はてなキーワード: サッカー部とは
深夜テンションのポエムだ。メンヘラの戯言だ。つまらん。自分語りに終始して客観性の欠片もない。まとまりも何も無い。吐きたいだけだ。書いていいか?ありがとう。
恐らく、そんなに不幸ではない。
関東の外れの地方都市で育った。自分、妹、弟の三姉弟。上二人と弟の父は違う。
母はパチカスでアル中だった。高校の三者面談の後、ちょっと買い物に行くから待ってて〜のテンションで駅前のカフェに娘を放置して4時間パチ屋に居る人間だ。まあ頭がおかしい。
父は技術職で、雑誌に載っただのコンテストに出ただの聞いた覚えがあるので結構腕は良かったんだと思う。機嫌が悪いと殴るし、会話はほぼ無かったが、少なくともパチカスアル中よりはマトモだ。
父母が離婚する事も、母が再婚して父が変わることも、新しくできた子と折り合いが悪くなることも、よくある話だ。こういう場合、養父とは仲が悪いのがテンプレだろうが、…いや仲は良いとは言えないが、極悪でもない。少なくとも憎んではないない。厳しいが筋の通った人で、尊敬している。好かれてはいないだろうが、キチンと高校を出るまで面倒見てくれた。ありがたい。
実父の事は顔も知らない。声も年齢も知らない、名前は忘れた。母は実父に大層惚れていて、よく2人きりになると実父とのエピソードを話した。酔った母に付き合わされ、夜中の2時だか3時まで何度も聞いた実父との惚気話を聞かされるのはキツかった。勿論内容は覚えていない。
母と自分と妹を捨てた実父をどうしてそこまで褒めそやし、今養ってくれている養父をどうしてそこまで貶すのか分からなかった。
父は仕事で、母はパチで、平日の二階建て3LDKにはほぼ子供しかいなかった。
保護者がいない空間で末子は大いに調子に乗り、殴られたり蹴られたり包丁で刺されかけたりフライパンで殴られたりライターで髪を焦がされたりマ○コや胸にイタズラされたりしたが、5つも離れている子供に何をされても少しでもやり返せば叱責は年長者が受ける。なんでや。納得できないが、大抵は黙ってやられていた。
自分は多少勉強ができた(本当に多少。商業クラスで得意教科なら上から3番目には入る、不得意教科は下から数える、くらいのささやかさだ)
末子はひらがなの書き取りで躓き、2桁の足し算で躓き、勉強というものを憎んでいた。
母の「勉強出来るんだから少しくらい教えてあげなよ」の一声で家庭教師の真似事をしたが、下に見ている女に教わるのが屈辱だったんだろう、母が見えないところで殴られるので数日で辞めた。
極力関わりたくなかった。
サッカー部に入りそこそこ鍛えていた末子と、中高6年文化部で育ち運動神経の欠片も無い自分。力では到底勝ち得ない。
性的いたずらは回数を増していた。
事務は向いていたし職場の風通しは良くとてもいい会社だった。が、家に帰れば性的いたずらに怯え家事に追われる日々。普通にメンタルをやられ、出社できなくなる。半年もしない内に辞めてしまった。会社と高校には本当に申し訳ないと思っている。
会社を辞めてから紆余曲折あり家を出た。このまま家に居たら死ぬと思った。
家を出る前、母に性的いたずらがあったことを打ち明けたが何だかんだ言って弟を庇っていた。
父には言ってないが、口の軽い母なので多分漏れているだろう。どうでもいい。
一人暮らしを始め2年は順調だった。派遣だが事務職で採用され、それなりに仕事をして、恋人もできた。
だが、コロナが流行りその不安から精神的不調に陥って就業できなくなった。もう一年近く無職だ。恋人とは疎遠になってきた。母は頻りに実家に帰れと言うが、多分帰れば昔以上の暴力といたずらでは済まない性的接触が待っている。無理だろ。帰らないならなんの支援もしない、縁を切るらしい。命が貞操か選ばされるならデリヘルででも働いた方がマシだと思う。
一時間で書ききれる人生で笑ってしまった。上記の通り、多分結構限界だ。来月には貯金も尽きるし、生活保護は通らなかったし、メンクリに通う気力も無い。
近いうちに、実家を出た時と同じように、逃げるように死ぬだろう。ダサいけど、この窮地から抜けたところでまた今以上の窮地がくればおしまいだ。来ても対処しきれない。鬱になって動けなくなって死にたいと思い続けるくらいなら、死ねる内に死にたい。死にたくないが、多分死んじゃった方がマシなのだ。
こういう人間が居たってだけだ。長々と申し訳ない。読んでくれた人がいるなら、ありがとう。
妹よ、幸せになってくれ。
主が、『おまえの名は何か』とお尋ねになるとそれは答えた。
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《俺が参加している会》
・だいたい年1-2回
・河川敷やら海やらで酒を飲む
・1日遊んで2,000円ぐらい
・数少ない女子は2次会で帰る
・3次会のガールズバーでサッカー部キャプテンと元ひきこもりが泥酔する
・一次会は4,000円ぐらい
・だいたい年1-2回
・人数が足りないと試合にならないので、未経験者歓迎で呼ばれる
・1日遊んで3,000円ぐらい
・たまにG1を見に行く
・だいたい負ける
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《俺が参加していない会》
・「まだやってんの?」
・「まだ勝てるんだって」
・実際はボロ負けしている模様
・整うらしい
・キャンプ民と合流して「ポータブルサウナを買おう」貯金をしている
畑
・野菜を育てている
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先月はシンエヴァを一緒に観に行った。
よかったよ。
先日生まれて1万日を迎えたので経歴を整理してみた。見てコメントくれたら嬉しい。
フェイク少な目なので、あ、あいつかもしれないと思ってもそっとしておいてくれ。
滑り止めで受けた琉Q大学に進学。
二つは3ヶ月でやめ塾のバイトを始める。
彼女ができるもすぐ別れる。
札幌と沖縄の環境の違い、彼女、生活環境等コンプレックスの嵐にさいなまれる。
21歳 大学3年生
ツールド沖縄で完走できたら好きな子に告白しよう(キモイ)としたものの
冬休みに一ケ月の男二人で東南アジアバックパッカー旅行をする。
ゴーゴーガールと仲良くなる。
22歳 大学4年生
かろうじて卒業。
25歳 社会人3年目
業務的な負担は少なく、伸び伸び会社勤めをし、悠々自適に過ごす。
26歳 社会人4年目
上記の彼女と将来の結婚を約束するも彼女が勉強のプレッシャーと
ちなみにここで株を始める、が苦戦。
27歳 社会人5年目
セックスしたい..
俺は30代も半ばになる。結婚もしている。こんなことで悩んでいるのは馬鹿げている。だけども匿名の殻に閉じこもり、あえて主張したい。それでもセックスしたいのだ。飽きるほど。
昔からモテず、彼女が初めてできたのは20代後半だった。見た目への自信がなかった。体力も自信がなかった。
足が速ければモテる小学生時代。サッカー部やバスケ部に入ればモテる中学生時代。髪型を整え制服を着崩せばモテる高校生時代。どれも見事に縁がなかった。唯一人並みにできたことといえば勉強くらい。良い大学に入ればモテるとおもっていた。
かくして良い大学に入った。ところが何のアピールポイントにもなりはしなかった。就職して稼ぐ大人になれば今度こそモテるとおもっていた。そして同年代よりは稼ぐ大人になった。しかし結局童貞を捨てられたのは魔法使いを目前にした29のときだった。
結局全て言いわけだった。
別に見た目が悪くても、金が稼げなくても、可愛い彼女がいるやつはいるのだ。
未だに若い美男美女のカップルを見ると狂おしい。別に顔や外見が全てじゃないと強がってみるも、あのかわいい女の子と毎晩ヤリまくってるんだろうなと思うと情けなくも嫉妬する。
中学生のときの初キスだとか、高校のときにセックスしたとか、たとえフィクションでも話を聞いただけで気分が落ち込んでしまう。中高生への性教育の現場なんてのも胸糞悪い。クラスの女子とはなかなか話せず、家では黎明期のインターネットで収集していた画質の悪いエロ画像を妄想で補完しながら抜く。そんな暗くじめじめした青春時代を送っていた俺。女子どころかクラスの陽キャ男子とも疎遠だったため、リアルな恋愛事情なんて情報が入ってこない。今、当時のリアルな恋愛事情を聞くとフィクションではなく本当にあったなんて裏切られた気持ちになる。次節イジってくる陽キャどもを敵視し、恋愛にうつつを抜かしている隙に勉強し見返してやりたいと思っていた。大学・就職は非常にうまくいった。でも、やりきれない。風俗にいっても、やるせない。今さら何を経験したところでもう青春時代のトラウマを塗り替えることはできない。今からどれだけやりまくったところで、10代は巻き返せないのだ。
俺は結婚はした。美人ではないが毎日話していて楽しい妻と一緒にいると、結婚してよかったと思う。ところが典型的なアラサー夫婦で、結局セックスレスになった。結婚したらセックスフルな生活を送れると思っていた矢先だ。
「今さら何を経験したところで」なんて強がってみたところで満たされない事実からは逃れられない。
夫婦でセックスレスだろうが、やってるやつはやってる。コロナでリモートワークで昼は家に俺ひとりだ。同じ状況の男は不倫だとか浮気相手とよろしくやっているのだろう。
もう後悔したくない。性欲枯れてからもっとやりたかった人生だったなんて情けないことを考えたくない。10代は巻き返せなくても妻と精一杯楽しめばいいじゃないか。たとえ暗い青春時代を送っていても、飽食すれば多少は浮かばれることだろう。
そう思いながら、そっぽを向いている妻と冷たいベッドで寝るのであった。
友達が1人もいなくてつらい。
小1のころからずっと吃音。暴力や嫌がらせはされなかったもののずっと腫れ物扱いで浮いてきた。プークスクスされることはしょっちゅうあったからいじめられてたといえばいじめられてたのかも知れない。
友達は
保育園1
小学校0
中学校0
高校2
大学0
保育園の友達も子供特有の正義感で遊んでもらっていただけで、向こうからしたら沢山いる遊び相手の1人でしかなかった。(その証拠に小学校に進んでからは遠ざけられるようになった)
高校の友達2人は、勇気を振り絞って入った部活で奇跡的に出来た2人。でも、3人組の中でも俺は浮いていた(道幅が狭くなると1人後ろに追いやられる役だった)。部活の引退後、クラスが違うからなかなか3人で会えないが受験が終わったら思いっきり遊ぼうと思っていた。が、俺抜きで2人は普通に仲良くしていたことを2次試験の不合格発表の後で知った。しかも2人は同じ大学に進学していた。
それから一年宅浪して大学に進んだ。サークルにも入った。高校の時の成功を活かして、人数の少ないこじんまりしたサークルを選んだ(ちなみに中学はサッカー部で3年ぼっち&ベンチだった)。
初めはなんとか仲良くしようとしていた。吃音はあったけど、自分なりに明るく振る舞えて上手くいっていると思ってた。しかし、3ヶ月ぐらいする頃にはいつのまにか同期が距離を縮めあっていて、自分の居場所はなくなっていた。
就職してからも、案の定同期に馴染めなかった(就活は集団面接で吃音を披露する地獄だった)。同期の女性で、優しい人がいてよく話しかけてくれたのだが、ある時から急に避けられるようになった。アプローチなどはしていない。同期として親切に扱ってもらえるだけで十分だったからだ。
半年ほど後に、優子さん凄く怒ってたぞと別の同期から言われた。俺は何やら無神経な発言をしたらしかった。
上司は俺のことを嫌っている。露骨には表さないがわかってしまう。すごく申し訳なく思う。後輩には見下されている。
会社以外で知り合いを作ろうと、22〜今までで社会人サークルに5つトライしたが、馴染めなかった。ネットでの交流もうまくいかない。
Twitterのアカウントは3つあるが、人の輪に入ることができない。いつのまにかやんわり距離を置かれるようになる。ネトゲはソロプレイをしばらくした後嫌になってやめてしまった。
キャバクラに行ったこともあるが、違う席の酔っ払いのグループに吃音を笑われていや思い出しかない。
家族とも上手く行っていない。
なんで?
裏世界ピクニックの原作が小説で、メディアの違いがあるから失敗したってのか?
ああそうだよ。
俺たちみたいな面倒くさいオタクが、いざ改変したら原作レイプだと口にするからメスを入れられないんだろ?
だからなんだよ。
それでも超えてこいよ。
オリジナルアニメは小説原作と違って映像として見せた時の面白さや、実際に発声した際のテンポを最初から考えて作れるから圧倒的に有利だよ。
小説原作はしょせんは小説っていうメディアのために作られた物語をアニメでやるから自然と作品の構成が完璧からは程遠くなる。
地の文と混ざりあった独白と、セリフと混ざりあった独白とでは受け取る側の印象が変わるのは当たり前だし、まして地の文において言葉で価値観や視点移動を説明してしまったものを映像によって再現するのは難しい。
でもやってみせろよ。
アニメ化するってのはオリジナルアニメと戦うってことなんだぞ?
言っちしまえばサッカー部のエースが草野球に助っ人するような状態だけどよ、それだってそこで負けたらサッカー部の負けってことになるんだぜ?
覚悟を決めろ。
作品の看板を背負った以上は、そのクールにおいて同じようなコンセプトのオリジナルアニメには、意地でも勝ってこい。
無理ならアニメ化なんてしてんじゃねえよ。
俺は明日からどうやって裏世界ピクニックの信者をやりゃあいんだ。
人前で口にして「俺アニメしか知らねえけどワンダーエッグプライオリティのほうが面白かったよね」と言われた、俺、キレちまうよ。
許せねえ。
なんで負けてんだよ。
大学生のごとくサボりきれるギリギリを狙って投稿するもインフルになって詰んで留年する奴。
喧嘩や奇行を繰り返した挙げ句、周りから鼻つまみものになるのに耐えられず辞めていった気違い。
修学旅行で風呂覗いたの見つかって民事裁判起こされたけど結局中高6年普通に卒業してった不良グループ。
万引きしてヤフオクに流しまくってたら普通に少年院送りになった不良グループB。
割れエロゲの話ばっかしてるからいつもドン引きされてた優等生グループ(なお高校に上がった辺りから急激に成績が下がって皆ニッコマクラスへと消えた)
超絶ボッチのコミュ障だけど勉強はマジで好きらしく成績は上位1桁代で東大にも行ったけど同窓会で誰も名前思い出せない陰キャ。
マンガみてえな奴ら一杯いたけど?
ヤベエじゃん。
もうね、ネタがないの。
まずね、寄生獣のミギーのコラで「MT車なんて意味がないぞ!」と言ってる奴。
しかもこれふたばちゃんねるとかいう日本で最もつまらん奴らが集ってつまらない奴ら同士にしか伝わらない話で自分たちは面白いって必死に去勢を張り合ってるサイトのネタなのね。
ただでさえつまらんセリフコラ文化に、レギュ違反の順番組み換えまでかました末期の末期のゴミね。
それを掟破りの外部持ち出してしてるっていう放射性廃棄物。
その次にね、それに引用リツイートで「AI車が増えすぎた未来でAIが暴走、でもMT車は無事だったぜカッコイー!」とかつけてる奴が回ってくんの。
地獄すぎるね。
つまりそのAIが暴走する未来が来ても古いAT車なら普通に乗れるのね。
つうか、その世界であっても多分まともに乗れるMT車ってAI積んでると思うんだよね。
だって全部のAT車にAI搭載されてて、今の時代に売ってる車とかは全て風化してるとかそういう400年後ぐらいの未来の設定のはずでしょ?
もうね、意味分かんないよね。
こんなガバガバで、そもそもまっっっっっっっったっっっっっっっっく面白くない内容のツイートを皆が回し読みしてるの。
頭が悪い上につまらない人達が、頭が悪くてつまらない人間しか楽しめないネタで、つまらん奴ら同士でニタニタしてる地獄のような光景が広がってるわけ。
しかも、そいつら創造性もなくてつまらないから、原始人レベルのイジメとかめっちゃ大好きなのね。
猿山のお猿さんがヒマすぎてイジメを始めるのと同じノリで、駄目なテニス部やサッカー部の連中が部室でイジメを始めるのと同じようなノリで、ツイッターにはつまらない奴らの暇つぶしとしてのイジメが広がってるわけ。
本当、もうね、完全に地獄よ。
今のツイッターは終わりすぎてる。
はてなはこうならないように気をつけてね
タイトルのとおりなんだけど
小学校はサッカー部で先輩後輩なく楽しくやってたんだけど、中学校になってどうもおかしな気配を感じた。
普通の公立中学校だったからなのか、サッカー部なんかド不良の集まりで、先輩は絶対みたいな雰囲気だった。
パシリとか当たり前で、体育会系でよくある理不尽な命令みたいなのも普通にあった。
最初はみんなで「先輩怖いね~」みたいな話ししてたような気がするけど
なんか途中から同級生同士でも力関係みたいなのが発生して、クソ雑魚の僕はすぐにいじめみたいな感じになった。
もともとサッカーは特別好きではなかったし、はじめた理由もちょうどJリーグ開幕の年前後に小学校に上がったからみたいな感じだったと思う。
未練はなかったし、
何より怖かったのが、先輩>同級生>僕 みたいな非常に明確な構図ができあがってしまっていた事、
さらに先輩の上には先輩がいてさらにサッカー部顧問の先生がいる。さらにその上に外部から監督が来てて
その監督見た目はジーコみたいなんだけど、キレたら頭のテッペンから声が出る狂犬みたいなヒステリーおっさんだった。
まあ何が言いたいかというと、順当に順位を上げるのはムリダナと思ったわけです。
あまりに壁が高すぎる。とても正攻法では太刀打ちできない。と中1にして悟ったんですね。
くわえて以前から親父にも「お前は闘争心がない」とのご指摘を再三賜っていたので、その自覚はあったし特に悪いことだとも思わなかった。
幸いにしてそれほど頭は悪くなかったので、ぴゃーっと部活をやめて勉強にシフトすることにした。
で難なく進学校に進んで、今度は好きなことしようと思って
男女がいたからなのか、マイナースポーツゆえなのか、先輩後輩の関係もゆるく、待ち時間に漫画読んだり、ゲームしたり、夏休みに生徒だけで勝手に合宿したり、女の子に好きになられたり、そのまま仲良くなったり、楽しく過ごしました。
で、肝心のお勉強の方なんですけれども3年になると雲行きが怪しくなって来るんですね。1,2年時は強化クラスみたいなところにいたんですけれども、3年で普通クラスに落ちたんですね。
理系には有能男子学生が集まり、頭が悪くないくらいで勉強しない僕のような生徒が第一線張れるようなところではありませんでした。そういう環境では順当に行けば勉強頑張るか、となるんでしょうけれども、僕は戦いませんでした。そう文転です。
中学の経験から逃げが身についているのか、僕はさらに逃げます。そう私大です。
センター併用とかなんとかでごまかして、有名私大文系学部にするりと合格してしまうわけですね。下手に頑張って駅弁大学いくよか随分良い選択をしたと我ながら思うね。
これはもはや弱者の戦略と言って良いでしょう。勝敗が決する前に別の戦場に移るという画期的な戦法を身に着けてしまったわけです。その姿は強い相手と対戦しないように減量する計量前のボクサーのような美しさがあります。
でですね、大学でも難を避けて暮らして、今度は就活なんですけど、やっぱり理系企業に行きたいんですよね。ほんとはIT関連に行きたいんですよね。
無謀ですよね。競争ですよね。勉強してないのに。なのであきらめました。
じゃあどこいこうかなと思ったとき、僕が選んだのは女性が活躍できる職場(男性が誰も入ってこないくらいのブラック企業)でした。当時はブラック企業情報などもあまり溢れていない環境だったかと思いますが、親兄弟からも反対されるほど名のしれたブラック企業でした。
なぜそこに入ったのか。おそらくそこしか入れなかったのでしょう。規模が大きく、成長性があり、労働環境最悪―――というのは、なんとなく自分には向いてそう、という感覚がありました。実際その会社の労働環境は凄惨を極め、朝から夜まで働き詰めで1年めの年間休日は30日とかだったと思います。(もち全部サビ残だよ)
なんか書くの飽きてきたな。増田に長編書くモチベってなんなの?
で何が言いたいかというと、女性が多い職場にうら若き男が入ると、めっちゃかわいがってくれるんですね。んでもって女性が多いからといって女性が出世できるわけではないので、大卒の男性なんて勝手に出世するんですね。女の人って大変ですね。
しかも、もともとが時代遅れのブラック企業なので、成功した他社のやり方持ってくるだけでポンポン成績が上がるわけです。面白かったですね。
そんなこんなで出世して20代のうちにちゃっちゃっと結婚して子ども生まれて、まさにヌルゲー人生を謳歌しているわけですけれども。ここでふと気づくわけですね。
なにか仕事でヤバいトラブルがあったとか、乗り越えられない壁があったとか、めっちゃすごい人物にあてられたとか、一切そういうことはなくて、ふと振り返ったときに自分の歩んできた道の軽薄さに恐怖するんですね。
今までは「戦略的撤退」だと言い聞かせてきたんだけど、今、退路を探してもどこにも見当たらないんですよ。スキルも積まず、努力もせず、社会の盲点みたいなところ一点突破してきた自分が、出世だけして家族を背負い、綱渡りしている事に気付いてしまったんですよ。
手に職つけず。年だけ食って。もう35だよ。転職するにも公務員試験も受けられないよ。
退路がないと言ったけれども、僕、前進する方法も知らないんですよ。
どうしたらいいですか?
僕は何を恐れてるんだろうか?
どうしたらいいんだ。
こんなオチにするつもりで書いてたんじゃなかったのに。
「嫌なら逃げればいいじゃん」っていう軽い感じで書いてたはずなのに。
なんだこれ。最悪じゃん。
もう寝よ。最悪だ。
追記はしないつもりでいた。
でも、ある1人だけにコメントを返させてもらう。
https://anond.hatelabo.jp/20201001022747
衝撃を受けた。
ここまであなたの心を傷つけるとは思ってもみなかった。
でも、あなたにだから正直に言わせてもらうけど、辞めたことは後悔していない。
5年以上が経ったとは言いつつ、もっともっと、かなり昔の話なので当時の感情を思い出すのは難しいけど、それでも転職という答えが幸せになるための道だったんだよ。
日記は2つともすべて読ませてもらった。
文系の学部出身で、事務職で応募して、もの凄く面倒くさいエントリーシートを書いて、何度かの面接の後に採用された。
企画部門への配属だった。生産管理を希望していたけど通らなかった。
増田でこんなことを書いている以上は察してもらえると思うが、俺は失敗した側の人間だ。
任天堂は素晴らしい会社だ。世界に誇ることができる。でも、考えが甘かった。俺には適合しなかった。
気持ちの整理はついている。別に1万字とか書き殴るとかではないので、もし暇だったら読んでほしい。
大学3年の秋になって、いよいよ就職活動を始めることになって、大学のフリースペース(名前は忘れた。インターネットができる端末とか、調べものができる書棚が置いてある広い建物だった)で四季報を読みながら応募先を決めていた。
どこに応募するかを決めるにあたって、色々と考えた。
「将来、どういう人生を送りたいのか?」
そして、考えがまとまった。
趣味が大事な人間だった。おっさんと呼ばれる年になった今でも続けている。
それで、四季報やインターネットを見て、そういう雰囲気の会社を見つけては説明会に申し込んだ。
なぜ、任天堂を選んだのかというと、上の条件を満たす可能性のある会社だと思ったからだ。実際にそんなことはなかったのだが。
後は、当時所属していた学際サークルの先輩が、任天堂に入りたいと豪語していたけど普通に落ちていたからだ。その先輩は、サークルの中でも指折りの実力者だった。
京都大学に現役で合格して、4年間の学生生活を謳歌して、サークル活動では常に頼られていて、住友商事に内定して、同志社大学のサッカー部のキャプテンが当時付き合っていたチアリーダーの子を口説き落として、数年後には結婚して、今では新しい家のブランドを作る仕事をしている。
そんなレベルの超人が一次面接でお祈りされるなんて、どんな会社なんだろうと思った。
俺が通っていたのは一流の大学ではなかったけど、それでも受けてみようと思った。
採用試験の内容は述べない。俺の体験談は面白くないと思うし、年を経て記憶がだいぶ怪しくなっている。インターネットで、採用試験がどんなものかを紹介しているページがあるけど、まさにそんな感じだった。
書類選考で勉強のできない人を落とした後で、『創造性』がありそうか?というのをつぶさに見る。
本題に入る。
俺はプロの世界を嘗めていた。仕事にかける情熱が同期と比べて明らかに低かった。社会人として生きる覚悟が足りていなかった。
プランナーというのは、ファミコン時代のマリオで例えると…土管はここに置くとか、空中のブロックをどこにするとか、1UPのキノコは右に流れるべきか左に流れるべきか、みたいなことを考える。
大体の会社ではそうだと思うが、新入社員に任される仕事は“形”や“答え”のあるものだ。俺が最初に任された仕事は、企画部門の中でも相当に定型的なものだった。
超すごい人達がゲームのデザインをして、レベルの高い人たちが上記のプランニングを済ませて、さあ開発だ!となる辺りの段階だ。
ぜんぜんダメだった。ダメ過ぎて上司や先輩に怒られ放題だった。お前情熱を感じねーんだよ、みたいなことをよく言われた。その度にムカついたけど、知能も知性も知識も足りなさすぎて、黙って耐えるのがやっとだった。
たぶん同期にも馬鹿にされていた。なんであんなのが入ってきたの?って言われていた可能性が俺の中では90%くらいある。
任天堂の社員にはどんなイメージがある?キラキラしているイメージだろうか。
実際に見てみればわかる。総合商社とか銀行員とかコンサルとか、そういうのとは異なる人種だ。一応は製造業なので、見た目は大人しめな人が多い。
でも、中味は違う。元気があって、溌剌としていて、自分の意見をはっきり言えて、他人の意見を受け入れる力があって、何より頭がいい。俺みたいのもいるけど少数派だ。
2年目、3年目も同じような仕事内容だった。いわゆる“答え”のある仕事。レベルの高い同期は本格的な企画の仕事に進んでいた。みんなが知っているようなゲームタイトルの制作会議に20代の若者が出て行って、父親くらいの年齢の社会人と侃々諤々の議論をしていた。
当時の俺は、今のよくない状況を肯定的に考えていた。むしろ喜んでいた。
なぜかって、このまま永遠に形のある仕事、答えのある仕事をしていれば、企画を出す仕事をしなくてもいいからだ。当時の俺は、自分のアイデアが世の中に出ることに関心はなかった。ただ、毎日定時に帰って、それなりの額の給料をもらって、土日祝日に趣味を楽しんで…そんな生活に満足していた。
毎年のように事務系の部署に異動希望を出して、「いつかは通るだろう。俺のような者を企画に置いておくはずがない」とアホみたいなことを考えていた。
先輩がひとり、またひとりと消えていき、気が付くと俺は中堅社員になっていた。ある年の4月、初めて企画らしい仕事を主担当として任されることになった。
実力が足りていなかった。あるゲームの操作画面や説明画面、設定画面なんかを手掛けることになった。今風の言葉で言うとユーザーインターフェースだ。
ゼロの状態から仕様書と設計書を作るだけの力はなかった。それでも、今まで自分が作ってきたやつをツギハギして、どうにかしたつもりだった。
上司や先輩から、「ここわかりにくくない?俺はこっちの画面に行ってしまうよ」と言われても反論できなかった。自信がなかった。自信がないから上司を押し切ることができない。上司の方も、そんな奴の意見をそのまま通すことはできない。
それで悟った。これまで俺は、上の人たちが作ってくれたパーツを組み合わせてただけなんだって。自分では何ひとつ創造していないんだって。再確認させられた。
今までパズルをやっていたのだ。任天堂が作らないといけないのはパズルそのものなのに。
結局、納期をオーバーした。上司はそれでも俺を諦めることはなかった。最後まで作らせてくれた。もしこれを読んでいるあなたの記憶の中に、あのゲームの操作画面はわかりにくかったというのがあれば俺のせいかもしれない。個人的に謝罪する。
今度こそ、本気でゆっくりまったりしている会社を探そうと思った。地元である京都がいいなと思ったのでリクナビに登録したものの、ぜんぜんうまくいかなかった。
ゲーム会社からは100通以上のメッセージが来る一方で、志望していた機械系メーカーや化学系メーカーの事務職のオファーは少なかった。応募しても書類選考で落とされる。15社に応募したけど、結局ぜんぶ書類選考で落ちた。
今ではわかる。中途採用なのに、事務職として必要な経験が全くなかったのだ。部品調達はやったことがないし、社会保険の手続きもできないし、法律に詳しいわけでもない。
もういい年だし、一流の大学を出ているわけでもない。
それから何か月もかけて、年収が低くてもいいので“ゆっくりまったり”を実現できるかもしれない会社を見つけた。どうやったらそこに入れるかを考え、情報収集をして、研究と対策を重ねて、3度の試験の後に採用通知を受け取ることができた。転職活動を始めて1年後のことだった。
退職を告げた時の、上司や先輩からの引き止めの言葉を覚えている。
「せっかくモノになりかけてるのに」
「ストレスに耐える力は一人前だから、もっと時間をかけてみれば」
「あと1年だけでも働こうよ」
一言一句は合ってないが、おおよそこんな内容だった。手帳に書き留めていたから、そこまで違ってはいないだろう。
社交辞令なのか、それとも本気で言っているのか判断がつかなかった。
あの会社で働くだけの資質が俺にはなかった。創造的な仕事を馬鹿にしていた。もうその時点でゲーム会社にいる資格はない。
あの頃の俺は会社を冒とくするだけでなく、一緒に働く仲間も含めて冒とくしていたのだ。子どもだったから気が付くことはなかった。
最後に、これを書くにあたってヤフー知恵袋などを読んでいたところ、任天堂に入りたい人の疑問が予想外に多かったので、その辺りも主観をベースにちょっと書いてみる。
問.どんな人が内定を取れるのか?
答.ホームページの採用情報に書いてある。あれは美辞麗句ではなくて、本当にそういう人を欲しいと思っている。つまり、以下の要素を持っていると判断されれば採用される。
①の創造性は、学生時代の実績を見られる。例えば、学生時代に部活をしていなくて、サークルに入っていなくて、でもゲームにのめり込んでいて~みたいな人は多分落ちる。
面接で、学生時代の実績についてガッツリ聞かれるからだ。創造的な活動とはどんなことかと言うと、正直何でもいい。自分の考えがあって、主体的に動いて、それでいて周囲と協調ができていればどんな活動でもいい(結果がいいのに越したことはない)。
自分の場合は、大学生や専門学生だけでプロの歌手やバンドを呼んでライブを実行する学際サークルで活動していた。はっきりって端役だった。分かりやすい例でいうと…今季アニメの「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完」で説明する。
卒業生のためのプロムパーティーを実施することになって、ゆきのんが実行委員長で、いろはすがイベント準備の統括的なポジションで、八幡が影の参謀みたいな役割だったと思う。
俺がやっていたのは、いろはすの下で働く生徒達だ。会場のセットをしたり、参加者の受付をしたり、集客用のフライヤーを撒いたりするような、そういう下働きのポジションで部分リーダーをしていた。
創造性といってもこのぐらいでいい。自分の考えがあって、主体的に動くことができて、その過程で他者を巻き込む経験をしていれば何でもいい。面接で何を聞かれても自分の言葉で話せるはずだ。
ただし、アピールは忘れないように。自分の経験が100かなと思ったら、頑張って膨らませて500にする。それ程度なら問題ない。あなたが受ける会社だって、自社の魅力が100だとしたら1000にしてアピールしている。
②のゲームへの情熱は言わずもがなだ。この業界は、ゲームへの熱い思いがないと生き残ることはできない。実際、俺は生き残れなかった。
想像してほしい。新しい案を立ててプランを作っていかないといけないのに、何も思い浮かばずに席に座っているだけの自分を。それでいて時間は流れていく。もうすぐ打合せだ!となって、何が何でも間に合わせようとするも、会議で恥をかくために資料を作っているとしか思えない精神状態になる。
そんな自分が嫌になって、ますます精神が追い詰められてうつ的な症状が出る。かつての俺だ。でも、情熱があればなんとかなることもある。情熱さえ生きていれば、アイデアが枯渇しても、他社や他人から少しだけパクッて、自分のアイデアとつなぎ合わせるなどして窮地を乗り切れる。
ゲーム業界に名を残すような人でも、ポンポンとアイデアが湧いてきて、企画会議も余裕でプレゼンテーションをしているかといえば、そんなことはない。あの人達も必死で藻掻いている。どんなに残業が少ない会社でも、社命が懸かった仕事に取り組んでいる人はとんでもない量の仕事をこなさないといけないし、土日祝日も関係ない。
夢というのは、一度叶えて終わりじゃない。死ぬまで叶え続けないといけない。
あなたが志望する会社に採用されて、志望するポジションになれたとする。「夢は叶った!めでたしめでたし」じゃない。
例えば、ゲームを作る会社で働いている間は、健やかなる時も、病める時も、ずっとゲームのことを考えなければならない。止めた時点で、あなたの夢は終わったことになる。あなたにとってのゲームはそこまでの存在だったということだ。
③の学習ができるというのは、新しいことを能動的な姿勢で覚えていけるということだ。特に、英語ができないと仕事で詰まることがある。事務系は英語の読み書きだけでなく、海外の販売会社等と電話でやり取りしないといけない場面がそれなりにある。
企画系だろうと、デザイン系だろうと、開発系だろうと、どの部門であっても「学習ができる」ことが必須だ。この業界は変化が早いので、去年まで使っていたソフトウェアが今年から全く新しい物に切り替わることもある。世間の変化に対応して、どんなゲームが人気になるのか、どんなゲームが社会の役に立つのか絶えずアンテナを張っている必要がある。なにより、他社がいいゲームを出してきたら研究しなければならない。他社のゲームをプレイできるのではない。プレイしなければならないのだ。
だから、学習ができる人でないと務まらない。知らないことでも、興味のないことでも、やりたくないことでも取り組んで、知識や技術を自らの血肉にする。そういう人を任天堂は(というかすべての会社は)求めている。
書き過ぎた。反省している。
今でも思うことがある。俺はあの会社に感謝しているが、果たしてどこまで感謝しているのか?確信を持てずにいる。
時間が経てば、感謝以外の本当の気持ちがわかるのかもしれない。
ここまで読んでくれた人に感謝する。
学生数の多い小学校もある。どうしてもその割合は均一とは行かなかった。
結果、私はマイナー小学校の卒業生として中学に入学する事になった。
医学を志した私は保健委員になりたかった。しかし、同時に手を挙げた者がおり、メジャー小学校の出身者である彼女は元メジャー小学生の推薦を得て保健委員となった。
ここで私の自信は打ち砕かれた。小学生時代学級委員を努めた功績は、全く何の役にも立たなかった。
仕方無く空いた枠に入る。良い人を演じる為に。その空いた枠に収まった委員を何だかんだで三年続ける事になった。
そこには選択の自由なんてなかった。
文化系部活は根暗、オタクと揶揄され居場所を奪われる。皆こぞって運動部へ入部届を提出した。
グラウンドを広く使えたのはサッカー部。人気だったのは剣道部。
専用の部室があったからだ。
ノーコンのシュートに加えやる気のないGKのお陰で、球があちこちへ飛んで行く。
顔面で受けた事もある。また、ある生徒は一階から飛び降り足を怪我したという。
「強くなりてえ」と両腕、両足に重りを付けていた生徒もいた。
彼は通常の学生鞄でなく、白い斜め掛けバッグで登校していた。田舎の私達の学校にとって、余所から来たそういう出で立ちは珍しくかなり印象に残っている。
いずれにせよ、成績は優秀だったかも知れないが私が夢を諦めたのはあの時だ。なりたい仕事は皆席が埋まっている。数と言う名の暴力に屈服させられて、その自由は奪われるのだとあの時知った。
最近こういうのがあったらしい。驚かされたなあ
逮捕容疑は、7月25日午前3時~午前5時ごろ、サッカー部の男子寮に侵入し、就寝中だった生徒に刃物のようなものを突き付けて別の部屋に移動させて監禁。わいせつ行為目的で近くの公園に連れ出した疑い。
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
私には血の繋がった弟が二人いるが、こちらとも絶縁している。
親の仕打ちを少しだけ具体的に書くと
●教育格差
私に対し親は「公立の学校以外駄目」と言い、指定した高校・大学を受験させられた。
当然浪人も不可。しかも「文学部は食えないからダメ」と学部も指定。
その弟は付属の大学に進学したが『遠いから』という理由で仮面浪人。
さらに大学院に進学(文系の私立の)し、すべて親がお金を出す。
私だけ親に暴力を振るわれていた。
弟が窃盗事件を起こした時でさえ親は「駄目だからね」と口頭注意のみで終了。
「なぜ私だけ殴るの?」と聞くと親は
「弟を殴ると倍になって返ってくるから怖い。女のあんたは二人がかりで殴れば言うこと聞くし」
とのこと
●私には「耐えろ」、弟には「可哀相」
小学生の時ブラスバンドに入ったけど、担当の教師はいわゆるスパルタ。
また小突いたり罵ったりとパワハラオンパレードでやめる子が続出。
私も「やめたい」と親に言ったけど、親は「やめたら家に入れない」と私を叱り飛ばした。
(ちなみにその担当教師は他の親の訴えで担当を降ろされ、のちに処分も受けています)
一方、弟はサッカー部に入り、高いスパイクやウエアを購入したけど二か月で退部。
親は「運動部は可哀相だな」とあっさり退部届に判を押した。
●都合が悪くなると「あなたは女の子。弟は男の子だから仕方ない」という
その反面、私が部活などで帰りが遅くなっても迎えに来てくれることはなかった。
急に雨に降られて私が「駅まで迎えに来て」と電話した時
親は「知らない。ずぶぬれで帰ってこい」と冷たく言うだけ。
なのに弟のことは毎日迎えに行っていた。
私が断ると「かわいい弟ちゃんが誰かに襲われたら困る。弟ちゃんが雨に濡れたら可哀相でしょ」とのたまった。
「私が襲われてもいいのか」と聞くと「あんたは自分でなんとかしな。ブタみたいだから大丈夫、襲う人いない」と笑った。
まだありますが、このくらいで分かっていただけると嬉しいです。
こんなことがあり、社会人になってから絶縁し、一切会っていませんでした。
絶縁する際、私の親は「あんたなんてもう娘じゃない」と言ったので、こちらも安心して(?)絶縁していました。
上気のことを伝え「絶縁してるから会わない」と言ったら
「もう許してやれ」と返ってきました。
許すなんてとんでもない。
暴力を受けて転んでしまったことがあり、そこがケロイドになって残っています。
「許す」なんて考えられない。
命を絶とうと思った時踏みとどまったのは
「あんな親のことをいつか見返してやる」「いつか(合法的な方法で)仕返ししてやる」と思ったから。
今でも心の中で
「ほら、あんたたちにブタと罵られて私はこんなにちゃんとした大人になった。納税も勤労もしてる」
とほくそ笑んでいる。
「いのちの電話」やお坊さんや各種の相談員に悩みを打ち明けたこともある。
親身になって相談に乗ってくれているのは分かるし、そう答えるのがセオリーなんだろうけど
私は彼らの回答を飲み込めない。
伴侶の親もいい人で、私は彼らを本当の親だと思っている。
でも、それはそれ、これはこれ。
多分、親を怨む気持ちがなくなったらあっさり命を手放すと思う。
親を怨む気持ちが、私の生きるパワーになっている。
今願うのは一刻も早く親が死んでくれること。
弟とも話したくない。
あんな人たちと血が繋がっていることが嫌なので、一刻も早くこの世から消えて欲しい。
こうして文字に起こしたらかなりすっきりした。