元来、自分以外に対する批判だとか罵倒だとかが、まるで自分に向いているかのように錯覚してしまう。その様な厄介な性格を抱えた人間がコロナ禍で精神を保てるだろうか。勿論そんなことはありえない。
日常会話でも、マスメディアでも、SNSでも、コロナへの愚痴・政府への批判・外出自粛を行わない人への苦言に出会わない日はない。そしてそれらの言葉の矛先が自分であるかのように感じる。言葉をナイフに喩えるなら、ありとあらゆる方向から絶えず刺され続けるような感覚に陥っている。
周りの人が私を傷つける訳ではなく私が勝手に傷ついているだけだという自覚はある。その結果、「誰も私にナイフを向けていないのに、私はあらゆる人にナイフで刺される」という不思議な現象が起こっている。
無論、コロナウィルスへの恐怖や自粛生活のストレスは感じているし、政策の全てを肯定する気はない。自分以外に対しても不要不急の外出を避けてほしいと願っている。しかし、コロナ等への愚痴に受けるダメージの方が大きいのが正直なところである。
追い打ちをかけるかのような辛さは、「コロナ等が何よりも辛い人」が圧倒的多数だということである。
少なくとも私の周りでは、ほぼ全ての人がコロナ等に対して愚痴を吐く。勝手な憶測だが、そのような人々は私のような「コロナ関連の愚痴を聞くのが辛い」という感情をあまり持ち合わせてはいないのだと感じる。
コロナ・政府・自粛しない人への愚痴は共鳴し合い、肥大化してゆく。マジョリティが結託してゆく。自分へと向かうナイフが益々増えていくのと同時に、果てしない疎外感に襲われる。
先述したように、私に対して攻撃しようとする人がいる訳ではない。故に彼らを責めようとも思えない。しかし、「明確な敵がいて、共に戦う仲間が日本中・世界中にいる」という彼らの状況が羨ましくてたまらない。
最近では、多くの著名人が「みんなでコロナに立ち向かおう」「お家で楽しく過ごそう」などとポジティブな言葉を投げ掛けている。非常に素晴らしいムーブメントだと思う。だが、ここでいう「みんな」は誰を指すのだろうか。
答えは簡単だ。コロナと身体的・精神的に戦う人々。今の日本の状況にストレスを抱える人々。
そこに私はいるのだろうか?
コロナやそれに関わる社会問題以上にそれらへ対する非難に苦しむ私は、「みんなで戦おう」「みんなで笑顔に」の「みんな」に含まれるのだろうか?
残念ながら含まれるとは思えない。
最早、ポジティブな言葉が溢れることさえ、疎外感を強めるきっかけとなってしまった。
だけど、仮に今自殺したとなれば「コロナ鬱の犠牲者」として世間から扱われるのだろう。私の「コロナ鬱」の実情は理解されることのないまま、「コロナへの社会不安により自ら命を絶った人」として終わる。そして寄せられるコメントはきっと、「コロナが許せない」「アベは辞めろ」だ。皮肉にも程がある。
梅雨になったら「コロナ←雨」置換しておなじこと愚痴ってそう 別に周りの人は何より辛いなどとおもっていなくて普通に愚痴っても勝手に「あのヒトも何より辛いっていってる!」っ...
自意識過剰では 特にこれ 仮に今自殺したとなれば「コロナ鬱の犠牲者」として世間から扱われるのだろう。