はてなキーワード: 共生とは
いや、おかしいでしょ。なんでPlaceが流通になるの。なんとか頭文字を合わせようとしただけじゃないの。
で、さらに顧客志向のマーケティングミックスとして後に生まれたのが4C。
サービスのマーケティングミックスでは4Pに3つのPが加えられ、7Pになる。
Physical Evidenceが分かりにくすぎる。2単語になってるし。
さらに共生マーケティングにおける4Cは上記の4Cとは違うとか、共生マーケティングの分野には7Cs COMPASS MODELなるものもあるとか。
7Cs COMPASS MODELが何を言ってるか分かる人います?
無理やりかっこよく頭文字を合わせてなんの得があるというのか。
俺は、イケメンになろう、なぜイケメンだけが得するんだ。って劣等感持ってたんだけど。
いま少し考えあらためた。
イケメンは女をとりこにして、風俗なりAVなり落とす。そうまでしなくとも、女の婚期をつぶして妥協させる。そういうのでできた成果物を普通の男達が得る。
これを考えると、イケメンは社会にとって、「女を倒す食物連鎖の1種」で、「イケメン」っていう役割を果たしてるんだと思った。
ブサメンは、女から相手されないから、必死に努力して金を作る、社会を回す。つまり、そういう差別が間接的に社会を動かす原動力になっている。
ブサメンは、そういう働きをする「ブサメン」って仕事を担当してると思う。
そう考えると、扱いの差が気にならない気がした。
俺は、俺の領分の仕事をしているし、イケメンはイケメンの領分の仕事をしているだけで。
研究者と技術者の仕事の分担みたいなもんだな。イケメンをうらやましがるのは、違うわけだ。
だから、イケメンはイケメンの役割を果たすだけで、ブサメンはそれで不利益を受けても、ミクロではいやだが、マクロでは共生関係なんだなと思う。
ソーシャルゲームの場合、廃課金兵のプライドを支えるのはゆるくプレイする人たちだ。
彼らがいるおかげで、上位プレイヤーは400万人プレイヤーのトップという地位を享受できるのだ。
彼らの廃課金のおかげでライトプレイヤーは無料でプレイできるし
ライトプレイヤーのおかげで廃課金兵たちはちょっとした俺SUGEEEを味わえる。共生関係だ。
本来であれば、こういうライトプレイヤーがはいってくることは望ましいはずだ。
こういう存在が裾野をかため、自分たちの地位を押し上げてくれるからだ。
しかし、オタクたちはリア充にたいしてコンプレックスを持ちすぎている。
リア充オタクという言葉で今日ホッテントリしている記事に出てくる人たちの言葉を見てみよう。
http://alfalfalfa.com/articles/133722.html
http://hamusoku.com/archives/8993928.html
http://hamusoku.com/archives/8994409.html
http://tm2501.hatenablog.com/entry/otaku-toiu-gitai
なんだこの哀れな人達は。
そんなにリア充羨ましいなら努力してそっち方向に行けばいいのに、
オタクにしがみついたまま、リア充を「自分たちの土俵で」けなして満足しているのだ。
情けないにも程がある。そんなに自分に自信がないのか。
似非だとかヌルいとか言ってるけど当たり前じゃん。向こうはライトに楽しみたいんだから。
じゃあオマエリア充のホーム側に乗り込んでいきなりすごいことできるのか?出来ないだろ?と。
その時に向こうが「ヌルい」だの「似非」だの馬鹿にしてきたらどう思うよ。
オタクだとかリア充だとか関係なく人間としてあまりに器が小さすぎるし性格悪すぎるしキモすぎだ。
そのキモさを全開にしたあげく、自分たちはガチのオタクだって胸を張っているのだ。
ガチのオタクってのはそういう器が小さくて性格が悪いことか?違うだろうに。
ほんっとに情けないな。
オタクがバカにするギャルだとかリア充の人たちってオタクよりは心広いぞ。
結構無神経にオタクとかを馬鹿にしたりするけれど、いざ興味持ってそっちの世界に足を踏み入れようとした人たちを馬鹿にしたりはしない。
オタクみたいに興味持ってやってきたライトユーザーを「ヌルい」だの「似非」だの「にわか」だのいって馬鹿にしない。
親切にしてくれて、いろいろ教えてくれて、尊敬できる人がいっぱいいる。
それをなんだ、上の記事に出てきたようなオタクたちの情けないこと。
言っちゃ悪いが、お前らがリア充になれないのってヲタだからでもなんでもなく単純にキモチワルイからだろう。
リア充ばかにしてる暇があったら、オタクどうこうよりその気持ち悪さをなんとかしたらいいのに。
もし、安保法制の中身に賛成でも手続きがおかしければ反対して欲しいんですね。
今回は皆様も感じていらっしゃるように民主主義の手続きが踏まれていないと思います。
こういうとね、多くの愚かな政治学者を含めて「民主主義とは多数決だからそれでいいんだ」と応えるかもしれませんね。
それが何故愚かなのかというとね、政治思想の歴史を知らないからなんです。
それは具体的にはルソーによるロックの反駁として知られています。
ルソーはロック流のある種の代議制民主主義をこう言ったんです。
ですので、代議制は必ず、デモその他に国民たちが絶えず参加することで補完されなければならないとされた。
つまり、民主主義とは何かといいますと「参加による自治」のことをいいます。
まず、ここまでが前置きです。
このルソーの反駁として知られる有名な議論も含めて、当初、民主主義は小さな規模で考えられていました。
ところが、アメリカのような大きな国が(あるいはヨーロッパも20世紀に大きな国になっていきますが)
出現したとき、考え出されたのが「共和」というシステムなんですね。
それは、民主主義的な自治のスモールユニット(小さな単位)が共生するため、
ヨーロッパなら(補完性の原則に基づいて)できるだけ下の単位で決め、できないことを上にあげていく、
そのように運営されている仕組みのことです。
民主主義とは「多数決”ではなく”」、基本的には「自治なのである」ということなのです。
もっと言えば、自治の本質とは「代議士に任せない」ということなんですね。
そういうことを知った上でモノを言っている人がどれだけいるのでしょうね。
また、そういったことについて考えてみると、日本のおかしな仕組みで「党議拘束」というものがあります。
海外では「無理やり党の決定に従わせること」という一文に置き換えられています。
ひどいでしょう?個人がいくら公約したところで、その意味が剥奪されてしまっている。
党が決め、その党が多数を占めてシナリオを描いてその通りに進む審議に何の意味もないではないですか。
また、勘違いされている方が多いのですが、今回の法案は自民党に利するところより官僚に利するところが多い。
官僚の権限の無限の拡大が疑われているのが国会審議で分かりつつあります。
法案の中に歯止めとなる部分が無い、政府の思うままにことを動かせる内容です。
「政府」というと一見すると安部政権であるように思われますが「そうではありません」。
政権はあるとき必ず変わります。しかし、変わら無いものは根底に流れ続けている。
官僚機構が(自衛隊の安全確保基準も無いまま派兵ができようなっているなど)絶大な権限を得るような内容になっている。
それが今回の法案です。自民党はそうとは知らずに片棒を担いでいるに過ぎません。
安部政権、自民政権がそのままならばいいでしょう。その権限の一部を彼らが行使できるわけですから。
自民党、安部氏を応援している方々は、そうした政権(たとえば民主党や公明党)に、
鴻池氏の言動に幾ばくかの逡巡が見られた方もいらっしゃるでしょうが、実はそのあたりだと思われます。
「最小限度基準」なども書かれておらず、「安全基準」も書かれていない。
権限をときの(誰が握るか分からない!)政権に無限に使わせないための「歯止め」がない。
「合理的に判断して」など、ようするにときの政府が総合的に判断する、と。どうにでもなる内容で書かれているのです。
今回、残念なことに「違憲かどうか」にかなり焦点が当てられてしまったが故に注目が薄いのですが、
「違憲」をひとまず横に置いておいたとしても、「法律としてあまりにも問題が多い」んです。
ここで知っておいて頂きたいのですが、「一旦法律としてできてしまったら、それが取り消されない限り有効」です。
最高裁判所で違憲判決が出されるか、次の政権が廃案にしない限り、有効であり続ける。
とうことは、次の政権と官僚機構に無限の権限の行使を許すことになる、ということです。
(続きはWEBで!)
で入居一ヶ月前というドタキャンだった為、当然手付で入金
したウン百万は戻らず水の泡となりました。
分譲マンションを買うという事は、私達のような事もあるん
だと思っていただければ幸いです。
参加しました。
受付を済ませ入室するとテーブルが入居階毎に設定されてお
り、入居後のコミュニケーションを想定した席次となってい
ました。私達のテーブルに向かうとそこには高齢のご夫婦と
少し身体を斜めにして身体を揺すったり手を叩いたり大声を
とはすぐに分かりました。
身は「まあこんな事もあるかな」程度に考えていました。
に自己紹介をという流れになりました。
「ああああかあかかかかか!!!!!」
にご夫婦でなだめていたのが印象的でした。
あまりにも大きな声だったので他のテーブルもみんなこちら
を振り返るほどでとにかく面食らったのを覚えています。
体格も柔道をやっているような大柄でした。
もありますが、みなさんと一緒に楽しくすごしたいと思い
んを押しのけて私の妻に向かってバーっと抱きつく勢いで手
○○さんは押さえつけられても顔をブンブンふったり、何か
歌ったりテーブルを叩いたりしていました。
ちの方への接し方としては間違っていたかもしれませんが、
ず押し黙っていました。旦那さんは○○さんを押さえつけな
何故か奥様は○○さんをなだめるだけで、全くこちらを位に
声が耳に残っただけで、後の自己紹介は全く覚えていません。
妻を引っ張っていくような形で連れて行きました。
先ほどの私達のテーブルの騒ぎを見て私達のテーブルに近づ
話こそ無難に盛り上がりましたが、「ああ、あの人がいたテ
ーブルの方ね」という哀れみというか少し距離を取ろうとす
いてその世話をする高齢のご夫婦の姿がありました。
ました。
帰りの車内。
妻は一言も口を利きませんでした。
正確に言うとそれから数日間口を開いてくれませんでした。
私は最後の望みをかけてずっと世話になった営業マンに部屋
で仮に他の販売マンションを紹介するにしても解約は免れな
存知で、全く私達を引き留めようともせず淡々と現状出来る
ことを説明するだけだったのが印象的でした。
「解約しよう」
妻には私から打ち明けました。
確かに何百万も払った手付金が戻ってこないのは残念だけど
と口を開いてくれました。
解約なんて本当にあっけないもんです。
オプション改造分の違約を請求されたりしたらどうしようと
思っていましたが、手付を放棄するだけで解約となりました。
大変だったのはその後で、ギリギリすぎてその時住んでいた
いで引っ越したことです。
す。
ない人も分かりあって生活していけると信じたいです。でも
てくれた忘れられない出来事でした。
「感情抜きで」政策の面から安倍首相に反対する理由を考えるってのは、そもそも難しい話なんじゃないだろうか。
政治家に「正直さ」を求めるなんていうと青臭く聞こえるけど、彼のやり方はあまりにも強引で、誤りを指摘しても一切認めずに詭弁を弄するばかり。政治家なら皆、大なり小なりそういうところがあるけど、彼はちょっとそこが突出しすぎている。彼が信用されない理由というのは、実際これが主因なんだと思う。
加えて彼は極端に右寄り。日本には右翼もいれば左翼もいるし、また中道の人もたくさんいて、それぞれに考え方が異なるけれども、好むと好まざるとに関わらず共生していかなければいけない。
例えば、中曽根元首相も同じように右寄りな考え方だったけど、彼には「左にもウィングを伸ばして」支持を拡げようというバランス感覚があった。しかし、安倍首相はどうもその辺が飲み込めていないようで、今や左翼を完全に敵に回してしまっている。国内のそれなりの割合の人を敵に回してしまうというのは、首相としては決して賢いやり方ではない。不支持と敵対は別物でしょう。
政策云々というより、その辺の拙さではないかと。
アニメ版とは別物ですね。
日常系作品にちょいとホラー要素を加えたのがアニメ版だとすれば、原作コミックはほとんどホラーです。
それと、ただ怖いだけじゃなくて、批評性の高い意欲作です。
日常系とか空気系と呼ばれる作品群をハッキリと否定しています。
エヴァ旧劇なら庵野がオタクたちのことを「気持ち悪い」と言ったのと同じです。
まどマギ劇場版新編なら、ラストで「自分勝手にルールを破るのって、悪いことじゃないかな」とまどかに言わせ、ほむらが創った心地よい虚偽の日常を批判しているのに相当します。
学校を出ること(卒業)、あるいはそのまま学校に残り続けること、どちらかです。
"巡ヶ丘"学院という名前と場所そのものが、終わらない、居心地の良い、都合の良い、フィクションの中にしか存在しない日常のメタファーです。
最終的に、学園生活部のメンツは卒業すること(現実を直視すること)を選びます。
とりわけ丈槍由紀の成長は顕著で、ハッキリと夢想に別れを告げ、夢想で彼女を守っていた周囲に感謝の意を示します。
と、ここまでが1~5巻までの概要です。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で言えば、ハリアーで友引町を脱出するところです。
エヴァ旧劇なら他者(アスカ)を望み、LCLから人間の姿に戻るところです。
ただ、揺り戻しがあるのですね。
嘘でも良い、安心できる妄想の繭に守られていたいという願望が再び頭をもたげてきます。
1~5巻では由紀が繭の中に逃避していたのですが、今度は若狭悠里が繭の中に潜り込み、由紀と同じ道をなぞってしまいます。
セカイ系の隆盛後、日常系が流行り、まどマギで一旦は日常から脱出したのですが、また日常に戻った漫画・アニメの消費者自身なのです、悠里は。
一度は他者を望んだものの、やっぱり怖くてアスカの首を締めたシンジ君そのものです。
デビほむが創った新しい世界を半ば受け入れてしまう、まどか以外の魔法少女たちとも似ています。
7巻以降はどうなるんでしょうかね。
おそらく日常と現実の間を振り子のように揺れ、最後は曖昧な位置で静止して終わるのではないでしょうか。
『うる星~』は友引町から脱出できたかどうか分からないまま幕を引きました。
エヴァ旧劇でも、新しい世界でシンジとアスカが共生できるかは未知数なまま終劇を迎えます。
まどマギ新編でも、ほむらは「いずれあなた(まどか)は、私の敵になるかもね」と言っています。
縮小再生産で似たような作品ばかり作っていて良いのかという反問です。
唯たち4人はしきりに「高校を卒業しても、今までのような毎日が続くかな?」と自分たちに問いかけ続けます。
もちろんずっとクローズドな学校生活(がっこうぐらし!)が続くわけはなく、社会に対してある程度開放的であらざるを得ない大学編けいおん!はすぐ打ち切りになりました。映像化もされていません。
まんがタイムきららは自ら日常系の潮流を作り、その流行に乗りつつも、自分たちがまずい方向に進んでいることが分かっているのでしょう。
「スギ花粉にすぐ反応してクシャミばっかりする人たちに、私は心底うんざりしているのだ」
ってのは、ちょっとどうかと、俺は思う。
ヒドイ自称をしてるが、俺は映画やドラマやエンターテイメントが好きだ。
(作品を貶すよりも)鶴を見つけたと叫ぶ方が有意義だと思ったから、そうした。
批評家から酷評されようがファンからブーイングを受けようが映画館に足を運ぶのは、そこに輝きがあるからだ。
例えば昨今のイカ人気に便乗するなら「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」というパニックムービーがある。(日本では劇場未公開・TV公開)
娘に海の無慈悲さを説く主人公である父親には(ゴジラ作品に通ずるような)自然への畏敬がある。
ただ、有り体に言ってジョーズの何番煎じかの作品で、秀作とは言えオススメするのは難しい。
しかし、単なるパニックムービーに深みを与える演技を魅せた主人公のWilliam Petersenは、
「CSI:科学捜査班(2000~)」でギル・グリッソムを演じ、ハリウッド殿堂入りを果たしている。
つまり、どんな作品にもそこに関わった人間の思いが込められているし、
駄作と酷評されるような作品にも、愛と信念を持って臨む人間が居る。
こちとら最初から「何が(何を持って)成功か失敗か」という話はしていないんですよ。論点分かってくれ。 /この人のように実際に観てから言ってる人には何も言うつもりはないんです。
十分に論点を理解した上で書いたが伝わらなかったのは俺の力不足だからだろうし、
これが個人攻撃に見えてしまったり、曲解した上で叩いているように見える可能性もある。
ので、ゴリッとidを入れておいたので、不愉快に思ったら手数をかけるが削除申請して欲しい。
少なくとも「自分の好悪」であると主張しているのは、俺は好ましい態度だと思う。
だからこそ、共通点を探ろうとブログを読み(slinky_dog_s11さんの好きであろう)ゴジラシリーズを週末かなり観た。(正直キツイし時間かかった……)
だもんで例示としてあげるのはローランド・エメリッヒ監督のGodzilla(1998)にするが、
俺は、パニックムービーとして良く出来ていると思う。ジャン・レノも良い味出してるし。
しかし、「ゴジラ」ファンがこれを「ゴジラシリーズ」として認めるかは、意見が割れると思う。
ゴジラ(1954)にある自然への畏敬や人間社会への風刺はホトンド無いし、
フォーマットとして確立していたゴジラvs怪獣という点も無く、独立している。
そもそも、それまでのゴジラの造形からあまりにもかけ離れている。
こういったハリウッド化が何度も繰り返され、slinky_dog_s11さんの好きなゴジラや特撮が、
そうではない別ものとしてハリウッド化が何度も何度も繰り返し為されていたとしたら、
「ハリウッド化!」に対して「もう止めてくれ!」と叫ばないだろうか。
それを、「ゴジラを見ていないし思い入れも無い人」が「ハリウッド化に騒ぐ特撮クラスタは目障りだから止めろ」と言ってきたら、
「ゴジラ好き」達は、素直に「次こそはという可能性もあるから黙って待つか」と思えるだろうか。
そもそも「実写化」というのは別に本質じゃない。次元を超えるせいで、単に目立つだけだ。
例えばリメイクやリブート、コミカライズやノベライズ、もっと言えばアニメやドラマのシリーズものだってそうだ。
第三者が別のキャンバスを持って現れ、横で少し真似た絵を描き始めた
http://blog.goo.ne.jp/yukks453145/e/12eb31fc9d5080c07c838ef6fb4ea238
slinky_dog_s11さんも書いてるよな。的確な比喩だと思う。
自分の好きな絵の名前で「これこそが名画でござい!」と模写を披露してるのを、見るわけだ。
その模写は、原作の絵を知っている人間が見ると、とんでもない模写なワケだ。
もしくは、「トンデモナイ描き方を始めた」ように見えるワケだ。
例えば最近だと寄生獣(2014, 2015)があるな。放射性廃棄物を使った演出で、一炎上あった。
個人的にはね、ミギーの阿部サダヲの名演とか、寄生獣を実写で見られたというワクワク感も無くは無い。
でも、あの映画があると(あった事実は消せないよな)「寄生獣っていうのは、ああいう思想の作品なんだ」として記憶される訳だよ。
主人公に寄生する謎の生物であるミギーもさ、「なんかヒョウキンなバケモノが腕についてんな」という評価になるわけだろ。
人間から見たら冷酷な(でも事実を言ってるだけの)ミギーに対する違和感や嫌悪感、そこからの「共生」みたいなものは読み取れないわけだ。
漫画を読んだら判るはずの良さが、映画を観た人には伝わらない。
観た人に演繹されて「ああ、原作もこういう作品なのね」と思われると想像して当然だろう。
そして、そうなるであろうという不信感・違和感が、「止めてくれ!」と叫ばせるわけだ。
「ここが違う」「そこが違う」として細かな差異をアゲツラウってのは、本質じゃないと思う。
それは「不安だ!不信感がある!」という違和感を上手く言語化できないだけじゃないかと、俺は思う。
俺は、初期の段階で騒ぐのは良いことなんだと思ってる。
少なくとも、熱心なファンが居ることは伝わるわけだし、プレッシャーもかけられる。
島本和彦みたいに「原作を変えたんだから、実写も変えろ!」みたいな面白しなくても、伝わる可能性がある。
そして、この中で、作品がより良くなる可能性があるのは1番しか無い。
だから、「実写化!」にファンが即応して「マジかよ!」と叫ぶのは合理的だ。
俺は、ブコメでも言及されていた「るろうに剣心(2012)」を邦画と呼ぶのには強い抵抗がある。
(るろ剣に関しては語りたいことが山ほどあるが、本筋ではないのでここには書かない。需要も少ないだろうしな)
それぐらい、「邦画」界や「ドラマ」界隈ってのは特殊で、ハッキリ言って漫画やアニメを実写化するには向いてないと思う。
だからこそ、Twitter等でファンの声を製作者側に伝えられる機会があるなら、もっともっと騒ぐべきなんだと思ってる。
そして、そういうファンの存在を「受け入れがたいので目を背ける」コトが出来ずに「本当に嫌い」として黙れというのは、狭量じゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150619121107
(※追記:Twitterみたら個人攻撃にしか見えない感じになってたので題名を修正。あと、ゴジラ24本観終わったので、残り6本のはずだが近所でレンタルしてねえ……)
つい最近隣接分野でこんなやりとりがあったけど結局真摯に文献提示しても「気にいらねーから読まない」って態度とるのはなんなんですかね。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20150208/p1
このエントリで触れた、同性愛の病理化の歴史についての主なソースは、風間孝&川口和也著『同性愛と異性愛』(岩波新書)です。平易で、かつ情報盛りだくさんで、いい本ですよ。おすすめ。
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20150209/1423489280
文献に関してですが、トランスジェンダーの方の意見がブクマにありました。
はてなブックマーク - 「どこかの同性愛コミュニティから『ノーマルは差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記
岩波新書の同性愛と異性愛を推奨みたいだけど、あれはひどかった http://blog.goo.ne.jp/kuborie/e/0bf72de60958fb338400532e9a3d73e9 読む価値あまりなし。少なくとも絶対に読み返さないと思って、無償で人にあげた
またこういう意見もありました。
はてなブックマーク - LGBTの方に質問です。「異性愛をノーマルと呼ぶこと」及び「同人…
「LGBTの方に質問です」ってところでカチンとくる炎上案件。十把一絡げにすんな/言葉でいちいち目くじら立てないけど、この質問の仕方はダメよ。まず、Tの人はノンケだってことに留意すべきですねー。
「どこかの同性愛コミュニティから『ノーマルは差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記
「ノーマルカップリング」「ノマカプ」「NL」などの語について、ブログでだってTwitterでだって、批判しているLGBT当事者はいっぱいいるよ。id:kyoumoeさんの特殊アイに、そういう意見を極力見ないようにする回避機能がついてるだけなんじゃねえの。
「LGBT」という表記一つでこれほどの意見の相違が出てきます。
議論の踏み台として提示された文献を自分で吟味もせず他人の書評に乗っかって価値が無いと切捨てて見せてるわけですよ。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20150210/p1
最後に、同性愛イシューやLGBTイシューを本当に「わかりたい」と思っていらっしゃる方々のために、おすすめ書籍のリストを挙げておきます。カーリル | 日本最大の図書館蔵書検索サイト等で探してみられてはいかがでしょう。本は怒らないし冷静だし、情報量も多くて、うちのブログなんかよりよっぽど有益ですよ。
『同性愛と異性愛』(風間孝&川口和也、岩波書店)(レビュー)
『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一 他、ナツメ社)(レビュー)
『<同性愛嫌悪(ホモフォビア)>を知る事典』(ルイ=ジョルジュ・タン編、明石書店)(レビュー)
『LGBTってなんだろう?--からだの性・こころの性・好きになる性』(藥師実芳 他、合同出版)(レビュー)
『ステレオタイプの社会心理学 偏見の解消に向けて』(上瀬由美子、サイエンス社)
『セクシュアリティの多様性を踏みにじる暴力と虐待』(アムネスティ・インターナショナル編、現代人文社)
『同性愛者における他者からの拒絶と受容』(石丸径一郎、ミネルヴァ書房)
『Biological Exuberance: Animal Homosexuality and Natural Diversity』(Bruce Bagemihl、St. Martin's Press)(レビュー)
『Homosexual Behaviour in Animals: An Evolutionary Perspective』(Sommer, V. & Vasey, P. L. 編著, Camblidge University Press)(レビュー)
『It Gets Better: Coming Out, Overcoming Bullying, and Creating a Life Worth Living』(Dan Savage & Terry Millor [編]、Dutton)(レビュー)
食べる/見世物にするということを、「人類が自身の都合で自由に扱って良い」と解釈して、人類が自身の都合である種を自由に扱って良いかどうかは、その種の知能によって線引きされると仮定してみる。
妥当そうな理由を考えるとすると、「知能の高い種は後々人類と対話して共生することになる可能性があるので、禍根を残さないようにしよう」ってことかな?
例えるなら、「黒人を白人の都合で奴隷として扱ったのはマズかった。彼らは対話可能な存在だった。同じ過ちを繰り返さないようにしよう。」という考えを種を超えて拡張すると、イルカやクジラが当てはまるということか。この例えは微妙というか黒人の立場からすればアウトだけど。。
「何百年待ってもイルカやクジラと対話できるようになんかなんねーよ」って話もあり、無視して良いのかという気もするが、「対話は無理でもパートナーシップを持つことはできるんじゃね?」という感はあり、地上におけるヒトとイヌの関係ぐらいは持てるような気もする。イヌを食べる人々もいるが。。
食べることに限って考えれば、「なんかしら食わんといかん。それは人類に限らないし、これはしゃーない。」って話はあり、その視点では種を区別せず何でも食べるのが最も正しいのか?。知能によって区別するなんてそれこそ差別!。なのか?。え?じゃあ人間も含む?。
飢えた地域もあるものの、人間は同族も含めて何でも食べないと種を維持できない状態ではないので、なんらかの線引きを行うに至ったのは自然なように見える。とすると、その線引きはそれぞれの文化によってそれぞれ独自に決定される?。とすれば鯨漁やイルカ漁に対する批判は異文化への無理解とみなせるのか。
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おれのアタマじゃ結論出ないので、倫理学の専門家に説明してほしいなあ。
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2015/05/24 19:45 追記。
書籍を紹介してくださった ChieOsanai さんとブログまで書いてくださった DavitRice さんには感謝です。
DavitRice さんのエントリ。
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2015/05/24/110640
とりあえず「動物からの倫理学入門」伊勢田哲治 はポチったので楽しみに待つという状態。
個人的には DavitRice さんの説明に納得感があり、「もうこれで良いわ。受け入れた。」などと一瞬思ったが、先を急ぐのも危険なので本を読んでまた考えるということで。
DavitRice さんの説明で一点モヤったのは
”「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張が「イルカ以外の動物は頭が悪いから殺しても良い」という主張を含意しているわけではない”
の部分で、
”「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張は「イルカ以外の動物は頭が悪いから殺しても良い」という暗黙の主張を含意せざるを得ない”
とはならないのかな?という点。これはおれの理解に抜けがあるのか。論理学とかの出番なのかな。まあ、本読んだら納得できる説明があるかもしれないので、後々ということで。
ブコメでは文化的背景や感情をベースとした素朴理論が多い印象で、この件についてはそうした論も排除される必要は無いよなー。という感覚。
これが素朴理論を背景としたヒトという種の中で線引きを行うような話なら即刻排除される必要があるだろうけど、アニマルライツ(今日知った言葉だ!)については、ある程度の多様性が認められても良いんじゃね?みたいな。動物愛護団体の人からすれば「ざっけんな!」って話だろうけど。
一方で、文化をまたがって統一された規定を設けようとして、それぞれの線引きに乖離がある場合、「え?じゃあどっちに寄せるよ?」って話にはなるわけで、アカデミアからの裏付けがある方が強いのは仕方ないのかなあとも。とはいえ WAZA と JAZA は雑すぎだろ。。
「手斧磨き」「ブコメデマおしえ」「プリントアウトすすめ」といったネットワークしぐさを身につけたはてなの人々は、お互いを慈しみ、支え合い、平和で豊かな生活を送っていました。しかし〈大災禍〉のさなか、匿名掲示板民の暴走をきっかけに、各地で燃え上がった特定祭りによってはてな民は虐殺。アーカイブの多くも失われてしまいました。今、本当のはてなしぐさを知る人は少ないのです……。
はてなの人々が育んだはてなしぐさは、良きネット民としていかに生きるかという行動哲学であり、人間関係を円滑にする共生のティップス・ライフハックでもありました。はてなしぐさを学び身につけることで、精神と身体を健康に保つことの大切さを知り、周りの人たちを幸せにしながら笑顔の絶えない生活を送ることができます。
はてなしぐさがどんなものかわかったかな?では実際にはてなしぐさを体験してみましょう!
相手を思って伝えた言葉でも、小さなすれ違いから互いに傷つけ合うこともある。どうしたら自分の気持ちを相手に伝えられるの?どうしたら相手の気持ちが分かるの?はてなの人たちはいつもそのことを考えながらネットに向かっていました。
ひとりよがりの言葉を何度も繰り返すより、正確な言葉で一刀両断するように伝えることがお互いの幸せにつながる。言葉に出す前にどれだけ深く考え抜いたかを一番大切にしていたはてなの人たちの間では、手斧のように磨かれた言葉だけが飛び交っていたんだ。
自分の考えていたことと違った受け取り方を相手にさせてしまったとき、はてなの人たちはそのことを反省して「上手く伝えられなくてすまん」と謝ったんだ。自分から先に謝ることで相手の気分も和み、コミュニケーションを円滑にする効果もあったんだよ。
自分の視点からは見えないことでも、相手の視点に立って見つめ直すことでたくさんの気づきが訪れる。日本の伝統的な盤ゲーム〈将棋〉プレイヤーが行っていた、相手の肩越しに盤面を見つめ直した様子になぞらえたはてなしぐさだよ。相手の気持ちを理解しない人には、「はてみんアイをしてみましょう」とみんなで声を掛け合ったんだ。
どんなテキストでも、まずは本文を最後までしっかり読み込む。はてなしぐさの鍛錬を積んだはてな民の中には、言葉と言葉のあいだから、テキストに書かれていないことまで深く読み取れるようになった人もいたんだ。普通の人から見るとまるで超能力のように映ることから、はてな民のテキスト読み取り能力は「エスパー」「エスパー利かす」と呼ばれました。
一般の人でも不適切な情報にアクセスできた成時代のネットワークでは、はてな民たちが付けていたソーシャルブックマークコメントが、望まない接触を予防するためのリスク判断に役立っていたんだ。また、コンテンツやブックマークコメントに「はてなスター」が付けられることで、信用性はより正確になったんだよ。
暴力的で不健全な情報で身体や精神を傷つけないために、コンテンツを見る前にひとめブックマークコメントに目を通すことは、はてなの人たちにとって当たり前のしぐさになっていたんだ。実際にコンテンツを見たあとは足りないリスク情報を補い合って、正確性や有用性を高めていたんだ。
曖昧な情報源を元に不安を煽ったり甘い響きの嘘で人を騙していても、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」とも言われていた当時のネットコミュニケーションでは、デマも個人のスキルで判断するしかなかったんだ。情報の一次ソースを見つけて誤りを指摘するスキルを「ソース力」といって、ソース力の高かったはてなの人たちは、デマを見つけると丁寧にブコメで指摘し、正しい情報を流通させることに貢献していたんだ。
はてなの人たちは「ほほえむ気持ちで☆を付けよう!」と心掛けることで、スターの価値を高めていこうと考えていました。☆がたくさん付いたコメントはたくさんの人を笑顔にできたコメント。☆がたくさん増えたら笑顔もたくさん増える。そう考えて実行していたはてなの人たちは、コメントに付いた☆を見つけるとそっとほほえんだといいます。
テキスト読み取り能力の高いはてなの人たちは、言葉の先には生身の人たちの生活があることをいつも感じていたんだ。書き手の身体や精神の状態が優れないことがわかったときには、その人が健康で人間的な生活を送れるように、できる限りのアドバイスを送っていたんだよ。
はてなの人たちが見つけた多くの気付きの中に"不幸を回避してより豊かな人生を送るためには、その人に合った生活スタイルを選択することが大切"というものがあります。生きづらさを訴えるテキストに出会ったときには、その原因となっている無理や過剰を見つけ出して、「あなた○○向いていません」と伝えてあげたんだ。
当時はまだセラピーを受けないまま心的外傷を負ってしまったり、精神的に大きなダメージを受けた状態でネットワークコミュニケーションをしていた人も多くいました。テキストをエスパーしてそのことに気付いたはてなの人たちは、症状の現れたテキストをプリントアウトして、すぐに専門の心理カウンセラーに見せることを勧めたんだ。身体と精神の健康を保つことの大切さに気付いていたはてな民ならではのしぐさだね。
「くねくねしぐさ」は、自然発生的にたくさんの人が話し合い、一つのことに対して多様な議論が生まれる様子をあらわした言葉です。ときにそれは、はてな全体を巻き込んだ大きなうねりになることもあったんだよ。また、同じ思いを持つ人たちが実際に集まり、はてなコミティセッションが開かれることもありました。そこではどんな発言もほほえみながらみんなで受け止め、力を合わせて問題の解決をめざしたんだよ。
みんなで使うネットワーク空間だからこそ、他の人が嫌がるようなしぐさは控えよう。迷惑ネットしぐさに出会ったはてなの人たちは、すぐやめるようにみんなで声を掛けたんだ。
テキストを最後まで読まず、タイトルや始めの数行だけ読んで反射的に書かれたようなコメントは、「脊髄コメント」といって嫌われたんだ。特にテキストタイトルだけ読んで反応してしまうコメントに対しては、「本文だいじ」といって、もう一度しっかり読み直してコメントすることを勧めていたんだ。
わたしたちはみんな、ひとりひとりが社会にとって重要なリソース。はてなしぐさの実践から身体と精神、そして生命の大切さを知っていたはてなの人たちは、断りなく相手を傷つけることを何より嫌っていたんだ。健康への配慮に欠けた食事や喫煙などの悪習慣も「リソース泥棒」といって、きつく戒めていたんだ。
〈大災禍〉の際に起こった特定祭りは、様々な能力に秀でたはてなの人たちを狙った、逆恨みにも似たおぞましいものでした。ネットワーク上に記録されたはてなしぐさに目を付けられ、はてな民たちは徹底的に虐殺されたといいます。アーカイブも執拗に破壊され、その難を逃れられたのは卓越したエスパーを発揮したごく一部のはてな民だけでした。
はてなしぐさは〈果無草〉とも書き、途絶えることなく続く思想と生命の理想を表した言葉でもあります。はてなの人たちが残したはてなしぐさは、今と比べて不完全だった社会システムの中でも公平性と他者への思いやりを手放さず、支え合いの中で共生していくために生み出された、慈愛に満ちた行動哲学だといえます。
私たちはアーカイブの復元とともに、数少ないはてなの人たちからの聞き取りを続け、今も色あせることのないはてなしぐさを黄泉がえらせることで、平和で笑顔の絶えない社会の実現を目指します。
次から日本の人口を支える可能性がでてくるのは、人口も出生率も大きい東南アジアのイスラム圏だな
本格的にここらへんの人たちと共生することを考えるのなら
その通り。あなたの考え方の論理的帰結は憲法改正、というか憲法の位置づけを含む国家観そのものがおかしい、という主張になる。
「憲法を始めとする日本国の法制観そのものがおかしい」という前提に基づけば。あなたの主張は間違っていない。
ただ、日本国憲法を最高法規とする日本国の法制というのは「あるべき社会の形を国家が規定するという考え方」に基づいていないのだ。
現代日本の法制観というものは(非常に西欧的な社会観なのだが)国家と社会が切り離して考えられていて、ある意味「国家がなくても社会は成立する」という「イデオロギー」が前提としてある。
国家とその法制度は「国家がなくても成立しうる社会」というものにおいて「国家があった方がよりましな部分」に社会がその権限を仮託して成立しているという考え方だ。
従って主はあくまで社会、そしてその構成員である市民であり、国家は従。だからこそ国家の最高法規である憲法というものは「国家の権限の及ぶ範囲を規定する」ものとして書かれている。
別にこの日本国の法制観自体は、単なるイデオロギーであって正しいとする根拠は無い。だが、
子孫を残すことは社会を維持するための最低限の条件であり、これに寄与しない人間、寄与する意思のない人間を、共生する意思があると見なせるか否か。そこから考え直さないといけないんじゃないのか?
という根本的な問については、この主張の正否以前に、そういった「根本的な社会のあり方を国家が規定しようということ」自体を日本国の法制観ではout of scopeだ。
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう
■本文。
最終回だというのに最初からくどい話になるのだけど、インターネットなどのメディアが、世界が一体化したかのような幻想を生み出す一方で、野放図に拡大される情報社会が、心の繋がりを裁断し続けている。断片的な情報を追いかけることに躍起になるあまり、多くの価値観=ジャンルは求心力を失った。例えば、メディアミックスにしても、それぞれがジャンルという枠による秩序を持っているからこそ、混淆することに意味があったし、一体化の幻想自体が、[かつての全能感]を取り戻すための侵略に他ならない。そして、互いの領域を侵略した結果、秩序という枠組みが曖昧になったことで、インターネット上では無制限に肥大した自意識が互いに衝突を起こしている。情報という麻薬に蝕まれた中毒患者は絶えず全能感と無力感を往復しているが、目の前にある荒んだ光景は認識することができない。
そんな現代において、旧来の世界観に回帰すること=思考停止による癒しが唯一の自己防衛手段となっているケースは多い。そして、箱庭のような偽物の原風景に引きこもることで、飽くなき侵略=拡大する欲望を抑えている。自己言及的な表現を頑なに拒むのも、居場所を自壊させてしまうことへの潜在的な恐怖があるからなのだろう。そして、マッチョイズムとフェミニズムの対立から零れ落ちた層を汲み取る為に、ポルノメディアの特異点……ポルノメディアから遠く離れたポルノとして、美少女ゲームは存在している。マッチョイズムにせよ、フェミニズムにせよ、その論理は自身のセクシャリティ=現実の恋愛やセックスを前提としているが故に、現実と虚構を対比し優劣を決定する方向性で結論を出してしまう傾向が否めない。例えば、フェミニズムの功績としては、男女の恋愛関係におげる規制緩和と自由化が挙げられるが、同時にそれは恋愛における自由競争を生み出したと言えるし、当然、自由競争から弾き出された恋愛弱者も多く生み出すことになった。ちなみに、この構造は、フェミニズムをインターネットに置き換えれば、情報弱者を生み出す構造と同じになるのだが……。
美少女ゲームはポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分と他人]という基準で駆動している傾向がある。言い換えれば、自身のセクシャリティに対する意識が希薄であるが故に、全くの異物としての他者(異性)を認識することが難しく、自己の延長としての他者という方向性で純化されているのだが、同時にコミュニケーションを崇高化し過ぎるという弊害も見られる。その弊害が悪化すると[引きこもり]に繋がっていくのだけども、ユーザーの大半は普通に社会生活を送っている。理由は色々とあるだろうが、スピリチュアリズムに似た信仰システムの機能を、美少女ゲームが持っていることも挙げられると思う。
そして、セクシャリティに対する意識が希薄である=前時代的であるために、恋愛至上主義的な表現が勃興した。例えば『ToHeart』や『ONE』で描かれるセックスはあくまで婚前交渉であって、娯楽としてのセックスではない。娼婦と素人娘が厳然と分かれていて、素人娘と付き合う時は必ず結婚が前提になる時代の価値観が無意識のうちに再現されているので、『Kanon』に至っては、名雪シナリオ以外ではセックスすることを選択しなくてもトゥルーエンドに到達できる。それは、セックスは結婚後に初めて行うものと考える人々が未だそれなりの割合で存在していたということだろう。だから、美少女ゲームの一部は厳密な意味でのポルノメディアから離れつつある。風俗産業の二次元版としてのポルノではなく、結婚相談所の二次元版としてのポルノメディアなのだと考えれば分かりやすいのかも知れない。
さて、現代の物語メディアの多くが単独で成立しにくい原因の一つに、経済やテクノロジーの発達に伴い、物語の消費スピードが飛躍的に加速しているという状況がある。または、物語がパーツ単位で解体された結果、秩序を維持できなくなっていることに起因する。物語がジャンルとしての秩序を失い、単なる情報の集合体として氾濫した結果、その多くは誰もが知っている[お約束]と呼ばれるものになってしまった。そして、[物語を読む]という行為の目的が、疑似体験を介して思索することではなく、氾濫する情報を収集し続け、酩酊状態に導いて思考停止することに変質してしまった。同時に、ゲームというプラットフォームから発信される物語が、作者の意志によって導かれる連続体としての表現ではなく、ユーザー自身が演じる舞台……遊戯空間としての情報集合体へスタイルを変化させつつある。
つまり、他人の波瀾万丈な人生を追体験するのではなく、原風景としての平穏な日常を演じる媒介として機能しているケースが増えているのだ。原風景=楽園志向が悪い訳ではないのだが、美少女ゲームが遊戯空間として完成するにつれ、文化的伝統に回帰するルートとしての側面は失われつつあるように思う。
例えば、他者との関わりは、現実世界の他人や社会といった抽象的な意味で捉えられがちだが、過去から連なる歴史的蓄積という視点も存在する。おそらく『ONE』が特徴的だったのは、『ToHeart』で確立された偽物の原風景=楽園を[かつての全能感]を補完するシステムとしての機能面だけではなく、過去の価値観のレプリカと捉えた上で、同時に時間的な意味での[他者]を再現しようとしていたことだ。一見『ToHeart』の二番煎じと思われるような構造に[過去との接続]という要素を加えたことによって、ノイズと判断される危険性を孕んでいながらも、過去と現在を繋ぐ連続体=物語として作られた『ONE』が成功を収めたことで、物語に対するニーズが未だ潜在的に存在していることを証明している。
また、『Kanon』や『鈴のうたう日』では、胎内回帰的であるために閉塞へ陥りがちだった楽園志向を[共生と循環]という方向へ発展させているし、『フロレアール』『とらいあんぐるハート2』『デアボリカ』といった作品も、それぞれの方法で物語表現としての美少女ゲームの可能性を拡げている。そして、そういった作品が予想外な場所から出現する限り、筆者は美少女ゲームのユーザーであり続けると思う。
■あとがき。
本当はこれから出るゲームを取り上げて、今後の展望を書くつもりだったんですが、本業以外の分野を未来予測するのは、やっぱり難しいので、普通に連載の総括という感じになりました。
とりあえずは療養しながら、積みゲーの数々をクリアしようかと思っております。そういう訳で、今後は体調と相談しながら、不定期で登場するかも知れません。どんな形になるかは今のところ、分かりません……って、別に打ち合わせもしてないので(笑)。あと、FAKEOFFICEのホームページに、このコラムのバックナンバーを順次再録していく予定です。こちらも体調次第ですけど……まあ、そういう訳で一年とちょっとの間、どうもありがとうございました。
http://anond.hatelabo.jp/20141230113642
↑の元増田です。
残念ながら、(営業実態は酷似しているかもしれないが)エレファントジャパンさんは件の会社とは無関係と思われる。
・挙げられているように中二っぽい名前(蒼、雫、響等。しかしそれも古い店舗では当てはまるも、新しい店舗では例外となる。)
・コース料理が魚メインの鍋
・居酒屋/カラオケ居酒屋メニューに単品、コース共に肉料理が鶏のから揚げしかない。
(この見分け方は自分が辞めた1年前の時点での話になってしまうが、大阪名古屋を除いて埼玉や千葉でも営業するといったことは考えられない。)
ということが言える。
海野屋が自分が働いていたところの系列だというのは、メディアで取り沙汰されていた店舗一覧の画像に、かつて予約画面で見たことのある店舗名が入っていたこと、社長として挙げられている人間が店舗に幹部として視察に来ていたことから判断した。
なお、会長はベジタリアンを気取って居酒屋店舗では全面肉料理禁止という営業スタイルを取っているが、本人はもちろんバリバリ肉料理を食べている。
前のトラバに書いた「社員バイト全員共生参加のプロレス大会」では、プロレスを始める前に屠畜の映像が流され、いかに肉食をすることが悪いかを説いてくる。
「営業上仕方なく魚を提供している、できれば魚も殺したくはない」「全国の捨て犬、捨て猫を拾って、無人島で暮させたい(ただし世話はしない)」とは会長K内談である。
近頃盛んに聞くのが「読解力」という言葉である。いわく、今の時代読解力は大事だよと。
翻ってネットでは相手の読解力を非難する声が多く聞かれる。これに不自然さを感じる向きも多いであろう。
そもそも以前から「読解力VS文章力」とも言うべき対立は存在した。「お前の文章下手すぎ。日本語でおk」
「いやお前の読解力がなさすぎ。日本人か?」などという実にくだらない争いがちょっと油断すると勃発するのが近年のネット社会である。
しかし、私に言わせればそんな対立など時代遅れも甚だしい。時代に取り残された過去の遺物である。
私見では読解力という言葉は近年ますます意味をなさなくなっているのではないかと思うのである。
それは読解力を測定しようとすると文章力の問題が切っても切り離せないからというのもあるが、そもそも読解できるのは
文章の前提知識の有無に大きく依存する。しかるに、万人にフェアな読解力の測定など土台困難というものだ。
そうなのだ。所詮は、読解力などというものは通俗的な用語にすぎないのだ。そもそも、読解力よりも一般化した概念
である「頭の良さ」というのも甚だ曖昧な概念であることが、昨今の知能研究で具体的に明らかになりつつある。
世間でいわれる頭の良さとは、常識的シチュエーションで常識的な反応を返せるか、そのことを言っているに過ぎない。
「数学の難しい問題を解く」といった常識外のシチュエーションなど関係ない。数学のできる奴なんかよりは、
算数の暗算ができる奴のほうが余程「すごーい」と女の子から賞賛される。それが悲しい現実なのだ。
所詮はそういう常識的な観点から頭の良さが判定されているにすぎない。これを「ファッション知性」という。
読解力も同じことで、「ファッション読解力」が世間では試されているにすぎない。いや世間だけではない。
学問の世界での読解力も、また学問の世界での常識というものがあり、それを満たしているかで判断される。
決して学問という高尚な世界だから、読解力も高尚に測定されるというわけではない。これを常識の相対性ということができる。
しかし、幸いなことに、文化相対主義なんて古めかしい理論を引っ張ってくるまでもなく、
常識は相対的だというのは我々の新たな常識となりつつある。これも時代の流れというものだろうか。
LINEを始めとする新時代のコミュニケーションツールは、我々の情報環境に新たな複雑さを付け加えた。
結果、若い世代の人間ほど複雑に入り組んだ人間関係の中で、うまく常識を使い分けてやっていく術を
身につけている、という奇妙な逆転現象が生じ始めている。新世界において読解力は所詮それぞれの
コミュニティに応じた空気を読めるかという能力に過ぎないことが理解されるようになった。
新世界では、自分の所属しているコミュニティの空気を一通り理解できるだけでなく、所属コミュニティ
がどんどん流動していくので、その都度新たに加入したコミュニティの空気を読めることが求められる。
○高橋紀世子君 これもこの間と重なって大変恐縮なんですけれども、私はこのことは大変大きな問題だと思っておりますし、どうしても共生の社会にとって一つの大きな要素だと思っておりますのでしつこく言わせていただきます。
今までの歴史といっても、歴史をひもとけば女性が天皇になったこともございます。私たちは、やはり精神的に男女平等だと、そういうことが大変大事だし、共生の社会を進めていくにも男女がそれぞれ役割を持って平等に働くということが大事だと思います。そのときに、天皇制がそれとまるきり違うやり方でやっているということは、私は、私たち国民に対して暗い影を落としているというか、不安定要素になっていると思いますので、またぜひお考えおきください。
それからまた、天皇の人権というと大変恐縮ですけれども、天皇は退位できません。どんなに望んでも退位することができません。それは皇室典範に、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、」「皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。」、つまり皇室会議をしなければ天皇は何の理由があってもやめることができないということなんです。
これは天皇も人間ですから、天皇の人権にかかわる大きな問題だと思っておりますし、そのことはやはり天皇自身が望まれたときは退位なされるようにした方がいいと私は思いますけれども、いかがでしょうか。
○政府参考人(羽毛田信吾君) 現行の皇室典範が御指摘のように天皇の意思によります退位の制度を認めていないということはそのとおりでございます。
そういうふうになっておりますところのゆえんのものは、一つには、退位を認めるということが、歴史上いろいろ見られましたようないわゆる上皇でありますとか法皇的な存在というもののある種弊害を生ずるというおそれがありはしないかということ、それから、必ずしも天皇の自由意思に基づかない退位ということの強制があり得るということです。
いろいろ政治的な思惑の中でそういうようなことが起こるというようなことがありはしないかということ、あるいは天皇が恣意的に退位をされるというようなことになりはしないかというようなことを懸念をいたしまして、そういったことを挙げて、天皇の地位を安定させるということが望ましいという観点から退位の制度を認めないということに現行法なっておるわけでございます。
そういった皇室典範制度の制定当時の経緯というものをやはり踏まえていかなければならないと思いますし、さらに今、先生もちょっとお挙げになりましたけれども、天皇に心身の疾患あるいは事故があるというような場合につきましては、現在も国事行為の臨時代行でありますとかあるいは摂政の制度が設けられておりますので、そういった事態の起きました場合にはそういった対応をする制度もあるということを考えますと、現在の段階で退位制度を設けるというようなことについては私ども考えていないところでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/153/0035/15311210035003c.html