などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。
自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族や先生や同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強の価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種の信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。
それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段は聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形の内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。
なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段は別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人に喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子の大学進学率が20パーセントを切り、女性は勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異の様相がある。
母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強の価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。
そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。
以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強の価値が分からない人(2)勉強の価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格が陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味。
重要なのは、そもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。
すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。
これは勉強そのものの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強の価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態のときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。
この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合とである。
前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学の公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。
最後に後者。代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学と化学が河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。
結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣が立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツや芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。