はてなキーワード: 過小評価とは
最近アニメをあまりみていなかった自分も転スラ、無職転生、Reゼロ、5等分の花嫁、進撃、呪術回戦 etc..
かなりのアニメをみている気がする。
というのもコロナで各社が力を入れている作品が延期につぐ延期、万を辞して放送開始となったというわけである。面白いアニメが怒涛のように始まった。
そんな豊作な今季、暇な時間も取れたのでアニメ漁りを始めた自分は一つの作品に注目した。
今時よくあるいかにもラノベっぽいタイトル。まぁなんとなくdアニメストアのランキングに入ったからみただけなのだが、
1話をみた後の感想は、「まぁよくある異世界転生ものかー」という感じ。
タイトルで切っている人もたくさんいるだろう。
ただ、無料で全話漫画が読めると知り、あれよあれよと読み進めこちらでどハマり。
https://web-ace.jp/youngaceup/contents/1000013/
是非ともアニメの2期を所望している。ということで布教しようと思う。
自分が紹介する上で比較するのが「転生したらスライムだった件」
今季異世界転生系アニメで覇権のアニメ。ちらの作品も1期の時にハマって原作小説を全巻購入してしまった。
どちらも異世界転生系、かつモンスターに転生するという似たようなストーリー構成なので比較しやすい。
どちらも原作まで追ったが、
ただアニメの人気度はかなり差があるように思える。それが納得いかないので、どの辺が蜘蛛の方が面白いのかを説明しようと思う。
転スラは転生者の中でもスライムになった主人公がスキルを覚え、仲間を集め国を作るという物語。
その中で敵や味方として、「転生者」が出てくる。こいつらが大体チート能力を持っているので、戦闘は目が離せない。
それに対して、蜘蛛は高校の1クラスが一度に転生するという形で転生者が誕生する。大体30人弱。
主人公は蜘蛛の魔物になってしまったのに対し、大体の転生者は人間に転生することができる。
ポイントは主人公の魔物としての生活と、人間の生活が対比として描かれる。
この構成は原作を通してずっと一貫しており、視点によって全然違うドラマが存在する。どちらも転生者であるが、生まれ育った環境や前提知識により価値観が全く異なってくる。
そして大体こういう群像劇で面白いのは二つの視点の主人公が会う時。それは正直かなり後の話なので、今季ではアニメでは描かれることがないかもしれないが...
転スラのリムルは正直チートである。強すぎて正直「あーハイハイ、まぁ勝ちますよねー」となる。味方も再現なくどんどん強くなる。
まぁそれが面白いという部分もあるのだが、原作を読んでいると正直飽きてしまう。
一方蜘蛛の方はいつも結構ギリギリ、対戦のスリル感が味わえる。
特に前半の蜘蛛がダンジョンの中で探検するという部分は本当にいつ死んでもわからないという感がワクワク感を与える。
要するによくできている
これは最大のネタバレになるので詳しくは言わないが、転スラの世界の構造はよく言えば単純である。
どちらかというとキャラの成長とバトルに重点をおいたストーリー構成になっている。
まぁ面白いのではあるが
蜘蛛の方はいろいろなこと話が作り込まれていて、何事にも理由がある。
転生した理由、世界の構造、なぜ魔物が存在するのか、なぜ魔人と争うのか、なぜ主人公は蜘蛛として転生してしまったのか。エルフの存在。
その伏線回収がとにかく面白い。原作の最終巻はかなりラストスパートで大体の伏線は回収されているので気になったら読んで欲しい。
転スラを面白くないみたいな書き方をしてしまったが、別にそんなことはない。
転スラは面白い。ただ蜘蛛ですが、の方が過小評価されてしまっているのが、悲しい。
人の不幸は密の味。なによりの大好物は失敗プロジェクトの内情暴露、という増田だ。
さて、今日もいつものようにCOCOAを巡るすったもんだとか https://www.tokyo-np.co.jp/article/87051
ワクチン接種管理システムの納期が2週間とか https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69301930Z10C21A2EA2000/
それをおかずにしておいしいご飯を食べながら、年老いた母に向かって上機嫌に語った。日本のITがいかに惨憺たる有様なのかを語った。奴らは失敗したし、これからも失敗するだろう。なぜなら日本はIT技術者を軽視しすぎていて、商社きどりのITベンダーが何か仕事したつもりになってそれでお金を貰える国だからね。といった具合だ。もっともこれは俺が何度も何度も繰り返している社会に対する呪詛で、目新しいところは何もなかった。
「どうでもいい話だね」
と沢庵を口に運びながらふいに母が言った。
「あんたが、過小評価されてようが、どこかのシステムの一つも満足に出来もしない誰かが高給をもらってるとか、そんな話は――」ポリポリと沢庵をかみしめて、飲み込んだ。「――どうだっていい話だよ」
俺はせっかくの上機嫌に水をさされて、少しムッとした。間髪をいれずに母は続けた
「COCOAってのはソースが公開されて、誰でも欠陥を発見できるようになってたんだろ?」
ニュースか何かで知ったらしい。
そうさ、だからCOCOAの欠陥だって、4ヶ月前に発見されてissueとして報告されてた。でも元請けのベンダーも下請けもみんな無視したんだ。
「それは残念だったかもしれないけどね。それもどうでもいい話さ」
そんなことはないだろう、と俺は食後のお茶を淹れながら反論した。
元請けってのは正常に動作するシステムを納品する責任があるんだ。彼らはその責任を果たさなかった。発注者の厚労省だって、検収責任があったのに怠っていた。
「発注者にも元請けにも責任がある。それは道理だね。ただ、私が知りたいのは、あんたの責任さ」
責任?プロジェクトに無関係の、安月給のしがないプログラマの俺の責任?なんだそりゃ?
きょとんとして、母親の目を見た。茶をすすっている皺くちゃの顔が怒りの感情をたたえていることに長年の付き合いのある俺はすぐに気づいた。
「あんたはプログラムがわかるんだろ。あんたは問題の指摘を見てどうしたんだい?」
ギクリとした。俺はそのIssueをgithubで見たわけではなかった。正確にはCOCOAの不具合が明らかになってから、どこからともなくTwitterでまわってきたスクリーンショットを見ただけだった。
「他のプログラマだってそうだ。その指摘は正しかったんだろ?プログラムを見たらそれが正しいことはわかったんだろ?なんで、これはすぐに対応しなきゃいけない。みんなで大騒ぎしよう、とはなんでならかったんだい?そうしていたら、もっと早く問題が解決したかもしれないのに」
俺は黙るしかなかった。正直なところ俺はCOCOAのソースコードすら読んではいなかった。だってXamarinだし、目もくらむような一流企業の年下の若者の書いたコードだし、そもそもアプリは専門外だ。だがそれを母に言って納得させられる自信はなかった。
「それだけの能力がなかったからできなかったっていうなら、仕方ないことさね。それは責められるもんじゃないよ。仕事で請け負ったわけでもないしね」
能力がない、という言葉がまたチクリと俺の胸に突き刺さった。実際のところ、がんばって読み解くぐらいのことはできたかもしれない。GoogleとAppleのドキュメントを読んで、issueの内容を検証する、ぐらいのことだったら出来た可能性もある。
だが、俺はやらなかった。やらなかったから、出来なかったのだ。
プログラムができる人間としてissueが正しいかを検証する責任?
「違う。それは出来なくていいのさ。出来る人がいればたくさんいれば良かったろうけどね。そうじゃない」
じゃあ何?
「このコロナっていう大変な時代に、みんなの命がかかっている大事な話に、『プログラマとして』関わる責任だよ」
ピンとこなかった。俺はコロナ関連のシステムを作っているわけじゃないし、それは他の連中の仕事だ。
「いいかい?私らはプログラムのことなんてさっぱりわからない。エーピーアイってのが何のことかさえよくわからないんだ。あんたにはわかるんだろ?」
「つまりあんたは、私らとは違って物事がようく見えているはずなんだ。私らには逆立ちしたってできっこないことが、出来るはずなんだよ」
で、でも、具体的に何をしろっていうんだよ・・・・・・
「何だっていいさね。あんたの残業が多くて、給料が安いのも知っているから、出来る事なんて全く何もなかったって仕方ないかもしれないね。でも―――」母は目を見開いて俺を真っ正面に捉えた。
「実際に作業をしている当事者をおもしろおかしく冷笑したり揶揄えるほどあんたが無関係だ、とまでは思わないね」
俺は押し黙って下をみるしかなかった。炬燵布団の単調な色合いがくすんで見えている。
「私らはね、これでもあんたたちプログラマに敬意を払ってきたつもりなんだ。給料が安いのだって、可哀想に思っているよ。早くあんたたちがその努力に見合った待遇を勝ち取れたら良い、と本当に思っているよ」
「だけどね、こんな大変な時に、みんなの命がかかっている時に、あんたのようなプログラマーが給料が安いからやる義理はないだの、責任の所在がどうだの、そういう何も生み出さない評論家じみた減らず口を止められないのはどういうことなんだい?そんなことをあんたたちが言う権利は本当にあるのかい?」
「結局のところあんたらは」母は、茶の最後の一滴をすすった「私らの命にすら興味がないんじゃないのかい?」
そんなことは・・・・・・
と反論しようとして、自分が言おうとしていることが何もないことに気づいた。そうじゃないんだ。そうじゃないんだけど・・・・・・とめどない言い訳が続いて俺は口をつぐむしかなかった。
https://yt3079.hatenablog.com/
◎日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民(外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける
→日本人と移民の人口比逆転は時間の問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?」
(出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる)
◎約90年で人口が半減するスピード(しかも子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機的非常事態。それなのに対策は後手後手
→例えば、ウイルスの蔓延は現在進行形で悪化のスピードが早く、人権を制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化はダメージの時間的スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。
◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続。政府自治体の対策の対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策は効果が出ていないのが現実。
→本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくない。だから育児支援で保育所をいくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区の出生率は全国平均以下)
◎出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。
→独身に低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者(年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在は戦時中よりもはるかに低い出生率。日本を含む先進国は生活が多様化しており、コスト要因の結婚の必要性と優先順位の低下により、低所得者から結婚を回避するようになった。
◎子作りしたい人への環境支援ではなく、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策が重要
→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援に関係なく、子供を作っている。問題は出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚は個人の自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。
◎動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身は増税(実質的独身税)」
→早婚に金銭的メリットが生じて、相手の理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手の対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。
◎少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやすい育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来、負担の大きい子作りに対し、反発のない対策は効果も期待できないはず(作用反作用の法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手な倫理やモラルで負担回避を正当化すれば、将来世代は先細りの一方。
→目的(少子化解消)は手段(人権に問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットがデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨な社会になっても、子供を作らない自由意思尊重が大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき)
★本稿のポイント
少子化対策の「思い込み=(人権やモラルは少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にのみ人権やモラルを我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題は解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働の担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権や倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策の本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済も回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合の日本人に訪れる悲惨な運命とそれを回避するための、効果を優先した対策を提案、解説する。
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近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来は人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人の出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事の日本社会と政治に問題意識を投げかけたいと思います。
問題は解決するより、発見する方が困難です。個人も組織も、自ら気づかない潜在的な問題により、傾いていきます。少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府の少子化対策関連予算は先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出の観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。
現状の少子化対策は育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性の政策しかとられておらず、改善の兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府は実質的な移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人と移民の混在する国になっています。さらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民の割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツは海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります。公用語が中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。
そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児は個人の権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在の少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策が必要であると考えます。しかしそういった対策は、個人の自由意志に反する可能性のある対策であり、モラルや倫理観の問題で実行に大きな障壁があります。しかし、動機付けの対策に有効性があって少子化が改善される可能性があっても、現代人のモラルや人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います。
少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラルや現代人の自由や権利を理由に放棄してもいいのか。現代人のモラルや価値観はその人種の存続や持続性以上に重要な価値観なのかーー。
このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります。現在出尽くしている対策や論点とは違った観点と具体的な対策を提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います。
【要点・トピック】
現状の少子高齢化が改善しないまま、実質的移民の外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人と移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人と外国由来の国民・住民の人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間の問題。不可逆になる前に手を打つべき。
政府、自治体の育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論付けが必要。国民の自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化の構成要素である未婚率の高まりは少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観の多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策の方針を「大幅に変えないと」今後もさらに日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から」出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。
モラルや倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラルや人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。
続きは以下にて
https://yt3079.hatenablog.com/
◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか
政権に関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題に対応するため、政府や経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的な移民(国連の定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさらに推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法が施行された。彼ら外国人が高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民の高齢化問題も出てくる。
このまま、日本人の人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人と外国人の比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保と観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。
◆出生率の数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口がゼロになるか」の確定年数を導ける指数。内戦中のシリア、アフガンや北朝鮮より先行きが危ない少子化日本。
出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口がゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然と認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しか生まれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代は就職氷河期世代で不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである。
この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前は大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率を人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口の半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。
内戦のシリアやアフガン、独裁政権下の北朝鮮ではいずれも出生率が2を上回る。いくら、内戦や政治不安で経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代が平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。
◆現日本人が外国人(実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋な日本人は消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人が過半数割れ。
「移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である。出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。
2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニックや黒人、アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人の割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さらに2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人の出生率が2を切り続けて増えず、白人人口がゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックとアジア系の流入がその穴を埋めているためである。アメリカの出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民の出生率が高いためである。現在、アメリカは多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人とヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。
地獄に落ちろ!!
どう考えても今年から来年に向けては上がり相場でしょう(S2Fモデル盲信)
手持ちの現金ないのでビットコイン担保にしてドル(USDt)を借りて、そのドルで更にビットコイン買い増しておいたったわ
10BTCくらい持っているからそれを担保にしています。実質1.1倍のレバレッジかけた取引を手動でやってる感じかな
借金の利率は12%なので、年利12%以上の速さでビットコインの価格が上がったら俺の勝ち、それ以下だったら俺の負け
俺の目にはビットコインは12%どころか余裕で100%超えるようにしか見えていないので、拾えるお金を拾いに行っているって感覚です。
最初は国内の消費者金融とかカードローンでの借金を考えて探してみたんだが、JScoreって融資サービスに色々情報を入力して出てきた結果が「年率15%限度額30万」とか言うあほくさい融資内容で、完全にサラ金から資金を引っ張ってくるのは諦めた。まぁ無担保なんでこれが限界なんだろうけど笑った。
ところでなんで、こんな危険なことしているかというと。全然危険じゃないからだよ。
これが危険だと思う人は「380万円借金やばすぎ」とかか思ってるんだろう。ヤバいのは割合計算できないお前の頭だよ。
10BTCの文字が読めないか、10BTCの価格がわからないんだろう。10BTCは3800万円だよ。総資産の1/10くらいしか借りてない。
もっと言うならビットコイン以外にも株式などの資産は別に持ってるので、総資産の1/10以下のお金しか借りていません。
そんでその380万円が2倍になったら380万円儲かります。1.5倍でも190万手に入ります。
価格上昇については本当のことは誰もわかりませんが、各国の法律や企業ではまだまだビットコインは過小評価されていること、例えば日本で分離課税とかのイベントで購入者が増える余地がまだまだあることや、S2Fモデルの考え方を総合した結果のわたしなりの確信です。
2017年のバブルの頃は借金ぶっこんでる人がうじゃうじゃいた事を考えると、2021年初頭は過熱感がない。ようはバブルはまだ始まったばかりなであり、これからのビッグウェーブにはガッツリ乗っておきたい感じ
あと人生で一度も借金したこと無い(奨学金除く)ので、人生経験の一つとして体験してみたいってのもあった。
自動車ローンとかも触ったこと無いしな。いざ借金するときにLTV50%ってなんだ〜とか改めて担保融資の仕組みとか勉強する余裕とかなさそうだし、平時で余裕のあるうちに体験しとくのはありかなって思った
電力自由化の頃にいろいろ調べた結果looopが強そうだと思って家庭用電力をこれにしてるが、個人としてはJEPX高騰したところで特に影響はないな。公式にも説明されてた。
https://looop-denki.com/low-v/news_detail/2965
そもそも家庭用電力で市場連動プラン選ぶ人なんてそう居ないんじゃないか?プランが存在する会社も僅かだし。調べたらシェアは2%に満たない。
新電力を活用してる一般家庭は単価固定プランがほとんどなんだから、高騰の影響は軽微だ。
けれど己の無学無知と無行動を誇るネチズンはこういうニュースを聞きかじって「そら見たことか、だから俺は格安SIMも新電力もやってない云々」と言い出すんだ。
生き方は好き好きだし独りよがりな自己肯定をするのは勝手だが、君らは新しいものに手をつける人間の賢さを侮りすぎだし、動かない自分の愚かさを過小評価しすぎだ。
なんかジャンルは違うが、痛い系のまとめサイト情報を鵜呑みにして偏見を凝り固めていく人たちと似てるな。
ともかく現に俺は割りを食ってない。君らはエゴを肥え太らせ、現実認識を歪めながら、今後もそうやって損し続けてくれ。頼んだよ。
いまだに議員が会食したり、「4人以上での会食は控える」なんてぬるい対策で与野党合意したりしていることの危険性は、かなり過小評価されてる。
コロナの感染を防止するのに何をすればいいかは専門家が既に議論してくれているが、その上で問題はどうやって本当は出歩きたい・飲み会に行きたい人を我慢させるかにある。
ここで忘れてはいけないのは、別にマスクを付けず連日飲み会に行ったところで、本人がコロナになる確率は決して高くはなく、まして死ぬ確率なんて実質0に近いということである。
にもかかわらず何かを我慢して行動変容するとすれば、それは「自分のため」ではなく「みんなのため」でしかありえない。
だから、行動変容を迫るには、「お前が死ぬぞ」と脅すより、「みんなのために我慢してくれ」と良心に訴えることが、主なメッセージになる。
ところがここまで国はGoToを使って「旅行していいですよ」「会食していいですよ」というメッセージを発してしまっており、挙句議員が忘年会を開いたりしている。
これは、「本当は飲みに行きたいけど、医療従事者が瀬戸際で頑張ってるのに悪いかな...?」と思っている、行動変容するかしないかの中間地帯にいる人々の罪悪感を、大いに軽減する効果がある。
そういう人たちの存在は、行動変容しない人々を前提としたサービス(短縮要請に応じない飲食店など)を潤わせ、その人たちの圧倒的多数はコロナにもかからないため身近なところでの安心感を強め、そしてコロナ対策を破綻させるだろう。
渋谷区で一人暮らししていたが、祖父はいくつか不動産を持っており、その1つを生前贈与されたので住むようになった。場所はほぼ埼玉の東京の某市。
が、引っ越しして1年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、東京市部を心の底から舐めていた。都心で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
俺と同じように代々東京で、ずっと東京で生活していて、でも都心の家賃は高いから市部の生活も悪くないかもと考えている都民は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから田舎で生活してみたい、は絶対後悔する
幼い頃からスーパーに東京野菜というのが売られているのを見ていたし、親に練馬では大根を作っているという話を聞いていた。しかし、実際自分の目で東京の畑を見たことがなかった。厳密にいえば、新幹線や自動車に乗っているときに窓から見ていたことはあっただろう。しかし、それがほんとうに東京であることを意識したことはなかった。
実家の裏手には某美術館の庭園、一人暮らしの家からは某公園があったので自分の部屋から小さい森みたいなものは見えていた。自然から疎外されて育ってきてはいないはずなのだが、いま外に見えるのは洒落た庭ではなく畑である。同じ植物でも庭園と畑の決定的違いがある。食べるための作物か、鑑賞のためだけにつくられた緑か、という点だ。
その差は小さいようでかなり大きい。畑をメンテナンスしているのはしがない農家のオジサンだ。聞こえてくる音は見た目を整えるチェーンソーではなく、収穫するためのトラクターだ。
生きるために必要であるとはいえ、そのプリミティブな行為が自分の生活圏内にあるということは大層居心地が悪い。
東京に空が無いと誰かが言っていたが、たしかに俺が生まれた街にはない(昔は青山も今ほど高いビルがなかったからもう少し空は広かったが)。しかし、市部にはある。高さ制限や用途制限があるわけではないのに、高い建物がない。
ふつう広い方が落ち着くのではないかと思うだろう。どっこい、そうではない。俺にとって、都心のビルは圧迫ではなく受容なのだ。そのそびえるコンクリートとガラスに守られて生きてきた。しかし、市部にはビルがない。落ち着かない。ダイナミックに変化する空の脅威に直接晒されているような感覚になる。これも大層居心地が悪い。
都内と23区外、いや、都心とそれ以外は天と地ほどの差がある。電車で新宿まで40分?普段行く場所が新宿だけならいいが、丸の内にも赤坂にも恵比寿にも品川にも上野にも行く用事はあるだろう。うまい店、気の利いたものを売ってる店、友人宅etc..
それらに行こうとすると、片道1時間は平気でかかる。バーに行くことも、カフェに行くことも、フレンチに行くことも、ブティックに行くことも、本屋に行くことも、美術展に行くことも、コンサートに行くこともかなり腰が重くなる。
いや市部にも、うまい店気の利いた店は確かにある。あるのだが選択肢がないのだ。その店が休みだったら代わりの場所に行くこともできないし、気分によって切り替えることもできない。あ、時間できたしあそこ行こうかな、というのもできない。
市部には畑しかない訳ではない。むしろ畑は割合的には小さく、それ以外は画一的な戸建て住宅と古びた団地と老朽化した遊具を備える公園がある。その風景は悲しいほどに寂れている。古びた団地には本当に気が滅入る。かつて大勢の若い親たちとその子供が暮らし栄華を極めた団地だが、今は高齢者しか住んでいない。ひび割れたコンクリートを補修した跡と、その前を歩く老人の皺がオーバーラップする。終焉目前の団地1階の商店の色褪せた看板を見ると、俺の心の色を奪っていくような感覚になる。
東京に住んでいた頃にも自転車はいた。主には送り迎えするお母さんたちだ。しかし、市部の自転車の半分は老人たちだ。チェーンは錆びつきキーキー音が鳴り、よろよろとハンドルを握るおじいさん、おばあさんたちだ。あとは通学の中高生。ヘルメットこそ被っていないものの都内ではあまり見かけない「自転車通学」。田舎にしかないと思っていたものが、市部にもあった。もちろんお母さんたちも自転車に乗っている。そのお母さんたちが来ているダウンはモンクレールではなくユニクロだ。そして自転車の総数自体が都内に比べて断然多い。それは歩くのがとても窮屈だということだ。
メインの国道も狭いし、路地はもっと狭い。246の歩道より狭いんじゃないかという道を、よぼよぼの自転車と元気な通学自転車が駆け抜けていき、その間を自動車が通っている。田舎や都心ほど道が広い訳でもないのに通行量はそこそこある。こんな滅茶苦茶な道は市部にしかないのではないか。
ちょっとした用事で実家に1週間ほど戻ったことがある。その時感じたのは住むなら都内だ、ということだ。
ジャンパーだけ羽織ってスマホさえ持って外に出れば、パスモも持たずとも、カフェも本屋もブティックも何でもある。身なりのひどいおじさんもいないし、余裕のなさそうな顔で自転車を漕ぐお母さんを見ることもない。農作業している老人を見ることもない。
田舎者には「でも自然がないじゃないか」と言われそうだが、少し足を延ばせば明治神宮があるので、緑に囲まれることができる。都心には、代々木公園でなくとも新宿御苑、皇居前広場、上野公園、芝公園など実は緑に触れられる場所は多い。本格的な自然ではないが、木に囲まれたすこし湿った空気を吸うことくらいはできる。
今住んでいる家を賃貸に出して引っ越せばいい話ではあるし、実際そうしようとしている最中なのだが、都内に住んでる都内育ちの同志に同じ思いをしてほしくない。相続したからといって、気軽に市部にいくのはよしたほうがいい。どうか、貴重な人生の時間を無駄にしないようにしてほしい。
2位 ポイントが稼ぎやすい行動を独り占めしているだけであることを明るみにする
3位 無視する
4位 相手にしない
6位 ソイツが居なくても回るように仕組みを変えていく
8位 自分の悪いところを過小評価する卑怯者である事を明るみにする
9位 自分の良いところを過大評価する卑怯者である事を明るみにする
10位 通報する
当方20代後半、田舎(東京ではないどこか)に生まれ、22歳で田舎の大学の理系学部を卒業し、ストレートに大手メーカーに総合職として就職。配属は社内情シス。
が、転勤して半年ほどたって耐えられなくなってきた。本当に辛いし東京勤務を心の底からなめていた。
田舎で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
俺と同じように実家が田舎でずっと田舎で生活していて東京に憧れている大学生は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・田舎の生活に飽きたから東京で生活してみたい、は絶対後悔する
・東京勤務を年収換算マイナス300〜500万円ぐらいだと覚えておけ
地方の衛星都市に住んでるいると「ここは都会だから」と自虐を宣う人を良く見かける。
こんなのは嘘だ。本当の東京を知らないから言える虚言そのものだ。
電車に乗ったら座れない、でかいイオンが混んでる、駅前ランチが高い。
この「心理的にちょっと嫌」っていう程度の都会感と、本当の東京だと天と地ほどの差がある。
東京に住んでいると、ちょっと遠足に行くっていうのは相当な準備と気合が必要になってくる。
まず数週間前に旅行先を決めて特急・レンタカーなんかの手配が必要。
数週間前から予定を抑えて「何時には出発」といったことまで決めないといけない。
田舎に住んでいたら土日の朝に起きてテレビでやってた観光地に「ちょっと行ってみるか」という気分で車を走らせられる。
田舎の場合は車を運転しながらナビでテレビをつけたりラジオを聞きながら、そこで話題になった場所に思いのままに車を向かわせることができる。
Google Mapで調べた美味しいラーメンやにもいきなり行ける。
イオンに行ってカゴに詰め込んで、袋詰もせずにカゴごと持って帰ることができる(300円でずっとレンタルできる)
それが東京では全くできない。
東京に住んでいると、自動車での外出はほぼ不可能になる。というか、自動車を所持することは不可能になる。
田舎に住んでいるときは自動車を走らせる理由なんて一切必要なかった。
ただなんとなくドライブする。それだけで十分だった。
だが東京は違う。目的もなしに車を走らせると渋滞に捕まる・一方通行で戻れなくなる・駐車場が高い・そもそも駐車場が埋まっている。
都会のビル群は引っ越し初日で飽きる。なんにも面白いものなんてない。だって地方都市の見た目と同じなんだもの。当たり前。
東京は金持ちの街、とは言うけれどまさにそのとおりで何をするにもお金がかかる
繁忙時間帯に誰も並んでいないラーメン店なんて死ぬほどマズイ。だけど生き残ってる。それでも人が来るから。
たまに掘り出しの店を見つけるけれどすぐに行列だらけになる。1時間待ちは短い方、2,3時間なんてザラ。
なんであんなに待てるの?ていうか待ってる間何してるの?本読んでる?スタバでも本読むのにスタバ待つ間に本読んでる?家帰ったら?
まぁ結局住環境が最悪なので外に出てくるんだよね。
東京なんて相当な家賃を払ってもゴミのような部屋しか貰えない。
狭い部屋でできることって限られるからここでも自由度が削られる。ペットも飼えやしない。自炊もできない。
「自炊はコスパがいい」とかいう人いるけど、ぜんぜん違う。自炊はカスタマイズ幅が広い。自炊できないっていうのはやっぱり自由度が低い。
給料の大半を家賃に奪われて、残ったお金で本買って読んでるだけの街。それが東京。
優秀な人は東京の人より貰ってるから。その優秀な人が東京来たら全然貰えないけどね。
当たり前で東京はライバル多すぎて給料全然上がらない。田舎はライバルがマイルドヤンキーだから楽勝で給料上がる。
そんで家賃は全然かからない。駐車場代も必要ない。ラーメンの有名店は普通に美味しいし、並ぶ必要もない。
車も買えるし2台でも3台でも持てる。
レンタカーとかタイムズカーシェアとかを対抗に上げる人多いけど、「車を持ってる」ってのと「車を運転できる」ってのは自由度の面で全然違うから。
「パソコン持ってる」ってのと「パソコン使える」ってのは自由度が全然違うでしょ?わかる?
「いつでもパソコン使えるから不便しないよー」とか言ってるの聞いたらはぁ?って思わない?
他に自分の好きなことを見つけたら好きなように始められる
それが田舎
知ってるものだけを並べて「不足しない」って何言ってるんだ
東京生まれ・東京育ちだとそもそもスタート時点で自由度が少ないから気付いてないけど、人間って本当はもっと自由だよ?
なんか養鶏場の鶏が野に放たれたら自由すぎて何していいのかわからん、って言ってるようにしか聞こえない
人が多いっていうことはそれだけ制約の幅が大きいっていうこと
あとは金持ち・生まれながらに上流の人は東京でもいいと思うけど
当方20代後半、都下(いわゆる23区外の多摩)に生まれ、22歳で都内の大学の文系学部を卒業し、ストレートに大手メーカーに総合職として就職。配属は社内情シス。
転勤先は東海道新幹線のとある駅まで数kmの田舎の工場で、工場情シスということで仕事の内容自体は東京の本社とあまり変わらない。サポートデスク的なあまり難しくない仕事だ。
が、転勤して半年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、地方転勤を心の底から舐めていた。東京で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
就活してる時に戻れるなら、地方転勤があり得るメーカーなんて絶対に受けない。なまじ偏差値高い大学だったため、同期も大手企業にバンバン内定を決めていることが焦りにつながり、俺もブランド重視で大手メーカーを選んでしまったが激しく後悔している。面接で「地方転勤もあるかもしれないけど、いい?」と聞かれ、都会の生活に飽きが来ていたと思っていた自分は「地方の生活も経験してみたい、東京以外の生活も面白そうだ」というぼんやりした理由で承諾してしまった。今は転職エージェントを使って全力で転職活動している。
俺と同じように実家も東京でずっと東京で生活していて地方の生活も悪くないかもと考えている都内の大学生は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから地方で生活してみたい、は絶対後悔する
・そもそも地方転勤がある会社を受けるな。もし受けるなら40歳平均年収が1000万円以上のところだけにしておけ。平均年収600万円程度の会社で地方転勤させられたら都内勤務で平均年収600万円の会社に絶対勝てないし自分の愚かさを心の底から呪う羽目になる。
・地方転勤は年収換算マイナス300~500万円くらいだと覚えておけ。つまり年収300万円上乗せするから地方に転勤してくれない?と言われて初めてフェアな交渉になるという意味だ。給料据え置きで地方転勤を打診されたら速攻で転職活動しろ。
これを読んでいる都内在住の人は、新幹線に乗って遠出したことが一度はあると思う。東京から新幹線に乗車し、富士山を眺めつつ、新大阪や名古屋に到着し、旅行を楽しむ。ありふれた旅行の一つだ。
都会から都会を結ぶ線路の途中でふと窓の外を見ることもあると思う。眠くなるような代り映えのない田んぼだらけの景色。
想像できるだろうか、新幹線の窓辺から見える田舎の工場で働く人の生活を。俺はまともに想像もしていなかったのに安易に転勤を受け入れてしまった。
地方転勤の想像と現実のギャップやありがちな勘違いを、東京育ちの若者目線でつらつら書き残しておく。
23区外に住んでいると、しばしば「ここは田舎だから」と自虐を宣う人を良く見かける。
こんなのは嘘だ。本当の田舎を知らないから言える虚言そのものだ。
駅までせいぜいバスや自転車、徒歩で心理的負担なく気軽に出かけられて、駅周りの喫茶店やカラオケ、ネカフェ、松屋吉野家なんでもありの活気がある場所にすぐ行ける。
この「心理的負担なく気軽に」行けるかどうかの違いは東京の郊外と、本当の地方の田舎じゃ天と地との差がある。
地方に住んでいると、駅までちょっと出かける、というのは遠足みたいな準備と気合が必要になってくる。
明日は何時に家出て駅まで行って、そこから~時の電車に乗ってでかける、といったようにだ。
東京に住んでいたら、休日に時間を気にする必要なんて全くと言っていいほどない。終電逃しても最悪タクシーがすぐに拾えるし、どんな時間にバス停や駅につこうがすぐに乗車できるからだ。
東京の場合は、財布とケータイだけもって適当にぶらぶら歩きつつ思いのままに東京タワー行ったり新宿で買い物したり美味しいラーメン屋とか書店で思う存分休日を楽しめる。
コンビニも近いからちょっとビール飲みたいなと思ったら思ってすぐに家出て買いに行ける。
それが田舎では全くできない。
田舎に住んでいると、外出するのにかなり気合が必要になる。というか、外出する目的が必要になる。東京に住んでいる時には外に出る理由なんて一切必要なかった。外に行きたいから行く。これだけで十分だった。
だが田舎は違う。目的も無しに玄関出て外に出たところで、何も起こらないのだ。田んぼだらけの道をふらふら歩いてコンビニまで30分かけて行って弁当や飲み物買って帰ってくるくらいだ。田んぼの田園風景は引っ越し初日で飽きる。何にも面白いものなんてない。だって変化がないんだもの。当たり前。
俺は思いっきりこの勘違いにハマっていた。もともと友達もあまりいないし、ネットサーフィンしたりPCでネトゲやったり読書したりとインドアな趣味が多かったので、東京に住もうが田舎に住もうが大した変わりは無いと思っていた。むしろ田舎の方が光回線の帯域を占有できるからネットのスピードに関しては東京より快適だった。
だけど、田舎の周りが田んぼだらけのアパートの一室でゲームやったりネットサーフィンやっていると、孤独感が本当に半端ない。東京に居たときとレベルが違う。東京の外で生活したことがなかった俺は、これが一番堪えた。逆に、東京にただ住んでいるだけで孤独感がほとんど無かったというのは新しい発見だった。実家が近いとか、地元の友人にすぐ会えるからとかじゃなくて、人が多いところにただ住んでいるというだけでこれほどまで孤独を感じないものなのかと再発見した。日中に玄関から出れば東京だと絶対人間に出くわす。ママチャリで買い物してる奥さん、学校帰りの子供、スーツ着たサラリーマン、作業服した作業者、とにかく人間がいる。
対して田舎は本当に人がいない。外に出ても出なくても人がいない。部屋の中で心臓痛くなって倒れても助けは呼べないだろう。俺はアパート住まいだが、隣の部屋は空き室で、数室離れたところによくわからん人が住んでるという感じだ。俺がゲーム中にくらっと来て倒れても誰も気にかけちゃくれないだろう。地方の田舎の、新幹線から見える工場に勤めてる若造が、周りが田んぼのアパートの一室で倒れて苦しんでるなんて、誰にとってもどうでもいいことに違いない。そういう絶望的な孤独を、田舎では強烈に実感することができる。それはインターネットやアマゾンでは全く埋め合わせることができない。
アマゾンは確かに配達される。だけど物欲自体が無くなるわけよ、田舎に住んでると。だって自慢したい相手がいないんだもの。いくら高価なグラボを買ってTwitterで自慢しようにも、自分が惨めな田舎のアパートぐらしってだけで気持ちが強烈に萎える。
で、これ。
住めば都って言うじゃん。どんな田舎でも何年か暮らしてみたらそこが故郷になるって話。あれは絶対嘘。まあ実家がもともと他の田舎にあって田舎→田舎の転勤ならそうなるかもしれない。
だけど東京育ちの若者が田舎に何年住んだって絶対都になんかならない。人がほどんどいない無人の都なんてあるか?何年たっても田舎は田舎だし、人は増えない。当然都にふさわしい店や活気、おしゃれな建築物なんて絶対に作られない。都なんかになるわけがない。
だから、上昇志向のある人間は必然的により良い環境へのクラスチェンジというか移住が目標になる。田舎の工場で工場長や支社長になったって、多分東京で平社員やってる方が圧倒的にQOL高いよ。
田舎のトップになるより、東京の底辺の方が100万倍マシ。なぜなら優秀な人はみんな都会を目指すわけで、田舎で昇進を重ねて偉くなろうが、部下になる奴は救いの無い田舎者とか上昇志向の無い現状維持の変化を嫌う奴らだけ。優秀な奴は結局東京みたいな都会を目指すわけよ。
だから、田舎で昇進して成り上がるなんて人生の目標になるわけがない。偉くなれば東京に上がれるかも、って希望だけが向上心の持っていき場になる。
偉くなって、東京に行くんだ、ってなるくらいなら、最初から東京の会社でキャリア積んだ方が100,000,000倍マシ。地方転勤は本当に虚無。
お盆休みに実家に一週間ばかり帰ったが、田舎暮らしには何の意味もないことをさらに実感することになる。
UberEatsとか、なんだよこの便利なサービスは。外出しなくてもレストランのメニュー注文できて自宅で食えるとか神かよ。
図書館はそこら中にあるし、本屋もまだまだたくさんある。ふらっと気軽に家から出て本屋で立ち読みしたり気に入った本を買って喫茶店で3時間くらいコーヒー飲みながら読書したりとか、最高かよ!!
映画館も多くて、プロスポーツ観戦もちょっと気が向いたらすぐに行ける。ラーメン屋も地方と違ってめちゃくちゃレベルが高い。
「生き物のようにぐにゃぐにゃ生きて動いている街」のど真ん中に自分がいるということがどれだけ楽しく活気に満ち溢れている状態なのかとても強く実感する。
東京戻ってきて思ったのは、東京って行こうと思えばすぐに、海、山、湖、川、都心、港、渓谷、果ては島にすら日帰りで気軽に行けちゃうっていう、人が多くて買い物し放題なだけじゃなくて東京近郊でアウトドアレジャーも超簡単に楽しめちゃう最高の地域だってこと。
箱根や富士五湖、横浜の港、アクアラインで千葉に行ってマザー牧場とか海岸線ドライブとか、狭山とか五日市の秋川、高尾山も超気軽に行ける。調布飛行場行けば日帰りで伊豆大島にすら行ける。井の頭公園、代々木公園、新宿御苑みたいな緑にあふれたところもさくっと行って帰ってこれる。つまり東京に住んでれば自然も楽しめるし都会も楽しめるし、文化、芸術、スポーツも最高に楽しめる。
東京で不足する要素が本当に見当たらないのだ。
お盆が終わり、誰も待っていない田舎のアパートに戻ると半端ない孤独感が波のように押し寄せてくる。同じ大学の同期で東京勤務の奴は、田舎暮らしの辛さなんかこれっぽっちも知らないんだろうなあ、と思い心底うらやましく感じる。都会のおしゃれな店で貴重な20代を合コンや会社の先輩とかとの飲み会で楽しんでる中、自分は音のしない孤独なアパートの一室でやることはネットサーフィンやネトゲだけ。
大手企業だから20代なのに残業代込みで500万円近くもらえてはいるのだが、ぶっちゃけ20代なんて年収300万円の都会住まいで全然十分だし、早くこの地獄から脱出したくてたまらない。。。
年収600万円での地方生活 = 年収300万円の東京生活だ。
地方転勤命令なんて人権無視の非人道的行為そのものだ。好きなところに住む権利は基本的人権の一つだ。
転勤命令を出すなら、最低でも年収300万円は上乗せしないとフェアじゃない。それを会社側の負担がせいぜい数十万円の引っ越し代でほぼノーリスクで転勤命令出せるなんてありえない。
俺と同じ無知による悲劇はもう起こってほしくないし、何よりノーリスクで転勤命令出そうとするクソ企業を心底呪っているので、転勤ありの会社に新卒が全く集まらないような社会になってほしい。
転勤ありの会社は地元から社員を募集するか、年収300万円以上給料上げて募集しないと人が集められない、そういう社会になってほしいと思ってこのエントリーを書いている。
だっておかしくないか?企業は企業で土地代の安い田舎に工場や事業所を作るわけだから、土地の負担額は数十億円単位でセーブできているわけだ。だったらそのセーブした分を人件費に積みかえることで地域が活性化してお金が地方にも回るのに、都会で人を集めといてそのまま地方にぶん投げる、こんなのありえないだろ。せめて金銭的に地方に行ったら得になるようなインセンティブを出せよと。
どうか、人の人生をなんとも思っていないクソ企業にまともに人が集まらず、人事が苦しんで苦しみ抜いてバッタバッタと倒産しまくりますように。
コメント拝読させていただいております。賛否両論あるようで、共感いただけるかた、いただけないかた様々なようです。いくつか共通する提案や質問があったので回答させていただきます。
■車を買ってはどうか
この質問とても多かったですね。ですが、車を買ってしまうと少なくとも数年は田舎に居住することを自分の中で追認してしまう気がして買っていません。
なので、転勤の引っ越し先も工場から徒歩30分ほどの場所にアパート借りています。なお東京に住んでいる時は親の車を借りたりレンタカー使ったりしていました。免許自体は持っています。
田舎で数か月勤務して東京の実家に戻った時の衝撃があまりにも強く、「これ以上田舎で生活するのは無理だ」と白旗を上げたので車は今後も買う気はありません。
すみません、訂正させてください。一番近い新幹線駅に繋がっている最寄り駅まで数kmですね。
新幹線駅までの距離はちゃんと測っていないですが、20km離れているほどではないので数km~十数kmの間です。
地方の田舎、という言葉が聞く人によってだいぶイメージが違うんだなと実感しています。観光でしか行ったことはありませんが大阪、名古屋、仙台あたりの地方都市に住んでいれば
今回みたいな田舎の絶望は無かったと思います。少なくともそれらの地方都市は東京郊外に匹敵する人の往来や活発さがあると思うので。
新幹線に乗って、田んぼだらけの眠くなる景色にたま~に見える工場、そこに自分が勤めるとしたらどういう生活になるだろう、というのをイメージしていただければと思います。
ずっと東京に住んでいた身としては、首都以外の都市は全て地方都市だという認識でした。
伊東園ホテルズのマスク未着用宿泊拒否をめぐる案件について : マスク未着用途中降機乗客の記録
まあ、マスク付着用は宿泊拒否の理由にはならないはずだ、との主張そのものは法的に正しく、正当だ。
しかし、そのように主張する行為は、感染症対策として行政が人々にお願いしていることに反しており、不当だ。
マスク着用がコロナ予防に資するのはもはや全世界の共通認識だ。
現在の政策は「人々の合理的な自助努力をお願いする」ものであり、その期待に反するという意味で不当だ。
不当だけど、お願いでしかないので野放しにせざるを得ない。伊東園ホテルは法的には強引でかなり微妙なことをしたと思うが、
政府のいうことにおとなしく従う日本人の国民性への期待だけで、
自粛だの要請だので、感染症対策っぽいことをやってきたかもしれないが
本来、こういう面倒な輩を法的なルールでコントロールしてこそ感染症対策だ。
めんどくさがらずに、とっとと旅館業法を改正して、感染症予防措置の項目を設けるべきだ。
もちろん合理的な対策を講じれば、開催によるコロナリスクはかなり最小化できるだろう。
なぜならば、この一年、日本でやってきた対策というのは、合理性のひとかけらもないものだった。
ただひたすら恐怖に訴えて活動の自粛をうながすやり方だったからだ。
人々にコロナの恐怖を植え付けて、マスコミを通じて、おびえさせ
燃え盛るような夜の真っ赤な都庁を映し出し、いずれはニューヨークやイタリアと同じ地獄に向かうと国民を煽った。
それによって、何ら法的な強制力ももたない政府が国民に自粛を呼びかけるだけで、
人出を減らすことに成功した。
人々の視点からみれば怯えて自粛することが成功体験ともなった。一方で、飲食業界を奈落の底に突き落とした。
恐怖をあおる戦術はいまも継続中で、医療崩壊の現場と人々への影響がセンセーショナルに報道されている。
コロナに怯える人は、ソーシャルな場に拒否反応を示し、リスクを過大に見積もる一方、
怖がったところで仕事柄、人と接触を回避できず生活が成り立たない人々もいる。
そうすると認知的不協和を引き起こし、受忍せざるを得ないリスクについて過小評価するようになる人が当然現れる。
そこで、怖がる人と怖がらない人にふるい分けられ、必要以上に自粛するグループと、ソーシャルディスタンスを軽視するグループに二極化していったともいえるかもしれない。
後者のタイプは、恐怖に耐性ができたこともあり、恐怖作戦は絶対に効かない。行動を変えようがない。
にもかかわらず、政府と報道機関はさらに恐怖をあおることでなんとか変心させようとしているようだ。
その煽りの余波は、むしろ自粛を続ける人たちをさらに刺激し、ビビらせる一方で、
疲れて認知的不協和に耐えきれなくなった人から次々とリスクを過小評価するようになり、ますます恐怖作戦が効きにくくなる悪循環に陥っている。
他方、運よく自粛環境に恵まれた人は、報道がますます怖いことを言ってくるようになってきたという印象でしかない。
この一年ですっかりコロナ恐怖に煽られた俺からみれば、バッハ会長は鬼である。
「バッハよ、お前の目には、自宅療養を強いられた末、突然亡くなった家族の姿が目に浮かばんのか!」みたいに
なにもかもが論理的なつながりがなくても、恐ろしいものを煽るものとして合成されてしまう。
いまさら合理的な対策などを説得されても、恐怖から自粛した体験しか持たない俺にとっては、
何を聞かされても鬼でしかないのだ。
感染症を科学的に理解し、リスク回避を合理的に考える絶好のチャンスだったのに、
それができなかった。
この一年、十分に科学的素養を蓄え、啓もうされていれば、オリンピックに対するここまでの拒絶意識は生まれなかったような気がする。
オリンピックを開催することがもはや止められないのであれば、
できうる対策をとったうえで開催した場合、どのような結果になるかについて
結果を予測する、というのは、あらゆるリスク管理の最初の第一歩のはずだけど、
緊急事態宣言の延長の可能性を記者から問われ、「仮定の話には答えられない」と答えた首相の発言はそれを象徴している。
何か対策を行うにあたっては、見込まれたリスクをある程度は受容せざるを得ないことは間違いないはずだ。