はてなキーワード: 所以とは
私とほぼ同時期に勤め始めた生き急ぎ高校生バイト君が辞めてライバル店に移った。
そのせいでオーナーのテンションがおかしな方向性にアゲアゲになってしまい、迸る生き急ぎ高校生の愚痴を聴かされまくるシフトだった。しかもオーナー、疲れたからって次の人が出勤してくる20分前に帰るし。
生き急ぎ高校生バイト君が生き急ぎ高校生と呼ばれる所以は何かといえば、悪質クレーマーに血気盛んに言い返すからだ。私もその現場に遭遇したことがあるけど、怒鳴る客の倍怒鳴り返していた。そこまで客とガチバトルできる気概はちょっと羨ましかった。オーナーはいつ流血沙汰になるかとヒヤヒヤしていたというけど。でも子供とはいえ身長180cmほどある男がガチギレすると、流石に頭の特殊なお客様がたも殴ろうとはしないようだ。
オーナーが、生き急ぎ高校生君はプライドが高くてこっちが出来るだけ優しく言っても全然言うことを聞いてくれない、などと愚痴っていたけど、オーナーは口調は優しくても言うことが一々何でそこまで嫌みなのか謎な感じの嫌味さかげんので、まぁ、言うこと聞いて貰えないのは仕方ないかな。
私とか無駄なまでに人当たりの良さげで実際人当たりのいい人間の前では、素直な高校生であった。
生き急ぎ高校生君の接客態度がちんたらしていて悪いのがてんで治らない、というのもオーナーにとっては悩みの種だったらしいけど、私に言わせれば、コンビニの夕勤で態度いい人間はレアキャラなので仕方ないではないか。実際、当店の夕勤で態度いいの私だけなのである。オーナーだって夕方は疲れたからって不機嫌全面に出して接客してるんだもの、そりゃ説得力皆無。
生き急ぎ高校生にしてみれば、皆ひどいのに俺だけ何で怒られなきゃならないんだっていう理不尽だったろう。
生き急ぎ高校生に必要だったのは、歳の近い同性の尊敬出来る先輩だろう。
私と組むと私につられてちょっとは丁寧になるようであったけど、やっぱり年齢性別が違うので、増田さんは増田さん、俺は俺、みたいな線引きがされちゃうんだろうなと思った。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
『辛くないラー油』からインスパイアを受けて、オマージュしたのだ。
アイデアはすぐに出たが、完成までの道のりはとても辛かった。
ハラペーニョという緑色の唐辛子があるのだが、これを何度も改良してな。
そこまで辛くないものができたら、その種からまた作っての繰り返しさ。
そして最終的に、全く辛くない唐辛子ができたのだ。
しかも身も大きくすることで見栄えをよくし、お得感も上げた。
だが、全く意図しないところでカブってしまい、パクりだと言われてしまったんだ。
辛いな。
何となく分かるが、“プラスチックのあれ”とはロックピンのことを言っているのか?
いや、タグファスナーだっけか。
ああ、部屋に転がっているのは君がちゃんと処分していないからだ。
猫とかを飼っているなら、ちゃんと捨てておきたまえ。
それができないなら、猫の方を捨てろ。
或いは君自身か。
「どれもできませんでした」というのは道理じゃないぞ。
せっかく私が選択肢をいくつも提示したのだから、決断する責任くらいは取りたまえ。
今回学ぶべき教訓は、「疑ってはいけない」ということだ。
疑りつつも首を突っ込んでいる時点で、既に片耳を貸していることに気づきたまえ。
……ああ、すまない。
既に両方とも持っていかれて聞こえないのか。
これでは耳が万単位あっても足りないな。
私は幼い頃に発達障害と診断されました。当時は広汎性発達障害と診断されましたが、これは現代の言葉で言うと自閉症スペクトラム(ASD)にあたります。
発達障害というのは「自閉症スペクトラム・ADHD・学習障害」と3つに分類こそされていますが、それぞれの症状を併発していることが珍しくなく患者を3つに区分するのは難しいそうです。たとえば私が持つ障害は自閉症スペクトラム的なモノが主ではありますが、ADHDの区分に入るモノもございます。この境界はとても曖昧なのです。
ですから、自閉症患者ではなく発達障害者と名乗らせていただきます。
早い段階で自覚できたということが幸いし、人にも恵まれたためこの障害と上手く付き合っていくことができました。それらについて思ってきたことをつらつらと書き連ねていきます。
まず私の主だった症状を紹介しましょう。
上2つが自閉症的なモノ、多動性はADHD的なモノとなります。以下にそれぞれ項を分けて書いていきます。
”コミュニケーション障害”という言葉は”コミュ障”というネットスラング・若者言葉として広まっていますが、”コミュ障”の意味するものとコミュニケーション障害が指す症状はやや違いがあったりします。
何が医学的な”コミュニケーション障害”に該当するかと言えばたとえば吃音などがそうですし、言語習得が困難な状態も分類されるそうです。有名な症状は冗談や婉曲表現などが理解できないことでしょうか。適切な言葉遣いや声色が出来ないということもコミュニケーション障害になります。
喋ることが機能的に困難だったり、相手の言っていることが理解できなかったり、言葉の使い分けが出来ないことなどが”コミュニケーション障害”です。
”コミュ障”っていうのは単純に会話が下手な人のことを指すのでしょう。医学的な”コミュニケーション障害”とは違った意味合いでしょう。でも相手のことも考えず自分の言いたいことだけベラベラ喋るタイプのコミュ障は『適切な言葉遣い』ができていないということで医学的な方に該当するかも…。
で、私の場合は『適切な言葉遣いができない』という症状があるそうです(ベラベラは喋りません)。
だいたい思ったことをそのまま言ってしまっている、というのが友人らの指摘です。ようは空気が読めません。
人のコンプレックスを平然と口に出したり、みんなが思っていても心に秘めていることを言い出したりとにかくドストレート。分かりやすいところで言うと、先生のつける香水に対して「臭いですね」と言ったことがあります。
しかしまぁ困ったことに、やはりこれもどこら辺が変と思われるのか分からないんですよね。上述の例だって「お前そういうことを口に出すんじゃないよ」とか言われたからダメなことだったらしいと理解しているだけです。自分の知らぬうちに変な発言は多分しているし、モロに変な顔をされるときもあって最近は「俺また何かやっちゃいました?」という文言が頭に思い浮かびます。
「そういう特徴があるらしい」とは理解できても、いつ発揮されるのかなぜ悪いのかということは理解しにくいことは自閉症的、ADHD的な症状の共通点かもしれません(私は学習障害ではないので、それについては何とも言えませんが)。
とにかく自覚がない。「発達障害なんだよね」とカミングアウトするも「例えばどんな症状があるの」と返されると、何が悪いのかはイマイチ分かってないせいでうまい実例が思い浮かびにくい。それが発達障害者です。まぁ実例を挙げられなくても、そのうち向こうが実例に立ち会うので心配ございません(心配ございますけど?)。
”他人に無関心”というのはそのままでございます。他人からどう思われてもいいし、世間体に無頓着なのです。社会性がないと言い換えてもいいでしょう。
自分が変と思われても、物心ついた時から「変である」とずっと言われているので今更どうとも思いません。尖った性格ですから万人受けしようはずもないのですし、誰かが私を嫌って近寄らなくなるならこちらも諍いがなくて済みます。
オタクの方に分かりやすく言えば、現実でもツイッターみたいな付き合い方をしていると考えてください。
特に気兼ねなく自分の思ってることを言うし、その結果フォローされれば嬉しいしブロックされるならまぁそれも良し。自分も好いている人はフォローするし、嫌いならブロックする。まさしくああいう感じです。
この症状こそ自閉症が自閉症たる所以でしょう。こんな風に思っているから障害を抑えようともせずに、結果世間から浮くということになるのです。
上述しましたスラングの”コミュ障”は『社交辞令のような世間話が苦手』なんて特徴を指したりもしますが、他人への無関心さから自閉症患者も同様に世間話が苦手だったりします。
というのも自閉症患者は”他人に無関心”ゆえに友達でもない人と世間話をする意味が分からないのです。だって楽しくないでしょう。緊張してできないというより、やる意味が分からずできないのです。無言になろうが無関心だからどうでもいいのです。
この世間話に関する感覚のズレに気付いたのはつい最近だったりします。発達障害でない人の感覚が分からず比較ができないため、障害を自覚していてもどこが変なのか気づきにくいものなのです。
今書いていて気付きましたが、自分は平気だからって無言でいたら相手に気まずい思いをさせることになるのですね。なるほどそれで変な目で見られたのか!
とまぁこんな風に自身がなぜ悪いのかということを私は全然理解できていないのです。期せずして良い実例ができました。
では他人はどうでもいいから無作為に人を傷つけたり公共の場でなんでもできるかと言われれば、そうではありません。なぜかと言えばそれは自分で見ていて不快だと理解できるからです。自分が嫌だと思うことは嫌なのです。
他人に優しくすることもありますが、それは見過ごしたら気持ち悪いからだとか、古典的に言えばおてんとうさまが見ているからとかという理由です。自分の尊厳のためです。つまるところ、自分本位なのです。
薄情に思えるかもしれませんが、友人とは一緒にいて楽しいからいますし家族は大事にしたいから大事にしています。自分で言うのもなんですが、こう素直に生きられるのは素敵だと思うのです。
世間の人が社会で感じるストレスを感じずに済んでいる気もしますし、この症状は特にお気に入りだったりします。
まず私はジッとしていられません。私は常に体が揺れているそうです。座っていてもやや揺らいでいるとか、自転車をこいでいるとまっすぐ進んでいないとか色々言われます。これは本当に自分ではまったく意識していないことなのです。昔はとてもひどかったようで、散髪に行くと髪を切る人のほかに頭を抑える人がついていたりしたものです。
あとは突っ立っていることが苦手で、人を待つときなどは近くをウロウロと歩き回ることが多々あります。
これだけならまぁいい方ですが、多動症というモノはこれだけで終わらないから厄介なのです。
例えば、学校では整列をする機会が多くあるでしょう。多くの人はその列からなんとなく離れがたいというか、乱してはならないという集団の磁力のようなものを感じるはずです。しかし多動症の人間はそういった意識が弱いのです。
ゆえに人にかまわず突拍子もなく動き出してしまいます。私としては突拍子なく動いているつもりはないのですが…。
私は友人らと固まって歩いていても、何か気になるモノがあれば集団から抜けてそちらの方に歩いていってしまいます。旅などでは特にそうですね。「よくいなくなる」と言われます。
いやこれに関しては本当に申し訳なくは思ってはいます。ただ本当に集団意識が皆無でして、浮かれて気を抜くとこうなってしまうのです…。
これも幼い頃はもっと酷く、幼稚園からよく脱走していました。悪いことをしている意識もなく「帰りたいから帰る」というごくシンプルな理由で自主帰宅していたものです。
これに関してはまるで制御が及びません。
いや、散髪中に頭を抑える係が来なくなりましたし帰って良い時間までは帰らなくなりましたし成長はしたのです。落ち着きレベルを-1000から-100にはしただけ頑張ったのです。それでもマイナスなだけで。
なんとまぁ手前勝手な性分なのかと、自分でも呆れるくらいです。
苦労したのは私よりも担任や両親なのでしょう。
こんなにも迷惑をかけたというのにこのことでボロクソに怒られた経験もありませんので、私は先生にも親にも恵まれています。-100に出来たのはこの人たちのおかげなのです。
さて以上のような障害がございましたが、私には一つ医師からも明確に欠点と言われているがございます。
この文章から察する方もいるでしょう。自分のことながら「~~らしい」だの「~~だそうです」だのそういった言い回ししか出来ない部分が多いのです。
しかし「自分が発達障害者である」としか理解していなかった”自分が客観視できない”私がこうも自分の障害を理解できるようになったという点は、なによりも成長した部分だと思うのです。
こんな風にたとえ話だとか実例だとかを挙げて説明をできるようになるというのは、発達障害者としては快挙なのだと思います。こうやって理解が進めてこられたから、今私はこの障害を負い目と思わずアイデンティティとして大事にしていられるのです。私は、自分に正直でいられる私が大好きです。
「なんとわがままな奴か」と私を嫌悪する方もいらっしゃるでしょうが、人は所詮わがままなものです。中途半端に取り繕うよりはいいかなと思っております。というか、そういう風に受け入れてくれている方以外は離れてくれて構わないのです。
ただし我々発達障害者が人に迷惑をかけている時はぜひとも言っていただきたい。まことに恥ずかしいことではありますが、私は何歳になってもハッキリと言われないと分からないのです。
はてな新参でどういうロジックでカテゴリ分けされてるのか知らないんだけどさ。
執筆現在で「おもしろ」カテゴリに表示されてる記事を上から並べると
千葉停電で吉野家が移動販売車を出動。しかし無料じゃないことに疑問を持つ人も - Togetter
https://togetter.com/li/1402760
愛媛県、「黒塗り」忘れ文書開示 契約金額など30カ所以上 「加計学園」設置書類 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20190912/k00/00m/040/214000c
IT担当大臣(78歳)の公式サイトがアクセスできない状態でハラハラする人々 - Togetter
https://togetter.com/li/1403085
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
内容にかんするきちんとした反論であったので、言及する必要を感じた。
ちなみに意見としてはこの三行が要旨であろう。
> 奈須作品は主人公の生き様を見てヒロインが主人公に惚れるケースの方が圧倒的に多い。
> そこを、分かり易い恋愛スイッチでキモ男にコロリと落ちるチョロインと勘違いしないように。
> 増田に女性の主体性って視点がない。何かしてもらったからじゃなくて、何かしているのを見て恋をするんだよ。
おそらくだが、ほぼほぼこれは衛宮士郎、岸波白野、藤丸立香を指して言っているのだろうと思う。こいつらの特徴は、生き方や人生に対する向き合い方=人格的な部分を評価されているエピソードが多いところである。これはwikipedia見るだけでも一目瞭然である。だが、その上であえて言おう。それは間違っている。なぜならば
その証拠に、型月の主人公はただのむっつりスケベである。彼らは純朴・朴念仁・お人好しという格好を装っているだけで、実はメチャクチャむっつりである。これはFate/Extra、Extellaのストーリーを追っかけていればわかる。こいつら、実はかなりヒロインに対してセクハラしてる。ただ同じくらいヒロインたちが主人公に対してセクハラをする。ただ、重要なのはセクハラがどうとか主人公がむっつりである、とかそういうところではない。要するにここから那須きのこ氏の作風が透けて見えるのである。つまりキャラクターがシナリオに追従している、という作風である。
本当はこいつらメチャクチャむっつりのドスケベ野郎なのに、ストーリーやエピソード全体で語られる人格は「公明正大で忍耐強く、極端なまでに懐が広くて朴念仁でお人好し」なんだぜ?なんでこういうキャラ付けがなされるのかというと、これまた単純な話で、要するにこいつら性癖を隠すためにこういうキャラ付けがされているだけなのだ。で、特にこれが言いたいのだけれど、本当に主人公たちがマジで性癖があってエロくて人間的に駄目なやつなら全然問題ないのだ。それは単にキャラクターの人物像を掘り進めた結果としての個性になる。だが那須きのこの場合は違う。那須きのこは自分自身の性癖や変態性を隠すために主人公に「人格者」というキャラ付けをする。つまりキャラクターからストーリーを生んでいるわけではないのだ。こいつの性的嗜好を満たすストーリーのためにキャラクターを配置しているだけなのだ。これがキャラクターが描けていない所以だ。
したがって、“女性の恋への主体性という観点が抜けている”という指摘があったが、これも違うと言えよう。何度も言うが、Fateのヒロインは基本恋愛スイッチを押されているだけだ。主体性に似たものをエピソードの中でときたま見せるときもあるが、これをもってしてFateヒロインに恋に落ちる主体性があると考えるのは間違いだ。単にストーリーのつじつま合わせを狙っているだけに過ぎず、これを持って「きちんと好きになった理由がありますよ」とエクスキューズする逃げ道を作ってるだけにしか見えない。そしてそれを成立させるための男性のキャラクターを逆算で考えるため、追従的に男性キャラクターを没個性的なくせに妙に正義感を使命感あふれて包容力がある実はムッツリスケベな男性像ばかりにしてしまうのである。
この代表格は型月ヒロインの代表格:セイバーさんと衛宮士郎くんの関係である。
これは有名な話だと思うが、セイバーはもともと男で衛宮士郎が女という設定だったことを知っているだろうか。Fate/Prototypeで描かれている関係こそが、fate/Staynightのもともとの形だったのである。これがキャラデザ担当の意向とエロゲ売り前提事情から何故かセイバーを女にしてシナリオ改訂しなければならくなった、という逸話は有名だ。(没個性型主人公というのもエロゲによくある話なので、型月主人公の妙な没個性性の源流をここに求めることも可能だろうとは思う。が、私としては前述にも述べたようにきのこ氏の作品発表系列として「空の境界」の黒桐くんを源流と考察しているし、これは間違いないと思っている)
さてここで問いたいのだが、元英国騎士王が現代高校生の落ちこぼれ魔術師もどき男子のところに召喚されてきて恋に落ちる主体性ってなんだろう???
そんなもんあるわけねーだろ。初っ端からシナリオが無理筋じゃねえか。こんなもんまともなストーリーになるわけない。よくてギャグにしかならん。衛宮士郎の人格的な闇?英国騎士王セイバーさんの聖人君主たるがゆえの騎士王としての悩み?アホかそのどこに恋愛につながる要素があるんだよ。シナリオを読めば分かるけど、終始衛宮士郎はセイバーさんを女の子扱いするために謎の頑張りを続け、デートをして現代日本の遊楽街を引っ張り回したリ飯食わせてみたりいろいろデートイベントらしきものを作ってはいる作ってはいるが(ry あれこれシナリオの中で理由らしきものは語られてはいる、語られてはいるがどれもこれも取ってつけたようなよくわからんエピソードばかり。
結局このひとことで終わっちまう気がしてならん。だってエロゲですもん。でもこの言葉で終わらせてしまったら思考停止。言葉に出した時点でシナリオに対する分析する意味自体なくなっちまうパワーワード。でもある意味では結局この言葉に行き着く気がする。要するに、Fate自体最初からつじつま合わせのためにシナリオが存在してきたようなものだ。恋に落ちて人間性を取り戻す英国騎士王という文学をエロゲにするためには、きちんと主人公とセックスするために英国騎士王を女にして、彼女とデートする必要があったんだろううん。果たしてエロゲを描くために英国騎士王を出してくる意味があったのかどうかは置いても、だ。そう、Fate/StayNightはもともとエロゲだったのだ。だからしょうがないのだ。人間性を描けていなくても、女性の恋に落ちる主体性にいまいち説得力がなくても、主人公が単にライターの性癖を隠すためだけに没個性的で奇妙なくらいに人格者でありながら実は内面は単なるむっつりスケベでも、しょうがないのだ。
そんなわけねーだろ。エロゲならキャラクターを描けてなくてもいいのかよ。そんなわけあるか。そんなこと言ったら虚淵さんだってエロゲライターだぞ。しかも割とストーリー性も評価されてるタイプのエロゲライターなのである。なのにこの作品の完成度の違いは一体なんなのだ?というもっともな指摘を那須きのこ氏は逃れられない。元がエロゲだから、元々無理筋なシナリオだから、こじつけっぽいのはしょうがない?それは単なる言い訳だろう。
少々反論もあった衛宮士郎についても言及しておこう。すなわち衛宮士郎とは、やりたいシナリオのためにキャラクターの人間像に説得力のあるエピソードを加えていく奈須きのこ氏の作風の中でも顕著な失敗例、である。主人公が没個性的な理由かつ妙なヲタノリをするのは間違いなく主人公たちが奈須きのこ氏のアバターとしても機能しているからだと私は睨んでいる。それを踏まえて何度も言うが、基本的に奈須きのこ氏はむっつりスケベなので、むっつりスケベなエピソードを書くために女の子が存在している。そしてその女の子と対比させる形で男性キャラクターを反存在的に生み出している。つまり男の子は所詮反射的にいなきゃいけない存在だから生まれてくるキャタクターに過ぎない。そしてむっつりエピソードを成立させるためには女の子がそれなりに異常でなければならないが故に、その異常な女の子に好かれてかつ包容できる男は同様にまた異常でなければならない。つまりシナリオの必然性のためにキャラクターのすべてがつじつま合わせのプロフィールを持っているに過ぎず、衛宮士郎くんの場合は元英国騎士王でありながら実は女の子という異常性を持つセイバーというキャラクターが、魔術適正がありながらほぼ無力の男子高校生である士郎くんとの恋愛を成立させ、恋愛における主体性を持って最終的に結ばれるエンディングを迎えるためには衛宮士郎くんにもそれなりに異常であり傷がなければならない、というシナリオライター的バランス感覚から逆算して生み出されたつじつま合わせのキャラクタだからだ。
そろそろ言いたいことが分かってきてもいいんじゃないだろうか?厨二病という自意識過剰な男性像が自尊心を失わずに英国騎士女王のような格上の女性とデートを成立するために必要な自意識過剰さを支えるために異常性というプロフィールが用意されている。まさにシナリオ追従でキャタクターを配置していることで起こる典型的な弊害だ。
ちなみに青セイバー・アルトリア・ペンドラゴンの過去と元英国騎士王という過去がある女を落とすために主人公(男)もまた異常でなければならない、という等式は単に奈須きのこ氏の脳内にある思い込みであって、実際にはシナリオライターの技量次第でまったくそうではないと思うし、そもそも衛宮士郎くんが男子高校生である必要もまったくなかったと思うが(※例えば虚淵氏が描く衛宮切嗣氏とセイバーの関係の方がよっぽどドラマティックな恋愛シナリオが書けたのではないかと思うくらいだ)そこは突っ込んではいけないらしい。(※これは単に奈須きのこ氏が衛宮切嗣のような男性像を描けなかったからであり、これは彼のキャラクター像が描けないというシナリオライターとしての欠陥からくるものだ。これがいかに病理的であるかは全開語った通りなので割愛するし、この原因は彼のむっつりスケベからくるものだと私は主張してはばからない。そしてこれを乗り越えて、魅力的な男性キャラクター像をきちんと描けるようになることが、奈須きのこ氏の課題だと筆者は思う)
わりと上記のような指摘があったような記憶するので、一応代表的な脚本家をあげてみる
シナリオライターのタイプにはいろいろあるが、実力の高い作者がよく言うこととして「キャラクターが勝手に動いて言うことを聞いてくれないことがある」。これはキャラクターを掘り下げて書くことが得意なタイプによくある特徴で、稀代の脚本家でいえば特撮系の脚本家として有名な小林靖子氏などがそうだろう。氏は脚本を書いていて、シナリオがキャラクターにらしくない行為を強いている場合に、躊躇なくキャラクターにシナリオを追従させる。つまりシナリオをキャラクターに合わせて改変させてしまうのだ。これはキャラクターをシナリオの駒と考えるシナリオライティングとは真逆のアプローチだが、結果としてこれが人間像をきちんと描くことからシナリオ自体の評価につながる事が多い。
また同じようにキャラクターが持つ人間像から醸し出される雰囲気や空気感を出すことにかけては吉田玲子氏の名前を出さないわけにいかない。氏の名前を検索すればすぐにでも代表的な作品がいくらでも出てくるはずだ。この人も脚本賞を二度受賞している。このひとの名前を出すと、すぐにガルパンとかけいおんが出てくるのだが、私としては「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」とか最近の作品では「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」や「夜明け告げるルーの歌」などを上げたい。他にも「猫の恩返し」「若女将は小学生」キャラクターを描けている、とはこういう作品のことを言うのではなかろうか。特に氏の作品はシナリオの安定感が抜群で評価できる。バランスがよく、それでいて繊細で、何気ない日常の何気ない動作の中に登場人物の感情を表現する手腕には舌を巻く。
女性ばっかりなので、男性も上げておこう。他でもない筆者は虚淵さん大好きである。Fateの中で唯一好きといえるシナリオはFate//Zeroと豪語するくらい虚淵押しである。当然PsychoPassも押さえている。ちなみに筆者を女性と指摘する声もあったが、残念ながら私は男性である。「まどマギ」はもちろん「楽園追放」「沙耶の唄」も消化済である。氏のシナリオの面白いところは、なんだかんだ言って社会風刺を含めたメッセージ性をきちんとエンタメシナリオの中に押し込めることが出来ているところである。しかもこの辺を、いわゆる世間の「反戦」だとかいうご教育主義的で説教臭い作品ではなく、エンターテインメントという作品の中で行えているところがすばらしいと思う。あくまでこれはエンタメなのだ、という前提を忘れてしまえば、主義主張の強いプロパガンダのような作品になってしまう。こういう哲学ばかりするアニメーションではなく、きちんとエンタメをやっていながら、そのエンタメに深みを与える要素として社会風刺がきちんと出来ているところがとても良い。氏の脚本のハードボイルドな側面には魅了されるばかりだ。
結婚相談所で増田のプロフィールにかなり類似した人と今年成婚退会した女です。
トータル30-50万ならたぶん収まると思います。結婚相談所にもよりますが。事前によく調べてください。
お見合い費用は定額制のプランと都度払いのプランに分かれていることが多いので、
苦戦しそうなら定額制を検討しておくといいです。
あとたいていお見合い時の飲食代は男性が出すルールになっているので
すごく悪意のある言い方だけど結婚相手の値段が30-50万って安くないですか。
>合コン、街コン、アプリなど相談所以外は全て手を出してみたが、結果はすべて失敗
はっきり言ってこの状況かつ35歳で「一年同棲したい」は無茶です。いいとこ成婚退会から入籍までの3ヶ月といったところだと思います。
別に成婚退会したからといって必ず入籍しなければいけないわけではないのでその点は頭に入れておいてください。
どうしても無理だと思ったらその人と籍を入れずにお別れする手段もあります。お金はもったいないですが。
結婚の検討に必要なプロフィールは会う前に開示されているし、結婚前提だと「家事はできるのか」「実家からどれくらいの距離に住みたいか」とか腹を割って話せるので後々のミスマッチは恋愛結婚より低いはずで、そんなに心配しなくても大丈夫です。
成婚退会の前に性交渉しておきたい気持ちがあるなら、トラブルになってもいい覚悟で個別に婚前交渉しておきたいって相談するのもありだと思いますが、
その人と退会していいのか迷っている最中に「婚前交渉があったので退会します」って相手に言われてしまったらあなたに何の決断権なく自動的に成婚退会扱いになります。決定ボタンの譲渡だと思ってください。
ただなんとなく「性交渉できないなんてー!無理ー!」みたいな感じだったらそもそもあなたのゴールは結婚ではなくただのお付き合い。その場合は活用すべきサービスが結婚相談所ではないです。
そのまま合コン、街コン、アプリなどの相談所以外でどうぞ爆死をお続けください。
ヤバい話は拡散されやすいだけです。私が活動中に会ったのは皆さん結婚に結びつく出会いがないなと思っているだけの普通の人でした。
厳しいことを書いたのはこのままあなたに年を取ってほしくないからです。
結婚したいなと言いながら40代半ばに突入した男性を何人か知っていますが、
趣味を満喫しつつもどこか満たされない感じを抱えているのが気になります。
鬼嫁で苦しむ増田とか漫画にされて苦しむ増田みたいなのも多いけど、
家庭を築いて平凡ながら幸せな日々を送っている人のほうが目立たないだけで沢山います。
私は結婚相手が思い切って結婚相談所に来てくれてよかったと思うし、
そこでお互いにお互いを選べてよかったと思っています。
今まで恋愛や婚活が全くうまく行かず、人生中盤まで来てしまった。
社会人になってからはそれに加えて合コン、街コン、アプリなど相談所以外は全て手を出してみたが、結果はすべて失敗。
数回デートするとかそこそこまでは行くんだけど、告白で全敗。年齢=彼女居ない歴ってやつです・・・
もちろん告られたことはない。
スペック高いわけじゃないし、面白いわけではないし、俺に魅力が無いんだと思う。
同性の友達はそこそこいる方だと思うし、性格がどうしようもないとかではないと思う・・・多分。
ちゃんと把握してないけど、結婚相談所に不満はいくつかある・・・。
1. 費用が高い
初期費用、成婚費用とかが高いのもある。そこは30-50万くらいならいい。トータル費用がそれくらいだったらまあ払える・・。
けど、お見合い費用もかかるようで、俺のような手こずりそうな人だといくらかかるのか分からない。
プロポーズ後でないとセックスはしてはいけない、というルールらしい。
結婚するなら同棲を経て1年後に、みたいな想像をしてるので、なんだかなあという気分。
同棲=成婚とみなされて退会させられるっぽい?なので別に問題ないかもしれんけど。
3. いい噂を聞かない
世の中、ヤバイ男・女の話ばかり溢れていて、そういう印象があるので、入会しても成功する未来が見えない。
とにかく色々考えてしまったりして、結婚相談所に行くべきかどうか迷っている。
Webの入力欄「生年月日」って買いてあって、隣に何の変哲もないテキストボックスがあれば何を入力するか?
人それぞれのはずだ。
無能は人それぞれだというのがわかってない。
「普通こうでしょ」とか平気で言い出す。
会社の別のところに掲示してある紙には記載例が書かれており「例;1990年1月1日」となっている。
まずその紙を見ない人がいる。
電話番号にハイフン不要の記載例は覚えても、生年月日は忘れるかもしれないという人がいる。
無能はそういった人の事を想定できない。
紙は当然見られるもので、書かれているものは100%完璧に実行されると思いこんでいる。
そして間違えるのは自分ではなく相手が100%悪いと思っている。
案の定、生年月日に1999/01/01フォーマットで書いてきた人が多かった。
バカはお前だ。
当然想定して然るべき事だろう。
Web画面のほうに記載例を入れるべきなんだ。なんでやらないんだ。
そして自分の仕事を余計に増やし、無関係のはずのうちの課にも問い合わせ多数でとばっちりが来る。
一番厄介なのは、自分が正しいと思いこんで改善の余地が無いことだ。
異動してくれないかなー
ネタバレあるので、まだ観ていない人は右上の×を押してください。
新海誠監督の最新作『天気の子』を観てきました。「ヤフー映画」の感想とかを見ていると、新海監督が公開前に言ってたように「賛否両論」の様子。……しかし、否定的評価をしている人たちの感想を見てみると、「賛否両論以前の問題」で、人物描写が薄っぺらさを指摘している意見の多いのが印象的だった。
だが、待って欲しい。「人物造形が甘い」とか「人物描写が薄っぺらい」という批判を新海誠にするのはいかがなものか。そもそも、新海作品にこれまで重厚な人物描写などあっただろうか? 薄っぺらくない人物なんて一人としていただろうか?
まず、大ヒット作『君の名は。』で考えてみよう。瀧君も三葉も奥寺先輩も、ラノベ並みの、いや、そういう言い方はラノベに失礼なくらい、ペラペラの薄さだったと思いますよ。三葉の悪口を言ってた同級生たちなんか、当社調べでは0.01mmの薄さで、わが日本が誇るコンドーム会社オカモトが対抗意識を覚えるくらいの薄さじゃないですか。
『秒速5センチメートル』も同じ。主人公(遠野君)は半年前に転校したメンヘラ気味の女の子に会うために、東京から栃木に電車で向かう。しかし、大雪のために途中で電車は大幅に遅延する。その時の主人公(遠野君)のモノローグを皆さん覚えていますか?
「たった一分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。」
ごめん。最初『秒速5メンチメートル』を見た時、私はここで腹痛くなるほど笑い転げて、逆に何度もここを再生しましたよ。もうね、ほんとリアル中学二年生でもこんなポエムを呟かないですよ。時間は君に悪意を持つほど暇じゃないと思うんだよね。たんに大雪のために電車が遅延してるだけやん……
未見の方いたら、すみません。この電車の遅延、単なる一つのエピソードじゃなくて、『秒速』のなかでは、物語の要となるようなエピソードなんです。
意味不明自己満SF『雲の向こう、約束の場所』、ジブリを真似た結果盛大にコケた『星を追うこども』。これらも、人物描写は書道半紙なみの薄さです。
『言の葉の庭』も、ストーリーや人物描写の甘さについては微笑せずにはいられません。ユキノ先生がいじめられてる理由とか、いじめてる生徒の描写とか、これ薄っぺらくないと思う人いるの……?
まあ、いるんだと思う。それはそれでいい。私が言いたかったのは、『天気の子』が「薄っぺらい」という理由で批判されるのは不合理だということである。初めっから薄っぺらいし、中二病だし、セカイ系だし、自意識過剰のウィスパーヴォイスがうざいし。そんなこと、分かり切ったことじゃない。それを今更批判したってどうしようもなくない?
というわけで、『天気の子』もただひたすらに薄っぺらいわけです。ストーリーや人物描写の説得力とかには期待したらダメ。リアル中学生でも、もう少し人間に対する洞察力をもった人は五万といる。そのレベルです。主人公はどうやら「神津島」から家出をして「東京」にフェリーでくるわけですが、家出の理由、とくになし。至って普通の家庭で、酷いイジメにあっていたとかでもない。なんとなく嫌だったから、くらいのノリ。いわゆる反抗期? なんとなく盗んだバイクで走りだしたい気分? サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』を持っていたけど、まさかサリンジャーに感化されて?(笑) いや、笑いごとじゃなくて、マジで新海はそのレベルでなんとなく家出をさせてOKだと思っている人なんですよ。
じゃあ、なんでそんな薄っぺら新海作品はこれまで評価されてきたのか? とくに『君の名は。』の歴史的ヒットはなんだったのか? 問題はそこにいたる。
第一に挙げなくてはならないのは、美しい背景描写だろう。カメラレンズを強く意識して、超広角レンズや逆光、望遠などが多用される。しかし、実際のカメラではあんなに綺麗に映ることはない。細かいファンタジックな「嘘」がそこかしこに散りばめられている。ありえそうだけどありえない風景。新海が描き続け、そして観客を魅了しているのは、そうした風景にあるんじゃないのか。もっとも、この美しい風景も、セカイ系の、センチメンタルな自意識過剰の、中二病ポエムではないのか、と反問されるだろうが、それについて私は次のように答えるしかない。「いかにも、その通り」
で、そこから「新海誠=童貞」のような公式がでてくるわけだ。「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか」(石田衣良)という言葉が出て来る所以であろうが、これについては一言。たしかに新海誠は自意識過剰の中二病ポエマーであるかもしれないが、全ての童貞が自意識過剰の中二病ポエマーであるわけではないし、またその逆もしかりである。童貞に対して失礼である。石田衣良には猛省を促したい。
さて、『君の名は。』ヒットの理由について語るのは当然のことながら難しい。だが、これを見た人の多くが「東日本大震災」を想起したことは無視できるものではないだろう。『君の名は。』は、良くも悪くも「震災芸術」であり、『君の名は。』の賛否両論の根底にあるのも、「震災をなかったことにしてもいいのか」というこの作品についての疑問から生じているだろう。
『君の名は。』には、カタルシス(浄化作用)がある。瀧君と三葉の恋物語以上に、この映画で「主役」となっているのは「彗星」であり「隕石」である。突拍子もないことのように思われるかもしれないが、これは演出上も疑いを得ないことである。このことについては伊藤弘了という人が「恋する彗星──映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」という卓抜な評論を書いているので一読を勧めたい(http://ecrito.fever.jp/20170123213636)。
少しだけ説明する。「糸守湖」が出来たのは劇中でも語られるように、1200年前にここに隕石が墜落したことにするものだ。瀧君と三葉は三年の時間差を越えて出会いを果たすわけだが、その奥には1200年という長大な時間を経て、同じ彗星が墜落するわけで、あの惨劇を生み出した隕石は、それ自体、隕石の恋物語でもあったというわけだ。瀧君と三葉の悲恋は、その運命を受けいれて、むしろその「運命そのもの」に同化するような形で、自己を超越した恍惚体験へと昇華する。これが、『君の名は。』のインパクトである。伊藤は言う。
観客は人智をはるかに超えたティアマト彗星の壮大な恋物語のうちに自らの似姿を見出し、同時に自己自身を超越する感覚を疑似体験する。これが本作の記録的大ヒットを支えた一因である。
この伊藤の読みは、それ自身、私も正しいと思う。ちょうど隕石が地球を目がけて猛烈ないきおいで突進してくる際に流れるRADWIMPSの「スパークル」の歌詞をここで引用しておこう。
伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする
いわゆる「サビ」の部分がはじめて出て来るのは、隕石墜落のシーンなのである。彗星は隕石と化して「いまだかつてないスピードで君のもとへダイブを」するわけである。観客はかくして、瀧君でも三葉でもなく「隕石」に感情移入をすることになる。それによって、運命を超越した運命とでもいうべきものに同一化し、「自己自身を超越した感覚を疑似感覚」させるのが『君の名は。』である。ちなみに言っておくと、これは何も新しい話ではなく、ギリシア悲劇の古典的なパターンであり、「悲劇」の快楽そのものである。この点についてはニーチェの『悲劇の誕生』を参照して欲しい。
要点のみを記す。1200年前に糸守町に落ちた彗星は偶然の産物である。劇中で墜落する彗星の《片割れ》もまた偶然の産物である。その偶然をしかしながら運命的なものにするのが『君の名は。』のドラマである。隕石は、人間の視点からはどうしようもない《偶然的=運命的》なものであり、それが世界に災厄をもたらす。それは《悲劇》である。ニーチェが述べるように、悲劇とは一方では自身が運命に翻弄され自身の非力さを痛切に認識した上で、他方ではそうした小さな自己を超越し運命そのものに一体化する感覚のあるところに《悲劇》の快楽があるのだとすれば、『君の名は。』における悲劇とは、次のようなものである。(A)それは自己の意志の無力と運命の強調という形で行われるのではなく、(B)確かに一方では自己の意志の無力さを痛感させられるが、星の動きはたんに災厄をもたらす運命だけではなく、同時に強烈な人間的な意志でもあるのであって、運命から逃れていく偶然の力として描かれるのである。ここにおいて、まことに《運命=偶然》という奇跡的な場所での物語が描かれるのであって、その強烈さに私たちは感動をするのである。
震災を《運命=偶然=意志=恋》と化すことにより、現実の震災を美的に昇華してしまうのが『君の名は。』である。『君の名は。』は過去にタイムトラベルすることで「震災をなかったこと」にするだけではなく、上に書いたように、情動レベルで震災というトラウマを「昇華」させて、フロイト流にいうならば「喪の作業」を遂行することを促進するのである。「昇華」とは、「忘却」の別名である。
こうしたところが、『君の名は。』の慧眼な人々に批判される所以であるだろう。
だが、どうだろう。《忘れない》ことが一つの倫理であることは疑わないが、《忘れる》ことも一つの生き方として否定されるものではないのではないか。また、《忘れさせる》ことを描いたものが《覚えられる》ということ自体が、完全な忘却からは救うはずだと私は考えるが、いかがだろうか。
──ライトな語り口で始めたのに、全然そうではなくなった。そして、肝心の『天気の子』にまだまだ辿りつけていない。次回、『天気の子』の内容に踏み込んでいきます。
ツイッターで学者が改姓すると業績が途絶えるとか途絶えないとかていう話を見て思ったのだけど、「改姓不利益を解決(緩和)する」とは「改姓しても不利益を(あまり)受けなくする」ではないだろうか。
「夫婦別姓が認められれば解決する」という話はよく聞くが、改姓をする人にはなんの解決でもないことが多々ある。改姓をすることが改姓不利益を是認することとでも言うのだろうか。別姓を望む人が自分のことしか考えてないと言われる所以はここだと思う。
学者の例で言えば業績が途絶えるのがイヤなら別姓にすればいいというのは改姓がイヤなら結婚しなければいいくらい乱暴な話だ。
改姓不利益の対策をするというのは改姓する人が困らないようにすることなので、通称使用の拡大などはまさに正攻法だと思う。もちろん別姓を望む人にはなんの解決にもなってないが、そもそも改姓する人のための対策なのでしょうがない。実際「別姓を認める代わりに」なんて説明はされてない。
まとめると、別姓を望む人が望まぬ改姓不利益を受けている は正しいけど、改姓不利益の解決が別姓導入だ は間違い。
別姓を望む人は別姓にすることそのものを求めたほうがいいと思うよ。
最近腕を切り始めた。
前々から己を傷つける行為には興味があった。何故血を流すことに依存するのか?浅い傷でも満足するのは何故なのか?彼らは本当に生きたくないが故にやっていることなのか?すごく疑問に思っていた。
私は学校が変わり、新しい学校で孤立していたため孤独感や不安が積み重なっていた。それに加わり私は課題などを忘れたりすることが多く、自責の念も溜まりに溜まっていた。多分後者の方が大きかった。自分を戒めるため、私は100円ショップでカッター、カットバン、消毒液(一回やって何も感じなかった際の保険。傷跡の軽減になるかと思った)を購入し、「何かの時のために」とそれらをビニール袋にしっかりと入れて棚の奥にしまっておいた。
数ヶ月後、課題が終わらない夜。眠気に襲われていた私は眠気覚ましに、初めて己を傷つけた。とても浅い傷で、少しだけ血が滲むくらいだった。効果としてはまあまあ良く、エナジードリンクを飲むことを親から禁止されている私としてはとても健康的な目の覚まし方に感じられた。
それから段々と己を傷つけていくようになる。眠気覚まし、ストレスなど、多くの理由をつけて浅い傷を増やした。
私は常に人に見えないよう二の腕の方を切っていた。しかしある日、学校の友達に辛いことを言われ夜に大号泣した。その時に「お前のせいだ、と知らさなければ」と初めて手首を切った。また浅い傷だった。しかし、切ったことに私は満足した。次の日には「割れたスマホの破片で切った」などという嘘をついていた。
興味は行為以外にも向き始める。1ヶ月後ほどに私はカミソリを買った。正真正銘、安全構造のないまっさらな刃面の見えるカミソリである。カッターよりも綺麗に、深く切れると言われていたのでレジに並んでいる時にすごく楽しみに感じた。
感想としては、確かに綺麗に切れた。痛みはカッターと比べてほんの少し少ない。深さはやはり力でなんとかするしかないといったところだった。ここからカミソリを多用するようになる。痛くないし。
カミソリで切ることを覚えた私はさらに腕を切る頻度が増えた。とある日に、課題が分からずに心臓がバクバクした。何もできずにただ時間が過ぎていく。ヤバい、と感じた。このままではおかしくなってしまう。その時に私はカミソリを二の腕に当てた。心臓のバクバクは更に聞こえてくる。まさにその時、私の頭は「心臓がバクバクしているのはカミソリを二の腕に当てているせいだ」と謎の理解を示したのだ。ツツツ、と切る。血が出る。すごく安心し、頭がスッとした。この時から学校で嫌なことがあるたびに「あーあ、学校にカミソリ持って来ればよかった!」と考えるようになる。
そして今日に至る。何時間か前、私は腕を切った。何故なら苦しかったから。マイナスな考えが頭の中を過ぎっていた。命を絶たなければ、と思った。カミソリを二の腕に当ててそのまま引っ掻いた。血が出るのを見ているうちに、苦しかったことが嘘のように引いていく。初めてその感覚に恐怖を感じた。異常だったからである。私は異常なこの感覚を調べ始めた。
通常人は己を傷つけるとエンドルフィンという麻薬物質が出る。これはモルヒネよりも強いと言われる物質で多幸感を得ることができる。傷つける行為以外にもこれはギャンブル依存症やさまざまな依存に関わっているともされる。麻薬と言われるほどなので、耐性もついてきてしまうものであり、そこが依存症に関わると呼ばれる所以でもある。
つまり、傷つける行為はエンドルフィンによる多幸感に通じる、というだけのものであった。浅く切るもの、深く切るもの皆エンドルフィンに依存している。私もそうである。しかしそれは依存性がある。更に深く切るかもしれない。血をもっと出すかもしれない。生きることができなくなるかもしれない。しかし私は依存する恐怖に怯えながらまた腕を切るだろう。何故なら現実はあまりにも苦しいから。この麻薬に頼ってないと生きられないから。どうかこの、ある種の依存症患者の訴えを見て己を傷つける行為は生きなくなるためにする者だけではないと感じてほしい。皆が皆、生きたくない者ではないと感じてほしい。もしできれば私と同じ依存症患者を助けてほしい。ただ隣で支えてくれるだけでいい。そうすれば、少しだけ彼らの依存は良い方向に向かうと私は信じている。
https://www.youtube.com/watch?v=T6tHhZ5WCjo
昨日は全レスしようとか思ってたけど思ってたより伸びたので適当に
応援系
こんな雑に注目浴びてえ!な記事に温かい言葉をかけていただいてありがとうございます……
一週間くらい前はガチでヘコんでたけどもうだいぶ復調したので大丈夫
家庭環境
ここ具体的に書いたら一撃で特定されるじゃん!いやもうダメかもしれないけど。今ならまだギリギリ言い逃れできる…!
まぁ別に大したことない……と思ってるんですよ本当に。ただ引っかかる人は居るだろうなとも思う。
前に増田に書いた気がしなくもない
いやー多分これ楽しめない人はお互いに無理だろうなとは思う。
ちなみに見てたのはこれ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kondei.hateblo.jp/entry/2019/07/03/192404
おってめー いい度胸してんね
これには思うところもあって、だいたいこういう理由があるんじゃないかと思ってる
こういう方向性ではすごく良くなってきていると思うんだけどね
ずばり指摘されてしまったけど、これは結構押し付けがましい所が出てしまってるとも思う……。
とりあえず2,3回目くらいなら、行き先とかは二人で相談して決める。
けど、そこからの細かい飯屋とかは自分が適当に選んで提案して決めちゃう事が多い。つーかぶっちゃけそんなこだわりないでしょ?
自分は仕事でも目的がない会議とかすげー嫌いで、プライベートもじゃあどうします?がずっと続くみたいなの嫌いなのよね。なのでもう自分がズバッと決めちゃう事が多い。ここはもう性格だからすり合わせする必要あるだろうな……。
(震え声)とか「なーにが塩顔だよ」のあたりが古いネットのノリを引きずってる感じがででてもしこれが多少なりともリアルで出てたらやめてほしい
はい……
いやリアルで逝ってよしって河原で叫ぶみたいな痛いことはしないよ!?
返報性のあたりから超絶いい人なのが透けて見えてくる
自分はむしろ、すぐこういうテクニックに走ってしまうのがどうもなって思ってしまう
本当の自分などというものは幻想だと思っているけど、なんだかなって
これなー
まぁお互い色々話そうって感じ
婚活してる女性も子供が欲しい、できれば主婦が良いって人は多いから、そういう考えを切り捨てず、ある程度受け入れあげたら吉だと思うよ。
ウッ鋭い まぁ話してみてですかね!
ウッ苦手! つか直近それで失敗したようなものだしな
これは場数なのかなー
俺がカフェ飯とか好きなのっ
プロントは最高だと思うんですよね
30代で自己紹介に好きな鯖とか書く そういうとこやぞ
本当は好きな魔法少女とかそういうのにしようと思ったんだけどこれも完全に特定要素になるからやめた
でもおっきーはさぁ……って話はわりとよそでもしてしまった気がするな
ふつうに恋愛経験が少ないだけっぽいから、順当にいけばあと二人くらい違うパターンで失敗すればあとは失敗しなくなって結婚出来る気がする
あと2回山超えるの!しんどいよ!
これ繰り上げするなら他に回したほうがいい(回してるとは言ってない)
まぁ貯蓄ゼロとは言ってないよ!でも元増田の方が貯めててマジか……とは思った
性格悪い
本当は大して性格悪いと思ってないのに性格悪いって書くってすげー性格悪いと思わん?
それはそれとして、自分は性悪説に納得していて自分の中にも悪性があると思ってる。ガキの時は色々ひどかったし……。
だからこそ、善くありたいという思いはあるし、そうありたいと振る舞っているし、これぐらいの表面的な所はまぁ普通に見えるのはあると思う。
課金額
最近あるゲームに毎日300円くらい吸い込まれてるから月1万程度!
相談所入った時に趣味にかけられる金額の目安は多くて月3万と聞いたが、旅行の費用を按分とかしたら……
正直もう少し貯蓄に回したほうがいいとは思ってる
時間の問題とは思ったけど、あえて言えばもっとストライクゾーン狭めてもええんちゃう?そのほうがもっと的が絞れていいぞ。まだ増田はよりどりみどりになってあたふたしてる感ある。そこはもっと考えてもいいと思う
これカウンセラーにも言われたけど、なかなか明確化するのが難しいんだよね
別にすごい条件がいい人と結婚したいってわけでもないつもりなんだけど……むずかしい
結局隠されてる家庭環境が分からないし年収700万あってまだ奨学金返してない貯金ないってのがやっぱ相当なんかあるんでしょ、それでその年まで童貞って相当普通じゃないもん
ただ年収に関しては上がってきたのはわりとこの数年だし、奨学金と貯蓄に関しては先述の通り
しかし普通って言葉を気軽に使われると萎えるよなあ。こういう所が結婚できない所以なのかもしれんけど
その方よりは多少楽かなーぐらいの感覚
こういう所が結婚できない(略)
その年収でなぜ貯蓄について言葉濁すのか……浪費家? しかも奨学金なんて余裕で返済できるだろ……。その辺の謎が「家庭環境問題」に含まれてんのかな。
ただの浪費家です! 大変申し訳ございません!!! いや浪費家ってほどでも…あるのかもしれないけど。
でも貯蓄は元増田ほどではないが多少はあるよ!自己資金で結婚式できるくらいは。上にも書いたけど奨学金は金利やすいから他所で運用したほうがいいんだよキャッシュも持ってたほうがいいし。
この件、公共の場でお金の話をするのはよくないという古臭い社会規範を内面化していたという気付きと、何事もふざけてしまうのは悪癖だという反省があり、各位には大変失礼いたしました。
うんまぁ、じゃあ奨学金のこといちいち書くなよって話なんだけど
いやーつい元増田の貯蓄額を変に意識してしまって……つい俺はまだ借金もありますけど何か!?みたいな雑な打ち出しをしてしまった。実際は全く困ってない!なんだったら今全額返済出来るしな予備の現金なくなるからやんないけど
ただまぁ今思ったんだけど奨学金の残額を考えると実際の資産額はもっと低くなるし、やっぱもうちょい真面目に貯蓄したほうがいいな……