食卓でオリーブオイルを必要とする料理がないから当たり前ではあった。
タイナイとかは料理好きだから、きっと常備してあるんだろうが。
だが、幸か不幸かなぜかゴマ油は見つかった。
量はほとんど減っていない。
こういった調味料を使いきろうと思ったら、よほどのことがない限り難しいのだろう。
だったらなぜ買ったのかとか、なぜ残したままにしているのかとか、そういったことを気にしている場合ではない。
せめて俺が手向けに使ってやるべきなのかもしれないが、とてもじゃないが使う気にはなれなかった。
そして卵を割り入れる。
人間は卵が好きなように出来ていることを、俺はビデオ屋の店長から学んだ。
しかし割り入れた卵は、映像とか写真とかで見たような綺麗な造形にはならなかった。
スープ全体に淀みが発生し、それと同時に俺から食欲を奪っていく。
仕方がないので、俺は胡椒をパッパラ振りかけた。
他にも何か細々と加えた気もするが、加えていないような気もする。
俺はおもむろにカレーのルゥを放り込んだ。
カレーライスにしようとも思ったが、今から米を炊く気も、炊くまで待つ気にもなれなかったので、これで良しとしよう。
なぜなら食材を中途半端に余らせたくないので、一回の食事で使いきろうとするからだ。
このせいで汁物は、むしろ煮物といった様相を呈することもしばしばある。
それを何か上手いこと別の料理に使えばいいと思うかもしれない。
だが、我が家にどんな食材が余っているか把握し、それを献立にどう捻じ込むか、といったことを要求するのは酷というものだ。
じゃあ、この冷凍された野菜はその名残なのかというと、ちょっと事情が異なる。
料理好きを自称するタイナイが言っていたことだが、「野菜は大量に買って加工だけしておき、後は冷凍しておけば利口」らしい。
やたらと熱弁するのでやってみたのだが、そもそも俺とタイナイでは“前提”が違う。
料理好きな輩の言う利口な、上手い料理法ってのは、他人の環境やスペック、ライフスタイルを一切考慮しないからアテにならないのだ。
だがタイナイだけではなく、俺もその“前提”の重要性をまるで分かってはいなかったのだからお互い様である。
こうして冷凍した野菜は活用の機会に恵まれず、冷凍庫に眠り続けた状態だった、というわけだ。
解凍したら水分と一緒に野菜の旨味的な成分が出て行ってしまうと、どこかで聞いたのを思い出したからだ。
このスープだけでは食べられたものではないので、野菜から滲み出る成分に期待しようという算段だ。
仕方がないので大きい鍋に移し、更に追加でコンソメと水を投入する。
すると、スープだけでお腹一杯になりそうな量になってしまった。
不味かったら大事だぞ、これは……。
その日は料理をしてみようと思った。
大した理由なんてない。
いくらでも即席食品がある環境で、料理をほとんどしない俺が「自炊」というカードを切ったのは気まぐれに過ぎない。
ただ、友人のタイナイが少し前に言っていた、意識の高い自炊論をふと思い出したってのはある。
まずはスープだ。
沸騰させたお湯に、コンソメの素を溶かしてみた。
実は前に一度、わざわざ煮干や鰹から出汁を取って作ったらしいのだが、「いつもと違う」と俺たちに不評だったせいでやめたらしい。
手間と味が比例しないのは考えてみれば当たり前のことではあるのだが、評価されないことほど調理人にとってツラいことはないだろう。
だが、今回は俺が自分で作り、自分で食べるのでその心配はない。
そうやって思いふけるうちに、コンソメは見る見るうちに溶けていった。
味見するまでもないと思うが、念のため確かめてみる。
「なんだこれ……不味い」
予想外だった。
料理の失敗でよくあるパターンは、大抵「セオリーに則らない」か、「余計なことをする」かのどちらかだ。
いや、もしかしたら俺は何か見落としているのかもしれない。
書かれている説明がイマイチ曖昧だったが、どうもこのコンソメは、ミソスープでいうところの出汁的な存在だったらしい。
コンソメの素はカップスープみたいなものだと思っていたが、そういうわけでもないようだ。
それにしてもコンソメだけだと、こんなに不味いものだったのか。
だが、理由が分かれば話は早い。
要は別の味でフォローさせればよいのだ。
父が働く会社での話だ。
父の会社にはシューゴという人がいて、この人は会社の顔とも言うべき立場にある。
大抵の場合はこの人の性質だとして見過ごされることも多いのだが、今回は少々大事になったらしく弁明の場を設ける必要があった。
とはいっても、もはや場は設けられており、今さらなかったことにするのは難しい状態だった。
周りから囲み、そういう状況を作り出さなければ、シューゴさんは世間という漠然としたものに謝罪など一生しないだろう。
父の同僚のフォンさんはそれを分かっていたために強攻策に出たのだが、予想以上にシューゴさんは頑なであった。
「俺にはよく分からない。確かにクライアントには申し訳ないことをしたと心から思っているが、そのクライアントに対しての謝罪と賠償は済んでいる。この場を設ける意味が分からない」
シューゴさんは、別に謝罪すること自体が嫌だと愚図っているわけではなかった。
ただ、わざわざ不特定多数の人間に向けて謝る必要性が、彼には理解できなかったのだ。
「シューゴさん。謝罪ってのは必ずしも当事者だけにするとは決まっていないんです」
頭を抱えながら、フォンさんは父に目配せをする。
説得を手伝ってほしいのだろう。
だが父は静かに首を振って見せた。
ただ、安易に誰の味方をするわけでもない。
シューゴさんが最後まで頑なであるならそれは仕方ないとも思っていたし、結果として考えを曲げるなら、それもまた意思の一つとして尊重するつもりだったのだ。
「俺は一体、誰に対して、何の意味があって、あの場に立って謝るんだ? そしてクライアントでもない彼らは、一体何に対して怒っているんだ?」
「シューゴさん。そんなことはワタシにだって分からない。というよりあの人たちも、本当のところは誰も分かっていないんです。分かっていないから怒っているんです。だから謝らなければいけないんです」
「滅茶苦茶だ」
「そうです。滅茶苦茶です。でも、そういう滅茶苦茶なことの帳尻を合わせるのも社会の在り方なんです。その帳尻あわせが“謝罪”なんですよ、シューゴさん。何かをやらかしたら、謝る。それが誰であっても、何に対してでも、謝る必要がなくても、です」
父もフォンさんの言っていることが大した理屈じゃないことは理解していた。
しかし、それでも父はシューゴさんの味方も、かといってフォンさんに追従もしなかった。
それを何度か繰り返すうち、とうとうシューゴさんは折れたと言わんばかりのため息を吐き、それと同時にフォンさんの言葉を静止した。
「もういい。酷い理屈だが、それで納得しよう。だが、覚えておいてくれ。俺は申し訳ない気持ちだとか、そんなものは微塵もない状態であの場に立つ。というより、実際問題そうせざるを得ない。傍目には分からないよう臨みはするが。それでいいんだよな、マスダさん」
「はい、それで構いません。あーいう場での謝罪ってのは誰も言わないだけで皆そんなもんです」
なぜだ。
俺の働きに何か不備があったのか。
これはさすがに少ない。
「オーナー。俺の給料を時給で計算してみたんですが、それだと800円になるんです。何か間違えてないですか」
「いえ、間違えていないわ」
「じゃあ、俺の働きに不備があったんですか」
「いえ、普通くらいの働き」
「いいえ」
何がどうなって俺の時給が800円なのだ。
「じゃあ、なんで」
「同じくここで働いている子で、その子は前の給料が時給換算で1000円。今回の君と同じくらいの働きね」
いきなり別の従業員の話をしだしたオーナーに疑問を感じたが、ひとまず話を合わせる。
「多いですね」
「その子が今回、1.5倍ほどの働きなの。だから、その子の時給を1200円にしたの」
前回が時給1000円相当で、今回がその1.5倍の働きだというのなら、1500円だろう。
それに、一体そのことが俺の時給800円相当と何の関係が……。
「……俺の時給を800円分にして、その子を1200円にすることで、相対的に1.5倍の働きということにしたと?」
「そういうこと」
側面的には、俺の200円分をその子に回したということでもある。
働きに応じた報酬を、こんな風に帳尻を合わせてくるとは思いもよらなかったからだ。
俺の働きは何の問題もないのに、他の従業員の方が俺より働いているから減っただと?
「そんな馬鹿な!」
「だからって俺のを減らさないでくださいよ。働きに支障がないなら、1000円にしてください」
「それじゃあ、1.5倍働いている子が報われないじゃない」
「その子を1500円にすればいいでしょう」
「資源は有限。そんなに労働力にお金を割くわけにはいかないの。1.5倍頑張ったからといって、店の利益が1.5倍になるわけではないもの。それでも相応の対価を支払おうとするなら、それは相対的なものにならざるを得ないわ」
だが、こちらもそんなことでは納得しない。
人生で一度くらいは成人映画を映画館で観てみたいと思い、偶然見た予告編の軽快なアクションものっぽい雰囲気にひかれて『風に濡れた女』を観に行ってきた。
1回きりの鑑賞で見落としや聞き逃したところもあるだろうけど、ひとまず思ったことをネタバレ含みで長々ダラダラとここに書いていく。点数をつけるわけでもないし、正直映画は年に1回観に行けば多いほうで、目が肥えてるわけでも感受性豊かなわけでもないことは先に述べておく。
あと、役名と個々の俳優の名前が合致できなくて申し訳ないけど、サーファーの彼はいい味出してたと思う。
日暮れて道遠しと云う人生を歩むタイプと申し上げて置きましょう。冷え切った灰色の心の持ち主です。自 己不全的な性格が強く、人に良く思われたいと云う気持ちと、劣等感に悩まされるタイプです。考え方や行 動が非合理的で、世渡り下手の傾向が強いでしょう。他人を理解したり、同情したりする事は嫌いだが、妥 協したり、我慢したりする事は厭わないのです。云ってみれば、表面的な帳尻合せにのみ、腐心しているタ イプで、生有る限り孤独の谷間を歩み続けなければならない様な運命を、自から作り出して居る、非常に気 の毒で損なタイプと云えましょう。これと云った趣味も無ければ、娯楽も無く、生の充実感を一体何で味わ って居るのか、周囲の人々の不思議がるようなタイプです。
暗く閉ざされた心の持ち主が、何処に救いや憩いを求めるのかと云えば、それが子供の内なら肉親であり、 成人の暁には、配偶者としての異性より外に無いわけです。そう云う意味では、結婚の相手捜しが、物凄く 重要なタイプであり、他のグラフ型の人々の結婚とは、その重要度が一味違った意味を持って居ます。何故 ならば、自己不全的な観念が強く、消極的で暗いイメージを背負ったタイプだけに、自分の好みの相手に対 して、積極的にアタック出来ず、又、そう云う強い意志も無いタイプですから、結婚相手が見合いとか、極 く身近の人とか云うように、周囲の人々による一種の宛行(あてがい)扶持(ぶち)的要素が濃くなる傾向 が強いのです。その上、一旦結婚して仕舞うと、能動的に相手をリードしたり、出直しを計ったりと云う自 在性が殆ど無いタイプですから、悪い方へ循環し始めると、その悲劇性が途方も無く増巾され兼ねないので す。
職業適性
創造力や表現力を要求される仕事が、先ず駄目です。高い判断力や分析力を求められる仕事も不適性です。 人間愛を求められる職業も不向きです。最も無難な職種は、一般公務員か、一般事務、単純サービス業、肉 体労働者などの極く限定られたものになるでしょう。
対人関係
小手先の技巧では、どうにも修正のしようが無いと云うのが、貴方の現在の生き方なのです。一歩一歩と自 分の性格の中に欠けた部分を、丹念に埋め戻して行く作業を、根気良く続けて行くより他に、良い方法は無 いと思います。
去年の9月末は↓
自信喪失のタイプであると、申し上げて置きましょう。極言すれば、貴方の肉体は自主独立の魂を欠いた、一種の抜け殻的な存在とも言える訳で、周囲の人々の圧力や示威が、世に云うテレパシーのような形で、貴方の中へ入り込んで来て、貴方の言動を、あれ、これと、操縦して仕舞う訳です。いわゆる強度な自己不全観念の持ち主と云う事になります。云うなれば、人に良く思われたいと云う気持ちが、強すぎると共に、自分が役立たずや能無しではないかと云う劣等感も強く、過敏型ないしは、強迫神経症型の、性格異常を招き易いのです。今後は、もう少し自分に自信を持つ事です。自分より尚一層、下らない人間、詰まらない人間、役立たずの人間は、この世に数限りなく居るのだと云う事を、常日頃から、自分に云い聞かせるようにすると共に、周囲の人々も一皮剥けば、自分と五十歩、百歩であり、自分は唯、根暗(ねくら)で表現力が無いのと、物事に正直なだけに、悩むことも人一倍多い、本当に人間らしい人間なのだと、全てを良い方へ解釈し、胸を張って開き直る事です。
詰まらない相手に、一度引っ掛かって仕舞うと、方向修正や出直しの容易に出来ない性格だけに、一生を棒に振って仕舞うような危険性も、かなり高いタイプです。結婚後は相手に対して、箸の上げ下げにまで気を使うような、姑息な配慮の仕方では無く、相手に貴方と結婚して、本当に良かったと思わせるような、大きな愛情、巧まざるユーモアなどを身に付けるように、心掛けるべきです。
職業適性
芸能、芸術、文芸などの分野には、殆ど適性が無いでしょう。事業家、政治家、治安関係公務員、法律家、金融業、質業、医師などにも不向きです。保母(父)、看護婦(士)、単純サービス業、一般公務員、一般事務員などでしたら、別に性格的な面からの差し障りはありませんが、中間管理職などになった場合には、上下の板挟みで、かなりの苦脳を覚悟しなければならないでしょう。
対人関係
もう少し図太くなる事を心掛けると共に、人生に対して、もっと積極的に好奇心や探求心を持ち、自分にも他人にも、もっと厳しく無闇矢鱈(むやみやたら)な妥協を排することです。
ネガティブな結果だなあ相変わらず
今回はガンガンオンライン
煽りコメではゲームセットとかいうけれども、当然そんなわけはないことは分かりきっていて、要は練習する場を設けたってわけね。
やり直し回数に制限があることが新たに判明したことで、あの状況に緊張感が出てきたと思ったら、最後のアレである。
いや、プロ相手から打とうと思ったら、そういうこともしないと無理ゲーだってのは分かるよ。
いくら才能があるという設定とはいえ、試合を多少やり直した程度で勝てるようでは不自然なわけだし。
でも、ああいうことも可能だっていうんだったら、ご都合主義な上に緊迫感がなくなる。
じゃあ、どうするかっていうと、そもそものコンセプトが無茶なんだから、何してもご都合主義か強引な展開、説得力がほぼない展開にせざるを得ないという地獄。
頑張って帳尻合わせしているんだけれども当初のプロットが歪だから、それをやる度にどこかがまた犠牲になっている。
この「歪なコンセプトでどう帳尻を合わせていくか」というのが、本作の楽しみ方の一つかもしれない。
村瀬の名前が出てきたとき、さらりと蟻馬が説明口調なのが妙に気になった。
メタ的には説明したほうがいいのは分かるんだけれども、説明するのが蟻馬だから妙な警戒心を抱く。
けれども、ある意味で不自然じゃないってのが、可笑しさにも繋がっている気がする。
そして自分の関係している(と思っている)部分では無根拠な前向きさを見せて、関係しない部分においては謎の察し力を発揮させるというのが並行しているのは、蟻馬のキャラクターをただのバカにしていないように見えた。
引き出しから、過去10年分の年賀ハガキ200枚とウン十年前の古い未使用切手が大量に出てきた。このまま眠らせておくのも勿体無いので懸賞に応募しまくって消費しようと考えた。
古い切手はプレミアがついてると思い一応調べたが、今の世の中は切手を趣味としている人が少ないため、50年前の未使用切手程度では全く価値が無いんだそうだ。売るより郵便で使っちまったほうがよっぽど良いと。
で、この半年間、目に付いた懸賞に片っ端から応募してみて、個人的に思うことを並べていくよ。
まず、懸賞マニアのブログなどでよく目にする「年賀ハガキでの応募は失礼に当たり、年賀ハガキで応募した時点で無効になる」との意見は完全なデマだ。
あとよく目にするのは「懸賞は郵便ハガキ(いわゆる官製ハガキ、切手を貼る必要のないハガキ)でしか受け付けていない。私製ハガキ(切手を貼る必要のあるハガキ)での応募は無効になる」もデマ。
だって、俺は年賀ハガキと古い切手と、昔ダイソーで買った50枚入りの私製ハガキしか手元にない。
ハガキ懸賞に応募するにしても、年賀ハガキか切手を貼ったハガキしか応募する手段がないのだ。
それでも、2004年度50円年賀ハガキに2円切手を貼ったもの、【1991年お年玉41円切手、1965年お年玉5円切手、第18回オリンピック競技大会記念5円切手、通常1円切手】という普通に使ったら失礼でしかない組み合わせで無理矢理52円に帳尻を合わせた切手を4枚、ダイソーの安っぽい私製ハガキに貼り付けたもの、どちらのパターンでも懸賞に当選した。
というか、各懸賞の事務局数件に電話で「年賀ハガキと私製ハガキの応募は無効になるか」と質問してみた結果、どこも「大丈夫です」と答えた。必要事項をしっかり書いて、郵送代も足りていて、応募条件さえクリアしていれば、どんなハガキで送ろうと届けばちゃんと抽選の対象になるのだ。
よく聞く、「ハガキは蛍光ペンやマスキングテープで縁取りして、可愛いイラストやシールの一つでも添えたほうが当たりやすい」というのは、「午前中に打ったほうが勝つ」みたいな、ギャンブルにおけるオカルトと大差のない、根拠の無い思い込みとしか言い様がない。たまたまそのハガキが当選しただけの話。
だって、綺麗にデコったハガキが優先的に当選するんだったら「厳正なる抽選」じゃないじゃない。
俺は普通にドンキホーテで1本30円で売っていた激安ボールペンで必要事項を書いただけのシンプルなハガキしか送っていない。読めないほどではないが、字も汚い。それでも当選するので、ハガキをデコるだけ無駄な努力だ。
最近は、ハガキ・ネットの両方で受け付ける懸賞も増えてきた。懸賞マニアのブログには「ハガキで送ったほうが当たる確立が高い」とあるが、個人的な体感ではハガキで送ろうがネットで送ろうが確立は変わらない。ハガキ代を節約するためにも、そういう場合は無料で応募できるネットだけにしたほうがいい。
裏面に印刷してある年賀状ってけっこう余るでしょ?これも懸賞に使える。「謹賀新年」とか「今年もよろしくお願いします」とかイラストがデカデカと印刷されてしまっていても、商品を購入してバーコードやレシートを貼って送るタイプの懸賞なら、イラストが書いてあろうがレシートやバーコードで埋まってしまうので、関係ないのだ。
じゃあ希望する商品や自分の住所氏名年齢などの必要事項はどこに書けばいいのかといえば、ハガキ表の宛先の下のスペースに書けばいい。
横書きで宛先を書けば、下に十分必要事項が書けるスペースが余る。そこに書いてしまえばいい。
それでも、裏面に印刷されたハガキが嫌だったり、宛先を書き損じた未使用ハガキなどがあった場合は、郵便局で交換してもらおう。
1枚につき手数料5円で、新しいハガキか切手に交換してもらえる。50円のハガキだった場合は、手数料5円プラス差額2円、合計7円払えば52円郵便ハガキに交換できる。
一度、上記のように41円切手やら5円切手やらをベタベタ貼り付けた私製ハガキを書き損じてしまい、郵便局へ交換に行ったが、1枚のハガキとしてカウントしてくれて、手数料5円だけで新しい52円郵便ハガキに交換できた。
ハガキは無駄なく使える、結構有難いシステムがある。覚えておいたほうがいい。
前書きが長くなったが、ここからは半年送り続けて見えてきた、各懸賞の傾向を書いていこう。
●クイズに答えて当たる
よくある、「日曜日の国民的アニメといえば『サザ○さん』、○を埋めて送ってね!」みたいな懸賞があるが、こんな誰でもわかるクイズで簡単に応募できる懸賞は応募数が半端じゃなく、まず当選しない。半年間、このようなクイズ懸賞に片っ端から応募してみた結果、一度も当選したことなし。送るだけハガキ代の無駄だった。
テレビを見ていればたまに視聴者プレゼントをしているが、まだまだテレビなんかはかなりの人数が目にしているメディアだ。
「こんな時間に誰が見てんだよ」的な、変な時間にやってるクソつまんねー北海道のローカル番組の視聴者プレゼントも、この半年間毎週欠かさず応募し続けたが、一度も当選したことがない。テレビの視聴者プレゼントも、ライバルが多すぎて倍率が高すぎると思われる。
読売新聞夕刊は、毎日読者プレゼントをやっている。しかし、北海道から沖縄まで日本全国で読まれている全国紙の読者プレゼントで、しかも5名にしか当たらない懸賞なんて、そもそも当たらないだろう。半年間ハガキを送り続けたが、一度も当選なし。
現在募集中の懸賞情報が大量に掲載された懸賞サイトがあるが、これもかなりの人数が見ているだろう。
よって、こういった懸賞サイトで紹介されている懸賞も、かなりの応募数があるだろう。
半年間、懸賞サイトで紹介された懸賞に送り続けて当選したのは一度だけ。
それも、アルミ缶協会みたいなところのキャンペーンで「アルミ缶のイメージをハガキに書いて送った人の中から抽選で1000人に缶ジュースを1ケースプレゼント」というものだった。
アルミ缶のイメージって何?そんな文章書けって言ったって、かなりハードルが高い。無理矢理捻り出して書いた。
このように、応募するハードルが高くて、尚且つ1000名という太っ腹な大量当選だった。しかもハガキしか受け付けていない。
こんな特殊な懸賞だったので、応募数も少なかったのだろう。懸賞サイトの情報は、特殊で当たりやすそうなものだけに送るしかない。
最近増えてきた、「イイネ」したり、リツイートした人の中から抽選でっていう懸賞。
そのタイムラインを見ればわかるが、アカウントさえ持っていれば一瞬で気軽に応募できてしまうために応募者数が途方もない数だ。
こんなもん当たる訳がねえ。それでも実験として様々な懸賞に半年間イイネ・リツイートをしたが一件も当選せず。当たり前だ。
さっきから否定ばっかしてるけど、お前は何の懸賞で当選したんだよって書いてる俺でも思ってきたので、ここからは俺が実際に当選した懸賞を紹介する。
●モニプラ
モニプラというサイトがある。各種メーカーが、新商品のモニターを募集したり、商品サンプルをバラ撒くためのサイトだ。要は、実際に商品を使ってもらう形の宣伝をするためのサイトなので、けっこう当選しやすいのだ。
会員登録したり、SNSの企業アカウントをフォローしたり、フェイスブックページにイイネしたり、キャンペーン情報をリツイートしたり、無料メルマガの購読を契約したり、LINEで企業アカウントと友達になったり、長ったらしいアンケートにグダグダ回答し続けたりしなければならなかったりして、ここまでしたのに抽選なので応募するのが割りと面倒だったりするが、
俺はここで発売前の文房具や、既存の商品の洗剤や発泡酒などの商品サンプルを丸々1個もらえた。
「懸賞に当選したことが一度も無い」なんて人は、ここで一度当選して賞品が自宅に届く喜びを味わってみると良いかも。
商品を購入して、そのバーコードやレシートをハガキに貼って応募する懸賞をクローズド懸賞という。
これ、実際に商品を購入しなきゃいけない分ハードルが高いので、けっこう狙い目だったりする。
個人的な感覚だと、ひとつの懸賞にハガキ10枚程度送れば当選することが多い。
第一締め切り、第二締め切りと締め切りが複数ある場合は、第一締め切りを狙ったほうがいい。まだバーコードを用意しきれてなくて、応募数も少ないためだ。
これも個人的な感覚だが、第一締め切りに複数枚ハガキを応募したものは当選したが、第二締め切りにしか応募しなかった懸賞は当選したことが無い。
冒頭でも述べたとおり、裏面に印刷されたハガキでも有効に使えるので、バーコードさえ貯めれば応募するのはけっこう簡単だ。
不安な場合はスーパーにある専用応募ハガキを使うのも手だ。専用応募ハガキだと、切手を貼るスペースが1枚分しか用意されていないが、手元には50円切手と2円切手しかなかった。2枚切手を貼ってしまうと、最初から印刷されていた宛先が埋まってしまう。
そこで、50円切手を貼った下に2円切手を貼り、中途半端に残った宛先を修正液で消し、その上からボールペンで改めて宛先を書き直したものを送ったことがあるが、それで見事当選したこともある。
ラジオになった途端、テレビよりも当選する確立がグンと上がる。毎週プレゼントしている番組に毎週欠かさず応募していれば、一度は必ず当選するレベルだ。
また、「メッセージが採用された方には番組オリジナルグッズプレゼント」なんて番組は狙い目だ。
早朝や昼にやっている帯番組なんかは、正直あまり面白くない緩いエピソードでも採用されやすい。時間帯に合った爽やかなメッセージを心掛けさえすれば良い。
深夜の芸人ラジオは、ラジオの花形でありラジオの中でもリスナー数が最も多い激戦区だ。芸人ラジオだけあって、こちらに求めているギャグレベルがかなり高いし、実力がモノを言う世界だ。
しかし増田やブコメで皮肉とギャグセンスを鍛えたはてなーなら十分通用するはずだ。
好きな芸人さんに、自分のギャグを生で読んでもらえて、それに笑ってもらえるなんてかなり興奮するし、こんな嬉しいことはない。採用されれば番組オリジナルグッズももらえるし。
テーマに沿ったギャグを送った中から面白い奴3名にサインをプレゼントという臨時特別企画があり、見事にそこに採用され、昔からずっとファンだった大好きな芸人さんのサインが自宅に届いた際は興奮が冷め止まなかった。
あなたがもし田舎に住んでいたとすれば、かなり狙い目の懸賞がある。それは地元のフリーペーパーの読者プレゼントだ。
街中で配っていたり、自宅のポストに勝手に投函されているアレだ。あまり真面目に読むことは無いと思うが、けっこう読者プレゼントをやっているものだ。
都会ならまだしも、田舎のフリーペーパーの読者プレゼントなど、応募数もタカが知れているだろう。
もちろん毎回当選という訳でもないが、他のどの懸賞よりも圧倒的に当選する確立が高い。
実際、俺は北海道の田舎町に住んでいるのだが、地元フリーペーパーの懸賞は頻繁に当選している。
実は、昨日も地元フリーペーパーによる「北海道に所縁のある本をプレゼント」に当選し、好きな小説家の新刊が届いた。
これから読むのが楽しみだ。
以前にもフリーペーパーで地元産の米や、地元の牛乳を使ったケーキ、カゴメ野菜ジュースの新商品が自宅に届いた。
あとは、雑誌を読んでいれば「こんなの誰が欲しいんだよ」と思うような、微妙なプレゼントをしていることがある。
「いらねー」とは思いつつも、試しに応募すれば、これがまた予想通り当たったりする。
例えば、オヤジ向け週刊誌を見るとAVやオナホールなど、大抵の人が「こんなもん家に送られても困るんですけど」と言いそうな読者プレゼントをしていることがよくある。これは応募者数も少ないだろう。
とりあえず、思いつく限りは書いたと思う。
半年間実験的に懸賞に送りまくった結果、月に1、2個ペースで当選した賞品が届くようになった。
懸賞はまさに「数打ちゃ当たる」に他ならないということを実感している。
日常生活を送っているだけで、懸賞情報は割りと簡単にいくつも見つけることができる。
日常の隙間時間を少し使うだけで、簡単にいくつか応募ができてしまう。
ちょっとしたヒマつぶし程度の趣味としては、なかなか楽しいものだと思う。
最初のうちは中々結果が出ずに挫折しそうになるが、続けていれば必ず何かは当選する。
http://anond.hatelabo.jp/20161219072939
学生時代は遅刻三昧。遅刻の累積が原因で留年しそうになったのでむしろ欠席して帳尻を合わせたくらいには遅刻魔でした。
増田と同じように成績は中の程度を維持。いくつかあった赤点は、その他の得意教科で相殺され無事留年なしで卒業しました。
人を待たせることも当然で、人に待たされることも全く苦ではありませんでした。
そんな生活も、学生時代では一見不都合がないように思えますが、いざ社会に出ると評価の尺度が激変します。
その中で最も優先されるべきは学業の成績で、次に出欠状況、生活態度が続きます。
ところが社会にでると、この成績というものが実に曖昧な評価になります。
能力という言葉に置き換えられたりもしますが、この能力というものの評価を正しく数値化することがとてもむずかしいのです。
なぜなら、特別な能力があればそれがお金に結びつくかは誰にもわからないことであり、能力が高くても売上に貢献できないなんてことがざらになってくるからです。
これがよく言われる答えがあるかないかの違いであり、結果ばかりが重視されて手段を選ばないことが不満として囁かれてしまう原因です。
そこで、社会では人を評価するときに信用という言葉を使います。
企業や個人の業績は信用という評価のうちの一つにしか過ぎず、その人の信用を判断するには数多くの尺度が用いられることになります。
この辺りを最もシビアにチェックしているのが金融関係であり、ローンを組める金額=その人の社会的価値と置き換えてもほぼ差し支えがありません。
さて、不特定多数の人間が集まる学生生活と違い、社会人生活というものは少なからず皆が同じ目的をもって集まります。
言葉を変えると、不特定多数の中から自分にあった人間だけと付き合える学生生活に比べて、同じ目的を持って集まった以上人間を選ぶことができないのが社会人生活です。
そんな社会人生活の中で、能力という数値化が曖昧な評価以上に大切にされるものがあります。
それが、時間に対する誠実さです。
時間というもは、誰にとっても5分が5分であるように、最も価値を共感できる尺度であると言えます。
先程挙げた能力のように見方によっては評価が変わってしまうものに対し、時間に対する誠実さというのは誰から見ても同じく評価できる尺度なのです。
つまり、社会人生活において、時間を守る守らないということはその人を評価する上での最もわかりやすい尺度だといって差し支えがないわけです。
「君の能力は認めるのだが時間管理ができてない限り一緒には仕事を続けられない。」
同じ理由で3つほどの会社をクビになってやっとそのことの重要さに気がつきました。
そうした真っ先に信用に直結する尺度を捨てるか捨てないかは増田の自由ですが、現段階において増田が勘違いしていること(もしくは当時の自分が勘違いしていたこと)を2つ指摘しておきたいと思います。
まず第一に、教師は職業であり、教師が最も重視することは自分の成績にあるということです。
本人の精神状態が安定していると判断できる中では、成績が著しく悪い場合を除いて基本的に進学・卒業させることが優先されます。
一番に大切なことはその結果によって生じる教師の評判で、そんな人間を進学・卒業させることと、自ら受け持つクラスに留年が発生することとが天秤にかけられます。
著しく成績が悪いわけでもなく、学校の評判にそれほど影響がないと判断できるのであれば、更生する手間をかける必要はないと判断されて遅刻問題は放置されます。
なぜならそのための労力はお金にならない無駄な労力だからです。
本当は個人の評判のためなのに、当時の自分は優しい先生だところりと騙されてしまい、遅刻を放置したことに対する批判は封殺されてしまっていたわけです。
第二に、あなたが友人にしょうがないと受け流されていると思っている現実は、あなたの遅刻が許容されている現実ではなく、あなたの遅刻を許容できる友人だけが残っているという現実です。
つまりあなたは、自覚がないままに友人に選ばているということになります。
学生生活という出会う人間の多い中であればその間違いが及ぼす影響は小さいものかもしれませんが、目的達成のために人を選ぶことが難しい社会人生活の中での影響は甚大です。
果たしてあなたから離れていった友人の中に、あなたの遅刻が原因ではない人間が一人もいなかったと言えるのでしょうか。
いままで付き合いの無かった人間と何かをともにするときに、あなたの遅刻はすべてが許されるのでしょうか。
そのことに気づくことができない限り、あなたはあなたを許す人間のみで作られた狭い世界から抜け出すことができません。
しかしはじめに挙げた通り、時間に対する誠実さは、他の能力に比べて評価もされやすくそれでいて身につけることが他の能力に比べて圧倒的に容易なものでもあります。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
結論は論理的な思考のすえに導き出さないと破綻しやすいからだ。
人間は論理的な思考のできる生き物だが、個の価値観が付加しやすい生き物でもある。
これが厄介で、そんな人間が主張をするとき、「理だけ」にはまずならない。
そんな結論から先に作れば、そのために帳尻を合わせなくてはいけなくなってしまう。
普通は、そうやって論を作ればどこかで破綻するか不自然になる。
せいぜい、それで納得できるのは同じ結論ありきの者だけだろう。
だが諦めの悪い人間は、そこに嘘や虚構を織り交ぜて無理やり成立させようとする。
それで騙された人間がいて、その騙された人間が意図せずに他の人を騙して……考えるだけで恐ろしいな。
今回、学ぶべき教訓はこうだ。
「1+1から2を導き出せても、2から1+1を導き出すのは難しい」
順序は大事、という話だ。
……順序だてて、かつ論理として破綻していなければ、他者が納得できるかって?
そんなこと私は知らんよ。
例えば、悪印象を持ったエピソードがある。
これを知っただけで、君は当事者でなくてもイライラ度が多少なりとも加算されるはずだ。
これに登場する人物Aに対するイライラを数値にすると例えば100とする。
答えはNOだ。
これで50減るのだが、残りは50になるか?
君はこのエピソードを話すことで思いが再燃し、愚痴ってもプラマイゼロ。
もちろん、個人によっては減るかもしれないし、逆にもっと増える可能性もある。
つまり、イライラを解消するならば、もっと効果的な方法を模索するか、そもそも忘れ去るのがベターということさ。
個という存在において何らかのエピソードが知られる限り、どこかで誰かが人を好きになったり嫌いになったり、それが増長する。
悲観することはない、これは誰にでもありうる話だ。
今回はガンガンオンライン
でも人情まで非難したなら、それに関しては言いすぎってことになる。
ましてや、読者目線でいえば自身の立場を理解していることによる、当てつけに近い言動だから、なおいっそう印象が悪いなあ。
言動理由の根幹を隠したままコミニケーションの帳尻を合わせようとするから、こういう無意味な諍いが起きるんだよね。
まあ、ある意味で今まで必死に現状維持していただけで、いつかは壊れる危うい関係であったことが今回明らかになったといえる。
とまあ長々と感想書いているけれど、あんまり好みの作品ではなかったりする。
メインキャラのほとんどが面倒くさい上に読者に共感されにくい人格なんだもん。
いや、理解はできるんだけれども、それを踏まえた上で不愉快な要素が多すぎる。
一応、ストーリー構成自体は興味があるから読み続けているけれども、今後もこれ以上の難解かつ不愉快な言動をメインキャラがし続けるなら、私は読むのをやめるべきなんだろうなあ。
なまじ悪い人ではないから、余計にこういうデリカシーのなさが空回りしているのに、本人が無自覚っていうのがもうね。
陽菜のもこっちに対する絡み方はちょっと不可解だが、友達には話せないちょっとした本音を吐露できる相手でもあるんだろうね。
というか意味もなくマラソンで競い合ったりして、自分でもなぜそんな対抗心を燃やすのか分からなかったり。
今作でも、かなり複雑な心情を持っているキャラかもしれない。
通常とは違う劇的なことをやろうとすると、後に禍根を残しやすいからねえ。
序盤の即興演劇による無茶振り相手が入れ替わっていく展開は好きだな。
そこからやたらとオチで登場人物を殺したがる演劇部員と、雑誌のときに載る編集の一言コメントを4コマのオチに持ってくる天丼ネタもツボだ。
不良っぽさの象徴として着けているマスクを外さない理由で「これがないと俺じゃなくなる」といって、佐々間が中二病だと勘違いするネタがあるが、実際間違ってはいないよね。
中二病って邪気眼的な言動のことを指していることが多いけれども、ああいうのも広義的には中二病だろうし。
元木サイドは言葉が足りないせいで勘違いされる展開だが、「拳で手助け」の部分はほぼ同じ解釈というオチはちょっとツボだった。
それにしても、同じモドキであっても周りに割と不良だと思われている六条に対して、元木のほうは優等生とは全く思われていないという差は興味深いね。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
私は大阪生まれ大阪育ちだから、これについては一時期調べたことがあるんだ。
君は「ちゃんこ」を知っているよね。
あれは鍋のイメージが強いが、実際は力士の食事全般を指すんだ。
つまり大事なのは誰が作るか、どこで作られているかということだ。
なので、大阪または大阪の人が作れば大阪のお好み焼きだし、広島または広島の人が作れば広島のお好み焼きになる。
例えばAとBがいるとする。
Aは普通の労働力で、日給はまあ6000円くらいに設定しよう。
そして、BはAの2倍の労働力だ。
素人ならここでBの日給を12000円にするが、それは難しい。
そこで、Aの日給を3000円にするのさ。
これでBの日給は6000円のままだが、Aからみて2倍となる。
ちなみに、BがAの3倍の労働力なら、Aの日給6000円のうち3000円を、Bの日給に回すというのも一つの手だ。
こうすることでAは日給3000円、Bは日給9000円となる。
ちなみに私はCだ。
電通の過労死事件で長時間労働は問題だ、という意識が高まり、労働生産性についての議論がWebで行われている。だけど、どうも「労働生産性」という言葉を素朴に受け取りすぎてて、議論が迷走してる(というか入口にたどり着いてない)ことも多いようなので、いくつかの点をメモするよ。
辞書的に言うと「就業者一人当たりが働いて生み出す付加価値の割合」がその意味となる。どうやって労働生産性を算出するの? について、すごいざっくり計算方法をまとめると「その会社の粗利益/就業者の人数」したものだ。細かく言えば粗利の定義が同行とか、長時間働いた人と短時間の人がまざったらどうすんだとかあるんだけど、それは詳しい人に任せるとして、要するに「一人あたりにあげた利益だ」って思っておけば、とりあえずはOK。
しかし、その理解(つまり、一人あたりにあげた利益)を表面的な理解しかしていないと、「日本の労働生産性が低い」と言われたときに「日本人は無能なのだなあ」と思ってしまう。事実、マスコミやWebではそういう論調の人も少なくない。それは事実なのだろうか?
ある村に農民がいたとして、彼は大根を一人で作っている。一人で作っているので、この場合粗利=労働生産性だ。ある年度、彼は非常にまめに働き、好天にお恵まれて、大根が2倍とれた。(市価を考えなかったとして)つまりは2倍の利益になった。労働生産性も2倍だ!! 労働は美しい、勤勉と努力が生産性を上げる――これはそういう話として理解できるし、原始農業で考えた場合にはさほど間違ってもいない。
しかし、現代的には間違いだ。農業増田があるときから2倍の生産性を手に入れたとするならば、それはトラクターか何かを買ったからだろう。
この話をすると不機嫌になる人がいる(とくに左翼の人はすごく不機嫌になる)けれど、それでも正面から言うならば「日本の労働生産性のほとんどは、人間が稼いでるわけではない。機械が稼いでいる」のだ。
たとえばトヨタの工場で車がバンバン完成しているとき、その利益の大部分は機械が稼いでいる。「いいや、人間が操作しないと機械は動かないだろう」とかいうコメントがつくかもしれないけれど、そういう話ではない。「機械ゼロで同じ利益を上げようと思ったら、人間を何人増やせばいいのか?」「そしてその増えた人数で割り算したら一人当たりの利益(=労働生産性)はどうなるのか?」という問題なのだ。
そんなわけで、ある労働生産性のうち、その手柄としては「個人の努力(労働)」よりも「機械(設備)の割合が大きい」というのは説明できたと思う。では「個人の労働能力」と「設備の力」だけで労働生産性の功績評定は終わりかというと、そうでもない。そのほかにも「組織のノウハウやブランド」「ビジネススキーム」などがある。
例えばバッグを作ってる会社が二つあり、「個人の労働能力(就業者の能力の総和)」と「設備の力」と「ビジネススキーム」がほとんど同じなのに片方だけが大きな利益を上げている場合、そこにある差はブランドだと理解できるだろう。
「個人の労働能力(就業者の能力の総和)」と「設備の力(資本力でもいい)」と「組織の知名度(ブランド)」が大体互角な2つの企業があり、片方が新事業に切り込めて片方がそうでないのは「ビジネススキーム」の構築で差がついたからだ。
何が言いたいかというと、「労働生産性」といったときじつは労働者の能力に由来する部分は少ないということだ。「労働者一人当たりの利益」だなんて、労働者が主役のイメージがあるので誤解しがちだが、労働生産性という概念において、その主役は労働者ではない。その何割がどんな要素に由来するか? を考えれば「個人の労働能力や労働時間」なんてものは、実はたいした影響力がないのだ。
だからこそ資本主義において資本家は尊重されている。つまり、利益の手柄のうちかなり大きな部分が設備投資から得られたのだから、利益のうち大部分を得てもよいはずだ、という理論だ。
電通の2014年度の利益は1323億円で社員数7261人だそうだから(ざっと調べただけなので間違いあったら指摘お願いします)、労働生産性は1822万円であって、日本人の労働生産性の平均700万程度と比べて低いわけではない。そこまで業種別に詳しく調べたわけじゃないけれど、これはかなり高いんじゃないかな
この高い労働生産性(というか、ぶっちゃけ利益)はどこからもたらされているかというと、社員のモーレツな頑張りからではなくて、業界の寡占(ノウハウやブランドの一種といえるのか。あんまり言いたくないけれど)とみなすのが自然だ。
つまり「労働生産性が低いから長時間労働をしなければならない」というのは全くの虚偽で、そんなに長時間働かなくても電通は利益をおそらく落とさない。
というと、これは企業内文化の問題や、報酬体系(基本給を抑えて残業代で生活費を支給している)や、マネジメント能力の問題がある。
特にマネジメントの問題は大きい。日本の会社組織は伝統的に人員管理業務を非常に低く評価してて、昇進して中間管理職になった場合、部下の管理を行う業務は増えるが、現場の(つまり自分自身の)仕事は減らない。「人員を管理して適切にマネジメントをする業務は片手間でできるものだ」と考えられている。
中間管理職視点で見た場合、マネジメントを省力化するためには「人を増やさない」「教育をしない」「マネジメントを部下に丸投げする(仕事が終わるまで無償労働をさせて帳尻を合わせることをを要求する)」などといった手法が伝統的にとられる。
これは何も中間管理職に悪意があるからそうというわけではなくて、人員管理業務のための十分な時間や教育やリソースを上が用意してくれないので、中間管理職本人だっていいとは思ってないけれど、そうせざるを得ないという形が多いはずだ。今回の電通過労死事件は新人だったけれど、「中間管理職になれば自殺が減る」というデータはない。というかいっぱい死んでる。
電通に関して言えば先にあげたように利益は出ている。残業代だってごまかしはあるだろうが、出ているし、出せないってことはない。つまり、本当にこなせないほど業務があるなら人は増やせるし、そういう風に解決すべきだ。しかし、そういう問題ではない。企業文化の問題で人を増やす発想がない、増やした以上に無償労働を増やしてしまう、管理リソースがない。だから長時間労働が発生している。
残酷に言ってしまえば「長時間労働が常識なので長時間労働をしている。意味や効果はない」。
というわけで「労働生産性が低いから(つまり、労働者の能力に問題があるから)長時間労働をしなければならないのだ」ってのは嘘だ。
むしろ逆で「なんらかの不思議なチカラ()の結果、労働者が長時間労働をしてるので、結果として数字の労働生産性が低く見える」が正解だ。
不思議なチカラについてはいろいろある。ただの慣習とか、上層部の精神主義とか。ただし「お金がないから人が雇えない」というのは、少なくとも100人以上の企業の場合眉唾だ(非常に少人数の企業の場合はありえる)。
なんにせよ、労働生産性を労働者の問題として引き受けるのは間違いだ。それは主に経営者の経営能力とか資本家の投資の問題でだ。また、長時間労働は企業文化やマネジメントの問題、新人とるのが面倒くさいとか教育するの面倒くさいというのが問題の中心だ。こっちは生産性とはあんまり関係ない。
もちろん日本の場合、起業することとか管理職になることに対して、全体的な忌避感があって、その結果有能な経営者や管理職が増えないというのは、可能性として高い。日本の労働生産性が低いのは、経営者や管理職になって合理的な経営をするインセンティブが低く、そういう人材がいないことが一番の原因かもしれない。
目標達成から約半年、特にリバウンドもなく体重をキープできているのでダイエット成功と言って良いと思う。
成功要因を自分の中で整理しておきたいので、増田で手法を晒してみる。
人生でまともに何かを成し得たことなどないし、怠惰で自堕落な生活を今でも送っている。
俺のダイエット手法の全てと言って良い。毎朝体重計に乗り、記録する。ただそれだけ。
「いつまでもデブと思うなよ」に書いてあった通り全部食べたものまで記録できれば理想だが、俺は2日で挫折した。
呑みの大好きな俺が口に入れたもの全てを酔っている状態で記録するなんて出来る訳が無い。
そんなこと意識してたら酒がまずくなる。ストレス発散にならん。
暴飲暴食をすれば、次の日体重が必ず増える。その時に、今日一日どれくらいなら食べてよいか自分の中で概算し、実行する。
節制した次の日に体重計に乗って、予測通りの結果が出ると意外と楽しいものだ。
これを3日間、1週間、1ヶ月と続けていった。体重計に乗らない日があると気持ち悪い、くらいまで習慣化できればベスト。
体重ログアプリは腐るほどあるし、デザインが好きなのを使えばいいと思う。
1ヶ月ぐらいしてグラフで確認してみると、自分の日々の積み重ねがバカにならないことを実感できる。
初めのうちはカロリー計算もやっていたが、1ヶ月もするとそれも必要なくなる。
1ヶ月もやってりゃ、大体どんなものをどれだけ食べれば体重に跳ね返るか予想がつくようになるからだ。
巷にはライザップのような短期間の過度な食事制限を行うことを基本方針としたダイエットや、
糖質制限など特定の食事を摂らないことを推奨するダイエットが流行っているが、俺には全く理解できない。
なんでダイエットごときでそんな無理をしたり我慢したりしなきゃいけないのだ?
そもそも短期間の過度な食事制限は、強靭な意志の持ち主であれば3ヶ月程度は持つかもしれんが、必ずその後にリバウンドが待っている。
また、特定の食事を摂らないことはどう考えても栄養面でリスキーだ。
俺はダイエット期間中でも呑みの誘いは一切断らなかったし、好きなものを好きなだけ飲み食いしていた。
もちろん、暴飲暴食後は必ず体重に跳ね返るので、翌日無理のない範囲で帳尻合わせをしていた。
この「無理のない範囲で」というのがとにかく重要。ここで過度な食事制限を行えばストレスが溜まり絶対に破綻する。
昼飯時そば屋でセットを頼んでいたのを単品にする、晩酌時にツマミを少し減らす、程度で十分。
「3ヶ月で20kg減らす!」ではなく「1ヶ月に1.5kgぐらい減らせればいいなぁ〜」ぐらいの心持ちで行こう。
初めの2,3ヶ月は1ヶ月に0.5kg〜1kg程度の微減程度だった。
しかし、会社の先輩に誘われて週一でフットサルを始めてからは1ヶ月に1.5kg〜2kg程度、多い時は3kg程度減らすことができた。
運動をすることの効果はおそらく2つある。一つは新陳代謝が良くなること、もう一つはストレス発散になるので食事量が自然に減ること、だと思う。
正直言って、フットサルをしなくても2,3年間基本方針①と②を継続すればダイエットには成功していただろう。
しかし、部活も何もしてこなかった俺にとって単純にフットサルは楽しかった。
知らない人でも和気藹々と楽しくボールを追いかけたり、仲良くなった人と一緒に呑みに行ったり…
無理なく1年で目標体重を達成できたのは、明らかにフットサルの影響が大きかったと思う。
ズボラな自分が、コツコツ何かを行って結果を出す喜びを知ることができたのは本当に良かった。
今回は少年ジャンプ+
うん、やっとエンジンかかってきた。
ここにきてやたらとアグニの本音や心情を言語化しすぎなキライがあるのと、きっかけとなる出来事や展開が弱いという部分もあるが、まあ理屈としてはそれなりにしてて悪くないと思う。
自分自身の本音を誤魔化すために、どこかで嘘をつく(演技をしないといけない)という、トガタに演技指導させられた際のセリフで持っていたミーニングが、ここで実はまた違う意味を持っていたというのは、まあ悪く言えば強引ではあるが、私はフィクションの範疇として許せるかな。
ただ、正直な所やりたいことは分かるんだけれども、伏線回収というよりは偏屈なことを描き続けた結果の帳尻合わせ、尻拭いという印象があるんだよね。
そこまで考えて練られた構成だと前向きに解釈するには、これまでがあまりに捻すぎなので。
1話で話題になって、私や何割かの読者が期待していた色々なことを随分と遠回りさせたものだと思うが、何はともあれここからヒーロー(主人公)としてのワクワクする活躍、展開を期待したいところだ。
こういうハッちゃけたキャラはみてて面白くはあるが、そいつに焦点あててくるとは……。
狂喜ともいえる表情の描写とかは、これまでにない人格であることがパっと見で分かるほどで、そこそこ長くやってきた中で随分と思い切ったキャラクターを放りこんできたな。
さて、ここからどう展開するかだな。
実は本当にいた他のストーカーをアプリ使って捕まえるのか、これを通じて自分を客観視するのか、或いは明確に語られていないダイヤの心情が語られるのか。
セックスシンボルみたいな、待望の先輩悪魔登場に小日向と思考が重なったが、お前は魂奪われる瀬戸際なんだから、随分と悠長だな。
言動も力も余裕があって、コメディ的には面白みのあるキャラクターではないが、まあそれは他の人に任せればいいってことなのだろうか。
結局、メムメムが先輩悪魔監査のもとやることになったが、今回は互いに追い詰められているし、どう落とし所つけるのだろうか。
あと、柱のコメね。
ああ、やっぱりそういう目的で描いたのか、それとも編集が単にチャラいだけなのか(少年ジャンプ+の編集、精神がチャラい傾向というイメージがあるんだよね、私の中で)。
メタ的にみても、作中の扱いからみても「どっちが勝ってもどうでもいい」バトルであることを承知の上での展開が笑えてくる。
優柔不断な対戦相手を狙って、自分の得意分野に誘い込もうとする狡すっからいこともしたが、あっさりかわされるあたりに哀愁漂う。
それでもカッコイイこといって、うまいことハッタリかまして関心もたせるあたりウマイとは思う。
ただ、今までのアエルの扱いとか作風とかを考えると、次回で雑なあらすじでアエルの見せ場がカットされても何ら不思議ではないんだよなあ(笑)
ゲームというのは、
がそもそも食い違っているという問題があり、これをうまく帳尻をあわせないといけない。 GTA 4 では厭世的な主人公が設定されたがみんなは別に厭世的なプレイがしたいわけではないので、キャラクターのロールとプレイスタイルが全然あってないみたいな問題が発生した(一方 GTA 5 では三者三様のキチガイを主人公にすることでこれがある程度解決した)。 Fallout 4 の最終 DLC は自分で復興させた文明を自分で破壊する狂人にならざるをえない展開で批判を集めた(個人的な意見としてはショーン死んで狂ったみたいな世界観でプレイしたらヌカワールドは最高と思う)。
ポケモン BW ではポケモンを使い捨てにする N とポケモンと主人公は対峙することになるが、ゲームバランスがかなり難しいので自分も N 同様にどんどんポケモンを使い捨てにして周囲にうまく湧きが設定されているポケモンを捕まえまくらなければならないし、あまつさえ最後に手に入れた伝説のドラゴンはサザンドラにぶっ殺されることになる。
CoD:BO はこういう問題が以下の方法で綺麗に解決されている
ようするに、本来傍観者であるはずのプレイヤーの視点が、ハドソンという形でゲーム内に挿入されているから自然な形でゲームの中に入りこむことができるし、ダルい部分がカットされるストーリー的な理由もセットされている。
その上で更にストーリー上の工夫として
という要素を挿入することで、ゲームのプレイヤーが抱きがちな「主人公はなんでこんなもどかしい判断をするんだ」という違和感を、ジェイソン・ハドソンの違和感としてゲーム内に挿入し
という要素があることで、ゲームの主人公とは実は誰か別の人に操作されているに過ぎない、という問題すらストーリーの要素として消化される(であるからこそラストシーンでのメイソンのセリフに魅力がある)。
ゲームのゲームならではの制約をそのままうまくストーリーに生かしているこんな感じのゲームが他にもあればやってみたいので教えてほしいです。おわり。