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2021-04-02

なんで勉強しなくてはいけないのか

などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。

 自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族先生同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。

それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。

 なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子大学進学率が20パーセントを切り、女性勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異様相がある。

 母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。

そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。


 以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強価値が分からない人(2)勉強価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味

2)勉強価値自体は分かっている人向け

 重要なのはそもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。

 すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。

(1)なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?

 これは勉強のもの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態ときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。

(2)なんで(こんな)勉強しないといけないの?

 この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合である

 前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。

最後後者代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学化学河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。


結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツ芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。

2021-03-29

anond:20210323220429

非難の矛先がBLだけに向かうのがそもそも謎。市場として大きいレディコミや百合ものやTLが男性から性的消費だとは批判されないのになぜかBLだけ槍玉にして叩きたがるの不思議BLじゃなく腐女子を叩きたいの見え見え

なるほど、、、

サザエさん言及するやつだいたいサザエさん見てない問題

やたら旧弊象徴として槍玉に挙げられるサザエさんアニメだが、だいたいその手の言及をしてる人は最近サザエさんを見てないんじゃないかという気がする。相当昔に見た印象だけで語ってるんではないか

家庭の事情でこのところサザエさんを見ているが、一部の進歩的婦人方が「子供には絶対見せません!」とプンスカするような、家父長制を背景に波平が横暴な振る舞いをするようなシーンはまず出てこない。カツオゲンコツなんてしない。叱ることはあるが、怒鳴りつけるようなシーンはめったになくなっている。要するにサザエさんアニメサザエさんアニメなりに「アップデート」されている。

ただ人の距離感あいかわらず昭和というかムラ社会的なんで、わーやだなーと思うのはしょうがいね

2021-03-21

ブクマカには、やはり「調べる」「確かめる」という”文化”がないようだ。

id:washburn1975 実際はどうかのお話https://washburn1975.hatenablog.com/entry/2021/03/25/150654)、ありがとうございます。俺たちは雰囲気でのレベルでですが、理解しました。

今更で、しかもここまで色々と記載して信じてもらえないと思いますが、自分個人としては小人プロレスについては、そこまで興味のある内容ではありません。

本旨は、飽くまで「ブクマカには、やはり「調べる」「確かめる」という”文化”がないようだ」の方です。最近、何度か人気エントリーに載ったような、ブクマカの態度への批判がメインです。

その上で、小人プロレスについて少し言わせて頂くと、「人権団体から抗議があったのはデマ」と否定する主張が強すぎて、関係者の各インタビューにもある「メディアに対し批判があった」を軽んじてるように感じます

 

id:RRD 認識の御提示https://rrd.hatenadiary.org/entry/2021/03/22/134738ありがとうございます。続きを書かれるようなので、掲載され次第、拝読します。あと何も証拠は出せませんが、自分id:afterkun ではありません。

本文最後に書いてますが、自分もこの情報で十分に精査しているとは思っていません。また、御自分id記載されていて、この記事が公開されているのが嫌でしたら、運営に削除申し立てをして、削除させてください。

とりあえず、この記事ブックマークコメントのいくつかだけ返信。もしかしたら、追記2をするかもしれません。→しました。

RRD まーたいつものストーカー増田だよ、としか。よっぽど悔しかったんだね。調べる確かめるもなにも、もうみんな知ってるんだよ。なぜ現実ネットつまみ食い否定できるのか?

学校教科書レベルならまだしも、小人プロレスの衰退について「みんな知ってる」はないかと…。「調べた」「確かめた」でなくてもいいので、RRDさんの認識の詳細を教えてください。

washburn1975 こういうやつ多いよね。実際どうだったか知らないのに、資料言葉尻を捉えて「ほらやっぱり人権派のせいだ!」って言うやつ。あのな、主力選手がどんどん再起不能になったのにスカウト活動できると思うのか?

実際どうだったのかを知らないので教えてください。

人権派という言葉が嫌なら、偽善者でもクレーマーでもいいです。再起不能問題なら、小人ではないプロレスでも発生しているのでは? 母数の問題から、「主力選手がどんどん」ではないとは思いますが。

また、スカウト活動ができるかどうかは問題提起していませんし、スカウトの有無が小人プロレスが下火になった理由の一つに「抗議からメディアへの露出が減ったかである」の否定にはならないと思います

kowyoshi え、プリティ太田インタビュー読んでそういう結論になるの? こいつの読解力なさすぎでね? ちな当方、昔からドロップキックブロマガ会員で有料部分も全部読んだよ。

あなたがどう読んで、どのような結論になったかを教えてください。

muchonov ワッシュさんやodd-hatchさん達があれだけ丁寧にデマ潰ししてても、呉座センセや増田には届いてないのだな…。https://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255

houjiT 槍玉に上がった米が完璧とは言わないが、増田は十分精査して都合のいい所だけ引っ張ってデマを存続させようとしている。また貼るかhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255

具体的に、この記事のどの記載否定したくて、その記事のどの部分を明示しているのでしょうか? 「小人プロレスに抗議があった」ということにおいては、その記事はむしろ補強しているように思います

 


https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1372949500835160066 の一番人気の下記ブックマークコメントが気になったので調べてみた。

RRD 知らない人のために書いておくと、小人プロレスが衰退した最大の理由は、医療進歩小人絶対数が減ったこと。次に障がい者政策が充実してきて入門者が減り、消滅前提にスカウトも行わなかったこと。


現役小人プロレスラーのインタビュー https://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1404841

ミゼットプロレス試合機会がなかなか作れないということですが、それ以外に人権団体から見世物として扱うのはいかがなものか」という批判もあって、メディアが取り上げづらい風潮があったんですよね。

(中略)

ボクは知らないんですけど、昔の関係者から話を聞くと、そういう批判があったらしくて。

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選手TED https://youtu.be/oSCb1EuPg38 → 衰退の理由自体は、上記インタビューとほぼ同じ

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小人プロレスミゼットプロレス)は人権団体がつぶした? #ネトウヨデマ対抗テンプレ https://odd-hatch.hatenablog.com/entry/2020/05/18/160255

申し訳ないけど視聴者からの抗議が凄いんだ」とプロデューサー呆然とする彼らに説明した。どうしてあん可哀想な人たちをテレビ晒しものにするんだという抗議が殺到したという。

(中略)

現役は今も二人いる。リトル・フランキーと角掛留蔵。(中略)でもテレビの中継があるときには、二人の試合ときにだけ撮影用の照明が落とされる。

小人プロレスの衰退に関する記事はいくつかあったけど、その内で時系列が整理されていて、ソースの信ぴょう性も高そうな記事

これは「人権団体からの抗議の否定ではあるけれど、所謂人権派(という建前の偽善者)」からの抗議によりミゼットプロレスが下火になったことは、むしろ補強されているように読める。


id:RRD は「最大理由」という言葉で隠してるんだろうけれど、少なくとも小人プロレスが衰退していった理由の一つには「小人症の人を見世物にするな」という批判が要因だったと言っていいと思う。

ただ、自分のこの調査結果も、十分に精査されてはないとは思う。とりあえず id:RRD と同コメントスターを付けた以下の人達が、どのように「調べた」「確かめた」のかを知りたいところ。

id:kyo_ju

id:uunfo

id:BigHopeClasic

id:riruriru-15

id:oakbow

id:taramoimoi

id:misomico

id:nakanohitonadoinaiyo

id:everybodyelse

id:morimori_68

id:Dai44

id:kiku-chan

id:nobg

id:matsuza

id:driving_hikkey

id:Mash

id:Nashorn

id:minoymmt

id:michiki_jp

id:mk16

id:worris

id:gdsk

id:gunnyori

id:dadadaisuke

id:nakadai

id:townphilosopher

id:houjiT

id:msukasuka

id:a_ako

id:ykkhtb

id:mellowfellow

id:baronhorse

id:pchan

id:yuzumikan15

id:rgfx

2021-03-16

アイヌ差別と戦う人に、一言だけ忠告しておきたい

テレビ番組スッキリで、アイヌ侮蔑する発言批判されている。

意図はどうあれ、酷い発言なので批判されて然るべきだの思う。

ただ、批判も行き過ぎると毒になると、今回お怒りの方々に伝えておきたい。

特にアイヌ民族と直接関係無いのに怒りを表明している人は考えてほしい。

今回、スッキリへの批判に支持を集めているのは、アイヌに対する世間理解が進んだからではない。

しろ批判に回っている人間も「あ、イヌ」が歴史的差別として使われていた事を初めて知った人も多い。

そもそも特に本土人間はそうだけど、一般アイヌに関心は薄いのだ。

では、何故スッキリ批判が支持を得ている様に見えるのかと言うと、アイヌ以前にマスコミが嫌われているからだ。そして、スッキリは悪しきワイドショーとして槍玉に挙げられてきた。

そして、今回の発言主の脳みそ夫氏も芸人としてそこまで人気が無かった事も幸いだった。

これが、人気番組であったり人気芸能人発言だったとしたら、ここまで批判に支持が集まったか疑問である

まり日本嫌い、権力嫌い、マスコミ嫌い、ワイドショー嫌い、つまらない芸人嫌いな連中がアイヌ問題出汁にして叩いているに過ぎない。

それを、アイヌ民族への支持だと勘違いしないでほしい。

こいつらは、いつ手のひらを返すか分からない。

その証拠に、加藤官房長官が今回の問題に触れた時、「政府が口を出すんじゃない」など、少し混乱を見せた。

はっきり言うと、今回怒りを発している人は、好き勝手相手罵倒できる正義に酔っているとしか思えない人を見かける。

今回の謝罪で済ませたくないと言っている人もいた。

では、具体的に何を求めるのかと思えば、はっきり言わない。

これでは、誠意を求めるヤクザとおなじではないか

今はまだ、世間の支持を得ているから指摘を受けていないだけだ。

多分、このままだとバックラッシュが来る。

大半の人は、アイヌ問題はややこしいから黙っておく事を選んでいるだけだ。

このまま、過剰な要求を求めると、そういう人たちは批判に回るだろう。

それでも構わないというのなら止めない。

ただ、日本嫌い、権力嫌い、マスコミ嫌い、ワイドショー嫌い、つまらない芸人嫌いの餌になっていないか、少しだけ省みてほしい。

2021-03-11

雑誌映画秘宝』の記憶(8)

今回の内容は、一言表現するならば「論語読みの論語知らず」です。

映画秘宝』の功績の一つは、マイケル・ムーア監督及び彼の作品積極的日本に紹介したことでしょう。これは評価されて良いと思います。私のように『映画秘宝』の記事きっかけに、マイケル・ムーア作品活動を追うようになった人もいるのではないでしょうか。

しかし、マイケル・ムーア作品を紹介した『映画秘宝自身の振る舞いは、ムーア姿勢思想からは懸け離れたものでした。

既に述べましたが、現在サイズになって以降の『映画秘宝』はスプラッターホラー映画切り株映画を礼賛して「切り株映画世界真実を描いている!」と盛んにアジテーションするようになりました。その動きの中で、特に映画秘宝』が好んで取り上げたのが『悪魔のいけにえ』『食人族』『ホステル』といった「田舎に行ったら襲われた」系の作品群でした。そして、これらの作品群を誌面で紹介する際に町山智浩高橋ヨシキらが好んで書き添えたのが「非・都市部在住、非・富裕層高等教育を受けていない人間たちは『野蛮人』」と云う主張でした。

都市部に生まれ育ち、入学金や授業料が高い有名私立大学に通って高等教育を受けることも可能と云う恵まれ境遇で育った、謂わば「上級国民である町山智浩高橋ヨシキらにとって、上記のような階層に属する人間たちは、ただそれだけで「差別(しても許される)階級」でした。そして、切り株映画とは「そのような野蛮人たちは嘲笑され、差別されても仕方が無い」という理由を描いていると云うのが、町山智浩高橋ヨシキらの主張でした。

一度など『映画秘宝』が発行した切り株映画出版物が、某県において有害図書指定を受けた際には、それに対する報復行為として「某県では斯斯然然の残虐な殺人事件が起きた!だから某県の住民野蛮人!」というアジテーションを誌面で行った事もあります。このような彼らの言動は、本質的朝鮮人差別部落差別と異ならないと私個人は思います

さて話をマイケル・ムーア作品に戻しますが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』等の作品には、全米ライフル協会ブッシュ政権米国共和党ミリシア等を批判的に取り上げる要素が有りました。しかし同時に、取材対象を少なくとも「同じ人間」「同じアメリカ人」として取り扱うという最低限の良識と理性もマイケル・ムーアには有りました。

それに対して、町山智浩ら『映画秘宝』はマイケル・ムーア作品に登場する「アメリカの非・都市部地域に暮らす人々」を指して「土人たち」呼ばわりし続けました。町山智浩高橋ヨシキらにとっては、マイケル・ムーア作品所詮切り株映画と同じく「アホでマヌケなアメリカ白人」=「被・都市部在住、非・富裕層高等教育を受けていない人間たち」を嘲笑対象として消費する格好の理由を与えてくれる、娯楽作品に過ぎなかったのです。

また『ボウリング・フォー・コロンバイン』の中では、マリリン・マンソンが「コロンバイン高校銃乱射事件を始めとする無差別銃乱射事件の頻発を引き起すような悪影響を青少年たちに与えた張本人」として槍玉に挙げられ、謂れなき糾弾を受けたという話が出てきます。その事について「君の音楽が彼らの犯行に影響を与えたという主張について、どう思うか?」とマイケル・ムーアから質問されたマリリン・マンソンが、彼自身の口で何を語ったのか。それはこの映画を観て頂くとして、少なくともマリリン・マンソンは「俺は悪くない!悪いのは他のジャンル(例えばギャングスタラップなど)だ!」とは決して言いませんでした。

それに対して『映画秘宝』はどうでしょうか。「切り株映画ファンは悪い事をしないが、美少女アニメを見るような奴らは犯罪者予備軍だからドンドンお上通報しよう!」と、他人スケープゴートにしたのでした。

マイケル・ムーアにとっては、たとえ意見思想が異なろうとも、作品取材対象である人々は「明日アメリカを共に築き上げる『同じアメリカ市民』」です。それに対して、町山智浩高橋ヨシキにとって意見思想が異なる人間とは「差別しても許される『異人』」に過ぎませんでした。

でも、ひょっとしたら、町山智浩らが心の底で考えていた事は、マイケル・ムーアにバレていたのかも知れません。そんな事を思わせるエピソードが一つ有ります

ブッシュJr.政権への批判を続けていたマイケル・ムーアが『華氏911』を製作・公開した時のことです。記者会見で、町山智浩マイケル・ムーアに次のように質問しました。

ブッシュJr.政権の座から引きずり下ろす為に、何か僕たち(=町山智浩外国人マスメディア)に出来る事は有りませんか?」

それに対するマイケル・ムーアの回答は次のようなものでした。

「有りません。これは僕たち『アメリカ人』の問題なので」

マイケル・ムーアは「アメリカ市民を『土人』呼ばわりして人間扱いしない君(=町山智浩高橋ヨシキ)のような人間に、アメリカ問題を『娯楽』として消費されたくはない」と言いたかったのではないか?この記者会見のやり取りを思い出すと私は、ついそんな想像をしてしまうのです。

恫喝DM事件が発覚した直後に『映画秘宝編集者が発した「自分たち映画を通じて『差別』や『不正』と闘う姿勢を学んできた」と云う主張は、事実とは正反対の完全な虚偽であるという事を示す話でした。

気が向いたら、また何か書きますね。アーメン

2021-03-07

anond:20210307160550

どこかで読んだけど、「誤字・脱字がなく、単語や語法が正しく、正しい文法を使えている」以上の部分は、上手い下手という客観的判断はできない。

その文章目的に叶っているかどうかという判断になる。

すなわち、説明書ならわかりやすさが求められるし、契約書なら誤解のなさが求められるし、論文なら厳密性、論説であれば説得力というように、必要パラメータが違う。

ましてや小説というものは、児童書純文学で同じ評価基準適用できるわけがなくて、児童書に用いられる語彙が純文学のそれより少ないからといって、その著者に優劣があるとはならない。

ネット小説文章はよく下手だと槍玉に挙げられるが、あれだって「隙間時間ストレスなく読む」という需要に対し最適な語彙・長さ・表現だったりする。

そうであればそれは「文章うまい」ということだし「文章力がある」ということになると思う。

ツイッター文章ツイッターとしての制限文字数)と目的コミュニケーション)に照らして最適なパラメータ調整ができていれば良い文章だし、村上春樹小説村上春樹小説を読む層に向けて最も訴えかけられるパラメータ調整をしているんだろう。

ツイッターパラメータ村上春樹パラメータとは余りに掛け離れてて、その調整に干渉してしまうから、読まないって言ってるんじゃないかな。

それを文章の上手い下手で表してしまったのが、彼は良くなかったと思う。

2021-02-28

anond:20210228174451

で今度はそういうのを槍玉に挙げては「公式の言うことも守れないクソオタク」と非難するわけです

どっちに転んでもおいしい

anond:20210227170643

トプコメマンポウを槍玉に上げてるのが死ぬほど意味からなくてワロタ

マンボウは繁殖して存続してるよな……?どういう意味なんだ?

2021-02-26

anond:20210226220244

BLM問題と同じよね

ごく一部の凶暴な黒人槍玉に上げて運動批判する

2021-02-24

anond:20210223230157

百合豚にも夢女にも何なら宇崎ちゃん好きの萌豚にもフェミはいるわけだけど何故か毎回槍玉に上がるのは腐女子だけ。

単にBLが気に入らないってお気持ちを爆発させてるだけなんだよなあ。

2021-02-22

元増田より、古典を義務教育で扱う理由について

元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います国語先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います

以下、常体で失礼。


・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると

日本という国家義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由教育制度論)

上記の上で、古典選択科目ではない(または高校教育現場で「選択させられている」)理由

学校における古典学習時間は適切な長さであるのか?

学校における古典学習内容は適切なものであるのか?

古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)

……などなど。


しかし、増田氏の質問古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているもの本来どのようなものか?」という重要命題増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。


質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質長所性質個性能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である

子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。

この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育普通教育)」というものだ。これは「全国民共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人資質能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育高校教育)も同じようなものである


・そして、ここで注意すべきポイントは「教育経済的効率という尺度はなじまない」ということである

これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやす説明しているので一部引用してみる。


教育アウトカム単位時間を区切って計ること(つまり効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校ときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。 

(中略)

これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているかである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのとき教師言葉意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的連続」として再編集する。必ずそうする。過去出来事意味現在自分状態に基づいて、そのつど改訂されるのである

(中略)

自分が何を学んだかを決定するのは私自である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由形成している。

http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_1013.html


そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通教育提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価しかない。


・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的ものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である


・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者先生議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)


・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。

言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失リスクを与える」という側面もある。

から、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。


・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に古典思考根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由上記の条件を多く満たしている。


・「自国の古の言葉から国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティ形成

・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)

歌舞伎などの歴史ある文化和歌集などは誇れる文化である

人文学研究の基礎体力として(研究者は国家必要で、大学等で研究を進める際に古典ゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいとき学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)

学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)

現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)

・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)

古典籍という膨大な一次情報に各個人アクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナー古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)

・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題であるそもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)

教養(あるいは常識)を学べる



・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律情報処理の勉強大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミング教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。

あえてここでポジショントークをするならば、古典学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)


・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分担任をした生徒(物事意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。

「今あなた意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなた自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなた世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり自分可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」

(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉意味について話していたらしい。)

これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾故事は中一の教科書に載っている)


・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います自分はなるべく古典面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習パターン学習が強くなってしまっている現実には自分ジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深ものがあるのもまた事実最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。

(少し話題はそれますが、前回の共通テストエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問エッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校進学校勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問エッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)


・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。

(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)

それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います


P.S.

これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。


自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分可能性が消えるという別な問題を生みます自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白ものを紹介しておきます

からでも、古典に関する自分評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当先生もっと面白ものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています


https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より

↑これを読んで


https://www.koten.net/uji/gen/003/

https://www.koten.net/uji/yaku/003/

↑その後、これと見比べる。これだけでも立派な古典勉強です。

2021-02-16

anond:20210216164123

からもっと流行る前に、例の長男発言あたりもっと頑張って槍玉に挙げて、ブーム潰しておけばよかったのに

そもそも大正時代の時点でリベラルと食い合わせ悪いの最初から丸わかりじゃないw

2021-02-09

金持ちの家に生まれ子供がどうしようもないアホで慶応NY島流し

でもほぼ全員内部進学出来るし生活態度や成績が結構ガバガバでも普通に商学部あたりに進める

アメリカ高校通ってたんだー。ええやん」でまんまと財閥商社大手外資系企業内定


まれ環境が~の一番強烈な例はこのパターンだと思う。

東大生槍玉に上がるけど、高学歴金持ちの親が教育投資を惜しまなかったとしても本人相当努力しないと東大には入れないからな。

慶応NYはそうではない。

2021-02-06

ラーメン二郎だけ化調中毒とか言われるのはおかし

ラーメン二郎純粋に不味いとか好きじゃないは別に個人の感想からいいと思うけど、化学調味料を多く使っているかダメというので槍玉に挙げられるのは納得いかない

料理の味覚のおいしさを追求するって事は結局味覚の欲望を満たすわけにやってる訳じゃん

例えば化学調味料使用で拘っている料理も結局おいしさを追求しているという事は同じ事で、それが化学調味料からダメとか言われるのは納得いかない

薬物で言えば、化学合成の薬物で快楽を得るかマリファナ快楽を得ているかの違いみたいなもん

料理もどういうアプローチ快楽を求めようとしているかの違いで結論はどちらも同じ

二郎を化調批判するのではなく、おいしさを追求する料理全体を批判して無味無臭料理を食えって言う方が正しいんじゃないの?

2021-02-04

ネトウヨの国

日本はすでに嫌中嫌韓が強固にインストールされてしまっている。大半のマスメディアもそれを前提に報道している。ここ20年を日本で過ごした日本人にもそれが当然だと思っている人が多い。何もなければ自然にそのように育つ。特にその傾向の強い書き手が多いライトノベル漫画を愛好して育つ層では顕著だ。インターネット言論環境でも嫌中嫌韓がほぼ押し勝ったとみていいだろう。むしろマスメディアより先行していた。中高年ではネットで真実を知ったと思っている人々が多くいる。その人たちは社会要職についていたりする。例えばマスメディアで。例えば教育現場で。等々。しかし皆そろそろ中国韓国の話ではなく足元の日本ボロボロになっていることに気が付き始めた頃だ。けれども先程言ったようにマスメディア要職にいる人たちはネトウヨから日本ボロボロなことは直視できない。記者クラブという鉄壁のガードもあって日本問題が追求されることはない。いつまでも中国韓国些細な失点を追求し続ける。今では新型コロナウイルス対応に手間取っている欧米諸国槍玉に上がる。もはや日本語で語られるものを追っていては日本の実情を把握できないようになっている。日本という国がなくなるまで「文句があるなら日本から出て行け」の大合唱が続く。未来は無い。

崎陽軒シウマイ弁当はどこへ行った?

1年前の2月3日ダイヤモンドプリンセス号が横浜港に入港した日らしい。

昨年1月の段階では、厚生労働省は「中国で発生した新型肺炎日本への影響は限定的ものだろう」という見解を示していたが、以後どのような結果となったかは最早説明するまでもないだろう。

そして2月27日には安倍首相公立学校休校要請を表明し、3月7日には専門家会議で―今後幾度となく聞かされる言葉になるが―感染拡大の要因とみられるいわゆる「三密」の回避を求めた。「三密」って言葉は今では毎日ように当たり前のように耳にして当然のように受け止めている概念だけれど、ここ1年で生まれ言葉だと考えると人間の慣れって恐ろしいなと実感する。

ここ最近は、Twitter検索機能で1年前のニュースを遡って「ああ、丁度あの頃クルーズ船が来て、日本人はようやくコロナに触れることになるんだな」と振り返ることが多い。あっという間に1年が経ってしまったというのが正直なところだ。

さて、ダイヤモンドプリンセス号の来日から1年が経ってようやくこの国にもコロナワクチン接種の話が持ち上がってきた。といってもG7の中で未だにワクチン接種が始まっていないのは日本だけで、日本はかなり出遅れているんだなという感じは否めない。曲がりなりにもオリンピック開催国なのに(本当に開催できるかは別)、慎重になっているのか、段取りが悪いのかは分からないが、個人的はどんな汚い手を使ってもいいか国民ワクチンが行き届くように早急に事を進めてほしいと最近はずっと思っている。もちろん、永田町政治家霞が関役人必死になって動き回っているのだろうが、おれにはそれを想像することしかできない。

ニュース番組やワイドショーではコメンテーターが声高に政治家批判したり持論を繰り広げたりしていて、毎日毎日来る日も来る日もコロナ話題トピックスを埋め尽くしている。去年の2月末では「ここ2,3週間が山場、ゴールデンウィークまでには収まるだろう」と言われていたのが5月になり6月になり、秋が過ぎて師走を迎え「勝負の3週間」というよく分からないお題目が出てきたものの、大した効果もないまま年を跨いでしまった。元日初詣に行かなかった年なんて今までなかったのに。

自粛」や「ステイホーム」や「不要不急」という言葉今日まで何度聞いたことだろう。コロナが無ければ、行けるライブもたくさんあっただろうし、のびのび海外旅行もできただろうし、大勢オフ会をしたり、飲み会をしたり、どんな楽しいことができただろう。今日まで「コロナが無ければ」と考えたことは数え切れないほどあったけれど、そう考える度に虚しさと悔しさが心の中でこだまして、後には虚無感が残るだけだ。「歴史にifはない」とよく言われるが果たしてそうだろうか?歴史分岐点想像することすらおれたちには許されないのだろうか?

おれは日本に産まれて幼少期からずっとこの国は世界の中で「進んでいる」国だと思っていた。実際に今でも多くの人が豊かに暮らすことができて科学技術の進んでいる国なのは事実だと思う。しかし、コロナ対応否が応でも他国比較されるのを見るとこの国は本当におれが思っていたような「進んでいる」国なのか?と思うことが多々あるのは事実だ。「隣の芝は青い」というヤツなのだろうか、もちろん他国施策がすべて正しいというわけではない。しかし「新型コロナウイルス対策」という一つの目標がこれほどまでに全世界可視化されている目標があるとやはり自国政治政策を憂えてしまう。

あえて名前を出すまでもないが、とある知事が「大学生卒業旅行は控えて」という趣旨発言をしたという話があった。

おれはそれを聞いて今更憤る気力もなかった。だって昨年の2月から若者旅行は控えて」とか「若者飲み会は控えて」とか「若者の外出は控えて」とか、政治家役人に散々若者感染拡大の原因みたいに言われていてずっと若者悪者扱いされていたから。

実際若者は体力も行動力もあるから感染拡大の一因となっている側面もあるのだと思う。

でも、頭では分かっていても実際「若者ガー」って言われると頭に来る。それは許してほしい。それでなくても、コロナ以前からゆとり世代」「さとり世代」とか色々と馬鹿にされ続けて高齢者世代敵愾心を抱いている若者は多いと思う。その気持ちはおれにも分かる。

でも、この前代未聞の感染症のパンデミックでは若者とか老人とか関係なくみんなが苦しんでコロナを恨んだんだ。飲食業とか観光業とか関係なく、あらゆる産業の人が苦労をしたということを理解しなくてはならないと思う。「Go Toキャンペーン」とかがあって槍玉に挙げられたけれど、救われるべきは全ての国民だと思う。これは理想論かもしれないけれど。それでも高齢者政治家を憎んでしま若者気持ちをどうか受け入れてほしい。誰もが誰かを「敵視」して留飲を下げることで折り合いをつけているということなんだと思う。

から今は「自粛して」じゃなくて「1年間よく頑張った」っていう言葉をかけるべきなんだと思う。おれはこの1年間を、政府が「お願い」ベースのことしか言わなくても、国民は満足に補償をしなくても必死に頑張って、耐え抜いたと思う。それがどんな結果であろうといいじゃないか。もう2020年から1年を生き抜いただけでいいだろ?もう今生きている日本国民全員に国民栄誉賞授与しちゃえよ。それでいいよ、もう。オリンピックヘチマもねえよ、もう楽にしてくれよ。お願いだから

これからは、真面目に選挙のことを考えて、地味でもいいからきちんと仕事をしてくれる人を選ぶよ。口当たりのいい、ピエロみたいな奴らが関わるとロクなことにならないから、ちゃんとするから。もうお願いだから日本未来のことを真剣に考えることにするよ。若者とか老人とか、男とか女とか関係なく。

増田に書き込むのはこれが初めてなんだけれど、コロナ禍(おれはこの表現は好きじゃないけれど)から大体1年経ったから、記念に書き込んでみることにする。

すべての人にとって2021年が良い年でありますように。

2021-01-24

anond:20210124112218

女の方がヤリまくってるんだけどしれっとカマトトぶるのも上手いからなぜかヤリチン浮気男だけ槍玉に上がるんだよな。

絶対ヤリマン浮気女の方が多い。

2021-01-23

テレビドラマを観てテレビ業界に虚しさを覚えた話

何年か振りにテレビドラマを観た。とても面白かった。

しかし、観終わってから虚しくなってしまった。

ドラマの中では大勢役者マスクをかけずに集まり、喋っていたからだ。

一般市民不要不急の外出を控えるように言われ、家の外では常にマスクをかけ、食事ときにもかけるようにとまで言われ、時差出勤だ在宅勤務だリモート会議だと言われている。帰省したいのに出来ない、見舞いに行きたいのに行けないなどという思いをした人も多いだろう。

飲食店槍玉にあげられ、座席数を減らし、検温や消毒などの対応をしてもまだ時短営業要請されている。

それなのにドラマの中では……だ。

役者コロナ感染」というニュースがあっても「でしょうね」としか思えなくなった。

ドラマだけではない、バラエティ番組ニュース番組も同様だ。

申し訳程度のアクリル板を置くだけでマスクをかけずに喋る喋る。

あるテレビ局ニュース番組でキャスターマスクをかけて出演すると絶賛されていたが、違和感しかない。

そこらへんの会社が「これからマスクをかけて仕事します」なんて言ったら「今まで何をしていたんだ」と袋叩きの目に遭うだろう。

また、あるバラエティ番組放送された映像によると、街で知り合いに会った芸能人マスクを外して挨拶をしていた。

マスクをかけずスタジオに集まって政策がどうだという話に花を咲かせる人たち。

テレビ業界は「規制せずにいてくれてありがとうございます」「感染拡大の一端を担って申し訳ございませんでした」と言うべきであって、「感染拡大が止まらないのは政府のせい」などとは決して言ってはいけない

一般市民努力を踏みにじり、高いところから他人事のように物を言うテレビ業界。本当に虚しくなった。

2021-01-20

ウレタンマスク槍玉にされてるわけじゃなく不織布以外はダメって流れなのか

不織布以外はカスみたいな常識が定着しそう

anond:20210120002255

問題コロナリスクを撒き散らしまくっとる大多数は看過された上で、オッサンけが槍玉に挙げられたことや。そこは論点と違う

2021-01-19

anond:20210119010410

日本漫画アニメの大半で子供が戦ってるのにその2つしか疑問にならなかったんだろうか

まあどうせ有名だから槍玉に挙げただけだろうな。どんな理由説明されても納得しないだろうし

2021-01-15

今更だけど成人式槍玉に上げているのって若者いじめにならないの

(例)成人式には行かないで - 楽園こちら側

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/georgebest1969.typepad.jp/blog/2021/01/%E6%88%90%E4%BA%BA%E5%BC%8F%E3%81%AB%E3%81%AF%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7.html

コロナから我慢しろ」「式が終わった後みんなで街に繰り出すからクラスターになる」「そもそも成人式なんて大した儀式じゃない」

まぁどれも一理あるんだけどさ、成人式自体はともかく昔の友人と再会するというイベントがそんなにくだらないのか?

もし仮に自治体成人式を延期したとして必ず開催してくれるわけじゃないし、先行きが不透明な以上、行政も延期日程を早急に決めることは出来んだろ

それだったら式の一つくらいは許してやってもいいじゃないかというのが個人的感想なんだけど(これ直接ブコメに書くとボッコボコにされそう)

ブクマなんかやってる奴らだからと言えばそれまでだけど、余りにも人と人の繋がりに関しての意識希薄すぎるのが気に入らない。

結婚とか恋愛沙汰の話題になったらそれこそ大暴れしてる奴らばっかりだから尚更そう思う。

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