はてなキーワード: 悲恋とは
けいおんをストーリー不要の例に持ってくる辺りで、ただのコピペ野郎か本も録に読んだことの無いアホなんだろうが・・・・・・
それはともかく、この手の話が出てくる時って、宇野常寛とかの批評を浅い理解と表面だけの劣化コピーでもにょる。
宇野の場合とかだと明らかにアニメの向こう側に、現実の戦後日本社会を見ていて、
だからこそ、ストーリーには必然的に『事件』やそこから人々の『葛藤』『行動』や『責任』と言った要素が重要になってくる。
これらは、日本社会が 敗戦から軍事力を取り上げられた事で、国際社会の中での果すべき責任論とか取るべき立場を語るためだし
もっと身近な個人の政治との向き合い方に上手く対応出来なくなったと言う(宇野やある種の思想の人々が考える)言説のために不可分だし、
宇野なんかは特に、「新聞やニュースが言う"政治"がワイドショーみたいな事に終始する昨今、アニメの方がよっぽど『政治』を語っている」
そう言う立場からだと日常系みたいな時間も進まない系アニメは、現状保留みたいな意見で批判の対象ってのは道理は分かる。
ただ、そもそも けいおん は日常系では珍しい ちゃんと時間の進むアニメだし、
全体を通したストーリーも、此処の話としてのストーリーも、登場人物個人個人のストーリーもあるアニメだ。
それは勿論、冒険活劇みたいな物でも、 サスペンスでも ミステリーでも 成功譚でも 悲恋でも 大恋愛でもないが。
そして、けいおんのキャラはアニメや漫画のキャラとしては没個性だぞ。
みんな、普通のどこにでも居そうな高校生。悲惨な過去も無ければ、宿命付けられたライバルも居ない。
それどころか、絶対権力の生徒会も無いし、プロすら感動させる才能があるわけでもない。
次いで言えば、キャラの見た目も見せ方(絶対にパンチラさせないとか含め)もこの元増田が言う様な要素からはほど遠いし、
今でこそ違和感とか無いかもだが、当時はかなりアニメ感の薄い描き方。
元凶のその複数付き合って平気な男性が、殺されるという発想も凄いですが、
命を絶つなら、むしろ、騙された女性のほうではないでしょうか。
自分を彼女だと思い込まされて無中になっていた、本命さんにしたら、
相手を信じられなくなるでしょう。
トロフィー詐欺彼氏だと分かったら、人に寄ったら、女性は本気だったら自殺しちゃうかも。
遊び慣れている、こなれた女性なら、別かもしれませんが。
複数の人と付き合うなんて普通は考えられないじゃないですか。常識では。
人の心をもてあそぶ人は、レベルの合う人と、付き合うべきではって思います。
「君だけを愛してる💓」て言われて本気にしていたとしたら。
他にも彼女がいるって知ったら❓
傍から見たら原因不明の自殺でも、本当は恋のもつれだったりしないのだろうかって。
それは悲恋のようで、
その惨さを、わっと思い出したんです。
私が好きだったバンドのVoが、以前MCで彼女(自殺したアイドル)の名前を言ってから、
キツイ、きついなと。
とうぶんそのVoのことが怖いというか、嫌でした。
そのバンドは、飛び降り自殺する少女の出てくるような歌がロマンティックに頻繁にあったので、
さらに怖かったです。
以前36話までの段階で、クッソ長文の直虎考察を書いた増田です。
さてこの前の38話で直虎の恋愛話は終わり(多分)
37、38話は思ったよりハードな展開ではなかった。というか直虎がちゃんと仕事してたのでハードにならなかったと言うべきか。信玄の死因は笑ったw
龍雲丸も死亡退場じゃなくて良かったけど、ある意味死亡退場より重かった…
そしてまた長文を書いてしまい、発表する場所がないので(ブログとかやってないんで)増田に投下する。
誰かに読んでいただけたら嬉しい。
最近のハードな展開で忘れ去られ気味だけど、少なくとも城主になってから気賀ゲットまでの13話~27話は、
(時々「今川に命狙われるけど武力で敵うわけないので知略で何とかする」と言う戦国大河らしい展開も挟んでいたものの)
「親や親戚の急死で実家の零細企業を知識も経験もゼロで継ぐ羽目になった女社長、
いざ会社の内情を見てみたら超人材不足だわ借金まみれだわ社員(家臣)には女の癖にと反発されるわ
親会社(今川)はいちいち邪魔してくるわ、さあどうする!?」的な。
結局は、それを色々努力して解決したのに戦で全部ぶち壊し、と言う戦国大河らしい展開になった(史実です)訳だけど。
んでまあ、女のお仕事ドラマと言ったらよくある要素が「恋と仕事の両立」。
(「恋」は結婚とか出産とか家庭とかと置き換えてもいいし、「仕事」は夢とかやりたい事とかと置き換えてもいい)
現代物の作品なら最近は「最初から都合よく両立出来るor困難があっても何だかんだで最後は両方手に入れてハッピーエンド」が大多数、
あと「恋は叶わなかった(或いは最初から興味なしだ)けど仕事では実績出したよ!」があるくらいだけれど、
時は戦国、史実で主人公は一生独身かつ城主としての実績も大した事ないと決まっているこのドラマでそんな都合の良い終わり方は無理だろう。
でも番宣では恋愛はやるらしい、んじゃその辺はどう片付けるのか、と思ってたわけですよ。
んでどうだったか。
まず、直虎と深く関わる第一の男・直親について。
幼馴染の許婚であり、幼くして親の今川への謀反のかどで井伊谷から逃げざるを得なかった悲劇の美少年であり、
大人になって戻って来たら皆の期待を集める唯一の井伊の男の跡継ぎであり、キラッキラの爽やかイケメンであり、
主人公とは家の事情で結ばれず他の女と結婚したものの、内心では永遠に主人公を愛し続ける悲恋要員であり…
「よくよく考えるとこいつ性格悪くね?」と視聴者に思わせる言動
(隠し里の責任をさらっと政次に押し付けたり、子供がなかなか出来ずノイローゼで不妊様状態な妻・しのを
気遣う事もなくまるで他人事だったり)を取って
ネットでサイコパスイケメンとか爽やかクズとか散々に言われつつ(でも直虎は気付かない)
最後は史実通り、今川に殺されるという悲劇のヒーローとしての結末を迎え、
直虎に「直親の遺志を継いで自分が女だてらに井伊家を継ぐ!」と言う思い切った行動を取らせる理由となった。
…はずだったが、後に逃亡先で現地の女との間に作っていた隠し子の存在と
直虎に言っていたクソ甘い口説き台詞の数々と同じ事をしのにも言っていた事実が発覚し、
直虎にとっての彼の評価は「死しても永遠の恋人たるキラキラ王子様」→「ただのスケコマシ」と大暴落を遂げる。
その直親は、直虎に「今川の命で出家させられ還俗出来ない=結婚出来ないなら、
一旦死んだ事にして今川誤魔化して、こっそり俺と結婚して子供産んでくれ」と言う。
これはつまり、直虎はそれまでの人生とか社会的地位とか将来とか全部失うけどどーでもいいよ、
ただ俺の妻になって子供さえ産んでくれれば、と言う発想だ。
他人の人生をそこまで蔑ろにして平気なのも、彼が視聴者の多くにサイコパスと言われた理由の一つでもある。
直虎は散々迷った挙句にそれを断る(そして直親は家の存続の為に宛がわれたしのと結婚する)が、
もし断っていなかったら、直虎は「直親の妻」と言う立場以外全てを失った状態で
彼のスケコマシな本性を知る事になっていたわけだ。
現代的に言えば、「僕と結婚して専業主婦になってよ!」と言う男と恋愛脳に浮かれて結婚したら
そいつは妻の人生や色々な苦悩など何も考えないサイコパスな上に浮気性だった、ってな感じの話だ。
次は第二の男・政次。
彼に関しては、以前(https://anond.hatelabo.jp/20170911183646)やたら長文を書いたのでここでは短く済ませるが、
直親と同じく直虎の幼馴染であり、幼い頃は直親しか見てない直虎に横恋慕する三角関係要員であり、
(直親の死後も龍雲丸がそのポジションに入る為、相変わらず三角関係要員である)
大人になってからは「直虎や井伊家と対立する裏切り者の今川派の家老」を演じつつ、
実際は直虎や井伊家を守る為に行動する事になる(直虎には途中でバレるが、その後も表面的には対立関係を演じつづける)
直虎にとっては幼馴染であり、政次の行動の真意を理解してからは
(城主としての)仕事上は誰よりも信頼している大切なパートナーとなって行ったが恋愛感情はない。
政次の方は直虎に恋愛感情を持っていたが、最終的には「殿をしている殿(直虎)が好き」だからと
直虎に自分の妻になる事より「殿」であることを望み、自分はそんな直虎を仕事上で支えつつ
他の、今まで自分のプライベートを支えてくれていた女・なつと結婚する道を選ぶ。
現代的に言えば、キャリアウーマンを好きになったが、相手は自分の事を恋愛対象として見そうにないし、
自分もあくまで相手の仕事をしている姿が好きなのであって、相手が仕事を辞めて自分と結婚して平凡な主婦になる事は望まない、
だから結婚は他の「家庭的な」女とするが、キャリアウーマンな相手とは一緒に仕事を続けていきたいという仕事仲間の男、ってな所か。
そしてその直後に敵の罠にかかって反逆者として処刑される。
そして第三の男・龍雲丸。
武家の子だが幼い時に戦で親や周囲の人間全てを失い、盗賊に拾われて盗賊業で食って来た、
今は似たような境遇の流れ者や孤児を集めた盗賊団の頭、というオリキャラ。
直虎は最初こそ彼に直親を重ね合わせていたが、やがてそれとは別に、家に縛られた自分にはない彼の自由さに惹かれていく。
また龍雲丸の方も、直虎が他の武家とは違って底辺アウトローである自分や仲間たちをちゃんと人として扱い信頼しようとする姿に共鳴し、
直虎から持ち掛けられた木材泥棒スキルを生かした木材伐採の仕事を請け負う事で
直虎にとっては超人材不足の解消、龍雲丸にとってはカタギの仕事で稼げるというwinwinな関係を築く。
そしてそれをきっかけに龍雲丸は流れの盗賊業から足を洗い、仲間とともに井伊谷の近くの商人の街・気賀に定住して
よろず請け負い、という言わば人材派遣会社社長として生きるようになる。
だが、この辺りを支配していた今川が弱体化して徳川(や武田)との戦乱の世となって行く中で、
気賀は徳川軍による民衆多数を巻き添えにした大量虐殺(史実上の「堀川城のなで斬り」)の舞台となり、
龍雲丸も自分以外全ての仲間を失う事となる。
ここで瀕死の状態で直虎に助けられた龍雲丸は、同じようにやはり徳川と今川の戦いに巻き込まれて
城も領土も勿論城主としての地位も、更に政次も失って意気消沈して井伊家の再興を諦めた直虎と
「全てを失って自分だけ残ってしまった者同士」の繋がり、悪く言えば傷の舐め合い的な恋愛関係に発展し、
直虎は龍雲丸と共にただの一農婦として生きようとする。
井伊谷の民から元城主として愛され頼られ、彼らと共に生きようとする直虎と違い、
元々井伊谷には何の思い入れもない上に、農作業は行わず一人で炭を焼くだけの生活で
他の農民との繋がりも作れていない龍雲丸は退屈な生活に次第に嫌気が差し、
知り合いの商人から来た、大都市・堺に来て一緒に商売しないかという誘いに乗り気になる。
直虎も迷った末に一緒に堺に行こうとするが、領主時代に井伊谷を豊かにしようと努力して盛り立てようとした結果が
やっと実を結ぼうとしている中で井伊谷から離れる事など出来ない、
家も城も失っても井伊谷の城主である事を捨てる事など出来ない、と言う(恐らく自分では認識し切れていない)本音を
理解していた龍雲丸に井伊谷に残るべきだと説得され、堺に行く事を選んだ龍雲丸と別れる事となる。
ってな展開だったのが最新話の38話。
現代的に言うなら、お互い愛し合ってはいるがお互いキャリア志向もあり、同居ではやりたい事が果たせない、
そしてお互い恋愛の為に仕事を諦められるほど恋愛脳でもないし、相手にそうなる事も望まない故に別れを選ぶカップル、という所か。
因みにこの直虎と龍雲丸の結婚生活、どこか男女逆転した夫婦に見えた。
外で働いて村の実質的なリーダーとして周りから頼られ活躍する妻と、家で働いている引き籠り気味夫、というのが。
(龍雲丸が食事の用意をしている所で直虎が帰ってきた辺り、家事も龍雲丸がしているっぽい。家にいるから当然か?)
そして龍雲丸は、盗賊団の頭をやったり気賀で商売していた頃よりだいぶ鬱屈した姿で描かれている。
それがまるで「夫の馴染みの土地に嫁入りしたはいいが、夫が楽しそうに生活しているのとは対照的に
今までやっていた自分に合う・やりがいある仕事には戻れずつまらない仕事を押し付けられ、
地元民とも馴染めず鬱屈している嫁」に見える。男だし、婿入りした訳でもないけど。
それでも愛する配偶者の為に我慢してる、ってのも「嫁」っぽい。
だから龍雲丸が最終的に直虎の為に井伊谷に残るという選択を取らない(取りたくない)のも、そりゃそうだよな、と思えるし、
直虎が堺に行けば今度は直虎がそういう生活になるだけだろう、と言う予測もついて
この二人が別れるのは致し方ないという気分にさせられる。
愛さえあれば一緒に幸せに生きていけるわけではないよね、と言う嫌なリアリティがここにもある。
現代日本でも、片や日本片や海外で仕事したいとか、相手が転勤族だけど仕事辞めてついて行きたくないとかで
別れるカップルというのは多いんじゃなかろうか。
或いはその時に相手に合わせて自分の仕事ややりたい事を諦めて、鬱屈した人生歩んでる人も。
まとめると、
・女の人生の事など考えず、これまでの人生捨てて俺と結婚して子供産んでよとか言い出す男は要注意
・女が仕事(キャリア)を優先しようとすると結婚できない、男が結婚したい女は「家庭的な女」である
・結婚しても夫も妻も両方とも自分がやりたい仕事優先だと結婚生活は続けられない
・妻がやりたい事やって夫がそれに合わせる、という生活は夫の方が鬱屈生活になる
9か月かけて女主人公と仕事、更に三人の男との関わりを書いて結論がこれかよ!という。
勿論これは時代劇であって現代日本とは置かれている前提が違うんだけど、明らかに現代にも通じるように描いてる。
直虎が、キャリア至上主義で男も結婚も要らない!と言うキャラでもなければ
そこまで仕事が出来るキャラでもない(これで城主としての能力は超優秀ってならともかく、実績はそこそこ成果は挙げてるもののそこまでではない)
かと言って仕事なんかどうでもいいだろどうせ出来ないんだしレベルな無能でもなければ
恋愛至上主義で愛さえあれば仕事なんかどうでもいいの!というキャラでもない、って所もリアルだ。
恋も仕事も両方欲しくても、実際に女が両方手に入れるのはどれだけ大変な事か。
(今後井伊家が再興され徳川家の重臣まで上り詰めるのは、あくまで直虎の子供ポジの直政の実績であって直虎の実績じゃないし、
これまでの現実的な描き方から言って「直政が成功したのはぜーんぶ直虎のおかげ」と言う都合良い展開にはならなそう。
というか今更そんな展開になったら萎えるわ)って所で落ち着くであろう事も史実が物語っている。
うん、大多数の女の人生ってそんなもんだよね。
井伊谷を豊かにしたってのだけでも、史実からしたら盛ってるんだろうし。
こういう所もスイーツ大河ではなくハバネロ大河と言われる所以なんだろうな、と思いつつ、
そりゃ視聴率上がらんわ、明らかに女性向けに描かれてるのに日曜8時にこんな嫌な現実見たくない女性も多いだろ、とも。
最近流行るドラマって、半沢直樹とかドクターXのような正義の主人公が俺TUEEEEEでスカッと系か、
逃げ恥のような明るく楽しいラブコメで仕事も結婚もゲット!か、だし。
俺はまったく強くなく支配国のご機嫌伺いしながらの地味展開と人死にまくりの鬱展開の繰り返しで、女主人公は恋も手に入らず仕事も微妙…
どこが面白いんだよと言われそうだけど、面白いんだよ。別に恋愛だけ描いてるわけでもないし(そちらの比重は割と少なめ)
なので見てない人いたら(見てないのにこんな長文読んでる有り難い人がいたらだけど)NHKオンデマンドで見てー。
月額972円で最新2話分以外は全部見放題だからさー。それで他の大河も朝ドラもNHKスペシャルもその他NHK番組も色々見れるよ!
今後は直虎と直政の(義理の)親子関係が主軸なようだけど、やはりリアリティ溢れる反抗期の息子の子育ての悩み路線になるんだろうか。
大して要約もせずに、つらつらと書く。オチも無い。
多分、悲恋に終わるだろうと思っているのだが、
大学時代のように惚れた腫れたの話を聞いてくれる友人もいないので、
増田に書きたくなった。
そんな俺が惚れたのが、隣の課の25歳の女性。
最初は、弁当を食べる時に一緒になるので、挨拶をする程度だった。
12時ぴったりに食べるのは俺と彼女くらいというのもあってか、
と言われ、毎晩のつまみの残りを詰めてるんだと話をすると、
「すごい!すごい!1枚食べてみたい!」となり、
将来はフードコーディネーターになりたいそうだ。
俺は俺で、食べてくれる人ができると張り切ってしまい、
タコのトマト煮込みだ、セロリのピクルスだと凝り始めてしまった。
彼女は、おっさんの作った気持ち悪いと思われてもしょうがない手料理を、
毎回おいしいおいしいと食べてくれた。
先週、部署移動が発表になった。
おそらくもう一緒に昼食をとることは無いだろう。
(もしかしたら、7Fに来てもらえるかもと一瞬思ったが、
彼氏でも無いのにそんなことすれば、変な噂も立つだろう)
来週、最後の週なので送別ランチウィークにしようと提案したら、
手が混みすぎてても気持ち悪いだろうが、
そんなことばかり考えていたからなのか、
異動祝いとでも称して金曜の夜にメシでも誘ってみようか。
どうしようか。
とんでもない作品だった。とんでもない体験をした一週間であった。
それは原作が推理小説にカテゴリーされているからとか、原作者が江戸川乱歩だからとか、そういう理由じゃない。
私はその解説、および回答を以下に記すのだけど、それは完全なるネタバレです。
もう知らなかった頃には戻ってこられない、作品を殺す系のネタバレ。
なので、未観劇の方には本当に読むことを勧めません。
本作は素晴らしい完成度の傑作だし、舞台演劇でここまでのミステリーを作り上げるのは絶対に容易じゃない。
また、私はエグいほど容赦なくネタバレしていますので、正直自分ももう二度とミステリー演劇は鑑賞できない脳になってしまったのでは…と震えております。
(なので、読んでほしい気持ちがあって増田に書いているものの、観劇済みの方も生半可な気持ちではネタバレを読んでほしくない。六道の辻で迷い不幸だと感じている方にだけ、光が届けば良い。)
つまり未観劇でネタバレを読むということは、人生の楽しみを自らの手で一つ潰すということ。尋常じゃない損失です。
本作はDVDの発売が決定しています。
公式DVD予約サイト:http://www.shop-ep.net/east_park/shopping/a04020102/iid/0000000001746/
(発送日未定。予約は3月末まで)
めちゃくちゃ好評だったので、あなたの周りにも購入している人が居るはず。そして恐らく「見せてほしい」と頼めば喜ばれるはず。布教したくなるタイプの作品なのです。なので数ヵ月後DVDを鑑賞してから、是非また読みに来てください。
「数ヵ月なんて待てねーよ!」って方は、妥協点として2015年に他の演出家さんで上演されたものを見ることができます。
こちらは未観劇のためなんとも言えませんが、おそらく2015年版は絶対解けない「超ハードモードの『ミステリー演劇』」か、『ミステリーではない普通の演劇』の可能性が高いと予想しています。でもまぁ全く観ないでネタバレ読むよりは絶対良い。
たぶんDVD売ってるし、3月になれば我らがdアニメストア殿が配信してくれます。
https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/CP/CP00000660
高いチケット買って劇場に行くか高いDVD買うかしか選択肢がなかった時代を生きてきた作品の取捨選択にすごい苦しんできた勢なので、dアニさん月額400円でこんだけ見れるとかマジ神過ぎ。最初目を疑った。(WOWOWさんにも感謝していますが、うちTV無いから見れないんですよ…そもそも家にあんま居ないし。お金なら払うのでスマホでもWOWOW見れるようにしてください。)
原作「孤島の鬼」を読むのも手ですが、本作はある意味では『原作の本質を描いている』けど、ある意味『原作とは全くの別物』です。だから舞台版のネタバレは、舞台版を観てから読んでほしい。
そして、せっかく未来の楽しみを潰してまでネタバレを読んでしまうのだから、その前に『ミステリー演劇』の推理に挑戦してほしい。
一人で解くのは超ハードだと思うので、できれば仲を深めたい方と一緒に。(私が今回の回答に至るのに協力してもらった友人の数は4人です。内1人は原作を読み込み一緒に推理してくれました。)
ぼっちの方も安心してください。本作はめちゃくちゃ面白かったので『2017年版の感想』も、ネットの海に転がっています。そこから辿り着くことも不可能じゃないはず。鮮度のいい印象論の良さも、一晩寝かせた感想の良さもあるので、いろいろ漁ってみてください。
あと私は推理した一週間の思考ログをほぼすべて残しているので、トリックがわかってからログを読み返してみたら翻弄されている自分がめちゃくちゃ面白かった(当時は睡眠不足の神経衰弱で瀕死でしたけどね)。間違ってはいないけど騙されている。そんな楽しさもあるので、ぜひ推理に挑戦してみてください。
そして私がまだ解いていない謎の答えを見つけられたら、ぜひ教えていただきたい。
また、運良く本作を劇場でご覧になられた皆さま。感想はもう書き残しましたか?
公式がwebでアンケート回収もしています。送ると抽選で非売品舞台写真もらえます。私もとても欲しい。
本作は、『感想を残す』ところまでを含めて作品です。せっかく運良く観劇できたのだから、140字で良いから書き残しておきましょう。
できれば思いの丈をすべて書き出しておくと良いです。『他者に感想を伝えようとした人だけが、謎解きの後に得られる感動』があります。(※個人の感想ですが!)
この感動を、本作品が本当に素晴らしい江戸川乱歩の原作舞台化であったことを伝えたくて、読んだら作品を殺すことになるようなネタバレを恥を忍んで書いています。
私はソワレ観劇後、徹夜で翌昼に感想書き上げました。これが私の沼への一歩だった訳ですけれども、これを書き残しておいたお陰で、謎が解けた時に私の回答を出すことができました。
一度ネタバレを読んでしまうと、もう観劇で感じた感想書けなくなると思いますので、本当に一言で良いから感想書き残しておいてください。ついでだから公式アンケートに答えて非売品写真当てましょう。当たったら私にも見せてください。
最後に公式各位。
ネタバレにあたる部分は私の個人的なミステリー体験なので、これが公式解とは主張断言しません。
と言うか、理由なき見落しと、自分の能力ではどうしても咀嚼できなかった部分(言葉がスムーズに脳に入ってこなくて読解しながら観劇することができなかった原作には無いシーン)があったので、私のネタバレは不完全です。他にも拾い損ねている箇所がポロポロ出てくる。逆転する可能性が大いにある、お粗末な推理。
ですが、キャストの皆さまが最後までネタバレに配慮されていたのに、ネタバレを公開し誰かに読んでほしいと願うことが、浅間しいようにも感じています。
ネタバレ注意喚起に約2000字程裂きましたので、どうか堪忍してください。
p.s.オリジナルマグボトル購入しました。作中に赤い色が無かったのでデザインも綺麗だし購入したのですが…紐解いてみるとなかなか意味深なグッズですね。とても良い記念品になりました。
それでははじめます。
無人の屋敷に風が吹き込む
暗転
まったく光のない深い暗闇から男性の声が聞こえる
「不幸ということが、私にもよくよく分って来ました。本当に不幸という字が使えるのは、私だけだと思います。遠くの方に世界とか日本とかいうものがあって、誰でもその中に住んでいるそうですが、私は生れてから、その世界や日本というものを見たことがありません。これは不幸という字に、よくよくあてはまると思います」
暗転明け
無人だった屋敷に白髪の男性が立っており、書物を音読していた。
彼……『私』を語り部とした、物語がはじまる。
http://anond.hatelabo.jp/20170206104211
ミステリーとして解いた今読み返すと相当ブッ飛んだ納得の仕方をしている。自分の妙さについて今までなんとなく感じていた部分が浮き彫りになりすぎである。こわい。
当時も気持ち的にスッキリはしたけども、<もやもやした原因が『認知を歪められている感覚』だったのに、「それは作者の願いだよ!」という犯人と動機の『妄想』では、『論理的解決』にまったくなっていない>ので、悶々とはしていた。
作り手側は演劇を魅せるプロだが、観客は演劇を観るプロだ。伊達や酔狂でやっているわけではない、こちとら真剣に観ている。
『認知を歪められている感覚』なんて中途半端なものは見過ごせない。
そこからずるずると私は沼に嵌まっていき、推理のためにガチで眠れない一週間を過ごすことになる。
そもそも、舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」の何がミステリーなのか。
それは、本作品が叙述トリックを駆使し、とある『真意』を隠しているということにある。
しかし私の目下の推理動機は、トリックを逆手に取った『簑浦も諸戸も幸せになれる最適解』にあった。どうしても二人を幸せにしたかった。
そのために以下のことを行った。
そしてひたすら二人が相思相愛ではないという可能性を潰し、相思相愛である可能性を見つけ出す作業。
二人の愛の一番の障害は、箕浦の白髪化=「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」という点。
これが諸戸が箕浦の前にあらわれることがなくなった原因だと思う。彼がどんなに誠意を尽くそうとも、これだけはどうにも覆すことができない。
しかし、実は原作では白髪化したタイミング=直接的な原因が諸戸に襲われたことのみだとは明記されていない。
そして舞台でも、実はめちゃくちゃぼやかされている。
冒頭、語り部である『私』が自身の体験した恐怖について語ろうとする。その時にまるでトラウマが呼び起こされるかのように喉元を掻く仕草をする。
後半井戸の奥、深い完全なる暗闇の中、水位が増して死の恐怖に襲われた時。『私』佐藤箕浦も、諸戸と石田箕浦と同じマイムを行って移動し、水位が増しだすと喉を掻いて苦しみ悶絶する。
これは、白髪化するほどの『生理的』な恐怖が、諸戸に襲われる前から強烈にあったという解釈にできる。
では逆に、諸戸に襲われた後の恐怖はどうだろう。助八さんの救助が来て、生死の恐怖は去った。丈五郎の恐怖も去った。では諸戸に犯される恐怖はなくなるか? 普通に考えれば、自分を襲ってきた相手が側に居るなんて恐怖しかない。第三者が居るから安心だなんて暢気になれる訳がない。(学術的根拠を略していることは恥じています)
箕浦は、諸戸に襲われた時にあれほど恐慌したのに、襲ってきた相手が側に居てもケロっとし過ぎなのである。脱出できた時なんて笑いあっていたりする。
これらによって、「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」ということを否定できる可能性が、十分にある。
『生理的』に受け付けられない訳じゃないのなら、箕浦の同性愛への拒絶はどこからくるのか。
諸戸が触れるままにさせ遊戯を楽しんでいたと言っているが、これってちょっとエッチではないですか? 私は『もてあそぶ』というよりも、遊廓でのお戯れみたいな印象の方が強かった。エロかった。
ましてや「あつい手だね」というセリフは、諸戸と佐藤箕浦の両方が同時に口にする。
これは原作では諸戸が言い、簑浦も『私も同時に、火のような相手の掌を感じた』とある。
あの夜、諸戸と箕浦は、本当は同じ気持ちであったのではないか。
しかし大人になった箕浦…いや『私』佐藤箕浦は、頻繁に同性愛を拒否する。
そして井戸の中、「今こそ、僕の願いを容れて、僕の愛を受けて」と請い願う諸戸を「あさましい!」とはね退ける『私』佐藤箕浦。
実はこのセリフ、原作には無い。そして学生時代のあの夜は諸戸の方が言っていたセリフなのだ。
「君は浅間しいと思うだろうね」と。
箕浦に『同性愛を持つ者は異人種』だと一番最初に植え付けたのは、他ならぬ諸戸であった。
そしてあの夜、「『私』は諸戸との関係はこれで終わったと思った」。
もし、もし諸戸が、自分で自分の気持ちを否定してしまわなければ、二人が結ばれていた可能性もあるのではないか?
あの夜の後、箕浦が大人になりSK商会に勤める場面から「過去の『私』」石田箕浦が登場する。
大人になった『私』佐藤箕浦は同性愛嫌悪の感情を見せるが、石田箕浦は同性愛を嫌悪していない。
諸戸が自分に恋していることを頭では理解しているが、そもそも同性愛をわかっていない。だから諸戸からの熱視線(性愛アピール)をまったく感知できないし、諸戸からの接触に応えること・握手を求められた手を握り返すことができる。
(スポットライトが当たらないところでの石田箕浦と諸戸は、まさしく「諸戸と簑浦は何か変だ」状態。熱視線を送ったり触れようとしたり羞恥の色を見せたりする諸戸に、石田箕浦はまったく気付かない。A.T.フィールド固すぎ)
原作の簑浦とはかなり印象が違うそう(私は一度推理完了するまで未読を貫く主義のため世論であるが)。
簑浦と箕浦、原作とは名前の漢字が異なるし別人か? いや、そうじゃない。無意味な改変は絶対に起こらない。「虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェア」だからだ。印象が違うなら、『変えた理由』と『変えても原作の簑浦を成立できる理由』がある。
石田箕浦が登場する前。佐藤箕浦が諸戸との関係は終わったと思ったあの夜。諸戸が泣きながら請うた内容は以下だ。
「君は分っていてくれるだろうね。分ってさえいてくれればいいのだよ。それ以上望むのは僕の無理かもしれないのだから 。だが、どうか僕から逃げないでくれたまえ。僕の話し相手になってくれたまえ。そして僕の友情だけなりとも受け入れてくてたまえ。僕が独りで想っている。せめてもそれだけの自由を僕に許してくれないだろうか。ねえ、簑浦くん、せめてそれだけの……」
諸戸が願った内容、これまんま石田箕浦じゃん……
石田箕浦は諸戸を友人として深く信頼しているし、井戸の中でなんて一緒に死ぬことすら受け入れている。諸戸の願いを、字面通りに叶えている。
しかし周知の通り、諸戸が心の内で望んでいたのは、彼の『死にもの狂いの恋』を受け入れてもらうことだった。
諸戸は自身について怖れている描写が多々あった。それは自分の素性と性愛対象が『普通と違う』ことでもあったし、『父に命じられたから行っていたはずの不気味な研究にいつしか諸戸自身も不思議な魅力を感じはじめていた』ことも大きいと思う。
我と我身を醜いと卑下すればするほど、美しいものを強烈に求め、美しくあるべきだという観念に囚われる。
諸戸の心の内の葛藤が『手記の秀ちゃんと吉ちゃん』そのものに見えた。諸戸の望み(イド)と願い(超自我)は大きく解離している。
箕浦が写し取ってしまった『同性愛を持つ者は異人種』という価値観、『親友という姿』は、諸戸が持つ美意識の刷り込みだった。箕浦にとって諸戸は、本当に「美しい青年」だったのだ。
石田箕浦は本当にクセのない、まっすぐな好青年だった。諸戸の理想とする『普通』がそこにあるように見えた。そして原作の簑浦とは印象が異なる存在…
これはつまり、簑浦のイドと超自我のようなものが、『私』佐藤箕浦と石田箕浦に分かれて表現されているのではないか。一人の人間を二人で演じ、二つの存在(語り部の『私』と、簑浦のイド)を一人が演じているのではないか。
彼らの箕浦の分担は、紀州の孤島に着いてから大きく変動し反転してゆく。
井戸の中で諸戸に襲われ、完全に石田箕浦から佐藤箕浦に替わったのは、諸戸が望んだ存在が友人ではなく恋愛対象としての箕浦だったこと、そして諸戸の手によって「諸戸の理想とする『普通』」が壊されてしまったこと…『私』になった石田箕浦にも諸戸の姿は獣のようだと評されている。学生時代のあの夜に諸戸が否定をしてしまったこと、それの繰り返しだった。
そして秀ちゃんへの恋心を諸戸に恥ずかしいものと責められる場面。実はあれは原作だと簑浦のモノローグによる言い訳タイムとなっている。諸戸はそもそも丈五郎に捕まって、島に到着して以降会っていないというのだ。正確にセリフを覚えていないが、原作未読の私でも、最初に秀ちゃんから手紙を受け取ったシーンに諸戸が居ることに強い違和感を感じた(そして友人が原作では諸戸が居ないことを確認してくれた)。
よくよく考えれば変なのである。箕浦に恋慕を寄せる諸戸に責められる筋合いはない。初代に操を立てるなら諸戸の恋に応えることも恥ずべきことだし、諸戸に気を遣う必要だって本質的には無いのだ。(まるで『アイドルは恋愛しちゃいけない』理論だ。)
ではなぜ超自我のポジションである石田箕浦ではなく、諸戸が責め立てるのか。
箕浦の美意識は諸戸の影響を強く受けているから諸戸の姿をしていたとも捉えられるが、それ以上に、常識的な葛藤だという以上に、箕浦の心の中に諸戸を慕う側面も幾ばくかあったから、秀ちゃんに恋する自分と、諸戸を慕う自分で対立したことを表現していないか。
佐藤箕浦はもちろん初代にも秀ちゃんにも惹かれているが、彼が箕浦のイドのポジションであるならば、諸戸のことも結構好きだった。(イドでなく単なる『私』なのだとしても、諸戸を見つめる視線に愛憎のような熱が込もっていたし、)諸戸との会話に深山木が入ってきたとき「早くないですか!?」と驚くのは二人の箕浦で、石田箕浦一人だけが言うと単純に時間が早かっただけに聞こえるが、佐藤箕浦も合わせて言うことで「諸戸との会話に邪魔をされた(もっと諸戸と話したかった)」かのような邪推ができてしまう。
そして諸戸が握手のために差し出した手を『箕浦が握り返さなかった』時。諸戸は驚愕の表情で『私』を見る。見つける。実は、物語の始まりを告げる運命が廻りだすような音楽が流れて以降(犯人だと疑って諸戸の家を訪ねて以降)、諸戸が『私』を初めて見たのが、この『箕浦が握り返さなかった』時。
握り返さないのは、握り返すことに意味が生じてしまうから。石田箕浦は諸戸の恋をまったく感知しない。そんな石田箕浦が握り返さないわけがない(実際に、諸戸に見つかってしまった『私』が顔を背けた瞬間、石田箕浦は手を握り返す)。つまり学生時代のあの箕浦が、心の中にまだ居たということ。
諸戸にとってはそりゃあ嬉しいことだろう。彼はそれ以降箕浦に話しかける時、佐藤箕浦を見てから石田箕浦を見る。ここからどんどん、『箕浦』の行動を表現するのが佐藤箕浦へ移行してゆく。
一度は友人として、諸戸と共に死ぬことも受け入れた箕浦。
しかしその結末を自らの手で潰す諸戸。
逃げながら箕浦は吼える。「死んでたまるか!」と。箕浦は白髪化するほどの生死の恐怖を体験したばかりだ。
諸戸に襲われるも未遂に終わり、命が助かることに深く絶望する諸戸。
井戸を出た二人は笑いあう。諸戸は箕浦が白髪化するほど生理的に同性愛を受け付けないのだと認識したように、箕浦の白髪を見て泣いているように笑う。
そして箕浦の前に現れなくなった諸戸は、気持ちを遺して逝くことで最期にまた箕浦へ大きな傷を残す。
先述の通り、私の推理動機は叙述トリックを逆手に取った二人が相思相愛であったことの証明にある。
からくりが解ってみると、どうってことない・ただ上演されているものそのままに過ぎないのだけど、ここに辿り着くまで本当に一週間ひたすら睡眠時間を削って悩んだ。二回目に観劇した時などは、とにかく正確に推理するためにありのままを最前列からガン見してきたのに、どうあがいても悲恋という現実に心が折れそうになった。マジで。実は二回目に最前列で観測した時よりも、初見H列サイドから観劇した時の方がイイ線いってたよな(納得の仕方はブッ飛んでるけど)と思う。
で、共に推理していた友人が先に原作の叙述トリックに気付き、簑浦と諸戸のBLは成立しているという解を出してくれたので、二回目の絶望した記憶で観劇を終えるのもなんだし推理はやめて初見のつもりで観劇しようと思って向かったのが三回目の観劇。最後尾辺りの補助席。
しかし驚くほど新たな発見がまたどんどん出てきたうえ、深山木のセリフによって私は舞台も叙述トリックを使ったミステリーなのだと確信してしまう。
これは原作にもあるセリフらしいのだが、深山木がトリックについて思わせ振りなことを言うシーン。そのセリフが完全に『叙述トリックの説明』になっていたのだ。聞いた瞬間、震えが走った。
本作がミステリーであると気付けるように、最初から以下の違和感と解法が提示されていた。
さて。ここで疑問に思われることがあるだろう。なぜ叙述トリックを使用しているのか? 隠したいものは何なのか?
この件について私は非常に貴重な体験をする。
本作の大好評っぷりと、推理に明け暮れ神経衰弱している私を心配して、友人が本作を観劇してくれた。三回目観劇の日、偶然スケジュールが合って友人2人(友人Aと友人Bとする)と一緒に観ることができた。終演後、私はわくわくしながら二人に感想を求めた。
友人A「箕浦殴りたい……不快過ぎて体調悪くなってきた……」(※意訳)
当時、箕浦殴りたい勢は最大勢力に感じた。過激箕浦擁護派も0ではないが、大多数が箕浦(おそらく『私』のみ)に不快な感情を持っていた。冗談ではなくガチで友人Aが苦しそうにしており、私も初見後は物凄くモヤモヤしていて苦しみがよくわかるので、少しでも気が晴れないかと友人Aと対話することになる。
不快感を分解していく。
友人Aは非常に言いに難そうに、しかし押しかかる不快感から助かるため、意を決して打ち明けてくれる。
友人Aも不快の対象は『私』にあり、その根源を追ってゆくと友人自身が「『拒絶』されるのが本当に無理」だから、諸戸を拒絶しているのに側に居た『私』を悪だとした。
増田「拒絶することを『悪』だとするなら、今『拒絶を拒絶』している友人Aも悪だということになるでしょ? 友人Aは悪なの?」
結局友人Aには私の初見感想を読んでもらい、加えて私の心の闇()もひっかかった話をしたことで、とりあえず翌日出社できるレベルには不快感が晴れたと言ってもらえた。良かった。
さて、私は友人Aと対話して思った。「もしかして江戸川乱歩のやりたかったことってこれでは?」
感想を書いた方ならわかると思うのだが、感じたことや思ったことの根拠を話そうとすると、自身についての話、しかも心の闇()の部分を語らないとどうにも説明できなくなってしまう。
私も推理ログ含め大量に書き残したが、心の闇()を除いても、暗闇マジ怖い体験とか、無意識下の生理的拒絶は実在するよ体験とか(思えばこいつが二人の恋の一番の障害だった)、とにかくネガティブな体験談がバンバン出てくる。
共に推理し原作解読した友人も、舞台の感想を書こうとしたら闇にぶち当たって、書くのを控えようとしていた。( Permalink | 記事への反応(0) | 22:47
なるほど。
あなたには、もっと数段低いレベルのから話をしなければならなかったのですね。
完全に信じ込んでいるのではなく、繰り返し言っているようにそのように解釈できる作品周辺の「事実」があるから、そう解釈しているだけです。
私の解釈が間違っていると言うのなら、根拠をあげて反証し、あなたがルビッチをどのような人物だと解釈しているのかを述べてください。
そもそも、創作者が作品をつくる際、作者が現実世界でさまざまな事象からくる感情を内的衝動として作品にぶつけ、登場人物に作者自身が重ね合わせることはよくあります。
アンデルセンが、自分がモテなすぎて「人魚姫」という悲恋の物語を書いたように、
スピルバーグが、両親が離婚して寂しい思いをしたから彼の映画の多くが「崩壊した家族」を描いているように、
宮崎駿が、本当は飛行機乗りになりたかったのに体が弱くて断念したのを「風立ちぬ」の堀越二郎にそのまま重ね合わせたように、
つい先ほどアカデミー賞14部門ノミネートされた「LA LA LAND」のダミアン・チャゼル監督が、ジャズ・ドラマーの夢を断念した想いを最近の2作品に込めたように、
そのような作品を挙げていけば、キリがありません。
すべての作品が、作者の現実的体験に基づく内的衝動からつくったものというわけではありませんが、
上に挙げたように多くの作品、そしてその登場人物には作者の個人的体験の反映が見られます。
つまり、作者のこれまでの人生、現実に起こっていることから作品の意味を読み解くことは、批評の基本のキ、王道的な批評方法の一つなんですけど、そのことをご存知なかったのですね。
最初の私の評文をよく読んでください。
私の解釈は、
「プペル=ゴミ=大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノ」(これは作者のあとがきにある通り)
その2人の関係については、最初の評文で私は次のような解釈を書いています。
この物語は、現実世界で「夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる」作者・西野氏自身が、清くて純真な「夢の残骸(プペル)」の尊さを自分だけが理解し、・・・
私はとあるハンサムさんのファンを長年続けているんだけど、2009年初めてZeppにハンサムを見に行って、賢人くんと春馬くんの歌声に魅了された。
『歌が上手い』なんて単純な話ではなく、二人の歌声が重なった時のハーモニーに衝撃を受けるほど感動してしまったの。
歌声の相性が良ければ、1たす1が100になるような奇跡の音色に生まれ変わるのだと、生まれて初めて知った瞬間だった。
思えば後期ハンサムLIVEは、ファンイベントよりもショー作品と表現する方が近く、
推し個人とのコミュニケーション濃度より、全員のLIVEパフォーマンスを楽しむ祭典度の方が強かった。
(これは誰を推しているかによって変わってくるのかもしれないけど。
私がファンをしているハンサムさんは、ファンが望むことの読み取りと 本人が望むこととのバランス取りが篦棒に上手く、
彼はあらゆる場面で私たちとの時間の積み重ねを感じさせてくれるから、この関係性でいる信頼感と安心感がハンパない。
私たちそれぞれとの歩みを大切にしてくれる彼にはいつも心から感謝している。
そんな日々の濃度は、ハンサムで生ファンサをもらう濃度に決して劣っていないと、私は感じてる。)
だから私にとっては、ハンサムLIVEは推しだけを愛でる場ではなく、チーム・ハンサムを応援し全員が仲間になるお祭りだった。
そして、歌手ではない二人のハーモニーを聴くことができる、唯一無二の機会だった。
あの感動のひとときはもう失ってしまったのだと、今回のハンサムでようやく痛感し、
賢人くん春馬くんそれぞれのファンの方からすれば「痛感するの遅くない?」「なんでこのタイミング?」ってなる話だと思う。
二人が一緒に出演したのは伝説の2012年公演が最後で、もう4年も経っているから。
ファン感謝祭ジャンルのショー作品として究極であり完成してしまった伝説の2012年。
最高の先にある新しい世界を求めて挑戦をしたBrand New Worldの2013年。
常に『進化』してきたハンサムLIVEだったのに、先に進むことではなく『締め括り』のショー構成だった2014年。
(なお、この2014年も初日が終わった後に盛大に絶望していた。
Never Let Go!って、EVER LASTING SHOWや言うたやん!って思っていたけど、後から読みとってみれば最終回の常套句ばかりだった。
でも終わって欲しくないからストレートな言葉の意味意外ぜんぜん考えなかった。だって第二章が始まった次の話が最終回だなんて信じられないでしょ…?
演目構成として『終わり』を突きつけられるのは、参加者としてめちゃくちゃキツかった。楽しかったけど絶望を受け止めきれなかった気がする。)
と、2014年までが一つの文脈になっていたから、何というかワンチャン…みたいな希望がずっと私の中にあったのです。
(2014年は賢ちゃん居たけどwhite serenade担当しなかったことの意味とか…
デュエットの相方ははるるお気に入りの裕太がバッチリやってくれたこととか…)
それが一年寝かせて、名前がハンサムフェスティバルになった今年2016年。
とてつもなく素晴らしい引き継ぎ構成だった今回。
2014年に絶望した先輩ハンサムさんファンの私としては、このFestival Nightは毎年恒例なんて当たり前の存在ではなく、『ミラクル』なのだとストレートに突き付けられて漸く受け止められたし、
新入生ハンサムくんたちに『これまでの道のり』とか『後ろは振り向かないで』とか言われちゃ、世代交代という形の一つの終わりを実感せずにはいられなかった。
そして『THE GAME初出の曲をファンが歌うダブルアンコール』という奇跡は、最高の『私たちの時代の終わり』だった。
2014年は総集編だったから、そこにエントリーされたことはきっと喜ぶべきだし、賢人くんが春馬くん以外とwhite serenade歌ってしまわなかったことに救われていたけど、
引き継ぎ式の2016年にあえて歌う必要性は最初感じなかったし、2014年に続き桜田さんが担当していてオリジナルメンバーよりも多い回数を公式披露した現実にぶっちゃけ初日は死んでた。構成担当を怨んだ。
(ちなみに2013年はギャグ扱いだし悲恋ぼっち曲だから賢ちゃんソロでもノーカンセーフ。他の曲も同じ状況だったしね。確か壮ちゃんが紹介していた、舞踏派チームのbutterflyが流れた瞬間「ヤメテー!」って悲鳴を上げたファンの方の気持ち、今なら超わかるよ。笑)
初日の挨拶で桜田さんが賢人くんの話をしてくれたから、一命は取り留めれたけども…white serenadeから先は他の曲もオリジナル版で賢人くんと春馬くんのデュオだったパートになる度に、喪失感がすごくて。
(実際のところ、二人の持ち歌のwhite serenadeでは声を重ねるパートが少ないから、ハーモニーのファンだった私としては全体曲のCメロとかの方がより一層思い入れ深かったりはする。)
私の中のハンサム公演にとって、賢人くんと春馬くんのハーモニーはこんなにも自覚していた以上に大きな存在だったんだなぁと、喪失感の大きさから気付いた。
先述の通り、先輩ハンサムさんファンとしての私は、2016年の引き継ぎ公演っぷりに成仏できた。
それはハンサムフェスティバル全体を通してのことで、祭儀の結果。
(もちろん私もこのお祭りが大好きだし大切だから、彼を含む先輩チームにはぜひまたお祭りを開いてもらいたいけどね!宇宙にだって付いてくよ!全通皆勤記録まだまだ伸ばすよ!)
(彼のファンも一生続けさせてね。これからも私たちのことどうぞよろしくね。)
でもじゃあ賢人くんと春馬くんのハーモニーが大好きだった私は…となった時に、
私を抉ったwhite serenadeが、逆に葬送曲になった。
リリース当初は、どうして悲しい恋の歌を作ったのか疑問だった。
ハンサムミュージックは、いつもチーム・ハンサムと私たちの『今』を赤裸々に的確に表現していて、一般的なアーティストさんやアイドルさん等の楽曲とはメッセージ性の方向が全然違ったから。
でもねぇ喪失感あふれる今、white serenadeの悲しみのシンクロまじやばいよ…
ハンサムに会いに行っても二人はもう居ないし!
好きの終わりをうまく飾れないし!
私の推しハンサムさんがパート担当しても二人のハーモニーの想い出は消えないし!
終わらず続いたハンサムの会場で…
そして『もう少し待ってみよう 悲しいまま あの日のまま』と締められてしまうから、成仏できない。
葬送曲として『悲しい終わり』を突きつけられたけども、鎮魂して成仏なんてできないよ。
ずっとずっと待ってるから、
賢人くんと春馬くんのハーモニーがまた聴けることを。
悲しい恋の歌にギャン泣きして二人の歌声を探し彷徨うファントムになりつつ、
出演してくれた愛しいハンサムさんたちと素晴らしいハンサム・スタッフさんに心から感謝して、
引き続きブチ上がっていくぜ!!
5年ぶりに、本気の恋。
5年前は悲恋で終わった。
けれど、それを突き破ってきて、それからは四六時中その人のことを考え、恋い焦がれている。
相手は知り合ったばかりのとき「付き合ったことない」と言っていて、自分も「同じ」と応えた。
その後、付き合いが深くなったころに、相手が前の恋人の話をした。
できるなら「誰かと付き合ったことない人が良い」と思っていたけれど、自分はそれほどこだわりはなかった筈だ。
しかし、その日は寝れなかった。
頭が冴えて、そのことばかりが気になり、胸の奥が締め付けられた。
泣けもせず、乾いた笑いばかりがでて、一晩を過ごした。
次の日、仕事に行き、乾いた笑いと、胸の痛みを殺しながら仕事をこなした覚えがある。
自分でも驚いたが、酷くとらわれているようだった。
それは帰ってからも変わらず、けれど、寝れた。
泣けたのは、しばらく後だった。
好きになってから、しばらく経つ。
まだ、相手とは恋仲になっていない。
こちらから言えば、どうやらなれそうではあるが、勇気がでないままだ。
あれから、乾いた笑いが出たのと、胸が締め付けられた回数は、数え切れない。
しかし、泣けたのは1回だけ。
泣いたほうが楽になれるのだが、中々涙が落ちてこないのだ。
早くどうにかなりたいものだ。
今日も部屋には乾いた笑いが響き、涙は落ちてこない。
「宇宙世紀でユニコーンガンダムと呼ばれていたMSが、黒歴史とまで呼ばれる歳月を経て発掘され、月のギンガナム家の施設軍隊で使われるようになった」という設定で、南条光が作成したガンプラ。
宇宙世紀より劣化した西暦の技術で改修されたため、高出力のビームマグナムなどはオミットされており、近接戦闘に特化している。
特徴は製作者の「変身願望」を実現した、ユニコーンモードからデストロイモード改め「ミンナノミカタモード」への変身だ。
本来のユニコーンはニュータイプに対して反応して変身するのに対して、こちらは味方のピンチに反応して変身する。
その仕組みはなんと、バトルフィールド中に散乱した「プラフスキー粒子」を吸収し、自身のパワーにしている。
しかし、普通にバトルフィールドに満ちている「プラフスキー粒子」を取り込むのは難しいため、味方のガンプラから露出したもののみを吸収している。
そのため、南条光以外の2人を先に倒してしまうと、どんどん彼女が強くなって行く。
「もしレミが死なずにオブライトと共に100年3世代を駆け抜けたら」という妄想で、喜多日菜子が作成したガンプラ。
あくまで一兵卒にすぎないオブライトにそこまで極端なカスタマイズをするわけにはいかない、という妙に現実的な妄想のためもあって、通常のクランシェから大きな改良は加えられていない。
しかし、喜多日菜子にとって「本編での悲恋が成就した」という「妄想」は格別らしく、完成度がとても高い。
・棟方愛海:バーガ・ハリBS-R(アルゴン・プロミネンス+アウクソー仕様)
「超帝國の剣聖「アルゴン・プロミネンス」が薔薇の剣聖マドラ・モイライの肉体を介して星団に帰還するも、その桁違いの騎士とての力を制御する気が一切無い彼女のパワーを受け止めきれるGTMは今現在の星団には存在し無かった。
なんと彼女にとってはツァラトウストラ・アプターブリンガーですら役不足で、彼女のパワーを受け止めきれず壊してしまっていた。
しかし、何故かこのバーガ・ハリだけは慎重に扱い、決して壊す事無く制御していた。
彼女のその肉体に宿るいくつかの精神の一つにとって忘れられない記憶であり、決してその他の人格に漏らしたくない自分だけの記憶だからだ。
また純血の騎士を目の当たりにし、GTMコントロールが再び可能となったアウクソーをパートナーにしているが、バーガ・ハリBS-Rからすると、元の持ち主の元カノと、元の持ち主の子供の父親のパートナーという何だか微妙な修羅場に巻き込まれているようで可哀想」
その時はそれなりに感銘を受けた気はしてて、
その後もたまにPVとか見たりしたときに少し思いを馳せたりして、
時間の経過とともに美化しすぎていたのかもしれない。
あと自分自身が変わったのもあると思う。
昔はものすごく自意識過剰で今思い返すと恥ずかしいようなことをいっぱいしていた(たぶん今もまだ完治はしてない)んだけど、
そういう気持ち悪い自意識にまみれたときだったから、これを悲恋と見て勝手に感動できていたんだろう。
さらに言えば、周りがみんないいと思っていたから、自分もこれには感動しないといけない、と思っていたのもあると思う
ともあれ、今回久しぶりに小説を通して秒速5センチメートルの世界に触れて、
こんなに気持ち悪い話だったかと、悪い意味でゾクゾクさせられた。
200ページ足らずでほんとよかった
借りた以上は読まないともったいないと思ったし
まず小説としてすごく読みづらい
改行少ないし
あといちいち心情描写しすぎ
新海誠自身があとがきで、映画と小説の違いは心情の描写だって書いてたけど、まさにそれ
映画であえて語られなかったところを一言一句説明するようなもんで、受けなかったギャグを自分で解説するのと同じで、情緒がない
逆に言えば映画のキャラの背景とか心情がきになる人にとっては、それなりに得るものがあると思う
小説としてじゃなく、映画の裏側の説明本って考えればまあそれなら・・・と思える部分は大きい
一章の桜花抄のこじらせた男視点は作者自身のキモい書き方がハマっていてうまく書けてたと思う
でもその作者のオタク的キモさが思いっきり出ちゃったのが、二章のコスモナウト以降の女性視点描写
すっごくヘタで気持ち悪い
そんでまたその女がことごとく、一章のこじらせた男(作者自身の投影?)と恋したりセックスしたりするのが、めちゃくちゃ生理的嫌悪感を催させる
ぼんやりしながらモテまくってセックスもしまくって仕事やめても3ヶ月でフリーのプログラマーとして食っていけてるっつうクズなのにデキる描写
クズなら心底クズにすればいいのに、中途半端に都合よく勝ち組要素入れられてるから、いちいち鼻につく
自意識過剰でこじらせてるところは同族嫌悪的なキモさもあったんだと今なら思うけど、
最後の最後でこじらせた自分の自業自得だって悟る部分があるけど、全然足りない
もっと罰を与えて欲しい
俺にとって秒速5センチメートルは映画だけ
小説はない
バカの壁ベストセラーと聞いてなんとなく避けてましたが、読んでみます。
ご指摘通り、スタート地点である個々人の感情がそもそも定量化出来ないんですよね。
製作者としては、伝える相手に正の感情値yをある一定以上想起=上昇させることができれば面白く感じる だろう。と、思い込むことが指標の限界でしょうか。
とすると製作者の技術、またはセンスで式の感情系数値の正しさや引き出しの大きさが変わってくるのも頷けます。
ブコメの指摘のギャグ漫画家の作品が面白くなくなる←常識とのズレが分からなくなる←感情系数値の判定が対象に通用しないものになっている、という感じですかね。
単に入力前と入力後の移動量の変化だけではなく、単位時間あたりの感情の変化量、勾配も考慮できそうです。
うん。ほとんど映画の感情曲線じゃんこれ・・・・。映画の感情分析にてついてもうちっと勉強してから出直します。
面白い、と感情曲線はあんまり関係ないんじゃないかと思ってたんですけどねえ。
しかし、統計的に処理すればなんとなくぼんやりした定量的Mapは作れなくは無い気もしますね。出てきたものは全く面白くもなんともない可能性が高いですが。
1. 『ライオンキング』(ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994年)
2. 『ナッシュビル』(ロバート・アルトマン監督、1975年)
4. 『EDEN/エデン』(ミア・ハンセン=ラブ監督、2014年)
5.『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』(コーエン兄弟監督、2013年)
6.『アマデウス ディレクターズカット』(ミロス・フォアマン監督、1984-2002年)
7. 『はじまりのうた』(ジョン・カーニー監督、2014年)
8. 『アンヴィル! 夢をあきらめきれない男たち』(サーシャ・カヴァシ監督、2008年)
9. 『8 mile』(カーティス・ハンソン監督、2002年)
10. 『あの日のように抱きしめて』(クリスティアン・ペッツォルト 監督、2014)
1. ディズニー枠にしてミュージカル映画の精髄。アラン・メンケンが確立したディズニー・ミュージカル黄金律の完成形でもある。ポストメンケンではやはり『アナと雪の女王』が頭一つ抜けている印象。
2. ハリウッドに最も嫌われたアメリカ人監督ロバート・アルトマンがアメリカの保守層を体現する南部という土地、カントリーミュージックという文化をシニカルに活写することでニクソン政権下の母国をするどく批評した、というと小難しい社会派映画みたいだが、実際の中身ゆるゆるでお気楽でグダグダなカントリー群像劇である。歌声一つで嫌なことも苦しいことも大変なことも何もかもどうでもよくなる、という音楽の魔力を良くも悪くも見せてくれる映画。
3. 菊池セイコウさんの dis はこのさい放っておこう。すくなくともこの作品は『音楽映画』としての役割と魅力を十二分に発揮しているのだから。要するにパワハラ上司に対するリベンジ映画なのだが、(主人公と観客両方に対する)抑圧と解放の手際が実に﨟長けている。何よりリズムが映画だ。
4. ふらふら楽しくガラージュDJとして遊んで暮らしていたアンちゃんが30超えて「あれ? もしかしておれ、社会的にあかんくね?」と狼狽えるフランス映画。年をとるにつれ銀行員の対応がすげなくなっていくのが切ない。こんなダメダメな反社会人でも才能ある妹を持てば人生を映画化してくれるんだから、持つべきものは家族である。DJシーンの快楽は選曲面でもビジュアル面でもクール。
5. ふらふら楽しく60年代のNYでフォーク歌手としてネコと楽しく暮らしていたあんちゃんが恋人を妊娠させてしまったことで「あれ? もしかしておれ、社会的にあかんくね?」と狼狽えメジャーデビューを目指すアメリカ映画。楽曲の質の高さもさることながら、さまよえる主人公を捉える画面も洗練されている。どうでもいいが主人公のオスカー・アイザックは次の『スターウォーズ』でけっこう重要な役をやるらしい。主人公の恋敵役を演じるジャスティン・ティンバーレイクが影のMVP。
6. 説明不要の超ビッグタイトル。要するに悲恋系BL。天才ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトに恋した乙女サリエリちゃんが才能のことを考えると胸が切なくなって毒殺疑惑をかけられちゃうの。
7. ギリギリミュージカルではないのに、歌のやりとりだけで物語が進行するクレバーな構成の音楽映画。「音楽っていいもんですねえ」ということを骨の髄まで叩き込んでくれる。Maroon 5 のアダム・レヴィーンがいい仕事している。監督の前作の『ONCE/ダブリンの街角で』も人生のすっぱさから目をそむけずにポジティブな救いを歌った佳品。
8. ドキュメンタリー枠。誰からもその才能を認められていたにもかかわらず、なぜか売れなかったメタルバンド、アンヴィル。しかし彼らは諦めなかった。副業のかたわらコツコツと三十年もアメリカの片田舎でバンド活動を継続しつづけていたのである。三十年周年を記念して世界ツアーを計画した彼らだったが、その道中をトラブル続き。しかし、そんな彼らがとある国を訪れたとき、奇跡は起こるのだ。
9. ヒップホップ枠。今週末公開の『ストレート・アウタ・コンプトン』の出来次第では入れ替わるかもしれない。負け犬が這い上がる系映画。
私が見たぶんの、二次創作物としての夢小説、狭い範囲の夢小説について話したいと思う。
とはいえ、そんな狭い範囲においても、夢小説というものの幅は広い。名前変換小説、という別名をとるだけあって、「名前変換機能」がついている二次創作小説は、すべて「夢小説」と呼ばれる。JavaScriptのダイアログでも、Cookieのフォームでも、投稿SNSサイト・ホームページ作成サービス付属の機能でもいい。
その形式。愛おしいあのダイアログは、そっけなく「苗字」「名前」、とだけ書かれたものもあれば、「御名前をドウゾ」「Please enter your name.」なんていう、意味はよく分からなくともすてきな言葉遣い。
なぜならば――それはインターネット上で行われている。
すてきなものは同人誌即売会にある。オフラインにある。二次創作というものを知って以降、私はそう覚えこまされた。「オフ本を作りたい」と作家さんは言い、「やっぱり本になるといい」「ちゃんとしてるように見える」と言う、「差し入れありがとうございました」「こんどのイベントは限定ペーパー作ります」「コピ本作ります」。
指を咥えながら見ていた。
愛が足りない、と言われればそうだったろう。小学生だって即売会に行くことはできる。通販を申し込むことだって不可能じゃない。けれど私にはそうするだけの愛が足りなかった。住所を入力する勇気もなかったし、新幹線に乗って大都市に行くお金を貯めることもできなかった。
夢小説は私の味方だった。
クリックひとつで手が届く、インターネット上で完結した世界だった。本になって、「ちゃんとしてるように見える」ことはなかった。同人誌はインターネットがはじまる前からあったらしい。夢小説は、常にインターネットとともにあった。メアリー・スーの存在は知っている。けれど「名前変換」。名前変換が出来なければ夢小説ではない。
振られるもの。振るもの。いじめられるもの。いじめるもの。嫌われるもの。嫌うもの。
ただ一瞬だけ人生が交わるもの。交わることすらなく通り過ぎていくもの。
主人公の性別に制限はなく、男の子になってキャラクタと交わる夢小説は女の子になる夢小説と同じくらいたくさん書かれているように見えた。百合夢小説だってある。少なくとも私は書いたことがあるし、『テニスの王子様』のヒロインたち、竜崎桜乃と小坂田朋香や、『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー・グレンジャーの夢小説はかなり読んだ。夢中で読んだ。
ハーレム夢小説が好きだった。登場人物が多いぶん、たいていは長編のラブコメだった。ジェットコースターみたいな展開に夢中になり、連載が更新される日はいつも待ちきれなかった。男の子たちと丁々発止とわたりあう聡い女の子たちに憧れた。女の子を大切に大切に扱う男の子たちは原作とはまたちがう輝きを放っていた。「キャラの立った」女の子たちは、ときに作品の垣根を越えた作品を生み出すことがあった。それもまた好きだった。
傍観者になる夢小説が好きだった。「無糖」という言葉はよく覚えている。夢小説の脇には、しばし「狂愛」「死ネタ」「悲恋」などと属性が書かれていたけれど、そのなかの「無糖」は、キャラクタのそばを、傍観者として通り過ぎていくことを意味していた。見つめるだけでなにも起こらないことが約束されていた。書き手の視点から切々と綴られた誰かの横顔は、どこまでもいとおしかった。
これらの、相反すると思えることが同時に起こり得たのは、すべて、「名前変換」というものがあったから。
夢を見なければ、夢小説は書けない。
夢中にならなければ、作品のなかに入り込むことがどうしてできようか?
夢小説を読むとき、書くとき、私はずっとずっと夢中だった、冷静な判断なんてなにひとつしなかった。ただ、情熱の赴くままに行動した。
文字通り夢を見ていた。
少しフェイクを入れる。
今まで4年間腐女子達とは情報とネタを提供すれば食事を奢ってもらえるという良好な関係を築いていたんだが、人種の違う腐女子Aに出会った。
正確には、自分が腐女子と修羅場になったのでは無くゼミの3.4年生腐女子と教授の必修を履修して研究室に出入りしていた1年の腐女子Aが修羅場になったんだ。
その時、教授に用があったらしく隣の研究室まで来た腐女子A普通に喋っている最初のうちは良かったが途中で「増田さんって彼氏が居るんですね!増田さんに彼女が出来て嫉妬する彼氏さんとか萌えるな〜!」と意味不明な発言をし出した。
仲間も自分も「?」「何で増田に彼女が出来るの?」と理解出来ずに聞き返すと「逆でも良いです!」と更に意味不明な発言。
本当に意味が分からなかったが相手は18歳の女の子、子供だから話が拙いのか?と思い話を最後まで聞いてみることに。
どうも寝盗られや浮気、悲恋、ドロドロな少女漫画が好きらしい。
研究室の仲間が「増田はゲイだから彼女は出来ない、それに今は恋人も居る。本人にそういう事を言うのは不謹慎。常識が無い。」と言ってくれたが腐女子Aは「だって萌えるから!」とまるで分かって居ない様子。
その後、何度も同じ様な事が2ヶ月続き研究室の3.4年腐女子が爆発。
どうも性癖の趣向が合わないのも伴ったらしく研究室前の廊下でキャットファイトに発展。
腐女子Aはその後、学校に来ていないらしいが教授に聞いたところ発達障害と鬱病気味の子供だったらしい。
腐女子は口に出す前にゲイに対してより、まずはカップルに言って良い言葉なのかをよく考えると良いのかも知れないな。
女子とは違うので下ネタには対応可能だがネガティブな話題は口にしない方が良い。
この精神を忘れないで欲しい。