はてなキーワード: 槍玉とは
などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。
自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族や先生や同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強の価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種の信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。
それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段は聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形の内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。
なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段は別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人に喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子の大学進学率が20パーセントを切り、女性は勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異の様相がある。
母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強の価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。
そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。
以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強の価値が分からない人(2)勉強の価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格が陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味。
重要なのは、そもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。
すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。
これは勉強そのものの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強の価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態のときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。
この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合とである。
前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学の公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。
最後に後者。代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学と化学が河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。
結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣が立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツや芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。
非難の矛先がBLだけに向かうのがそもそも謎。市場として大きいレディコミや百合ものやTLが男性から性的消費だとは批判されないのになぜかBLだけ槍玉にして叩きたがるの不思議。BLじゃなく腐女子を叩きたいの見え見え
なるほど、、、
やたら旧弊の象徴として槍玉に挙げられるサザエさんアニメだが、だいたいその手の言及をしてる人は最近のサザエさんを見てないんじゃないかという気がする。相当昔に見た印象だけで語ってるんではないか。
家庭の事情でこのところサザエさんを見ているが、一部の進歩的ご婦人方が「子供には絶対見せません!」とプンスカするような、家父長制を背景に波平が横暴な振る舞いをするようなシーンはまず出てこない。カツオにゲンコツなんてしない。叱ることはあるが、怒鳴りつけるようなシーンはめったになくなっている。要するにサザエさんアニメはサザエさんアニメなりに「アップデート」されている。
id:washburn1975 実際はどうかのお話(https://washburn1975.hatenablog.com/entry/2021/03/25/150654)、ありがとうございます。俺たちは雰囲気でのレベルでですが、理解しました。
今更で、しかもここまで色々と記載して信じてもらえないと思いますが、自分個人としては小人プロレスについては、そこまで興味のある内容ではありません。
本旨は、飽くまで「ブクマカには、やはり「調べる」「確かめる」という”文化”がないようだ」の方です。最近、何度か人気エントリーに載ったような、ブクマカの態度への批判がメインです。
その上で、小人プロレスについて少し言わせて頂くと、「人権団体から抗議があったのはデマ」と否定する主張が強すぎて、関係者の各インタビューにもある「メディアに対し批判があった」を軽んじてるように感じます。
id:RRD 認識の御提示( https://rrd.hatenadiary.org/entry/2021/03/22/134738 )ありがとうございます。続きを書かれるようなので、掲載され次第、拝読します。あと何も証拠は出せませんが、自分は id:afterkun ではありません。
本文最後に書いてますが、自分もこの情報で十分に精査しているとは思っていません。また、御自分のidが記載されていて、この記事が公開されているのが嫌でしたら、運営に削除申し立てをして、削除させてください。
とりあえず、この記事のブックマークコメントのいくつかだけ返信。もしかしたら、追記2をするかもしれません。→しました。
RRD まーたいつものストーカー増田だよ、としか。よっぽど悔しかったんだね。調べる確かめるもなにも、もうみんな知ってるんだよ。なぜ現実をネットのつまみ食いで否定できるのか?
学校の教科書レベルならまだしも、小人プロレスの衰退について「みんな知ってる」はないかと…。「調べた」「確かめた」でなくてもいいので、RRDさんの認識の詳細を教えてください。
washburn1975 こういうやつ多いよね。実際どうだったか知らないのに、資料の言葉尻を捉えて「ほらやっぱり人権派のせいだ!」って言うやつ。あのな、主力選手がどんどん再起不能になったのにスカウト活動できると思うのか?
実際どうだったのかを知らないので教えてください。
人権派という言葉が嫌なら、偽善者でもクレーマーでもいいです。再起不能が問題なら、小人ではないプロレスでも発生しているのでは? 母数の問題から、「主力選手がどんどん」ではないとは思いますが。
また、スカウト活動ができるかどうかは問題提起していませんし、スカウトの有無が小人プロレスが下火になった理由の一つに「抗議からメディアへの露出が減ったからである」の否定にはならないと思います。
kowyoshi え、プリティ太田のインタビュー読んでそういう結論になるの? こいつの読解力なさすぎでね? ちな当方、昔からドロップキックのブロマガ会員で有料部分も全部読んだよ。
あなたがどう読んで、どのような結論になったかを教えてください。
muchonov ワッシュさんやodd-hatchさん達があれだけ丁寧にデマ潰ししてても、呉座センセや増田には届いてないのだな…。https://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255
houjiT 槍玉に上がった米が完璧とは言わないが、増田は十分精査して都合のいい所だけ引っ張ってデマを存続させようとしている。また貼るかhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255
具体的に、この記事のどの記載を否定したくて、その記事のどの部分を明示しているのでしょうか? 「小人プロレスに抗議があった」ということにおいては、その記事はむしろ補強しているように思います。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1372949500835160066 の一番人気の下記ブックマークコメントが気になったので調べてみた。
RRD 知らない人のために書いておくと、小人プロレスが衰退した最大の理由は、医療の進歩で小人の絶対数が減ったこと。次に障がい者政策が充実してきて入門者が減り、消滅前提にスカウトも行わなかったこと。
現役小人プロレスラーのインタビュー https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1404841
ミゼットプロレスの試合機会がなかなか作れないということですが、それ以外に人権団体から「見世物として扱うのはいかがなものか」という批判もあって、メディアが取り上げづらい風潮があったんですよね。
(中略)
---
同選手のTED https://youtu.be/oSCb1EuPg38 → 衰退の理由自体は、上記インタビューとほぼ同じ
---
小人プロレス(ミゼットプロレス)は人権団体がつぶした? #ネトウヨデマ対抗テンプレ https://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255
「申し訳ないけど視聴者からの抗議が凄いんだ」とプロデューサーは呆然とする彼らに説明した。どうしてあんな可哀想な人たちをテレビで晒しものにするんだという抗議が殺到したという。
(中略)
現役は今も二人いる。リトル・フランキーと角掛留蔵。(中略)でもテレビの中継があるときには、二人の試合のときにだけ撮影用の照明が落とされる。
小人プロレスの衰退に関する記事はいくつかあったけど、その内で時系列が整理されていて、ソースの信ぴょう性も高そうな記事。
これは「人権団体」からの抗議の否定ではあるけれど、所謂「人権派(という建前の偽善者)」からの抗議によりミゼットプロレスが下火になったことは、むしろ補強されているように読める。
id:RRD は「最大の理由」という言葉で隠してるんだろうけれど、少なくとも小人プロレスが衰退していった理由の一つには「小人症の人を見世物にするな」という批判が要因だったと言っていいと思う。
ただ、自分のこの調査結果も、十分に精査されてはないとは思う。とりあえず id:RRD と同コメントにスターを付けた以下の人達が、どのように「調べた」「確かめた」のかを知りたいところ。
id:nakanohitonadoinaiyo
テレビ番組スッキリで、アイヌを侮蔑する発言が批判されている。
ただ、批判も行き過ぎると毒になると、今回お怒りの方々に伝えておきたい。
特に、アイヌ民族と直接関係無いのに怒りを表明している人は考えてほしい。
今回、スッキリへの批判に支持を集めているのは、アイヌに対する世間の理解が進んだからではない。
むしろ、批判に回っている人間も「あ、イヌ」が歴史的に差別として使われていた事を初めて知った人も多い。
そもそも、特に本土の人間はそうだけど、一般にアイヌに関心は薄いのだ。
では、何故スッキリ批判が支持を得ている様に見えるのかと言うと、アイヌ以前にマスコミが嫌われているからだ。そして、スッキリは悪しきワイドショーとして槍玉に挙げられてきた。
そして、今回の発言主の脳みそ夫氏も芸人としてそこまで人気が無かった事も幸いだった。
これが、人気番組であったり人気芸能人の発言だったとしたら、ここまで批判に支持が集まったか疑問である。
つまり、日本嫌い、権力嫌い、マスコミ嫌い、ワイドショー嫌い、つまらない芸人嫌いな連中がアイヌ問題を出汁にして叩いているに過ぎない。
こいつらは、いつ手のひらを返すか分からない。
その証拠に、加藤官房長官が今回の問題に触れた時、「政府が口を出すんじゃない」など、少し混乱を見せた。
はっきり言うと、今回怒りを発している人は、好き勝手に相手を罵倒できる正義に酔っているとしか思えない人を見かける。
今回の謝罪で済ませたくないと言っている人もいた。
では、具体的に何を求めるのかと思えば、はっきり言わない。
今はまだ、世間の支持を得ているから指摘を受けていないだけだ。
多分、このままだとバックラッシュが来る。
大半の人は、アイヌ問題はややこしいから黙っておく事を選んでいるだけだ。
このまま、過剰な要求を求めると、そういう人たちは批判に回るだろう。
それでも構わないというのなら止めない。
ただ、日本嫌い、権力嫌い、マスコミ嫌い、ワイドショー嫌い、つまらない芸人嫌いの餌になっていないか、少しだけ省みてほしい。
今回の内容は、一言で表現するならば「論語読みの論語知らず」です。
『映画秘宝』の功績の一つは、マイケル・ムーア監督及び彼の作品を積極的に日本に紹介したことでしょう。これは評価されて良いと思います。私のように『映画秘宝』の記事をきっかけに、マイケル・ムーアの作品と活動を追うようになった人もいるのではないでしょうか。
しかし、マイケル・ムーア作品を紹介した『映画秘宝』自身の振る舞いは、ムーアの姿勢や思想からは懸け離れたものでした。
既に述べましたが、現在のサイズになって以降の『映画秘宝』はスプラッター系ホラー映画、切り株映画を礼賛して「切り株映画は世界の真実を描いている!」と盛んにアジテーションするようになりました。その動きの中で、特に『映画秘宝』が好んで取り上げたのが『悪魔のいけにえ』『食人族』『ホステル』といった「田舎に行ったら襲われた」系の作品群でした。そして、これらの作品群を誌面で紹介する際に町山智浩や高橋ヨシキらが好んで書き添えたのが「非・都市部在住、非・富裕層、高等教育を受けていない人間たちは『野蛮人』」と云う主張でした。
都市部に生まれ育ち、入学金や授業料が高い有名私立大学に通って高等教育を受けることも可能と云う恵まれた境遇で育った、謂わば「上級国民」である町山智浩や高橋ヨシキらにとって、上記のような階層に属する人間たちは、ただそれだけで「差別(しても許される)階級」でした。そして、切り株映画とは「そのような野蛮人たちは嘲笑され、差別されても仕方が無い」という理由を描いていると云うのが、町山智浩や高橋ヨシキらの主張でした。
一度など『映画秘宝』が発行した切り株映画系出版物が、某県において有害図書指定を受けた際には、それに対する報復行為として「某県では斯斯然然の残虐な殺人事件が起きた!だから某県の住民は野蛮人!」というアジテーションを誌面で行った事もあります。このような彼らの言動は、本質的に朝鮮人差別や部落差別と異ならないと私個人は思います。
さて話をマイケル・ムーア作品に戻しますが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』等の作品には、全米ライフル協会、ブッシュ政権・米国共和党、ミリシア等を批判的に取り上げる要素が有りました。しかし同時に、取材対象を少なくとも「同じ人間」「同じアメリカ人」として取り扱うという最低限の良識と理性もマイケル・ムーアには有りました。
それに対して、町山智浩ら『映画秘宝』はマイケル・ムーア作品に登場する「アメリカの非・都市部地域に暮らす人々」を指して「土人たち」呼ばわりし続けました。町山智浩や高橋ヨシキらにとっては、マイケル・ムーア作品も所詮は切り株映画と同じく「アホでマヌケなアメリカ白人」=「被・都市部在住、非・富裕層、高等教育を受けていない人間たち」を嘲笑の対象として消費する格好の理由を与えてくれる、娯楽作品に過ぎなかったのです。
また『ボウリング・フォー・コロンバイン』の中では、マリリン・マンソンが「コロンバイン高校銃乱射事件を始めとする無差別銃乱射事件の頻発を引き起すような悪影響を青少年たちに与えた張本人」として槍玉に挙げられ、謂れなき糾弾を受けたという話が出てきます。その事について「君の音楽が彼らの犯行に影響を与えたという主張について、どう思うか?」とマイケル・ムーアから質問されたマリリン・マンソンが、彼自身の口で何を語ったのか。それはこの映画を観て頂くとして、少なくともマリリン・マンソンは「俺は悪くない!悪いのは他のジャンル(例えばギャングスタ・ラップなど)だ!」とは決して言いませんでした。
それに対して『映画秘宝』はどうでしょうか。「切り株映画ファンは悪い事をしないが、美少女アニメを見るような奴らは犯罪者予備軍だからドンドンお上に通報しよう!」と、他人をスケープゴートにしたのでした。
マイケル・ムーアにとっては、たとえ意見や思想が異なろうとも、作品の取材対象である人々は「明日のアメリカを共に築き上げる『同じアメリカ市民』」です。それに対して、町山智浩や高橋ヨシキにとって意見や思想が異なる人間とは「差別しても許される『異人』」に過ぎませんでした。
でも、ひょっとしたら、町山智浩らが心の底で考えていた事は、マイケル・ムーアにバレていたのかも知れません。そんな事を思わせるエピソードが一つ有ります。
ブッシュJr.政権への批判を続けていたマイケル・ムーアが『華氏911』を製作・公開した時のことです。記者会見で、町山智浩はマイケル・ムーアに次のように質問しました。
「ブッシュJr.を政権の座から引きずり下ろす為に、何か僕たち(=町山智浩ら外国人マスメディア)に出来る事は有りませんか?」
マイケル・ムーアは「アメリカ市民を『土人』呼ばわりして人間扱いしない君(=町山智浩や高橋ヨシキ)のような人間に、アメリカの問題を『娯楽』として消費されたくはない」と言いたかったのではないか?この記者会見のやり取りを思い出すと私は、ついそんな想像をしてしまうのです。
恫喝DM事件が発覚した直後に『映画秘宝』編集者が発した「自分たちは映画を通じて『差別』や『不正』と闘う姿勢を学んできた」と云う主張は、事実とは正反対の完全な虚偽であるという事を示す話でした。
どこかで読んだけど、「誤字・脱字がなく、単語や語法が正しく、正しい文法を使えている」以上の部分は、上手い下手という客観的判断はできない。
すなわち、説明書ならわかりやすさが求められるし、契約書なら誤解のなさが求められるし、論文なら厳密性、論説であれば説得力というように、必要なパラメータが違う。
ましてや小説というものは、児童書と純文学で同じ評価基準が適用できるわけがなくて、児童書に用いられる語彙が純文学のそれより少ないからといって、その著者に優劣があるとはならない。
ネット小説の文章はよく下手だと槍玉に挙げられるが、あれだって「隙間時間にストレスなく読む」という需要に対し最適な語彙・長さ・表現だったりする。
そうであればそれは「文章がうまい」ということだし「文章力がある」ということになると思う。
ツイッターの文章もツイッターとしての制限(文字数)と目的(コミュニケーション)に照らして最適なパラメータ調整ができていれば良い文章だし、村上春樹の小説は村上春樹の小説を読む層に向けて最も訴えかけられるパラメータ調整をしているんだろう。
ツイッターのパラメータは村上春樹パラメータとは余りに掛け離れてて、その調整に干渉してしまうから、読まないって言ってるんじゃないかな。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
日本はすでに嫌中と嫌韓が強固にインストールされてしまっている。大半のマスメディアもそれを前提に報道している。ここ20年を日本で過ごした日本人にもそれが当然だと思っている人が多い。何もなければ自然にそのように育つ。特にその傾向の強い書き手が多いライトノベルや漫画を愛好して育つ層では顕著だ。インターネットの言論環境でも嫌中・嫌韓がほぼ押し勝ったとみていいだろう。むしろマスメディアより先行していた。中高年ではネットで真実を知ったと思っている人々が多くいる。その人たちは社会で要職についていたりする。例えばマスメディアで。例えば教育現場で。等々。しかし皆そろそろ中国や韓国の話ではなく足元の日本がボロボロになっていることに気が付き始めた頃だ。けれども先程言ったようにマスメディアの要職にいる人たちはネトウヨだから日本がボロボロなことは直視できない。記者クラブという鉄壁のガードもあって日本の問題が追求されることはない。いつまでも中国や韓国の些細な失点を追求し続ける。今では新型コロナウイルスの対応に手間取っている欧米諸国が槍玉に上がる。もはや日本語で語られるものを追っていては日本の実情を把握できないようになっている。日本という国がなくなるまで「文句があるなら日本から出て行け」の大合唱が続く。未来は無い。
1年前の2月3日はダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に入港した日らしい。
昨年1月の段階では、厚生労働省は「中国で発生した新型肺炎の日本への影響は限定的なものだろう」という見解を示していたが、以後どのような結果となったかは最早説明するまでもないだろう。
そして2月27日には安倍首相が公立学校の休校要請を表明し、3月7日には専門家会議で―今後幾度となく聞かされる言葉になるが―感染拡大の要因とみられるいわゆる「三密」の回避を求めた。「三密」って言葉は今では毎日ように当たり前のように耳にして当然のように受け止めている概念だけれど、ここ1年で生まれた言葉だと考えると人間の慣れって恐ろしいなと実感する。
ここ最近は、Twitterの検索機能で1年前のニュースを遡って「ああ、丁度あの頃クルーズ船が来て、日本人はようやくコロナに触れることになるんだな」と振り返ることが多い。あっという間に1年が経ってしまったというのが正直なところだ。
さて、ダイヤモンド・プリンセス号の来日から1年が経ってようやくこの国にもコロナのワクチン接種の話が持ち上がってきた。といってもG7の中で未だにワクチン接種が始まっていないのは日本だけで、日本はかなり出遅れているんだなという感じは否めない。曲がりなりにもオリンピック開催国なのに(本当に開催できるかは別)、慎重になっているのか、段取りが悪いのかは分からないが、個人的はどんな汚い手を使ってもいいから国民にワクチンが行き届くように早急に事を進めてほしいと最近はずっと思っている。もちろん、永田町の政治家や霞が関の役人が必死になって動き回っているのだろうが、おれにはそれを想像することしかできない。
ニュース番組やワイドショーではコメンテーターが声高に政治家を批判したり持論を繰り広げたりしていて、毎日毎日来る日も来る日もコロナの話題がトピックスを埋め尽くしている。去年の2月末では「ここ2,3週間が山場、ゴールデンウィークまでには収まるだろう」と言われていたのが5月になり6月になり、秋が過ぎて師走を迎え「勝負の3週間」というよく分からないお題目が出てきたものの、大した効果もないまま年を跨いでしまった。元日に初詣に行かなかった年なんて今までなかったのに。
「自粛」や「ステイホーム」や「不要不急」という言葉を今日まで何度聞いたことだろう。コロナが無ければ、行けるライブもたくさんあっただろうし、のびのび海外旅行もできただろうし、大勢でオフ会をしたり、飲み会をしたり、どんな楽しいことができただろう。今日まで「コロナが無ければ」と考えたことは数え切れないほどあったけれど、そう考える度に虚しさと悔しさが心の中でこだまして、後には虚無感が残るだけだ。「歴史にifはない」とよく言われるが果たしてそうだろうか?歴史の分岐点を想像することすらおれたちには許されないのだろうか?
おれは日本に産まれて幼少期からずっとこの国は世界の中で「進んでいる」国だと思っていた。実際に今でも多くの人が豊かに暮らすことができて科学技術の進んでいる国なのは事実だと思う。しかし、コロナの対応で否が応でも他国と比較されるのを見るとこの国は本当におれが思っていたような「進んでいる」国なのか?と思うことが多々あるのは事実だ。「隣の芝は青い」というヤツなのだろうか、もちろん他国の施策がすべて正しいというわけではない。しかし「新型コロナウイルスの対策」という一つの目標がこれほどまでに全世界で可視化されている目標があるとやはり自国の政治や政策を憂えてしまう。
あえて名前を出すまでもないが、とある知事が「大学生の卒業旅行は控えて」という趣旨の発言をしたという話があった。
おれはそれを聞いて今更憤る気力もなかった。だって昨年の2月から「若者の旅行は控えて」とか「若者の飲み会は控えて」とか「若者の外出は控えて」とか、政治家や役人に散々若者が感染拡大の原因みたいに言われていてずっと若者が悪者扱いされていたから。
実際若者は体力も行動力もあるから感染拡大の一因となっている側面もあるのだと思う。
でも、頭では分かっていても実際「若者ガー」って言われると頭に来る。それは許してほしい。それでなくても、コロナ以前から「ゆとり世代」「さとり世代」とか色々と馬鹿にされ続けて高齢者世代に敵愾心を抱いている若者は多いと思う。その気持ちはおれにも分かる。
でも、この前代未聞の感染症のパンデミックでは若者とか老人とか関係なくみんなが苦しんでコロナを恨んだんだ。飲食業とか観光業とか関係なく、あらゆる産業の人が苦労をしたということを理解しなくてはならないと思う。「Go Toキャンペーン」とかがあって槍玉に挙げられたけれど、救われるべきは全ての国民だと思う。これは理想論かもしれないけれど。それでも高齢者や政治家を憎んでしまう若者の気持ちをどうか受け入れてほしい。誰もが誰かを「敵視」して留飲を下げることで折り合いをつけているということなんだと思う。
だから今は「自粛して」じゃなくて「1年間よく頑張った」っていう言葉をかけるべきなんだと思う。おれはこの1年間を、政府が「お願い」ベースのことしか言わなくても、国民は満足に補償をしなくても必死に頑張って、耐え抜いたと思う。それがどんな結果であろうといいじゃないか。もう2020年から1年を生き抜いただけでいいだろ?もう今生きている日本国民全員に国民栄誉賞授与しちゃえよ。それでいいよ、もう。オリンピックもヘチマもねえよ、もう楽にしてくれよ。お願いだから。
これからは、真面目に選挙のことを考えて、地味でもいいからきちんと仕事をしてくれる人を選ぶよ。口当たりのいい、ピエロみたいな奴らが関わるとロクなことにならないから、ちゃんとするから。もうお願いだから。日本の未来のことを真剣に考えることにするよ。若者とか老人とか、男とか女とか関係なく。
増田に書き込むのはこれが初めてなんだけれど、コロナ禍(おれはこの表現は好きじゃないけれど)から大体1年経ったから、記念に書き込んでみることにする。
ドラマの中では大勢の役者がマスクをかけずに集まり、喋っていたからだ。
一般市民は不要不急の外出を控えるように言われ、家の外では常にマスクをかけ、食事のときにもかけるようにとまで言われ、時差出勤だ在宅勤務だリモート会議だと言われている。帰省したいのに出来ない、見舞いに行きたいのに行けないなどという思いをした人も多いだろう。
飲食店は槍玉にあげられ、座席数を減らし、検温や消毒などの対応をしてもまだ時短営業を要請されている。
それなのにドラマの中では……だ。
「役者がコロナに感染」というニュースがあっても「でしょうね」としか思えなくなった。
申し訳程度のアクリル板を置くだけでマスクをかけずに喋る喋る。
あるテレビ局のニュース番組でキャスターがマスクをかけて出演すると絶賛されていたが、違和感しかない。
そこらへんの会社が「これからはマスクをかけて仕事をします」なんて言ったら「今まで何をしていたんだ」と袋叩きの目に遭うだろう。
また、あるバラエティ番組で放送された映像によると、街で知り合いに会った芸能人はマスクを外して挨拶をしていた。
マスクをかけずスタジオに集まって政策がどうだという話に花を咲かせる人たち。
テレビ業界は「規制せずにいてくれてありがとうございます」「感染拡大の一端を担って申し訳ございませんでした」と言うべきであって、「感染拡大が止まらないのは政府のせい」などとは決して言ってはいけない。
「コロナだから我慢しろ」「式が終わった後みんなで街に繰り出すからクラスターになる」「そもそも成人式なんて大した儀式じゃない」
まぁどれも一理あるんだけどさ、成人式自体はともかく昔の友人と再会するというイベントがそんなにくだらないのか?
もし仮に自治体が成人式を延期したとして必ず開催してくれるわけじゃないし、先行きが不透明な以上、行政も延期日程を早急に決めることは出来んだろ
それだったら式の一つくらいは許してやってもいいじゃないかというのが個人的な感想なんだけど(これ直接ブコメに書くとボッコボコにされそう)
ブクマなんかやってる奴らだからと言えばそれまでだけど、余りにも人と人の繋がりに関しての意識が希薄すぎるのが気に入らない。