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はてなキーワード: 屋台とは

2024-11-26

バリオリンピック

バリオリンピックの夜は、昼間の競技とは違う活気に包まれています。ビーチ沿いには屋台が立ち並び、ナシゴレンやサテーの香ばしい匂いが漂う中、多国籍な観客たちが笑顔食事を楽しむ姿があちこちに。波音をバックに行われるガムラン演奏や、伝統舞踊ステージも大盛況。夜空には無数の提灯が灯り、幻想的な光景が広がります大会公式選手リラックスした様子で、観客と気軽に写真を撮る場面も。南国の穏やかな風の中、バリ島の夜はスポーツ文化が溶け合う特別時間提供してくれています

2024-11-19

バリオリンピック

美しいビーチと青い海を背景に、会場にはモダン建築バリ伝統が融合したデザインが広がり、世界中から訪れる観客を迎えます選手村にはヤシの木がそよぎ、緑豊かな庭園が設けられ、地元文化を感じる装飾が施されています。周辺には地元料理や国際的メニューを楽しめる屋台レストランが立ち並び、祭りのような賑わいが続くでしょう。オリンピック精神がこの熱帯の島に新たな輝きを与える様子が目に浮かびます

2024-11-16

コスプレイベントに遭遇してきた

暇だ。

暇なので電車に乗って日帰りできる範囲の近所をブラつくことにした。

まず、通勤方向と反対の電車に乗る。

毎日同じ電車に乗っているが、方向が違うだけで景色が違って新鮮である

あと気のせいだと思うが、車内の広告も趣が変わっている気がする。

(そういえば、8番出口の続編がいつかでるんだっけ?)

特に何をするでもなく、ボーっとしてたら終点にたどり着く。

ごく短い区間私鉄なので、終点と言っても自宅から結構近い。

駅前にはコンビニがあるくらいで、特に面白いものはない。

強いて言えば、コンビニ前で一息ついていたアニメキャラ?のTシャツを着たオッサンが目立っていた。

何のキャラか知らんがまぁ、確かに可愛いね、と思いながら通り過ぎる。

特に行先も目的もないが、空腹感はあったので、飲食店を眺めながらとりあえず歩く。

JRの駅との中間地点に、よさそうな定食屋があるらしい。もし見つけたら入ろうと思い、JRの駅の方角に勘で向かう。

なんというか、寂れているとも言えないが、活気があるとも言えない街並みだな・・・と思いつつ歩く

すると前方から異様な出で立ちの女性が。なんのキャラわからんが、コスプレだろうか。巫女?っぽい?

今まで視界に入る範囲ではそんなイベントをしている気配は全くなかったので、かなりびっくりした。

あぁ、さっきのTシャツおっさんもそのイベント目当てだったんだな、と一人合点する。

さらに駅に向かって歩く。陸橋を渡る。階段を下る。歩く。

特に面白いことも、美味しそうな店も見つからないままJR駅前らしき交差点にたどり着いてしまった。

すると何やらアナウンスが聞こえてくる。

撮影コスプレイヤーさんの許可を得ましょう」

ローアングルでの撮影は辞めましょう」云々。

なるほど、コスプレイベント駅前商店街でやっているらしい。

せっかくなので商店街を見ていくことにする。

入り口では写真撮影をやっていた。

ニコニコしたおっさんがごついカメラを構えて、楽し気にコスプレイヤーと話していた。何のコスプレなのかはわからない。

通り過ぎて商店街突入する。

そこかしこで、写真撮影をしていた。

好きなキャラがいるわけでも、写真撮影趣味なわけでもなく、買い物もする気もないので、凝視するのも申し訳ないなと思い、

横目でコスプレイヤーの皆様を見ながら通り過ぎる。今思えば結構不審者だな。

何故かわからないが、通路中央に車が並べられていた。キャラクターが描かれた、派手な車たち。痛車というやつか?

コスプレイベントって痛車も並べるもんなの?知らなんだわぁ

車を背景にコスプレイヤーがポーズを決めていた。んーあれは、ウマ娘だろうか。やったことないかわからん

一台、やけにクラシカルな車があって、キャラが描かれているわけでもなく、趣旨違わないか?と思ったら

ボンネットガッツリ痛い仕様だった。車のことも分らんけど、旧車を痛くする文化もあるんだろうか。とにかく金がかかりそうだな・・・

車やコスプレイヤーやその他諸々を眺めながら歩く。

えーっと、あれは誰だっけ、初音ミクの親戚?VTuberか何か?うわ、あの人すげぇスタイル良いな。誰か知らんけど。

最近作品はさっぱりだけど、ジブリ作品コスプレは流石にわかった。

サンとすれ違う。クオリティたけぇな。気付いていないだけで雫と聖司もいたのかもしれない。

黒ずくめなのは呪術回戦かな・・・ サングラスは五条先生だろうか。

商店街の終わりが見えてきた。

脇に目をやると、屋台で何かを売っている。店員コスプレしていた。キキとトンボだ。

しませてもらったし、お腹もすいているし、何か買おうかな。

と思ったら、商品おでんと綿菓子だったので、やめておいた。

パンパイを売っていたら100%買ったんだけどな。なんで、おでんなんだよ。

いや、おそらく、パンパイも速攻で売り切れたのであろう。誠に残念である

商店街の出口・・・というか、多分こちらが入口なのだとは思うが、変態仮面が受付にらしき場所に居た。

これはいままでと別の意味直視はしがたい。すごいなぁ。笑いを嚙み潰して通り過ぎる。

空腹感がどうでも良くなってしまったので、そのまま帰ることにする。

電車を使わず、徒歩で帰ろう。

何が言いたいのかと言うと、ジブリって本当にいいもんですね、という話。

3大 屋台のメシを食う前に知っておくべきこと

・ボッタクリ価格反社資金

衛生状態が最悪なので腹を壊すリスクが高い

あと一つは?

2024-11-15

サルの魂

師走喧騒スクランブル交差点の渦。信号待ちの人波に揉まれ灰色に染まった空を見上げた。「サルの魂」は、焦燥感に胸を締め付けられていた。バナナの皮ですべって転んだ日から、どうもツイていない。仕事は山積み、財布は空っぽ恋人には振られた。ああ、今年も終わりか。ため息が白い吐息となって消えた。

その時、視界の端に鮮やかなピンクが飛び込んできた。風船のように軽やかにスキップする「阿呆の魂」。鼻歌を歌いながら、落とした手袋を拾い、誰かにプレゼントするチョコレート吟味している。その無邪気な姿に、「サルの魂」は思わず目を奪われた。まるでクリスマス妖精みたいだ。

「いいなぁ、あんな風に何も考えずに生きていけたら」

呟いた言葉は、騒音にかき消された。でも、「阿呆の魂」はまるで聞こえたかのように、くるりと振り返り、「サルの魂」に満面の笑みを向けた。

こんにちは!素敵なマフラーですね!」

唐突言葉に、「サルの魂」は面食らった。素敵なマフラー?十年選手毛玉だらけの、ただの赤いマフラーだ。でも、その笑顔はあまりにも眩しくて、思わず口角が上がった。

「あ、どうも…」

それから、二つの魂は一緒に歩き始めた。阿呆の魂は、道端に咲く小さな花に感動し、ショーウィンドウの子犬に心を奪われ、行き交う人々に笑顔を振りまいていた。その純粋な喜びに、「サルの魂」の凍てついた心が少しずつ溶けていくのを感じた。

焼き芋の甘い香りに誘われ、屋台に並んで温かい芋を頬張る。阿呆の魂は、半分に割った芋を「サルの魂」に差し出した。

はい、あーん!」

子供みたいな仕草に苦笑しながらも、「サルの魂」は芋を受け取った。ホクホクとした温かさが、体だけでなく心まで温めてくれる。

何でもない、小さな幸せ。でも、それが今、「サルの魂」にはかけがえのないものに思えた。師走の冷たい風が、少しだけ優しく感じられた。来年は、きっと良い年になる。そんな予感がした。

2024-11-04

anond:20241104133211

東南アジアに行くと昆虫食屋台がいっぱい出てたりするな。

油でカラッと揚げるとサクサクしてて美味しい。

2024-10-29

anond:20241028155333

来々軒屋台とか、二郎本店の鍋をかき混ぜてる角材とか、国立博物館に収蔵してほしい。

2024-10-28

近代ラーメン史上最も重要店舗6選

ご当地ラーメンはたくさんあり、それらの発祥を書き出すとさすがにきりがないので、ここでは全国的に見掛ける、ないし影響を与えたと思われるラーメンに絞りました。

需要がありそうなら現代でも書いてみます

→書きました。現代ラーメン史上最も重要な店舗10選

来々軒東京

1910年創業醤油味のスープ小麦粉かん水使用した麺、具は支那竹焼き豚ネギと、いわゆる「昔ながらのラーメン」を提供し、日本最古のラーメン店とされる。1976年に閉店。

南京千両福岡

1937年創業創業者の出身地である長崎ちゃんぽんからヒントを得て、スープ豚骨使用したラーメン提供。ただし、このスープは乳化させたものではなかった。屋台からまり現在店舗を構えて営業を続けている。

三九(福岡

1947年創業。仕込み中に意図せず煮込み過ぎてしまった豚骨スープを試しに飲んでみたところ、予期せぬ濃厚な味に驚いたという。「白濁した豚骨スープ」という特徴を持つ豚骨ラーメンの源流と言われる。こちらも発祥屋台で、今は店舗営業中。

味の三平北海道

1950年創業味噌汁を元に工夫を重ねた末、味噌ラーメンを生み出す。ちなみに「客から要望があり、豚汁(ぶたじる・北海道なので)に麺を入れたのが最初」なる俗説は、二代目店主曰く「都市伝説」とのこと。現在営業中。

大勝軒東京

1951年創業。「ラーメン神様」こと山岸一雄が、中野店の店長時代、賄いとして食していたメニューブラッシュアップし、麺とスープが分かれた「特製もりそば」を提供する。これがつけ麺元祖とされる。

山岸一雄は、後に暖簾分けで東池袋に「大勝軒」を創業晩年は多くの弟子を取り、暖簾分け・出身店も多数輩出。「東池袋大勝軒系」と呼ばれる系譜を築く。

珍々亭(東京

1954年創業スープがなく、丼の底に溜まったタレと油を麺と絡めて食べる、油そば発祥店と言われる。ただし発祥は、国立市の「三幸」説もある(創業1952年と二年早い)。現在営業中。


追記

大勝軒は偉大だけど、それなら丸長じゃないか? 丸信、栄楽、大勝軒、栄龍軒はどれも丸長のれん会だぞ

大勝軒近代ではなく現代の方に入れるべきではないかと。近代の方としてはそこまで重要性が高いわけでもないでしょ。

そうですね。「丸長」をこちらへ入れて、「大勝軒」を現代に入れた方が良かったかも。

2024-10-26

(続き)週刊少年ジャンプ史上最も重要マンガ25選(改訂版)

anond:20241026155116の続き

14.SLAM DUNK 作:井上雄彦 1990年42号 - 1996年27号

ハイキュー最終回を迎えた際、Twitter感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファン投稿が目に入った。自分ハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。

井上雄彦作品通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間思考感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティ基準点をもたらすこととなった。

桜木花道バスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要問題になりうることを、今なお我々に伝えている。

15.るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 作:和月伸宏 1994年19号 - (ジャンプSQで連載中)

講談社1970年代末期には後発のジャンプマン業界盟主地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジン苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである

その中で強引に看板作品祭り上げられ、ジャンプ屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。

ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張封神演義BOYSにこの役割代替できたか考えてみてほしい)。現代ジャンプ読者はもっともっと本作に感謝すべきだと、佐藤健超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである

16.セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん 作:うすた京介 1995年52号 - 1997年40号

連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんシュールではなく、ベタシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。

本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである現代観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。

彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象ワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。

17.遊☆戯☆王 作:高橋和希 1996年42号 - 2004年15号

闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空TCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。

コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲーム友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。

18.ONE PIECE 作:尾田栄一郎 1997年34号 - 連載中

世界で最も多く発行された単一作者によるマン作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然カテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。

毎週月曜日ワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マン業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィ尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。

19.HUNTER×HUNTER 作:冨樫義博 1998年14号 - 不定掲載

幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルE前人未踏領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。

「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTER最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」

いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品ジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。

20.テニスの王子様 作:許斐剛 1999年32号 - (ジャンプSQで連載中)

前例のないテニスマンガでの成功女性読者の流入クール生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。

1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツ侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。

21.NARUTO 作:岸本斉史 1999年43号 - 2014年50号

すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマン文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで

22.BLEACH 作:久保帯人 2001年36・37号 - 2016年38号

まりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。

連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民久保帯人センスバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落キャラクターセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内しかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。

23.DEATH NOTE 作:大場つぐみ原作)、小畑健作画2004年1号 - 2006年24

デスノートという作品複数の点で極めて例外的成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力宗教的崇拝、欠点の無い主人公ゴシックキャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...

本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品メディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクター矛盾なく作れる人間大場つぐみくらいしかいないのだから

24.鬼滅の刃 作:吾峠呼世晴 2016年11号 - 202024

2010年代ジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」

ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。

家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的テーマフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に劇場版無限列車編』は社会現象化し、国内興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。

出版業界の衰退、コロナ禍、趣味多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能である証明した本作は、令和を生きる日本人心象風景に残る新たな「国民マンガ」として、時代に選ばれたのだ。

25.チェンソーマン 作:藤本タツキ 2019年1号 - (ジャンプ+で連載中)

ひとりのスター存在プラットフォーム価値定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在メジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動文化オーバーグラウンドものにしたように。

2014年に創立したジャンプ+というプラットフォーム目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。

かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所ひとつとして認知されるようになった。

藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈インターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。

2024-10-24

期日前投票に行ってきた

定時に仕事を終え、会社を出る

日曜日は家でのんびりしたいので、期日前投票に行くことにした

役所に向かう

同じ方向に向かう人も目的投票だろうか?

投票はしに行くものの、投票する先はちゃんと考えてない

政党だけ見て、適当に書くつもりだ

役所の周りにはアンケートを取る人たちがいる印象だったが、今回はいなかった

20:00前だったか撤収したのかもしれない

役所には区の単位投票ブースが作られていた

自分の住む区を告げ、案内してもらう

候補者は二人だ。速やかに記名し、投票する

比例代表裁判官云々も、さっさと済ます。終了。あっけない。

せっかくだから焼きそばとかクレープとか屋台でも出しとけばいいのに。

小腹が空いてたからあったら買ってたな

記念のカードを配っていたが、貰わずに出てきた

あのカードを持ってると、どこかで何かいいことがあるのだろうか?

やっぱり貰っておけばよかったな・・・と思いつつ、帰路に着く。

何が言いたいのかと言うと、みんなも投票に行こうぜという話。

2024-10-20

テキヤかいうけど、実際に暴力団シノギになってる屋台なんて未だにあるのか?

2024-10-18

農業アイドル訴訟全部終わったのか

口頭で言われたというパワハラ証拠を出せず、「ぶん殴るぞ」というLINE顔文字付きかつアイドルの方が「文面上では怖がりそぶりを見せず普通の返答」なのでセーフ判定になった

でも自殺事件の後で同じ事務所の別のアイドルも、パワハラを訴えながら退所

お前たちは必要ない。辞めてしまえ。代わりはいくらでもいる。』等の罵声を浴びせられながらも一生懸命頑張って参りましたが、9月25日屋台祭りにて休憩を取ることを許されず『もうやるな辞めろ。代わりはいくらでもいる。』と、罵声を浴びせられ、耐えられなくなってしまい、活動を辞退させて頂きました。それが全てです

https://seesaawiki.jp/neverless/d/%A4%BD%A4%CE91

の子は#拡散希望 つけていたものの、別のところに移籍してまたアイドルをやることになったので書き込みを消して魚拓も残っておらず、でも当時マスコミ取材を申し込むリプやファン心配するリプなどが残っている

突然のメッセージで、恐れ入りますあいテレビ報道部です。拡散希望の件に関して、詳しくお話を聞きたいことがございますDMなどで直接やりとりをさせていただくことは可能でしょうか?

https://x.com/itv9212193/status/1582932897342062592?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ

昭和事務所ですね。僕も芸能事務所いたんですど、この言葉は禁句でした。一人一人大切に扱いました。ここの事務所以外に沢山あるから選べばいいです

https://x.com/q1aa199/status/1579468150642728970?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ

こういう時、誰にも言えず何も出来ず悲しい結果になる事があります

その中でよく決断し動けたと思います

これから活躍を祈っております

周りに応援してくれる方、沢山います

頑張って下さい!

https://x.com/nobu_shige/status/1579710767695540224?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ

完全なパワハラです。

訴えれば必ず勝ちます

民事裁判手続をして、必ず弁護士を頼んでください。

弁護士費用は、相手側に慰謝料請求して足しにしてください。

https://x.com/haturatupapada/status/1579809873965252608?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ

突然会えなくなってしまったのは驚き、悲しみました

最後真実が知れて良かった

辞めるという決断はとても苦しく辛かったと思います

今まで本当にお疲れ様でした

またいつか、どこかでお会いしましょう!

今はゆっくり休んで英気を養って

https://x.com/lovemitch1223/status/1581602348451127297?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ

発作的に自殺したアイドル本人も親も、生前に丹念に証拠をとっておくという発想を持てなかった素人から負けただけじゃないか

事務所弁護士の渥美陽子高畑裕太強姦事件の時にも被害者女性への中傷表明出してそれを報道させてたなあ

現在は暇空茜の弁護団リーダーでもある

被害を訴えた側を悪人に仕立て上げるのは彼女の得意技だろう

2024-10-15

anond:20241015105933

はてブホッテントリは昔から偏りすぎてると思う。スラドとかもそういう感じだけど基本がオタ陰キャ寄りで鉄分アニメSFファンタジー多めだったような気がして、その辺は全然問題なくてむしろありがたい位なんだけれど、ここ10年位?

特に世の中カテのジェンダー貧困周りのお気持ちポエムエモ記事であふれていて情報量なすぎる。もっと専門業界紙ブクマ増えないか繊研新聞でも建通新聞でも化学工業日報でも電波新聞でも新興WEBメディアでもいいけど

・雑まとめに駆逐されてプロフェッショナリズムに基づいた訓練を受けた知的議論がほぼ死滅した。広告イズムだけ。バズればお小遣いゲット。

ITWEBUI、デザイン周りのチートシートみたいな記事ブクマで一時期あふれたが最近退潮してAIイラスト系の記事が増えた印象

まあその辺に仕事があるんだろうなとは思うけど。なんか屋台骨の絵を描くようなプロジェクトとか作ってみた系の記事死滅した。

ネット炎上をひたすら追求するエントリが上がってくるけど内輪のさや当てとか今更興味ないよ

2024-10-13

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その4

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く

おしん物語根底を流れているのが、「恩」であり「仁義であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語ハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。

今回は、物語類型としての「おしん」をみてみたい。

流浪するおしん股旅物としての評価

おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしん1901年昭和天皇と同年に生まれた設定である

そしておしんが生きた少女時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治回想シーン時代を一気に2世代くらい遡るときタイムトリップ感が半端ない

1983年おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的大手スーパーへの並木土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店隠居の大旦那並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである

それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。

おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである

おしんと人の縁

おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどいしかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語類型ひとつで、一宿一飯の義理人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人やくざなどが主人公である股旅物の元祖長谷川伸は、その後の日本小説戯曲、そして映画テレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である明治が遠く過ぎさり、大衆大正デモクラシー自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である

2000年代になると、日本映画ドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマ陳腐ものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理人情世界観でつくられた恐らく最後ドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸系譜なのである

おしん回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことな股旅であるしかし、おしん物語面白いところは、浪花節陳腐化し、古臭いものになってしまった現代1980年代)と交差している点である

キーワード加賀屋への恩】

並木浩太とおしん最初出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋加賀屋奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売イロハから茶道裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしん人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命うんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動活動家・浩太と出会った。酒田訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初出会いであるおしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシー時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動先進的だと中身もわからず憧れていたのである農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動ロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしん小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋奉公へ行く決心をしたのであるいかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである

ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心最初からおしんが好きだったのである

おしんは加代の家出理由加賀屋に伝えることが忍びなく、おしん加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしん女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さら実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。

一方、加代は、浩太の心がおしんしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。

キーワード日本髪結いのおたかへの恩】

こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしん東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結い師匠たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。

しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである

大衆身分から解放され、より自由髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかおしん独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚挨拶たかを訪れたとき言葉である。その時、5人いたたか弟子はついにたった一人だけになっていた。

田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代おしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である

一方、田倉商店開店休業状態に陥るほど経営悪化していたが、おしん髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たか相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店再生が進んで、おしん洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災おしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである工場火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀ゆっくり休みたかおしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄佐賀編がスタートすることになった。

さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしん佐賀地獄から脱出を心ひそかに誓い、東京師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのであるたかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしん絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。

こうしておしん流転の人生が始まる。屋台出店からまり故郷山形酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである

キーワード:浩太の恩】

浩太の実家貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢実家網元のひさの家であった。浩太は、流浪人生を送るおしんを見かねて、伊勢網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄酒田の飯屋をやってきたおしんめし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。

伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしん魚屋をやる決意をしてくれ、おしん人生好転し始めていた。

一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代苗字も変えなかった。

一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。

田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望兄弟のように母おしん魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。

屈折10年、陶芸師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。

股旅物を取り込んだ現代劇~義理人情は古臭い観念かという現代人への問いか

さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ1983年の場面)に戻りたい。

仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。

ドラマ構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしん戦後現代にいたる高度経済成長おしん自身義理人情を忘れてしまたことに気が付く、というメタで重層的な構成であるおしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパー事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしん問題17号店開店当日、失踪する。この世話物時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である

2024-10-05

なんでなろう系アニメ屋台串焼きたべてチームビルドするの?

頭ぽんぽんなでなでとか。

2024-10-04

anond:20241004162155

で、地域お祭り子どもを送り込む親が客の顔をして参加するが

手伝いもしないっていうアレになるわけだな。


一方で、小学校のころから遊んだ中学生とか高校生の方が手伝いますって言って来ると言う。

そりゃもちろんお手伝いしたら1000円分屋台無料券が出るからそれ目当てってことはあるんだろうけどさ。

何でこんなことになるかと言うと、学校ではボランティア教育ってのをやってんだよ。社会活動に参加する経験をすることで、地域に入っていく敷居を下げるってやつを。

その教育を受けた世代と受けてない世代で断絶がある。

若い親はそう言った体験を積んできた世代にさしかかっていて、そう言う親は手のひらの上でじじばばを転がしながら、自分もうまく使われて旨くやっている印象がある。

2024-10-03

世界は名もなき誰かの属人性でまわってる。

自分が聞いたことのある話だと、

COBOLで組まれた某大手保険会社保険料計算プログラムは、プログラムや影響範囲を把握しているスーパープログラマ担当しており、保険料金の改定があった場合には、計算方式問題がないかのチェックをすべて担っている。とか。

 

 

通信会社光ケーブル運営担当が、日本アメリカを結ぶ通信回線ネットワーク設定の全体像を把握しており、ケーブル切替時には、すべての回線を二重配線する物理的な準備をともとに戻すためのケーブル配線の切り戻し準備もしたうえで、切替作業をしている。とか。どちらの人物転職市場に出ることはほとんど無いだろう。後者の人は転職しようとしたときに、別の通信会社インフラ担当の人と、同じだよねと意気投合出来てよかったと話していた。

 

 

個別技術については、当人より詳しい人はもちろんいるだろう。それでも「その」現場で「その人」以上に、詳しくて対応可能な人は世の中には存在しない。そんなすぐに代替不可能人材がどの企業にもいる。

例えば、原発対応話題になった吉田所長もそういった人物の一人なのだろう。原発事故がなければ、優秀な技術から所長になった一人の東電社員として現役生活を終えていたことだろう。(もしかしたら再任用で、現場指導をしたりなどしていたかも。)

 

それぞれの現場はの基礎は名のしれた技術で成り立っている。プログラムCOBOLで誰かが読み解くことは可能だし、ネットワークは、設定資料確認すれば、把握することはできる。

そういう人材をどうやって育てることができるのか?

 

 

こういう立場になれる人が、幸運なのか、不運なのかはわからない。当人は楽しくてやってることが多いし、ある一定以上の給与などはあまり求める印象はない。

こういう人はどんな分野にもいることだろう。

 

 

どれだけ世の中が便利になっても、便利さを支えるコアには、必ずこういう屋台骨になるような人がいて、回っているということを忘れないようにしたい。基本的に表舞台ほとんど出てくることはないからね。

一方で、属人性を持つ業務技術継承は、常に課題になってくる。大手製造業だと、式年遷宮方式20年に一度の技術体系全刷新を行うようにして、技術継承をしていると聞いた。50代の定年前の技術職と30代中堅社員でやるらしい。2025年のDX問題問題設定は、技術継承観点として、有用課題設定だったとは思われる。ただし、担当する社員がいなかったのか、継承先の技術者がいなかったのか。

お金払えば解決って問題でもないし、技術継承さえできれば解決でもない。転職市場からたまたま人材ゲット出来たか大丈夫だったもあるだろう。

 

 

ブックマークで、そんな属人性が高くて大丈夫か?というコメントがあったので、反論してみた。「何事もなく継続していること」それだけでもとても大きな価値なのだということに気付いてもらいたいと思って、投稿する。

2024-10-01

anond:20241001163030

好みが合わないだけだろ

屋台料理なんか深い旨みとかじゃないし、あとは友達とワイワイ旅行で行って食ったりしてたらなんでもうまいやん?

2024-09-22

anond:20240922041356

ヤクルトを取ってくれという販売員がおって無料なので試しにこの辺飲んでそれで判断してくださいと言われて、いいけど絶対定期購入しないよ?と念押ししたんだけど、

後日空容器を集めにきたときに改めて定期購入はしないよと伝えた時の、ここまできてそれ言うか・・・という絶望的な顔は忘れられないな

あと屋台無料からこれ食べて!と言われて食べた挙句ありがとうで帰ろうとしたら食べたなら一本買って行くのが礼儀やろ!と言われておまえ無料やゆうたやんけ!(笑)で帰った時の怒り顔も忘れられん

2024-09-18

地元共産党議員団がひっそり共産党から足抜けしてた

この間、いつも集金に来る共産党元町議がやってきて、ついに共産党議員団解散する、赤旗配達を終了すると言う話を聞かされた。

ただ、共産党とは外れるけど、共産党とは別の形の地域議員グループとして存続していくと言うことらしかた。

別の人に引き継いで赤旗の購読はできると言われたけど、正直、この議員さん個人にお世話になっているか配達してもらっていただけであって、別にいらないので印刷版の購読は終了することにした。


ここは昔から伝統的に日本共産党勢力が強くて、共産党系の病院とか、共産党系の農業者団体とかある町なんだけど、

最近、その中心で活動していた共産党議員団活動ほとんど目に見えなくなってた。

そこでこれである

伺うと、前から町で活動していた若手の議員グループがいて、そのグループから色々な条例やら活動やらで協力するようになっていたらしい。そのグループ40代から50代を中心として、若い人も入っているグループで、そこから3人町議を送り出していた。

ただ、年寄りが足りない。若い人だけだと仕事もあるので活動が難しい所があった。そこで旧共産党と協力してやる事が多かったそうなのだが、ついに共産党議員団事実上解体して、そのグループに合流することにしたのだそうだ。と言っても、もう共産党議員団は一番若い議員も74になるし、次の改選になるが引退意向のようだった。前は4名は送り込んでいた議員も今は2名。会計のチェック能力などは凄い手腕をもってて活動していたけれど活動は弱くなっていた。これを機にメインで動いていた人は引退していくので、事実上吸収合併世代交代ということのようだ。

ここが担っていた、共産党系の農業者グループも同時に解散する事になった。まぁ近頃は確定申告勉強会ぐらいしか活動やってなかったが。


共産党というとアレルギーを起こす人も多いだろうが、彼らの活動は、議員としては町政の監視と言う事で、ルーズになりがちな田舎町長監視するのが主な仕事で、結構成果を上げていた。

例えば、我が町の最大のスキャンダル土地開発公社に関わる利益供与事件不正会計は彼らが見つけたものだ。町長経営する建設会社から町が直接土地を買うと目立つので、土地開発公社に迂回して購入する事で町のルールバイパスさせたと言う件である。そして土地開発公社は似たような事に使われていたことが次々と発覚して解体させた件だ。

一方で、それ以外は地道な活動が多く、困窮者の支援や、困りごとの相談本来なら行政がやるべき行政手続きの話のフォローやら、お祭り屋台を出して盛り上げたり、子ども達の見守り活動をやったり、通学路の草刈りをしたりと、そう言う団代であった。なので地域でもそれなりに一目置かれており、特にまとまりという点ではよい団体の一つだった。

しかし、このような決断に至った理由は、高齢化の話が最も大きいが、やはり県の共産党から降りてくる施策になかなかついて行けないと言うのもある様だった。思想的な話というよリも、組織力が落ちてきている中で、共産党中央組織はただただ組織の引き締めと称する、要求ノルマ地域に下ろすだけになっているようで、ノルマは当然達成できないし、する気もなくなっているようだった。

それから、この団体の中核を担っていた、社会福祉法人理事長代替わりも関係していると思う。どうやら民医連から脱退したらしい。何があったか知らないが(すっとぼけ)


ということで、新しい団体の報告会があるようなので聞きに行ってくる予定である。たぶん、共産党から降りてくるくだらない仕事が消えた分だけ、町政によい影響があるのではと期待している。


追記

伸びてて驚いたので、誤解を生みそうな所を補足させてほしい。

2024-09-14

[]どっ缶冷凍みかん

地元祭りに出かけたが、祭り用に設置されたゴミ捨て場缶詰みかんの缶がやたらと多いのが気になった。

そして、屋台にて「どっ缶冷凍みかん」ののれん発見した。

ゴミ捨て場にあった缶はこれなのか、と思う。

今日9月中旬なのに最高気温35度の快晴暑かったのでこれを買うことにした。

その時はたしか午後2時頃だったと思う。

「どっ缶冷凍みかん」はシロップ漬けのみかん缶詰を凍らせただけの代物だ。

凍っていてふたを開けるのに力が必要なのか、冷たくて直接触れることができないのか、店員軍手を着用して仰々しいペンチで開封していた。

これにプラスチックスプーンが付いてくるだけで500円だ。

スーパーで120円くらいで売っているような400グラムみかん缶を凍らせただけで500円だ。

他の屋台の店が鉄板焼きそばイカベビーカステラを焼いて汗を流してあくせくしているのに比べたらずいぶんと楽してるのではないか、と思った。

持ち運ぶ際、スプーンを缶の中に入れようとしたが、内容物がガチガチに凍っていてスプーンが刺さらなかった。

しかも、あまりにも冷たいので、持ち運んでいる最中左手から右手へ、そしてまた右手から左手へと何回も持ち替えた。

おかげで、熱かった体を冷ますことができてよかったけれども。

そして、気温と体温とで缶詰の周囲が解け始めると、ようやくシロップが飲めるようになった。

とはいえ最初に溶けるのは水なのであまり甘くはなかったけれども。

すると、缶の中に隙間ができてスプーンを入れる余地ができるので、少しずつ削って食べられるようになったのである

そのうちに缶の中は氷からシャーベットへと次第に変化していくので、スプーンがジャクジャクと入るようになってどんどんと食べられるようになっていく。

ガチガチのカチワリ氷からシャリシャリシャーベットへと変化していくのを楽しみながら味わったのだ。

しかも、みかんの果汁も果肉もたっぷりだ。

そのうちに、暑さでフラフラだった体も頭もすっかり冷えてきて、気持ちもシャキッとしてきた。

ああ、うまかった!

ただし、この「どっ缶冷凍みかん」をうまいと思うには、炎天下の屋外であることが条件だろう。

エアコンの効いた屋内でこんなにも冷たくて量の多いものは、とてもじゃないが食べられたものじゃないだろう。

ゆえに、私はこの「どっ缶冷凍みかん」を人生で初めて食べてとても気に入ったけれども、今年はもう「どっ缶冷凍みかん」を食べることができなくて残念だ。

ああ、早くも来年の夏が待ち遠しい。

屋台食べ物でこんなにも心奪われるとは思いもしなかった。

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