はてなキーワード: 家財とは
俺はもっと家事をしたい。家事労働はヒトを幸せにする。掃除や洗濯や修繕や調理を通じて、また、傾聴や会話やスキンシップを通じて、妻や子どもに尽くしたい。それこそがヒト(俺に限らない)の幸せに直結することだからだ。
ヒトは群れで生活する動物だ。他の構成員をケアし、食べ物を分け合って一緒に食べることに幸せを感じる。これは本能だ。また、ヒトは子育てする動物だ。同じ性質を持った他の生物と同様、子育てに喜びを感じるようにあらかじめプログラムされている。
ベンジャミン・フランクリン効果(助けた相手のことを好きになるという認知的不協和)も無視できない。手がかかる子ほどかわいい、という結果は、手をかけたという事実が生むものだ。家族に尽くせばつくするほど、家族への愛着は深まる。
幸せというのは、受け取った愛情で決まるのではなく、与えた愛情で決まる。愛されているから幸福なのではなく、愛しているから、愛を表現しているから幸福なのだ。実際に手をかけて、家事をし、話をし、食卓を囲むことで、そのように愛情を行動に移した者の幸福度が上がる。家事はその担い手を幸福にする。
しかし現実、俺の家事負担は小さい。週にわずか6回、土曜の昼食から月曜の朝食の調理(買い出しと後片付けを含む)を担当しているのと、家や家財や車や自転車などの修繕全般を担当しているほかはすべて手伝い程度で、家事らしい家事は何も担当できていない。俺が長時間の賃労働に縛り付けられているためだ。
家事だけではない。育児も限定的だ。子どもの世話をしたり、子どもとともに食卓を囲んだり、さまざまな話をしたり、勉強や料理やスポーツを教えたり、宿題を手伝ったりといった、育児にかかわる時間の大半を賃労働に奪われている。これもまた、俺のヒトとしての幸福を大いに損なっている。
本邦の男女には世界一の幸福度格差(女性の幸福度が高く男性のそれは低い)がある。これを男性の視点で説明するなら、賃労働負担の大きさと、家事参加の少なさという両面が原因だ。とりわけ家事の少なさは重大だ。我が国の男性は世界一家事をしない。多くの男性は幸せを賃労働に奪われているのだ。
我が家も結婚当初は、夫婦両方がフルタイムで働きつつ、平等に家事を分担し、夫婦の両方が幸福を感じていた。だが子どもができて夫婦で話し合った結果、俺がフルタイム労働でさらに残業を増やして家計を支える中心となり、妻はパートタイム労働の兼業主婦になることにした。
俺がパート主夫になる案も真剣に検討したものの、却下せざるを得なかった。理由は、当時30代前半だった俺が昼間にパートまたは時短で働けて、家から近い職場がないことだった。ジェンダー不平等を実感したのはこのときだ。オッサンが兼業主夫になるのは非常に難しい。
結果、俺は大半の家事を妻に任せ、ごく一部しか担当できなくなってしまった。うちの場合、家事全般について妻より俺のほうが得意である(あくまで自己評価だが)にもかかわらず、だ。逆に、賃労働の能力は俺よりも妻の方が高い(と俺は思う)にもかかわらず、彼女はフルタイムの労働を失った。
俺は、この国のジェンダー不平等を恨んでいる。俺を賃労働に縛り付け、家事や子育て(つまり俺の幸福)を奪ったからだ。
また、ほどよく分担できていれば、家事労働はそれをする者を幸福にする。だが、過分に割り当てられてしまえばそうも言えない。俺の妻はそれほど家事全般が得意でないにもかかわらず大半の家事を負担しており、せっかくの家事労働の多くが単なる面倒なタスクになりがちだ。これは幸せなことではない。
ジェンダー・ギャップ、幸福度格差、不公平な家事負担、結果としての男女の賃金格差などはすべて、要するに労働問題だ。男女で賃労働と家事を公平に担当しにくい現行制度に原因がある。なので以下のようなことを強力に推進すれば、諸問題はすべて(少なくとも我が家が抱えているものはすべて)解決する。
俺は「意識のアップデート」だの「意識改革」だのというものには期待していない。そんなものに期待していたら、ジェンダー・ギャップは永遠に解消しない。なぜならジェンダー・ギャップは、制度的な介入をせずに放置していれば自然に拡大していく性質を持っているからだ。
これは良い悪いの話ではない。生物としての自然な本能と、適応の結果に過ぎない。
まず女性の上昇婚志向がある。これは世界中のどんな社会にもあるものだそうなので、生物としての本能と言える。より多くの資源を獲得する能力を持つオスに魅力を感じることは、生物としてまったく自然だ。そして、ヒトのオスがそれに適応しようとするのもまた本能であり、生物としてまったく自然なことだ。
ただし社会全体でこの本能に適応すればするほど、ジェンダー・ギャップは拡大する。女性の上昇婚志向に適応した男性たちは、すべての資源を男性たちだけで独占し、資源へのアクセス権を女性から剥奪する。前世紀まで、まさにそのような社会が世界中で構築された。
このようにヒトの本能はジェンダー・ギャップを拡大し固定化する方向に作用するため、ジェンダー平等が自然に実現することはない。相手は無意識下の本能だ。意識改革では解決できない。制度改革でしか実現できないものだ。
現実的な解は、強制的なクオータ制の導入だ。繰り返すが、意識で本能は変えられない。だから制度を変えるのだ。クオータ制は、結果平等の観点で厳格なものであればあるほどよい。
政治家や企業役員はもちろん、あらゆる職種で男女比が1:1なるように枠を設け、罰則付きで厳格に運用する。外科医も、看護師も、消防士も、保育士も、研究者も、レジ係も、漁師も、助産師も、土木作業員も、歯科衛生士も、自衛官も、すべて男女同数にする。当然、仕事内容も拘束時間も賃金も男女平等にする。
当初は各職業における職能水準の低下が問題になるだろう。しかしそんなものは、ほんの20年か30年もすれば解消される。学齢期や新卒時を見ればわかるとおり、平均的な女性の能力は平均的な男性のそれを上回っている。クオータ制の導入で一時的に起きる職能水準の低下の問題は、ほどなく時間が解決するだろう。
賃労働も家事労働も、男女がどちらか一方に押しつけることなく、平等に負担し合う。夫婦のそれぞれが週に20〜30時間ほどずつ賃労働を負担し、あとの時間で生物として家族としての幸せを追求できる世の中になるのが理想だ。
こうなるともはや、主婦(主夫)という概念は崩壊だ。だがそんな概念は産業革命以降にでっち上げられたもので、男性を賃労働で使い倒すための便利な、そして非人道的なジェンダー・ロールだ。こんなものは徹底的に破壊し、すべてのヒトがヒトとしての幸福を追求できる社会を目指したい。
最後にもう一度強調しておく。家事労働を制限されることは、幸福を制限されているに等しい。より多くの賃労働を負担している者は、幸福度において劣後する。
しかし、現行の制度の中で各家庭が個別に部分最適化を進めれば、多くの家庭では、夫は賃労働の奴隷、妻は兼業主婦、という形をとることになる。これは不幸なことであり、制度そのものを改めるべきである。そして、ここまで述べてきた制度改革の過半は、すでにアイスランドなど北欧諸国において実施されている。
・・・バギオ市内に入るが早いか、比島人の凄まじい怒りの罵声が待ち受けていた。
「ドロボー」
「ゲット、アウェイ」
ありとあらゆる罵声と投石の嵐を、出来る限り姿勢を低くしてくぐり抜け収容所へ向かった。
(中略)
途中、比島人は沿道の至る所で我々の通るのを待ち受け、家から飛び出して来て、バギオ市街にも増して激しく、
「バカヤロー!」
「ドロボー!」
と声を揃えて大声で怒鳴る。
女子供までが、さも憎々しげに
と首を切られる真似をするかと思うと、侮蔑を表す彼等特有のしぐさで親指を立て、
「ゲット、アウェイ!(出て失せろ!)」
と繰り返し、大小の石がトラック目掛けて飛んできた。
(中略)
(貨車に乗り換え)途中停車する毎に比島人の憎悪のこもった眼差し、怒声、投石の嵐が続いた。
(中略)
後日収容所で聞いた話では、投石で頭を割られた兵隊、酷い者はピストルで撃たれて死人まで出た貨車もあったという。
しばらくして小さな町に入ると、鉄道の沿線には黒山のように住民が並んでいる。
列車が近付くと一斉に石を投げてきた。
(中略)
小石がパラパラと頭上に飛んでくる。
女達までが私達に向かって舌を出し、首を叩きながら喚いている。
ドロボウとか、パタイ(死ね)という言葉が、コーラスのように響いてくる。
(中略)
何のためか列車が野原の真ん中に停車したので、ホッとしてシートを取ると、住民達はここにもいっぱい居て相変わらず石を投げつける。
一人の老婆が近寄ってきて、
と言いながら、ビンロウの実を噛んで、真っ赤な口から血のような唾を吐き出し、憎しみを込めて叫ぶ。
肉親の誰かが殺されたのか、或いは家を焼かれたのか、家財でも奪われたのであろう。
「お前達はマニラで殺されるんだ!」
そう繰り返している。
私達もあのサンフェルナンド上陸以来、比島の住民達にしてきた事を考えると、その罪の大きさを思わずにはいられない。
途中、いくつかの集落を横切った。
彼等は、床の高い粗末な家の窓から顔を出し、黙ったまま、私達に軽蔑の目を向けていた。
彼等は、時々空に向けて小銃を放った。
それには度胆を抜かれた。
この罵声だけ覚えている。
(日本人射ち殺せ!)
こんな心だろう。
平和を取り戻した猥雑な街。
人が溢れている。
マニラの港に着くと、何百人ものフィリピン人男女が待ち受けていた。
ハングハング(首を締めろ)
石だけではない、ビンやコップを割った凶器も飛んできた。
最後の強烈な禊だ。
街を通過する時は、日本兵は頭を抱え、路上から飛んでくる石や、薪を投げつける老婆や子供から身を守らねばならなかった。
「バカヤロー!」
とか、「死ね!」とか叫んでいる。
ところが、Millare軍曹が立ち上がって、
「He is a good man! He is good!」
と怒鳴っている。
これには有り難かった。
(中略)
途中、フィリピン人が待ち構えていて、
「ドロボー!」
とか、「バカヤロー」
とか怒鳴っている。
どうしてこんなに怒鳴られるのか。
マヤントクでの住民との交歓の後だけに、狐につままれた思いであった。
バギオの街では・・・(中略)現地民が我々を見て、
と罵声を上げる。
(中略)
しばらくして貨車は動き出す。
「バカヤロー!」
「ドロボー!」
と叫ぶ声が聞こえる。
所々に陸橋があったり丘の高いところがあると、この下を通る時が大変である。
現地人が橋の上や丘の上に石を持って待っている。口々に、
「ドロボー!」
「バカヤロー!」
「パタイ!」
と叫びながら石を投げつける。
(中略)仲間の中には石が当たって血を流してるものもある。
住民がパラパラと家から路上に駆け出して、手を振って何か大声で叫んでいる。
私達はテッキリ戦争が終わったので、喜んで我々を歓迎するために、家から飛び出したのだと思った。
我々は彼等の姿を見ると、ニコニコして手を振った。
ところがこれが大間違いで、彼等は形相恐ろしく、口々に、
と言っているのである。
なかには石を投げつけようとする人もいる。
「バカヤロー!」
「ドロボー!」
「ヒトゴロシ!」
と罵声を浴びせられ、石を投げられた。
私達は頭を抱え荷台にしゃがみ込んだ。
石が頭に当たり血を流す人もいた。
現地の人を略奪し殺し、平和な国土を戦場にしてしまった私達日本人は、どんなにされても文句の言える立場になかった。
前方の沿道の両側にビッシリと住民が群がっている。
彼等はトラックが近付くと、老人から子供に至るまで、一斉に喚声を上げた。
拳大の石がいくつも飛んできた。
中には、手を首に持ってきて、水平に動かし、お前達は絞首刑だ、とジェスチャーで示す者もいる。
この調子では、フィリピン全土が、日本軍に対する恨みの炎で燃え上がっていよう。
無蓋列車はなおも南へ南へと進んだ。
そして、何度か、現地民の罵りと投石を受けた。
「バキャヤロ!」
「ドロボー!」
現地民が我々に叫ぶ侮辱の日本語は、とりもなおさす日本の占領時代に我々が彼等に使っていた言葉の仕返しであった。
「パタイ!」
「ヤマシタ、パタイ!」
「日本人を殺せ!」と投石する現地民の怒りを、我々は無蓋列車の中で、首をすくめて我慢した。
(石をもて追われる如く)敗残の身を、私は車中で目をつむっていた。
(証言者その2)・・・ところが思いもかけない次の言葉で、冷酷な現実の実態を思い知らされた。
ジェスチャーを交えて投げ飛ばす彼等の言葉は、相手を侮辱する時に使う日本語の、
「バカヤロー!」
「ドロボー!」
なのであった。
しかも、罵倒するだけでは飽き足らず、彼等の中には青竹を振りかざして殴りかかってくるものもいたし、私を目掛けて、小石を投げるものもいた。
(中略)
それなのに、まるで泥棒猫でも打鄭するように、青竹の一部がささくれだって裂ける位の勢いで、殴りまくる人もいた。
筋肉の脱落した痩せた体を目掛けて、ビシリ!ビシリ!と打たれる度に、不思議に肉体的な痛みは感じなかったけれど、まるで心臓に五寸釘でも打たれるような激烈なショックを受けた。
そして、その時、身に滲み通るような敗戦の惨めさをつくづく感じたのであった。
人家のある所を車が通っていくと、我々は罵声を浴びせられ、小高い家の庭先で洗濯をしていたオカミサンは、矢庭にタライの中の石鹸水を浴びせかけたのであった。
(中略)
遠い金網の外側にはフィリピン人がたかって、拳を振り上げたり、唾を吐きかけたり、日本人へ憎しみを表しているようであった。
沿道のフィリピン人達は、私達の乗ったトラックを目掛けて、石を投げつけ、日本語で、
「バカヤロー!」とか、
「インバイ!」
この付近のフィリピン人の家を我が物顔で横取りして、作物を荒し廻った私達だから、どんなにされようとも仕様のない事だと思う。
(中略)
駅につけば付近の住民がギターを持って、貨車の周囲に集まってきて、何かタガログ語で歌い、罵り、嘲笑う。
バギオに近付くにしたがって、現地民達が増えてきた。
「ギロチンOK」
「ドロボー!」
と口々に喚きながら石を投げつけてくる。
手を頸に当てて引き斬るような手真似をしては、唾を吐きかけ、バナナの皮などを投げつける。
(中略)
事実、日本軍は彼等の財産である家々を強制的に使用し、床や壁を剥がして家捜しをしたり、燃料の代わりにして荒らした。
ときにはゲリラやスパイと見なして、善良な市民さえ射殺した(注、斬首だろうに)。
寒風のごとき日本兵と、太陽のごときアメリカ兵では比較にならない。
途中で、シビリアン達が口々に
「ドロボー!」
「バカヤロー!」
と盛んに私達のトラック目掛けて投石したが、フルスピードで走り抜けてくれた。
(中略)
(列車に乗り換えた後)停車駅では無蓋列車に座らされ投石を防ぐ。
相変わらず
「バカヤロー!」
「ドロボー!」
の罵声と共に投石するシビリアン達。
情けない。
日本兵など、人間でもっとも下等な存在だからね(日本兵≠日本人)。
強姦ばっかしやがって!
パタイだよ!
フィリピン人達の怒りは、俺の怒りでもある。
強姦魔!
恥知らず!
ケンペースケベ!
ちんこ斬っちまえ!
45歳多重派遣と言っても、噂のGitHubの人ではない。すまんな。。
皆さんはプロジェクトの共有ディレクトリの最下層に”女子大生”という何もないファイルを作ってアクセスログをとっていたのがバレて怒られた事はあるか?私はある。2回。
仕事でとうとうGitHubすら使わずにプログラマ人生を終えてしまった。
レガシーな技術を使いがちな金融プログラマではそこそこ居るのでは無いだろうか。
年収は20代後半からは550万~700万位だった。残業代・退職金は無く交通費は出ない。
所属会社は営業も事務も居ない小さな所帯のフリーの集まりのような所で、会社の運営に必要な金額をある程度毎月納めれば良い会社だった。
仕事がなくなれば自分、もしくは他社員の人脈で仕事をとってくる方式。
フリーで居るよりは仕事を取りやすく、単価も上げやすいので一応会社の所属にしているだけの所だった。
それでもすごく世話になった。
私はやる気が無いプログラマだった。オフの時間にプログラムの勉強をしたことなんて殆どないが30歳、35歳の限界説を越え、45歳まで働けた。
これはそんな元ニートの高卒45歳、多重派遣の底辺プログラマの退職エントリ。
はてなのIT技術者諸氏はオフの日にも日々勉強をしているようで。
◯◯出来る人が居ないか?と聞き回る営業を見ていると多重派遣のSESとはいえ業務時間内に勉強させろと私は思う。
技術の勉強の話になると途端に何プペる?のような、仕事の為の無給勉強時間当たり前のように語られる事がやる気の無い私にはついぞ理解することが出来なかった。
足に鎖でもついてるのかね。私と一緒だね。
45歳で年収300万円多重派遣の彼は問題児なのかもしれないが、私よりはやる気があるプログラマなのではないかと思う。
退職までずっとプログラムを書き、テストをしていた。たまに客に直接要望を聞いて仕様書に落とすこともした。
C/C++・Java・各種Shell・VB/VBA・SQL、UNIX/Linux・Windowsサーバーでなんとなーく仕事をしていた。
プログラムは他の人が書いたプログラムを流用しまくって書いた。
ざっくりな話になるが、私より出来る人はわんさか居て、私より出来ない人・問題児が2割は居た。後者の彼らのおかげで私は仕事があったのだ。あと、東京だからあったのだ。
人並以上の理解をしていたのはLinuxの構造くらい。仕事でカーネル層に潜り込み、デバイスドライバの改造をしなくてはならず、月350時間くらい働いているうちに身についたものだ。
当時居た会社は年俸制という糞システムだったので1円も残業代は出なかったが。
全く知らない技術が使われている新しい現場に上位プロパー会社の営業に売りに出されることはままあった。
現場の人にさも「解ってます!」みたいな面で面接をし、何とか切り抜けることは出来た。このときばかりはいやいやながら上辺だけを勉強した。無給でな。
解っている事でも残業が沢山降ってきそうな場合は「ちょっと私には難しいですね・・・」「「いやー、解らないですね。。」と出来ない振りをする度量もついていた。
仕事は”出来る(都合の良い)いい人”に回ってくるし、仕事をしてもめったに単価を上げてくれないし、切られる時は切られる。
30歳を越えたあたりから必要な時は定時丁度に上がる精神的な技術も身についた。
それと同時にここ10~15年はブラックなIT業界でもようやく過残業を減らそうという機運が増えてきたように思う。
ライブやイベントにも足を運べるようになり、推しに投資が出来るようになった。
おそらくまだ10年はプログラマとしてなんとなく生活出来たのだろうと思う。
「あいつ、そこまで出来はしないけれど居ないと困ることもあるんだよなぁ」位のポジションで。
あるいはもう少しやる気を出し、転職をし、上位層で働くことも出来たのかもしれない。
・そしてその日、”1人日”以上の仕事が割り振られる。残業しても終わらない
・翌朝で何故おわっていないのか?を問い詰められる
・仕事のタスク割り振りが多すぎて終える事は出来ないとお伝えしましたが?と反論
・その状況で、空いている時間にやっておいてくれと新たなタスクが振られる
・空いている時間とは?と聴いてみるが、コンパイルしている1分の時間に少しづつといわれ、そんなの出来るわけ無いですよね?。どこに空いている時間があるか教えて下さい。
と、毎朝そんな問答を繰り返していた。
改善をする気もおきなかった。早く次の現場に行きたいなという事ばかり考えていた。
そして気づいた。この仕事にようやく私は飽きたのだと。
子供も数年前に生まれ、子供が成人するまでこの仕事をするのも耐えられないと。
そんな時に副業のほうを本業にする決意をした。会社を辞め、起業をした。
今は全く別業種の業界で働いている。この先うまくいくかは良くわからない。
3次請け、4次請けの会社に居たので理不尽やパワハラには事欠かなかった。
まだ若手の時、鉄砲玉として使われた事があった。
フロッピーを本番端末のあるセンターに密かに持ち込み、定例メンテナンスの振りをしてシステムを黙って更新するという密命が若手の私と、他社の派遣PGで新人のK君に与えられた。何度も。
かばんの奥にフロッピーを隠し、かばん持ち込み検査で検査員にばれないようにし、潜り込む。メンテナンス用の作業IDを使用して黙ってシステムを更新するというのを繰り返し行った。
今考えると下手すると裁判沙汰なんじゃないだろうか。しかも見つかったら責任を取らされるという。
テンパった彼は入館証ではなく、隠していたフロッピーを検査員に見せつけたのだ。
だが、早朝ということもあり、検査員がほぼ寝ていたので問題なく通れてしまった。
今思うとあの時は首の皮一枚で大丈夫だったんだなと。
大手家電メーカーの工場で仕事をした時、プログラムの仕事なのに作業服をまず”自費”で買わされた。作業服いらねえだろう。
工場内にある窓の無いプレハブ小屋が開発現場だった。人権が無ぇ。ファーウェイの工場にはヨーロッパの街並みが再現されているらしいが。
この現場は電機メーカーのIT子会社D社からE社に投げられ、部屋に私以外だと窓際管理職のD社社員1人とE社の人間しか居なかった。
何故、E社の人間の中に私1人だけ他社の開発要員が入るのか?
入ってすぐに理解した。担当するシステムが1人だけで長く開発していたシステムで、スパゲティすぎて破綻しかけているのだ。
これを開発し続けられればヨシ、破綻したら私の(会社の)せいということにしたいのだ。
入って1週間で営業にコレはダメだと、早く抜けさせてくれと直訴した。
結局抜けるのに4ヶ月かかったが、その間、本当に酷い日々だった。
小さな改修が多く、納期は1週間か2週間毎にやってくる。だが仕様を投げるD社の人が鬱で会社にあまり来ない。他のD社の人に聴いても何も解らないという。
1週間の仕事で金曜日納品なのに、木曜日の夕方に2日酔でやってきた担当者に仕様を聞き出し、金曜日に意地で納品するも、気に入らないところがあったらしく「前担当者よりスキルが低いですね~」と言い放たれた。精神の苦行だろうか。
私の抜けた後、E社の別な人間が担当するも無事破綻しかけているという話は後ほど聞いた。自分のスキルでは本当にギリギリだった。危なかった。
高校卒業後はニートだった。猫と母としか会話をしない2年を過ごした。
その後、大手新聞社とオペレーター派遣会社が共同で作っていた文科省認定ではなく定期の学割も効かない街のパソコンスクールに通った。
教師は二種(基本情報)も持っておらず、業界歴は1年だけで環境変数も理解していなかった。
その学校で多重派遣という底辺で生きる技術者の卵に他の20名と一緒になった。
文科省認定の専門学校の情報処理科では少しマトモに勉強すれば大手SIerや商社の子会社の「何ちゃらソリューション」に入れる事も多い。
アホの一つ覚えのように大手の子会社は「何ちゃらソリューション」なので、「何ちゃらソリューション」というIT会社を見たらセンスの良い経営者が名付けた何処か大手の子会社だと思って差し支えない。あとイノベーションとかな。イノベータとかな。
就職氷河期の真っ最中に地方中核都市で就職をしたのだが、入社直前に東京勤務になった。
会社からは15万円の引っ越し資金だけが支給された。氷河期の3月に転職は出来なかった。
親に敷金礼金4ヶ月分を負担してもらい、親父に秋葉原の石丸電気で家財一式を買って貰った。
SES企業はまず新人教育の当たりハズレががある。ハズレのほうが多い。
派遣法の隙間をついて、たった1人で新人が派遣されてくる事も多い。彼らの大体は苦労を強いられている。
私は運良く同じ会社の人が沢山居る現場に入ったのだが、教育担当が想像を絶するパワハラマンだった。とにかくどんなことにもキレる。
ある日個室に呼び出され「お前は田舎に帰って缶詰工場で働け。なるべく頭の働かなくて良い仕事を選んでくれ。業界にいると迷惑だ」と言われてしまった。
親に学校に通わせて貰い、引っ越し代も払ってもらったのに使い物にならないと言われたときの絶望感は大きかった。
地下鉄の電車がホームに入ってきた時、ホーム下にふと吸い込まれて行きそうになり、寸前でハッとなり鼻先を電車がかすめていった。
知らないおばちゃんに「しっかりして!」と怒られた。都会の人も優しい。
それ以降、他社でも同じチームの新人には丁寧に接していた。私はまだ恵まれていた方なのかもしれないと思うこともままあった。
その家電はTronからLinuxにOSが切り替わり、開発・コンパイル用のソフトウェアのシミュレーターが新規開発となった。
Linuxのカーネルプログラミングが必要となり、日本語の文献もインターネット上の文献も少なく、オライリーの洋書(現在は日本語版もある)を取り寄せて読まざるを得ない状況だった。
英語は全く出来ない&私が作るとなると当然開発は遅れた。
私はカーネルプログラミングなんて当時はしたことが無かったし、集められた人員もLinux上でC言語の仕事をしたことがある。くらいの人員が集められたのだ。
単価が安い人しか使ってはいけないというルールで運用されていたらしい。
苛立った家電メーカーの”部長”が私を広いフロアの大人数の前でこう叱った。
「こいつ全然解ってないじゃないか!!なんでこんなのにやらせているんだ!!」
中国出張で散々おねーちゃんを買った自慢をしていた糞みたいな人間に罵られるのである。
月単価55万で350時間働かされ、残業代は1円も出ずである。誰もフォローをしてくれなかった。
徹夜が3日目に突入した午前3時、役職付きが私のPCの後ろで「まだ出来ないのか?」と15分おきにやってくる。
何とか完成はさせた。恐ろしいことに若かった当時は満足感をそれなりに得ていた。
精神的に色々と凹んでいた時に励ましてくれたのは中国人の同じ派遣の人だった。
大卒の育ちの良い中国人派遣技術者が沢山居たが、彼らは本当に性格がまっすぐだ。彼らが私の中国感を大分良くしてくれた。
(ずっとメッセンジャーばかりやっている連中もいたが)
彼らのような有益な人材が来てくれる時代があと何年あるのだろうか。
私は所属未定のまま倒産した次の日も、土日も何故か働いていた。
自分が働かないと他の人が倒れてしまうと当時は考えていたし、ようやく仕事が出来るようになって謎のやりがいを感じていた。
そして、翌週、中間の会社から流石に所属未定はマズイのでフリーとして契約しましょうと言われたのだが、単価の話なんて当時若造だった私には解らないのである。
結局、300時間以上働く中、残業代無しの45万円固定と言われるまま契約をしたのだが、
当時の私には多い金額に思えていたものの、都内のフリーの技術者としては当然低すぎる金額であった。
忙しい中、アドバイスを貰う余裕もなく、無知のために中間会社の狸親父に低い金額で契約させられたのだった。
みなさんは自分の単価くらいは知っておいたほうが良い。
賢い同じ会社の同僚は失業手当で半年間遊んだか、会社契約と同じ単価でフリーとして契約していた。
余談その2、当時なんとなく興味を惹かれて当時流行っていた日本礼賛本を読んでみた。
国産OSのtronは携帯電話で世界を席巻!!みたいな事が書いてあったが、その本が出ていた頃、携帯電話のOSはLinuxとSymbianで締められていたのを知っていたので興味深く読んだのを覚えている。
他にも
「1次請けが私の単価を上げてくれても中間会社が搾取し、私には全く反映されない話」
「野田がドモホルンリンクルのバイトのように円高を注視し続けた時、円高&オフショアブームで単価が2年で2回減った話」
「中間会社にオフショア開発の失敗の後始末を手伝って欲しいと言われ、現場をインフルで倒れた振りをして休んだ話」
「5000円の著作権フリー音源をシステムに使用するのに数百万かかった話」
「メモリ枯渇エラーが頻発したのに数百万以上のコストをかけて打ち合わせをする虚無の話」
「メモリ初期化エラーが頻発した時に、解決方法としてとんでもない方法を提示され、阻止した話」
「15万円のPCが60万円で導入される仕組み」
「入社初年度の忘年会の一次会が新宿の有名なゲイのショーパブで、他の社員と会話も無く終わった話」
「無呼吸症候群で猛烈な睡魔との戦い、現場で怒られるようになり、睡眠薬で生活リズムを取り返した話」
「大手会社のコンプライアンス啓蒙画像に著作権違反を発見した話」
「キレる、人前でイライラする人とは働きたくない話」
「某銀行の開発子会社の美人率が高い・銀行員の婚姻率の格差社会の話」
などなど考えていたが長くなったので終わり。
多重派遣先は色々なキャリアの人が多い。元ホスト、元キャバ嬢もいれば元医師の中国人、元アニメ会社勤務、元美容師、元寿司職人等の転職組も多い。
以前いたプロジェクトの有名SI企業のPMもSES上がりの元寿司職人だった。
SESは就職の壁が低い。そこを足掛けとして転職し、さらなる転職で大手や大手子会社に転職するのは悪くないキャリアプランの一つなのかもしれない。
SESの会社も玉石混交なのでまずは良いSES会社に入るのは大事だし、多重派遣は改善されてほしいが。
何が書きたかったのか忘れたし飽きた。
業界からやる気の無い45歳が1人減り、業界は少し平和になった。
追記:続編を書きました。
2020年も終わるし、今年の愚痴は今年のうちに流すのがいいかなって思った。
正確に言うと2019年から痛い状況は始まっていて、2年越しで踏んだり蹴ったりな状態が続いている。
予めスケジュールを告げていたにもかかわらず、平気で予定外のことをいろいろぶっ込んでくる。
中には、数週間前から問題を把握していたのに、突然告げてきて解決せよと言われたこともあった。
はっきり言って、わかった時点で教えてもらえれば帰省前に解決できたのに。
会社も会社で、介護帰省から戻ってみれば、大小の問題が起きていて、毎回自分の出社待ちとかになっていた。
親一人子一人、助けになる親戚皆無で飛行機びゅんびゅんだって言ってあるのに、容赦無く仕事をブチを込んでくれていた。おまけに面倒もブチ込んでくれていた(怒)。
正直体調が悪くなっていたが、休めば仕事が積み上がるので、騙し騙し仕事をしていた。
進捗悪すぎて、嫌味言われたけど。
産休・育休というのは権利なので、取得自体にはなんの問題はないのよ。
でも、そこに人を補充する・しないの問題が出てきて、現場が疲弊すると、休暇を取得した人間に非難が向かうのは世の中では良くある話。
うちはマタハラで訴えられるのが怖いので、なにもかもがまんして!って人事に言われてますwww
ただ、産休・育休・時短…どれを取るにせよ、取得者の性質によっても対応は変わってくるんだよね。
本人が望むので、復帰がうちの部署になった人は、
「私は子供たちも育てて頑張っている。なぜ、みんなわかってくれないの?なぜ、褒めてくれないの?わたしの子供かわいいよね?」
という意識が極めて強くて、毎回産休・育休から復帰するたびに、復帰先の管理職を疲弊させている。
共働きで子供を育てるのは立派だけど、我々は結婚しろとも子供を産めともお願いしていない…。
自分が望むからこそ結婚したのだろうし、子供も複数人産んだんだと思うんだけど、そこに「なぜ、理解してくれないの?褒めてよ、配慮してよ、わたしの子供は可愛いって言ってよ」と思うのはお門違いだと思うんだけどなあ…。
もう、クソ面倒なので「本当に頑張ってるよねー。頑張ってるねー」って面談するたびに言ってる。
そのせいか、自分と部長と三者面談した時に、「うちの会社で、こんなに気遣ってもらって、評価されたのは初めて」って泣かれた。
泣くな、こんなところで。クソ面倒くさい。それに、他の部署だって、できる限り気遣って評価もしてるぞ。
そもそも管理職なので、気持ちよく仕事してくれるなら、心にもない歯の浮くセリフだって平気で言えますよ。
他の部署でも適当に言ってやればよかったのに、ほかの管理職が偽善者になり切れないのが、うちの会社の良いところでもあり悪いところでもあるよね。
ただ、何度も育休・産休取得したせいもあって、お給料が驚くほど少なかったのは気になっていた。
新人よりずっと仕事もできるし、新人と組まされる率も高くて新人教育だってしてきてるのに、時短とは言え、給料が新人とほとんど同じ(か、それ以下)と言うのはどうかと思うんだよね。
原資が決まってるから、より仕事をしている人に渡すのは間違ってないんだけど、それにしたって…ねえ。
自分は偽善を演じるのは平気だけど、性別や年齢、育休・産休取得を理由にして給料控えめにするのは嫌だった。
もちろん、無理な時もあるよ。でも、可能な限り評価はしたいわけさ。
だから、うちの部に異動してきたのを機に、昇給制度上MAXまでお給料を上げた。
コロナで経営が傾かない限りは、今後もそうやってばんばん上げるつもりでいるんだけど、社長以下全従業員が注視しているところで
「子供を育てながら仕事をするのは大変でした。周りの協力も得られないし、理解もないけど頑張ってます」って言われたんだよなあ。
まあ、うちの部署に入る前からそうなんだけどさ、いい気分はしないよね。がんばって給料上げたのにw
こちらは本人が望まない残業はさせないし、時間内に終わらなかったものはスケジュール変えたり、他のメンバーに振り返るなんかしてやってる…それでも配慮不足って言うのかー。
それじゃ、人事も苦い顔して要望をシャットアウトするよね…って思った。
自分も体調が悪くて、とても他人の面倒見ている場合じゃなかったんだが、部長が全部ぶん投げてくれたおかげで、2019年同様、部署メンバーの不満を聞きまくる羽目になった。
私からしたら、育休・産休・時短の他、介護休暇なども付与してくれるので、中小企業の割には頑張っている方だと思う。
第一就職氷河期世代なので、若干の生存バイアスかかってる可能性があるけど、自分と同年代の女性たちは、妊娠を機に辞めざるを得なかったことが多かったので、世の中的にもだいぶマシになってきたと思うんだけどなあ。
まあ、不満をぶつけてくるメンバーは新卒採用組で、うちの会社しか知らないから、制度があっても使えなかったり、制度自体がなかったり…っていう中小企業が多いのも知らないんだなあって思う。
自分は色々転職してるので、ひっどいブラックからホワイトまで知ってるけど、うちの会社はなかなかの白さだと思うよ。問題ないわけじゃないし、愛社精神は全くないけどなw
最終的には「他社はやってるのに…」って話になるのだが、それこそ「うちはうち、他所は他所」で、転職すればいいじゃんって結論出てしまう。
それを口にすると「パワハラだ!」って話になりかねないので黙っているけど。
世の中には、どんなにわがまま言っても、できることとできないことあるんだよ…。
そうこうしてるうちに、コロナが猛威を振るうようになって、我々も在宅勤務になった。
他のメンバーは定時で終われるのだが、自分はかなり長時間労働を強いられた。
最近の管理職は、管理してるだけじゃなくて、プレイングマネージャーを求められるからな。
めちゃくちゃ具合は悪かったが、産休・育休・時短には配慮しても、手術するかしないかの瀬戸際の人間には配慮ないんだよね。
まあ、法的に「配慮しなさい」って言わないと、会社は配慮しないけどさ。
で、年末に入る頃。
自然治癒は無理と言うことになって、年明けに手術することになった。
過去に同じように経過観察になった時は自然に治ったんだけど、今回はダメだった。
理由は免疫力の低下らしいので、年齢もさることながら、去年から続いていた肉体的・精神的負担が大きかったんだと思うんだよ。
年1回のストレスチェックも、あり得ないほど悪くて、産業医面談行きになったくらいだから。
手術自体は全身麻酔で30分程度なんだが、放っておくと癌化する病状だ。
他にも婦人科系に関する部分が思わしくなくて、子宮取ることも考えようか?って言われてる。
元々、子供は欲しいと思ったことないし、年齢的に子供は無理だから、取ってしまっても問題ないと思う反面、あるものがなくなるっていう事には一種抵抗があるんだよね。
面白い事に、医者には「子宮取っちゃう?」ってカジュアルに言われたけどw
この件については、自分よりも母親が抵抗を見せていて「子供欲しくなるかもしれないのに!」って言ってきた。
いやいや。
今産んだとしても、子供が20歳になる頃には還暦を大きく過ぎてるんですよ。
無理無理。大人になった途端に親の介護とか、子供がかわいそすぎるだろうが。
それに、御体満足じゃない可能性もかなり高いぞ。
お互いに支え切れないじゃん。無理無理。
母親は、ショックが大き過ぎて、なんでもないと思い込んでるに違いないと思ってるみたいなんだけど…。
例えば。
大切なもの、人、仕事…とかあったら、やっぱり驚くと思うし、手術が怖い、どうしようって考えると思う。
でも、全くないんだよねえ…。
手術が本決まりになった後、何をしたかというと保険が下りるかどうかの確認だった。
これとは無関係で身の回りも整理してたから、もうちょっと所持品減らしたいという思いも強くなったし。
多分、自分には「手放したくない幸せ」が全くないからだと思うんだよ。
不幸ではないけど、手放したくないものもないというのが現状なので、「もう、どうにかなってしまったら仕方ない」という心境に飛んじゃってる気がする。
あとストレスたまってるのかもねえ。本当に疲れたからさ。この2年くらい。
終活に向けてゆっくり動き出したばかりだったので、どのくらいお金があれば自分の始末をしてもらえるかなというのも考えてるし、終わりへ終わりへゆるやかに向かっていたのも影響してるのかもなあ。
みんなお疲れ様。みんながんばった。
2020年中に愚痴を流せば、きっと2021年はいいことあるよ。
最近いろいろとかつかつなので、固定費を浮かそうと引っ越そうとした。
審査通るかなと思ったけど落とされた。信販系の会社(オ〇コ)だった。
言っておくが家賃も公共料金もきちんと払っている。貸与型の奨学金ももらっていない。金融機関から借金もしていない。
そもそもクレジットカードも持っていない(過去に二度審査おちした)。
IQ69の大学病院に通っている精神障害者だったのがいけなかったのだろうか。今となってはわからない。
ただ、5年前無職だったころ普通に審査に通ったので謎ではある。
審査に落ちたことはデータベースに記載されるのだろう。だから今ほかの審査会社で審査通してもらっても落ちる可能性が極めて高い。
今住んでいるところは3度目の更新を迎える。審査もあるだろうしそこでも落とされるに決まっている。
2回の審査は健常者のころ研究所に勤務していた時受けたものだ。
他の物件も保証会社必須のところばかりで審査おちするだろう。公営住宅も一人で入居できるところはない。
実家は実家で荒廃しきったくそ田舎だし帰ったら精神状態が悪化する。
楽しいライブコンサートの時間はあっと言う間にすぎて終わってしまう切ないわね。
今朝方はまた幌馬車に揺られて
無事帰って来れました。
6時間で帰れるかなと思ってたけど、
8時間ぐらい掛かっちゃって、
おまけに雨降って寒いし、
幌馬車移動も大変よ。
今週前半は怒濤のように過ぎていったので、
そう言ったどっとたまったモノを片付けなくちゃいけないので、
それはそれで大変だし、
ここまでの意気込みはあるんだけど、
いざ書き上げるのは大変なのよ。
ただただ思いをと筆を運んでも
どうにかこうにか、
知らない人にもそう言った魅力が伝われば良いなと思うけど、
内輪でウケていても仕方ないの。
外に向けて知らない人が読んで
何かの知るきっかけになってもらえたらなぁって。
この思いを共有したいの!
ああいうSNSで軽く流れちゃって後から拾うことが出来ないものよりも。
ごめんごめん、
またマジトーンだわ。
たまになっちゃうのよね。
うふふ。
幌馬車の中で食べるシースーよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
田舎にはまともな家が無い。特に、自治体が「空き家バンク」に登録するような家は。
テレビに出てくるような風格ある古民家は家主が手放さないか、すでに誰かが手を付けており、残っているのは単なる安普請の「中古民家」だけだ。
戦後から昭和40年代にかけて作られたそのような家は、貧弱な設計と建材によって断熱性も気密性も低く、夏は暑く冬は寒い。
外壁は一様に茶色いトタン板で、屋根は青いトタン板。大家族での生活がまだあった時代のため、間取りは二間続きの十畳間など、不必要に広いものが多い。
またトイレも問題だ。下水道の無い集落では汲み取り式が標準で、ほんのちょっと改修してあっても簡易水洗式。どちらも外に突き出した臭い抜き煙突(臭突)でそれと分かる。
きちんと合併浄化槽にリフォームしたような家もあるが、そのような家は家主かその縁者が住んでおり、そもそも空き家にはならない。
さらに都会では引っ越しの際、家財道具はすべて運び出し、空っぽの状態で明け渡すのが常識だが、田舎はそうではない。空き家の場合、なぜそこが空き家になったのかといえば、
息子や娘が次々に就職や結婚で家を出て行き、最後に残った高齢者が介護施設に入所したからだ。こうした場合、高齢者は「いつか戻る家」をわざわざ片付けようとはしない。
息子や娘もそう考える。そうこうしているうちに高齢者は施設で死ぬ。空き家となった家には高齢者の家財道具がすべて残ったままだ。年に一回来るか来ないかの息子や娘も、
手間と金のかかる家財の処理を先送りにし続ける。家そのものを解体するにはもっと金がかかるし、更地にすれば固定資産税が上がる。
ただ放置することが合理的な選択となり、中古民家は補修もされず、しだいにおんぼろ中古民家となる。
そんな無価値な住宅を、都会から来るアホな移住希望者に当てがって賃料をとり、あわよくば売却しようというのが「空き家バンク」。
きょう、父が死んだという報せが来た。
わたしが中学生の頃、修学旅行に出かけるのを見送ってくれたのを最後に姿を消した父だった。
父が姿を消して以降当時住んでいた土地を離れるまでの約2ヶ月間(その後もだけど)、母が大層苦労していたのはなんとなく覚えている。どうやら父は働いていた会社にさまざまな迷惑をかけていたようで、会社の人が行方を探していたのだ。(母は捜索願を出すよう強く頼まれていたし、引っ越したあとお世話になった不動産屋さんに父の会社から私たちの転居先を訪ねる連絡が何度もあったと聞いた)
その後両親は無事に離婚をし、そこにいたる過程でとある土地に住んでいることを知った。会いたいという気持ちが湧くことは当然なく、どこかで生きているのだろうとだけ思って過ごしていた。
当時未成年だった私は父の戸籍から抜けることが難しく(家庭裁判所に申請が必要だった)、急がなければならぬことでもないとそのままにしていたけれどそれが今回報せがくるきっかけになったのだろうと思う。成人してからさっさと抜いておけばよかったと今は後悔している。
役所から来た手紙には父が死んだこと、独居で身寄りがなく、すでに火葬が終わっているので期日までに遺骨と家財の引き取りをするか否かの申し出をし、残った財産等で葬儀をあげて良いか答えて欲しいという旨が書いてあった。
遺骨の引き取りをするつもりはもちろんないし、家財など送られてきても困るので拒否をしようと思っている。相続についても書かれていたので、もしかすると借金などあるかもしれないし放棄するに限るなと一枚の紙を見ながらぼんやりと思った。
住居の所在地が書いてあったので、なんとなく調べて察しがついたことがあった。
おそらく父は、その土地の福祉関連にお世話になっていたのだろう。大層ご迷惑をかけてしまったに違いない。これからさらにご迷惑をかけてしまうのだな、と申し訳なく思ったが正直もう関わりたくないので早めに返事を出さねばならない。重ね重ね自治体の皆様申し訳ない。
身寄りもなくたった1人で死ぬとはこういうことなんだなということを突きつけられた気がした。いつかは私にも同じことが起こるだろう。独り身で一生を終える可能性が高いわたしは、どれだけ周りに迷惑をかけずに死ぬことができるのだろうか。
うちも似た感じ
でも幼稚園で「うちって貧乏なの」と私がみんなに言っていることが伝わると母は慌てて「中流家庭」と言い直した
あとからなぜ貧乏だと言い聞かせていたのか聞くと「平均的な金銭感覚を持ってほしかったから」らしい
しかし小学校から海外校で芝生の校庭にエアコン付き屋内プールだし、クラスメイトの親は社長などの明らかに高収入とわかる職業ばかりだったし、年に何度もビジネスクラス時々ファーストクラスで海外旅行
さすがに気付く、というか自分のことをお嬢様だと思い込んで完全に天狗になっていた
そんな時突然父が会社を辞めた
家にあったフィットネス用品やらカラオケやら高そうな家財を売り払って帰国することになった
父は私が高校生になってもまともに働いていなかった
でも私は大学に行きたかったので家計を気遣って奨学金を申請した
先生に呼び出されて、審査が通り無利子の第一種を借りられることになったと伝えられた
奨学金担当の先生は苦学生だったらしく、我が家の源泉徴収票を見て哀れみ激励してくれた
学部4年次、就活が嫌になったし大学院で研究を続けたくなったので再度奨学金を申請した
そして大学院を修了して就職、しかし奨学金の返済がなかなかにキツかった
母に愚痴をこぼすと学部、院の分全て、合計数百万を一括で返済してくれた
ここで疑問が湧く
なぜ一括で返す金があるならわざわざ借金したんだ……?
うちの親は基本的に放任主義で、子供がやりたがることはとりあえずなんでもやらせてみる方針だった
私は貧乏な家計を気遣えるいい子ちゃんのつもりだったので、奨学金を借りることをもちろん両親に相談していた
両親は「とりあえずやってみなさい」と言い私はそのままうちを無収入の貧乏一家だと思い込んだまま奨学金を借り続けた
それは源泉徴収票の提出で行っていた
そんな風に先生に激励されたのを覚えている
それを私は知らなかった
今思えば両親はろくに働いている気配がないのに私は塾にもピアノ教室にも通い続けていたし、海外留学は高校生の間に2回も行った
留学費用を稼ぐためという名目で学校に許可を取ってアルバイトをした
しかしなんだかんだで親が出すことになり、バイト代は全て服に使った
大学附属のやつではない
入居時に百何十万円納め、毎月の支払いも二十万弱だったことを後から知った
住居費と学費は親が払っていた
両親が働いていないからうちは貧乏というのは私の思い込みだった
あまり働かずに好きなことをしていても暮らしていけるほどの資産があったのだ
聞けば家や車などの大きな買い物も含めて、借金や分割払いはしたことがないという
私の奨学金以外は…
まあこれは親ではなく私がした借金ではあるんだが…返済を頼ってしまったが…
今でも私が車などを買う際にローンを組むと払う金額が増えて損ということで、まず母が現金一括払いをし、私が毎月いくらかずつ返す"お母さんローン"というシステムを利用させてもらっている
「今思えば」とは言えどうして気が付かなかったんだろう
かなり狭い枠だったはずだ
それをお金を借りる必要がなかった私が掠め取ったために本当に必要な家庭が枠から溢れてしまったのではないか
直近1年間の収入が極少ないことと、多少成績が良いだけでどうして申請を認められたのだろう
というか源泉徴収額って資産は関係ないの?収入に対してだけ課税があるの?
その辺もいい加減勉強した方がいいのだろうな
これを堂々と語ったら多くの人が呆れ、軽蔑すると思う
元増田を読んで似ているなと思って吐き出したくなった話
ブコメ読んで沸いた疑問
しかしそう考えていくとさらに先祖の資産であって親の金でもない
親はそんなに働かずたまに減った分を補充している程度なので増やしてもいない
今生きている誰の金でもない金は誰の金なんだ
私が生きてきたのにかかった金は私程度の収入では一生かかっても返せない
もちろん収入の半分以上を毎月家に入れて誰かの資産を補充している
でも一生補充しても補充し切れる金額ではない
全然まとまってない、ずっと誰にも言わなかったことを誰かに見て欲しくなってそのままのテンションで書いている。面白みもない。嘘も混ぜている。よくある家族ネタだしつまらないので途中で読むのをやめてもいい。
うちの家は父 母 兄 自分の4人家族で3人暮らしだった。物心つく頃から父親は家に住んでおらず、週に1回〜月1くらいで家に顔出してた。頻度はまちまち。稀に泊まった。友達の家や漫画やテレビに出てくる家庭では父親は同居しているから不思議だった。母に聞くと仕事としか言わなかったので足りない頭で出張が多いと思っていた。姓は全員父親と同じだったので、普通の家とちょっと家族のあり方が違うくらいにしか思ってなかった。あまり顔を合わせないので父親は自分と兄には優しめで、車で遊びに連れ出してくれたことも結構あった。親同士は普通に会話していたけどよく口論になる。別に仲良い雰囲気はない。でも全然不満とかなかった。ちょっと母親は神経質でヒステリックだったけどそれは自分が悪いことしたときぐらいのことだったから気にならなかった。
小学校卒業までそんな感じ。中学から父親が買ったマンションに引っ越したが新しい家に父の部屋はなかったので引き続き3人暮らし。父親は仕事、母親はパート。しばらく平和だったけど兄が3つ上で高校受験と大学受験が重なったり、兄が浪人決定したり自分も思春期だったりで家がどんどん殺伐としてくる。母親は常にイライラして、他の人間を家にあげるのを嫌がった。
更に父親の会社が経営難?で家が差し押さえられそうになってたっぽい。実際売りに出されたり家財が持ってかれることはなかったけど、よくわからないうちにその騒動は終わった。
自分はというと中学卒業後、高校は適当に近い公立に決めてしまった。安いしいいかと思った。ただその後に何したいかは考えてなかった。学校生活を送ればいいと思っていた。いずれ大人になって働くことが全く想像できてなかった。高校でやりたいことも勉強したいことも見つけられなかった。当然やる気もなく勉強にはついていけなくなった。あれよあれよと月日が流れせっかく入った高校は3年生で不登校気味になってしまった。学校は行ったり行かなかったりで行ったとしても遅刻ばっかり。母親は驚き怒っていた。不登校気味になってから毎日布団で寝ていると母親が部屋に入ってきて、学校に行け勉強しろ、恥ずかしい ちゃんとしないからこんなことになる 生まなきゃよかったと言っていた。大学受験をしない気なら身体を売って生活でもしろと言っていた。なんとか学校へ行っても母親の声が聞こえてくる気がした。よくわからないけど母親は学校に電話して担任にキレ散らかしていたらしい。色々限界になり父親に連絡し、消えたい死にたいと話した。
そうすると謎のお金持ちパワーが発動して、あっというまに自分だけ引越しすることになる。正直びっくりした。家は貧乏だと思ってた。だって差し押さえられてたし、公立行ったのもちょっと気を使ったからだしこんな裏技が人生にあるのかと思った。家賃も光熱費も全部父親のお金だ、夏休みから一人暮らしだ。でもうつ病になって毎日泣いて暮らしていた。
なんとか高校を卒業すると父親から連絡があってこれまたびっくりしたのだが、結婚すると言ってきた。子供が生まれるんだとも言った。父親はいつの間にか新しいウクライナ人の奥さんと結婚していた。奥さんの方には連れ子もいるらしい。情報過多すぎて感情が追いつかなかったことだけ覚えてる。いつの間にか離婚したことは誰からも一切知らされていなかった。
なんとなくこの家の人を書いて終わる。
半年前まで働いてもう辞めた。貯金で生きてる。高3の夏休みから一人暮らしだった家は出た。
母
元看護師?仕事は介護系だった気がする。誕生日を知らなくて誰も祝ったことがない。春だった気がする。たぶん60代後半。離島出身 。
父
自営業 。この人も誕生日わからないけどたしか1月。たぶん70くらい、東北出身 。ウクライナの奥さんとこに3人子供がいるらしい。
兄
3個上 自分以外の家族で唯一誕生日はっきりわかる。頭良い大学卒業したあと派遣で働いてたはず。ほぼ片親状態の家であそんだり面倒見てくれてあんまり子供っぽくなかった気がする。小学生のときに性的ないたずらされてたこと思い出してから連絡とってない。
というか全員と連絡取れない。これでおわり。