はてなキーワード: 所以とは
おじいちゃんの遺言でApple製品は使わない – NorthPage
父親がApple信者だったのでお下がりのPerforma 588を使っていた。
当時からMac系の雑誌では「MacOSはもうダメだ」と言われていたと思う。
元記事で指摘されている「マルチタスクができない」なども悩みの種だった。
「システムはWindowsが良いがGUIはMacが素晴らしい」というのが大方のApple信者の認識だった。
もちろん対外的には「すべての面でMacは優れている」と主張するのが当然だったが。
次期MacOSではそれらの欠点がすべて解消され、夢のようなOSになると言われていたが、
その開発に失敗したことでApple社への不満は頂点に達した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Copland
正確には、私がMacを使いはじめたのはコープランド開発中止のあとなので、リアルタイムの感想は分からない。
しかし雑誌などでは「コープランドが成功していればこうなるはずだった」というようなことがたびたび書かれ、
まるで理想国家建設に失敗して「どうしてこうなった」と嘆く共産主義者のようだったことは覚えている。
もちろん対外的には「MacはWinに負けてない」と主張するのが当然だったが。
「Macはディレクトリでなくフォルダだから素晴らしい」というのはよく分からない。
もっと昔はそういう言説もあったのかもしれない。
たとえば「マニュアルを見なくてもドラッグ&ドロップの意味が分かる」みたいなことではなく、
「このファイルをここにドラッグ&ドロップすればこうなりそう」という直感が当たる、といったような話だった。
このあたりは現在のiOSなどにも引き継がれているところだと思う。
まあ、どの企業もGUIデザインに気を遣うようになって相対的な優位性は無くなっているが…。
自分にとってジョブズは「教祖」というよりは「過激派の司祭」だった。
Windowsを攻撃するぶんには頼りになるが、彼の言うことを何でも信じていたわけではなかった。
MacとWinPCの性能比較には無理があったし、過去に言っていたことをすぐにひっくり返すし。
もちろん対外的には「ジョブズは素晴らしい」と主張するのが当然だったが。
とりあえずジョブズが復帰して、iMacが発売されて、Appleは勢いを得た。
同時期のWindows2000の画面と比べてみてくださいよ。
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990628/desktop.jpg
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20001018/wpe05_04.jpg
完全に未来でしょ。美しすぎるでしょ。これは調子乗っちゃうでしょ。
マカーが「MacはWindowsより美しい」と言いはじめたのはMacOSX以降じゃないかと思う。
それまでは「Macは可愛い」とか「人間味がある」「愛嬌がある」といった評価が多かったのでは。
話の落とし所がわからなくなってきた。
自分がなぜApple製品を使っているのかを考えると「最初に使ったから」という刷り込みが大きいのだが、
もう一つとして「Apple信者だから」というのがあるように思う。
Apple製品は良くも悪くもユーザーに使い方を押し付けるようなところがある。
これに関してはひとつ思い出がある。
初代iMacの「ホッケーパックマウス」は非常に酷評されていた。
しかし当時のAppleは「そもそも持ち方が違うのだ」と主張していた。
それまで(というか現在でも多いと思うが)マウスは「手のひらで包むように持つ」のが普通だった。
しかしホッケーパックマウスは「指で摘まむように持つ」ようにデザインされていた。
手首ではなく指を動かして操作するから腱鞘炎になりにくいのだ。
私はちゃんと摘まむように使っていたので、ホッケーパックマウスはコンパクトで使いやすいとさえ思っていた。
みんな、どうしてAppleの言うとおりにしないのだろうかと不思議だった。
信じる者は救われるのだ。
世の中には「狙ってバズらせることができる」という技能を持っている者たちが居る。
ブログや文筆業を趣味や生業としているのならば喉から手が出るほど欲しい技能だろう。
もしかすると「そんなことは不可能だ」と否定をしてしまう者も居るかもしれない。しかしこの技能は現実的に存在する。
昨今ではこのような技能を持つ者たちの一部はインフルエンサーなどと呼ばれている。もしくはマーケッターとも表現するのかも知れない。
そのような文脈を前提に「自分はその技能を得た」と言っても怒られない程度には狙ってバズらせるようになってきた。
オンラインとの関わりはざっくりと説明するのであれば、小学生のときにニフティサーブ、時代を経ると共に2ちゃんねる、そしてTwitterという典型的なものだが、その中で「どうすると人々は僕の作ったもので馬鹿笑いしてくれるのか、興味津々になってくれるのか」をいつの間にかよく考えるようになっていた。
そしてその考え続けたものは現代で言う「バズらせる」ことへ繋がる。
ただ、やはり人間は簡単に疑心暗鬼になるもので自分自身が本当に狙ってバズらせる技能を得たのか不安になってしまった。
去年の暮れ頃、とあるコミュニティで初めて力試しとして「どれくらいバズらせることが出来るか試す」のようにコミュニティ所属する多数の前で宣言をし、年が変わって元旦に1つの記事をインターネット上へ公開した。
その結果として現在までに5万に迫るアクセスを得た。前提として無名かつ匿名の人物が公開した記事であり、内容としては難解とされがちで読者を選ぶジャンルの記事を事前に宣言して5万に迫るアクセスを狙って記録したのだ。
5万はPVなのかUUなのかシステムの都合上判然としないが、数字だけ見ると別段凄くはない。しかしこれを嘘や炎上を使わずに真面目な記事で狙ってやるのはなかなか難しい。
この結果を得たことにより「狙ってバズらせる」技能を持つ人間の末席に座っても良いのではと思うようになった。
長々と書いてしまったが、おそらくアナタたちが気になるのは長々と語った前段よりも重要なのは「狙ってバズらせるにはどうすると良いのか?」という点だろう。期待通りそれを語ろう。
ただし、何も特別なことはない。基本と呼ばれるものは流石は基本と呼ばれるだけはあり、結局のところは基本を踏襲することへ収束していくからだ。
アナタはどこでバズらせたいのか?を考えなければならない。
TwitterなのかYoutubeなのかInstagramなのかTikTokなのか、それともインターネットへアクセスする全ユーザなのか、年齢層はどの辺りなのか。
それらのユーザ(=読者)がどのようなことを好み、どのような文体(=表現)だと受け入れて貰いやすいか考えなければならない。
結局のところバズらせるには読者の膨大な受け取り方をあらかじめくまなく想定しておく必要があるのだ。
つまり、読者によっては自分自身が想定していない斜め上の発想を持つことがあり、よくわからない理由で「このコンテンツは自分向きではない」としてコンテンツの閲覧をやめてしまうことがある。
それを抑える工夫が必要だ。
Twitterなどではブログ記事の画像がサムネイル化され表示される。
このサムネイルは非常に重要であらゆる読者のアイキャッチとなり得る。
「Youtubeの動画サムネイルは日本的なスタイルがある」と言われるように、読者層へ合わせたスタイルのアイキャッチを作ることによって読者流入を呼び込みやすくなる。
実際はアイキャッチとなるサムネイルも含めてなのだが、読者は筆者が思うよりも非常に早い段階でコンテンツを切る。
アイキャッチはタイトルを読者に読ませるもので、タイトルは冒頭3行を読ませるもので、冒頭3行は記事全体を読ませるために存在すると思ってもらって構わない。
早い話が読者の興味を維持し続け、欲を言えば次々と読者の興味を増幅していく必要があるのだ。
もしアナタの書いた記事のアクセス数(PVやUUなど)自体が全く伸びないとするならばアイキャッチやタイトルの時点で失敗している。
どんなに記事の中身が良くてもクリック(タップ)されなければ意味は無いのだ。
例えばはてなーであるならばはてなブログを使いたくなるだろう。
しかしそれは「はてなブックマークでホットエントリ入りしたい」という目的でない限りは間違っている。
バズらせたい読者層を想定したときに、はてなブログ以上に人気のあるブログサービスがあるならばそちらを使うべきだ。
想定読者層に人気のプラットフォームには想定読者が居るのは当たり前であり、アナタの目的は想定読者層でバズらせることなので、アナタの好みでプラットフォームを選ぶべきでない。バズらせたいのであれば想定読者の好みでプラットフォームを選ぶべき。
YouTubeだろうがInstagramだろうが想定読者が好んでいるのならばそのプラットフォームを使うべきなのだ。
読者層を想定した際に、その想定読者層でよく読まれシェアされている記事の堅さはよくチェックしておかなければならない。
あまりにも堅い記事が続いてシェアされていたり、同じジャンルの記事が続いていたりすると想定読者層はそれに飽きていることが多い。
例えば想定読者層でお堅い政治の記事のシェアが続いているならば、アナタが書いたお堅い政治の、しかも素人が書いた下手な記事を読むわけがない。
お堅い政治の記事のシェアが続いているならば、そこへ食の乏しい2月の今、旬の食べ物やちょっとプレミアムな食事の記事をサムネイルと共に公開してみると良い。間違いなく人気が出るはずだ。
この例で右や左、保守やリベラルや革新の膨大に公開され続ける素人記事の多くが読まれない理由を察すると良い。
逆に柔らかい記事が続いていても読者は飽きるので、そういうものが続いているのであれば知識欲を刺激するような記事を公開すると良い。
扱うなという話ではなく前段に共通する話だが、女性性やLGBTQ+やジェンダーなどのネタでバズを経験するとコレに旨味を覚えて継続してしまうことが多い。結果として読者は飽きる。
そして結果としてやりがちなのがセンセーショナルな言動をしてしまい炎上状態へ陥ってしまうというパターンだ。
何もお堅いネタばかりでなく下世話なネタやエロネタでも全く同じ。それで1つバズると続けてしまいがちだ。
特に女性性によるエロネタは2ちゃんねる成長期から続く「女神」の悪習なので良くない。ニコ動でどれだけ女神の垢BANを見たことか。
女神を批難するようなフェミニズムが居ることは良いことだが、それによってバズを経験し旨味を得て繰り返すとしっぺ返しをくらうのは最早インターネットではありがちな光景だ。
フェミニストやジェンダー論者、LGBTQ+の目的は怒りを拡散することではなくフェミニズムやジェンダー論、LGBTQ+の考え方を広めることだと解釈しているが違うだろうか?
怒りは人間の心理上ネガティブな感情であってネガティブな感情を継続したくないのは人の常だ。
性的被害などを叫ぶのは重要だが、それ以上に大切なのは「誰しもが楽しく面白いフェミニズムやジェンダー論、LGBTQ+」を広めることだと思う。
敢えて言おう、バズらせるのに「怒りのフェミニズムやジェンダー論、LGBTQ+はもう古い」と。
前述した要素を考えて数十回コンテンツを公開するとバズるコンテンツが現れるはずだ(当然ながら見当違いな考えをすると失敗もするが)。
プロではないのでテキトーなことを言うけれど、プロがプロである所以は安定して高いアクセス数(PVやUUなど)を稼ぎ出すからだ。プロはおそらく1発のバズよりも一定期間内の総数の方が重要だ。
今回5万程度の数字を得たが、プロは1回の記事が1000としても、例えば1週2記事の公開した場合は1年約52週=10万4000もの数字を稼ぎ出すはず。
そしてそれが想定読者層へ対して最適なプラットフォームであった場合は1000などという小さな数字であるはずがないので5万などという数字は鼻で笑うようなものだ。
何ならプロはオススメやレコメンドなどによって他の記事の数字すら伸ばすだろう。
今回は事前に宣言するという失敗すると恥ずかしい自身へハードルを設けたが、プロは常にこのハードルを超えているわけで流石としか言いようがない。
しかも当然ながら(真っ当な)プロであるならば嘘や炎上は使わずにそれを行っているのだから感服する。
この記事は今のところのバズらせるコツみたいなものを書いたものなので今後考えが変わるかも知れないが、参考にしていただければ有り難いしツッコミは大歓迎だ。
個人的な予想としてインフルエンサーマーケティングは失速するだろうから、この記事をもってインフルエンサーになろうとするのはやめたほうが良いと強くアドバイスする。では。
ドラクエは知らんが、即戦力を求めるなら専門家を一人育てるより、特化した技術者を集める方が効率的だわな。
勇者を探すのは一攫千金やが、そんなん賭けや。リアル勇者は操作側は自覚ないけど、育てるのに時間も金も要るやん?
やで武闘家や戦士みたいな労働者を集めて扱き使う方が速い。それで集めた金を使って知識の要る仕事は外注すれば爆速や!
……やけど、それは「ただ速いだけ」のアホ集団や。
結局は、多少粗製濫造でも勇者が上に立って魔法使いを無数に抱えとるメリケンなんかには敵わんのがオチやな。
日本が戦えとるのは一部の賢者を何人も抱えたバカやっとる集団がクソ強いんと……昔の財閥やら官僚やらがNPCみたく影薄いクセして、実態は人生を廃人ゲーマーみたく使っとるヤバい兵士集団だからや。
まあ、そんな半分くらい人間やめとる奴らになれとは言わんが。
やが大体の経営者は賢者を育てないどころか、育てずに使っては使えん遊び人だとして放棄や放置したり、使っても雑魚狩りやら物理要因に使ったりする……まあ、アホなんやろうな。
全体魔法をブッ放つ賢者を単騎に当てて「コスト重いし使えん」とか宣うのは側から見て抱腹絶倒モンやで?笑えんけど。
ちゃんと使えば、どんな場面にも対応でき、味方を回復させバフで士気を上げ、敵は纏めて打ち倒す。戦闘は最小限にして高速で終わる。
賢者を「賢者です」と書いてても使えないアホが上に立っとるのが不幸でしかないんや。
そもそも、どれだけ熟練の技師やら労働者が居っても新しいアイデア湧かすには自由な遊び人が向いとる。遊び人ってのは常時パルプンテみたいな奴だからや。
そういう自由な奴に知識を与えれば賢者になるかもしらんし、そうでなくレベル100遊び人になるだけかもしらんが、まあ遊び人のままならハサミみたく上手く使えば良いだけや。
そういう人の使い方を知らん輩は、何かにつけてアレはクソだとかコレはゴミだと見下しとる……クソでゴミなんはプレイヤーたるお前の職選びや!
たまに物理も魔法も使える勇者を探して一攫千金を求めるアホも居るが、それは単なるギャンブルや。
それに操作する側だと自覚ないかもしらんが、勇者ほど時間もコストも食う奴も居らん。
アイツはプレイヤーの分身である以上は目をかけられるんは勿論、戦力としても優先的に回復や装備をかけざるを得ない、最大のコスト喰い虫や。
強化イベントの為に旅やら何やらするのを考えれば、必然的にリアルでも金で買えんような価値や経験を積ませんとかんのは明らかや。
外から見ればアホみたいにコストかけんと作れないんが勇者なんやな。やけど、自分以外の勇者は勝手に生えてくると思うんがアホのアホたる所以や。そういうアホはレベル1の勇者を殺す。
もっと言えば、自分だけコンティニュー無限だと思っとるかのようなアホも居るな?
そうは思っとらんくとも、まあええやろ大丈夫やろの精神で見えとるリスクや悪事を放置しとる。
人間、良くて残規制。そんで大体の場合は自分だけ逃げたり回復しとるだけや!
それも分からんと適当に自分のミスを他人に擦りつけるアホも多いが、それは信用っつう残機を削る行為でしかない。或いはバレないと思ってやっとるチートや。
やけどな、社会に無限1UPは無いんや。完全な意味での永久機関は存在せんのや。
社会がゲームがアプデされるほど、チートは対策されるんが常で、チートはバレるとBANされる。
チーターが増えれば日本やら市場や会社というゲーム内ゲームはクソゲー扱いされ、まともなゲーマーは別のゲームに移る。
クソみたいなコメする信者が居るアルファが嫌われるような気軽さでゲーム全体がバカにされるんや。
自分一人でバカやっとる輩は、まだエエ。やが人を巻き込んでアホやっとるのは……どれだけ人が良く見えても、事実上の魔族や。
映画版キャッツ字幕版を観た感想(ネタバレ酷評)を長々と書いていきたいと思います。
公開初日に見て間が空いてしまったので、記憶が曖昧なところもあり、映画の内容と異なる部分があるかもしれませんし、ほぼ散文なのでご了承ください。
感想を書く際には公式ホームページやAmazon music unlimitedでサントラを聞くなどして記憶を呼び戻したり、整理しました。
あらすじ
ロンドンのとある晩に天上界に行くことができるたった一人の猫を決める猫たちの舞踏会が開かれる
あらすじというか、ストーリーを端的にまとめるとこんな感じ。シンプルで分かりやすい話ではあるが、ストーリーには深みが無く、薄っぺらい話が二時間弱続きます。
上映開始
最初に配給会社のユニバーサルのおなじみの地球のロゴの映像が流される。普通の映画であればこの先が本編であり、早く本編が見たいという気分になるがそうではない。今回はこの先どうなるのだろうという不安と恐怖でしかなかった。
映画館で10回以上予告を見ているため、化け物のような猫と人間の融合生物には多少は慣れたが、やはり得体のしれない気味の悪い生物であることは変わりない。私が子供であったら恐らくトラウマになって絶対観てないだろう。
今回キャッツを観ようと思ったのは映画館に月約4000円で見放題になるPremyに加入しているからである。加入していなければあんな映画にお金を払う気には到底ならない。
定額サービスでは本来では出会えない作品であっても、定額なら出会おうとする行動の機会が与えられることを改めて認識した。
さて本編が始まる。
説明しづらいが、遊園地のメルヘンなBGMや、映画ITチャプター1の終盤にベバリーがペニーワイズに連れ去られた後に地下水路の中で謎の踊りをしながらペニーワイズが登場したときのBGMのようなものを更に不気味にした音楽でした。
私はこういう音楽が苦手であり、共通で酷評されているポイントではないかもしれないが、既に作品への嫌悪感をさらに抱いてしまった(サントラ最初の曲として収録されています)
今までの人生で約300本近く映画を観ているが、開始数秒で観たことを(正確には音楽を聴いただけなのに)後悔したことは初めてだろう。あと何年生きるか分からないが、二度とそんなことは無いと思う。
本編は主人公猫ヴィクトリアがゴミ捨て場に袋に入った状態で捨てられるところから始まる。そこから未知の世界(観客からしても)に迷い込み、様々な猫と出会うこととなる。
ゴミ袋から出て早々いきなりミュージカルが始まる。この映画は基本的に新たな猫に出会うたびにその猫の自己紹介も兼ねたミュージカルシーンが繰り広げられつつ、ストーリーが進行していく。そう、永遠と猫の自己紹介を聞かされまくるのだ!
最初のシーンでは猫はジェリクルキャッツと呼ばれており、舞踏会で真のジェリクルキャッツを決めることが明らかにされる。
ただミュージカル内でジェリクルという言葉をクソ連発していたが、ジェリクルって抽象的すぎて何だよ、くどいんだよと見ていてイライラした。ジェリクルの意味を調べると、ジュエリーとミラクルを組み合わせた造語で、人などに頼らず気高く自由を謳歌する的な意味合い。
また、日本語字幕のはずだが、歌詞が意味分からなすぎて悲しくなりました。日本語のはずなのに全く意味不明で日本語の難しさを改めて実感しました。超シンプルなストーリーのはずなのに、理解するのが難しいという矛盾。観客に寄り添い、理解を促進させるための狂言回し的な役割を果たす猫がいれば理解、感じ取りやすくなるのではないのでしょうか。
何なんだ、このシーンは。こう戸惑っている間にもまた新しいデブババア猫が現れてミュージカルが始まります。この新しいデブババア猫のシーンが一番の問題シーンではないでしょうか。
このデブババアは本当にだらしない的なノリで歌い踊るのですが、その途中に猫以外の生き物が登場します。
まずネズミが出てくるのですが、ネコと同じく体はネズミっぽくて、顔は人面というトラウマ化け物なのです。人面ネコは予告で何とか慣れたのでいいですが、人面ネズミは想定外で気分が悪くなりました。
そこにとどめを刺すかのように登場してきたのは大量の人面ゴキブリ。
テラフォーマーズを観に来た覚えはないのに...
大量の動く人面ゴキブリの出現を見て気持ち悪さのピークが急上昇。人面ゴキブリが出てきた瞬間、見てられなくなり、入場で貰ったキャッツのポストカードで自身の目をとっさに覆い隠し、途切れ途切れに見ることに。おまけに人面ゴキブリをデブババアネコが食べるシーンがあり、それを一瞬見てしまい、我慢の限界で一時退出。
今まで映画の上映途中でシアターから出たことがないのですが。わずか20分で耐えれなくなり退出してしまいました。
ネコのCGですら気味が悪いのに、ネズミやゴキブリはマジで地獄です。
今まで映像を見てられなくなったことは二回あり、ウォーキングデッドのシーズン7の1話の2人の処刑シーン(グロイからではなく、いなくなるのが辛いから)と1984の主人公ウィンストン・スミスがババアと売春するシーンなのですが、それらを上回る嫌悪感と恐怖と衝撃でした。
ウォーキングデッドも1984も過激な作品であり、万人が見るような作品ではないからまだしも、キャッツはR指定もなく話題のミュージカルを映画化したものです。そんな映画で気持ち悪い物を見せて何がしたいのでしょうか。
ネコのリアリティーを出したいのか、製作者の意図はよくわかりませんが、映画館の予告やテレビスポットで散々見せてきた華々しいシーンを観客は見たいと思ってるはず。なのにあんなものを見せられたらたまったもんじゃない。
海外のメディアがあれだけ語彙を振り絞ってレビューしているのがうなずけました。
退場して数分後には心も落ち着き、全部見るかこのまま帰るか正直悩みましたが、まだ本編開始20分しか経過してないのでまだ見どころはあるに違いないと信じて席に戻りました。
結局見どころは特になかったけどね。
特にストーリーの展開のない自己紹介クソミュージカルをして悪役ネコ(作中では珍しく服を着ているのですが、そのせいか特有の嫌悪感があまりありません。みんなまともな身なりをすればネコのふりをした化け物から脱却できるのはず)が自己紹介をしたネコを特殊能力で連れ去るくだりを何回も繰り返していきます。特にミュージカルが面白いわけでもなく相変わらず意味不明かつ単なる自己紹介で話が進まず、永遠に悪夢が続きます
悪夢を繰り返していくと遂にジュディ・デンチが演じる親方長老ネコが登場します。
MI6のボスとして007に無理難題を突き付け、嫌みを言い時には対立もするも頼れるあの方がまさか長老ネコに転職するとは誰が想像したのでしょうか。器だけでなく、胴体も大きいです。007に出演している所以外見たことないので、キツメのおばあ様という印象なのに、やさしいハルク並みの体を持ったネコのおばあ様に変身してしまい、終始困惑していました。とにかくこの親方長老ネコがネコ界の有識者であり、舞踏会のチャンピオンを選ぶ決定権があるそうです。
親方長老ネコが現れてから今まで街中や家などで自分勝手にミュージカルという名の歌い騒ぎ踊る狂乱発狂が少し収まり、舞踏会らしいステージ会場に一同終結しました。いや、なんでみんな会場に最初から集まらないで好き勝手に暴走してんの?
全てのネコが会場に集結してミュージカルが再開するのですが、結局は新たなネコの自己紹介です。
落ちぶれた演劇俳優のよく分からない怖い話と、鉄道社畜ネコのタップダンスを見せられ、パフォーマンスが終わると悪役ネコに連れ去られるお決まり。
その後悪役ネコと愛人ネコのミュージカルが始まります。この愛人ネコはテイラー・スウィフトです。テイラー・スウィフトの曲は高校の時に友達が紹介してくれたアルバム1989に収録のwelcome to new york とblank spaceとshake it offぐらいで更新が途絶えていてあまりよく知らないので特に感動もしませんでした。ただ、悪役ネコと違い服を着てないのにあまりネコのCGに違和感を覚えませんでした。キツメの美人顔だとちょうどいいのでしょうか。とにかく悪役ネコのコンビは唯一のネコだと個人的には思います。
パフォーマンスが終わると何とジュディ・デンチが悪役ネコの超能力で連れ去られます。先に連れ去られたネコと一緒に船の上にいて、悪役ネコに天上界に行けるネコに選ぶように脅迫をされます。
そのころ舞踏会ではジュディ・デンチがいないことに気づき大騒ぎになります。そこでネコたちはマジシャンネコにマジックで瞬間移動のマジックで連れ戻すように要求してマジックをさせられます。
マジックは種と仕掛けがあるからマジックであり、勿論ジュディ・デンチを連れ戻す種も仕掛けもなく、超能力者でもないので当然連れ戻せません。連れ戻せないのにネコたちは
Oh magical Cats~~ Oh magical Cats~~ Oh magical Cats~~
しかしこれはご都合主義の映画なので何故かミラクルが起きてマジックでジュディ・デンチは戻ってきて喝采を浴びます。
あくまでも個人的な意見ですが、デスノートは死神のノートだから名前を書くと死ぬ、ルフィは悪魔の実を食べたからゴム人間、キャプテンアメリカンは実験で超身体能力を得たなど、特殊能力には何かしらの最低限の根拠があるべきで、いきなり根拠もなく奇跡だけでおこるのはどうなんでしょうかね(性格悪くてごめんなさい)
戻ってきたので、天上界に行くネコを決める審査が再開され、そこに見ずぼらしい姿をしてネコが現れます。そのネコは舞踏会に行く直前で主人公ヴィクトリアが美声を聞いて励ましていたネコです。見ずぼらしいネコはミュージカルを見たことがなくても聞けばわかるであろう有名曲メモリーを皆の前で披露、見事天上界に行くネコに選ばれます。
これで終わればいいのに、ジュディ・デンチがネコ版のトリセツみたいな曲を歌いだして困惑しながら謎のエンドクレジット。ネコは話しかけてほしいけど、気高いから馴れ馴れしくしないでほしいらしい。いや意味わからないし、この曲いらないだろ。
エンドクレジットの瞬間悪夢から逃れたくてすぐ退出。テイラー・スウィフトのビューティフルゴーストは聞いてません。
総括
ネコの方も修正の無い初期版はそんなに酷いのか気になるところ。
ストーリー要素の面白みは皆無でほぼミュージカルが永遠と続く。
曲もメモリー以外はそこまで好きになれず。
ミュージカル版は面白いらしいのに映画版を微妙に感じるのはミュージカル部分がクソだからでしょうか。
目を閉じて鑑賞するといいのかもしれません。人を究極的に選ぶ映画。
全編自己紹介ミュージカルで途中気分を害する映像が流れると覚悟した上でみれば、そこまで酷評をしなくてもいいと思うが、面白いわけではない。
こんなのにお金払うならジョジョ・ラビットかパラサイトかフォードvsフェラーリを見てほしい。
4505字
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。
その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。
隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。
単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
ただそれだけです。
いや、やはり知らなくても良い、話は幾らでも通ずる
それは、一にも二にもなく、「嘘」だと思う
得体の知れない、正体の分からない、手ごたえのない、暖簾に腕押しのような、気怠げなその雰囲気が本質である
この系統で、日本で最も人口に膾炙しているのは、間違いなく椎名林檎であろう
百色眼鏡を想起する方もいるだろうか
「私に、恋のこころが無くてもいいのでしょうか?」
と私は少し笑っておたずねしたら、師匠さんはまじめに、
「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしていて、いいんですよ」
とおっしゃいます。
このネットでは、虚構を振りまいて歩く“少女”を多く見つけることができる
彼女らは嬉々として自らの理想とする“虚構”を、思うままに追及し、それを公然と披露する
彼女たちの身命を賭して構築された“世界”には、容易には抗えない魔術的な引力が籠められている
そして、何よりも美しいのは、丹精込めたであろうそうした瞬間的芸術品を、ある瞬間から事も無げもなく、あいけらかんと放棄して、住所(address)も綺麗さっぱり消して、住処(Twitter)も更地にして、まるで白昼夢か、あるいは妖精かのように錯覚させるかの如くにしてしまう所にある
次から次へと棲所を変え、顔を変え、声を変え、そして勿論、名を変えて、移り変わって
そうした変貌が、我々を以ってして正体を暴こうとさせ、知りたいと思わせ、追いかけたくさせる
私にとっては、それが久遠千歳という名の“少女(虚構)”だった
危うげで気怠げな、“少女”であった
「うんち」「再投稿は甘え」の仕様(完全にスクリプトなのか、それとも人力との合わせ技なのか等)を調べるため、内容を修正して再投稿しました。
後者については、スクリプトと人力の合わせ技なのでは? と思いました。内容を少し変えて投稿しても、「再投稿は甘え」とコメントされない日記がひとつあったからです。スクリプトのバグかもしれませんが…
はてな匿名ダイアリーに常駐されている方々にはご迷惑をお掛けしました。
今年度中に勝負をかける。
はてなには、俺のような者に声をかけてくれる人もいるんだよな。優しい人に感謝。
会社の行事の準備中、景品引換所で色々と作業をしていたら、女子が2名ほどまごついていた。
あれが人形か! そう思った。噂には聞いていた。1年前に入った新人の子がもの凄く綺麗だって。影のあだ名は人形(笑)。そのままじゃねーか。
そんな人間いるわけないだろ、と思ってたら本物だったという。
その子が俺の方に近づいてくる。どちらかというと、別の子に手を引かれているような気がした。
……どれぐらい可愛いかって? 文字で伝わるかはわかんないけど、説明してやろう。
まず、顔が小さい。アイドルを見たことはないけど、これがアイドルか!ってくらい小さい。でも、そこまで顔がいいとはいえない。平均よりは上だけど、化粧でごまかしてる。たまに化粧に失敗して口裂け女みたいになってる(笑)。
プロポーションは完璧だ。身体のラインや手足がすべて細い。アニメキャラのフィギュアがあるだろ? 冗談抜きでそんな体型だ。
それでいて背が低い。150くらいかな? 肉体が細くてもモデルみたいじゃなく、全体がちょこんとしてい
髪は長くて、顔つきはぼんやりとクールな感じ。つまらなそうにしてる。胸はほとんどない。少年みたいでもある。
話が逸れた。
それで、その女子2人に引換券整理の仕事を分けてやって、でも男は邪魔だろうから、別のアトラクションの準備をしに行った。
ところで、俺らの職業はリーマンだ。中規模企業のホワイトカラーが一番近い。
家に帰って、その人形みたいな子(Yさんとする)のことを思った。幸せだった。
翌週に来客があって、こちらでとある資料を用意せねばならないことになった。
そこに行くと、入口辺りにYさんが座っていた。聖女だった。薄いピンクのスカートに、水玉模様のブラウスを着ていた。
「このことが知りたいんですが」と声をかけた。
その子がぶっきらぼうな感じでパソコンをガガガッと叩くと、必要なデータが印刷機から出てくる。秘と印字されていたそれを受け取ると、なんて言ってたかな、「個人情報なので気を付けてください」だったかな、そんなことを言っていた。口調が震えていた気がする。
ある時、例の部署に行くと、行事の時にYさんと一緒に居たMさんが一番前に座っていた。
隣に居たYさんが立ち上がる。スーツスタイルだった。スカートじゃなくてパンツ。二次元キャラみたいな頭身だった。腰の位置が高い。
この人形を手に入れたい、と思った。
でも、声をかけることはできなかった。忙しそうだったので。今回の仕事はたぶん面倒だ。俺が声をかけたら、あの時みたいに助けてくれるだろうか? 別にこの部署は、依頼された仕事を断ることだってできる。
この日の朝のことを思い出していた。駐輪場でYさんと目が合った時さ、サッと真下に目線を逸らしたんだ。こないだもそうだったな、視線の逸らし方が。あれ、これって好意のサインじゃないか? 経験からして。
で、結局Mさんの方に声をかけた。
するとどうだ、10分も人を待たせやがった! 挙句の果てに、「時間がかかるので明日まで待ってください」だって。
もしかして、Yさんってもの凄く優秀なんか? Mさんが苦戦してる時にこちらを注視していたし。
翌日の夕方、Mさんがうちの職場にやって来た。地図が完成していた……と思ったらぜんぜんだった。縮尺が違うから、ぜんぜんハマらない。
畜生、と思ったけど我慢した。それで、「こんなに頑張ってくれたの? ありがとう~!」とみんなに聞こえるような声で言った。Mさんはもの凄く照れていた。
これまで熟練のスタッフが100の時間を要していた仕事を、新卒の子でも20以下で終えられるようにする少人数での業務改善プロジェクト。面倒くさいだけで難易度は低い。実りがあるかは怪しかったが、俺は手を挙げた。
Yさんが髪を切っていた。長い髪だったけど、ショートカットになっていた。心境の変化かな?
今回の仕事は、俺自身がシステムを操作する必要がある。Mさんに声をかけて使い方を請うたところ、先輩であるYさんも寄ってきて、手取り足取り教えてくれた。
以後、約2ヶ月間、計6回ほど其処に行くことになった。総作業時間は9時間ほど。死ぬほど退屈な作業だった。でも、Yさんは丁寧に教えてくれたし、MさんとはラインのIDを交換して話をするようになった。
Yさんとの仲が悪くなった。
5回目に行った時のことだ。それまでは何を聞いても親切にしてくれたのに、今日は機嫌が悪い。話しかける度、めっちゃウザそうな視線を俺に向けてくる。
今思えば当然だった。Mさんが病気で居なくなっていたのだ。そりゃ当たり前だよ。しかも、俺は間が悪いから、帰り際に「アドレスを教えて」なんて言ってしまった。教えてなどくれなかった…
Mさんのことを思い出す。Yさんよりも年上の後輩で、明るくて、真面目で、ひたむきだった。そのうえ頭がいいときてる。あの部署に配属される人間はみんな賢いのだ。
賢いだけじゃない。魅力もそれなりで、ぽっちゃりしてるように見えるけど、実はお腹が出ていない。撫でると恥ずかしがる。
料理は上手いし、耳かきもできるし、生理の時もイラついた様子を見せない。
YさんもMさんも大学を出てないけど、人事の目は本物だと思ったものだ。
で、それからまた、俺はYさんに話しかけた。ウザがられてるのはわかってるけど、それでも話しかけた。それで、ある時、仕掛けた作戦がピタッとはまって、彼女の笑顔を見ることができた。笑顔なんて滅多に見せないから小躍りして喜んだものだ。
Mさんが復帰してくる気配はない。Yさんやその同僚も、繁忙期が重なって負担が大きくなっているようだった。
俺は馬鹿だった。そうだとわかっていながら、機会を見つけてはYさんに話しかけたのだ。
今ではわかる。女子の恋愛は減点法というが、相当点数が減ってたんだろうな。
でも、まだ圏内にはいたと思うよ。「髪切った?」って聞いたら照れて俯いてたし。
で、俺がどうしてこんな話をしたいと思ったかというと、4日ほど前、いいことがあったからだ。
仕事納めだというのに残業した。トラブルがあって、新年からどのような対応をするのか部内で話し合う必要があったからだ。
10時前に全部終わって駐輪場に向かった。心も体もヘトヘトだった。
いた。Yさんがいた。
「お疲れさま」と声をかけた。返事はなかった。
顔色が悪かった。いつもぶすっとしているが、それでも様子がおかしい。
「嫌なことあった?」って聞いたら、コクリとうなづいた。
話を聞いていると、業務過多+人間関係がしんどいとのこと。お局みたいな奴がいて、だいぶ調子に乗っているらしい。
俺はこれまでに居た部署で、そういった女の始末を人事から依頼されたことがある。
余談になるが、そういった女の処分方法は、ひたすらにキレさせることだ。人間、一度キレてしまうと、その日中は自律神経が乱れっぱなしになる。なので、そういうのが毎日続くと、肉体の健康に支障が出てくる。
約半年後、『そういった女』に限界がきた。俺にキレている最中、どうなったと思う?
過 呼 吸
になったんだ。
ああ、これがあの、かの有名な過呼吸なんだな、と思った。上司①と同僚①②は俺への怒りを露わにしてたけど、俺が処分なんて受けたはずがないだろう。
そりゃ、その女は可哀相だったけど、でも、そいつにも責任はあるんだぜ。だって、前の職場でさんざんマウンティングとかパワハラやらを繰り返して、男だけ十数人の部署に異動させられてるんだからな。とんだ罰ゲームだ。そりゃ、人事も辞めさせたくなるよ。
話が逸れた。許してくれ。
それで、Yさんの話の続きだ。
とりあえず、そういうクソお局を気にしないための方策を教えてあげた。オブラートに包んで。
もっと、サッと近づくと、Yさんが感付いたのか後ろに下がろうとする。俺は、彼女の後ろ髪を掌で包み込むようにして、グイッと顔を寄せて、唇を奪った。
イケる、と思ったんだ。ちょっと抵抗されてたかな、と思う。何秒か経って唇を離すと、胸を押して距離を取ろうとする。今度は手を掴んで、またキスしようとすると、逃げようとした。
腕を引っ張って、何度も口づけをした。両手で背中を掴んでいるので、もう大丈夫だ。尻も掴んだ。ああ、これが人形のお尻か、と思った。死んでもいいって、そう思えた。
Yさんが唇をずらそうとして、口づけて、ずらそうとして、口づけてを繰り返しているうち、抵抗がなくなった。
計ってないけど、1分くらいかな?
手を繋いで、「家まで行きたい」と耳元で囁いた。Yさんは迷った様子で、首を横に振った。
「行きたい」
と再度言った。すると、俯いたまま首を縦に振った。
Yさんは震えてたけど、「はい」って、俺の顔を見て、確かにそう言った。
迷ったけど、俺はYさんの家に行かないことにした。
これは危ないパターンだ。
本当にOKなら、もっとこう、恥ずかしげになる。違う、これは違うんだ。おそらく本意じゃない。
実は、その気はあんまりないんじゃないか? このまま家に行ってセックスできたとしても、後でひどい目に遭うんじゃないか? 罠なのでは、と直観した。
今ではわかる。過去でもわかってたし、未来でもそうだと思う。俺はへタレなんだ。今になって思う。あの時は行くべきだったんじゃないか? と。
とにかく、あの時の俺は、これ以上はダメだと思った。ちょっとやりすぎだ、と思った。
俺はYさんの頭を撫でると、「また来年」とだけ伝えて、自転車に乗った。
家に帰って気付いたんだが、俺はまだYさんの電話番号もラインも知らない。
俺は馬鹿だ。なぜさっき聞かなかったんだろう。教えてくれたかもしれないのに。
いつも、こうやって後悔ばかりしている。
でも、あの人形の子だけは手放したくない。俺の物にしたい。頼むよ、神様。来年の最初のひと月とかだけでもいいからさ、俺の背中を後押ししてくれよ。
小説の書き出しを愛でる、という趣向がある。例えば、フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』の書き出し、
「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。 」
であれば、楽曲の歌い出しを愛でる風潮があってもいいじゃないか。というわけで、いくつかいろいろな意味で気に入っている歌い出しを挙げていく。
平易な文だが、わけがわからない。「バスの揺れ方で」「人生の意味がわかった」「日曜日」。それぞれの繋がりに全く論理性がない。飛躍も飛躍。猛スピードで爆走するバスが聴き手を置いてけぼりにしている。行間を読む力が試される。
さらに難解なのは、次段である。「でもさ」と逆説になっている。そこにいるのは「運命の人」である。運命に対して逆説で語るかね。ちょっとした諦めみたいなものさえ感じられる。果たしてこれはラブソングなのか?
だいたいにして、歌詞の序盤で唐突に出てくる「運命の人」という重要且つ雑なフレーズについて、以降の歌詞で全く説明されない。繊細な歌詞を書くスピッツのことだから、これは意図的にやっているとしか思えないのだけれど、だとすればますます謎は深まるばかりだ。
スピッツ屈指のポップな名曲だが、歌い出しからしてわけがわからない。それを含めて名曲たる所以なのかもしれない。
「あたしの髪が伸びて驚くほど久しぶりになってしまわぬ様に
昨日より少しだけ多めにあたしのことを考えてほしい」
aikoは曲も素晴らしいが、歌詞も素晴らしい。一番好きなのがこの曲である。
歌い出しの部分、要するに「ずっと好きでいて」ということを言っている。西野カナならそのまま「ずっと好きでいて」と歌うか会いたくて震えるだろう。だが、aikoはたったそれだけのことを、これだけの文量で詩的に語っている。胸に迫る。
その続き、
「初めて逢った日にもう一度逢いに行って そしてまた同じ様に
ぎこちなく合った目の奥にいるあたしを愛して欲しい」
これは要するに「ふたりが初めて出逢ったあの日を思い出してね」ということを言っている。実際に西野カナは「トリセツ」で「ふたりが初めて出逢ったあの日を思い出してね」と歌っている。しかしaikoはたったそれだけのことについて、何でこんな奥行きのある言葉が思いつくのだろう。
ちなみに、私は西野カナのことが嫌いなわけではない。西野カナはメロディーにいい感じの歌詞を乗せる技術に関しては天才的だ。BGMとして心地よく聴ける。
「酒、飲ます」
アルバム『GO』の一曲目の歌い出しでいきなりこれである。聴きながら「おや、歌い出しが『酒、飲ます』って聞こえるな」と空耳かと思って歌詞カードを確認したところ、紛れもなく「酒、飲ます」であった。助走もなくいきなり飲んでる。
ついでに言えば歌詞の続きは「学校は最近どう?」であり、誰に酒を飲ませているんだ。
もう食べられるところはないんだ」
最近一番インパクトがあったのはこれである。爆笑した。巨大生物って何だね。メロウでバラードと言ってもいいほどの楽曲で、タイトルに「Confession」とか仰々しく付けられているにも関わらず、歌い出しでこれ。
ももすももすという人は、メランコリック写楽というバンドの元ボーカルももすのソロ名義である。メランコリック写楽時代を含めてほぼ全ての楽曲で作詞作曲編曲をこなしている。それにしたってメランコリック写楽とは何だ。ももすももすってなんだ。ロンゴロンゴかよ。
余談だが、相対性理論以降、ポップな楽曲にかわいい系のボーカルが意味不明な歌詞を乗せることを特徴とするアーティストが散見される。最近だとネクライトーキーとか。もしや遡れば椎名林檎「丸の内サディスティック」に行き着くのかもしれない。何だ歌い出しの「報酬は入社後」って。
こういうジャンルにそろそろ名前が欲しいと思うものの、名前をつけてしまったら陳腐だなとも思う。
You say stop and I say go go go.」
ポール・マッカートニーの作品である。甘くポップな曲調に、上記のような特に意味のないような平易な歌詞が乗せられる。
この曲に対してジョン・レノンが「君の曲には主義主張ってものがないからだめなんだ」みたいなことを言ったらしいけれど、個人的に、音楽は主義主張を抜きにしてポップであればあるほど好ましいと思っているので、この曲は私の中でポップ賛歌みたいな位置づけとなっている。
歌詞も気が抜けていていいじゃないか。ゴーゴーゴー。何も考えずに聴けて幸せになれる珠玉の一曲である。
※
この歌い出しが好き、意味わかんない、笑える、などあれば教えてほしいです。
床屋についてはまだ分かる。髭剃りで肌に触れる刃物を使うから、資格は必要だろうと思う。ぐるぐる回転する看板が、動脈と静脈と包帯、医者を表しているというのもなんとなく納得がいく。特別な資格が無ければ、医を業とするものしか行ってはいけない業種だったんだろう。
美容師が美容師たる所以は美容部分なのだろう。美は時代と共に変遷するから、常に興味を持ち勉強し、今求められているスタイルを知らなければならない。
それ以上に、顧客のニーズを理解し実装する、あるいは顧客が意識内では求めていなかった本当に必要とするスタイルを提供する必要があるのだろう。
完全に個人技である。それなのに、顧客が支払う金額はほぼ固定である。店舗によって異なるとはいえ、 4,000-8,000 円程度の額であろう。あくまでそれは店舗の設定であって、個人に支払われる給与にさほど違いがあるとは思えない。こんなにも仕上がりに差があるのに、だ。
資格があることで参入障壁があるが、その先の道はその人の矜持に依る。なんだか、とても納得がいかない。
一応自分が好む人は指名料を払っているが、それがどのくらいその人に還元されるのかも分からず、ただ悶々とする。
顧客の要望を叶える力という、測りにくい能力に、正当な報酬が支払われていない。それは似たような仕事をするデザイナやシステムエンジニアとは全く異なる形態で、なんとなく納得がいかない。
資格さえなければ参入障壁が下がり、採用に力を入れる結果、個人の給与が変わる可能性があるのではないか。資格とは、なんなのだろう。他の様々な分野にも資格制度が取り入れられそうな昨今、美容室の形態は試金石になりそうに思う。
「勇者パーティーから追放されたので、復讐した」系や、「会社でリストラされたが異世界で活躍」系。
あれを見ていて、どうしても感情移入できなかったんだが、pornhubを見て思想に耽っていたらその理由が分かった。
単純に、「別の場所で自分が嫌だった構造の再構成を試みようとしている(ただし今度は自分がリストラする側)」からだ。
虐待された子供は、自分が親になった時同じように自分の子供を虐待する恐れが高い。
それはすなわち、「自分が虐げられる側だった」事にコンプレックスを持っているので、
逆に今度は自分が虐げる側になってそのコンプレックスを解消しようとするからだ。
これが俗に言う憎しみの連鎖で、だからこそ復讐は何も生まないと言われる所以。
例えば社会生活で上手くなじめなかった人間は、別の場所で自分が活躍できる場所を探すと、そこにその社会生活の再現を試みる。
MMOゲーム内(例えば黒い砂漠とか)で偉そうにしている人は、現実だと虐げられている部下だったり、バイトだったりする。
ゲーム内で同じように上下関係を構築し、低レベルに対して異常なノルマを課したり命令したりするのは、そのコンプレックスによるものだ。
「昔いじめられていた」系のストーリーを話すtwitterの起業家でも、内実はブラックだったりする。結局その構造の再構築を試みているに過ぎない。
twitterのADHD、ASD界隈でも、他人に性行為をしたことを自慢したり、上下関係を作ってルールから逸れた行動をした人間をつまはじきにしたり、
やってることは変わらない。同じコミュニティ内で自分が嫌だった事の再現を試みるのだ。
話を元に戻すと、本来その「リストラされた側」がすべきことは、その構造を破壊し、その間違いを実証することなハズだ。
自分を理解しようとせず、認めてくれなかった社会の根本そのものを変えようとすることなはずである。
るろうに剣心の主人公が素晴らしいのは、「所詮この世は弱肉強食」を否定し、「強い事はイコール正しいわけでは無い」と言い切ったことである。
結局復讐系なろう小説がやろうとしている事は、「弱いものは必要ない」という事の再生産と補強であり、そこに進歩も成長もなく、意味はない。
復讐系なろう小説を見てると。どうしても感情移入できず、主人公に自分を虐げてきた人の影を重ねてしまうのだ。不快に感じてしまうのだ。
少女漫画絵とオタク萌え絵を意図的に混同する釣りって定期的にあるけど
本当にオタクがそれ分かってないわけないのに
何で分からない振りするんだろうな
なんかすげートラバがついてるが、同祖なのもジャンルとして近いのも知ってるよ。
元増田のナルニアの絵と宇崎ちゃんの絵だったら同じに見えるわけないだろ。
そもそも分かりやすい違いは顔じゃなくて身体の描き方(少女漫画絵は性的要素を排除するが、オタク萌え絵は性的要素を強調する)なのに
そこがオタク絵の「顔は幼いのに身体だけやたら肉感的でセクシーだから『身体だけ成熟した幼い少女が理想』と言う願望だだ漏れで気持ち悪い」と言われる所以なのに。
(あ、オタク絵でも性的要素を強調しないものもあるのも知ってるよ。
例えばエロゲ全盛期はエロゲなのにむしろエロが重視されてない作品多かったからそういう絵多いしな。
でも宇崎ちゃんはそうじゃないじゃん)
よっぽど漫画に疎い人なら分からないかもしれないけど、オタクが分からないわけないだろ。
そのナルニアのタイトル隠してオタクに見せたとして、「俺たち向けのオタク作品だ」なんて考えるオタクいねーだろよ。
カマトトぶんなって話だよ。