はてなキーワード: 道化とは
東大卒の起業家の塚本廉さん、中卒ニートだと自白 https://togetter.com/li/1339203
こういうしょうもない奴の嘘を暴いて悦にいるのはまぁいいんだが、自分が普段からこの手の詐欺師に四方を囲まれて生きていることの自覚がないのだとしたら、そいつこそが道化と言わざるを得ない。
もし、正直者は信頼され、嘘付きの嘘はいずれ暴かれる、とか思っているのだとしたら、その認識は今すぐ改めることをお勧めする。逆だ。嘘付きこそがクレジットを加速度的に貯め込んでいき、正直者にはいずれ誰も耳を貸さなくなる。
これは当たり前で、人間は、不都合な真実を突きつけてくる正直者よりも、嘘を並べて自分の思いや夢を肯定してくれる嘘付きに好意を持つ生き物だからだ。自分のことを「正直に」否定してくる奴に対して好感を抱く人間など、皆無とは言わなくても多くはない。
成功した嘘付きは、多少の嘘が暴かれても貯め込んだクレジットで己の身を守れる。なんなら信者が擁護してくれるし、敵対者に陥れられたことにすれば友敵の構図を煽って増やすことだってできるかも。
こんな構図は極めてありふれている。単に君が気づかないフリをしているだけだ。たまたま見つかった小物を仕留めた気になって「世界は正直者のために回っている」と胸をなでおろす。その背景では、社会に深く根を下ろして名声と一体化した大物が、今日も君の財布からカネを吸い上げている。
ニヤつくのは反応性愛着障害っつーのの一種なんだとよ。(http://id.nii.ac.jp/1087/00002840/)
yahooクソ袋とか読むと発達障害にされたりもしてるが、どうせオマエも怒鳴られて育ったんだろ?
構って貰い足りないからってこんなゴミカスしかいない場所で道化みたいに注目集めて否定されながらストレス溜めるのはやめろ。
誰もリアルでオマエを助けになんか来ない。
住所や住んでいる場所の情報でも出せばストーキングしにくる変態やサンドバッグが欲しい正義マンがカメラを持ってつきまといにくる可能性はあるが、webでオマエの意見を気にする人間にマトモなやつはいない。
つまりは勝ち組で大した苦労もなく育って品の悪い人間に石を投げ遊ぶのが好きな鼻の曲がりそうなくらいクサイ豚か、
文章で誘導して虐待死に追い込もうと思ってる先天的に歪んだサディストか、
オマエみたいになんとか育ちはしたものの虐待が起きそうな状況を見るとトラウマが蘇ってヒステリックに騒ぎ立てて自分を慰めるオナニー好きな負け犬だ。
言及をよーく見てみろ。全員ブヒブヒ言ってるか、呼吸がおかしいか、キャンキャン哭いてるヤツしかいねぇだろ?
いいか? オマエの為に言うんだが、こんなところで注目を集めても今のオマエには何一つ得にはならないからな?
ここで言及してる連中は、俺も含めて絶対にリアルで助けになんか行かない。
分かったら自分が可哀想で仕方ないゴミみたいな「誰か助けて文章」を晒すのはやめて、何も考えずにガキを抱きしめに行け。その方が数倍スッキリする。
文才ねぇんだから駄文で同情を乞う暇があったら旦那にも子供にも素直に思ったまま話して甘えてみろ。恥ずかしくて上手くできないんだろうが、そこはよく考えろ。オマエは見も知らない、絶対に助けにも来ない何百人、何千人相手に、顔も見せずに子育ての恥を晒して笑われてるんだぞ? みっともねぇところを見せていいのは匿名じゃなくて家族だろうが。
いまから十数年前、高校生の頃に「M-1甲子園」というイベントに出た。
よしもとが主催、イオンが協賛の高校生の漫才コンテストであり、吉本が素人の高校生の中から未来のスター発掘するという意図がある大会なのだが、いろいろ不可解な思いをしたので書こうとずっと思っていて、昨年末のとろサーモン久保田の上沼恵美子への暴言、立川志らくのM-1での審査を評したブログがホッテントリになったタイミングで書きたかったが師走の忙しさで書く時間がなく無下にしてしまった。
もうタイミングを逃したのだが、今年のM-1まで取っておいても書くのを忘れてしまいそうなので、今このタイミングで書かせてもらう。
俺が高校生だった十数年前、地元のイオンでM-1甲子園なるイベントの予選があるので出場しようと友人から誘われた。
俺は中学の文化祭で、生徒が体育館でステージで催し物を披露するコーナーで中2から2年連続漫才をし、2年連続投票の結果優勝した。それまでギター覚えたてのヤンキーが稚拙な演奏を披露しイキがる場でしかなく、ヤンキー以外の出場は暗黙の了解で禁忌とされていた雰囲気の中において、ヤンキーの許可なくそこに割って入った俺の漫才が優勝したのだ。
中1の頃はオタク扱いされスクールカースト最底辺だった俺が、中2の文化祭からは学校の人気者となれたのだ。その年頃の女子というのはスポットライトを浴びた男だったら誰でも良いようで、それまで俺のことをゴミのような目で睨みつけ忌み嫌っていた女子どもが急に俺のことをチヤホヤしていたが、俺は奴らのことを恨んでいたので硬派気取ってまるで無視していた。今考えたらやれたかもしれない。
高校生になってから文化祭の時の相方とは違う高校に進んでしまい、相手も部活に勉学に励みたいとのことで漫才は続けられなかったところ、別の漫才をやりたかったという友人が俺をM-1甲子園に誘ってくれた訳だ。
予選通過したら東京で決勝があり、優勝したら賞金20万円貰えるらしいのだが、まあ、中学の時の相方は笑いのセンスもよく、俺の書いたネタに文句も言わずそのまま受け入れてくれ、相性もよかったので満足いくネタが披露でき爆笑をかっさらうことができたのだが、M-1甲子園に誘ってきた奴は笑いのセンスがまるで無いどころか俺の作ったネタにいちいち文句を出し、その割に自分でネタは書かず俺のネタをベースにまったくつまらない方向に改変を要求し、お笑いをやるっつってんのに道化を演じるのが嫌なようでかっこつける言動ばかり取りたがり、人を笑わせたいというよりスポットライトを浴びてただ女子にモテたいだけという性欲しか感じられない奴で、ああこりゃあクソ滑りするなあ予選絶対通過しねえなという未来しか見えなかったが既にM-1甲子園にエントリーしてしまったので後の祭りだった。
俺は学生ながらに雑誌の読者投稿コーナーや深夜ラジオでネタが採用され、ネット大喜利で優勝を経験している職人だったので、ネタ作りに関しては自信があったのにも関わらず俺の意図した笑いどころが全却下された挙句ただ男子高校生ふたりつまらない立ち話をするだけの漫才とは言えない地獄のような内容しか用意できずM-1甲子園の予選の日はやってきた。今もその日を鮮明に記憶している。
当日、そいつは気になっている女子をつれてきて、もうすぐ始まるつってんのに、つまらない内容だがネタ合わせだけはしておきたい俺を尻目に女子と2人でイチャイチャとイオンのゲームコーナーでずっと太鼓の達人をしていた。
高校生なので楽屋などなく、これから始まるショッピングモールの広場に用意された舞台周辺に出場するっぽい高校生がぞろぞろ現れ始めた。俺も1人そこで待っていると、出場するっぽい奴が近づいてきて「あれ?見ない顔ですね?普段どこでやってるんですか?」と声をかけられた。
見ない顔?普段どこで?純粋な素人の高校生が集まっていると思っていたのだが、こいつら普段どっかの舞台出てんのか?
質問の意味がわからないので「人前で漫才やるのはこれが初めてですね〜」と答えると、「あっ…」といった顔をしてそいつは離れていった。
通りすがりの子連れ家族の父ちゃんに「これから漫才やるんですか〜?誰が出るんですか〜?」と聞かれ「高校生の漫才コンテストです」と答えると、「なんだ〜素人か〜絶対つまんねえな〜誰が見るんだそんなの」と吐き捨てられた。俺がこれから出るんだよ!という不快になる一幕もあった。
するとイオンのイベント担当みたいな人が出てきて「これから始めます」と胸につける番号札みたいなのを配りだしたので、急いでゲームコーナーから相方を引っ張り込んできた。
審査員は吉本芸人だ。各地方に吉本の事務所があり、うちの地元の吉本芸人が審査員として招かれており、イベント開始直前に腰を低くしたイオンのスタッフに先導されながら会場へとやってきた。
すると、それまで会場でそれぞれバラけてダラダラしていた、これから出場する高校生達が一斉に一列に並び、もう夕方なのに「おはようございます!」と業界丸出しの挨拶で綺麗にお辞儀をした。
それに対し審査員の吉本芸人は「おう、頑張れよ」と一言いうと審査員席に着座した。
そんなん知らん俺はもちろん並ばず業界の挨拶もせず、ポカーンですよ。こいつら、全員吉本の息かかってるやんけ!
その瞬間、この大会の意図を把握した。これは、吉本の息がかかっている、将来吉本所属が決まっている高校生を集めて、あくまで素人として吉本が世間に紹介するイベントなんだと。
予選出場の高校生コンビは全部で10組、俺の他にポカーンとしていたのは1組だけだったので、確実に素人と言えるのは俺とその1組のみで、残り8組は吉本の息がかかってる連中なのだ。
じゃあ、どう転んだって完全な素人は絶対に予選通過しねえじゃねえか。これから俺が滑るのはわかりきっているとはいえ、一気に冷めてしまった。
いざ漫才が始まると、さすが審査員の芸人におはようございますと礼する連中だけあって普段から仕込まれているのだろう、みんなしっかりとしたネタをして、横で観ている俺は笑ってしまった。
けど、他の吉本の息がかかってると思われるコンビは、他のコンビのネタには一切笑わず鬼のような目で睨みつけていた。怖っ。
で、いざ俺の出番がきたが、ボケもなく笑いどころのないネタがウケるはずもなく、少数集まった観客が舞台に目を向けず全員が手元の携帯を見ているという、生きた心地のしない地獄のような時間だった。死ぬかと思った。
漫才が終わり、審査員が苦笑いをしながら「独特な世界観ですね」とだけ言った。
その後の出番だった「おはようございます」を言わなかったコンビもやっぱり面白くなかった。
もちろん吉本高校生の中から東京行きが決まり、もうこいつとは二度と漫才しねえと決めて、素人であるはずの高校生たちの不可解な行動に疑問を持って帰った。
次の日エゴサーチをしてみると、2ちゃんねるの芸人板で俺がクソつまんねえとボロクソに叩かれていた。死ぬかと思った。
その数週間後。
深夜に何気なくテレビをつけていると、地元ローカル番組で吉本若手芸人のネタを見て笑ったら罰ゲームというコーナーが始まった。
ローカルタレントがニヤニヤしながら口に牛乳を含み、そこに出てきたのはイオンで漫才をやった高校生たちだった。
えー!?もう「吉本若手芸人」って言い切っちゃってるじゃん!!じゃあもうこいつら素人じゃないじゃん!!
高校生という紹介もなく、あの日イオンで見た連中全員がその番組で「吉本芸人」としてネタを披露していた。
息かかってるどころか、地元ローカル局とはいえテレビの仕事受けちゃってる時点でプロだよね!俺の予想は正解に近かったのだ。
ええ、こいつらプロじゃんと思った俺は地元吉本の所属芸人一覧をネットで確認したが、あの高校生達は誰も所属芸人に名を連ねていない。
なんなの?やっぱり素人なの?どっちなの?謎は深まるばかりである。
その数日後、この連中は「素人なのかプロなのか」の事実が判明する。
学校から帰ってきてバイトに行く準備をしながら夕方のローカルワイドショーを見ていると、地元の芸人を夢見る高校生に密着した特集がはじまった。
そこで特集されている高校生は漫才コンビではなくピンなのだが、ただつまらないダジャレやギャグをするのみで舞台では滑り続け、ライブで勝ち上がれなく悩んでいるという。
仕組みはこうだ。吉本の事務所には芸人を夢見る高校生が次々駆け込んできており、ライブで勝ち上がれば晴れてプロとして吉本に所属できる仕組みで、そのピン高校生はプロを目指しているがライブで滑り続けてなかなか勝ち上がれないのだという。
吉本の稽古場みたいなところでネタ見せをして、社員なんだか作家なんだかわからないがその様子を見ていた大人からつまらない、それじゃ勝ち上がれないぞと叱責されそのピン高校生は悔し涙を流していた。
そのシーンで、あのイオンで見た高校生たちも映り込んでいた。特集は「頑張れ○○くん!未来のスターとして応援します!」と締めくくられた。
つまり、吉本所属のプロとは言い切れないが、「吉本預かり」として普段から吉本の舞台に出演していて、稽古場では吉本の人間からも指導されている。それで、たまにテレビにも「吉本芸人」として出演しちゃう。
もうこれは素人とはいえないのではないか。完全に吉本の息かかっちゃってるんだもん。
その当時、M-1甲子園で決勝を勝ち進んだコンビが実は松竹芸能所属(事務所ページにもプロフィールが記載されていた)だとわかり、M-1甲子園の「プロは出場不可」というルールを破っているのではないかとお笑いファンの掲示板で炎上していたのだが、それ言ったら出場している高校生の大半が半分プロみたいなもんじゃねえかと思った。
やっぱり、この大会は「素人の高校生の中から未来のスターを発掘」なんて意図じゃなくて、「吉本預かりの芸人を世間に認知してもらう」大会でしかなかったのだ。
その頃は世間で圧倒的な若手お笑いブームだったこともあり、素人の大会と銘打ったM-1甲子園ですらネットではちょっとした話題になっていたのだが
俺が高校を卒業する頃には審査内容の不透明性などが指摘され盛り下がる一方で、ネットで話題になることが全くなくなってしまった。
高校を卒業したら芸人になりたいと漠然と思っていたが、こんな経験をしたので絶対に吉本に入ることだけはないなと考えていた。
高校卒業後、イオンで見た彼らのコンビ名でググって現状を調べてみたのだが、そこから吉本に所属することなく芸人の道を諦めそれぞれ大学に進学したり就職したりしているようだった(そいつらのブログを見つけたのだが解散報告などをしていた)
そんな俺も相性の良い面白い相方を見つけることもできず、ピンでやる度胸もなく、そのまま普通にサラリーマンとなった。
その後M-1甲子園は「ハイスクールマンザイ」というダサいイベント名に改名し、一時はその様子が全国放送などされていたようだが全く話題になることがないのでもうとっくに終わったイベントかと思っていたら、今調べたら去年もやってたみたいだ。
少し前に話題になった、妊娠中で体調が悪いのに旦那が遊び呆けてて、将来に絶望してしまった方をなんとなく追っているんですけど、(それは野次馬的な目線も含んでいます、すいません)
その方のツイートへのリプライが、誹謗中傷ばかりでびっくりしてしまいました。
精神が限界を越えてしまっていると本人が書いているのに妊娠した過去を容赦なくなじり、挙げ句の果てには「生まれてくるはずだった子供」というアカウント名で彼女の生まれてもいない子供ののなりきりをするやつが現れる始末です。
個人的にはこういうアカウントを作る人の方がよっぽど とは思うけど、それはともかく。
傷つきながらも中絶を選んだ人を、なじってもいい燃やしてもいいと判断する根拠が本当に意味不明で不思議に思っています。
少し自分語りになってしまうけど、わたしの家は両親が不仲で、独り立ちするまでその不仲を中和する道化になって生き延びていました。
自分の意思もなく明るく賢く真面目な女として生きながら、わたしがいるから二人は仲が悪くなるんだ、ずっとずっと生まれてこなければよかったと思い続けていました。
だから、子供が両親の不信感のせいで歪んで長い間苦しむことになったり、精神的に無理なのに子育てをして親が虐待してしまい、殴られたり餓死しまうよりは、予め意志のないうちに中絶をしてしまった方がよほどみんな救われると思うんだけど、世の中の普通はそうじゃないみたいで、戸惑っています。
「生んだら生んだでそのうち、生んでよかった大切にしていきたいと思う日が来ますよ」
というリプライもいくつか見かけて、でもそれはあくまで親の目線、しかも生み終わった人の立場だから、今苦しい人に言ったってしょうがないですよね。
わたしは子供を生んだことがないからわからないですけど、赤ちゃんがかわいければ、自分との将来を決めた人に裏切られてもその鬱憤を子供にぶつけないでいられるんでしょうか。そしてその行為に自己嫌悪して、結果親も子も不幸になることはないのでしょうか。
わたしは、そういった酷い将来が少なくとも10年以上続くであろうことを見越して、自分で判断して中絶することの何が悪いのか全然わからないです。
このままでは自分は死んでしまうとわかったら安全なところへ逃げる、いつものライフハックのやつじゃないですか。
なんというかこれは、いのちの大切さとか道徳とかそういう話じゃなくて、ここ数十年で刷り込まれた、中絶=ヤリマンとか、14歳の母とか、そういう価値観が根底にあるのだろうなと思っています。
どこからが命の始まりかもわからない、意思なのかただ反射で動いているだけなのかも全然わからないもののために、死ぬような目にあっても産まなければならないとか、死ぬほどひどい誹謗中傷を浴びる価値観は変わった方がいいんじゃないでしょうか。
自分の気持ちを裏切って生んでしまった親だけじゃなくて、生まれてしまった子供も、もしかしたらその子供も、みんな不幸になってしまうので、それは人類にとってもよくないでしょうし。
主語が大きいですけど。
そうだよな?そうでなければ、成り立たない。
日本における勝ち組が、日本を批判する意味も理由も無いんだから。
だけどな、おまえらはてサ、日本の負け組底辺が声を荒げて日本や権力層を批判するたびに、自らの底辺の底を深めているんだぜ?
報道の切抜きで、間抜けや道化に見えるかもしれないが、それはあくまでメディアの娯楽としてのそれだ。
権力層は有能だ。無能な権力層などと言うのは今の資本主義社会では、ガス抜きのための幻想でしかない。
そうしたときにお前ら底辺が、日本や権力層を批判して、ネットでは”はてサ”としていきっていればどうだ?
権力者たちは大人だ。ネットでのお前らの動きなんて気にしないふりをするし、気にしない。
だが、それが目や耳には何らかの形で入る。
そうするとどうなるか?
当然、お前ら底辺を締め付ける。
自分達を批判するその層によい環境を与える理由なんて無いんだからな。
いい加減気づけよ、はてサ活動におけるかりそめの強さ、それは幻想でしかないと。
お前達の批判している権力層は、ただ権力があるだけではなく、この競争社会で勝ち抜いた能力のある強者であると。
お前達弱者が権力者を一方的に批判することで、能力は上だなんて思い込むことの無為を。
伝えろ、われわれ弱者をお助けくださいと。
の続き。
てなわけでー。テーマ性とか物語性とか、そういういつも以上に堅い話はノルマクリアしたので、こっからは書きたいこと書きますよー。
ぶっちゃけて言えば、前述した脚本とかね、監督は脚本家に丸投げしてたんじゃねーかと思います。正直言って観客である自分はある種のアリバイ作りを感じました。「批評家に突っ込まれるような部分はちゃんと作っておきましたよ、これで文句ないでしょ」みたいな。
自分も前編で喪失と回復とか継承とかそれっぽい感想書いたんでノルマクリアー。そういう意味で共感しますよっと。
じゃあだとして、この作品監督は何をしたかったのよ? なにがドライブエンジンなのよ? といえば、それは変態(フェチ)っすわ。
本年いろんな映画がありました。素晴らしい傑作映画、佳作映画、名作、快作、問題作。そしてうんこ漏らすほどの駄作。でも年末になってこれほど「やばい」映画が来るとは思わなかった。
薄々そういう部分あるかな? と思っていったわけですが、度肝抜かれますよまじで。そういう趣味のない人には全く刺さらないと思うけど。興味ある人にとっては、鼻血ブーです。
そもそも舞台背景(現実世界側)はヴィクトリア朝のロンドンなわけです。おそらく爵位持ちのストームボール家がタウンハウスでのクリスマスの飾り付け準備ーからのー、名付け親ドロッセルマイヤー(眼帯をした黒人のイケメンすぎるおじさま)邸宅に移動。
バラ色からブルーグレイに沈みゆくちょっと煙っぽいロンドンの夕暮れを移動する馬車。街を行き交うあらゆる階層の人々!
ドロッセルマイヤー家では係累おおよそ数百人を招いたクリスマスの催しが今まさに開かれようとしています。ヴィクトリア朝の舞踏会です!
スターウォーズのクローン兵を見てがっかりした人いませんか? 自分はがっかりしました。そりゃね、数万人が現れての合戦シーンは迫力あるって言われればそうかもしれないですけれど、でもCGでそれやるって、コピペじゃないですか。ウルトロンのときもそうですけれど、大軍勢、大群衆は3Dモデル使い回して同じ姿の軍勢がうわーって押し寄せるわけでしょ。すごいけど、要するにそれってのっぺりした画面でもある。
でもこの舞踏会はコピペがないんですよ。全員色とりどりの、贅を凝らしたドレスやらタキシードやらなわけです。どんだけスタイリスト動員して、服飾に予算投入してんだよ、鼻血出すぞこら。
主人公クララがね、おしゃれが苦手だっていうこの娘が、おねいちゃん(素が出てきた)に髪の毛とかしてもらって、すみれ色のオーガンジーのドレスで現れるわけですよ。オーガンジー。髪飾りは多分朱子織り。
分かる人には「オーガンジーの透け感のあるシュークリーム袖」という説明だけで、その可憐さが伝わることでしょう。
クリスマスパーティーのプレゼント交換会で館の奥深くに迷い込んでいくクララがたどるその通路、ろうそくのキャンドルでゆらゆらと照らされる邸宅の暗がりの美しさ、赤い壁紙には黒いフクロウのテキスタイルがやがて黒いネズミのそれに変わっていく。
現実世界の物語案内人であるフクロウ(ドロッセルマイヤーおじさまのペット)から、幻想世界の物語案内人であるネズミ(ねずみ王マウスリンクス)へと引き継がれていくその暗示を、美術レベルでやってのけるその凄まじさ。
暗い木の洞を抜けて館の暗がりから抜け出たその先は、幻想世界の「クリスマスの森」。雪で白くデコレートされた、しかし緑が目に染みる清冽な森のなかを、泥棒ネズミを追いかけるクララのすみれ色のドレス。ネズミがダイブしてぱっと舞い散るザラメのような雪の結晶の幻想的な美しさ。
めっちゃイケメンの黒人青年。赤い軍服に金のモール飾り。腰にはサーベルで騎兵兜。すべてが完全にフェティッシュ。完敗。映画鑑賞中の感情をあえて言語化すると「ぎょぇわぁ!?」って感じです。
この映画の服飾はジェニー・ビーバンっていうおばちゃんがやってるのだけど、明らかに変態。っていうかおばちゃん『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でモヒカン衣装を量産してたじゃん? そんな二面性を持っていたのか。流石に度肝を抜かれたわ。おばちゃん最高や。
もしくは美術ガイ・ヘンドリックス・ディアスが犯人なのか? 『アレクサンドリア』もかなりキてたもんな。
幻想世界にいっちゃってからは、その病的な美術追求がとどまるところをしらない。捻くれて枯れ果てた真っ暗な「遊びの国」の森には、鮮血のように赤い毒キノコが咲き乱れているとか、廃墟化した遊園地の回転木馬、グランギニョール、道化のハーレクインの禍々しい美しさ。
巨大な城! 瀑布に差し出される水車と歯車! 真鍮の道管の迷路と地下通路に、濡れてベッタリとした湿気。輝かしい水晶天井に照らされる螺旋階段。
回想シーンで母に慰められる少女クララが着ている生成りのエプロンドレスの白い生地には、藍色のスズランの刺繍が散らされていて、これってもう完全にカネコイサオが『ワンダフルワールド』で夢見た世界なわけですよ。っていうか、全体的にカネコイサオでしょ。
10年代も最後半にはいっていまさらそんな角度から奇襲受けるとは思わないじゃないですか? いくらヴィクトリア朝だとはいって、『ワンダフルワールド』のフェチズムが立ち現れるとは、キン肉マンフェニックスのあふれる知性でも予測出来ないわけですよ。
色彩設計がほんとうにほんとうに美しい。ローズガーデンのヴァイオレットベースに茶色のラインとか、オリーブグリーンに熟れたオレンジの差し色とか。ため息が出るとかじゃなくて、鼻血が出るタイプの美しさ。
少女趣味がオーバードーズでフェチになってしまった病的な完全主義の美術背景の惑乱。
もうね、福井晴敏に宇宙世紀が殺されるとか言ってる場合じゃないです。ディズニーにカネコイサオが殺される。なお、もらい弾で少女革命・幾原邦彦も死ぬ。
なぜなら遊びの国へ金の鍵を取り戻すため軍を率いて旅立つ王女クララがまとうのは、黒の軍服(金モール)に赤のロングスカートだから。このロングスカート、品が悪くなりそうなところなのに布の質感と裾の縫い取り刺繍だけで男装めいた凛々しさをだしてるのだ。やばい。やばみ。
そのロングスカートから革のブーツでキックするクララ(なお、このキックが主兵装)。
この映画、興行的には失敗だと本国では判断されているのですが、当たり前ですよ。だって制作費100億超えですもん。『ボヘミアン・ラプソディ』の二倍以上でしょう。見た感じ、そのほとんどを美術と背景に突っ込んでいるようにみえる。出演者の演技も悪くないけれど、目立った名前はキーラ・ナイトレイくらいで他はあまり大きなギャラは発生していないのじゃないかな。
(このキーラ・ナイトレイ演じるシュガープラム(金平糖の精)は、かなり演技が良かった。ちょっと頭の弱いアーパーでふわふわした妖精キャラをキーラ・ナイトレイがやっているのだけど、キーラ・ナイトレイだと気づかなかったですよ。この味は往年に美人だった頃のシンディ・ローパーが醸し出していたあれじゃなかろうか?)
とにかく、画面のどこを見ても、美術的な意味で隙がない。コピペで穴を埋めておけとか、それっぽい小道具をおいてごまかしておけとか、撮影時に陰影をつかってしょぼいのを隠せとか、そういう気配がひとつもない。
監督もしくは美術の美意識が、一部の隙もなく、「この世界観でこのカメラアングルで、この角度を撮ったときには、ここにはこれがないとだめでしょうお前らなんでそれわからねえの!?」と言わんばかりの画面が、延々と、延々と続く。
それはたとえばパーティーシーンでテーブルの上のグラスがこちらのゴブレットは真鍮に銀メッキだけど、あちらのゴブレットは磨いた銅に幻獣の鋳造とか、そういうレベルで気合が入ってるにも関わらずそのゴブレットは2つ合わせても画面の面積の1%以下で5秒も写ってないとか、病気としか言いようがない。
変態が怖い意味でやばい映画なのだった。冒頭に言った+50点はまさにこの変態性に対する評価なのです。もうちょっと金が出したいのもこの部分であり、実を言えばこの鼻血は、パンフを購入してもDVDを購入しても払拭できる気がしません(画面小さくなると美術の細部がわかりづらくなるので)。究極的にはエルミタージュ美術館にでもいかないと、この興奮(というか発作)は解消されないとおもいます。
そんなあたりが『くるみ割り人形と秘密の王国』の感想でした。この映画感想後編がわかった方には強烈におすすめです。それ以外の人にはそこそこ映画だったと思います。
この映画のもうひとつの特徴である「量産化ピエール瀧軍団vsドルイド文明の巨大人形兵器」という側面には触れませんでした。この部分に対する評価は他の方に譲ります。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
ウミウ「この日記は、その辺にいる適当な大学生が『けものフレンズ』に出てくるウミウの口調を借りて愚痴る日記だう」
ウミウ「一応、ウミウはデザイナーとかいう職業も副業でやってるう」
ウミウ「てことで、まあその辺のことを踏まえながら読んで欲しいう」
ウミウ「……」
ウミウ「…………」
ウミウ「……そうだう、生きるのがつらいってことう」
ウミウ「ウミウがこうなったのは、たぶん高校卒業間際の冬のことだったと思うう」
ウミウ「母はアルコールとニコチンに溺れ、父は神経過敏で物音一つにも激怒し、モノに八つ当たりしてたう」
ウミウ「それを力で押さえつけてしまってはご飯も食べさせてもらえなくなるう。住む場所もなくなるう」
ウミウ「そんな中、ウミウの唯一の救いだった高校というモノが卒業を間近にしたのだう」
ウミウ「ウミウの高校は良かったう。絵を描ける人がいたう。文章を書ける人がいたう。音楽を作れる人がいたう。いろんな学問で全国トップレベルの人がいたう。いろんな趣味を極めてる人がいたう」
ウミウ「彼らはみんな、ウミウにいろんな刺激を与えてくれたう」
ウミウ「ウミウは、そんな日常が大好きだったう。そんな日常があったから、人生に生きる意味があると思っていたう」
ウミウ「でも、高校3年生も終わりに差し掛かりつつあった頃、だんだんと授業も減り、周囲はみんな受験モードへと切り替わっていって」
ウミウ「一番落ち着けるはずの我が家が一番落ち着けない、というのは案外つらいものう」
ウミウ「毎晩、家のベランダから空を見上げて、コーヒーを飲みながら死後の世界について考えていたう」
ウミウ「宗教や科学がウミウを救ってくれるのか、考えたこともあったう」
ウミウ「ウミウの浅薄な知識片手に、ウミウはいろんな文献を漁って、いろんな人に話を聞いたう」
ウミウ「どうしてこの世界は生まれたのか? どうしてウミウは生まれたのか? どうしてウミウはこんな境遇にあるのか?」
ウミウ「当然受験には失敗したう。だって勉強なんて全くしてなかったう」
ウミウ「そうやって悶々としてるとき、ウミウは『けものフレンズ』というアニメに出会ったう」
ウミウ「こんなクソッタレな世界のどこかにも、ジャパリパークみたいな世界がある」
ウミウ「それから、ウミウはいろいろと頑張ったう。この世界には何か答えがあるはずだ、そう思って」
ウミウ「生の意味を知るために生物系の大学を目指したう。将来どうやって生きるか考えて、一番自分に合ってると思ったデザイナーのまねごとを始めたう」
ウミウ「あと、少しだけけものフレンズの二次創作をやったりもしたうね」
ウミウ「勉強と仕事の両立は、案外大変だったう。けど、つらくはなかったう」
ウミウ「何かに打ち込める、何かを目標にできる、人から必要とされる」
ウミウ「どうにか第一志望の大学には受かって、ウミウは期待に胸を膨らませたう」
ウミウ「大学ではどんなすごい人がいるんだろう? どんな風に自分は成長できるんだろう? どんなことが学べるんだろう?」
ウミウ「そう思っていたう」
ウミウ「誰一人、『ついていきたい』と思える人がいなかったんだう」
ウミウ「もちろん、人間として素晴らしい人はたくさんいるう。とっても精力的に活動している同級生、研究やサークル活動に没頭して成果を出している先輩たち、世界的に有名な教授陣」
ウミウ「だけど、ウミウが求めていたのはそういう人たちじゃなかったんだう」
ウミウ「ウミウは、圧倒的な実力で凡人を殴るような天才、世界や生命や意識や……そういうふわっとしたものたちを大真面目に考えて頭を狂わせるような奇才」
ウミウ「そういう人を、求めていたんだう」
ウミウ「大学というのは日本における最高学府だう。そんな素晴らしい機関の中にだったら、きっとそういう人もいるんだ、答えを貰えるんだ、いや貰えなくても論じ合えるんだ……と思っていたのに」
ウミウ「せっかく浪人期間中頑張って勉強して入った大学がこんなんだったんだと」
ウミウ「自分が全力で頑張っていれば、きっといつか答えは見つかるって」
ウミウ「そう思ったんだう」
ウミウ「頑張っていれば、いつか何かが起こるだろうって」
ウミウ「ウミウは今までの仕事のほかに、いくつかバイトをかけもちしたう。サークルは4つ入って、ほぼ毎日大学に寝泊まりするような状態になったう。同人活動ももっと本格的に始めていって、夏コミにも出たう。講義も真面目に受けて、まあまあいい感じの成績を取ることも出来たう」
ウミウ「最初は血の流れが悪いだけかな?と思ったう。だけど痺れはなかなか取れなくて、ウミウは病院に行ったう」
ウミウ「ウミウは、神経系の病気と頸椎ヘルニアを患っていたんだう」
ウミウ「このまま頑張ってたら、いつか半身不随になるぞって、お医者さんに言われたう」
ウミウ「結局、バイトはほとんど全部やめたし、サークルは1つを残して全部やめたう。しかも、ちょうどその頃は大学の夏休み期間中で、講義もなかったう」
ウミウ「てことで、ウミウはヒマになったう。そしたら、そこに生まれたのはただの虚無だったう」
ウミウ「また、何も拠り所がなくなった……そう思ったう」
ウミウ「ウミウは、けものフレンズの同人活動をやっていて、その中で1つ出来た、少し大きめのグループがあって」
ウミウ「そこはすごいんだう。たくさんのクリエイターがいて、たくさんの賢い人がいて」
ウミウ「ウミウは心機一転、そこで頑張ろうって思ったう。もちろんもうムチャは出来ないから、出来る範囲で、だう」
ウミウ「ウミウは……まあがんばった、んだと思うう。一応、なんとなーくリーダーっぽい感じのポジションに収まったりもしたう」
ウミウ「『フレンズにはどんな死生観があると思う?』って。『何か、そういうものを訴えかけた創作物が作れないかな?』って」
ウミウ「さあ、どんな答えが返ってくるんだろう、どんな議論が出来るんだろう……ウミウは楽しみに思ったう」
ウミウ「だけど、返ってきた答えはみんな、『けものフレンズはそういうのじゃない』『求められているものは違う』『グロとか暗い展開とか無理』みたいな答えばっかりだったう」
ウミウ「ウミウは……ウミウは、いったいどうすればいいんだう」
ウミウ「『けものフレンズはそうじゃない』? けものフレンズはそんな浅薄なコンテンツじゃないと思うう。少なくとも、そこを議論しなきゃ深みのあるモノなんて出来ないと思うう」
ウミウ「『求められているものは違う』? ユーザーのニーズ分析なんて仕事で腐るほどやってるう。二次創作って、そういうニッチなところを攻められるものなんじゃないんだう?」
ウミウ「『グロとか暗い展開とか無理』……。まあ、死生観を語らせる上で、フレンズの1人や2人死ぬのは仕方ないだろうし、暗い展開になるのは致し方ないう」
ウミウ「普段お前たちが食べている食べ物は動物の死体だう。お前たちが着ている服も動物の死体だう。お前たちが生きている環境には、動物の死がごまんとあるう」
ウミウ「けど、動物は何も語らないう。ただ静かに生まれ、静かに死んでいくのみだう」
ウミウ「それが、言葉を発し、意識を持って動き回るようになった。それがあの世界の意味であり、意義であって」
ウミウ「当然、フレンズたちもそこは疑問に思ってしかるべきだと思うんだう」
ウミウ「……ウミウは、どこに行けばいいんだう。ウミウは、どこを拠り所にすればいいんだう?」
ウミウ「ウミウは、今月か来月くらいでそのグループを抜けることにしたう。ウミウがそこにいることへ、意義を見出せなくなったんだう」
ウミウ「ウミウは本格的にひとりぼっちだう。何もすがるものはなく、何も生きる意味はなく」
ウミウ「たぶん、少し前だったら『ジャパリパークに行きたい』って切に願いながら、きっとどこかにある桃源郷を夢見て首を吊っていたんだと思うう」
ウミウ「だけど、それすら出来ないほどウミウは世界に絶望したんだう」
ウミウ「最近ウミウは、ジャパリパークが動物から人間に対する壮大な仕返しにしか思えなくなってきたんだう」
ウミウ「動物は、きっとジャパリパークを通して、そういったものを際立たせて。人を絶望させているんだう」
ウミウ「もちろん、それは正当なことだう。人は今まで、どれだけの動物を苦しめてきたんだう?」
ウミウ「ウミウには、もう何もない……いや、少なくとも心はからっぽだう」
ウミウ「きっと、ウミウは恵まれてるんだう。こうやって、生きる意味について考えられるほどには」
ウミウ「ふと空を見上げたら、お月様がこっちを見て嗤ってるう」
ウミウ「悔しいほどに、綺麗だう」
すげぇ分かる。
政治家の報酬は年間三千万円程度だけど、選挙には1億以上かかるし、政策立案するために必要となる秘書も公費では二人までしか雇えない。アメリカとか10人近く公費で一人の議員が雇っている。だから給料があると言っても、良い政治をしたい政治家は、自分の家の資産を食いつぶしながら国のためにと働く必要が出てくるし、多少汚くても政治献金を受けなくては政治を出来ないもんな。
その癖、国民は目立っていれば福山程度のアホですら当選させてしまって、その人の政治家としての実績や能力を評価してくれない土壌がある。与党の政治家になれば、意味の分からない批判をメディアから受けてしまう。
「こんなアホどもの為に政治なんかやってられるか」と考えてしまう様なクズには出来ない仕事だと思う。国の為にって意志と、過去の偉人への憧れ、歴史に名を刻みたいという野望、老いても尚勉強し続けて頭の回転が落ちない賢さ、色んな物をもっていなければ出来る仕事ではないと思う。なんだけど、現実には福島瑞穂みたいなのも政治家してるし・・・・鳩山みたいなパッパラパーが首相になってしまう。鳩山には金があって、金があればどんなに頓珍漢な主張でも、正月の餅代に苦労する事もなく貫けるし党を運営出来て、大きく政治を動かすことが出来る。金がない議員は餅代のために道化もやらなくちゃダメで、そんなのがまともな発言をするはずがない。
だからこそ出発点から恵まれている世襲議員が尊いんだわ。金があり人脈があるから、自分の主義は曲げなくていい。良い政治家が世襲議員にしかいないのは、こういうことなんだよね。
お左翼ごっこは文壇と共に世論誘導の為の政治の道具に過ぎず、紙袋に詰め込まれた札束を討論番組の論客や文士が受け取ってたのがバレた。
有名なセンセー方の名簿や金額も、どこの出版社がどの勢力と繋がってるかも、どういう論争をしてどう結論付けるか予め決めてある事も、僅かな期間だが流れてから消された。
連中は初めからジユウなゲンロンなんぞさせる気もなかったし、そんなものはどこにもありゃしなかったんだよ。
批評家や評論家がナリを潜めてるのは流出リストを出されたら何も言えないからで、若手だったアズマが台頭してきたのは偶々受け取ってなかったから。
他の連中は嫌気がさしてwebの若手を見守っていく事に決めたのさ。
本当かどうかなんざ知った事じゃない。
俺は見たし、そいつを仄めかすとデカイ口を叩く奴が減っていっただけの話。
右だの左だのなんてどうでもいい。ビジョンもないし理念もない。それなりの生活で満足してる今のこの国に、命懸けで語るべき事も語らなきゃならない事ももうねぇし、そんな事をする道化もいないって話だ。後に残ったのは政治と無関係に名前が売れりゃいいってクソとその場だけ話題になりゃいいアクセス稼ぎのゴミ、それから承認欲求の奴隷になった病人と露出狂、アンケートやステマ業者、箸にも棒にも掛からないマヌケな学生弁士って寸法だよ!
そろそろ30になる今日このごろ。大人になって初めて恋をしてしまった。
最後に恋をしていたのは、小学4年生のころ。毎日暇さえあれば、好きな子のことを考えていた。何度か一緒に遊んだこともある。最終的には何もなく、僕が転校したので、それで終わった。
思春期に僕を待っていたのは、恋ではなく、ワキガだった。内気ではあるものの、それなりに楽しく過ごしていたつもりだったが、ある時「お前ワキガだもんな」と言った友達がいた。周りにいた他の友達が一斉に黙った。ワキガという言葉は知らなかったが、なにか良くない意味であることは分かった。またシチュエーションから、それがワキに関することであり、ニオイに関することであることも察せられた。その時急に思い出されたのが、中学入学と同時に母から渡されたエイトフォーのスプレー缶だった。よく分からないものの答えが、頭の中で繋がって、僕は戦慄した。
目立っていじめられることはなかったが、一部にはワキガだのくさいだの言って笑う人たちがいた。悔しいが仕方がない。内気な僕では、道化になることもできなかった。
はたして僕はワキガのことが嫌いになった。この日本では、ワキガというのは異常な体質であって、嘲笑され、疎まれ蔑まされることはあっても、褒められることはない。そんな僕を好きになる人があるわけがないし、ワキガであることを隠し通せるものでもない。鼻の利かない人をなんとかつかまえたとしても、生まれてくる子供は50%、あるいは75%の確率で憎むべきワキガだ。
畢竟僕は世間一般でいう生きている意味がない。誰のことも好きにならないし、誰からも好きになられない。唯一僕を好きでいる人は両親くらいだろう。だから彼らが死んでしまうまでは生きていようと思った。
社会人になって、まずワキガの手術を受けた。というのも、ワキガのニオイのもとであるアポクリン腺は、成長期に増えるものであるから、あまり早くに手術を受けても、結局増えてしまう。ある程度成長してから摘むのが良い。これはなかなか素敵な手術で、皮膚の隙間にメスを入れて、アポクリン腺を除去する。傷は目立たないという人もいるが、普通に色素沈着するので、今でもありありと手術したことがわかる。麻酔が切れるととても痛かったが、保険適用の手術なので、両脇で5万程度しかかからない。ワキガ手術には保険が適用される。それが日本人のためになるからだ。
おかげさまで、今では人間のような顔をして生きている。しかし遺伝子自体はワキガであり、また、ワキガ体質であれば、ワキ以外にも全身にアポクリン腺はあるので、たとえば胸や陰部からは、いまだにワキガのニオイがする。
結局僕はワキガであり、日本の社会通念上必要に迫られてケアを行っただけであり、人間のように誰かを好きになったり、好きになられたりすることはない。
そう信じてここまで生きてきたが、ここにきて様相が変わってきた。不覚にも人を好きになってしまった。これといった理由はない。普通に可愛いなと思っていたら、いつのまにかいつもその人のことを考えるようになってしまった。
こう言うのはなんだが、その人は僕より10以上年上で、そうなると自然、子供が難しい年頃である。すると、この人と結婚した場合、自然な形で僕は自分の遺伝子を後世に残さずに済む。大変失礼な話だが、これに気づいてからますます好きになってしまった。まるで僕のための人のような気がしてくる。
まあまあ、そうはいっても、と冷静な僕が口を挟む。僕のことを忘れたわけではあるまい。まず鏡を見てみろ。パサパサの髪質、すぐ脂の浮いてくる顔、じっとりとした一重まぶた、人参のように膨らんだ鼻、飛び出た頬骨、厚い下唇、白い斑点のついた歯、笑うとむき出しになる歯茎、削れてなくなってしまったかのような顎、いびつに大きい頭、対して華奢な肩幅、平均に満たない身長、曲がった背筋、不格好なO脚。お前はこいつと一緒にいたいだろうか? うーむ。いや、人間中身だ。そう、中身といえば、地方Fラン大学部卒の学力で、テレビを見ないから芸能・社会情勢に疎く、気の利いたことも言えず、頭の回転は遅く、嫌なことがあるとつい表情に出てしまうし、心に余裕がなくなってくると人にやさしくもできない。六畳の部屋に一人暮らし、何をしているのか知らないが、預金残高は200万しかない。おまけにワキガだ。手術で人間のフリをしているが、こいつに子供を産ませると、体感としてはほとんどワキガが生まれてくると思っていいだろう。子供には罪がないのに、不憫だね。
僕がもし会社の新商品で、これをお客さんに売らないといけないなら、まず、普通の方法では売れない。何か特典をつけてそっちで買ってもらうか、本来とは違う用途で活路を見出すしかない。はっきりいって、こんなものは売り物にならない。
これが僕の理性であるが、恋とは面白いもので、もやもやした気持ちは理性では抑えきれないようだ。仕事中も、家に帰ってからも、好きな人のことが気になって、本当に迷惑している。
にっちもさっちもいかないので、僕は市場原理に任せてみることにした。先述したように、僕の考えでは、市場には僕のニーズはまったくない。ただ、何らかの理由で誰かが欲しがれば、その商品には値が付く。じゃあそれでいいじゃないか。価値は僕が決めるのでなく、市場が決めるのだ。
そういうわけで、近い内に職場でこっそりと連絡先を聞き出す。頭の足りない僕が一生懸命考えた自然な方法でだ。そして食事に誘って、その食事中にデートの約束を取り付ける。これだけのことだ。僕がするのは湖面に石を投げ入れるようなもの。なにか新しい波が起こるかもしれないし、そっと静寂を取り戻すのかもしれない。うまくいって欲しい気もするが、すぐに拒絶してほしくもある。うまくいってしまったときに、ごみ商品を掴んでしまったお客さんを相手に、僕は商品の瑕疵を最後まで隠し通せるだろうか。