はてなキーワード: 槍玉とは
最初に、フェミによる、性犯罪とかハラスメントには該当しないような欲望や行動に対する道徳的批判があったわけ。萌え絵・ポルノ批判とかマンスプ批判とかデリカシーの無さとかいろいろ。
あと、医学部入試問題のような、社会構造(勤務医の過重労働に支えられた安価で高度な医療)に起因する問題を、誰もが満足できる案が無いから男性の道徳性の問題としてスケープゴートにした。
これに対して、少なくはない男性たちが、女性の非道徳性を調べて、あげつらっているのが弱者男性論の本質。
弱者男性論で、槍玉に挙げられる女性の上方婚(下方婚忌避)や、最近下火になったけど「負の性欲」といった批判は、「婚姻相手をあてがえ」「キモカネを受け入れろ」といったことを目指しているわけじゃない。
つまり、実際に言っていることは、「お前らも我慢するか、それが嫌なら俺らに我慢を求めるな」という話。
フェミは、どうこれに回答するんだ?
「私たちはわきまえない、お前らはわきまえろ」じゃ通らないだろ。
じゃあ小日向美穂について書く
デレマスPっていつもこいつはゴリ押し!あいつはゴリ押し!と叩きまわるけど本当にゴリ押しなアイドルを見逃してない?
なんで今回のゾンサガコラボにいる?辻野あかりばかりにヘイト飛んでるが、本当に酷いのは小日向美穂だぜ
最近を振り返っても9周年特番で突然小日向美穂だけVtuberモデルとして登場
躍るFlagshipイベントから間髪入れず、意味もなくゾンサガコラボに抜擢
デレステSSR5枚(恒常は1枚) 尚、ユニット仲間の卯月・響子は恒常2枚
「卯月のバーター」「卯月の腰巾着」「卯月の子分」「卯月のおまけ」等など…
まあこれがこいつの全て。卯月という大正義大人気アイドルとのユニット・『PCS』に所属しているおかげで昔からとんでもなく運営の寵愛を受けている
いや、PCS自体美穂プッシュのためのユニットと思えるぐらい、昔から美穂のゴリ押し具合は突き抜けているね
PCSはよく「個性がない3人の集まり」と言われるけど、卯月と響子は明確な個性があるぜ?二人に失礼だ
しかしこの小日向美穂って女、個性の欠片もないから『ダサい私服が個性!』とかPが無理やり言い張ってる 涙ぐましいな
2012年の開始当初から途切れることなく、不遇な時代など存在しない、
小日向美穂は常時寵愛を受けている、リソースを注ぎ込まれている
『ちょうあっい〜だけど〜人気は無いよ〜〜小早川〜紗〜枝〜みたい〜』songs by 秋山森乃進
デレマストップのゴリ押しをされ、NGの二人に寄生し便乗し8年かけたと言え、CGになれた本田の方がまだマシだろっていう
でも以前いくらゴリ押しされても、小日向美穂Pは許されると思ってるんだぜ?
しかもこの小日向美穂ってやつ、人気が大してないのに寵愛なんだぜ いわゆる不人気寵愛
本田未央もそうだけどね
悲しいかな、小日向美穂の人気の拠り所は総選挙のみなんだよね(本田未央も同様)
総選挙以外では全く奮わない 、つまるところ「選挙だけアイドル」
だからこいつのガシャが出ても極端に回されない、セルランが低い
あと数年前のアンケートも圏外だったね
それに二次創作も全く書かれてないよね?存在感が無いから仕方ないよね…でも運営から最上級の寵愛受けるんだね…
佐藤心や速水奏や宮本フレデリカや城ヶ崎美嘉辺りか…存在感が半端ないな…
でもさ、この3人小日向美穂よりずーーーーっと人気が高いぜ!!
寵愛度合いは小日向美穂と比べたらずーーーーっと低いぜ!!
しかも選挙だけハリボテ人気女と違って選挙外でも強い実力者だぜ!!
この子ら不当に叩かれてかわいそう
2番目にゴリ押しされるも他人の陰に隠れてやりすごしてきた卑怯者の小日向美穂
この二人が最も悪辣
NGの卯月と凛もその中に入るだろというツッコミを受けそうだが
その二人本当に人気のある実力者だから
アイマスの中でもデレマスは不人気ばかりゴリ押ししてるから衰退したんだよ
サッカーとかラグビーのルールに例えている人たちがいるのですけど、完全にドツボにハマっている感じですね。なんでサッカーのルールを否定していると思ったんですか?サッカーよりラグビーが優れているとか、そういうことでもないんですよ?
そもそも違反行為を推奨はしていないんですよ。ポケゴーにとっては複アカも共有もカジュアルプレイスタイルの一つに定着しているだけって話です。それをTwitterとかグループ内で犯罪者みたいに晒し上げたり、レイドの際に声掛けして注意するのは大人げないし、ブラック校則を推奨している人みたいだ、と言いたいだけです。そしてカジュアルなプレイとして楽しめるものを、禁止事項にする理由がどこにもないのが問題だってことです。
ポケモンGOを見ていればわかりますが、駅前や公園とかのレイド、以前の横浜イベントや台湾の有名おじいちゃんもそうですが、ポケゴートレーナーは大勢の人の前で正々堂々と不正を行っています。位置偽装に関しても田舎の方では示し合わせたかのように、あるいは計画的にレイドに偽装アカが参戦しているのが常態化しています。オートキャッチなんて持ってないほうがおかしいありさまです。また、複アカの中でも単なる倉庫や家族の共有だったりするともっと敷居が下がり、メインをきちんと持っているならサブもいいんじゃない?という感じです。
サッカーの話に戻りますが、サッカーで足ではなく手を使うべきという人は本当にいるのでしょうか?サッカーをしている人が「よし、今日は俺手を使うか」と堂々と言うでしょうか?みんなが観戦するイベントでも練習試合でもです。ラグビーで相手選手を意図的に気絶させたり、野球で審判をその場で買収したりするでしょうか?
しませんよね。それにそんなことをすれば観客や他の選手が苦情を言います。
サッカーやラグビーには歴史や文化があり、長い年月で様々なルールの変更があったわけです。禁止事項の増減やボールの形も初期と現在は全然違います。そんな歴史あるスポーツの中でわがままを言うのは馬鹿げています。スポーツはみんなが一つのルールの中で公平に行うから成り立ちます。
でもポケゴーはある程度隠れているとはいえ、ある種公然と不正が行われています。ポケゴーは個人のゲームですし、個人のコレクションを楽しむものだからです。スポーツなんかと比べられません。Twitterで複アカを公言している人がどれほど多いことか。確かに不正を行うことを良しとしないチームやグループは存在します。そういうのはある程度公になっているFacebookのグループなどですね。でも、そういう場所にすら複アカ・共有アカは沢山存在します。自分のいたところなんて、「アカウントを沢山持たないといけない人にも配慮しよう」という言葉が普通に発せられているんです。
ポケゴーにとって、不正行為はスポーツのルールを破るようなものとは別次元です。違反行為とされるのは単に厳格なルールのもとで行われるときのもので、日常生活やガチでやらないといけない部分、あるいは田舎などの人を集めづらかったりする部分ではちょっとしたルール違反は大目に見る傾向です。ちょうど、交差点のない道路で爆走している車のような感じ。制限速度60kmをちょっと超えてもそんなに気にされないし、誰も見ていないならほぼ無害だという認識です。
レイドに参加している人が複アカだったり偽装アカでも、それを注意するくらいならみんなで楽しくポケモンゲットしたほうがいい。そもそも多くのツールはBotによって成り立っているんだから、ツール使っている人は偽装アカを公然と認めているわけです。自分の見えない部分なら違反してもいいというなら、ひどい話です。
サッカーだって、チームの人数が足りなかったら相手チームから人を借りたり、審判がいないからハンドも大目に見ることだってあります。大きな大会とかでない練習試合やカジュアルな場面なら、決してそういうのはことは珍しくないし、そこに公式のルールを持ち込んでもデメリットにしかなりません。
結局、ブコメの人だって「倉庫アカならOK」と言ってるくらいだから、ポケゴーの規約違反ってそんなに突飛なことじゃないんですよ。
ポケゴーは位置情報ゲームだから、GPSを操作する位置偽装が駄目という理屈はある程度通じます。でも複アカとか共有アカって何が悪いんですかね?ポケゴーは1人で集めるのが基本ですし、複アカで集めたポケモンと単アカで集めたポケモンのどこに違いがあるのでしょうか?
なんで自分がこういうことをいうのか
それは複アカがポケモンGoでやたら声高に憎まれているからですよ。他のゲームでそれを指摘する人はめったにイないけど、なぜなのかポケゴーでは複アカが目の敵にされる。こんなにも多くの人が複アカ・共有アカでプレイしている現状なのに。これってポケゴー特有の事情があるせいだと思うんですが、どの人からも「ポケゴーで複アカ・共有アカがだめな理由や単アカである必要性」が明確にされていない。某山田氏に関しても、限定的なら複アカはOKだと公言しているくらいだから、実際のところ本当にだめな理由なんてどこにもないんじゃないでしょうか?
声の大きな人がいるだけで、他のゲームのように悲惨なチートには当たらないんじゃないでしょうか?
サッカーなら、その歴史や経緯を勉強すればいい。だけどポケゴーは最初からそういうのが存在しない。実際にその場所に行くことが大事、という理由では複アカとかを否定はできませんよね?
たとえ違反でもメリットが多いからやる人はいる。田舎では人が居ないしポケストも少ない。やるべきというより、そうしなければならない状況ってあるんです。
でも、できればみんな違反行為なんてやりたくないです。だからこそ、その現況を作っている今のゲーム環境の改善と、この不透明な規約を変だという声は必要なんです。
ルールに書いてあるから守るべき、という固定観念しかない人が自治厨になっているだけ。そんな気がします。まさにブラック校則。
本題を書く前に書いておくが増田はメンヘラお気持ちヤクザである。精神科通いももう10年を超えた。なおかつ主治医には「少なくともあと15年はかけてゆっくり治していかないといけないね」と宣言されている。ちなみにこの文章は精神科病院の消灯されて暗くなったベッドで書いている。
本題。
私は物心ついた頃からずっと『自分は死ぬべきだ』と思いながら生きてきた。決して死にたい訳ではなく、ただただ『自分は生きているべきではない』と思っている。自分が生きていることに違和感があった。
少なくとも保育園の頃には既に『他人の役に立たない自分に生きる資格はない』と思っていた。自分が生きているのは離婚したばかりの母にとって邪魔でしかないだろうと思ったからだった。だから母の役に立たなければ、父に似ている私は父と同じように母から嫌われ捨てられるのだろうと思っていた。
だから何でもできる自慢の子になろうと思った。何でもできるすごくて優しい人になれば、死ぬべき人ではなくなるかもしれないというのと、理想の自分になればきっと自分が死ぬべきだと思って死んだ時に惜しんでもらえると思った。
そんな状態で過ごしているうちに、頭の中で声がするようになった。一人の声だったり会話だったり様々だったが、大抵いつも私に対して責める声だった。
「こんなこともできない奴はこの世に必要無い」
だとか、
みたいな声たちである。
不思議なことに、その声に対して反論するどころか納得する気持ちしか浮かばなかった。
保育園の頃から今に至るまで、それなりに色々あったが、常に変わらず私の中には『自分は死ぬべきだ』という考えが中心にあるままだ。
日常で、迷惑をかけてしまった、会話の時の言葉選びがうまくいかなかった、うまく笑えなかった、とか、そういう感じ。
自分の行動全てが、自分の中にある『こうあらねばならない』という理想像からズレていて、そのたびに『生きていてはいけない』という気持ちが湧くのだ。
これが思春期や厨二のような頃だけならまだ良かったのにと思う。残念ながら生まれてこのかた今に至り今なおこの考えなのである。
物心ついた時から自分は死ぬべき人間であると考えながら死に損ない続けてこの歳になったが、この考えが生活や思考を占めたまま生きるのはとても辛いのだと最近気が付いた。自分の言動思考の全てが自分の解釈違いで、良かったことすら粗を探して槍玉に上げてしまう。自分で自分が認められない許せないから他人から貰った気持ちも行動も大切にすることができなくて申し訳ない、そんな自分が無理で死ぬべきだと思う。24時間365日ずっとそんなループ。
生まれてこのかた状態異常のデバフが常にあるのに頭をおかしくしきってしまうことすら出来ず、暴れ倒したりおかしな言動をしたりとかをすることも出来ず、突発的に死のうとすると中途半端な理性が
「自分でその辺で死ぬと葬式とか書類とか大変なんだよ、また迷惑かけるの?」
と囁きかけてくる。お前は天使と悪魔、どっちなんだろうな。
私の人生は『死ぬべきである』『これ以上かける迷惑が増える前に死なねばならない』という強迫観念と『死に方がうまくいかないと迷惑がかかる』『せめて身辺整理が終わってからにしろ』という理性が天秤でぐらぐらしている。死ぬ理由と直ぐに死なないための理由を天秤に乗せているのだ。だから直ぐに死なないための理由が解決してしまったら、きっとその時は死ぬのだと思う。
残念ながら『生きたい』だとか『将来○○をやりたい』みたいな希望は観測できなかったし一筋の光すら見えてこない。
この『生きたい理由』ではなく『直ぐに死なないための理由』を根拠に死に損ないながら生きるのはとても苦しくて辛い。
日常を過ごしていると『死ぬべき理由』の皿へは幾らでも重りが乗るのに『直ぐに死なないための理由』の皿へは殆ど重りが増えないのだ。
日常の中で、死のうと思い立っても良い理由を探しながら過ごすのは、何もかもが苦痛で圧迫感があって、死ぬという赦しを得るために生きているようで、気が狂いそうになる。
ここまでダラダラと書き連ねておいて今更宣言するが、私は死にたいわけではない。だけど生きたい理由があるわけでもない。同時に、「自分は死ぬべきだ』と考えている。ただそれだけのちっぽけな一人の人だ。
誰かに同情されたい訳でもなければ「死なないで」と言ってほしくて書いたわけでもない。なんとなく、いまのうちに書いておこうと思った。どうかチラシの裏の落書きだと思って流してほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20210405233005
前回ミソジニーに塗れた弱者男性(KKO)は救う価値が一切無いと書いた。
それでもミソジニーを抜いたところにある弱者男性(KKO)は救われなければならない。
というよりもミソジニーを駆逐するためにも弱者男性(KKO)は救われなければならない
弱者男性(KKO)の本質は社会におけるプレゼンスの喪失および社会からの疎外感にある。
結婚や経済的な性交が槍玉に挙がるのもそれらが社会において一定の役割を付与するものであり、それらが達成できないことはすなわち社会的なプレゼンスを獲得できなということに他ならないからである。
ただの貧困であれば社会福祉でカバーできる部分もあれば労働問題としてカバーできる部分もある。
ただの婚姻の問題であれば少子化対策などを絡めた制度と的な問題としてカバーできる部分もある。
しかし弱者男性(KKO)が抱える問題はあくまでも喪失感と疎外感なのでそういった制度の問題として解決できる部分は少ない。
となるとそんなの放置すればいいじゃんという主張が出てくることは自然なのだけれども、それはそれで問題がある。
最近の増田の流れの中で弱者男性(KKO)のような存在を救っていたのが宗教だったのではないかという指摘をする増田もいたが、真っ当な宗教観を持つ宗教に救われるならともかくカルト的な宗教に嵌まってしまえば社会からの距離は縮まらないどころからさらに離れてしまう。
弱者男性(KKO)がミソジニーに絡め取られやすいのも宗教的救い・精神的支柱を白饅頭のようなミソジニーを含む弱者男性(KKO)論に求め縋ってしまうからであり弱者男性(KKO)を放置してきた結果でもある。
つまり弱者男性(KKO)を救うということはミソジニーに縋る人間を減らすという事でもあるのだ。
あとちょっと付け加えると、実は弱者男性(KKO)は男性にだけある存在ではなく性別セクシャリティーなどの属性による垣根のない存在であるという事も念頭に置いておきたい。
男性以外の属性の場合、社会からの疎外感はそのまま社会による構造的差別に繋がる部分も多く、そのための属性内で一体となった社会変革運動が行われている場合も多い故に社会から疎外感を感じても属性内の一体感があるのでそこまで目立っていないと言うだけの話で。
ジェンダーネタが盛んだが、そろそろ女子アナの存在も槍玉にあげていいと思う。断っておくと、個々の女子アナを批判しているのではなく、民放テレビ局における女性アナウンサーの扱いを批判しているのである。
女子アナほどジェンダーバイアスが露骨に出ている職業はない。最近ニュースキャスターに女性は確かに増えているが、番組編成の現場は圧倒的に男性であり、そこで求められているのは明らかに広告塔としての役割である。かつての国谷裕子のように番組そのものを仕切っている女性は皆無に近い。
バラエティでは相変わらずひどい。多数の男子芸人と女子アナ一人という配置で、芸人のセクハラまがいの発言を女子アナに投げて笑いをとるという手法が、依然として多く見られる。クラスの優等生女子を下ネタでからかうという中学生男子の悪ふざけを、テレビ番組として公然とやっている。爆笑問題は好きだけど、太田が女子アナをセクハラでいじることを、いつまでも彼のキャラということで許容すべきではないと思う。
これも昔からだが、男子アナは年齢に比例して任される番組が大きくなるのに対して、女子アナの場合、入社2年目ぐらいの女子アナが、その局の看板番組に抜擢されるということが多い。結果、現場では中堅男子アナと入社2年目頃の女子アナという組み合わせが多くなり、必然的に女子アナのミスを男子アナが突っ込むという場面が定番になる。テレビ局もそれを狙ってやっているわけだが、これが「男子は普通に実力主義なのに、女子は見た目だけで評価されている」という偏見をまき散らしている。
番組で着ている服も、圧倒的にコンサバなファッションでゆるふわなスカート姿が多い。実際にそういうファッションをしている女性は、職場でも街中でも明らかに少数派であるが、女子アナにはそういう服しか許されていないかのようだ。過剰な笑顔や、元気印のポーズ、甲高い声なども、これを誰が喜んでいるのかを考えるとうんざりしてくる。
女子アナは高学歴で就活の勝ち組トップの女性である。就職先はそれこそいくらでも選べたはずである。社会の最先端で活躍すべき優秀な女性たちが、中高年男性を喜ばせるためだけに存在しているとしか思えない、旧来のジェンダー規範を全身に身にまとった職業を積極的に選択する(せざるを得ない)というのが、日本でジェンダー差別の解決の困難さを象徴している。
本当の意味で女性主導で、女性が仕切っている番組は、ラジオで恐縮だがジェーン・スーぐらいしか思いつかない。普通の番組では男性に対して受動的な役回りに徹している女子アナたちが、彼女の番組に出ると活き活きと発言しているのが象徴的だ。とくに「オーバーザサン」は、男性の性的視線や興味本位を一切排して女性の美容や生理の問題などを正面から扱っていて、掛け値なしにすごい番組だと思う。知名度が知る人ぞ知るレベルなのが残念だけど、こういう番組が普通に増えれば女性差別も減っていくのだろうと思う。
(追記)
「たまむすび」はどうなんだという意見にコメント。赤江さんは確かに「女子アナ」の枠からは外れた人だし、小さなことに悩まない安心感・安定感のあるキャラは決して嫌いじゃないけど、やはり男性芸人たちに天然ボケを突っ込まれる側の役割で、「意見」や「分析」という「男性的」なことには決して手を出さない(他方で優等生コメントは器用にできる)という意味では、ジェンダー平等という観点からはそこまで高い評価はできないかな。
モテるモテないは個人の問題であって社会的な「問題」ではないと思う。容姿とかは本人にはどうしようもないから自己責任とは言えないけど、お前がモテないのはお前の問題であって社会の問題じゃないでしょ。少なくとも俺は振られ経験しかなく告られ経験なんて漫画やアニメの中でしか味わったことがないけど、それを社会に訴えかけるべき「問題」とは思わない。
そらあおっしゃる通りだけど、
そもそもそういう話って女性の不平やフェミニストの主張に対するカウンター・バックラッシュとして始まったものだと思う。
だからそのヘンテコさは業界用語使うなら一種の「ミラーリング」なんじゃあないの?
ノータイムで「女性差別!」「政治を変えよう」ってくるじゃん。
いやいやいやいや。
統計的に、社会制度として、女性が不当な不利な境遇にあることが確認できた事柄について、それは改善しましょう。
って話ならばそれはよくわかるし賛成できるよ。
でも実装されてるフェミニストってそんな建設的でクールな話をする人じゃないですよね?
それこそ自分の個人的な恨み辛みや妄想をフェミニズムでございってパッケージにして
キモオタとか童貞とかおっさんとか弱そうな男狙って殴りつけようとかそういうのを沢山見せられてるじゃん。
twitterの自称フェミニストの話もそういうボンクラな話ばっかりでしょ?
自分の人生で嫌な思いをしたことを凄く拡大してなるべく広範囲巻き込もうとする、
あわよくば男全員を八つ当たりで殴ろうとする。
男全員が人格的になっとんらんとか日本はダメな国とかそういう感情的で人格的なダメ出しと否定をしてくるじゃん。
自分が育てた恨みつらみを八つ当たりでぶつけて嫌な気持ちにさせようとしてるだけですよね?
合理的な社会制度改革と女性差別解消の議論ならなんにも反対しないよ。
きれいごととして差別反対弱者救済って言いながら弱そうな男は見下してるし死ねって思ってるのが漏れ漏れ。
そういう行儀の悪さや欺瞞に対して、カウンターとしての弱者男性論なんじゃないの?
自分にはあれってフェミニストを難じるためのストーリーな気がするんだけどな。
本当の弱者男性ってネットでバカなフェミニストをつっついて遊ぶような能力や知識や関心がないと思う。
「個人の感情を社会問題のように言うな」とか「テメエの不平を関係ない人に聞かせるな」っていうのはその通りだよ。
でもそれフェミニストに向かっても全く同じツッコミが成立するよな?
繰り返しだけど、あんたのツッコミ自体は正しい。全く賛同する。
でもな、フェミニストのスローガンは「個人的なことは政治的なこと。」だぜ。
そういう意味不明で低知能なお題目の積み上げに対するカウンターとして弱者男性論てのがあるんじゃないの?
「お前等のやってることを客観的に見る機会を与えましょう」っていう。
女性が上昇婚するのはどう考えても個人の自由。男性が若い女性や見目麗しい女性を選びがちなのと一緒。他人がとやかく言ったり矯正させようとするような話ではない。そもそも根本的にカネは再配分できるが女は再配分できない。当たり前。
これも上と同じで、基本的にはフェミニストの主張に対するおかしさの指摘だったと思うんだよね。
たとえばちょっと前のもっと野放図なミサンドリーが大手振ってた時代は
そういうバブル残滓とフェミニズムが悪魔合体したような発言が跋扈してた。
それ見て反発した人達はとうぜん
「あなた達がそういう無茶苦茶な傲慢な条件を出すから結婚できないんじゃないの?」とか言い返すでしょ。
増田は「男性が若い女性や見目麗しい女性を選びがち」であることを批判しないんだろうけど
「同じやんけ」って言うツッコミじゃあないの?
「男が若くておっぱい大きいメスを好むのも女が収入の多いパワフルで理解のあるオスを好むのも同じでしょ」と。
それでフェミニストという人達は自称としては男性社会だの家父長制社会だのに対抗する建前で
男性個人の選好や価値観にも常に「男性社会的なもの」「動物的なもの」を見出しては槍玉に挙げてアップデートを叫ぶくせに
女性については「男性社会的な勝ち組」や「パワフルなオス」を好むような個人的選好・価値観を批判しないよねと。
ガバガバじゃんと。
建前の通りなら金持ってない頼りにならない男と結婚するように「アップデート」なさったらいいんじゃない?
でもそうはしないよねっていう。
「自分の動物的な欲望には居直る癖に、社会に対してきれいごとを言ったり男性にだけアップデート迫ったりするのはアンフェア」って言ってんじゃないの?
一部に本気で金持ち女性との結婚を夢見る逆玉志向くんもいるのかもしれんけど。
そこまで夢見てないんじゃないのあの人たち。
あの人達こそ真っ先に「アップデート」が欺瞞であることを看破してるんだからさ。
フェミニストの人が男と言い合いになって二言目か三言目には
「童貞」とか「こんな奴はどうせもてない~」とかいう発言が飛び出すのを何度見たことか。
これはネットフェミニストだけじゃなくて上野千鶴子先生のような界隈で尊敬を集める大物もこういう姿勢を垣間見せてますよね。
どうしてもセックスがしたい? それなら風俗行けばいいと思う。お金さえ払えばセックスできると思うよ。風俗に行くカネがない? 政府に怒れ。雇用者を糾弾しろ。最賃アップを勝ち取るんだ。少なくとも俺は衆院選の比例区と地方選挙ではなるべく共産党に入れることにしてるぞ。憲法とか他の面では意見が違うけど少なくとも労働問題に関してはガチで俺たちの味方だからな。
弱者男性論てそんなこと言ってるかなあ。
風俗どころか。アニメ絵の女の子のポスター見ただけで「気持ち悪いオタクがシコってそう」というクオリアを得て
社会的に排除せんと乗り出すようなすっげーくだらねー活動を熱心にやるような人達ですよ。
はっきり言ってあいつらは「可哀想な女性を助ける」という本願すら怪しいと思う。
君みたいなやつが風俗へいくこともキモオタコンテンツでおシコリあそばすことについても
フェミニストは本当はそんな権利取り上げて取り締まりたいと思ってるよ。
フェミが憎いのはわかる(俺も献血よく行くマンなのであいつらは大嫌いだ)けど、だからと言って
ここまで色々言っておいてなんだけど自分はフェミは全然憎くない。
献血のポスターも気持ちわりい絵だしどうでもいいと思ってるんだ。
その程度の思考の浅さで「頭捻ってくれ」とか言ってるの見ると途端に「は?死ね」って思うんだ。
フェミニストだって同じで、本来の「女性差別反対」「社会制度改革」までなら素晴らしいことさ。
弱い頭の中では理想も理念もまとまらないから、自分と社会の区別もつかないし
ネットで八つ当たりやミサンドリー撒き散らすことが立派なフェミニズムだということになって発狂が止まらないんだ。
「一人一派」とかいうバカ御免状を発行したせいでバカが集まる思想になったんだよ。
お前についてもだぞ。
そもそもお前の自称する境遇ってお前が重度身体障碍者でもない限り頭捻ってねえ証拠なんだよ。
今の日本社会で雇止め寸前の非正規なんかやってる奴が人様に「頭を捻れ」てw
笑わすな。
「自分の目の丸太を放置して兄弟の目のおがくずを取ろうとするもの」
とdisっている。
弱者男性論が単独で存在してたら自分はもうそいつらを死ぬまでシバキ上げてるけど
先行するフェミニストに対するツッコミとして仮に言ってるものとして理解してるから今のところは許してるわけ。
想像してみてくれよ。
もういちいち女性差別反対とかなんとか差別反対とか言う必要も無いんだ。
バカじゃなきゃそんなことやらねえしさ。
フェミニストも弱者男性論もお前も、バカのくせに社会にモノ申してるだろ?
お前等自身が腐海の瘴気そのものなのにそれぞれ口々に「腐海が問題だ!」って言ってるんだ。この粘菌が。
リベラルの今の問題ってバカがリベラルやるようになったって言うことに尽きると思うな。お前らの脳では無理なんだということを理解してほしい···。
などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。
自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族や先生や同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強の価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種の信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。
それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段は聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形の内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。
なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段は別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人に喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子の大学進学率が20パーセントを切り、女性は勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異の様相がある。
母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強の価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。
そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。
以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強の価値が分からない人(2)勉強の価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格が陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味。
重要なのは、そもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。
すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。
これは勉強そのものの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強の価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態のときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。
この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合とである。
前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学の公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。
最後に後者。代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学と化学が河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。
結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣が立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツや芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。
非難の矛先がBLだけに向かうのがそもそも謎。市場として大きいレディコミや百合ものやTLが男性から性的消費だとは批判されないのになぜかBLだけ槍玉にして叩きたがるの不思議。BLじゃなく腐女子を叩きたいの見え見え
なるほど、、、
やたら旧弊の象徴として槍玉に挙げられるサザエさんアニメだが、だいたいその手の言及をしてる人は最近のサザエさんを見てないんじゃないかという気がする。相当昔に見た印象だけで語ってるんではないか。
家庭の事情でこのところサザエさんを見ているが、一部の進歩的ご婦人方が「子供には絶対見せません!」とプンスカするような、家父長制を背景に波平が横暴な振る舞いをするようなシーンはまず出てこない。カツオにゲンコツなんてしない。叱ることはあるが、怒鳴りつけるようなシーンはめったになくなっている。要するにサザエさんアニメはサザエさんアニメなりに「アップデート」されている。
id:washburn1975 実際はどうかのお話(https://washburn1975.hatenablog.com/entry/2021/03/25/150654)、ありがとうございます。俺たちは雰囲気でのレベルでですが、理解しました。
今更で、しかもここまで色々と記載して信じてもらえないと思いますが、自分個人としては小人プロレスについては、そこまで興味のある内容ではありません。
本旨は、飽くまで「ブクマカには、やはり「調べる」「確かめる」という”文化”がないようだ」の方です。最近、何度か人気エントリーに載ったような、ブクマカの態度への批判がメインです。
その上で、小人プロレスについて少し言わせて頂くと、「人権団体から抗議があったのはデマ」と否定する主張が強すぎて、関係者の各インタビューにもある「メディアに対し批判があった」を軽んじてるように感じます。
id:RRD 認識の御提示( https://rrd.hatenadiary.org/entry/2021/03/22/134738 )ありがとうございます。続きを書かれるようなので、掲載され次第、拝読します。あと何も証拠は出せませんが、自分は id:afterkun ではありません。
本文最後に書いてますが、自分もこの情報で十分に精査しているとは思っていません。また、御自分のidが記載されていて、この記事が公開されているのが嫌でしたら、運営に削除申し立てをして、削除させてください。
とりあえず、この記事のブックマークコメントのいくつかだけ返信。もしかしたら、追記2をするかもしれません。→しました。
RRD まーたいつものストーカー増田だよ、としか。よっぽど悔しかったんだね。調べる確かめるもなにも、もうみんな知ってるんだよ。なぜ現実をネットのつまみ食いで否定できるのか?
学校の教科書レベルならまだしも、小人プロレスの衰退について「みんな知ってる」はないかと…。「調べた」「確かめた」でなくてもいいので、RRDさんの認識の詳細を教えてください。
washburn1975 こういうやつ多いよね。実際どうだったか知らないのに、資料の言葉尻を捉えて「ほらやっぱり人権派のせいだ!」って言うやつ。あのな、主力選手がどんどん再起不能になったのにスカウト活動できると思うのか?
実際どうだったのかを知らないので教えてください。
人権派という言葉が嫌なら、偽善者でもクレーマーでもいいです。再起不能が問題なら、小人ではないプロレスでも発生しているのでは? 母数の問題から、「主力選手がどんどん」ではないとは思いますが。
また、スカウト活動ができるかどうかは問題提起していませんし、スカウトの有無が小人プロレスが下火になった理由の一つに「抗議からメディアへの露出が減ったからである」の否定にはならないと思います。
kowyoshi え、プリティ太田のインタビュー読んでそういう結論になるの? こいつの読解力なさすぎでね? ちな当方、昔からドロップキックのブロマガ会員で有料部分も全部読んだよ。
あなたがどう読んで、どのような結論になったかを教えてください。
muchonov ワッシュさんやodd-hatchさん達があれだけ丁寧にデマ潰ししてても、呉座センセや増田には届いてないのだな…。https://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255
houjiT 槍玉に上がった米が完璧とは言わないが、増田は十分精査して都合のいい所だけ引っ張ってデマを存続させようとしている。また貼るかhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255
具体的に、この記事のどの記載を否定したくて、その記事のどの部分を明示しているのでしょうか? 「小人プロレスに抗議があった」ということにおいては、その記事はむしろ補強しているように思います。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1372949500835160066 の一番人気の下記ブックマークコメントが気になったので調べてみた。
RRD 知らない人のために書いておくと、小人プロレスが衰退した最大の理由は、医療の進歩で小人の絶対数が減ったこと。次に障がい者政策が充実してきて入門者が減り、消滅前提にスカウトも行わなかったこと。
現役小人プロレスラーのインタビュー https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1404841
ミゼットプロレスの試合機会がなかなか作れないということですが、それ以外に人権団体から「見世物として扱うのはいかがなものか」という批判もあって、メディアが取り上げづらい風潮があったんですよね。
(中略)
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同選手のTED https://youtu.be/oSCb1EuPg38 → 衰退の理由自体は、上記インタビューとほぼ同じ
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小人プロレス(ミゼットプロレス)は人権団体がつぶした? #ネトウヨデマ対抗テンプレ https://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255
「申し訳ないけど視聴者からの抗議が凄いんだ」とプロデューサーは呆然とする彼らに説明した。どうしてあんな可哀想な人たちをテレビで晒しものにするんだという抗議が殺到したという。
(中略)
現役は今も二人いる。リトル・フランキーと角掛留蔵。(中略)でもテレビの中継があるときには、二人の試合のときにだけ撮影用の照明が落とされる。
小人プロレスの衰退に関する記事はいくつかあったけど、その内で時系列が整理されていて、ソースの信ぴょう性も高そうな記事。
これは「人権団体」からの抗議の否定ではあるけれど、所謂「人権派(という建前の偽善者)」からの抗議によりミゼットプロレスが下火になったことは、むしろ補強されているように読める。
id:RRD は「最大の理由」という言葉で隠してるんだろうけれど、少なくとも小人プロレスが衰退していった理由の一つには「小人症の人を見世物にするな」という批判が要因だったと言っていいと思う。
ただ、自分のこの調査結果も、十分に精査されてはないとは思う。とりあえず id:RRD と同コメントにスターを付けた以下の人達が、どのように「調べた」「確かめた」のかを知りたいところ。
id:nakanohitonadoinaiyo
テレビ番組スッキリで、アイヌを侮蔑する発言が批判されている。
ただ、批判も行き過ぎると毒になると、今回お怒りの方々に伝えておきたい。
特に、アイヌ民族と直接関係無いのに怒りを表明している人は考えてほしい。
今回、スッキリへの批判に支持を集めているのは、アイヌに対する世間の理解が進んだからではない。
むしろ、批判に回っている人間も「あ、イヌ」が歴史的に差別として使われていた事を初めて知った人も多い。
そもそも、特に本土の人間はそうだけど、一般にアイヌに関心は薄いのだ。
では、何故スッキリ批判が支持を得ている様に見えるのかと言うと、アイヌ以前にマスコミが嫌われているからだ。そして、スッキリは悪しきワイドショーとして槍玉に挙げられてきた。
そして、今回の発言主の脳みそ夫氏も芸人としてそこまで人気が無かった事も幸いだった。
これが、人気番組であったり人気芸能人の発言だったとしたら、ここまで批判に支持が集まったか疑問である。
つまり、日本嫌い、権力嫌い、マスコミ嫌い、ワイドショー嫌い、つまらない芸人嫌いな連中がアイヌ問題を出汁にして叩いているに過ぎない。
こいつらは、いつ手のひらを返すか分からない。
その証拠に、加藤官房長官が今回の問題に触れた時、「政府が口を出すんじゃない」など、少し混乱を見せた。
はっきり言うと、今回怒りを発している人は、好き勝手に相手を罵倒できる正義に酔っているとしか思えない人を見かける。
今回の謝罪で済ませたくないと言っている人もいた。
では、具体的に何を求めるのかと思えば、はっきり言わない。
今はまだ、世間の支持を得ているから指摘を受けていないだけだ。
多分、このままだとバックラッシュが来る。
大半の人は、アイヌ問題はややこしいから黙っておく事を選んでいるだけだ。
このまま、過剰な要求を求めると、そういう人たちは批判に回るだろう。
それでも構わないというのなら止めない。
ただ、日本嫌い、権力嫌い、マスコミ嫌い、ワイドショー嫌い、つまらない芸人嫌いの餌になっていないか、少しだけ省みてほしい。
今回の内容は、一言で表現するならば「論語読みの論語知らず」です。
『映画秘宝』の功績の一つは、マイケル・ムーア監督及び彼の作品を積極的に日本に紹介したことでしょう。これは評価されて良いと思います。私のように『映画秘宝』の記事をきっかけに、マイケル・ムーアの作品と活動を追うようになった人もいるのではないでしょうか。
しかし、マイケル・ムーア作品を紹介した『映画秘宝』自身の振る舞いは、ムーアの姿勢や思想からは懸け離れたものでした。
既に述べましたが、現在のサイズになって以降の『映画秘宝』はスプラッター系ホラー映画、切り株映画を礼賛して「切り株映画は世界の真実を描いている!」と盛んにアジテーションするようになりました。その動きの中で、特に『映画秘宝』が好んで取り上げたのが『悪魔のいけにえ』『食人族』『ホステル』といった「田舎に行ったら襲われた」系の作品群でした。そして、これらの作品群を誌面で紹介する際に町山智浩や高橋ヨシキらが好んで書き添えたのが「非・都市部在住、非・富裕層、高等教育を受けていない人間たちは『野蛮人』」と云う主張でした。
都市部に生まれ育ち、入学金や授業料が高い有名私立大学に通って高等教育を受けることも可能と云う恵まれた境遇で育った、謂わば「上級国民」である町山智浩や高橋ヨシキらにとって、上記のような階層に属する人間たちは、ただそれだけで「差別(しても許される)階級」でした。そして、切り株映画とは「そのような野蛮人たちは嘲笑され、差別されても仕方が無い」という理由を描いていると云うのが、町山智浩や高橋ヨシキらの主張でした。
一度など『映画秘宝』が発行した切り株映画系出版物が、某県において有害図書指定を受けた際には、それに対する報復行為として「某県では斯斯然然の残虐な殺人事件が起きた!だから某県の住民は野蛮人!」というアジテーションを誌面で行った事もあります。このような彼らの言動は、本質的に朝鮮人差別や部落差別と異ならないと私個人は思います。
さて話をマイケル・ムーア作品に戻しますが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』等の作品には、全米ライフル協会、ブッシュ政権・米国共和党、ミリシア等を批判的に取り上げる要素が有りました。しかし同時に、取材対象を少なくとも「同じ人間」「同じアメリカ人」として取り扱うという最低限の良識と理性もマイケル・ムーアには有りました。
それに対して、町山智浩ら『映画秘宝』はマイケル・ムーア作品に登場する「アメリカの非・都市部地域に暮らす人々」を指して「土人たち」呼ばわりし続けました。町山智浩や高橋ヨシキらにとっては、マイケル・ムーア作品も所詮は切り株映画と同じく「アホでマヌケなアメリカ白人」=「被・都市部在住、非・富裕層、高等教育を受けていない人間たち」を嘲笑の対象として消費する格好の理由を与えてくれる、娯楽作品に過ぎなかったのです。
また『ボウリング・フォー・コロンバイン』の中では、マリリン・マンソンが「コロンバイン高校銃乱射事件を始めとする無差別銃乱射事件の頻発を引き起すような悪影響を青少年たちに与えた張本人」として槍玉に挙げられ、謂れなき糾弾を受けたという話が出てきます。その事について「君の音楽が彼らの犯行に影響を与えたという主張について、どう思うか?」とマイケル・ムーアから質問されたマリリン・マンソンが、彼自身の口で何を語ったのか。それはこの映画を観て頂くとして、少なくともマリリン・マンソンは「俺は悪くない!悪いのは他のジャンル(例えばギャングスタ・ラップなど)だ!」とは決して言いませんでした。
それに対して『映画秘宝』はどうでしょうか。「切り株映画ファンは悪い事をしないが、美少女アニメを見るような奴らは犯罪者予備軍だからドンドンお上に通報しよう!」と、他人をスケープゴートにしたのでした。
マイケル・ムーアにとっては、たとえ意見や思想が異なろうとも、作品の取材対象である人々は「明日のアメリカを共に築き上げる『同じアメリカ市民』」です。それに対して、町山智浩や高橋ヨシキにとって意見や思想が異なる人間とは「差別しても許される『異人』」に過ぎませんでした。
でも、ひょっとしたら、町山智浩らが心の底で考えていた事は、マイケル・ムーアにバレていたのかも知れません。そんな事を思わせるエピソードが一つ有ります。
ブッシュJr.政権への批判を続けていたマイケル・ムーアが『華氏911』を製作・公開した時のことです。記者会見で、町山智浩はマイケル・ムーアに次のように質問しました。
「ブッシュJr.を政権の座から引きずり下ろす為に、何か僕たち(=町山智浩ら外国人マスメディア)に出来る事は有りませんか?」
マイケル・ムーアは「アメリカ市民を『土人』呼ばわりして人間扱いしない君(=町山智浩や高橋ヨシキ)のような人間に、アメリカの問題を『娯楽』として消費されたくはない」と言いたかったのではないか?この記者会見のやり取りを思い出すと私は、ついそんな想像をしてしまうのです。
恫喝DM事件が発覚した直後に『映画秘宝』編集者が発した「自分たちは映画を通じて『差別』や『不正』と闘う姿勢を学んできた」と云う主張は、事実とは正反対の完全な虚偽であるという事を示す話でした。
どこかで読んだけど、「誤字・脱字がなく、単語や語法が正しく、正しい文法を使えている」以上の部分は、上手い下手という客観的判断はできない。
すなわち、説明書ならわかりやすさが求められるし、契約書なら誤解のなさが求められるし、論文なら厳密性、論説であれば説得力というように、必要なパラメータが違う。
ましてや小説というものは、児童書と純文学で同じ評価基準が適用できるわけがなくて、児童書に用いられる語彙が純文学のそれより少ないからといって、その著者に優劣があるとはならない。
ネット小説の文章はよく下手だと槍玉に挙げられるが、あれだって「隙間時間にストレスなく読む」という需要に対し最適な語彙・長さ・表現だったりする。
そうであればそれは「文章がうまい」ということだし「文章力がある」ということになると思う。
ツイッターの文章もツイッターとしての制限(文字数)と目的(コミュニケーション)に照らして最適なパラメータ調整ができていれば良い文章だし、村上春樹の小説は村上春樹の小説を読む層に向けて最も訴えかけられるパラメータ調整をしているんだろう。
ツイッターのパラメータは村上春樹パラメータとは余りに掛け離れてて、その調整に干渉してしまうから、読まないって言ってるんじゃないかな。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/