はてなキーワード: 日本型とは
学校に通ってた時から今までよく分からないんだけど、なんで嫌なことを仕事にするんだろう。好きなことで食っていくと公私が切り分けづらくなってしんどいというのは聞くけれど、仕事はつまらないもの、仕方なくやるもの、更に言えば誰の得にもならないけれども生きるために仕方なくやるものという観念は一体なんなんだろうと思う。
生きるために仕方なく作られた車を選んで買うか? 生きるために仕方なく作られた料理を選んで食うか? 収容所じゃあるまいし。この嫌儲思想の人生への拡張は負の効果しか生んでいないと思う。別に、社員が嫌な思いをすることが仕事を達成する必須要件じゃない。社員の内部がどうなっていようと、仮に会社を心底軽蔑して片手間でやっていようと、元締のアガリが悪くなければ関係ない。居酒屋バイトのように何も意味のないことを楽しいと思い込み続けることで苦しみを軽減するのもどうかと思うけど、何らかの苦しみを個人が得ることを価値判断の基準に置く日本型労働観は薄気味悪いし、悪い文明だと思う。
苦しみから逃れることを動機として作られた成果物はなべて質が低い。投資効果が低い。運転免許試験場の食堂の飯はその辺の安い食堂より高くてまずく、しかしかかっているコストは同じだ。競争がなく楽しみがないことが改善を抑止し、右から左へ価値をただ流せばよいところで、一旦破壊してから渡すように仕向けてしまっているんだ。元増田が苦しんでいるような労働の本質は個人への拷問であるという観念では、労働者の受けている苦痛は同程度だから、過程の正当性があり、したがってここには何の問題もないと判断してしまう。
賃金はビジネスによって作られた価値の分配であり、労働は行動と相互承認によって価値を作り出す行為だ。構造の維持作業ではないし、拷問でもない。そろそろこういう現代の仕事観を広めてもいいんじゃないか?
日本型大企業の多くは、その中に構造的矛盾を抱えていることが多い。
例えば職位ピラミッドがいびつだったり、評価が建前主義だったり、ものすごく非生産的だったり。
そうしたものは、日本的な価値観で非常に大人数を組織するための必要悪かもしれない。
ところで、ソフトウェアの世界では、コーディングより重要な概念として、「構造」がある。
ソフトウェアの構造は直接眼には見えないが、要は「目的を効率よく達成する要素の成り立ち/仕組み」のことだ。
構造を考える作業は設計と呼ばれる。また、特にプロダクトの骨格となる構造はアーキテクチャといい、それを作る人をアーキテクトという。
構造、特にアーキテクチャが良くないと、そのプロダクトの構築に多大な困難が発生する。崩れた基礎の上に家を建てるようなものだ。
だから、ソフトウェア技術者の世界ではコーディングよりも構造を考えることを大切にしているし、必要とされている。
ここでタイトルに立ち返ってまとめると、次のように言える。
つまり、大企業というものは、「その組織的な構造/アーキテクチャ」に問題が多いのである。
そして、ここで仕事をする設計者/アーキテクトは、常に改善見込みのない歪な環境に身を置くことになる。
「構造」の把握・改善を得意とする人間は、歪んだ構造に居続けると精神的苦痛を受ける。優秀であれば優秀であるほど。
2006年前後に激化した日本における鉄道好き文化の聖地・JR東日本での鉄道ファン同士の小競り合い。鉄道ファンの若者が集まる駅で、その鉄道ファンの排斥を呼びかけるヘイト集団が駅に押し寄せた。最盛期には100人規模の参加者がいたという。ギャル・不良系サブカルからの流れもあっただろう。
実際には、何十人ものヘイト集団が「お散歩」と称して鉄道オタクと押し問答を起こしたり、オタクとも何も関係なさそうな女子供におらつく動画や画像を見たことがある。
ここで彼らの最大の課題が見える。それは、仕組みを妄信し、仕組みの上に根拠となる反論のできないデータがあると(「データの不在」というデータも含め)、それに「可視化された存在」をすり合わせることで物事を確証するということだ。これは本当に反知性的な発想である。
鉄道ファンヘイトの場合は、まず日本型の保守主義構造という「仕組み」を過信し、その仕組みの上に鉄道ファンの社会性実績の不在というデータなきデータがあって、主張を裏付ける現実実態としてヘイト運動の大規模化を実現させたわけだ。しかし、彼らには最大の欠陥がある。
それは「サイレントマジョリティを知らないこと」である。世の中の多くの人は、鉄道ファンではないし、かといってヤンキーでもない。ましてや「私はミーハーです!」とデモを組んで主張してがなりたてることもありえないのである。
鉄道オタク叩きに躍起になっていたヘイト連中は、自分たちの閉鎖的なネット空間の「一般論」が事実であることの根拠にヘイト行為の動画を拡散した。しかし、駅の利用者などは、ヘイトにはドン引きだったはずだ。
一方で、地上波テレビに一気にサブカルが進出したのもあの時期だった。いわゆるオタク文化の大衆化がここに始まった。マスコミ関係者もまた「可視至上主義」に陥っていたのだろう。
ちなみに鉄道オタクの人口はある証券会社の調べによれば「オタク全体の3.8%(日本のオタク人口が5200万人)」だというようだ。あまりにも少ない。膨大なサイレントマジョリティの日本国民は、鉄道を好きでもないが敬遠もしないし、それよりはヤンキーのほうが敬遠されるもので、レイシストは裏社会と同じくらい危険で嫌いである。
たぶん炎上するとは思わなかったんじゃないか。ネット原住民空間には健気な鉄道ファンの話題は何一つ存在しないから、偏った反応だけが来ると。しかし現実には、普段可視化されることのないサイレントマジョリティが眠りから目を覚ますこととなったのだ。
「可視状態の過信」によるサブカル階層の失敗は今に限ったことではない。たとえばニコニコ動画などのネット原住民の中心空間には歴史カテゴリーにおいてヤンキーを肯定する動画がゴロゴロ転がっている。これらは当初はサブカルたちが礼賛コメントを書きまくっていたが、相模原やまゆり園事件以降は批判一色に染まった。
サブカルはロリコンだけでなく、ヤンキーをも好む傾向があり、とりわけヤンキーについては肯定派どころか推奨派なのである。普通の人間であればSMフェチのMじゃあるまいし好き好んで威圧たりしたくないわけで、一般世論と乖離している。しかしネット原住民空間自体が一般ではないのか黙認されてきた。
ところが、そのネット原住民空間が「ヤンキー排斥」「反ロリコン」を鮮明にしたのが相模原やまゆり園事件と千葉大生による女子中学生誘拐事件である。あの時期の前後に立て続けに相次いだロリコン・ヤンキーがらみの騒動もあって、反ロリコン・ヤンキー排斥世論が高まり、結果的に「礼賛一色」のコメント欄が一気に批判に染まったのだ。サブカルなんてネット原住民空間でも少数派なのだ。
そして反ロリコン・ヤンキー排斥の騒動さえ何ヶ月も前になった今こうした動画にはさらに上からかぶさるようにサブカルの「肯定論」が再び増えつつある。最近のトランプ炎上において支持者が強気の姿勢を変える気配がないのも、ロリコンやヤンキーと同じでほとぼりが冷めれば自分たちの主張を上塗りすることができるからだろう。
ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。
何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。
私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代~1990年代の鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。
本来文化・社会性とはそういうものではないか。2000年代の新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口のインフレの問題もあった。2010年代も1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。
オタクが今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和の負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定、オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。
冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代の学歴社会化実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である。本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである。
仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである。社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか。
私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方のリア充の話題が出ると、なぜか不良とこじつけた話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会の空気である。
当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキーの本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人の白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いでアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。
マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。
そもそもマイルドヤンキーの言葉の根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部の人間は殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンターに依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域やシンガポールのような都市国家以外にない。
私はこの潔癖の究極が「子供」至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通ならしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。
子供は日本人の美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである。子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。
そもそも日本の私鉄社会の根源は鉄道の公有化の失敗だとか戦争の連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブなものの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である。
欧米圏を見ればわかるように、鉄道は弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本はおかしいのである。
一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供は大人らしい事由で成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。
あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。
特定の環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である。
昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。
その点、例えば私が韓国の学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったからである。
バスの停留所で会話したローカルの若い女性は、なんかお茶目で、自分の生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人でオタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。
これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通のリア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ。
日本に出てくるテレビのタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。
これは、日本人の一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。
しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実な理想を一度捨てることになると思う。代表が大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。
私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実・実在、不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代で経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか。
そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義の理想を振りかざして現実を拒絶したり自由な創造表現のユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本の現実がほんとつらいです。
(韓国などの例外を除く)外国のコンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合な現実・事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。
だがその独創性の第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームにものすごく親しんだ人ほど危ない。
ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神やコリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習をコラボさせると、アニメや漫画か特撮ドラマかビデオゲームまがいな、子供だヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである。
私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流・華流コンテンツを敬遠したのは、アメリカのコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパークや映画などに「不都合な現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽なものを批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ。
私の記憶する限り韓国や中国のテレビドラマやアニメには、日本人がネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代や2000年代(2010年代)に日本型の暴走族が話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人や中国人のオタクを風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)
そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画や小説(ライトノベルを含む)やゲームのいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである。日本の作品で言えば喧嘩番長や龍が如くに出てくる「不都合な現実を誇張した」不健全で卑猥な日本の風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。
そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国や中国にもそういうクリエイティビティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神の解体を加速させることが必要なのだ。
須田慎一郎氏の講演会があって聞いてきたんだけど、いやあすごかったわ。プロはやっぱりすごい。
ツイートはするな言われたけど(もちろん冗談だと思うが)増田ならいいよね?国会にも出てるし。そこでプロはすごいと思った2点を話す。
自分も政治経済にはそれなりに興味をもって接しているから、いろいろな経済の動向を知っているつもりでキーワードは抑えていたんだけど、ぼんやり認識していた部分をここまで分かりやすく端的に表すのは流石プロだわ。年間100本こなすらしいから、当然といえば当然だが。
納得したところ
と言うことであった。
正直、アベノミクスが第二弾になって、そういえば失敗失敗と言われている「トリクルダウン」が確かになくなった。その後、経済対策はばらまき系になった、と認識していたのだが、須田氏の見立てでは、新しいアベノミクスの本質は、一般に、と言うか、少なくとも自分がは福祉政策だと考えていた一億総活躍社会の方にあると言う。
一人当たりの給与は伸びない。トリクルダウンが起きないのなら、そういった「質」の向上よりも「量」として、世帯収入を伸ばそうとしていると言う。
なるほどな、と思った。これは安倍首相が再三唱えてきた「イエ」を重視する姿勢にも沿っているし、なるほど分かりやすく腑に落ちる分析に思う。
今までぼんやりと考えていたことが、ひとまとめに繋がって腑に落ちた感じで、流石政経の専門家だと思った。
これが政策として良いかというと色々と議論は有り、突っ込みどころとしては
などがあるが、これはこの日記の本質じゃないのでとりあえず置いておきます。
ヤクザの専門家じゃないんですね(途中でご本人もネタにしてたので)
年間100件以上の後援会をこなすという須田氏なのだが、一番最初に掴みからはいって、枕の「やわらかい」話から始まる。
そこで、楽屋裏のような話や、親友と言う他のジャーナリストの方、さらにはこの金がなさそうな講演会のギャラまでネタにして、上手いこと話を混ぜていく。さらに受講者の年齢層や、反応などを見ながら話を組み立てて言っているらしい。
落語のつかみみたいな。
一応原稿っぽい話が入ったクリアファイルを持っているのだが、それを広げた形跡がない。パワーポイントなども使わない。ただ、前に立って喋るだけ。これは講談師や落語家に通じるモノがある。トリクルダウンの説明をするときにちょっとだけ水を飲んで見せた以外、途中で水分の補給もせず、90分喋りっぱなし。
眠くなって眠っちゃうひとがでる、と言う講演会あるあるや、会場の人たちをちょっとずついじる姿なども、漫談家というか私はちょっと綾小路きみまろ氏みたいなプロ司会を思い浮かべた。
もちろん、内容は先ほど書き出してみて気づいたのだが、結構堅い話なのだ。きちんとガチの経済の話。それを引き込ませて、満足度の高い内容をやるというのは流石プロという感じである。
また立ち振る舞いもなれたもの。100件もやってりゃそりゃもう、と言えばその通りなのだが、実った稲穂ほど頭を垂れるとはよくいったっもので、きちんと周りに配慮をしており、いすを引いてくれた係の一にちょっと挨拶をしたり、公演の最後には深々と頭を下げて回る様子なども、印象に残る。
そして講演が終わったら、のこって妙なことにならないようにさっと退くなども見事だった。
また、正直それほど大きな影響力のある寄り合いでは無かったし、おそらくギャラなどはネタになるぐらい安い(と言うか、半公的機関みたいな団体なのでめっちゃ安いはず。はてなで話題になったら総叩きになるぐらい安いはず)のに、きちんと最後の交流会まで出席していくのである。
いやあ、そもそも顔が怖いひとだから、ひとよりきちんと丁寧に礼節を尽くしてこないと誤解される感じだったのかなとか余計な事まで思った。俺もそう言う感じなので見習いたいと思う。
プロってしゅごい。
実は予習で須田氏の本を買って読んだのだが、おそらく客層で変えてきたのでずいぶん印象が違い、「需要に応える講演」って自称されていたけど流石だと思った。
惜しむべくは、自分はすでに電子書籍派であったため、買った本は裁断して自炊してリサイクルしてしまっており、サインをもらい損ねたことだ。つうか交流会出るとか思わなかった。こういうひとさっさと帰るイメージがあったのに。こんなことなら2冊買ってサインもらえばよかった。
知名度の問題なのか。
も買ってました。
舛添氏は,平成23年10月に福岡県内の書店で,コミック「クレヨンしんちやん北与野
博士編」 , コミック「イナズマイレブンSPECIAL<1> 」 , クイズ本「ひっかけク
イズ最強イジワル王への挑戦」 , クイズ本「大人にはないしょだよ超スペシャル版ひっ
かけクイズ」 ,児童書「幽霊屋敷レストラン」を購入し,それらの代金は,新党改革支部
から書籍代金として支払われた。なお,その際, 「ヤマの記憶-山本作兵衛聞き書き」 , 「筑豊炭田に生きた人々望郷の想い近代編」 , 「緒方竹虎リベラルを貫く」 , 「筑
舛添氏は, 「クレヨンしんちゃん北与野博士編」などコミックや「ひっかけクイズ最
強イジワル王への挑戦」などクイズ本について, 「児童の保護者から,子供が悪い言葉遣
いをまねたり,テレビのクイズ番組などを見て勉強しないので困るので,政治の力でなん
とかなりませんかとの陳情を受けたことから,実際にコミック等でどのような表現がなさ
れているのか,また, クイズ番組が教育に役立たないものなのかを確認するために,購入
した。 」と説明している。
http://big.assets.huffingtonpost.com/20160606masuzoe.pdf
とのこと。
「児童の保護者から,子供が悪い言葉遣いをまねたり,テレビのクイズ番組などを見て勉強しないので困るので,政治の力でなんとかなりませんかとの陳情を受けたことから,実際にコミック等でどのような表現がなされているのか,また, クイズ番組が教育に役立たないものなのかを確認するために,購入した。 」
よくわからない。
保護者が、クイズ本やクレヨンしんちゃん(2002年のもの)の言葉づかいが悪いから「政治でなんとかしてくれないか」と要望されたから買った?ってことかな。
舛添が言葉づかいが悪いというのは考えにくい。クイズ番組に舛添がでている可能性もある。
クイズ番組が教育に役立つかなんて「クイズ番組次第」である。くだらない豆知識ばっかりのクイズ番組もあるし。
最近そこそこのクオリティで”ぶりぶり”ざえもんが復活したし、ケツだけ星人、親に向かって「みさえ」と呼び捨て、女たらし、
それでも(一時的には放送ストップしてたが)放送され続けている。映画もいい作品多い。
下品なことがダメであること、それを教えてそれでも子供が下品なことを言うおかしさを教えたり、家族愛などクレヨンしんちゃんの根幹を伝えることはできないのか。
上手く回ってさえいれば何主義でもいい。
では何が違うか?
本来同じ国民なのだから、同じだけ得して同じだけ損していれば何の問題もない。
コスパがいいだの悪いだの言う場合、同じ共同体ならそんな価値観自体がおかしい。
つまり、共同体というのが変わったのか変えられたのか知らないが曖昧にされている。
今更遅いのだが、経済のあり方が国家のあり方国防のあり方にまで大きく影響する。
オリンピックも円安誘導もインフレターゲットもアメリカやフランスの軍事行動も日本の海外派兵も全部つながっている。
つながりを切りたいなら鎖国するのがいい。
不便で高いものを買わされるが共同体がはっきりしていて分かりやすい、安定させやすい。
共同体を曖昧にしてグローバリズムといって得する人たちは止まると死んでしまう、不安定なほうがとにかく動くからいいと思っている。
まあ今の日本が本気で止まるとは誰も本気で思っていないだろう、時すでにおすし。
今のうちに言っておいてあげると、誰も日本を本気で止めようとはしていなかった。
35時間しか働かせてはいけないってことは35時間で元を取れない仕事は発生してはならないって話だからねえ。
それだけの時間で給料に見合った価値を生み出せない人はその場では不要だし、もっと安い仕事するなり無職になれってことにしかなんないよね。
日本では労働生産性の低い無能でもとりあえず正社員に滑り込めればそう簡単にはクビを切れない。
多少有能だったとしても、不況になれば仕事自体がなくなるからどうしようもない。
そういう時に欧米型の職務型正社員なら「仕事がないのでクビを切る」は正当な理由なのでバンバンクビ切れる。クビ切られた労働者は他の仕事を探す。
日本型正社員は職務に対して雇用しているわけじゃないから、仕事がないというだけでは正当な理由にはならない。クビ切れないからいつまでも残る。
とりあえず大きな会社は体力があるから当面なんとかなるし、下請けをいじめたりしてそう簡単にはクビは切られない。
しわ寄せは下の方にきて、中小や派遣が長時間労働に安月給ででがんばる構造になる。
日本の労働構造を変えたいなら、派遣を正社員にしようとか最低時給がどうだの労働時間の規制をどうだのということももちろん必要だけど、
それと同時に現行の正社員、労働組合の仕組みを支える労働法制を変えて、労働市場をもっと流動化しないといかんわけだけど、そっちはみんな大反対。
片方だけ変えて上手くいくはずなんてないのに、見ないフリしてのかなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20140817161450
真似して書いてみた。
オンオフ問わず、おいしい場所にめざとく顔を出して存在感を示す一方、
目の付け所を少し捻っただけで内容ゼロなこけおどしコメントしか出さない。
斜に構えたコメントを出して、その文化人にマウントしようとする。
実際に何者なのかを説明できる人が誰もいないという謎めいた人物。
テキブルー 転調(id:mk2mk2mk2mk2mk2mk2mk2mk2mk2mk2)
ありきたりな自意識や価値観、精度の低い論考しか書けない上に、
些細な誤解すら恐れて思考の過程を細大漏らさず説明してしまうので、
長く締まりのない文章を、それでも我慢して最後まで読んだ結果、
要点がどこにも無いことに気付かされる悪質な文芸。
テキフレンチ コオロギ(id:Lee1Q84)
テキブラウン 夕タヌキ(id:forafareta13)
つい先ほど、増田で晒されているのを見て知ったデブ差別ブロガー。
オフ喜利、ひだけーだい、大人たばこ養成講座あたりに似た匂いがする。
急ながら、要監視対象として追加しておく。
ゲンレッド 齊藤貴義(id:netcraft)
はてな民らしからぬ主体性と行動力がもたらした多様な人生経験談は、
ゲンイエロー ガラニート(id:galaneet)
ワンテーマでブログをやると面白くなる事実の手本を示している。
ゲンピンク ℃-uteが見せてくれた奇蹟(id:idealogos)
仕事や広告の内容から、アイドルの売り出し戦略について考察したり。
どれも独自の視点で語られていて、読みごたえがある。
変に見栄を張らず、正直に語る点では女性に軍配が上がるのではないか。
ゲングリーン こぺんた
はてなの良い生物ブロガーを知らないので、外部の人を紹介する。
同じ趣味を持つ人なら、この人のすごさがわかるだろう。
フィールドワークをしている生物ブロガーのテキストは、短く素っ気ないもののほうが面白い。
画像に収められた野生の美こそが価値の中心だから、下手な文芸はいらないし、
ある場所である生物を撮影したという事実が、すでに何十何百の言葉を語っている。
語らないことで語る。間接的、暗示的に語る。
http://luvlife.hatenablog.com/
何の変哲もない身辺雑記ブログは、書き手も読み手も隠れ家の気分に
浸れることが唯一の魅力であり、人気が出ることはブログの死に等しい。
この人はそれがわかっている。
「ネット右翼/ネトウヨ」なる言葉が語られるようになってからかなりの時間が経ちますが、その間にネトウヨに対する揶揄の言葉というものがいくつか生まれ定型化してきました。
この記事で書かれている「そんなに韓国韓国って、本当は韓国が好きなんじゃないの?」「偶然日本人に生まれて、日本人という以外誇れることが何もないんだろ」というのはその代表的なものだと言えるでしょう。
はっきり言ってこういうのはあまり褒められたものではないです。「あなたの言っていることは間違っている」と発言それ自体について反論するなら批判として成立しますが、そうでなく発言の裏にあるものを勝手に決めつけてそれについてあーだこーだ言うというのは単なる揶揄にすぎない。「サヨクは反権力気取ってる自分が好きなだけ」とかそういうのと同じです。
そしてこの手のネトウヨへの揶揄が孕む問題というのは他にもありまして、というかこちらが本題なんですが、こういう揶揄って「ネトウヨ=底辺の負け組」という認識が前提になってるんですよね。まさにさきほど引用した「日本人という以外誇れることが何もないんだろ」なんていうのはその典型。
まあこれも無理ないことで、これまでネトウヨについての分析として「負け組の社会への不満が近隣諸国に向かっている」「持たざる者が日本人であるということにプライドを見出している」というような語りがされることが非常に多かったわけです。
これについてはいくつか理由があると思いますがとりあえずここではおいておきます。
問題は実際のところどうなのか、です。本当にネトウヨは負け組ばかりなのか。これについては批判的に見る必要があるのでは、と思います。
『日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学― 』(樋口直人)について
実はここで紹介されてる本は読んでないんですが、興味深かったので少し引用します。
“まず最初の筆者の主張は、「欲求不満を抱え、下方へ転落し、社会の縁辺にある者が担い手になる」というのが誤りであり、さらにそれを社会病理の範疇で捉えるのは間違いであるということ。在特会の構成員も、桜井誠のように高卒で非正規雇用というような人はむしろ少ない。経済的には、どちらかという「中産階級」が多いとのこと。日本の在特会の調査でも、社会階層の共通点ではなくむしろそもそもあった保守的なイデオロギーの共通点が特長的。安田浩一が『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』 で描く「しんどそうな人々」(経済的・精神的においつめられた人)というイメージも無理があるのではないかというところから始まる。”
ネット上でネトウヨ丸出しの発言をしている有名人が何人かいます。「ネトウヨレベル」なんて言われたりしてますが身分を隠して匿名で書きこんだらネトウヨとしか思われないんで「ネトウヨレベル」ではなく「ネトウヨそのもの」です。ではその人は社会の底辺なのかというと、東大を出て大蔵省に入って議員になった人だったり航空自衛隊のトップに上りつめた人だったり、底辺どころかエリートなわけです。つまり、ネトウヨになる理由を不満や生きづらさに求めるのはちょっと無理がある。個人的な実感でも「ネトウヨ=底辺」という印象はなく、これまで実際に出会ったネトウヨ的な言動をする人の中にいかにも生きづらそうな底辺の人というのはまるでいません。
おそらく、ネトウヨ底辺説については誤りであると言ってしまって構わないのではないかと思います。ネトウヨ若者説についても同様で、世代はそこまで重要なファクターではない。
そして更に踏み込んで、社会情勢とネトウヨの台頭を結びつける言説自体がそもそも間違っているのではないか、ということをここでは主張したいと思います。ネトウヨが増えているという社会の変化を他の社会の変化の反映であるとする発想そのものが間違いである、ということです。心の闇というのも関係がない。
アポロの月面着陸はでっち上げであるという説があります。子どもの頃、僕はこの説をテレビで知って、そして信じてました。
でっち上げ論者はいくつもの疑問をアポロの月面着陸につきつけます。そのうちのいくつかを紹介しましょう。
・月面には空気がないはずなのに旗がはためいているのは何故だ?
・写真の中で影の方向や長さがバラバラなのは何故だ? 光源が複数あるのでは?
・宇宙飛行士は月面で宇宙服を着たままカメラを操作したようだがそんなことは可能なのか?
・月に行くまでには大量の放射線を浴びるはずだがそれを防護する技術が当時あったのか?
・アポロ計画以後アメリカが地球軌道の外に人類を飛ばしていないのは何故だ?
これはほんの一部で月面着陸への疑問点は他にもたくさんあります。ここでは文字だけなのでちょっとピンとこないかもしれませんが、これがテレビで画像や映像を参照しながら語られるとかなりの説得力を感じてしまうわけです。そして「月面着陸は冷戦の中アメリカがソ連に対抗するためにでっち上げたものであり月面着陸映像はスタジオで撮影されていた!」という結論に「なるほど!」と納得してしまう。一応筋が通ってますから。
念のため断っておくとこの月面着陸捏造説はトンデモの類です。少し調べるだけで上記の疑問への答えは出てきますし、大真面目に唱えたら馬鹿扱いされるんで気を付けてください。
さて、この月面着陸捏造説ですが、これを信じる人を分析して心の闇だとか社会への不満だとかそういったものが出てくるでしょうか。普通はノーでしょう。これを信じてしまう人は単に騙されただけで、その人が騙されやすいか騙されにくいかというのは関係があるにしても社会がどうのこうのというのは関係がない。騙されやすい人はあらゆる世代、階層にいますから世代や階層もあまり関係がない。ネトウヨもこれと同じなのではないかと思うんです。
つまり、右派プロパガンダ・修正主義デマに騙されたらネトウヨになるという単純な話なのではないか、ということです。
もちろん、月面着陸捏造説との違いはあります。月面着陸捏造説の先に反米感情は用意されていませんが、修正主義デマの先には嫌韓・反中感情が用意されています。これはひとつのパッケージとしてある。実は嫌韓・反中感情があるからネトウヨになるのではなく、ネトウヨになる過程でそういった感情が「注入」されるというのが実際なのではないか、というのもここでの仮説です。
この感情との結びつきの有無の違いは月面着陸捏造説は広がりを見せないのにネトウヨ言説は広がりを見せるという違いを支えているものだと考えています。
まあなんにしろ、「南京で30万人虐殺されたというが当時の南京の人口はそんなにいなかった! だから南京虐殺は捏造だ!」とか言い出すネトウヨのことを僕は「大気がない月面で星条旗がはためいている! だからこれは地球のスタジオで撮影されたものでアポロは月に行っていない!」とか言い出す人と同じ人種として見てますし、「韓国ってこんなにひどいんですよ! ちゃんと勉強してください!」とか言って国民の知らない反日の実態とかアフィブログとかのURL貼る人については「アポロの月面着陸は捏造なんですよ! あなたは騙されてるんです!」とか言って怪しげな個人サイトのURL貼るようなアレなことしてんなあというそういう目で見てますはい。
AKBの峯岸みなみが、恋愛禁止条例を破ったせいで丸坊主になりました。(参照])
しかし、20歳の女の子が奴隷みたいに自分の髪を切り落とす事態をみても、一部のファンは「よくやった(by小林よしのり)」「非処女!ビッチ!」「ざまぁ」「自業自得」「ルールを破ったんだから、このくらい当然」と言っている人すらいます。
若い女の子が髪を切り落とさざるを得ない性質の悪い体罰じみた状況は、明らかに異常ですよね。なぜ彼女はそこまで追い詰められてしまったのか?長年のアイドルファン視点で解説します。彼女が髪を切り落とすのは『日本型のイジメ体質』のせいなどではありません。そうしなければ、ファンが彼女を許さないからです。
日本のアイドルファンの中に「処女性を前提とした疑似恋愛の対象としてのアイドル」を求める気持ちがあります。日本のアイドルは、擬似恋愛の対象として成立してきました。だから、『恋愛禁止』はアイドルをする上で守らなければならないお約束だったのですね。実際、「恋愛しません」と宣言しているのに、「イケメンちんぽ!しゅきいい」と約束を破っているのですから、激烈に怒るファンがいるのは当然です。だから、峯岸みなみは禊として髪を剃らざるを得なかったのです。それくらいアイドルファンの中にある処女性信仰は根強い。
しかし、もう処女性を前提とした疑似恋愛の対象としてのアイドルは成立しなくなってしまっているのではないでしょうか?時代が変化し、「恋愛しません」というフィクションには限界がきている。AKB48は、既に賞味期限の切れている疑似恋愛というフィクションを守ろうとするあまり、秋元康以外の全員が不幸になっています。
かつてのアイドルは「恋愛禁止」のお約束が成立していました。アイドルは処女性を持ったみんなの恋人だったのです。
でも、実情はどうだったか?
当時のアイドルたちが大人になってから書いたエッセイ・回顧録・暴露本を読むと、「堕胎して死んだ赤ん坊を持ち歩いていた」「忙しいスケジュールの間をぬって、逢瀬を重ねていた」「同期の男性アイドルと関係があった」と書かれています。
つまり、恋愛禁止は昔も守られていなかったのです。考えてみれば当たり前のことです。アイドルになるような積極的な女の子に恋愛を禁止するなんて、どだいできるわけがないからです。そもそも、秋元康自体が恋愛禁止を掲げながら、高井麻巳子を喰ってるしな!
ただ、昔はその嘘がつき通せた。裏切りが露見しなかった。
携帯カメラを持っている一般人なんていない。秘密を知っている友人がいてもTwitterに書き込めなかった。芸能人そのものの人数が少なかったから、事務所がコントロールできた。処女性を前提としたアイドルは、過去だから成立し得た一過性の徒花だったのです。
ところが、現代では、「恋愛禁止」の嘘を突き通すのは並大抵のことではありません。
一億人が高解像度のカメラを持ち歩き、死角はどこにもない。男性遍歴を知るかつての友人がTwitterでリークし、一瞬で拡散されてしまう。アイドルになってから恋愛禁止を守ろうとしても、過去のプリクラ・ハメ撮り・書き込みをすべて消去することはできない。アイドルになる前に、アイドルとして殺されてしまう。
つまり、いくら嘘をつき通そうとしも「処女性を前提とした疑似恋愛の対象としてのアイドル」というフィクションは成り立たなくなってしまっているのです。
このように、「みんなの恋人」アイドルは成立しなくなってしまっています。賞味期限が切れて腐臭を放つフィクションをかたくなに守らせようとすると、どうなるか?
小林よしのりのように(参照)恋愛禁止を求め、アイドルに処女性を強要するファンは、ファンでありながら、好きな女の子の不幸を望むことになります。
まず、年頃の女の子にとって「好きな人と恋に落ちる」のは普遍的な感情です。おそらく止めようとしても止められるものではありません。昔も今も守られてきていないのですから。アイドルだって人間だから好きな人とご飯が食べたい、一緒に歩きたい、その先も進みたいでしょう。
疑似恋愛を求め、処女性を強要し、思春期の女の子に恋愛禁止を望むのは、要するに「人間たるな。アイドルを演じる奴隷たれ」といっているのと同じです。それは「疑似恋愛に酔いたい」という自分の欲望のために、彼女たちに、日本国憲法ではありえない自己犠牲を強要しているのです。
好きな女の子が夢を諦めたり、髪を切り落とさざるを得なくなる「条例」に何も感じないのは、ファンとはいえません。その約束はもう守れない時代になっているのです。
さらに、疑似恋愛型ファンは、ファン自身も絶対に幸せになれません。
まず、どんなに入れ込んでも、握手に通いつめても付き合えません。自分でも付き合えるなんて思ってないでしょ?(指原みたいな例外はあるが)アイドルはむしろ恋愛に積極的な部類の人間です。約束を守っているように見えているだけで、たいていは約束をやぶっている。だから、嘘に気がついた時に疑似恋愛を求めるファンは傷つくだけです。魔法は必ず解けます。なら、最初から恋愛の対象として考えない方が、幸せなのではないでしょうか?
「恋愛しない可愛い女の子」というフィクションには必ず終わりがきて、ショックをうけるだけです。
「疑似恋愛型アイドルには限界がきているから、やめるべき」というと、「歌も上手くないし、ダンスも微妙。顔もそこそこの子が売れるには、処女性幻想、疑似恋愛幻想って付加価値がないとダメなんじゃないの?」との反論があるかもしれません。
しかし、現に疑似恋愛を抜きにしてもアイドルは成立します。なぜなら、アイドルのファンは疑似恋愛を求めるファンだけではないからです。「頑張っている子を応援したい」気持ちでアイドルを好きになるファンはいくらでもいて、彼らの需要は非常に大きいのです。
たとえば、Perfume。ルックスはそれほどではないけれど、パフォーマンスの上手さ、楽曲の魅力、物語の魅力でファンを獲得しています。
たとえば、ももいろクローバーZ。ルックスもダンスもそれほどではなくても、「全力でカバーしている。(僕は今一番好きなアイドルです)
彼女たちの人気は、疑似恋愛を抜きにした「応援したい」需要で成立しています。
実際、Perfumeの子たちにスキャンダルがあったときは、一部をのぞいてそれほど騒がれませんでした。人気も全く落ちていない。仮に、ももいろクローバーにスキャンダルが起きても「お…おう…」と若干の生臭さにひく人はいても、AKBのように激烈な反応は起きないはずです。
最近では勢いがあるのは「応援したい」型のアイドルです。なぜなら、老若男女の需要を取り込めるから。実際、私の家族は全員ももいろクローバーZのファンです。
だから、AKBも恋愛禁止っていうもう時代遅れのフィクションに拘泥するのはやめて、「頑張っている姿を応援したい」需要に特化していくべきです。
AKBには、百田夏菜子をはるかにしのぐ運動能力を持つ子がいる。世界大会に出場するくらいのダンスの実力を持った子もいる。アーティストより歌が上手い子もいた。多様な個性を持つ彼女たちが、死ぬ気で夢に向かって頑張っている姿は、ファンを取り込む普遍的な力があります。彼女たちの魅力をそのまま伝えていくべき。
疑似恋愛をやめても、「そこそこ可愛い子が死ぬ気で頑張っている」だけでアイドルは成立するのです。それこそ、SKE48はかなりももいろクローバーZに近いタイプの人気がある。
「処女アイドル」という時代遅れの腐臭を放つフィクションに拘泥しても、関わっている全員が不幸になるだけ。彼女たちが『人間として』アイドルを続けられるように応援するのが真のファンではないでしょうか。
まず、アイドル。恋愛をしてもいいけど本気で隠して欲しい。隠して欲しいのは、生臭いから。できるだけ隠すように努力するべきです。芸能人専用の絶対にバレないラブホテルとか、芸能事務所合同でつくってほしい。トイレで暗証番号を押すと、扉が開いて、ホテルに入れるみたいな。
それでも、昔の友人の嫉妬でリークされたり、コンビニ強盗のような格好に変装をしているのにフライデーされることはあるでしょう。その時、ファンは「まぁ、しょうがないよね、女の子だし」と寛容になるべきです。「そのかわり、もっと頑張ってよね」でいいじゃないですか。処女性を押し付けるのはやめて、夢に向かって頑張っている女の子の物語を楽しみましょうよ。
ファンが寛容になり、「恋愛をしてもいいよね」という風潮が生まれれば、秋元康だって恋愛禁止条例を取り下げるかもしれない。廃止しないまでも、ペナルティも軽くなるでしょう。カビの生えた「恋愛禁止条例」に拘泥して騒いでも、得をするのはスポーツ新聞と秋元康だけ。ファンとアイドルは傷つくだけ。
恋愛禁止条例なんて守る必要はない、支持する意味もない。なぜか。
そもそも、秋元康自体が恋愛禁止を掲げながら、高井麻巳子を喰ってるからだよ!教祖だけが破っていい掟の正当性なんてあるわけないだろ!