はてなキーワード: 単刀直入とは
妻が統合失調症になったというホッテントリを見てふと書きたくなった。
僕が強迫性障害になったのは恐らく中学2年生のとき。ある日いきなりだった。
トイレを流したあと、ちゃんとそのトイレがちゃんと流れたかどうかを異常な程気にするようになった。
玄関の鍵閉めたっけとか生きてれば一回くらい気にしたことあると思うけど、僕のトイレが流れたかどうかを気にするというのはとにかく異常だった。
頭の中がずっとトイレが流れたか気にするようになり、不安でずっと心臓はバクバクだし授業にも集中できない。
トイレが流れたかどうかを何回も確認しに行くんだけど、なぜか確認して五分くらい経つとまた気になる。
自分が使ったトイレを別の人が使ったときだけは、トイレを流す義務はその別の人に移ったとして気になんなかった。
旅行先で使ったトイレが確認の対象になると地獄だった。中学生の足でそのトイレを確認しにいくとか無理だし、電話して確認するほかない。(流石に電話はしなかったけど。)
当時親にこのことを相談したけどあんまり掛け合ってくれなかった。まあいきなり「トイレ流したかどうか死ぬほど気になって集中できない」なんて言われたって意味わかんないし仕方ないと思う。
ここからが本題なんだけど、高2くらいで気にする対象が人に危害を加えたかどうかに変わった。
高校には自転車で通学していたんだけど、ただ自転車を漕いでいるだけなのに途中で誰かとぶつかって人を殺したんじゃないかと気にするようになった。
馬鹿げた話だと思うし、当時の自分も心の奥底では馬鹿げた話だと思っていた。人を殺すほどの速度でぶつかったら自分が無傷なんてあり得ないし。
でも、気にし続けてしまう。朝起きてから寝るまでずっと頭の中はその不安ばかり。
そのころ住んでた県には交通事故発生マップというサイトがあった。
そのサイトにアクセスして、通学路で交通事故が起こってないことを確認して不安を解消してまた数十分後には不安になってまたそのサイトにアクセス……というのがルーティン。
ゲームしてても「人殺しがこんなことしてていいのか」とまともに楽しめなかった。
交通事故発生マップだけでは不安を解消しきれなくて、直接警察署に聞きに行きそうになったこともあった。
行きそうになったというのは、「こういうことが気になるので警察に確認しに行こうと思う」と事前に親に相談したら止められたので未遂に終わった。
ちなみに今は大学三年生で、完治とまではいかないけど98%くらいは治ったんじゃないかなと思います。
大学生になってからバイトして自分で自由に使えるお金を得たので、親には伝えず精神科に行ってお薬を貰った感じ。
でも、大学生になってからバイトしてお医者さんにかかるまでの期間で既に快復の方向に向かっていたので、最終的に治ったのが単純な時間経過なのか精神科に行ったおかげなのかはよく分かんない。
ただ、もしも中学生のころに精神科に行ってお薬を貰っていたら、こんな長い期間悩まされることはなかったかもしれないとは今でも思う。
いまこれを全部読んでくれたのなら、世の中にはこういった症状で悩む人がいるという知識を得られたと思います。
もしも、身近に「トイレを流したかどうかが死ぬほど気になる」とか「自転車で人を殺したんじゃないか不安になって仕方ない」という人がいたら、はやめの精神科の受診を勧めて欲しい。
身近というか、自分自身も含めてですね。強迫性障害になる前はこんなの世界仰天ニュースとかで見るだけで、自分には一切関係のないものだと思っていたから気をつけて。
公務員の転職サイト登録数が過去最高、「ヒマで安定」が激変の悲哀
https://diamond.jp/articles/-/248437
すなわち、公務員の職場は昔に比べてキツくなっている。公務員の職場が昔はユルかったかどうかはわからないが、とにかく過酷な環境になっているのは間違いない。
今回は、元転職エージェントの視点から見た公務員の転職について語りたい。
トピックは以下の3点になる。
これからの時代、あなたの会社にも入社を希望する公務員が現れるかもしれない。参考になれば幸いだ。
ではさっそく。
する。転職希望者の多くが通用するとは言わないが、マスコミやネット掲示板での公務員叩きを真に受けるのは間違っている。
私の転職エージェント歴は14年と少々になる。転職活動を支援した公務員はぜんぶで18人。そのうち転職に成功したのが7人。さらにそのうち、「アタリ」の数は4人だ。
※アタリのKPI…採用後アンケートにおいて、会社側が転職者を5段階査定で3以上であると判断したこと
私が担当したことのある民間の求職者のアタリ率と変わりはない。むしろ公務員の方がわずかに高い。
私個人の肌感覚が転職エージェント的な『平均』に近いとした場合、公務員だからといって不利益な扱いをするのは間違っていることになる。
手短かに、かつ本人が特定できないようにし配慮している。失敗例の2人については特に慎重に書いた。
※何かあった場合は私が責任を取る。そういう覚悟で筆を進める。
※各人の転職理由は伏せるが、根っこは全員共通している。察してほしい…
※時系列はバラバラだ。数年前の人もいるし、10年以上前の人もいる。
性別:女
年齢:当時20代前半
Mさんは若かった。とても若かった。同い年の多くは働いていない。
初めに電話で話した時はそのことに驚いたけど、実際に会ってみるとさらに驚いた。
率直に言ってしまうと、見た目がよかった。かわいいとか美しいとか、そういうタイプではない。
12/30 一部削除。読み返して鼻につく文章だったのと、見た目の印象を描きすぎているため。
要約すると、Mさんはクールキャラだった。話し方は明瞭だけど、ハキハキとした雰囲気ではない。小鳥のような声で、必要な言葉だけを手短に喋る。
Mさんは何度かの不採用の後、大手証券会社の窓口スタッフ(リテール職)に内定した。当初は門前払いかと思っていたが、意外にイケるものだと感じた。私が猛プッシュしたのもあるが…。
内定理由は、新しいことに挑戦する精神が同世代と比べて優れていたから、とのこと。
実際にそうだった。
一番最初の転職面談の時に、過去にMさんが事務担当者として達成した「改革的な仕事」の話を聞かせてもらった。
聞き始めの時は、「盛ってない…?」と思っていた。が、次第に、「それ以上は内部事情なのでしゃべらないで」とこちらが注意せざるを得ないほどに具体的で生々しいエピソードが出てきた。
その仕事を企画したのはMさんではない。その上司だ。あくまでMさんは「事務」担当者だった。だが、その「改革的な仕事」というのが、「公務員は創造性がない」を正面から否定する内容であり、Mさんと、直属の上司と、先輩の3人のチームはそれを成し遂げた(その自治体のHPで確認している)。
今現在、それと同じ取り組みをしている自治体はいくつもある。Mさんの自治体は最初期の先達だったと言っていい。
実を言うと、当時私が勤めていた会社に入ってほしかった。実際にMさんも乗り気だったし、私の上司(営業所長)もそのつもりだった。
でも、叶わなかった。女性が活躍することで有名な会社だったが、採用試験を受けることすらできなかった。主な理由は年齢だ。4大卒しか新卒採用をしない会社だった。このままだと史上最年少の正社員になってしまうらしい。
別にそれでもいいじゃないか。私は悔しかったし、営業所長も飲み会の時に恨み辛みを語り倒していた。それくらい眩しい人材だった。
12/31追記 Mさんは今もその証券会社で働いている。本人にとってよい転職であったことを祈っている。
性別:男
年齢:当時30代半ば
Kさんは何でもできる人だった。
本当に何でもできる人だった。公務員は2~3年ごとに異動を繰り返す関係で、事務系の器用貧乏になりがちなイメージがある。
彼の場合は違う。事務だろうと現場だろうと、企画だろうと調整だろうと何でもアリだった。具体的には、行政事務を除いて以下のような資格や経験を持っていた。
・TOEIC(社会人の平均よりもやや高い)
ここまでの資格や経験を持っていれば、安心して企業に推薦できる。
公務員の転職がなぜ難しいかといえば、応募先企業の干飯スキルと本人のそれがマッチしないからだ。マッチしたとしても、本当にマッチしている保証はない。
仮に「労務経験者」というカテゴリでマッチしたとしても、公務員と民間とでは労働関係法令の適用が異なる。例えば、「採用」するという行為の意味からして違う。極論すると、公務員の場合は、いわゆる内定取り消しがやろうと思えば自由にできる。東京都建設局事件で検索してみよう。
社会保険関係の事務量もぜんぜん違う(※民間企業の方が官公庁よりも処理人数が多い。入退職者数が多いので)し、派遣法の適用も違う(※公務員の職場だと3年ルールも5年ルールも適用がない)し、労働組合向けの対策も異なる。
業務の手順が違うだけならまだいい。覚えていけばいいからだ。だが、労務に限らず、仕事の進め方のその背景にある、『思想』が民間企業とは違う。だから公務員の転職は難しい。
さて、Kさんが最初に受けた建設系のコンサル会社は、一次面接が終わった時点で事実上の内定を出した。
「次の面接で、よほどのことがない限りは内定を出します。Kさんに他社を受けないように勧めてください」
という要請があった。
当時、Kさんは30代半ばだった。自己の能力を客観的に証明できるものがあれば転職活動で有利になるというのは一般的な事実だ。
彼と私は同年代だった。最初の面談の時点で意気投合した。今でも年に一度は飲みに行く。今回出てくる4人の中で、彼だけは許可を取っている。
後半はこちら
武道やスポーツやっててなんとなく上手いこといってて、それで進学やカースト内の立ち振る舞いがうまくこなせてしまった女子にありがちなタイプだけど、とにかくレスポンスの速さが取り柄なんだよあいつら。
深く物事を考える有意性すら理解してないしする気もない。なんでも0か1で割り切れると思っていて、明言するのを避けたり答えを出せないことをじっくり考えたりすることを馬鹿にしてる。
だから今の振る舞いが間接的にどう影響を与えるかとか、どういった社会的意義を持つか、表面上には現れない人の気持ちなんかにかなり無頓着なんだよ。
間違ってることでも浅はかなことでも、とにかく相手に隙を与えずメッセージを発してコミュニケーションにおいて自分が主導権を持つ。これが彼らの処世術だ。
こういう人はマウントを取った時点で自分が絶対的正義だと証明されたのだと信じてやまない。強い語気や態度で圧倒しているだけなのに相手の論理に破綻があるから黙らざる得なかったのだと歪んだ解釈をする。彼らはのちのちまで「あなたあの時論破されちゃってるんですけど?」みたいな詭弁論者めいた態度を真顔でかましてくるから始末におえない。
そもそも論理的に話を整理したり妥当性があるものが優先されることを彼らは心底嫌っている。嫌ってるというか暗くて気持ち悪くて無駄で不要なものだと切り捨てたがる。とにかく速く相手に反応を示すために考慮することを放棄しているので、事象に対し主観的かつ情緒的な解釈が目立つ。「なんとなく嫌いだからこれは劣っている」「なんとなくかっこいいと思うからこれは優れている」「なんとなく退屈だからこれは要らないのだ」とどうしようもない基準で物事を判断していく。
そして目先の、体感のコストパフォーマンスを彼らは優劣のバロメータにしており。長期的な物の見方をしない。根は真面目だからあいつらなりに「将来あれになりたいからこの学校で専門教育受けます」とか「お金を貯めておきたいから財テクやってる」とか「子どもの可能性を伸ばしたいからそれ習わせてます」とかいろいろやるけど、全てが一元的でそれって決めたらそこしか見えてないのよ。中学高校の憧れで看護師になるって決めて看護の学校行って看護師として働くようなタイプ。腰を据えて一本筋を通す姿勢は立派だよ。でも彼らは憧れの次に、看護師の実態を調べたり、職業人が持つ行動指針となるべき抽象的な流儀に思いを馳せたりなんかはしない。そんなのすっ飛ばして「何になるか決めたからとっとと受験対策しよう」だ。そして職に就いたら、理想とのギャップを全て自分以外の何かのせいだと愚痴り、場当たり的に行動する。気分で仕事の出来にムラがあるので一定のクオリティを保たない。それでも持ち前の判断力の速さと明瞭な態度で体面は繕ってしまう。体面がいいため何も言われないでいることを、自分が有能な証だと履き違え自己研磨しようとしない。
体育会系でも武道は縦の関係が強いので、彼らは上の物に靡いて言うことをすぐに変える。流儀や信念みたいなものはないし今後に向け醸成させていく気もないので組織内の力学にすぐ染まる。その癖単刀直入ではきはきした態度故に「しっかり者」として扱われてきたためか本人にその自覚すらないのがタチが悪い。
増田があの時対抗できたとするならば、嫌な顔された時点で間髪入れず「あ、あなたの物ではありませんでした?」と言って、違う人に「これ落としませんでしたか?」と聞いていけばよかったかもしれない。
こういう輩のペースに巻き込まれてはいけないのだ。善意で拾った市民という増田自身の認識を歪め、あまつさえそれが如何にも妥当であるかのような態度。、そんな振る舞いを許すような謂れが増田には一切ない。
風俗愛好マンにも色々ありますが、一つの典型パターンとしては、『強いストレスを感じると風俗に行って発散しがち』です。
かく言う私もまた、仕事がクッソ忙しくなるとソープに行きたくなるわけです。
でもなんか、この姫、知ってる気がするぞ?
顔出しとかしてないので確証は無いけど、日記の雰囲気とか……公開プロフとか……ひょっとして3年ほど前にいた超人気嬢○○○さんが名前を変えて再デビューしたのではないか?
在籍当時、予約を一回も取れず、実物を知らないのですが、何故かそんな気がしました。
そういうわけで予約のTEL、幸運にもその日最初の枠が空いており、ちょうど仕事も一段階落ち着いて早上がりできそうだったので、突撃することにしました。
流石に平日昼過ぎは空いてるなーと駐車場を見て思いつつ店にイン。
まずはアルコール消毒から、入泉料を支払い、待機室で暇つぶしのスマホポチポチ。
そして、ご対面。
これは○○○さんかどうかとかどうでもよくてルックスだけでそうとう当たりレベル!
部屋に連れて行ってもらい、服を脱いだり脱がせたりしつつちょろっとトーク
「こんな時間にスーツで来るなんて、仕事の抜け出しですかー?」
「いや、早上がりできまして」
「こういうお店よく来るんですか?」
そう言ってフフッと笑う姫。
これはもう我慢できません。
単刀直入に聞いて、違っても恥ずかしいなあと思ったので、回りくどく聞いてみることにしました。
「3年前くらいに、ほとんど来てない時期があったんですよ」
「へえー、どうしてですか?」
「その頃、気になってた子がいたんですが、その子の予約が全然取れなくて、それで来なかったんです」
「人気あった女の子だったんですね。どんな子でした?」
「予約取れずで会ったことがないんですけど、○○○さんって名前の子でした」
「あっそれ私です」
そこに感動がありました。
名前を変えた経緯とか空白期間についてトークしつつ、3年前のあの頃果たせなかったプレイを楽しむ。
まるでずっと会えなかった恋人にようやく会えたかのような感動です。
こういうことがあるんですね。
「やっぱ、気になる姫には会える時に会っておかないと、な……」
買ったのは小鳥の形をした物で、絶妙なカーブが女性器にフィットして、バイブレーションするやつだ。
同社製品は初めて。
過去に挿入タイプのバイブを買って、わりとすぐ使わなくなった経験がある。
まず驚いたのが、オカズとの併用ができない。
静音設計とはいえわずかにする音と、手と性器に伝わる振動で、視覚情報に一切集中できない。
振動を強くしていくたびにその傾向は強くなって、有無を言わさず肉体だけが気持ちいい。
以前から「女の(自分の?)快楽は、脳と肉体が別」だと思ってたけど、これで証明された感じ。
irohaはデザインがかわいいしぷにぷにしてるので、「エロいもの使ってる自分エロい!」みたいなメンタルからの興奮がない。
振動を一番弱くして、ベッドで寝転びながら股に挟んでぼーっとしていると、まさしく電動マッサージの快感が味わえる。
お風呂に入った時の「はぁ〜気持ちいい…」という緩い快楽の出どころが、女性器になった感じ。
この使い方してるときのエロい気分はほぼない。リラックス感が高い。
寝る前がおすすめ。
自分だけじゃなく多分けっこうな女性に共通すると思うけど、自分の女性器に何か入れて自慰することが少ない。
コンビニ受け取りで買ったんだけど、代理業者使ってたので送り先わかんないようになってた。
それでも言う事をきかない。
でも今年の夏はなんだかやけに落ち着いていて、
それはそれで逆に不安になっていたら、
と夜中に突然いうのでその後「か、母さん!」と漫画みたいに取り乱した。
妻に聞くと「彼氏よ」と単刀直入に言われ、嬉しいような悲しいような。
結局の所嬉しい気持ちに落ち着いたが、それよりも勝ったのは
「うちの超DQN娘の彼氏なんて超DQNなのでは?」という恐怖心。
「ウシジマくんみたいな奴だったらどうしよう……」
「まぁ、そういうことだから」
「か、母さん」とまたもや取り乱す私。
「あんた気がつかなかったの?」
「え?」
「〇〇君よ」
〇〇君とは、とちゃんと書くと身バレしそうなのでふんわりとしかいえないが、
〇〇君はご近所のあそこの店の息子さんで、なんでうちの娘と?という謎。
嬉しいけど謎。
本当に付き合っているのか?娘が〇〇君を脅していないか?
しかし妻は言う。
と。
訳わかまつで胃が痛い
「あーーーーー知ってる知ってる知ってる!!!これキメツにでてきたやつぅぅううう!僕知ってるよねえ!僕知ってる!」みたいなこと言うじゃん。子供って。
ポプテとか全く面白くない四コマでもミームふんだんに使うことで、キモオタの支持得てたじゃん
「わかる奴にはわかる」のつもりなのかもしれないが、正直寒かったわ
いやこれなんだよ↓
何事もやりすぎはキモいしほどほどは格好良い。
やりすぎててキモいんだわ。
パロディもオマージュも嫌いじゃないよ。でも作者側も「これのパロディいれたら褒められるだろうな」みたいな意図ムクムクさせてる作品多すぎだろ。単刀直入に言うとキモイねん。隠し味をドバドバ入れたらメシマズだろうがよ。作品で勝負しろよ。他作のパロで「わかってる作者」感を出して評価されようとか洒落臭いんだよ。
オタクだって、作品自体を見ろよと。作品を噛み締めたうえで隠し味のパロディを楽しむのはいい。まずパロディ、パロディだから面白いって、消費の仕方としてくだらなすぎるんだよ。
あれもこれもパロディです、これにはギリシャ神話のオマージュのこんな裏設定が〜とかも嫌いだ。少しは作品の独自性を見せてくれよ。一から作ってくれよと思うんだ。なんでも隠喩しまくればいいってもんじゃない。12星座に準えて〜とか逆に薄っぺくてがっかりだ。
隠し味の主張が強すぎるのも、隠し味が入ってて凄い!って褒め方するのも下品だよね。
あと、
これもな。これもでかい。「知ってること」に大した価値がなくなったんだよな。ネットミームなんか知ってること何の価値もねえから。そんなのでオタク特有の選民意識とか発動されても痛いわ。アニメも映画も制作秘話も今の時代誰にでもアクセスできるんだよね。昔のオタクだったら「マイナー雑誌のために月1で隣町の本屋まで行った」とかで仲間内で尊敬されるのかもしれないけどさ。Twitterでバズってるネタを知ってる価値って限りなく低いから。
インテリの教養のある俺仕草も正直嫌いだよ。知ってるアピするためにお勉強ちたの?って聞きたくなるわ。そしてその教養が高校の教科書レベルだった時は聞いてるこっちが恥ずかしくなる。知識を振りかざすのは恥。ホンモノはアピらなくても溢れ出すもんだろ。
平安貴族の教養アピ、嫌い。和歌文化も基本嫌い。「こいつらクッソキショいな」以外の感想ないだろ。それ以外に何か感じられる奴いるの?
生まれで決定した身分でご教養を身につけて道楽に耽ってるだけのカスだぞ。超搾取上級国民が内輪のノリで教養ごっこしてるのの何がそんなに面白いんただ?日本文化史のなかで1番嫌いな時代だわ。
恋には情熱的で、些細なことで感情を揺り動かされ、悲しい時は悲嘆に暮れ、……みたいな感情を露わにした生き様は良いと思う。が、ああいうのって「めちゃくちゃ余裕のある暮らし」だから成り立ってただけだよな。没落いうても税で食ってますやんっていう。搾取の上の優雅な暮らし。
この間、全然知らない人が少し離れた所に車を停めてキモムーブをしつつこっちに吸い寄せられるように近付いて来て「好きです!」って言ってきたけど、そりゃないだろいくら何でも……と思った。つか変質者だしね。田房永子さんが描いたエッセイ漫画に出てきた痴漢の描写によく似てたし。私自身が昔遭遇した痴漢とも行動パターンが同じだったし。そういうのはまあ心の病的な何かかと思って、告白としてはノーカンだよ、うん。
そういう変質者は論外として、私は告白は身近な人だろうが意識したこともない人だろうが、アプローチする気があるのならハッキリ言って欲しい。「恋人になってください」でも、単刀直入に「セックスしてください」でも。「ご飯食べに行きましょう」とか「遊びに行きましょう」「旅行でも行きましょう」みたいな遠回しな誘いでセックスにもつれ込もうという手合が一番嫌だ。
単刀直入失礼します。くっそ楽しくないですか!?ビジネスホテルに泊まんの!もう想像しただけでオラわくわくすっぞ!
出張とは縁のない仕事してるので、趣味で休みの日ビジネスホテルに泊まってる。
行き慣れたビジネスホテルに行くのだって開放感あってワクワクするし、
安いビジネスホテル探して行ったことのない街を探索するのだって楽しいし、
シャワー浴びて汗流して身体洗って身体拭いてそのまま全裸でベッドに潜り込んで爆睡したり、
ベッドの上でケンタッキー食いながら映画観たり(グリーンブックはケンタッキーがとても捗ったぜ!)、
家にいると出来そうであんまりやりたくないことが堂々とできるこの開放感が心地よすぎて幸せなんだよなぁ!
ドーミーインでみんな館内着を着て皆夜鳴き蕎麦啜ってるのとか妙な一体感あって楽しいし、朝のバイキングとかワクワクしすぎて日頃そこまで気にしてない癖に健康意識して色んなもの食べたりとかするの楽しいし、インターホンもなることないから携帯の電源落とせば外部との情報完全に遮断できるし、お湯出しっぱで長風呂し放題だし、1万円せずにこんな幸せになれるなんて、俺は結構幸せな人間なんだなぁ!?って思えて世界の平和を祈り出すぐらいハイになっちまうんだよなぁ!?
現時点の市場を鑑みた戦略を取るならジオブロして当たり前では?って思ってる人が書く話なので、自分の精神衛生とか信念とかなんやらを大事にしたい人は読まないほうがいい。
もともとは宝塚とKinKi Kidsが好きなオタク。(どちらもおおよそが良心的なファンで私みたいなひねくれた人ばかりでは多分ないので悪しからず。)
ただCS放送に全く躊躇いもなく自国エンタメにしか元々興味がなかった人なんだなと思ってもらえると。
タイに行ってバンコクでの広告で気になったタレントを調べたらそのままタイBLにハマり。
わりとなんでも1人でハマるタイプのため、楽しく3,4ヶ月DVD-BOXを買ったり単話配信を購入したりAndroid端末を入手してLINE TVを入れたりのんびり過ごしていた。
オンライン飲み会で何のオタクで知り合ったのか忘れたオタクに「あんたもハマってるらしいけどタイBL流行ってんね!」と言われ、「そうなのか!」とゴソゴソとTwitterでリストを作り、楽しそうなツイートをしている人を勝手に観察していた。
月日はまた流れOur Skyy,Dark Blue Kiss,My Engineerについて日本での版権を獲得したのでもうそろジオブロされるよ!という話が出てきた。
そうするとこのことがトレンド入りしたりと「へ〜本当についったらんどだと流行ってんだ!」という気持ちになっていた。
私も元気にTwitterをしてるのでトレンドを押すと「ジオブロ最悪!」「ファンは誰も喜んでない!」のようなツイートをそれなりの数見つけてしまい兎にも角にもびっくりしてしまった。
よくよく読めばよかったのかもしれないが、その瞬間に「みんな無料じゃない限り、見る価値がないコンテンツだと思ってたの?」という考えが駆け巡ってしまったのだった。
とりあえずびっくりしてしまったので、何も見なかったことにしようと1日くらい上司の言葉を除いてタイ語しか見聞きしないで過ごしていた。隣の席のおじさんの発言も何も聴いてない。
しかしTwitter10年選手の悪癖で「よくよく読んだ方が良いのかも!」と覗きに行ってしまった。
無理だった。
ファーストインプレッションが強く残りすぎてしまったのかもしれないけれど、私がもし本国や版権を取得した会社の販売戦略担当でSNSの反応を見て版権戦略を打つとしたら大半は無料のままだと放送見ないな!絶対にジオブロする!という見解しか持てなかった。
私はタイに住んでないし、GMMの社員でもWabiSabiの社員でもないので彼らが日本に対する戦略をどう練っているのか全く分からない。
けれど「大陸マネーに劣る」という判断はしてるのではないかと思う。(でもGMMFMの字幕英語と日本語だったな……劣ってない判断なのかな、嗚呼、話がとっ散らかる)
まぁ、どう考えても今までのタイBL日本市場の規模は大陸に比べたら圧倒的に少ない(し、お札の花束を送った日本のファンは見てない)。
現時点での市場の状況を鑑みてアピールする先を間違えてる!!!と私は思ってしまった。そう「私は」だよ?帰るなら今。
この大きくなろうとしてるとはいえまだまだ日本で小さな市場である今は先方(本国も版権取得会社も)の目先の利益が確保されない限り私たちの布教も何もないと思うのだ。それに日本は自国のエンタメだけである程度回ることができてしまうから。(その上言いたかないけど日本人は飽きっぽい)
ジオブロ解除させたいなら「日本市場は金の成る木です!!ジオブロしなくてもガッポガッポお金がそちらに行きます〜!!!!!
とりあえず現状ジオブロされてもガッポガッポお金がそちらに行きますので引き続きジオブロ解除ご検討何卒〜!!!」というアピールをするべきだと思うし、その構図に対して感情論も何もいらない。
とは言っても私も楽はしたいので全部アマプラで配信してくれないかなぁ〜なんてことは思ってるし、LBCの配信が始まってオタク友達にとりあえず連絡した。(私もとうらぶの映画見るね)(LBCみんなが見た結果他の作品の配信増えると嬉しいね)
どの作品もこうなればいいのに!というのは勿論あるけれどそれにはやっぱり段階を踏んでいくべきだし、その過程でアクセスしやすい無料コンテンツが停止されるのは然るべき戦略の一つだ。
手短に言うとAVの見過ぎでセックスにおける自然なリアクションの取り方がわからなくなってしまった
洋物が好きでも即オーイエスとはならんがな
そして自分のリアクションに常に神経がいっているせいでイマイチ没入できない
あとなんか特にAVだけど当然のようにヌルッと始まるから、現実世界では時には単刀直入に「セックスせえへん?」と言わなければいけないと言うことに気づくのに時間がかかった 態度で示すとかもあると思うけどそれこそAVかよ!?となってしまい気恥ずかしいし、勝手におっぱじめて相手が乗り気じゃなかったら申し訳ないので結果言語化するのが一番安全なのだ
しかしAVによって謎に理想とハードルが高まっていたが、考えてみれば2人の人間が裸でワチャワチャしてるのはハタから見れば相当滑稽なのが当然なのではないか?
そう思うと少し気を楽にしてやっていけるような気がする
単刀直入に言うと、タイトルにある「ガチャで人の推しが出た時に謝る文化」を、私はどうしても理解・共感できなくて困っている。
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【主な登場人物】
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数年前の引越しを機に、私は日本全国から人が集まるような場で生活を送ることとなった。その中で有難いことに、共通の趣味を持つ人にも出会えた。その中の1人が、Aであった。
共通の履修ジャンルに加えて腐の趣味もある(しかも一部推しカプまで共通している)貴重な人材ということで、あっという間に距離は縮まり私たちは友人となった。
一緒に推しジャンルのライブに行ったり、某アニメショップで買い物をしたり。住んでいる場所が近いこともあり、オタ活を共にすることも多くなった。
しかし過ごす時間が増えるにつれ、同じオタクでも微妙に価値観が合わないというか、そういった違和感が生まれ始めたその中でも1番モヤモヤするのが、前述の通り「ガチャで人の推しが出た時に謝る」文化である。
最初にこの違和感を感じたのは、何気ない会話の中。とあるソシャゲでのガチャ云々の話で、AがAの友人であるB(私とは面識は無い)のSSRを引いたというものであった。
Aは「何気なく10連したらBが狙ってた推し来ちゃって、もう申し訳なくてさ、BにLINEで『ごめん出た』ってスクショ送ったらもうその時の反応が面白くてw見てこれw」と言ってLINEのトーク画面を見せてきた。
この時、私は「なんでAは謝ったんだ?」という疑問が浮かんだ。
私は「ガチャのスクショを送る=自慢」という認識だった。(今までの私の交友関係の場合、ガチャ運が良かった時に友人にスクショ自慢を送ったり送られたりしても「すごい!」「おめでとう!」「羨ましい!」とお祝いムードになるか、報告が地雷のタイプが相手なら黙っておくかが普通だった)ので、「謝るならスクショを送らなければ良いのでは?」と感じたのである。
Bは、自分が推しガチャ失敗した時の他人の出ました報告が地雷なタイプ人なのかと思ったが、トーク画面を見ても特に荒事もなく会話が普通に進んでいる。
そういうタイプの人もいるんだな、という感想でこの場は終わった。
しかしこれ、価値観が違うことも相まって、自分が実際にやられると非常にムカつくのである。
私は数あるジャンルの中でも特に熱を入れている某ソシャゲがある。決して大手のジャンルではないが大好きなソシャゲだ。
その中にある、とある私の最推しのSSRカード。当時は年齢による課金制限で「出るまで回す」が出来なかったため、限られた万単位の金をつぎ込んでも出なくて泣く泣く諦めたカードである。ちなみに私は未だに持っていない。
それを最近、どうやらAが引いたらしい。しかも通常SSRよりも更に確率の低い、いわゆる箔入りのSSRである。
TwitterやってればSSR出ました箔入り出ましたのガチャ報告なんて散々見るから、ガチャで当てたことに対して特に思うところは無い。だから今回も「まじか、すげー」くらいの気持ちだった。
ここまでは良かった。
例のガチャ報告ツイートの最後を見ると、「〇〇(私の名前)ごめんね!!ww」という一文が添えられていた。
なんで謝った? なんでわざわざ私を名指しする必要があったんだ?
なんとも思っていなかったガチャ報告のツイートが、最後の名指しの一文のせいで一気にイラっときた。
数分後、AからLINEの通知がきた。「すみませんでした」の一言と共に、Twitterでみたガチャ報告と同じスクショが添えられていた。
Twitterだけに留まらず、なぜわざわざLINEしてきた。謝る気なんて微塵もないくせになぜ謝るんだ。
私って沸点こんなに低かったんだ……とどこか頭の中で他人事のように考えながらも、苛立ちが余計に増していた。謝罪の一言がただの煽り文に見えて仕方がなかった。
こういった報告が何度かされるようになる度に、私は謝る気なんて無いであろうAの「ごめん」に、自分宛じゃないツイートであっても見かける度にイラつくようになってしまった。
ガチャとは別の例だが、今挙げたソシャゲとは別ジャンルのブラインド商品を一緒に買った際に、Aが私の推しを当てたことがあった(私は自分の推しでもAの推しでもないキャラだった)。その度にAは「なんかごめんね、〇〇(私)が引いたのがウチの推しだったら交換したんだけど、ね……?」的なことを言ってくる。私は交換してくれなんて一言も頼んでいないぞ。
(まあ一緒に買い物をするとどちらが何を買って推しが出たか出なかったかはその場でわかるからまだしょうがないのかもしれないけど…)
いまの一連の流れを読むと「推しが出なかったことに嫉妬してるだけじゃん」と思われそうだが、私はAが私の推しを当てたことに苛立っているのではなく、その報告に"謎の謝罪"が入っていることが非常に腹立たしいのである。
とはいえ私も人間関係のコミュニティが多少広がったとはいえ、この「謝罪文化」に今まで触れてこなかったから今は拒否反応がでているのかもしれない。
ここまで読んだ人には「こんな小さいことで何をww」と笑われているのかもしれない。でも自分でこの苛立つ感情を処理出来れば、字書きでもない私がこんなお気持ち長文なんてわざわざ書かない……というか自分がお気持ち長文を書く日が来るなんて思ってもいなかった……
Aには悪気は無いだろうから、ここで私が「謝ってくんじゃねえ!!」と激情をぶつけてもそれはただ私がAに私の価値観を押し付けるだけになってしまうので、書き殴って気持ちを落ち着けることにした。
とはいえ冷静に考えても、現時点でこのガチャの謝罪文化は絶っっっ対に共感できないから正直やめてほしいのが本音だ。
それぞれのオタクとしてのあり方、価値観。共感は出来なくても理解はして、冷静でいられるような大人になりたいなあ。そう思った未熟なオタクのお気持ち長文でした。
「主人公が最強でない作品の方が多数だ」という意見多数。大変ごもっとも
スポーツ漫画じゃ大抵結局は主人公が甲子園みたいなので優勝する
しかし劇中の甲子園や天下一武闘会的なものに出ても優勝しないレベル
あるいは
そういうイメージ
挙げられた例でカメレオンはすごく納得感があった
違うんじゃねという気がしたけど、俺の書き方が悪かった
読み返すとかなりツッコミ所が多い条件設定だわ、すまん
(芳文社きらら系みたいな競争要素がない作品はそもそも考慮対象外)
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劇中で単純な戦闘力とかでは主人公より強いことが明白なキャラがいるのに
主人公にちゃんと主人公としての存在感がある作品に惹かれるのだが
なかなかそういうものを見かけない
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連載の長期化で強くなりすぎると面白くなくなる
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コードギアスでのルルーシュは単純な戦闘能力では主人公は二流以下だが
禁書目録では一方通行をはじめ単純な戦闘力では上条より強い奴が
ごろごろいるが、上条はあらゆる能力をチャラにするというチート性で
存在感を示している
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そういうのとはちょっと違って
二流以下の奴が二流以下なりに頑張って存在感を示してるのが見たいんだ
明らかに主人公のマサオよりサムライダーである沢村の方が格好いい
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そういう「凡人だけどヒーロー」って作品ってもうちょっとないものか?
単刀直入に言えば
そしてかまととぶるのもあれだから先に言っとくけどLGBTQ+の世界には一通り足突っ込んでるし知識もある。トランスジェンダーに一番近い。
戸籍は女。最近は大体いっつも男ってことで働いてる。体はなんもいじってない。男性ホルモンも摂取してない。
で、不思議というか悩みというかがあるんだけど、自分は何をアイデンティティにすればいいと思う?もうちょいわかりやすく言うと、他者に対して自分はどう映っていてどう映るべきなんだと思う?
男として働いてる女?男っぽい女?
ーいいね。マンガみたい。イケメンパラダイスみたい。イケメン系女子、かっこいいよね。女子高ではヒーローになれる。学生時代はそんな位置づけにされそうになったこともある。そしてこれが正解だと強く思ってしまっている自分がいる。アイデンティティっていうのは自分に対する他人と自分の共通認識なのであって、今の状況を一番正確に書こうとするならこのタイトルが一番合ってる。人によっちゃこれは事実以上の何物でもないというかもしれない。
でも一番にあげといてなんなんだけどこれは絶対却下だ。なぜなら自分は”女ではなく”て、自分を女と説明されることにとてつもない嫌悪感を抱えているから。
女ってーのは事実じゃん、染色体・外性器etc...っていう批判は聞き飽きるほど聞いたけど、自分にとっての女という体験(=人生)は、というか性別という体験はそもそもその定義以上のものを含むものだと思う。
まぁ勘がいい人は性同一性障害とか性別違和とかいうキーワードが頭に浮かんだだろうし、分かんなかったらググってほしい。そしてその嫌悪感を抱くことこそがその障害を持つ者の定義であるわけで、ここを議論しても仕方ないから許してほしい。
というわけで自分を女として知っている知り合いの多くは自分を男っぽい女だと思ってるだろうし、一度女として認識した人間へ向ける視線をひっくり返すのはとても難しい。自分はそれがとても悲しい。通ってきた門は変えられない。
幸か不幸か、自分は初対面の人間に対してその入り口をある程度意図的に変えられる。つまりこれから自分はその人と付き合っていくにあたってどっちの性別で行くか大体決められちゃうってことである。
ちなみにこれは初対面一発目で相手が自分の望む性別で自分を認識するということでは必ずしもなくて、話していくうちにちらちら実は男なんです~/女なんです~要素をチラリズムさせていく、もしくは単刀直入に自分の性別を宣言してしまえば納得してもらえるってぐらいの見た目を自分はしているってことだ。端的に言うと一人称を変える程度で私の性別は揺らぐ。
また会うことなんてねぇだろうなって人は勝手にあっちの想像に任せて話を合わせている。会話の節々で「あっこの人は今自分を君付けで読んだな」とか判断材料にして。
これから長く付き合っていく人間に対してはそうもいかないので、大体付き合いが長くなってきた時点で胸が裂ける思いがしながらも自分でネタバラシをする。しかし卒業を目前に鬱で発狂した自分はもう考えるのをやめたくなって、性別欄のない履歴書を黙って送って、雇ってくれた会社の人に自分の性別の判断を託した。(性別のわかる公的書類の提出はいらないとこだった)
はじめて会ったとき君付けで呼ばれて聞きなれないながらも若干安心して、それからの職場では同じ戦術ながら奇しくもずっと男として働いている。
男として働きだすと言われることが真逆になった。女の子っぽい男の子だね、かわいいね、と。(ちなみにほとんどが初対面の客からである。世の皆さん、人の性別に安易に突っ込まないでください、肝が冷える)
女の子っぽい男の子、というタイトル自体はも満更でもない。それどころかその受け皿に収まってしまおうか、つまりそれを自分のアイデンティティにしてしまおうかという選択肢まで生まれだした次第だ。しかしそう言われるたびに腹の底が冷えるような気持になり、その話題をどうにかしてそらしたくて仕方なくなる自分には、そのラベルで積極的に自分を売っていく気にはまだ到底なれない。
話が少しそれるが、自分はあわよくばわかりやすく自分を他人に分かってもらえるようなラベル、アイデンティティが欲しいと常々思っている。しかも自信をもって自分から提示できるような。(この場合の自信っていうのは真実か否かっていう次元の話)
性別不明の人間に対する探るような人々の視線は、一度経験してみてほしいと思う。みんな説明と安心がほしいんだと思う。
男として生きてくのも色々大変なんだ、特殊な業種なんだが仕事中に生理なんか来た時には泣きそうになった。女子更衣室のチェックのために同僚の女の子読んでこなきゃいけなかったときは笑いそうだった。不意打ちのボディタッチはいつも致命傷になりうるししょーじき男として生きるのもしんどい。これが一生続くのかと考えると。
自分(の身体)が女だと知られることが自分への他人の見方を決定づけてしまうことになる一方で、男か女かしかないこの世界で真実を隠し続けながら一生過ごさなきゃいけなくなると思うと死にたくなる、ライトに。積極的に死にたいっていうよりはこの苦しみから解き放たれたいの方が近いほうの死にたい。
悲しくて泣きたいけど、今まで流してきた大抵の涙は、大人になったらよくなるとかなんでそんなことでくよくよ悩んでいるのかとかいう言葉で流されていった。もう大人になってしまった。
Xジェンダーとか、LGBTだけにとどまらない言葉は世の中に無数に存在していて、それに出会うことはできる。でもその言葉に含まれる人々は、一般社会の中で存在していることになっているだろうか?その受け皿は、いまだ世の中に生まれてはいない気がする。
アイデンティティは自分と他人の共通認識で、他人の中に存在できない自分は、いない。それがとても虚しい。考えても分からない。どうしよう?
元来、自分以外に対する批判だとか罵倒だとかが、まるで自分に向いているかのように錯覚してしまう。その様な厄介な性格を抱えた人間がコロナ禍で精神を保てるだろうか。勿論そんなことはありえない。
日常会話でも、マスメディアでも、SNSでも、コロナへの愚痴・政府への批判・外出自粛を行わない人への苦言に出会わない日はない。そしてそれらの言葉の矛先が自分であるかのように感じる。言葉をナイフに喩えるなら、ありとあらゆる方向から絶えず刺され続けるような感覚に陥っている。
周りの人が私を傷つける訳ではなく私が勝手に傷ついているだけだという自覚はある。その結果、「誰も私にナイフを向けていないのに、私はあらゆる人にナイフで刺される」という不思議な現象が起こっている。
無論、コロナウィルスへの恐怖や自粛生活のストレスは感じているし、政策の全てを肯定する気はない。自分以外に対しても不要不急の外出を避けてほしいと願っている。しかし、コロナ等への愚痴に受けるダメージの方が大きいのが正直なところである。
追い打ちをかけるかのような辛さは、「コロナ等が何よりも辛い人」が圧倒的多数だということである。
少なくとも私の周りでは、ほぼ全ての人がコロナ等に対して愚痴を吐く。勝手な憶測だが、そのような人々は私のような「コロナ関連の愚痴を聞くのが辛い」という感情をあまり持ち合わせてはいないのだと感じる。
コロナ・政府・自粛しない人への愚痴は共鳴し合い、肥大化してゆく。マジョリティが結託してゆく。自分へと向かうナイフが益々増えていくのと同時に、果てしない疎外感に襲われる。
先述したように、私に対して攻撃しようとする人がいる訳ではない。故に彼らを責めようとも思えない。しかし、「明確な敵がいて、共に戦う仲間が日本中・世界中にいる」という彼らの状況が羨ましくてたまらない。
最近では、多くの著名人が「みんなでコロナに立ち向かおう」「お家で楽しく過ごそう」などとポジティブな言葉を投げ掛けている。非常に素晴らしいムーブメントだと思う。だが、ここでいう「みんな」は誰を指すのだろうか。
答えは簡単だ。コロナと身体的・精神的に戦う人々。今の日本の状況にストレスを抱える人々。
そこに私はいるのだろうか?
コロナやそれに関わる社会問題以上にそれらへ対する非難に苦しむ私は、「みんなで戦おう」「みんなで笑顔に」の「みんな」に含まれるのだろうか?
残念ながら含まれるとは思えない。
最早、ポジティブな言葉が溢れることさえ、疎外感を強めるきっかけとなってしまった。
だけど、仮に今自殺したとなれば「コロナ鬱の犠牲者」として世間から扱われるのだろう。私の「コロナ鬱」の実情は理解されることのないまま、「コロナへの社会不安により自ら命を絶った人」として終わる。そして寄せられるコメントはきっと、「コロナが許せない」「アベは辞めろ」だ。皮肉にも程がある。
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
https://muriyada444.hatenablog.com/entry/2020/01/21/225631
この記事の内容はお世辞にもモテるとは言い難い女性がマッチングアプリで出会った男性と即付き合ってしまい、なんと幸せなことかお幸せにという内容だ。
この微笑ましい記事を見て、私はふと昔のことを思い出した。
例に漏れず私はとにかくモテたかった。モテたくないわけがない。
そうして私がどうしたかというと、ヤリチンにどうしたらモテるのか聞こうと思い立ったわけである。
2020年の現代とは違って、当時にマッチングアプリなる性欲を丁寧に梱包したような便利なツールは存在しなかった。
そこで私はその当時に爆発的に流行していた出会い系アプリに目をつけ、女には目をくれずにヤリチンらしき男とチャットを開始。とんとん拍子で会うことになった。
俺は地下アイドルの写真をアイコンにしてネカマ技法を駆使していたのでヤリチンが俺に騙されたのは無理もない。
しかしながら俺が彼に聞きたいことがあると言うと、何やらたのしげになって話をしてくれると言うことになった。
単刀直入に、ヤリチンにどうしたらモテるのか聞くとなんだそんなことか、と言うふうに
「ドラクエやったことあるだろ?それと同じだよ。 お前は今レベル1の勇者だ。それなのに可愛くてモテるような竜王系女子ばかり狙うからダメなんだよ。
だから、スライムを狙え。 要はブスを狙って惚れさせて色々経験しレベルを上げてから可愛い子を狙え」
衝撃だった。この女性を人間として扱っていないかのような言葉。俺にとっては倫理面でも技術面でもショックだった。
そしてヤリチンが言うには、多くのヤリチン候補生がこの「スライム狩り」によって立派なヤリチンに成長するのだという。
その後のことは書くまでもない。とにかく一度女子の皆さんはヤリチン見習いのスライムハンターに気をつけて欲しい。
もちろん、冒頭の記事はそうじゃないことを切に願ってやまない。ほんとうに。
高齢化は仕方ないとしても少子化は出生率が下がってる現状を何か策を練り打開しないといけない。
まず、なぜ少子化が進んでるのか
当たり前だが基本は皆就職をする。
(もっと言えば労働時間のズレなどで子作りすら時間が取れない場合があるかもしれないが)
とは言っても、最近では育休はだいぶ取りやすくはなってきてる。
それが給与面だ。
子どもを産んだ後は保育園やオムツ代など出費が多くなるのに育休を取ると給与がもらえないのだ。
最近では貧困層が増えているため、このような子どもを作りにくい、育てにくい社会が形成されてるのだと思う
まず、女性が社会進出したといえば聞こえはいいが実際には共働きしないと生活が苦しいからである。
今の労働環境で女性が社会に出るににはあまりにも欠陥がありすぎる。
待機児童増加で保育園が不足してるのも労働環境が変われば解決するかもしれないのだ。
セキュリティもあり在宅は難しいかもしれないが子供の面倒を見ながら仕事もできれば給与面の問題は解決されるし待機児童問題も解決するだろう。