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はてなキーワード: 命題とは

2020-04-28

対偶っていつでも使えるの

AならばBが真なら対偶のBでないならAでないも真であると。

AとかBが具体的なものの集まりならベン図を用いれば理解できるけど

AとかBが抽象的な概念場合もそのまま同じように使って良いんだろうか。

それともそういう場合命題とは言えないから使えないということになるんだろうか。

2020-04-27

岡村問題お金が無くて仕方なく◯◯する人は可愛そう」は真か偽か

お金がなくて仕方なく◯◯する人」を期待するのは人の不幸を喜んでるわけだから良くない説

分割するとこれは

1.「お金がなくて仕方なく◯◯する人」は不幸であり、可愛そう

かつ

2.不幸であり、可愛そうな人を期待するのはよくないこと

となる

 

2は自明で真でいいと思うので、1について考える

言い方を変えれば

「本当は◯◯したいけど、それじゃ儲からない、あるいは仕事がないので仕方なく◯◯する人」

しかしそんな人どこにでもいる

「本当は家でゴロゴロしたいけど、仕方なく仕事する人」

「本当は絵の仕事したいけど、それじゃ儲からない、あるいは仕事がないので営業仕事する人」

でも当てはまってしま

必ずしも真とは言えなく、普遍的なことだと思う

普遍的から不幸ではない、というロジックには議論余地があるが)

 

というわけで1が必ずしも真とは言えないので「お金が無くて仕方なく◯◯する人は可愛そう」は個人的には言えないと考える

おそらくここは大体の人が同意なのではないか

 

お金が無くて仕方なく◯◯する人は可愛そう」を真にするためには、もっと命題を具体化する必要がある

お金が無くて仕方なく風俗する人は可愛そう」が真だと思ってる人が多いということではないだろうか

まり風俗特別視しているわけだ

2020-04-25

人間の関連付けに関する脳について

ある5chスレッドで金に関する話題が持たれた。金と技量に関連性はあるかといった内容だったのだが、そこでわざと関連性に引っ掛けつつ別の話題を投下してみた。内容はやや釣りに属するものかもしれない。すると見事にそのレスに対して全く関係ない書き込みと同一視しつつこちらを批判するようような内容が書き込まれた。インテリ増田の連中ならバカやアホの一言で済ませるのだが、基本的自分としては人間の脳は錯誤しやすものだと思っている。

例えばこちらでよく行われる論理学系の増田による釣りで、「オタクは衆人に迷惑をかける」という命題提供されることがある。実のところこれには悪意があるが、命題としては透明無色であるオタク迷惑をかけることもあるし、かけないこともある。前提の縛りが少なくその程度は許容できる範囲だ。ところが、かかる5chの連中に至ってはこうして思考を切り離せない。「オタク迷惑をかけると言ってるのはオタク社会を知らない無学だからだ」となぜか返す刀で当人批判まっしぐらである。こうなると増田論理学狂の格好の的だ。

だが無用に彼らを責めて良いものか。人間の脳のこうした関連付けは実のところ人間に最短で最適解を選ばせる機能の一部なのだそうだ。例えば「曇っていて天気予報では雨と言っていたので雨が降るに違いない」、という思考は、天気予報と曇りのビジュアル当人認識されて関連付けられた結果だ。実際に雨が降るかどうかが無関係でも人は関連付ける。関連付けるから人は最適解を最短で導き出せるし、支障なく暮らせる。

長期の干ばつに見舞われた砂漠ラクダは水をのむことを忘れてしまい、渇きにより死亡してしまうのだそうだ。これはラクダにとって自分の渇くという欲求と水が結びつかないか、少なくとも生命危機に水が必須であることを認識できなくなった結果と言える。

2020-04-20

anond:20200420074750

対立軸というか命題をなにも設定していないのが

原因だと思う。「経済vs命」とか。

まともな専門家擁立できていないように見えるし

単なる揚げ足取りに終始しているから、なんも

戦略ないんだろうな。

自分的には消えてほしい政党第一位は立民だなぁ。

2020-04-09

衆人に訴える論証 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%A8%B4%E3%81%88%E3%82%8B%E8%AB%96%E8%A8%BC

衆人に訴える論証(しゅうじんにうったえるろんしょう、羅: argumentum ad populum)とは、論理学における誤謬一種であり、多くの人々が信じている、支持している、属している等の理由で、ある命題を真であると論証結論付けること。

関連:バンドワゴン効果

2020-04-07

anond:20200407225111

経済対策命題を、

自殺を食い止めるための経済対策って言ってしまえば事の重大さ全員に伝わるんだけどね…

名前出てこないけど、髭の経済専門家が行ってたけど。

2020-03-30

anond:20200330124225

全体として悪ぶって芸人は少ないし好感度大事にされてる。

「昔は悪い人キャラばかりだった」という命題に対して

「昔の芸人を今の価値観で見れば悪い人」というのは根拠になってない。

2020-03-21

主語デカい」と指摘されるものの7割ぐらいは全称命題解釈する方が頭がおかし

2020-03-15

フェミニズム界隈を巡る反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照を想起させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

 その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。

 結論としては以上となる。

2020-02-22

anond:20200222173045

別にこれを一般的意見として主張してはおらず、

単に全称命題否定として存在命題を挙げているに過ぎない。

それこそ誤った二分法、という詭弁を指摘するためにですね。

2020-02-12

東京大学前期教養総合科目感想

適当感想を述べる。ただの主観なので履修に悩んでいる人はシラバスと逆評定を読め。L系列については書かない。

A系

記号論理学Ⅰ(理科生)

「¬A ∧ (A ∨ B) ⇒ B」みたいな命題証明を、ある規則に従って行ったりする。理科生的には数学の根源を掘っているみたいで楽しい

B系

C系列

現代経済理論

全13回の授業で毎回違う教員がいろいろ話をしてくれる。各回ごとにレポート課題が出るが、最終的に提出するのは1つだった。単位関係あるのは実質1回だけなので、結構気楽に聞くことができて癒しになる。普通講義は毎回理解を求められるが、この授業は理解できなければその回のレポート課題を選ばなければよいだけなので。

D系列

認知脳科学

人間認知機能と脳機能関係をやる。説明の都合なのか話題の9割が視覚特に錯視)についてだった。脱線が激しすぎて全体的に何を言いたいのかいまいちわからない。ノートスライド教科書を見比べまくってなんとかしたが面倒すぎた。良い勉強方法最後までわからない。

環境物質科学

学際の香りがする。主に扱うのは二酸化炭素オゾンホールプラスチックダイオキシン。「地球温室効果がなかったら気温は-15℃」というのはよく聞くと思うが、その根拠エネルギー収支の計算から示したりする。意外と覚えることは多い(フロン番号の命名規則とか)。

E系列

有機反応化学

印象がない。新しいことを学んだ気がしない。とにかく簡単だった。

基礎化学

天下り的にいろんな化学が降ってくるが、具体的な理論づけは全くやらないので結局暗記ゲーと化した。基礎化学で扱う内容は、後々その他の化学系の科目で詳しく扱うので正直取る意味がなかったと思う。

化学平衡と反応速度

熱力学の更なる応用みたいな感じ。ルシャトリエの原理とかの証明をしたり、酵素の阻害剤がどう働くのかをやる。学ぶところが多くて楽しい結構難易度は高い。

F系列

解析学基礎

なにもわからん

アルゴリズム入門

Pythonやってれば楽勝。Python実用みたいな感じ。アルゴリズム力よりコーディング力が付く。

計算プログラミング

アルゴリズム入門よりアルゴリズム寄り。ダイクストラ法とかやる。毎回課題が出るので面倒さは結構ある。アルゴリズム好きな人楽しいと思う。

2020-02-11

二律背反

論理的にも事実的にも同等の根拠をもって成り立ちながら,両立することのできない矛盾する二つの命題間の関係をいう。

 

例えば、命題「私は常にうそを言う」が本当なら、その発言内容からして、うそをついていることになる。そこで命題うそだとすれば、「うそを言う」のがうそから、本当のこととなる。

 

例文)

「もし俺が謝って来られてきてたとしたら、絶対に認められてたと思うか?」

 

フェミニズム界隈を巡っての反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照を想起させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

 その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。

 結論としては以上となる。

2020-02-10

フェミニズム界隈を巡っての反論

 日本フェミニズムが抱えている問題複数あって、煎じ詰めれば「思想善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。

 女性地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構

 しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果殆ど出ていないことに問題があるのである

 むしろ結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲から評価を下げてさえいるのが問題なのだ


 古来より女性男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。

 例えば、近代イギリス小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性自分を殴る男性を好んでいる。むしろ自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。

 このような記述は、文脈的に言えば主人公チャールズストリックランドタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場女性一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。

 また、自然主義人間本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想作家大家である近代フランスエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。


 このように、国の内外を問わず女性に対する男性から暴力というもの散見される。流石に、このような状況は現代において相対的改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。


 問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズム評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である

 具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?

 以下に論点を纏めていく。


1:フェミニズム議論ソフィスティケートされすぎており、一般女性男性認識に馴染まない


 古代ギリシャ劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。


 女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」

 と、戦争反対のため断固セックス拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである

 女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。

 このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代フェミニストらにも見られる。

 女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会地位を占めること――その権利回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀フェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。

 その運動社会において大きく効果を上げた。

 イランのごとき保守的国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体ベールで覆う必要がある。そのような規則女性利益担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体ベールで覆うことを一般的によしとしない。

 女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である

 性はそれまで女性自由にはならなかった。構造主義先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判推して知るべしだが、女性婚姻父権立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代存在していたのである

 自身の性を管理行使する権利が、婚姻不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性権利現代において拡張されたのである

 ここまではフェミニズムにおいて一般的な議論範疇である

 とは言え、問題はこの延長線上にある。


 女性自身身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネス喜劇に見られるように、女性自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性権利の実現が確認できる。

 しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。


1-2:性の解放性的搾取

 相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。


 当然、女性社会進出をする上で、女性自身の性を政治手段として用いることには、危うさが秘められている。

 そのような危うさをして、現代フェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。

 アイドル、性産業広告業芸術

 これらの分野における女性露出性的搾取危険を秘めている、と現代フェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。

 ここにおいて、深刻な二律背反が生じているのは明らかである

 女性スキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?

 残念ながら、この問題に明快な結論は出ていない。


 政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性女性という対照類推させる。

 男性狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性狡猾である男性暴力行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性尊厳根本からなうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性尊厳考慮されることはない。

 昆虫動物らに見られる、コミュニティコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。

 男性狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。

 勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。

 その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。

 人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。

 我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。

 女性はその能力を大いに用いてきた。


 さて、端的に言って、性的魅力は女性能力である

 それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。

 性的魅力は疑いなく女性能力である女性自身尊厳担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。


 しかし、その能力女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。

 近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。

 例えば、大きな胸を強調したポスター女性の魅力が強調されてはいるが、不適切方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。

 この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。

 とは言え、ここが言わばロドスである


1-3:ソフィスティケートされ過ぎた議論

 女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。


 勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論錯綜するポイントがある。

 まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。

 女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。

 自分能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である

 例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。

 例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なライン身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。

 絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。

 これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである


 例えば、女性歌手楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。

「媚び」はこの場合、不自然女性立場貶める行為であり、最終的な女性不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取対象であると、誰かが指摘する。

 例えば、写真家女性写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性不利益を招くと指摘する。

 例えば、

 例えば、例えば、例えば――


 女性が魅力を発露すること、それが搾取対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性尊厳担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取対象とされてしまうこと――。

 女性能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。

 能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益帰着すると、その誰かは指摘する。

 これが、フェミニズムソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である

 カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。

 このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代フェミニズムによって獲得された、女性自身能力や魅力を自身権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。


 能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。

 このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?

 勿論それは不可能であるフェミニズム矛盾にぶち当たっている。

 そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズム論理一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。


2:結論

 結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。

 その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである

 昨今のフェミニズム運動空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾解決することなくして、現代フェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。

2020-02-02

anond:20200202194000

そりゃそれでいいと思うよ。

でもその勝敗って別にフェミ社会正義だったからなわけじゃないよね?

声がデカかったから、数が多かったから、つまり強者だったからだよね? ってのがポイントなわけ。

個人的には、そして多くの人にとっては宇崎ポスターがどうなろうと興味はないのよ。

もっと正確に言えば興味があって今回明らかに(今回だけじゃないんだが)されたのは、「フェミ社会正義を捨てて強者ムーブに入った」って点なわけね。そこさえはっきりすれば他はたいして重要じゃないのよ。

そうなれば、今後の問題は、何が社会正義なんだろう?っていう人類が発展する上で真摯に考えなきゃいけない重要命題ではなくて、単純に社会勢力で誰が強くて誰を搾取すればいい?っていう勢力争いに還元されるわけで、めっちゃ楽になるわけ。

「人を傷つけてはいけない理由について考える人」を観察できる記事

死ぬほど単純ながら意外と難しい命題の一つ。「俺は嫌な思いしてないから」に対するアンチテーゼかなんか。

一応傷つけるってのは色々あって、身体的な傷害もそうであるし、精神的に傷つけることもそうだよね。いずれにせよ誰かしらが不快な思いをするのが前提なワケ。そんでも、なんで人を傷つけてはいけないのか…っていう明確な理由が意外と出てこないのね。

まず「憲法とか法律で決まってるから」って言う人がいるんだけども、それは間違いだと思うのよ。そもそも憲法とか法律とかって後付けの要素じゃない?っていう。例えば、人を傷つけるのが大好きな人が「人を傷つけても、いじめ自殺に追い込んでも罰しないからなwww」って法を定めたら「あ…んじゃ、それに従うわ。人傷つけてもえっか笑」ってな……っちゃいかんよね?っていう。

法ってのはあくま人間が定めてる以上偏りが生じるし、後付けの要素だからそれだけを盲目的に信じるのはまずいと思うのね。

んじゃあ、なんで人を傷つけちゃいかんのよ…ってことになるけど、個人的には「人を傷つけることによって、不平等さが生じて、それによって相手にも攻撃する権利を与えてしまい、結果的に誰も得しない、トータルしてマイナスな状況が生まれしまうから」って自分は思うんですよ。

[要素分け]

(1)人を傷つける

(2)不平等となる

(3)公平性を満たす→傷つけても良い

(4)結果的に誰も得しなくね?

まず(1)についてだけど、これを初っ端から否定するのはナンセンスよね。(何故かって言われるとまあ、「人を傷つけてはいけない理由はなんですか?」って問いに「人を傷つけてはいけないから」って答えるのと同義なわけですねー…。)

んじゃ、次に(2)について考えるんだけど、まずここで人によって考えが変わってきちゃうかな。個人的には人ってある程度は平等でなくてはならないと思うんですよ。まあそれは後々語ろうと思います

とりあえず、仮に(2)が成立するとしたら、まずは公平さを満たすなら傷つけてもいいことになる。「傷つけられたから同じ分だけ傷つけ返した」「さあこれで平等だ」………平等であることは間違いないと思います。でも平等とはいえ、両者の置かれてる状況は明らかに悪くなってると思うんですよ。「誰も傷ついてない状況」と「両者が何かしらの傷を負ってる状況」ならどっちがいいです?明らかに無駄がないのは前者ですよね?………ってワケで人を傷つけることはいけない理由の一つが考えられたと思うんですよ。

ここで蛇足なんだけども、(1)は「突発的に人を傷つけた」っていう、リアルならなかなか畜生シチュが前提だったりします。もし仮に「(1)を起こす理由自分が傷つけられたことによるもの」だったらどうなるでしょう。ちょっと考えてみるとわかると思うんですけども(わかってもらいたいー)、これが前提にあると結果的無限連鎖が続くことになっちゃうんですよね。だからまずはこの前提条件がないとダメだったんですね…。

閑話休題、(3)の別パターンについて考えていきましょうか。それは「被害者側が少なくとも傷つける以外の行動で平等さを求めた」というパターンです。例えるなら「加害者が傷つけたから、被害者加害者からある程度の金額賠償として貰い、全ての傷を平等にした」って理屈です。これも一見理屈にかなってるように思います。確かに、傷に関しては両者平等になったように思えます加害者被害者を傷つけることによって、加害者欲求が満たされたのなら両者の置かれてる状況は変わらず、トータルしてもプラマイゼロのように思われます。けれども、それは手間とかそういうのを一切考えないからであって、もしそこに傷つけたり賠償金を貰ったり…の手間を加えれば結果的にはマイナスになってしまますよね。だからこれも理由として成立すると思いました。

(「手間がなぜ駄目か」「手間はマイナス要素なのか」…ってのはまた別の話で。)

最後に、(3)のもーいっこのパターンとして、「被害者加害者から傷つけられた以上の賠償金を受けて満たした」っていう方法もありますが、これは被害者側が得しちゃってるので成り立たないんすね。。。

…って考えると、結果的に「どっかしらで不利益が生じるなら傷つけなきゃよくね?」って結論に至るんですよ。私はこういう論理普段動いてるんですけど、皆さんはどうですかね?

(一応バーっと!書いちゃったんで、もしかしたら自分の中で思ってる理論より足りなくなってるかもしれないっすね)

(んで、ちょっと考えたんですけどこれはこれで微妙に成り立ってないと思ったんですね(は???) 特に平等」ってところが)

((1)~(4)の中で他のパターンもあったりするのかなあ~)

2020-01-25

この命題は偽である

真か偽か?

答えは「低能www

低能先生が、伝え続けた真理である

2020-01-20

anond:20200120161241

専業主婦時間金もない」とよく言われてる命題に対して

時間金もないならば、主婦パートに向けた営業は多くなるはずがない、よって命題は偽なのではないか

と言ったんだけど

かに命題をハッキリ書かなかった事は悪いが、

主婦パートに向けた営業が多い」と言う事実の指摘が

なぜ否定的に捉えられるのか説明して欲しい。

次回から改善するから

2019-12-30

anond:20191230232453

ワイは真面目にこういうタイプ精子卵子冷凍保存しておくべきだと思う

暖かい家庭は愛した人としか作れないと気づくのにめちゃくちゃ時間が掛かりそう

昔ながらに、愛はなくとも家と子は守るで、株式会社増田家を運営するでもよろしいけれど、

まぁ暖かくはないよね?

稼げなくなったら、子をなせなかったら、家事に不備があったら、病んだら、より良い人材が見つかったら、

プレイヤー交代ですし

そういうのって子どもにも伝わるよ

ロクに稼ぎもないのに子作りよりもあっちゃいけないのは

XXなら生存を認める/家族として認める ってあり方の方々が

子育てをなさることよね

まぁ家を遺伝子を残すという命題クリアしているわけですし法にも触れてないので

子が犯罪者にならない限りは、他人にどうこう言われる筋合いはないってヤツでしょうけど

2019-12-29

anond:20191229162032

現状の日本の状況を最大限に“活用”する、女の人生設計って、「気弱で金持ちの男を捕まえて子供作った途端にニートする」なのかなあ。子供さえ作ればこっち(女)のモンだしなぁ。

ぶっちゃけ本音言えば性別関係なく誰だって働きたくないじゃん。正確には「やりたくないことをしてまで生活費を稼ぎたくはない」。で、それが実現できるのって「ATM男を捕まえた女」だけなんだよな・・・。男は・・・金持ちボンボンに生まれる」くらいか

「おばあちゃんが言っていた人生の教訓、妻を褒めたたえる旦那を見つけなさい」みたいなツイートがたまにバズるじゃないですか、

あれは勘違いしちゃいけないのは「繁殖と引き換え」ってことなんですよね。単に利害が一致してるだけ。釣り合っているだけ。つまり、「旦那から高い価値評価されるようないい女になれ」ってことであって、「女が一方的に都合よくラクできるATMを見つけろ」みたいな意味では決してないと思うんだよな・・・。たぶんそう誤解して真意理解してない人、リツイート数の99.99%くらいだろうけど・・・。いまの日本の状況鑑みる

男の生存戦略としては、「今の日本の状況にあぐらかいて甘えるようなことをしない女を見つけること」が致命的な命題ってことになる。けど、それって・・・旦那年収1000万円以上じゃないと結婚したくない」に等しい無茶な要望にも思える・・・・。

2019-12-20

anond:20191220122216

民主主義はどの立場多数派であるかを決定する手続き(要するに選挙とかそのへん)"だけ"を指すわけではないので

民主主義でない多数派

という命題の真否が自明であるかのような(あるいは少なくとも真否が一意に決定される、ということを前提とした)問いの立て方は疑似問題

そもそも多数派こそが法だ!」っていうならわざわざ成文法依拠する法秩序なんて必要ないんだよなあ、君の論点はそこが矛盾してるんだよ。

2019-12-18

anond:20191218210633

命題が「性格が悪ければバタフライナイフとか持ってる」だったら対偶は「バタフライナイフを持ってなれば性格が悪くない」だわ

対偶が偽なら命題も偽だよ

anond:20191218204451

人間命題を与えたとき

1/2であればすくなくとも人間小数を使ったほうがいいということを決めているといえる

 

人間が型をわからないとき

機械が型を決定するケースってどんなケースだろう?

[]チェリー・ピッキング

数多くの事例の中から自らの論証に有利な事例のみを並べ立てることで、命題を論証しようとする論理上の誤謬、あるいは詭弁術。

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