はてなキーワード: 偏狭とは
現在はリベラル界隈が酷すぎて、リベラルが「たわわ広告」を擁護しているってだけで、「勇気がある」「まとも」と思ってしまうのはある。
あれは民間の新聞で、たかだか一日だけ、ああいう広告が載ったにすぎない。
しかし、今の立憲・共産は、議員から支持者レベルに至るまで、ほとんど誰もこういう意見を言えなくなってる。
何が何でもオタク叩き、萌え絵叩きをして、フェミニスト様にすり寄らないと生存できない。
問題はフェミニストにすり寄っている集団がいることではなく、「その集団に楯突くと猛バッシングされて居場所が無くなる」ってことだと思うが、もう手遅れだろう。
しかも爆乳といって良いほどに巨乳で、目のやり場に困ったものだ。
中学一年生の春、その友人とはとある運動部を見学に行った時に出会った。彼女は薄暗い所に一人でちんまりと体育座りしていたので、パッと見男子かと思ったがよく見たら女子だった。そのときは巨乳であるとか気にしていなかった。ひとの乳の大きさに別に興味がなかったので見過ごしたようだ。
正式に入部して、部活の更衣室を使うようになった頃になって初めて、友人が巨乳であることが気になりだす。その前に、部活の先輩達が人前でも臆面なく服やユニフォームを脱ぎ着し、友達同士で乳やブラジャーの品評会みたいな事をし合う様に、おののきそして呆れ、やがて自他の乳に関心を持たざるようになった感じだったと思う。
私と友人はたった二人だけの新入部員で、先輩達が着替えているときは、いつも部室の隅っこでぴったり体を寄せあって体育坐りしていた。場所は薄暗がりだが、日なたに香箱を作っている仲良し猫みたいなもんで。そして我々は、中1にもなってブラジャーを着けていない者仲間であり、先輩達が他人のブラジャーの肩紐を引っ張って悪ふざけをする、そのノリに巻き込まれるのが嫌で、胸をガードするように膝を抱えていたのだったりする。二人で、昨日見たアニメの話とかをしていた。
その頃(今でも)私は貧乳だったのだが、それでもブラジャーなしで体操着を着れば胸というか乳首は下着や体操着の布越しにも目立っていた。かといって良識を持った同級生達は何も言って来なかったが、持たない奴はなんか色々言ってくる。入学当初はブラジャーを着けていない女子は少なくなく、だがやがて同級生の反応に泣かされたり、直接の被害を受けなくとも、自衛をするようになっていくようで、仲間の出方を窺いつつブラを装備するようになっていった。
たった一級上の部活の先輩達は、ブラを着けることも乳が大きくなることも屁でもないぜという様子で、ブラも制服の下に隠した小粋なお洒落みたいに楽しんで好きな色柄のものを着けていた。なのに、一年の私達は、体育の授業の前に女子更衣室で着替える時は、他人に見られないように隠しながらそそくさと着替える。この文化の違いみたいなのが謎だった。
夏が過ぎ、秋頃だろうか。ある日突然、母が「初めてのブラ」とかいう白くてダサいブラジャーを買ってきて、今日からこれを着けろ、寝るときもだと私に言い渡した。それ以前は、私がもう恥ずかしいからブラがほしいと訴えても、そんなもんはまだ子供には要らないとにべもなかったが、おそらく母の事なので、ママ友達との井戸端会議で感化されただけなんだろう。そういう訳で、私はレベル1の装備を図らずも手に入れてしまった。正直、先輩達が着けているような、水色のチェックとかピンクのレース付きのようなのがよかったと思いつつ。
装備レベル1を初めて身に付けた頃も、私と巨乳の友人は部活で二人きりの一年生で、部室で着替える時は先輩がふざけながら着替えを終えるまで、隅っこに肩を寄せあって体育座りで待っていた。
そしていつものように座っていると、不意に友人が私の背中に手を回して、体操着のシャツの上からブラの紐を引っ張り、パチンてした。
「なんだよこれ」
友人は相変わらず、豊満なボディと不釣り合いな男子みたいな顔でいう。
「そっちこそ、なんなんだよ」
と私は言い返す。なんだなんなんだよと言い合いながら、小突き合い始め、仔犬の兄弟がする喧嘩の真似事みたいになる。先輩達が、お前ら本当に仲良いよね、という。だが、先輩達がお互いにセクハラのし合いをして悪ふざけをしている様子ほど、なんか楽しさがないよなと私は思った。友人は、私よりもずっと乳がでかいのに、まだブラを着けていなかった。二人だけのノーブラ仲間から1抜けしてしまった事への罪悪感がじわじわとひどい。
友人は、ふざけて私の膝を枕にすることがよくあった。私も友人の肩に凭れかかることがあったが、膝枕は遠慮した。友人は乳だけではなく体全体がむちむちしており、膝枕の柔らかさはたぶん何か他のものの柔らかさを連想させるし、ていうか、膝にも頭を乗せればその何かがすぐ顔の目の前にぶら下がることになる。目のやり場がないどころの話ではない。
友人は顔が男の子みたいだが、言動も男みたいで、男以上に野蛮だった。私はわりと野生児だったので気が合い、友人とどつきあいなどをして遊んだ。そんなんだったが、ある日友人がこそっと言った。
私は驚き、
と言った。痴漢は放課後のひとけのない道端に出るものだとばかり。だが、広々として客が常時うろついているような大衆向け書店の中にも痴漢は出るものらしい。しかも、狙われたのは友人。乳はでかいものの女らしい格好をてんでしないような、パッと見男子に見える中学生がターゲットになるとは。友人は背後から尻を触られたそうだ。そこか。はあ、世の中は私の知らないことばかり……と思った。
友人は部活をサボりまくるようになってしまい、クラスも離れていたのでしばらく接点がなくなってしまった。
二年と三年は同じクラスだった。いつの頃から友人がブラを装備するようになったのか、記憶にない。いつの間にか、ノーブラで普通に過ごしている様子を見た男子達が「見た? あいつ乳首立ってるぜ」と忍び笑いをする所を見かけなくなった。
ブラ装備になったとはいえ、友人の巨乳の迫力がすごいことには変わりなく、同じクラスになったので、気軽に私の席に友人が遊びに来る分けだが、名前を呼ばれて顔を上げると、まず視界に入るのはその大迫力の乳だった。よく巨乳の人が「男はあたしじゃなくてあたしの乳に挨拶してくる」と言うが、友人の場合、私にまず友人の乳が挨拶してくるような状態だった。
地味にリアクションに困った。同性同士なのであまり気兼ねしなくても良いのかもしれないが、私が先にブラを装備したときはだいぶ気にして私のブラの肩紐を引っ張ってみたり服の上からホックを外すような悪戯をしかけて来たような奴だ。そして、性格が勇ましくて乱暴な癖に痴漢に遭った時は驚いて一言も喋れず身動ぎもできなかったというし、痴漢遭遇頻度が私よりもずっと高いような奴だ。同性の気安さでなんか言ったりしたらどう思われるかわからない。そんな怖さがあった。それ以前に、私があんまりそういう方向性のおふざけをするのは好きじゃない。
でも、ぶっちゃけて言うと、いつも突然視界にばいんと入って来るあれに、ちょっと触ってみたいなという気持ちがあった。でも私も女子の端くれなので、乳がただの脂肪の塊ではない事を知っているので、触ったって思ったような感触はしないし、触られた方は痛いだけで楽しくもなんともないだろうと思った。巨乳を気にされていたら、どうリアクションして良いのか、わからないし。
修学旅行の夜、同室の皆が、こんな夜だし恋バナをしようとか言い出した。友人も同じ部屋だった。そんな事言われても、私はそういう話をするのは好きではなかった。だが、私は幼馴染の男子と毎日時間を合わせて下校していて付き合っていると思われていたので、誰が好きとは問われなかった。ところが幼馴染を他のクラスの女子が好いていた事もあり、私と幼馴染みの話はタブーに近い話題だった。それで難を逃れたと思ったら、友人がやおら私に聞いてきた。
「お前、男同士ってどう思うの?」
当時はボーイズラブという言葉はなく、ゲイというのも一般的ではなく、かといって軽々しく当時普遍的に使われていた差別用語・ホモというのはうっすらと憚られた。でも「やおい」同人誌がめちゃめちゃ流行っていた。中学生でもけっこう際どい同人誌を平気で買って読んでいた。友人はやおい同人誌をものすごい数コレクションしていたような手合いだ。私にも貸すといって頼んでもいないのに押し付けて来ることがよくあった。そんな奴が、何を改まって男同士の恋愛をどう思うのか聞いて来たのか、意味がわからない。
「いいんじゃね、お互いに好きなら」
そう答えたら、同室の全員が黄色い声をあげた。男同士だよーとか、太っ腹とか心広すぎでしょ、とか言われた。お前らだってしょっちゅう更衣室でこそこそ隠れてやおい同人誌読みまくってるじゃん、なんだよその優等生ぶりっこは! と腹が立ったので布団を頭から被って寝ることにした。友人が、
「そっかそっか、お前は男同士でも受け入れられるんだな」
と布団越しに話しかけてくるので、
「おー。美しければな」
なんて、偏狭な応えを返したら、友人は何もこたえなかった。
そんな友人だったが、十何年後かにSNSで相互になったところ、実はバイなんだと誰にともなくタイムラインで告白していた。昔、いきなり私に男同士はどう思う? と聞いて来たのとそれは関係があったりするのだろうか。それを問うのは、その乳触ってもいい? と聞くのと同等にタブーな気がする。今となっては生活環境が違いすぎて、SNS上でさえ滅多に話すことがない。
最近、とあるエッチな漫画を読んだ。要の部分だけ言うと、主人公に対して同性でありながら長年片恋をしていた人がいて、色々あって念願叶ってセックスしようってなるんだけど、そいつは経験がまるでないので、主人公に目隠しをして半裸に剥いたはいいものの、次に何をしたら良いのかわからない。それで思いきって出た行動が、主人公の胸にぴとっと頬をくっつけて見ることだった。若干の羨ましさを感じるシーンだが、友人相手にこうはならんやろ、と自分に置き換えて想像してがっくりした。
実現してから後で見るように記録
https://twitter.com/kanenooto7248/status/1504054547786137603
「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」あたりを引用してくるのではないだろうか。
ttps://twitter.com/ahoaho1313/status/1504787311317303298
ttps://twitter.com/DJ_AsadaAkira/status/1504094775858790403
tps://twitter.com/nekonoizumi/status/1504093106848772096
”「みなさん、プーチンに対しては月にかわってお仕置きをしなければなりません。」”
ttps://twitter.com/daisycutter7/status/1504468965656915968
”北方領土くやしいだろ
3・ガダルカナルで飢えた日本兵、今我々も物資が足りないんだ!
5・月に代わっておしおきよ!”
ttps://twitter.com/igpman/status/1504470214850740227
”・シベリア抑留、あれキエフの復興にも役に立ったわ。あんがとな。”
ttps://twitter.com/LFNiso699/status/1504483330771013635
”日露戦争で予想に反して日本勝ったよね。それは日英同盟とか他の国からの支援があったからよね?
わかってるよね?”
ttps://twitter.com/F_no_kami/status/1504417794653270018
”演説させてもらうと言っても批判するところは批判するようだから、日本でも何か批判されるかもしれない。みずほ銀行とか。”
ttps://twitter.com/Tz_akgt/status/1504430921684242434
”「金融制裁がいかに強力な武器になるかは、みずほ銀行が営業を許されている日本の皆さんはご存知でしょう」”
ttps://twitter.com/JosephFouche521/status/1504435574652178434
”「私も大統領に就任してからクリミア問題についてロシアと交渉を重ねてきましたが、結果はこの戦争です。プーチンと同じ未来を見るのは不可能なのです」くらいのことは言いそう”
ttps://twitter.com/kaolu4s/status/1504288556767883267
”日本の近現代史に、世界に誇れる正義の戦いの神話がないことを雄弁に示しておりますね。”
番外
https://twitter.com/OKB1917/status/1504954261490507776
”みんなが「ゼレンスキー、日本に向けた演説では何を言うのだろうか。ヨーロッパ向けみたいに修辞を駆使しすぎると滑るぞ…」とか心配してるときに全裸で出てきたら本当に「わかってる」となると思う”
もはや時代は改憲勢が「憲法改正するメリットがあるのか?」を説明しなければならないのではなく
「この状況でも憲法を維持するメリットがあるのか?」を護憲勢が説明しなければならなくなった。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。
憲法の前提がもうヤバくなってるんだよ。
戦争は起きるときは起きるし戦争ふっかける側はどんな屁理屈でもこねて言いがかりつけて攻め込んでくる現実に、今の憲法はきちんと機能するのか?
この記事に対し
https://twitter.com/cchanabo/status/1493832407950118915
私のこの発言を受けての
https://b.hatena.ne.jp/entry/4715514200605425154/comment/Capricornus
煽りタイトルに煽り画像と、「まいじつ」はいつもそう言う手口。完全に確信犯だからスルーが一番。マジレスで叩き易いけど逆効果。こう言うのには死に絶えるよう餌を与えないことがメディアリテラシーだよ。
この返し
https://b.hatena.ne.jp/entry/4715514200605425154/comment/Gl17
トレンドに食いついた反フェミが多数観測されててそっちはリアル実害なんだよナ。にも関わらず「スルーが一番」とか古臭い曲論で批判を抑制したがるのは、ネトウヨの歴史修正がバレた時の右派等にも定番の反応。
「まいじつ」はウヨサヨとかツイフェミ反フェミとかそんなクッソ偏狭な二元論じゃなくて
https://twitter.com/cchanabo/status/1493832407950118915
ここで語られたような手段でもっと手広く全方位あちこち放火してPV稼いでるようなクソデマサイトなんだよね
それを放置して潰そうと言う事にウヨもサヨもツイフェミも反フェミも関係なくてさ
互い余計な諍いの元を減らせるのであれば互いの利害にも一致する事だと思うのよ
反フェミが実害起こしてるなんて言うならそれはそれで好きに叩けば良いけどさ
とりあえずこのクソデマサイト放置しようぜってとこにそれは競合してないんだから
そこはそこで同意しとけば良いじゃん
ネトウヨはデマばかりとか普段よく言うくせして反フェミ憎しウヨ憎しからクソデマ煽りサイトに利する言動が本気で意味わからんわ
本当にそれで良いのかGl17氏よ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4710233470094965410/comment/Capricornus
このサイトは他の記事でも眉唾で逆張りなブコメみたいなねちっこいウンコ量産サイトだから、スルーが一番だと思う
Capricornus 2021/10/26 03:07
オタクは後天的な趣味だから、先天的で変更できないor変更困難な属性(在日、黒人、ゲイ、女性etc...)に置き換えるのは無理がある。
「オタク差別」を論じる時には「異教徒から改宗してイスラム教徒になった人への差別」が置き換えるのに適切な例だと考える。自分で選んで差別される立場になったという共通点から。
https://anond.hatelabo.jp/20211121073713
いちいち言うのも嫌だけど、オタクを在日とかと入れ替えてみてくださいよ。
在日から凶悪におぞましい犯罪者が出たら(実際出てる、当たり前)、在日全体を蔑視したり疎外したりしていいの?
(中略)
tokatongtong 先輩「俺はゲイだけどゲイは弁えるべきだし同性婚まで求めるべきではないと思う」っすかあ
「古臭い差別野郎の手垢のついた手口」を更に天丼してくるそれってなんかのギャグなんすか?
イスラム教は、開祖のムハンマドは最愛の第四婦人アイーシャが9歳の時にセックスして、聖戦で死んだ者が行く天国は処女膜が無限に再生する美少女ハーレムと描写されている。どこかの「エロゲ」か「なろう小説」かな?
コーラン他の聖典には異教徒差別、女性差別、同性愛者差別がいくらでも見つけられる。
こういうのが(旧約聖書の食事のタブーのような)古代のとっくに廃れた教義では留まらず、現代に至るまで、
「自爆すれば美少女ハーレム天国に行ける」と絶望的な生活をしているパレスチナの少年をテロリストが勧誘する文句に使われたり、
女性や異教徒を奴隷にするイスラム国やタリバンを生み出している。
フィクションと理解した上で12歳小学生アイドル催眠陵辱エロ同人誌でオナニーしているキモオタと比べて、9歳女児第四婦人セックスや異教徒性奴隷化や無限処女ハーレム天国を神聖な預言者の事績や神の言葉と本気で信仰しているイスラム教徒の方が潜在的に遥かに危険な連中であるのは間違い無い
……とイスラム教については素人の私などはついつい偏見を抱いてしまいそうになる。
しかし、だからと言って、仏教徒からイスラム教徒になった日本人に対して「このロリペド・セクシスト・ホモフォビア野郎め!」と罵倒してはならないし(たとえ彼が生まれながらの信者ではなく自分の意思で「9歳女児とセックスしたムハンマドは神の使徒なり」と改宗を誓ったとしても)、
公共の施設でイスラム文化に関する展示が行われる時に「このような女性差別・同性愛者差別の思想を公共の場で税金を使って宣伝することは許されない」などと攻撃して展示の中止を求めるのは宗教差別であろう。
我が国には信教の自由というものがあって、ペド教祖が受信した差別主義の煮凝りのような神の言葉を聖典と崇める宗教の信者が、公共の場で堂々と彼らの宗教シンボル(例えばヒジャブ、女性の隷属的地位の象徴と批判する意見もあるだろう)を表現できる(偏狭なフランスと違って礼拝所の外ではヒジャブを脱げとか日本では法規制されない)。
公共の場で児童婚をした教祖を崇めて実在の女性にヒジャブを被せるイスラム教徒を容認するほど、我々の社会は多様性を尊重するのだから、12歳の架空の偶像を陵辱するキモオタの罪の無い妄想ぐらいは容認すべきであろう。
というわけで、オタクを黒人や在日のような生来のマイノリティに例えるのは無理があるけど、イスラム教差別への反論はオタク差別への反論に使えるぞ。
今話題になっている、「米山隆一議員と仁藤夢乃氏と室井佑月氏のアレ」。
選挙後早々にリベラル界隈で内部紛争が勃発、ということで各方面から注目が集まっていますが、これまでも、
といった事例があり、この件に限らず、立憲・共産党とフェミニズム活動家は必ずしも一枚岩でないことがわかります。
そして、こうした話題を見ていて思い起こされるのが、ズバリ「部落解放同盟と、そして日本共産党との対立関係」です。
「社会的弱者や被害者の掘り起こし・組織化に熱心な共産党と、解同の仲が悪い」という事態は、この界隈をよく知らない人間にはなかなかイメージしづらいものがあります。
なので共産党も、あの手の運動には珍しく、真顔でディスっているというわけです。
なお、対立の理由は他にもあり、例えば1965年の「同和対策審議会」答申を巡る評価が解同と共産党で分かれたことも、その一因と言われています。
答申に一枚噛んでいる社会党に近い派閥が答申を評価する一方、共産党や解同共産党派は内閣諮問機関による答申を「毒まんじゅう」、つまり自民党との妥協であると批判。
なんだか「表現の自由」あたりでも散々聞いたような話ですね。
社会運動が自分の支配下である間はとりあえず優しいけど、ヨソが手を伸ばしてこようものなら即手の平返しちゃうと。
しかも、そんなこと言ってた共産党がこないだの選挙では自ら毒まんじゅう食わせる側に回ったのだから、まあなんとも皮肉な話です。
一方、解同側も社会党派を中心に共産党勢力の排除を進めていき、1971年には以下の理論を打ち出します。
その名も「朝田理論」。
半世紀も後のツイフェミの言動までもが全てこれで説明できてしまうなどと、いったいどこの誰が予想したでしょうか。ノストラダムスじゃねーんだぞ
しかし仲の悪い相手にはとことん手厳しい共産党、こちらについても「部落民以外はすべて差別者=部落排外主義」と批判を加えています。
米山先生おっしゃるところの「フェミニストイズム」も、これに当てはまるかもしれません。
それにしても「当事者・活動家至上主義と先鋭化が極まった結果、共産党のオルグすら拒んだ」というのは、いろいろと示唆に富むものがあります。
(まあ、「社会党vs共産党の争いで社会党側が勝った」と言ってしまえばそれまでなのですが)
様々なものを一方的に燃やされてばかりの男オタクの立場からは観測しづらいかもしれませんが、
実はそごうやルミネ、TOKYO女子けんこう部などの事例を振り返ると、むしろ「女性に媚びているはずの広告がなぜか炎上」したケースも結構多いことがわかります。
それも「『けんこう』が平仮名なのは女性をバカにしている!」などと、まさに令和最新版朝田理論の全力ブン回し。
いったい何が差別にあたるのか、もはや当事者と中国王朝の暴君以外に判別がつかないレベルです。
1000のうち1か2でも気に食わないことがあるとすぐ糾弾会をおっぱじめるバーサーカーぶりからは、やはり『血だるま剣法』的な何かを感じずにはいられません。
と、解同に対する批判の多くがなぜか現在のツイフェミにもブッ刺さる、というまことに面白い結果になったわけですが、
私は彼ら彼女らの暴力的な性格、先鋭化や偏狭さはともかく、運動のあり方自体を批判するつもりはありません。
社会運動は特定の党派の持ち物ではないし、自分の要望を実現してくれるなら誰と手を組んでもいい。
むしろ、リベラリズムからアベヤメロまでいちいち全部ワンパッケージにしなければ気が済まない風潮の方が、ぶっちゃけよほど不自然ではないでしょうか。
1 捕.ホロコースト否定論
2 一.江戸しぐさ
7 二.アジア解放
9 投.白人至上主義
控え
・日ユダヤ同祖論
ホロコーストはねつ造であるという言わずと知れた世界的に有名なトンデモ論。ちなみに国によっては否定するとこの論を唱えると逮捕されるので要注意。できれば他のトンデモ説もこれと同様に法律で取り締まってもらいたいものである。
江戸時代には傘かしげ(傘を指したまますれ違うときには傘を傾ける)、時泥棒(アポなし訪問、約束の5分前に到着しなければ死罪)などのマナーが普及していたが、明治政府の虐殺により失われてしまったというトンデモ論。これの恐ろしいところは小学校の道徳の教科書で取り上げられたり、ACのCMで放送されたことである。
南京大虐殺はねつ造であるというトンデモ論。犠牲者の数については意見が分かれているが、虐殺そのものがあったことは否定できない。しかし、自称愛国者達の間で固く信じられている。愛国者であるなら、正しい歴史を学んで国の恥を晒すようなまねは止めて頂きたい者である
原爆は戦争の早期終結のために不可欠だったというトンデモ論。原爆投下はソ連への威嚇のための人体実験であり、決して正当化できるものではないのだが、アメリカ人達の間では広く信じられ、学校の歴史教科書でも取り上げられている。日本人でも信じている輩がいる
アイヌ民族はいない、もしくは先住民ではないとするトンデモ論。アイヌの人々が日本による弾圧や差別によって苦しめられ続けた事実を無視し、現代でも差別の正当化に利用される非常に害悪な思想である。南京大虐殺否定、アジア解放と並びネトウヨの間で固く信じられている。
第二次世界大戦は悪の枢軸国と正義の連合国の戦いであるというトンデモ論。日本軍やナチスの残虐行為は決して擁護できるものではないが、原爆投下、ソ連抑留など連合国も信じられないような悪行を重ねており、単なる正義と悪の戦いではないことは明らかである。また、東京裁判、ニュルンベルク裁判は連合国の悪事に一切触れず、枢軸国だけを糾弾する、事後法で裁くなどの無茶苦茶なもので、その実態は裁判ではなく報復としかいえない。
太平洋戦争は東南アジアを欧米の植民地支配から解放するための正当な戦争であったというトンデモ論。無論、これは大義名分に過ぎない。白人の植民地支配が残忍であったのも事実だが、日本軍の残虐行為も許されて良いものではない。東南アジアの罪のない人々が数百万人犠牲になったこと、現地の人々が戦後自らの努力で独立を勝ち取ったという事実を無視しており、余りに無礼である。日本軍が独立に寄与したというのはあくまで結果論であり、現地の人々の思いを踏みにじってはいけない。そもそも、フィリピンに至っては近い将来に独立が約束されており、この大義名分は一切適応できない。
薩長はテロリストであるというトンデモ学説。歴史”評論家”原○伊○によって唱えられた。何事にも正と負の側面があるにも関わらず、「明治政府は100%悪!江戸幕府は100%正義!」と極端な善悪二元論で歴史を唱えるのは御法度である。
白人がアジア、アフリカ、新世界を植民地化できたのは白人が優れた民族であるからだというトンデモ論。長らく植民地支配や人種差別の正当化に利用された害悪な説で、今でも信じている輩が少なくない。歴史を全体的に見ればヨーロッパが覇権を握ったのは比較的新しく、その発展も中国、イスラムの繁栄があって初めて成り立つものであることは火を見るより明らかである。白人の覇権には地理的要因も多く絡んでおり、白人崇拝は偏狭な解釈であるというしかない。日本人でも右翼・左翼問わずこの論を受け入れている者が少なくなく、日本人は朝鮮人・中国人よりも白人の遺伝子を多く受け継いでいるという新たなトンデモ論を生んだ。
・日ユ同祖論
日本はユダヤ人の失われた支族であるというトンデモ論。明らかに嘘と分かるもので、フィクションとしては面白いのだが、まれに本気で信じている輩がいるので笑えない。
昭和天皇が自らの意志で積極的に日米開戦を推し進めたというトンデモ論。左翼の間で固く信じられている。確かに軍部の暴走を抑えられなかった天皇の罪は重い。しかし、僅かでも日本史の知識があるなら、天皇は日米開戦には反対であったとうことは分かるはずである。東條英機が首相に任命されたのもそのためである
大正時代が短いのは天皇が知的障害者であったからとするトンデモ論。大正天皇は病弱だったが、多くの漢詩を残す、朝鮮語の学習に努めるなど教養のある人物であり、決して知的障害者ではない。天皇をどうしても貶めたい左翼にねつ造された。
余談
最後にトンデモ本を見分ける方法を紹介したい。しかしながら、このやり方は完全ではないため、結局の所大切なのは、ものごとを多面的・批判的に判断し、すぐ「AはBである」と決めつけない慎重さである。またトンデモ論を信じ、発信してしまえばあなたも共犯者になってしまう。情報の受け入れだけでなく、発信の際にも慎重になろう。
・著者の経歴を確かめる
博士号はおろか、大学の歴史科学科すら卒業していない著者もいる。また、学術論文を雑誌に発表していない著者にも要注意である。更にプロの歴史学者にも専門外の分野に手を出すものがいるため気をつけるべきである
例外もあるが、”~のウソ”、”~の真実”、”~の陰謀”、”反日”などの扇情的な見出しには要注意。
・参考文献がない、もしくは一般書ばかり
・出版社を見る
講談社、岩波、中公は”比較的”信用できる”かもしれない”。百○尚○先生御用達の幻冬舎などの出版社には要注意。ただし、原○伊○の明治維新非難は講談社で出版されたものである。
一方でゲンロンの自由なんてものもある。バカな人たちは「ヘイトスピーチだ」と言えばなんでも弾圧してかまわないと思っているようだけれど、そんな安易なものではない。ちなみに、スペインではヘイトスピーチ取締の規制が成立しているけれど、カタロニア独立運動の各種発言がスペインに対するヘイトスピーチだとして、この規制のおかげでガシガシ取り締まられたりしている。ヘイトスピーチは常に、自分の好きなものは健全な批判でゲンロンの自由にされ、自分の嫌いなモノはすぐにヘイトスピーチだ。アメリカでもカナダでもイギリスでも、進歩派がなんでもかんでもイスラモフォビアだLGBT差別だ、排外主義者だレイシストだ、他者を受け入れる寛容性のない偏狭なミーイズムの田舎者め、とレッテル貼りをして悦にいっていたら、逆にそれこそまさに社会の分断を煽る不寛容でしかなく、言われたほうはさらに態度を硬化させて、おかげでトランプが出てきてしまったりあれやこれや。
そう、ちょっと思ったんですよ。人間嫌いなものだから常々思ってたことなんだけど、コロナでハッキリした。「日本人、そんなに上等な生き物じゃねぇな」って。だってそうじゃん、「自粛」って言葉に甘えたり、「自粛だからいいや」ってなったり、「もう我慢の限界ですね」とか言ってみたり。安きに流れやすいにもほどがあるでしょ。どうしてこんな状況で飲みに行こうと思えるのか、どうして旅行になんて行けるのか、どうしてそういう自分のエゴに観光地の住民とか帰省先の住民を巻き込めるのか。「自分は感染しない」「自分は感染させない」っていうその自信、どこから来るんですか?木星電波でも受信してるんですか?
結局のところ、根底には責任の波及を逃れたがる日本人の悪癖があるんじゃないかって思う。それと、ビックリするほど簡単な方に流れる人間心理。日本人は集団心理の怪物だって思ってるよ私。「自粛」って言葉は正にそれ。「自ら」やるものだから、言う側に責任はない。押し付けではないですよ(だから100%の補償とか出せません/だから批判する自分は悪くない)、そんな言い回しに聞こえてくる。ハッキリ言って陰湿。「自粛要請」「自粛しなさい」ってものすごい矛盾じゃん。その人が必要を感じて主体的に止めるから自粛なんだろうが。その結果が「自粛しろ」って指さす人と、「自粛だからいいじゃん」って飲んだり旅行行ったりする人の対立構造。ついでに「政府が悪い、自〇党を潰せ」とツイッターデモなるものをやる人たち。もうね、アホかと。
いやまぁ分かるんですよ、そうなる気持ち。こっちも卒業式と入学式とその後の同期との関りとその他諸々ぶっ壊されてるもの。冗談じゃねぇよって思うけど、だからこそ「それでもここまで他粛できてきたな、もう少しいけるわ」って思うわけで。自粛じゃないです他粛です、だって自分の関する余地なく無くなったんだもの。でもさ、それで「我慢の限界」って言ってどうすんの?そうやってズルズルと感染の輪を繋げて現状を引き延ばして、来年の卒業式と入学式と以下略もぶっ壊すのか?あとはどうしようか、「感染拡大はワクチンの普及率が問題で~」とか「政府の対応がマズイんですよ」とかテレビに出てる人間みたく分かった風に言うか?冷静に考えれば分かってくれると思うんだけれど、ここまで誰一人得をしてない。そりゃお互いフラストレーション溜まるよ。
冷静に考えて欲しい、その前に自分たちの責任なのだと。自動車運転過失致死傷罪がどんな刑罰になっても、結局のところ交通事故を起こすのは運転手じゃないか。君たちは交通事故が起こるのを「政府の刑罰規定が軽いからだ」って言うか?(制度上規定される)上流の行動が下流をある程度規定できる、それは間違いない。それで感染が収まるように誘導(そう、政治は誘導しかできない)できていれば完璧だった。が、残念ながら現状はそうではない。寧ろ逆と言ってもいい。
この点は確かに政府が悪いよね、分かる。正直色んな方面への"配慮"が透けて見える杜撰な対応は、あまりにも市民感覚の欠けた意味不明なものだって誹られても仕方ない(だからと言って官僚を批判するのはお門違いだと思うけどね)。だとしても、下流にいる我々一般市民の行動で何とか出来たことは、本当に何もないのか?ちょっと気を付ければいいんじゃないのか?多分、今休業要請食らってる経営者の人達はこう言うべきなんだ。「お前ら利用者が情けないから、自分を抑えられないから、こうして長々と商売あがったりの憂き目にあわなきゃならないんだろ」「本当に店を想うなら、しばらくテイクアウトだけにして引きこもっていてくれ」って。皆悪者になりたくないし客を減らしたくないから言わないんだけど。「政府」っていう格好のスケープゴートもあるし。
こうした悪癖がもたらす一番の害悪が、全員もれなく損をするっていう今の結果。一時の楽を求めたせいで感染は収まらない、だから店を閉め続け、飲み会旅行を断念し続け、ついでに色んな行事を諦め続けなくてはならない。仕事も上手くいかなくなるかもしれない。これで得をするのは、地球侵略を企むインベーダーくらいでしょ。『宇宙戦争』よろしく、そこらのバクテリアでそんな連中が死滅するのを待つべきなんだろうか?
いい加減さ、「ちょっと考えればこっちの方が得」っていう選択肢を取るようにしましょうよ。別に「皆の幸せを思って、思いやりある行動を」なんて言うつもりはない。そんなの偽善だし、何のインセンティブも無い(多分これでやる気の出る人は、とってもいい人だ。そういう貴方は是非とも自分を誇りに思ってほしいし、友達にいるなら一生の友人にするべきだ)。でも、自分やその周りの利得っていう考えなら違ってこないか?誰も得しない、もれなく貧しくなる社会。そんなの、当然ながら誰も望んでない。そのくせ今そうなっている。とっても残念なことに。ちょっと考えれば路上飲みなんて家で飲めば必要ない。ちょっと考えれば自粛警察なんてただの偏狭な輩だと気付く。ちょっと考えれば、「自分は仕事が無くなったんだぞ」って言って人を批判しても自分の職が見つからないって分かる。道徳とか倫理でなくてもいいから、そんな判断をしてみてほしい。「今度飲み会しようと思ってたけど、それぞれ好きな一品テイクアウトして宅飲みにするかな」って、ただそれだけでいいんです。それで世界はマシになる。
最後に言っておくけれど、僕は思いっきり日本人です。生まれも育ちも地方都市の一般市民。だから東京と大阪が今てんやわんやしてるのも、そのリアリティを知っているかと言われればまったくもって知らない。学生だから、職を失った人の辛さなんて知りようもない。幸いなことにそれでもなんとか回るくらいの環境だから、この状況下で生きるか死ぬかって人の気持ちも共感できないかもしれない。でも、あれこれ制約をくらってて生きづらい状況に辟易してるっていうのは、皆さんと共有しているつもりです。液晶に向かってやいのやいの言って世界を変えられる人間なんて、まずいない。でも、自分の行いを少しだけ見つめ直すことは誰にでもできる。月並みだけれどそんな風に思ったので、慣れもしない増田を書いた次第です。
ソシャゲってちゃんとやればちゃんとむずくて、頭使うんだよな。
ソシャゲはキャラが多い割にシナジーを考える必要があって、メタもちゃんと考える必要があって、そこまで踏み込むとかなり深い。まぁランキング上位狙わないなら、ネットテンプレで間に合うけど、それって他のアタマツカウゲームでも攻略サイト見てパクればクリアは簡単なのと一緒だしな。
まず、コンシューマゲーム市場が一度成長しきってしまって、今は縮小してるから、ゲーム難易度を高くして偏狭なアタマツカウゲーム大好きオタクにリーチする意味がないんだよな。
もうとっくにゲームはメジャーな物になって、その中で非ゲーマーをいかに取り込むかのステージなんだよ。
だから(何故か偏狭オタクは「高難易度だ!」と称賛する)古き悪しきファミコンゲーみたいな理不尽所見お断りのシステムだと売れる訳が無いんだよな。
ここは同じ感覚だわ。
ただ、任天堂に対して「キャラを好きにさせて~」みたいなのは間違いじゃないけど、ちょっと片手落ちだと思っちゃう。任天堂はもっと凄いと思ってる。
任天堂がやってるのはゲーム体験の拡張だよ。現実とのゲームをリンクさせて、ゲームを画面の向こうからこちら側に引きずり出そうとしてる。(リングフィットとか分かりやすい例だな)
今までのゲームもそれを通じて、生活の見方を変えたり、友達と協力したりって言う画面を超えた体験はあったけど、任天堂はその体験をもっと拡張しようとしてるんだと俺は見てるな。
逆にソニー(プレステ)は画面を通じて伝える事の解像度をあげようとしてる感じがする。
どっちもすごく楽しみだよ。ゲームの未来はまだまだ明るくて、ソシャゲも凄いけど、ソシャゲじゃ出来ないことをやってくれる予感がしてる。
2010年、2015年がインディーズの台頭で、ゲームの中の多様な感性を拡大して、ゲームというものの彩りを増やしてくれたのだとしたら、
20年からは今までのゲーム会社の再興で、ゲームの解像度が上がって、より広い人にゲームがリーチされて、より大きな感動を与えてくれることになると思ってる。
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
日本国憲法前文の全文貼っておくね。
これがウイグル問題について、ネトウヨガーとか言っちゃいけない理由のすべて。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
百回ぐらい読んだけれど、どこにも
日本人にはいくら何を言ったってどうしようもない話で、そんなのに熱心だからって、それはただひたすら世界平和を祈るような話で、何程も現実を変えない
とか冷淡であっていいなんて書いてない。
むしろ熱心に関わるべきだし、積極的に外交手段を用いて助けるべきなのだと書いてるようにしか読めない。
えーとえーと……グイウル!
とか言ってるひと。
ネトウヨに「ウイグル問題はどうなんだ」と言われたときに、すぐに「そんなもの許せるわけがないだろう!」と断言してくれよ。
お願いだから。
こんなあからさまな人権問題について、なんでネトウヨの挑発ってことにしてしまうんだよ。
おかしいだろ。
え、ちょっと待って、とこぼしがちなオタクには敏捷性が足りない。
agilityにもステータスを振るのだ。
オタクというのは、目まぐるしく変遷していく最先端のモードを常に追いかけ追いつき時に追い越す、「やっと時代が追いついてきた」と嘯けるくらいでないといかん。それくらいの渇望、ハングリーさを満たすには、agiは必須なのだ。
何でもアーリーアダプティングしていくために必要なのは、アジリティ、身軽さだけではない。偏狭に囚われないだけの器量、dexterityも必要だ。
さもなくば、いずれ置いていかれ、「ちょっと待って」が増えていき、ついには完全についていけなくなり、言葉も発せなくなり、ダークサイドに堕ちて、世界を破壊する狂人と成り果ててしまうのだ。
そうはなりたくなかろう?
ではステータス画面を開け。
ここで言い争ってる連中、全くアニメに造詣が深くなさそう
元増田の言う
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
これな
ぜんぜん基準になってませんよ。ものさしには普遍性が必要なんですよ。
会田誠はダメだった。じゃあ歌麿や北斎の春画やギュスターヴ・クールベの世界の起源はどうなのか?
そんなの誰もわかんないから今後美大は萎縮して自衛のためにセクハラを糾弾されそうな内容はどんどん自粛することになる。
富士はいいけど蛸はダメだとかそんな偏狭な価値観で偉大な画家が残した仕事を切り崩していいんですかね。
大英博物館で春画展が大々的に開催されて成功を収めたのに春画の故郷の日本では開催できる美術館なくて小さな美術館でこそこそとやるような状況がさらに拡大しちゃいますよ。
女の子はすごくえっちな絵を見たら心が傷ついちゃうんですとか裁判官はどんだけ保守的な女性観してるんですか。実にくだらない。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。